し る べ     
風の道標・第二十二話




「パメラ。叔父上の元に案内しろ。これは、シレジア王レヴィンとしての命令だ」
 その言葉は、シレジアの王位簒奪を目論んでいるダッカーに味方するパメラにとっては、聞けるはずのない命令であるはずだった。
 それよりも、今この場でレヴィンを倒してしまえば、それでダッカーの、自分の愛する人の勝利は決まる。レヴィンは、無防備にパメラの槍の間合いに浮かんでいるだけなのだ。
 だが。
 パメラは今、指一本すら動かせないほどの重圧を感じていた。
 確かに、普通に考えれば人が単独で空を飛ぶこと自体普通ではない。おそらくこれは、神器フォルセティの力の、ほんの一端だろう。しかし、パメラはそんなものに畏れを抱いていたわけではない。
 レヴィン自身の、その言葉、声一つ一つの重みが、今パメラには圧倒的な重圧となってのしかかってきていたのだ。それはあるいは、人が『王威』と呼ぶものであるのかもしれない。逆らうことすら許さない、いや到底想像できない、圧倒的な威厳。今まで、軽い性格の王子だとばかり思われていた男から発せられている気配とは、到底思えない。
「パメラ」
 もう一度、声が聞こえた。瞬間、びくりと体が震え、パメラは完全に気圧されている自分に気が付いた。だが、気付いたところで一度圧倒されてしまった気勢は、そう容易には覆らない。
「わ、私は……」
 手が悴んでいるのを、パメラは自覚した。寒さのせいではない。それは、畏れによるものである。恐怖ではなく、畏怖。フォルセティという、神の力を宿したものに対しての、そして何より、『王』というものに対しての。
「パメラ、もう一度言う。叔父上の元に案内しろ」
「……は、い……」
 パメラは逆らえなかった。理性ではここでレヴィンを倒さなければいけない、と思っている。だが、パメラの騎士としての心が、そしてなによりシレジア人としての心がレヴィンに逆らうのを拒否したのである。

「久しぶりですね、叔父上」
 静まり返ったザクソン城の謁見の間。過度の装飾はないが、優雅な、そしてどことなく清潔感を感じさせるその部屋に、二つの人影があった。
 シレジア王子、いや、すでに王位継承を宣言し、国王と呼んでも差し支えないレヴィンと、その実の叔父ダッカー大公の二人である。
「そうだな。まともに会うのは、お前がシレジアを飛び出したとき以来だから……もう何年だ?」
「さあな。だが、俺はあの時出て行ったことが、間違いだとは思ってない」
 レヴィンの言葉に、ダッカーは少なからず驚いた。
「その結果が、この内乱だとしても、か?」
「ああ」
 レヴィンはそういって、その手にあるフォルセティに目を落とした。
「シグルドと出会わなければ、俺はこいつを手にとる覚悟をいつまでももてなかっただろう。……マーニャやディートバを死なせたのは、さすがに堪えたけどな」
 その先に続く悔恨の言葉を、レヴィンは飲み込んだ。言っても仕方のないことだ。失われた命は、決して戻ってこない。人の運命を変えるという聖杖バルキリーでも、死という運命は変えられないという。それがどういう意味かはレヴィンにはわからない。ただ、レヴィンにも小難しい理屈はともかく、マーニャが死という運命すら受け入れたことだけは、分かっていた。
「そうか……すまなかったな、それは」
 ダッカーはそれだけを言うと、静かに歩き出した。やや遅れてレヴィンがその後に続く。奇妙なほど無防備なその背中を見て、レヴィンは叔父の真意を悟った気がした。いや、すでに分かっていたのだ。だから、レヴィンはここに来たのである。あのマイオスが最期に残した言葉の意味が、今でははっきりと分かる。
 二人はそのまま無言で歩き、城の中庭に出た。いくらか雪が積もっている中庭は、ほとんど人が出入りしていないのか、雪が積もった直後の美しい光景をそこに作り出している。
「覚えているか、レヴィン。まだ兄上がご存命であったときのことを」
「ああ」
 まだ父王が生きていたとき。レヴィンは母ラーナと共に父に連れられてよくこの城にも遊びに来ていた。グランベルにもっとも近いこの街には、季節を問わず多くの商品が集まり、街はいつでも賑わっている。レヴィンはよく、こっそりと城を抜け出しては街の子供達と一緒に遊び、帰ってきて母に怒られては父や叔父に庇われるという日々を過ごしたものである。
 ふと目を転じると、一際高い常緑樹が立っていた。真冬であっても緑を失わないその巨木には、ところどころに手や足をかけるような傷がついている。これをつけたのは実は他ならぬダッカーなのだ。
「あの木、まだあったんだな」
 何年前か、もう忘れてしまったが、やはりこのような、冬の入り口の季節だったと思う。レヴィンはあの木に登って降りれなくなり、大騒ぎになったことがあったのだ。そのときは、当時の天馬騎士団長が助けてくれたのだが、以後そうならないように、と木に手足をかける場所を作ったのがダッカーなのである。
「まあな。第一、どかすにも大変だ」
「違いない」
 再び、沈黙。
 城外では、実はザクソン軍とシグルド軍が睨み合いを続けている。ただ、レヴィンが単身ザクソン城に入り、両軍は取り合えず矛を収めたのだ。シグルド軍はレヴィンがいなければ攻撃の理由が取り合えずないし、ザクソン軍としてもこれ以上の無駄な戦闘は意味がない。
「この城にいるとな」
 沈黙を破ったのは、ダッカーだった。その視線は、城の尖塔へと向けられている。
「この城にいると、どうしてもグランベル王国の情報が入ってくる。そして、それらは決して好ましいものばかりではない」
 確かに、ザクソン城はグランベル王国との陸路の玄関である。しかし、グランベルとシレジアの関係は、聖戦以後、決していいとはいえない。戦乱が始まる前、グランベルと同盟関係になかったのは、シレジアとイザーク、トラキアだけである。そしてそのうちの一つイザーク王国は、もはや滅亡させられたといっても過言ではない。実際には継承者たるシャナンがシグルドと同行しているが、少なくともイザーク王国はすでに国家として存在していない状態だ。あの戦いとて、そのきっかけとなったダーナの襲撃にはかなり不審な点が多いという。要するに、グランベルは口実さえあればよかったのだ。
 そして、ザクソン城から十日も行かない距離に、グランベル王国はリューベックという城砦を持っており、そこには常に一軍以上を駐留させているらしい。表向きは、かつての聖戦で敗れ去った暗黒教団の生き残りが逃げ込んだとされるイード砂漠の監視、及び砂漠の蛮族の警戒ということだが、その割には西方、つまりシレジア方面にも必要以上の斥候を放っている。第一、イード砂漠の監視にはグランベルはフィノーラという城砦も持っているはずなのに。
 そのような場所にずっといれば、必然、グランベルに対する警戒心は強くならざるを得ないだろう。
「兄がいるときは良かった。だが、実権が兄から王妃ラーナに移ったとき、私は不安を隠しきれなかった。そして……」
「言いたいことは分かるさ、叔父上。俺も、お世辞にも頼りがいのある王子なんかじゃあなかった」
 強力な指導力を持った人物による、国防体制。ダッカーは、きっと誰よりもその必要性を感じていたに違いない。同じくグランベルとの同盟関係になかったイザーク王国が滅ぼされてからは、なおさら不安だったのだろう。さらに、グランベルから手配されているシグルドを受け入れたとき、その不安が頂点に達したに違いない。
 そして、その想いゆえにダッカーは止まることが出来なかったのだ。
「だが叔父上。こんな戦いをやることは……まして、一度グランベル軍をシレジアに入れ……」
「分かってる」
 そのときのダッカーの表情は、苦渋に満ちた、としか表現できないものだった。そしてその時、レヴィンはダッカーが本意からマーニャやラーナを討とうとしていたわけではないことを確信した。
「だが、止まれぬこともあるのだ。分かるか。国王という地位にはそれだけの、人を狂わせる何かがあるのだ。……いや、はじめから力も地位も持つ者には分からぬことかも知れぬが……」
 言葉と共に、ダッカーの周囲の大気が変化し始めた。そよ風程度の風から、やがて暴風に。そして竜巻のごとき風へと変化する。もちろん、自然のものではない。魔法の風、それも桁外れにに強力な風の魔法による死の刃である。
 その風に煽られ、中庭の雪が吹き飛ばされ、庭が無様な姿を晒す。しかしレヴィンは、ただ悲しそうな表情で叔父を見ているだけだった。
「叔父上、もうダメなのか。もう、元には……」
「くどいぞ、レヴィン。お前は国王となった。ならば、その地位を欲し簒奪を目論んだものを、生かしておく理由はあるまい。自分が倒れるか、相手を倒すか。それは、何者にも変えられぬ絶対の掟だ」
 ダッカーを包む風がさらに強さを増していく。それは、並の魔術師数十人分の風の魔法を束ねたより、遥かに強力な力となっている。
「お前が力を示さぬのなら、私がお前を倒し、王となる。単純なことだ。何を悩む必要がある?」
「叔父上……」
 レヴィンにはダッカーの言わんとしている事が、痛いほど分かった。国王として、叛逆者を処罰せよ。そうすることによって、レヴィンは紛れもなくシレジアの国王になれるというのである。
「やめろ、ダッカー叔父。俺には……」
「まだそのような戯言を言うようならば、これで終わりにする!!」
 レヴィンとダッカーの間の地面が、雪もろとも爆ぜた。深く抉られた地面は、その放たれた力の大きさを示している。途中、脇にあったかつての思い出の巨木すらも薙ぎ倒し、圧倒的な風の刃がレヴィンに襲い掛かった。
 何者とて、この圧倒的な力の前では、そのすべてが粉々になるとしか思えない、それほどの力。しかし。
「……無駄だ、叔父上。今の俺に、風の魔法は通用しない」
 直撃を受けたはずのレヴィンの声を聞いて、ダッカーは少なからず驚愕した。手加減などしていない。そして、レヴィンは確かに避けなかったはずである。しかし、今目の前にいるレヴィンは、服すらも傷ついておらず、魔法が放たれる前と同じ格好で静かに佇んでいたのだ。そして、その手にあるフォルセティの魔道書の宝玉が、かすかに光を放っている。
「ば、馬鹿な……」
「言っただろう、無駄だと。今の俺は風のすべてを操ることができる。風魔法で俺を傷つけることは、出来はしない」
「……な、ならば!!」
 ダッカーは腰に佩いた長剣を抜き放つと、レヴィンに切りかかってきた。レヴィンはそれをあっさりと避けると、一度距離をとる。
「叔父上……」
「逃がしはせんぞ、レヴィン!!」
 その言葉の、言外に込められた意味が、レヴィンには痛いほど伝わってくる。
「……さよなら、叔父上……」
 レヴィンは静かに右腕を掲げると、一瞬集中した。
 そして。
「がっ……!!」
 次の瞬間、ダッカーは倒れていた。ややあって鮮血が溢れ、それが純白の雪上を赤に塗り替えていく。
「叔父上……」
「見事、だ……レヴィン……我が甥よ。シレジアを……頼んだ…ぞ……。それと……パメ……」
 その言葉を最期に、ダッカーは事切れた。
「パメ……ラ?叔父上……?」
 レヴィンは叔父の最期の言葉だけは意図を掴みきれず聞き返した。だが、すでに閉ざされた双眸は、もう二度と開くことはない。しばらく考えたレヴィンは、やがた諦めて叔父を仰向けにすると手を胸の前で重ねさせた。多分パメラのことであるなら、本人に聞けばいいことだ。
 ふぅ、と吐いた息が白い。いつの間にか、日は暮れつつあった。
「これで終わった……いや、これからがむしろ……」
 やや呆然とレヴィンが立ち上がったとき、上空から翼を羽ばたかせる音が聞こえ、二騎の天馬騎士が降りてきた。二人とも、レヴィンのよく知る騎士である。
「フュリー、パメラ……」
 その時、レヴィンはダッカーの最期の言葉の意味を、一瞬で悟った。パメラの、倒れたダッカーへ向けたほんの一瞬の視線から。
「パメラ、お前……」
「レヴィン王子。いえ、国王陛下。ダッカー大公より、もし自分が破れし時はそれ以上の戦いは無益、降伏するようにと仰せつかっております。願わくば、私はともかく我が部下には寛大なるご処置を賜りたく存じます」
 パメラは片膝をついて拝謁し、頭を深く垂れて願い出た。しかし、レヴィンはその肩が小さく震えているのを見逃さなかった。それが、怒りではなく悲しみであることは、今のレヴィンには痛いほどよく分かってしまう。
「……わかった。俺もそのつもりだ。パメラ、お前の部隊はお前を含めて当面ザクソン城にて謹慎せよ。追って沙汰を命じる」
「はっ」
 パメラは必要以上に大きな声で頷くと、そのままきびきびと立ち上がり、歩き去っていく。だが、レヴィンにはその態度が、とても悲しく思えた。
「……すまない、パメラ」
「レヴィン……様?」
 フュリーが不思議そうな顔をしてレヴィンを見上げる。
「いや、なんでもない。それより、戦後処理だ。忙しくなるぞ。取り合えず、パメラの部隊の武装解除を頼む。まあ、一時的だと思うが」
「は、はいっ」
「あ、それから……」
 レヴィンが言葉を続けようとしたとき、フュリーはすでに弾かれたように走り出していた。あとには、見事に空振りさせられたレヴィンが呆然と佇んでいる。
「全く……何をやっているんだ、俺は……」
 状況的にもそんなことをやっている暇などない、と分かっているのに、余計なことを考えてしまう自分に、レヴィンは苦笑した。いや、もしかしたら焦っているのかもしれない。そう考えてみると、多少思い当たらなくもない。
「……考えても仕方ないな。とりあえず、シグルド達と合流するか」
 レヴィンはやや開き直ると、ザクソン城の城門へと歩き出していった。

 グラン暦七五九年初冬。シレジアの内乱は首謀者ダッカーの戦死で幕を閉じた。しかし、この戦いにおいてグランベル軍を国内に入れてしまった事実は、後々シレジアにとって大きな問題として残るのは明らかである。まして、今シレジアには、王子クルト暗殺の共謀者として手配されているシグルドが身を寄せているのだ。冬が終わり、春になれば大軍を持って侵攻してくるのはもはや避けられない事態であろう。
 そんな数々の不安を内包しつつ、シレジアでは、長い冬への準備に忙殺される日々が始まろうとしていたのである。




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