し る べ     
風の道標・第二十六話




 いつもと違う風が、レヴィンをまどろみから呼び覚まさせた。
 目を細め、まだ暗い窓の外を見る。
 冬のシレジアは夜が長い。特に南方のミレトスからすると、信じられないほどである。
 ミレトスでは太陽が完全に地平の上に出ていたとしても、シレジアではまだ空は夜の帳に支配されたままなのだ。
 しかしそれも、終わりを告げつつあるらしい。
 それは、冬の終わりを意味する。
 レヴィンは寝台から出ようとしたが、すぐその動きを止めた。
 レヴィンにぴったりと寄り添って眠る、フュリーがいたからだ。
(このおかげで暖かかったのか)
 寝台は確かに大きなものを二人で共有しているが、確か眠るときは並んでいたはずである。どうやらいつの間にか、フュリーがレヴィンに寄り添うように移動していたらしい。
「んっ……」
 起き上がろうとした時の動作で、起こしてしまったようだ。程なく、フュリーも目を覚ました。もっとも、外も暗く、寝室もほとんど明かりがない。フュリーが目を開けたのかは見えはしないのだが、彼女の気配がかすかに変わったのが、レヴィンには分かった。
「すまないな。起こしてしまったか」
「いえ……あ、わ、私、こんな……」
 どうやら自分が眠っている間に移動していた事実に気付いたらしい。
「いや、いいさ。暖かかったしな。というか、動くな」
 そのままレヴィンはフュリーが動けないように抱きすくめる。
「あ、あの、レヴィン様……」
 わずかに壁にある明かりだけでもはっきり分かるほど、フュリーは顔を真っ赤にしていた。
 結婚して、すでに三月は経つのだが、フュリーの反応は相変わらずである。その様子が、レヴィンに面白いとも思えてしまう。
「すみません、もう起きてらっしゃるとは思わなくて……」
 その言葉に、レヴィンはちょっと引っかかるものがあった。
「ん? もしかして、今朝が初めてというわけじゃないのか?」
 考えてみたら、結婚してからこっち、レヴィンがフュリーより先に起きるのは初めてだ。元々朝は弱いほうだったレヴィンに対し、フュリーはいつも朝は規則正しく起床する習慣があったのだから、それは不思議ではないのだが。
「あ、えっと、その……」
「なんだ、そういうことか。別に構わないんだがな」
「いえ、あの、そういうわけには……」
 フュリーが言い訳するより先に、レヴィンはフュリーの唇を、自分のそれで塞いだ。
「いつも思うんだが、お前、遠慮しすぎだぞ。なんにでも。すぐに謝るし」
「はい、その、すみません……」
「また謝る」
「あ、そのえっとすみ……あ」
 言葉が続けられなくなってうろたえるフュリーは、いつものことである。ただそれが、何よりも愛しく思える。
「ま、お前らしいと言えばお前らしいけどな。でも、ほどほどにしておけよ」
 レヴィンは再びフュリーに口付ける。
 空はまだ、暗かった。

「せいぜいあと半月で、雪は融け始める」
 定期会議の席上で、レヴィンは最初にそう宣言した。
 その言葉に、場に一瞬緊張に走る。
 それはつまり、グランベルとの戦いの開始を意味するのだ。
「雪が融ければ、グランベルは兵をシレジアに進めてくるだろう。それはもう、間違いない。報告によれば、リューベックにはすでに一千以上のドズル兵が集結している。加えて、バイゲリッターもいるらしい」
 その場にいる、特に天馬騎士達に緊張が走る。
 先の内乱において、ザクソンとシレジアの戦いにおいて、その勝敗を決定付けたのは、あの恐るべき弓騎士団なのだ。
 そしてフュリーにとっては、姉の仇でもある。
 その後、オイフェらがまとめた情報が集められ、シグルド達の今後の行動が決定された。
 リューベックにはかなりの軍が駐留しているが、未だにドズルの主力であるグラオリッターはいないらしい。なんでも、イザークの鎮圧に相当てこずっているようで、いつ戻るかは分からない。シグルド達からしてみたら、あの恐るべき鉄扉騎士の相手は、避けたいところである。
 しかし一方で、シグルド達もそう簡単に動くわけにはいかなかった。
 雪はもうすぐ融け始めるが、かといってすぐ進軍できるわけではない。
 融け始めの、特に山に積もった雪ほど危険なものはないのだ。雪はわずかな衝撃だけで、すべてを巻き込み破壊する恐るべき雪崩を発生させる。
 かつて、レヴィンの父、すなわち先代のシレジア王は、その雪崩を食い止めようとして死んでいるのだ。
 かといって、雪が積もった山を越えるのは自殺行為である。空を舞う天馬騎士ならともかく、地上を行くシグルド達は、少なからず遭難者を出すのは間違いない。
 結局、雪がほとんど融け、安全がある程度確認されてから、ということになる。
 ただ、雪が完全に融けるのを待っていては、グランベルが逆にシレジアに侵攻してくるだろう。グランベルは、現在のシレジアの状況についての情報はほとんどないだろうが、ダッカーが勝利していたと思い込んでいるらしいので、そうなれば反逆者、すなわちシグルドの引渡しのために国境を越えてくるのは確実だ。
 そして、今のランゴバルトらが、そのまま素直に帰るとは、シグルドもレヴィンも思っていなかった。
 ゆえに、誘い込んで罠にかけよう、という作戦をとることはなかったのである。
 ただこれは、シグルド達が、これ以上シレジアの大地を戦いで汚したくない、という強い想いがあったからこそだった。そしてレヴィンは、その彼らの想いを曲げさせることは出来なかったのである。
「まあ、意図的に雪崩を何回か起こして、逆に安全な山道を確保すれば、グランベルより先に攻撃できるだろうからな」
 行動開始は一月後。それまでに、天馬騎士団は、グランベルへ至るためのルートの確保を魔法師団と共に行うことになる。
「……それにしても、お前が陣頭指揮を執る必要は、ないんだがな……」
 レヴィンは何度目かの、渋い表情でフュリーを見やった。
 フュリーは、天馬騎士達を指揮するため、別の会議場に向かおうとするところだった。
 王妃となった今でも、フュリーは天馬騎士団の団長を兼任しているのだ。
 実はこれは、過去に例がない。
 過去において、天馬騎士団の団長が王妃になった例が、ないわけではない。また、公爵などに見初められて、結婚した例はいくつかある。だがいずれも、天馬騎士団の団長を辞すのが普通だったし、大抵は天馬騎士そのものを辞めている。
 ところが、今回はそうはいかなかったのだ。
 最大の理由は、次の団長の適任者がいなかったことである。
 通常、天馬騎士団の団長は四天馬騎士の筆頭が務める。そして、団長が何らかの理由でその地位を辞す場合、次位の四天馬騎士が団長となるのだ。
 しかし、現在四天馬騎士は、フュリー一人しかいない。マーニャ、ディートバは先の内乱で戦死、パメラはすでに騎士を辞め、市井で暮らしている。しかも、懐妊していることがわかり、呼び戻すことなどできようはずもなかった。
 フュリーより長く騎士を務めているものが皆無というわけではなかったが、その誰もが、団長を引き受けはしなかった。またレヴィンも、この時勢に天馬騎士団をまとめきれない人物を、団長にするつもりもなかった。
 結局、適任者なし、ということで、フュリーがそのまま王妃兼天魔騎士団長という立場になってしまったのである。
 ただ、団長の適任者はいなくても、隊をまとめる者は何人かいる。彼女らに任せればいい、とレヴィンは言うのだが、フュリーは頑として聞かなかった。
「私は天魔騎士団の団長でもあるのですから、その責務はおろそかに出来ません」
 さすがは真面目一辺倒のフュリーである。
「……言っても無駄か。だが、無理するなよ、フュリー」
「はい、レヴィン様」
 フュリーはそう、元気良く応えると、廊下を駆けて行った。

 シレジアの東側、リューベックとの山岳帯の、ちょうどリューベック城まで四日という距離に、小さな臨時に設営された山城がある。
 リューベックでは、シレジアの内乱の状況が分からなかったため、シレジア国境近くに小規模の兵の駐屯地として、その山城を建設したのだ。
 そこから、シレジアを監視していたのだが、実際にはこの駐屯地からはシレジアの様子をうかがい知ることは出来ず、ただ、シレジアからグランベル側に行く者がいるかどうかだけをチェックしていたのである。
 いわば、シレジア監視の最前線である。
 シレジアからグランベルに行く場合は、通常であれば船を用いる。しかし、冬のシレジアというのは、巨大な陸の孤島に等しい。
 シレジアと他国を結ぶ道は、陸路リューベックへと抜けるか、シレジア南部の海峡を抜けるか、あるいはアグストリア北部との海峡を抜けるか、である。
 しかし冬になると、海峡は中途半端に凍りつき、船が使えず、かといってソリで行けるほどに南側の氷は安定しているわけではなく、そして陸路は山間の道であるため、その全てが雪に閉ざされる。
 事実上、シレジアは冬になるとほぼ完全に交通を遮断されるのである。
 無論実際には、平時であれば国使などは天馬騎士によって空路来ることがあるし、また、ごく少数ではあるが、凍りついた海を渡ることを専門にする船乗りの集団などもある。そこから、シレジアは若干の物資を補給するが、それ以外にはほぼ交通手段は皆無だ。
 逆に言えば、冬に入ってしまうと、シレジア国内の情勢はまるで分からなくなる。
 バイゲリッターを率いるアンドレイが、戦いの結末を見届けずに急ぎ帰国したのには、こういう理由もあった。おそらく、結末まで見届けていては、帰路が完全に雪に閉ざされると考えたのであろう。実際、実は帰路において、バイゲリッターはごく数名ではあるが、遭難者を出す羽目になっている。
 いずれにせよ、リューベックからすれば、内乱の趨勢がはっきりしない以上――アンドレイ公子は自信たっぷりにダッカー公が勝ったと言い切っていたが――監視を怠ることはできない。
 そして、その駐屯地からの連絡――伝書鳩を使う――は三日おきにリューベックへとされていた。
「ふぅ、ったく、いつまでこんなところにいなきゃいけないんだよ。本国じゃもうイザーク戦の戦勝祝いやら王女の発見やらその婚姻とやらで大騒ぎだってのによ」
「ぼやくなよ。貧乏くじだったってことさ。ま、春になればシレジアもグランベルに恭順するらしいし、そしたら本国に帰れるだろう」
「はやく帰りてぇよなあ……と、それっ!!」
 男はそういうと、足に手紙を括り付けられた鳩を、空へと放った。
 鳩は一度上空を旋回してから、まっすぐに東へと飛んでいく。
 伝書鳩は常時二羽城にいる。定期連絡用と緊急連絡用で、定期連絡の鳩はリューベックとこの駐屯地を三日おきに往復する。もうすぐ、定期連絡の応答を持った鳩が、リューベックからも来るはずだ。
「あ〜あ、俺にも翼があればなぁ……あれ?」
「どうした?」
「いや、リューベックからの返信が、もう来た……?」
「おいおい、いくらなんでもまだ早……」
 男の同僚が、男が指差した方向を見ると、確かにそこには翼を広げた何かが飛んでくるのがはっきりと見える。
「……って、おいっ!! あっちは逆だろうが!! シレジアからだ!!」
 だがそこで、男は慌てて隊長に報告すべきかどうか、一瞬躊躇した。
 反射的に敵だと思ったが、考えてみたらシレジアから天馬騎士が来るのはおかしなことではない。
 冬の間は天馬騎士とて空を満足に飛ぶことが出来ないことは知られている――まったくではないが――ので、あるいはようやく恭順のための使者が来たのかもしれない。とはいえ、隊長に急ぎ報告したほうがいいことではあるだろう。
 その迷っていた時間は、実際にはそれほど長いものではなかったが、しかしそれが、彼の運命を決定付けてしまった。
 もっともそれは、生きていられる時間が、ほんの僅か短くなっただけに過ぎなかったが。
 次の瞬間、城壁の上にいた男達は、ことごとくその喉を矢に貫かれ、冷たい石床の上にその身を投げ出すことになった。

「リューベックへの連絡は?」
「定期連絡を発した直後を狙いましたから、少なくとも三日は誤魔化せるはずです」
「そうか」
 オイフェの報告にシグルドは頷くと、そのまま会議室に居並ぶ将兵に向き直った。
「いよいよ我々は、グランベル本国に入ることになる。……我らに後ろめたいことが無いとはいえ、それでも一時的に、祖国に弓引くことにはなる。しかし、我々の行動は、今グランベル中央にて、国王陛下を惑わし、そして国政を壟断する奸臣を廃し、グランベルをあるべき姿とするために、必要不可欠なものであると、私は確信している」
 シグルドの言葉に、グランベル王国、特にシアルフィから付き従ってきた騎士たちが大きく頷いた。
 そしてシグルドは一歩下がると、替わってレヴィンが一歩前に進み出る。 「俺はシレジアの正当な国王として、ここにいる。昨年、グランベルは独立国家に対してあるまじき、内政干渉を行い、また、シレジア前国王の王弟ダッカー公爵に対して甘言を用い彼を惑わし、シレジアに内乱を引き起こさせた。これは、決して看過することが出来ないことであり、正式に抗議する必要がある。だが」
 レヴィンはそこで言葉を切ると、自分の斜め前にいる――今は王妃ではなく天馬騎士団長としてこの場にいる――フュリーを一瞬見遣り、それから全体を見渡した。
「その前に我々を助けてくれたシグルドを、無事王都バーハラまで送り届ける。そして、その途中に障害となりうるであろう存在は、その全てを排除する」
 それは暗に、バイゲリッターの殲滅を誓うものでもある。レヴィンにとってもフュリーにとっても、そして天馬騎士たちにとっても、あのバイゲリッターだけは許せる存在ではないのだ。
 その後、オイフェが全体の戦術の確認を行った。
 リューベックが、この砦の失陥に気付くのは、三日後の昼以降である。そのために、シグルド達はわざわざ定期連絡の直後を狙って砦を攻撃し、かつ緊急連絡を飛ばされないように、少数精鋭で先行し、一気に砦を抑えたのだ。
 シグルド軍は総勢で天馬騎士――ほぼ全軍――を含めても、一千強。グランベル全体に対して戦争を仕掛けるには、あまりにも心もとない。
 しかし、シグルドからしてみれば、別にバーハラを攻め滅ぼす必要などどこにも無い。自分の生存がアズムール王に届き、そして陛下に自分の身の潔白を証明する機会さえ与えられればいいのだ。ただ、その時、絶対にドズル公、フリージ公の二人は立ちふさがってくるだろう。
 皮肉なことに、彼らの息子や娘がこの軍に同行しているが、正直シグルドは、彼らが説得に応じることは期待していない。
 これはおそらく、大きな流れの中の一つなのだ、とシグルドもレヴィンも感じていた。
 イザーク戦争、ヴェルダンの暴走、アグストリアの戦乱、そしてシレジアの内乱。何か、大きな流れがこのユグドラル大陸を包んでいる。そこには、何かを意思を感じずにはいられない。そしてその正体を、シグルドもレヴィンもうっすらと感じ始めている。だとすれば、その流れを断ち切るために、今はその流れの中で行動するしかない。流れの中で勢いをつけ、その流れを脱する以外に、この戦乱の時代を終える方法は無い。
 だからシグルドもレヴィンも、血臭にまみれようとも、進む道を選択したのだ。
「すまないな、レヴィン。本来なら、君はシレジア国内で国の安定に努めなくてはならないというのに」
「気にするな。俺が勝手についてきているんだ」
 確かにシグルドは、レヴィンについてきて欲しいとは一度も言っていない。ただ、彼の持つフォルセティの力、そして彼につき従う天馬騎士の戦力は、グランベルと戦うにおいて欠かせない戦力であったのは事実だった。
 だがレヴィンは正式にシレジアの国王位を継いだ身だ。そうそう、国を出るべき存在ではない……はずだったのだが、レヴィンはなんら迷うことなくシグルドと同行すること、さらに天馬騎士を同行させることを申し出た。
「混乱した国をまとめるのは、母上がいれば十分だ。俺は、フォルセティを継承した、という事実ただそれのみを示せばな。それに、グランベルに対する怒りもある。たとえお前がいなくても、俺はバーハラへ抗議に出てたよ」
 それに、とレヴィンが言葉を続けかけたところで、リューベック方面に出していた斥候が戻ったとの報告が入り、会議は一度打ち切られた。
 シグルドは慌しく報告を受けに別室へと行く。
 言いかけた言葉を飲み込んだレヴィンは、一度外の、まだ白い絨緞に覆われた光景へと視線をずらす。
「それに……これが俺の、宿命なんだ。『光』を導く標として……のな」
「レヴィン様……?」
「ああ、フュリーか。どうした?」
「いえ……あの、今何か仰いませんでした……?」
「いや? 独り言だ。ここ数日別行動だったから、今日は久々にフュリーと眠れそうだな、とかな」
 その言葉に、フュリーは真っ赤になり、まだ部屋に残っていた数人の天馬騎士――元フュリー隊の者達だ――はくすくすと笑い出す。
「レヴィン様っ、な、何もこんな場所でそんな……」
 そのフュリーの反応が面白くて、レヴィンは小さくなっているフュリーを抱き寄せた。
 さすがにその時には、会議室からにいた人々は逃げるように退出し、そしてフュリーはさらに混乱の度合いを深めていった。




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