し る べ     
風の道標・第二十三話




 シグルド達が、傭兵隊を撃破したという報は、レヴィンがザクソンを掌握したその翌日にもたらされた。傭兵隊を率いるレイミアを討ち、大半の兵は降伏させたという。
「さすがシグルドだな……早い」
「恐れ入ります。ただ……」
 使者として来た騎士は、やや歯切れ悪く言葉を濁す。
「どうした?」
「はい。恐れながら、シレジアでの陸路での行軍はすでに限界に近く、いずこかの城砦に駐留したいのですが……」
「今からセイレーンは無理、だな……」
 シグルド軍は勇猛で、また優秀な軍ではあるが、かといって雪中行軍に慣れているわけではない。今からセイレーンまで戻るようなことをすれば、少なからず脱落者が出るだろう。
 普通に考えれば、素直にザクソンに進駐すればいいのだが、わざわざ聞いてくる辺り、自分達はあくまで客分だという立場を崩すつもりはないらしい。
 いまや、シレジアにとっては大恩ある人物なのだが。
「そうだな……しかしシレジアはかなりボロボロだからな。ま、ここは素直にこのザクソンに駐留してくれ」
「よろしいのですか?」
 彼が心配しているのは、グランベルとの国境を預かる城砦に、そのグランベルの軍を入れることに対するシレジア国民の感情を慮ってのことだろう。いかにも、シグルドらしい配慮だ。
「かまわない。それにどうせ、今からセイレーンやシレジアに戻るのだって楽じゃなかろう。俺にとっても恩人である彼らに、そんな無体は出来んよ」
「ありがとうございます」
 騎士は、深々と礼をすると、その場を辞去した。代わって入ってきたのはパメラである。
「これから……どうなさるのですか」
「どうもこうもなかろう。とにかく冬支度だ」
「いえ、そういうことではなく……」
 パメラが苦笑しつつ補足しようとするのを、レヴィンは手で制した。
「分かってる。もう今までのように、シレジア一国で片付く問題じゃなくなってる」
 グランベルから咎人として追われるシグルドを匿い、そして建国以来の中立を崩し、グランベルの軍隊を国内に入れてしまった。もはや、グランベルはシグルドを追求・捕縛するのに、外交という手段ではなく、軍略という手段を用いて来るのに躊躇することはあるまい。
「とりあえず、シグルドにはザクソンに入ってもらう。シレジアはボロボロだしな。それに……」
 そしておそらくシグルドも、冬が終わればグランベルへ赴くだろう。自らの無実を証明するために。
 そのためにも、セイレーンやシレジアよりは、ザクソンの方がなにかと都合がいい。
 何より、今から軍がまとまってセイレーンやシレジアに戻るのはそれだけで大変なことだから、それらを考えてもザクソンに入ってもらうのが一番いい。
 これから、シレジアは長く厳しい冬に入る。
 人々の活動が著しく制限される時期でもあるのだが、同時に軍を動かすことも出来ない、いわば争いの起きない時期でもあるのだ。
 そしてそれは、戦士たちにとってもありがたい、休息の時期となるのである。

 まさに、そのシグルド達の入城を待っていたかのように、彼らがザクソンに入った次の日から、本格的に雪が降り始めた。
 シグルド達にとっても二度目のシレジアの冬であるため、さすがに昨年のように驚きはしないが、それでもこの大雪にはやはり誰もが圧倒されている。
 ザクソンは、シレジアでは王都シレジアと並んで大きな城郭と街を持つ。
 それは、この地がシレジアの入り口であり、かつグランベルと接する地であるからだ。交易の重要な中継点として、そしてグランベルに対する防壁として、ザクソンはシレジアの要衝なのである。
 シグルドはそんな街にグランベルの軍隊である自分達が入ることに対する、住民の感情を懸念したのだが、それは杞憂だった。
 シグルド達は、いまやシレジア王国にとっても恩人といえる存在になっていたのだ。
「しかし、シレジアに戻らなくて良いのか、レヴィン」
 いつもの――といっても定期的に開かれているわけではないが――会議の後、シグルドは人が少なくなってきたところを見計らって、そう切り出してきた。
「何がだ?」
「君は正式にシレジアの国王となった身だろう? 本来ならシレジアで政務を執るべきではないかと思えるのだが。確かに君がいてくれた方が、我々としても春からの行動について逐一シレジアに赴き、意見を聞く手間が省けるので、悪くないのだが……」
「気にするな。それに、春から先のシグルド達の行動は、もうシレジアにとっても他人事ではすまないからな」
 その言葉に、シグルドがすまなそうな顔になる。
 レヴィンはその様子を見て苦笑した。つくづく思うが、なぜこんな男がグランベルの公子などやっているのだろうか。
「気にするな。お前達のせいじゃないだろう。それにな。母上に俺がシレジアにいたって復興の役には立たないんだから、せめてシグルドの手伝いをしろ、って言われてるしな」
 事実である。
 最初レヴィンは、シレジアに戻るべきだと思ったのだが、先手を打って母ラーナは容赦のない手紙を送りつけてきたのだ。
 もっとも、シグルドが公子らしくないというのなら、レヴィンは自分も国王らしくない、というのは分かっていた。
 性格がまるで違うのになぜかシグルドとは気が合うのだが、それはあるいは似たもの同士だからなのかもしれない、とレヴィンは勝手に思っている。
「それに、そう思うならきっちり濡れ衣を晴らしてくれ。……ま、俺も手伝うさ」
 そういうわけで、レヴィンはザクソンに留まり、シグルド達と春以降の行動について協議を重ねる日々を送っている。
 会議は不定期で、主に新しい情報が入ってきた時に行われる。
 いくら冬のシレジアが閉ざされているとはいえ、さすがにまったく外界から遮断させるわけではない。
 交易商人は雪を越えて来るし、また、シレジアとて閉鎖的な国であっても他国の情報に無関心であるわけではない。それなりの情報網は持っている。
 もっとも、さほど真新しい情報は入ってこなかった。
 グランベル王国では、ヴェルトマー公アルヴィスの勢力が急速に伸びているらしい。話によると、最近になって後継者なしで死んだと思われていたクルト王子の姫が発見され、その姫との恋仲が伝えられているという。
 一方、ドズル公とフリージ公も勢力を伸ばしていて、この三者が今のグランベルを牛耳っているといってもいい。老齢のアズムール王は元々政務の全てをクルト王子に任せていたため、そのクルト王子がいなければ彼らのやることにあまり口は出せないだろう。
 元々、いわゆる王子派と呼ばれていたクルト王子と、シグルドとの父バイロン、エーディンらの父リングの三人と、宰相であるフリージ公レプトール、ドズル公ランゴバルトとの間の確執は、イザーク戦争前の段階で、すでに致命的な溝を作り出していたといってもいい。
 事実、シグルドを『反逆者』として捕らえに来たのはそのランゴバルトとレプトールだ。
 こうなると、シグルド達としては、バイロンがクルト王子を暗殺した、というのは、実際には彼らの陰謀ではないか、という見方が可能であるし、それはおそらく外れてはいないと思っている。
 それはレヴィンも同じだ。
 シレジアはグランベルほどには宮廷内の権力闘争などというものはないが、それでも理屈は分かる。
「ま、いずれにしても今やれることは、情報集めと休むことくらいだしな。シグルドも少しは休め」
 シグルドは少し苦笑した後に、そうさせてもらう、とだけ言って会議室を出て行った。
 本来ならば、彼の疲れを癒してくれるはずの女性がいたはずである。多分、その女性がいれば、今のこの状況でも、シグルドがああも疲れていることはあるまい。
 シグルドの妻ディアドラ。
 アグストリア動乱の最中に何者か――暗黒教団ということだけは分かっている――に攫われた彼女の行方は、杳として知れなかった。もちろん、たかだか一人の少女の行方である。そうそう見つかるとは思えない。一応、レヴィンもそれなりに気にかけてディアドラの情報はないものか、と探らせてはいるのだが、手がかりらしいものはない。
 ただ、暗黒教団、というのがレヴィンにはひっかかった。
 およそ百年前に十二聖戦士によって打ち倒されたロプト帝国。その帝国を支配していた暗黒教団は、帝国崩壊後に追いやられ、イード砂漠に逃げ込んだとされている。
 それから彼らの姿を見た、という話はほとんどない。
 その教団がなぜ、今この時期に。いくらグランベルの公子の妻とはいえ、そんな少女を攫うために現れたのか。
 だが、情報が足りない状態ではいくら考えても答えなど出ない。
「……いかんな。無駄に考えすぎる」
 レヴィンは頭を振ると、一度伸びをしてから会議室を後にした。

「辞める? 天馬騎士を辞めると言うのか?」
 レヴィンがその話をされたのは、窓の外などほとんど見えなくなるような、そんな猛吹雪の朝だった。
 吹き付ける風は堅牢なザクソンの城に雪を叩きつけ、あるいはザクソン城を雪の中に埋もれさせようとしているかのような、そんな凄まじい状況であったが、レヴィンはその外の様子すらまるで気にならないほど驚いていた。
「はい」
 レヴィンの驚愕をよそに、その驚愕をもたらした人物はあっさりとその言葉を肯定する。
「ちょっと待ってくれ。いくらなんでも急すぎるぞ、パメラ」
 レヴィンがここにパメラを呼んだのは、パメラ以下の騎士たちの謹慎を解き、再び天馬騎士をまとめてもらうように頼むつもりだったのだ。
 だが機先を制してパメラが、天馬騎士を辞める、というのだ。
 しかしレヴィンの正面に立つ女性――パメラは、そんなことはありません、とでも言うように首を振ると、さらにレヴィンを驚愕させる台詞を続けたのである。
「もうすぐ、満足に動けなくなりますし、私。身重で、天馬騎士を指揮することは適いません」
 その時のレヴィンの表情は、まさに『唖然』というものだった。
 しばらく口をぱくぱくさせたあと、どうにか喉から声を絞り出す。
「な……なんだと? 一体……」
「ご存知……ではありませんか、やはり」
 パメラに言われて、レヴィンは『誰の子だ』という言葉を呑みこんだ。
 あの、ダッカーが死んだときの言葉。そして、そのダッカーを看取ったパメラの表情。
「……すまない……」
 言葉の脈絡が通っていないことは十分に承知していたが、レヴィンが口にしたのは謝罪の言葉だった。それ以外に、何を言えただろう。
 だがパメラはそれに対して、静かに首を振ると、微笑んで見せた。
「いえ。レヴィン様がなされたのは、シレジアの王として当然のこと。それを悔やむ必要はありませんし、また、私も、そしてダッカー様もそれをお怨みするようなことは、決してありません」
 少しだけ悲しさを感じさせる、だが凛とした声で、まるで宣言するようにパメラはまっすぐにレヴィンを見ていた。
「そうか……だが、辞めてどうするのだ?」
「はい。雪がおさまるのを待って、シレジアに行きます。預けてある子のことも気になりますし……」
 後々まで考えても、おそらくレヴィンが『唖然』として声も出なくなった、というのが複数回あった日、というのは、今日以外にはおそらくないだろう。
「あ……そうですね。当然ご存知ありませんね。ラーナ様はご存知なのですが……」
「あんの狸ばばぁ……」
 思わずレヴィンは実母に毒づいた。
「しかし、そうなるとその子らは……シレジアの王位継承者でもあるんじゃないのか?」
 だが、その言葉にパメラは複雑そうな顔をしながら、首を横に振った。
「このシレジアの王位はレヴィン様、貴方を置いて他に就くべき者などありません。それは、ダッカー様も仰っていました」
 ならばなぜ、という言葉を、レヴィンはかろうじて飲み込んだ。
 彼らを凶行に走らせたのは、自分自身の身勝手ゆえだ。そして、その犠牲者の一人が、目の前に立つ女性なのだ。
「……分かった。これまでの役目、本当にご苦労だった」
「はい」
 パメラはそこで深々と頭を下げる。
「しかし四天馬騎士も、結局残ったのはフュリー一人になるのか……」
「大丈夫だと思います、フュリーなら」
 天馬騎士では、フュリーはまだ年齢的には若輩になるのだが、誰もが、フュリーが四天馬騎士の一人として相応しいと認めているという。
「ずいぶん高く評価しているのだな」
 パメラは、フュリーが四天馬騎士の一人となるとき、少なからず協力したという話は聞いているし、フュリーが例外的ともいえるほどの早さで四天馬騎士の一人となったのは、マーニャよりむしろパメラの協力があったかららしい。
「そうですね……実際、戦ってみて思いました。彼女は格段に強くなってます。多分……あと数年もしないうちに私や……あるいはマーニャすら超えるかもしれない。それに、今の彼女には人望があります。今、天馬騎士団を纏め上げられるのは、彼女を置いて他にいません」
「……そうか。分かった」
 その言葉を合図にしたのか、パメラは胸についていた徽章を外し、机の上に置いた。それは、シレジア王家の紋章に翼を重ねた、シレジア天馬騎士団の証。
「おいおい。ちゃんと引継ぎはしてくれよ」
「分かってます、それは」
 それだけ答えると、パメラは一礼して踵を返し、扉へと向かう。そして扉を開けたところで、一瞬その動きを止めた。
「パメラ?」
「私から言えたことではありませんが……フュリーのことを、よろしくお願いします。……陛下」
 その言葉に、レヴィンは何も答えることは出来なかった。

「フュリー、ここにいたのね」
「パメラ……様……」
 二人がいるのは、ザクソン城の南側のバルコニーだった。
「寒くないの?」
「いえ……」
 外は猛吹雪なのだが、この時期の吹雪は全て北からの風が強いため、南側は目の前は吹雪いていても、バルコニーは静かに雪が舞い降りる程度なのである。とはいえ、外であることは違いなく、寒さは吹雪に直接晒されるよりマシ、という程度しか違いしかない。
 シレジア育ちの二人はともかく、シグルド達ではたちまち凍えて、屋内に逃げ込むほどの寒さだ。
「さっき、レヴィン様には伝えてきたわ。あとは、お願いね」
「はい……」
 フュリーはレヴィンよりも先に、パメラから彼女が辞めることを――その理由も――聞いていた。
 最初こそ混乱したフュリーではあったが、彼女が辞めることは不可避であり、そうなれば、ただ一人残った四天馬騎士である自分が天馬騎士団を背負うのは当然である。
 しかしそれは、フュリーにとっては、ほんの半年前までは想像の地平のはるか彼方にある立場だった。
 内乱終了後、どうにかやってこれたのは、そのうちパメラが戻ってきてくれるから、と思っていたからだ。
 一年前、フュリーが四天馬騎士となったころは、天馬騎士団にはマーニャがいて、ディートバがいて、自分は四天馬騎士の末席であり、姉マーニャによって天馬騎士団は統率されるべき存在であり、自分はそれを補佐するだけの存在だった。
 それが永遠に続くと思っていた。姉マーニャがいなくなることなど考えたこともなかった。
 だが、すでにマーニャは亡く、そしてフュリー自身もディートバをこの手にかけた。戦いの最中の出来事であり、戦いの結果だ、と言ってしまえばそれまでのことである。だが、こうやって落ち着いて考える時間が出来ると、他に方法はなかったのか、と考えてしまう。
「誰がなんと言おうが、貴女は四天馬騎士の一人。そして……多分私以上の素質を秘めているわ。間違いなく、ね」
 それに、とパメラは言葉を続ける。
「シレジア王妃が天馬騎士を統べる立場にあるのは珍しい話じゃないのよ。実際、そういう例はあるわけだしね」
 その言葉に、一瞬でフュリーの顔が紅潮した。
「え、あ、あの、それはっ」
「そこまではレヴィン様には言ってないわよ。でも、貴女の気持ちは隠しても分かりやすいしね。それに、レヴィン様も……」
「それはありませんっ」
 突然のフュリーの強い口調に、パメラは驚いて目を見開いた。
 そのパメラの目の前で、フュリーはその強い調子から一転して、まるで萎れる様に表情が沈み込む。
「そんなことはないんです……レヴィン様は……あの方は……」
 直後、パシン、という小さな音と共に、フュリーの頬に痛みが走った。
「あのね。これだけは言っておくわ。死者と張り合ったって勝ち目はないの。だから貴女は、貴女のやれることをやればいい。天馬騎士団のことも、レヴィン様のことも」
 パメラはそのまま踵を返す。
「……マーニャは間違いなく、最高の天馬騎士だったわ。妹である貴女に、姉を超えろ、なんてことは言えない。でも、貴女には貴女の、天馬騎士として優れた点があるし、貴女自身もマーニャ以上といえることはたくさんあるはずよ。かつて、貴女を四天馬騎士に推挙した私の目は確かだった、と私は今も思っている」
 パメラはそれだけ言うと、屋内へと消えていった。
「パメラ様……」
 途端、一瞬風向きが変わったのか、フュリーの髪が雪と共に風に舞い上がる。
 フュリーは一度身震いしてから、もう一度白く染められた庭に目を落とす。
 見慣れた、雪深いシレジアの光景。
 毎年冬は、全てが雪に埋もれ、白く染まる。人々はその寒さを耐え、瑞々しい春の訪れを待ち続ける。
 今年も、冬が終われば春が来る。それは、いつもと変わらない。
 だが。
 次の春が、いつもと同じである保証はない。いや、おそらく違うものになる。
 それは、シレジアの歴史において忘れられない春になるだろう。
 その時自分は、そして自分が愛する人はどうなっているのか。
 今のフュリーには、それはまったく分からない。
 寒気を感じて、フュリーは肩を抱いて身震いする。
 それが、果たして寒さゆえのものなのか、それとも先の見えない明日に対してのものなのか、今のフュリーには分からなかった。




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