し る べ    
風の道標・第二十話




 かつて、白い壁と家とでその美しさを称えられたシレジアの街は、見るも無惨な姿に変わっていた。盗賊達の仕業である。街の人々は、ただ脅えるように200騎の天馬騎士と、その彼女らを従える緑の髪の詩人を見ていた。
「全ては俺の……」
 言いかけて、レヴィンは頭を振り、その考えを振り払う。すでに、過ぎ去ったことに対して想いを巡らせるのは後でいい。今は、自分にできる最大限の努力をするべきだ。このシレジアに、平和を取り戻すために。
「フュリー、城へ向かう。お前の麾下の何騎かで、シグルド達を迎えに行ってやれ。道案内は必要だろう。俺は……」
 レヴィンはそこで言葉を切る。一度目を閉じ、そして再び開いたとき、彼に迷いはない。
「俺は、フォルセティを継承する」
 それは、誰にも聞き違えようがなかった。

 シレジア城内部も、街と同じかそれ以上に悲惨な有様だった。盗賊達が城内にまで侵入した、という話だから、当然だろう。
 それでも、ある程度片付けられているのは、パメラがやらせたことなのだろうか。通路や、広間のそこかしこに、手当てを受ける兵達の姿が、今のレヴィンには辛い。あと一月、いや、10日も早く決断をしていたら。
 これが、代償か。
 己の心の迷いが、今のシレジアの状況を作り出してしまった。無論、それは思い上がりなのかもしれない。遅かれ早かれ、いつかは内乱が起きたのではないか、とも思う。だがそれでも、こうも悲惨な状況を作り出すことはなく、またマーニャが死ぬこともなかったはずだ。
「未練……だな」
 謁見室へと向かう階段をフュリーと上っていたレヴィンは、立ち止まると一人ごちた。フュリーには聞こえたらしく、不思議そうな表情を浮かべている。
「ああ、すまん。行こう。母上が待っている」
 レヴィンはそういうと再び階段を上がり始めた。上り切ったところにある、謁見室への大きな扉は、無惨にも破壊されている。それもまた、レヴィンの罪の深さなのかもしれない。
「母上。王子レヴィン、ただいま戻りました」
 謁見室に入ったレヴィンは、正面を見据えて宣言するように言った。声が、静かな謁見室に響く。
「お帰りなさい、レヴィン。ようやくあなたも、約束を守れる大人になった、というところかしら」
 ラーナの口調は、子供をあやす母親そのものだった。22歳にもなって子供扱いされると、レヴィンとしては苦笑するしかない。
「母上。それでは私がまるで子供ではないですか。シグルドとだって、そう年は変わらないのだから」
「シグルド公子とあなたとでは、大人と子供ほどの違いがありますよ。まったく。でも、あなたはここまで来てくれました。それだけでも、あなたが成長したということでしょうね。マーニャも、きっとあなたのその姿を……」
 そこでラーナの言葉が切れる。鳴咽を堪えているのが、よく分かった。そして、その責任は確実に自分にあるのだ、という認識が、レヴィンを締め付けている。
「マーニャは……彼女は私の代わりに死んだようなものです。もう、私は迷いません。シレジアの王位継承者として、その責務を果たします。もう、母上に心配はかけません」
 レヴィンのその言葉に、ラーナは嬉しそうな笑みを見せたが、静かに首を横に振った。
「その言葉だけで十分です。マーニャのことは、私に責任があります。フュリー。ごめんなさいね。私のために、マーニャは……」
「それは違います!!ラーナ様」
 フュリーは彼女自身驚くほど大きな声を出していた。だが、フュリーはそのまま言葉を続ける。
「マーニャ姉さまは、ラーナ様と、そしてシレジアを護るために戦い、そして亡くなられたのです。マーニャ姉さまは、いつも言っておられました。ラーナ様とシレジアを護るためであれば、自分はどんなことにも耐えてみせる、と。たとえそれが『死』という結末でも後悔はしない、と。ですからラーナ様、そしてレヴィン様。ご自分をこれ以上責めるのは……」
 フュリーの目から大粒の雫が落ちる。それは、謁見室の青い床石に跳ねて、いくつかの小さな染みを作った。
「フュリー、すまない。だが、これ以上、俺はもう誰にも何も失わせはしない」
 レヴィンはフュリーの流れ落ちる涙を指で拭うと、ラーナの方に向き直った。
「母上。私はフォルセティを継承します」
 ラーナはその言葉に、静かに頷くと、先日パメラを通した通路に、レヴィンを導いた。レヴィンはフュリーの手を取り、彼女も連れて行こうとする。
「あの、でもそこは……」
 王族以外、入ることを許されない、聖域のようなものだ。そこに入るというのは、フュリーには抵抗があった。
「構わない。それに、フュリーには見てもらいたいんだ」
 そういうと、さらにレヴィンはフュリーの手を引く。フュリーは、ただそれに従った。
 いくつかの階段と、通路を抜けた先。そこに、フォルセティはあった。風の精霊の舞い狂う、その部屋の中心に。
「これが……フォルセティ……」
 レヴィン自身、フォルセティを見たのは初めてである。かつて、父が一度だけ使ったらしいが、それ以外は建国王セティ以来、使われた記録はない。神器の中でも、最強を誇る、風の神魔法フォルセティ。それが、今目の前にある。
「さあとりなさい、レヴィン。これは、あなたを待っていた。ずっと、セティ以来あなたを待っていた。私にはそう思えるのです。風のように生き、風そのものの様なあなたにこそ、この魔道書は相応しいのです」
 レヴィンは何も言わなかった。だが、母の言うことが真実である、と何かが教えている。そして、レヴィンはそれに従うように、フォルセティの方へ静かに歩き始めた。無論、風はまだ止まってはいない。
「レヴィン様!!」
 フュリーが慌ててレヴィンを止めようとするが、ラーナがその肩を掴んで、フュリーを押し止めた。
「大丈夫です。いいかげんな子だけど、でも、風は確かに見るべきを見てくれていますから」
「母上。いいかげんはないでしょう」
 レヴィンは、つとめて明るく言うと、そのまま風の結界に触れる。風が、レヴィンの髪や着衣を巻き上げるが、だがかすり傷一つつけはしない。そしてレヴィンは、そのまま進み、フォルセティに手を伸ばした。フュリーはその光景を、片時も見逃すまい、という気持ちで見つめている。
 レヴィンの手がフォルセティの魔道書に触れた瞬間、その魔道書にはめられている翡翠玉が光を放った。その光によって、視界を一瞬奪われたフュリーは、その中に数多の風の精霊達と、そして一人の、レヴィンではない誰かをみたように思えた。そして、光が収まった後に見えたものは、フォルセティの魔道書を手に持っているレヴィンの姿であった。
「こ……これがフォルセティ……?なんて力だ。それに、この力は……」
「そうです。フォルセティの継承者は風。世界を正しい方向へと導く、風とならねばなりません。そしてその風は、決して残酷ではなく、けれど時に厳しさを、そして暖かさをもっていなければならないのです。レヴィン。それは、戦うことを示すのではありません。分かりますね」
 いつのまにか、風は止んでいた。風が渦巻いていた場所の中心に立つレヴィンには、なにか神々しさすら感じられる。少なくともフュリーにはそう思えた。地槍ゲイボルグを持ったキュアン王子や、聖弓イチイバルを持たれたブリギッド公女と同じくらいの、あるいはそれ以上の威圧感と、そして優しさ。それらが同居した、不思議な感覚である。
「その生き方こそ、私が望んだもの。母上。行ってまいります。この、愚かな戦いに、終止符を打ち、そして……」
 レヴィンはそこで言葉を切った。言うべきかどうか、迷っているのだ。だが、レヴィンの結論が出るより早く、ラーナが口を開いていた。
「お行きなさい、レヴィン。風は、一所(ひとところ)に留まるものではありません。あなたが正しい、と思うことをなさい。時に間違えることがあっても、それはあなた自身が責任を負うこと。あなたはもう、自分で判断できるはずです」
「母上……」
 レヴィンは、それ以上の言葉を紡ぐことができなかった。自分に、これ以上の親不孝者になれ、といっているのだ。だが、そうしなければならない。それは、確信に近かった。
「行ってまいります、母上。とにかく、まずシレジアを元に戻さなければなりませんから」
 レヴィンはそれだけ言うと、その部屋を後にした。部屋には、フュリーとラーナだけが残っている。ラーナの目から一筋の涙が落ちていた。
「ラーナ様……」
「フュリー、あの子のことをお願いね。少しは成長しているみたいだけど、あなたのようにしっかりした娘が傍にいないと、あの子はすぐまた道を踏み外しそうだから」
 ラーナのその時の表情を、フュリーは一生忘れられないと思った。子供が独り立ちしたとき、母親というのはこんな顔をするものなんだ。それは、フュリーには少し羨ましいと思える感覚でもある。
 フュリーは母親の記憶があまりない。それほど幼い頃に亡くなったわけでもないのだけど、どうもよく覚えていない。フュリーが母を失ってからは、マーニャと、そしてラーナが母親代わりだったのだ。その記憶が鮮明だからかもしれない。
 しかし、もうマーニャはいない。フュリーは今度こそ天涯孤独の身になってしまった。けれど、寂しさに潰されないでいられるのは、ラーナと、そしてレヴィンがいてくれたからだろう。フュリーにとって、ラーナは紛れもなく母親だったのだ。
「レヴィン様のことは、私がこの命に代えてもお守りします。ですから、ラーナ様は安心してお待ち下さい」
「フュリー……」
 ラーナはなおも何かを言いたげであったが、その先の言葉は続かなかった。
「気を付けて。あなたまで命を落とすようなことは、なりませんよ。これは、王妃としての命令です」
 そして、ラーナは壁にかかっていた一振りの槍をフュリーに差し出す。蒼みがかった、美しい装飾の施された槍である。
「蒼風の槍。持っていきなさい。マーニャも、あなたに使われることを望むでしょう」
 フュリーは、その言葉でマーニャが最後に使っていた槍であることを悟った。いつのまにか、視界が歪んでいる。
「ほらほら。泣いていてどうするの。泣き虫、なんて呼ばれてた頃に戻るつもり?」
 フュリーは涙を拭うと、その槍を手に取り、姿勢を正す。
「シレジア四天馬騎士が一人フュリー、行って参ります」
 そう言って身を翻したフュリーは、半ば駆け出すように部屋を後にした。
「レヴィン、フュリー……偉大なるセティよ。あなたの末裔達を、どうかお護り下さい……」

 フォルセティを継承したレヴィンだが、即位宣言はまだ行わなかった。ただ、シレジアの次期王位継承権者として、叛逆者ダッカーを討つことを宣言し、一方的にダッカーの身分を剥奪した。これにより、ダッカーは身分の後ろ盾を失い、完全に逆賊となったのである。無論、そんなものは形式だけで、実際には意味がない。だが、時には形式が必要なこともあるのだ。
「レヴィン様」
 シレジア王城のバルコニーの手すりに腰掛けて街を見下ろしていたレヴィンは、聞きなれた声に振り向いた。白い、天馬騎士団の制式装備を身に纏ったフュリーがそこに立っている。
「天馬騎士団200騎、全騎出撃は可能です。また、明日中にはシグルド公子の軍もシレジアに到着する予定です」
 はじめ、フュリーも手すりに腰掛けるのは危ないから、と言っていたのだが、もうさすがに言わなくなった。言っても聞いてくれない、と諦めたのかもしれない。
 レヴィンがフォルセティを継承してから、すでに5日が過ぎていた。その間に、レヴィンはシレジアの街の復興と、天馬騎士団の再編成、及び回復を優先させたのである。実際、戦い詰めで来ていた天馬騎士団は、全員が相当疲労していたのだ。普通の騎士団と違って、女性ばかりで編成されているため、やはり疲労の度合いも、回復も遅い。そうでなくても、ペガサス自身も疲労しているのだ。すぐにレヴィンが出撃しなかったわけが、ここにある。
 シグルドへは、使者を出して、強行軍を行う必要のないことを伝えてある。情報によると、ザクソンでも軍備が、この数日の間だけで増加しているらしい。周辺から傭兵を募っているのだろう。彼我の戦力差はない、とレヴィンは考えていた。シグルド軍の数は騎兵100、騎歩兵100人、天馬騎士が200騎。対するザクソンは天馬騎士が150騎弱、魔法師団が150人。加えて傭兵。これは少なく見積もっても200、多ければ400人。かの有名な、地獄のレイミアの部隊もある。レイミアの部隊は100人ほどだが、どこから集めたのか、騎馬を中心とした傭兵団も数多くいるらしい。ただし、これはあくまで数だけの問題だ。
 シグルド軍は練度が違う。ヴェルダン、アグストリア、そしてこのシレジアと連戦を続けていて、その力はすでに大陸の中でも最強の軍隊ではないかとすら思える。くわえて、ユングヴィ公女ブリギッドの使う聖弓イチイバルの力は、一人で数十以上の兵に匹敵する。それに、フュリー自身の力も相当上がってきている。もう、パメラ相手でもそう引けは取らないだろう。ただ、その強さが、フュリー自身の内面の裏返しであることに、レヴィンは気付いていたのだが、何も言ってやれなかった。言っても、今のフュリーはとぼけるか、無視するだろう。とにかく、シレジアの内乱が終わるまでは、と思っている。少なくともレヴィンにはそう取れた。
「ご苦労、フュリー。シグルド公子達には、復旧の終わった西館を使ってもらうように。それから、天馬騎士団は一部の偵察部隊をのぞいて、全員明日から休息をとるよう伝達。3日後、ザクソンへ向けて出撃する。シグルド達も、それだけ休めば問題ないだろう」
 フュリーは「分かりました」とだけ言うと、また戻っていく。一瞬、レヴィンはその背中に向けて何かを言おうと思ったのだが、結局何も言えなかった。無理をするな、と言っても無駄なことは分かっているし、今はフュリーの集中を乱さない方がいい。緊張しすぎていては、潰れてしまうだろうが、まだ大丈夫だ、と思っている。
 ただ、奇妙なことだが、フュリーは少し前から、レヴィンと距離を置くように振る舞っていた。レヴィン自身には、その理由がよく分からない。あるいは、フォルセティを継承したことによって、王となることが確実になったから、今まで以上にはっきりと身分の違いを認識しているのか。ありえるとは思ったが、だがフュリーの生真面目さからいって、そのぐらいで改めることはないだろう。大体、これまでだって十分に堅苦しかったのだ。
 理由の分からない状態、というのはあまり気持ちのいいものではないのだが、だがそのことばかり考えている余裕は、レヴィンにもなかった。

 翌日。到着したシグルド軍を迎えたレヴィンは、とりあえず宿舎を提供してから、すぐシグルド、オイフェらと共に軍議を始めた。シグルドは、レヴィンの決めた基本方針にほぼ同意した。ここはレヴィンの国であり、レヴィンが陣頭に立つのが正しい、とも思っていたからだ。その後、細かい編成も決める。これも、ほぼすんなり決まった。
「すまないな、シグルド。世話になりっぱなしだ」
 一通り会議――というよりは打ち合わせ――がすんだ後、レヴィンはそういった。いわれたシグルドはちょっと驚いたようにレヴィンをみている。
「それを言ったら、世話になりっぱなしなのは我々の方だ。シレジアに逃げ込めなければ、今ごろ我々は、そろって投獄されていただろうからな。……マーニャ殿のことはすまなかった。まさか、ユングヴィのバイゲリッターが来ていたとは……」
 レヴィンはその言葉には首を振った。
「いや、俺の責任だ。俺が、王位から逃げたりせずに母上を助けて国を治めていれば、あるいは戻ってきてからでもすぐに王位を継げば……いや、愚痴るのはよそう。マーニャは、そんなことで後悔することを望んでなんかいない」
「そうだな……今からだって遅くはないんだ。ラーナ様を大切にしろ」
 そのシグルドの言葉には、複雑な想いが込められていた。
 シグルドは母を早くに亡くし、父の手によって育てられている。あるいは、ラーナに母親の姿を見たのかもしれない。ふと、レヴィンは「母上はやらないぞ」などという子供染みた独占欲が生れたが、もちろん口には出さなかった。
「これ以上、母上に心配はかけないさ。このシレジアの王として、そしてフォルセティを継ぐ者として、その責任から逃げたりはしない」
 自分で言っていて、驚くほど変わった、と思う。ほんの1年前、あれほど恐れたフォルセティを、今自分は手にとっている。
 確かに、その力は凄まじい。伝承の通りだとすれば、イチイバルやゲイボルグより強力だ。実際、レヴィンもそう感じている。だが、その力はフォルセティの持つ一面に過ぎない。それが分かったとき、レヴィンはフォルセティの力を受け入れることができたのだと思う。
「どちらにせよ、叔父上とは戦わなければならない。シグルド、すまないがまた力を借りるぞ」
「無論だ。それから、我々はこの戦いが終わった後、春になったらシレジアを出る」
 レヴィンはその言葉に驚いてシグルドを見返した。だが、すぐにその意味を理解する。
 バイゲリッターがシレジア国内に入った、ということは、シレジア王国が、グランベルに対して、シレジアの内乱でも要請があれば軍を派遣することを認めてしまった、ということだ。一時的とはいえ、同盟関係が成立してしまっている。そして、シグルドはグランベル王国ではお尋ね者だ。グランベルは、公然と「友好国シレジアの安全のために」反逆者シグルドを捕らえようと軍を派遣するだろう。それを拒むことは、シレジアにはできない。できるとすれば、それはシレジアがシグルドを捕らえて引き渡さなければならないのだ。
「……そうか」
 レヴィンはそれ以上何も言わず、その会議はそれで終了した。本当は、自分も参加したい、という気持ちがあったのだが、母のことを考えると、それはとても言い出せなかったし、また、シグルドも反対するだろうと思えたのだ。

 グラン暦759年初冬。しかし、初冬といってもシレジアはもうかなり雪が降っている。そんななか、シグルド軍は王子レヴィンを指揮官として、シレジアを進発した。逆賊ダッカーを討つためである。
 シレジア戦役は、その最後の舞台を迎えつつあった。




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