し る べ     
風の道標・第二十七話




「ここから、か」
 露台から見下ろせる光景は、ことごとくが荒涼とした黄砂の海だった。
 はるか地平まで続く広大な砂漠。蛮族が住む、とも言われる、ユグドラル大陸最大の砂漠、イード砂漠である。
 その地平の向こう、天気が良ければかすんで見えるという場所が、彼らの目指すべき場所だ。
 ただ、そこへいたるためには、この死の砂漠とも呼ばれるこのイード砂漠を越えなければならない。
 そして、砂漠を越えた先に待っているのは、確実に死闘である。
 生き残れるかどうかすら分からない、絶望的な戦い。
 誰もそれを言うわけではない。
 だが、誰もがそれを感じていた。
 ふと視線を下ろすと、大き目の馬車に、荷が詰め込まれていた。
 それは、ここで軍を離脱する、オイフェ、エーディンらを乗せる予定の馬車である。
「勝っているはず……なのだがな」
 だが、そう呟いたレヴィンもまた、今の軍が勝利の中にあるとは思っていない。
 そしてその感覚は、この軍にいる全てのものに共通した感覚だった。

 シレジアとグランベルの国境を越えたシグルド軍は、その後に予想もしない状況を迎えることになった。
 リューベックの最前線の守りを突破したシグルド軍は、そのまま国境地帯の山岳帯を越え、平原に駐留していた部隊を一気に撃破した。
 そして、シグルド達はリューベックに駐留していたドズル軍と交戦、激烈な戦闘の末に、シグルドは聖剣ティルフィングをもって聖斧スワンチカを持つランゴバルトを討ち、そしてユングヴィ公女ブリギットが聖弓イチイバルをもって、バイゲリッターを率いていたアンドレイを討ち取った。そしてそのままリューベックを制圧したのである。
 しかしそこからが、本当のグランベルとの戦いであった。
 リューベック城はイード砂漠の北限に位置する。ここより南は、広大なイード砂漠。その中には、イード砂漠を監視するヴェルトマーに属するフィノーラの砦があり、さらにその先はヴェルトマー城となる。そこではこれまで以上の熾烈な戦いが繰り広げられるに違いない。
 そしてそこで、シグルドは一つの決断を下したのである。
 すなわち、生まれた子供達を、全てここで軍から外す、と言うものであった。
 実際、この軍には生まれたばかりの子供が幾人かいる。
 本来、軍隊はほぼ男子ばかりであるのが普通――イザークなどでは若干事情が異なるが――だが、この軍は貴族の女子が多数参戦している。そして、数年に及ぶ行軍生活の中で、結婚、出産したものが若干名いるのである。
 その人数は多いわけではないが、問題は指揮官の子ばかりであると言うことである。
 何より、この先の戦いは今まで以上に熾烈なものとなり、子供にかまうことはもちろん、そもそも砂漠の行軍ということで、子供には苦しい生活環境となる。
 そして、誰も明確には言わないが、この戦いは自分たちが生き残ることが出来るとは限らないのである。その時、子供たちが同行していれば、ほぼ確実に死ぬことになる。それは、誰もが望まない結果なのだ。
 そして、リューベック制圧から二日後、オイフェをリーダーとし、子供たちをイザークへと逃がすことにしたのである。

「行ってしまわれましたね」
 すぐ横の声に、レヴィンは無言で頷いた。誰がいるかは、分かっている。ここはレヴィンに与えられた個室にある露台であり、そこに入って来る者は極めて限られるのだ。
「俺達はまだ子がいないからな……いたらやはり、この様に見送ることになったのだろうが……」
 だが、子がいれば、自分たちが死んでもその証は残る。しかし、我が子と別れる辛さに耐えなければならない。
「本音を言えば、お前もここからシレジアに戻って欲しいのだがな」
 そういうと、レヴィンはすぐ自分の後ろに立つ、白い鎧を纏った女性の方へ振り返る。
「いえ……私は絶対にレヴィン様のお傍を離れません。……いえ、離れたくありません」
 こういう時のフュリーは、何を言っても聞かないほど頑迷なのは、レヴィンも良く分かっている。だから、それ以上フュリーに帰るように言うつもりはない。
「分かったよ。だが、約束しろ。必ず、生きて帰ると。お前が死ぬことは、絶対に許さない。いいな」
「はい。でもそれは、必ずレヴィン様もご一緒に、です」
 その言葉に、レヴィンは小さく笑む。
「……そうだな。必ず生きて、シレジアに帰ろう。お前と……それから、俺たちの子とな」
 その言葉に、フュリーは目を白黒させ、それから大きく見開いた。
「なんだ、気付いていないと思っていたのか? まあ、俺自身、父親になるって自覚はあまりないんだがな……」
「え、えっと、その……」
「だからと言って、シレジアに帰れ、とは言わないさ。だが、絶対に生きて帰らなければならない理由が、より明確になっただろう?」
「レヴィン様……つっ」
 突然、砂漠からの乾いた風が強く吹き抜け、レヴィンとフュリーの髪をなでる。
 風の吹いてきた方向、つまり南に目を向けると、そこに見えるのはやはり黄砂で埋め尽くされた大地と、その上を駆ける風――黄砂を含んでいるため、うっすらと色が付いているようにすら見えるのだ――だけだ。
 シレジアで生まれ育ち、これまでほとんどシレジアを出たことのないフュリーにとって、砂漠は未知の場所だった。
 シレジアは、確かに冬は厳寒に包まれる。
 全てが氷と雪に閉ざされるその世界は、ある意味では『乾いた』大地だ。
 しかし実際には、火を起こし、氷を溶かせば水を得ることは出来る。それに夏は、その雪と氷が融けて、瑞々しい大地がその下から姿を現す。
 だがここは違う。雪や氷はもちろん、水もまったくない。完全に乾ききった大地。
 無論、『砂漠』という存在を知らなかったわけではない。文献などでは知っていた。
 知ってはいたが、それはフュリーの想像では、せいぜい巨大な海岸、という認識だった。
 確かにそれは間違いではない。
 夏、陽光で乾ききった海岸の砂浜と、砂漠の砂は、おそらく触った感触はそう変わりはしないだろう。
 だが、そういう問題ではない。
 海岸は、目を転じればそこには巨大な水がある。海という、世界最大の水を湛えた場所が。
 だが、砂漠はどこまで行っても乾いている。水などない。
 実際には砂漠の中でも数箇所、オアシスと呼ばれる水が湧く場所があるそうだが、目の前に広がる広大な砂漠を目にしていると、本当にそんなものがあるのだろうか、と思えてしまう。
 間違いなく、これまでの行軍の中で、もっとも過酷な道になるのは間違いない。
 子供たちをイザークへと送った理由の一つがそれである。
「砂漠が怖いか?」
 突然のレヴィンの言葉に、フュリーは反射的に頷いて、それから慌てて首を振った。
「い、いえ、大丈夫です」
「無理はしなくていい。天を舞うペガサスとて、永久に飛び続けられるわけじゃない。そして、砂漠では、補給が失われたらそれは死を意味する」
 フュリーは口をつぐむ。
 天馬騎士は、確かに他の兵種と大きく異なり、砂漠でも足を取られるようなことはない。移動速度が落ちるわけではない。
 だが同時に、天馬騎士は補給が弱い、という欠点を持っていた。それは、空を飛べるという利点と表裏一体である以上、仕方のないことだ。
 ゆえにシレジア国内であれば、山間部も含めてあちこちに天馬騎士が利用するための保存食の保管所などが多数存在する。
 他国を侵略することのないシレジアでは、それで十分だったのだ。
 補給物資を持ち運ぶことが出来ない、というのが天馬騎士の数少ない欠点なのだ。
 ちなみに同じ欠点はトラキアの竜騎士にもあるのだが、竜騎士の駆る飛竜は、ペガサスより遥かに強靭であるため、十日前後、単独で行動するだけの物資を持ち運ぶことが可能である。これが、竜騎士が傭兵として活躍することを可能にしているのだ。だが、ペガサスは飛竜ほど力がないため、もっていける物資は多くて二日分程度だ。
 そして今回、天馬騎士団として初めて、天馬騎士は異国の地で大規模な戦闘を行うことになる。しかも、地図すら満足にない、ユグドラル大陸でももっとも過酷なイード砂漠を、これから渡ろうと言うのだ。怖くない、といえばうそになる。
「大丈夫だ。俺達は、死なない。たった今、そう約束しただろう?」
 レヴィンの言葉に、フュリーは思わず顔を綻ばせた。

「レヴィン、来たか」
「何の用だ? シグルド」
 リューベック城の会議室。その一つ。
 元々軍事要塞の意味合いの強いリューベック城は、城と言うより砦という方が正しい。
 グランベルの建築というのは決して無駄に――かつてシャガールが支配していたアグストリアのような――豪奢であったりはしないものの、洗練された建築様式というものを感じさせるもので、実際城砦としての機能も持つグランベル国内の各地の城は、概観は無骨な城砦であっても、内部は洗練されているのが普通だ。
 だが、このリューベックはいくらグランベルの城とはいえ、イード砂漠を越えた先にあること、また、砂漠からの風に常に晒される場所であるがゆえか、装飾などは皆無に等しい。
 この会議室も、内装はないに等しく、会議室であると分かるのは、広いテーブル――さすがにグランベル本国から運んだのか、これは豪華なものだが――があるからだ。
「君たちシレジアの軍は……これ以上は来ないほうがいいのではないか?」
 どういう意味だ、と問いかけて、レヴィンはそのシグルドの言葉の意味するところに気が付いた。
 この戦いにおいて、シグルド達が生き延びる可能性は低い。
 イード砂漠を越えるというのも厳しいし、何よりもそのイードを越え、疲弊したところでグランベルと戦わなければならないのだ。
 そしてそれに勝ったとしても、果たしてシグルドがその無実を証明できるのか。
 根拠となるのは、エッダのクロード神父がブラギの塔で掴んだというこの戦いの真実のみ。
 しかし幾度もそのことを書状にてバーハラに送っても、バーハラからは何の反応もなかった。
 それは、アズムール王の周囲がすでに反王子派に牛耳られている、ということを意味する。
 また、シグルドは反王子派とはいえ、グランベル六公の一人、ランゴバルトを討っている。シアルフィの新公爵として。
 いかなる理由があれ、これについて何も問われないということは考えにくい。
 グランベルの国法は、六公爵同士の争いを原則禁じている。
 そしてその軍に、シレジアの軍が同行しているとなれば、シレジアもまた、それに対して何らかの責を負うことになりかねない。
 シグルドはそれを懸念しているのだろう。
「今さら、だな。それに俺は……いや、シレジアは昨年、グランベルがシレジアに内乱を起こさせるような工作をした事実に対して、それを問いただすために来ている。そしてその内乱を治めてくれたのはシグルド、お前だ。お前はシレジア内乱に際しての、こちらの重要な証人でもあるんだよ。だから俺達が守る。おかしくなかろう?」
 これ以上ないほどの詭弁であるということは十分分かっている。レヴィンがついてきているのは、そんな理由からではない。
「レヴィン……」
「……とまあ、もっともらしい理由を付けてみたりもするがな。俺は俺が、こうするのが正しいと思っているから来てる。それはフュリーも天馬騎士も……いや、お前に今ついてきている仲間達もみんな同じだ」
 その理由は呆れるほど自明だ。
 シグルドが正しいと信じているから。
 そして、その正しさを、この戦いの果てに証明できると信じているから。
 だから、レヴィンも、そして多くの仲間達もまた、シグルドについて来ているのである。
「指揮官がそんなんじゃ困るぞ」
 レヴィンの言葉に、シグルドは苦笑する。
「……そうだな、確かに」
「仲間、だろう?」
 君主と臣下という関係でもなく。
 契約によって結ばれた関係でもなく。
 ただ、お互いがお互いを助けるべきだと、そう感じているから。
 その信頼に応えるために。
 言葉にすれば、陳腐な英雄小話の一節に出てきそうな文句しか出てこない。
 だが、レヴィンにとって、シグルドについていくのにはそんな理由で十分だった。
 この男が、光となる。
 今、混迷のへと突き進むこの時代において、大きな役割を持つ人間である。それが、レヴィンには分かっていた。
「仲間を助けるのに、いちいち理由探してもいられないだろう? 違うか?」
「……違わないな、確かに」
 シグルドがシレジアの内乱に手を貸したように、今度はレヴィンが手を貸す。
 ただそれだけのことだ。
「ま、負けるつもりも、死ぬつもりもないさ。お前もだろう?」
「無論だ。私はディアドラをなんとしても探し出す。そのためにも、なんとしても濡れ衣を晴らさなければならない」
 レヴィンは小さく笑うと、窓の外を見た。
 黄砂の風舞う、イード砂漠。
 その遥か南に、目指す地はある。
 そこへ至るまでに何があるのか。そして、そこで何があるのか。
 神ならぬレヴィンに、それが分かろうはずもなかった。

 シグルド軍がリューベックを進発したのは、その三日後であった。
 イード砂漠を南へ、途中オアシスのあるフィノーラへ立ち寄り――場合によっては攻略し――ヴェルトマー領を抜け、バーハラを目指す。
 その同日。
 シグルド達より遥か南の、イード砂漠において、一つの悲劇が、この時誰に知られるでもなく起きていた。
 レンスター王子キュアン、その妃エスリンの戦死。
 それを行ったのは、死の翼、とまで恐れられるトラキアの竜騎士。
 だが、その親友と妹の悲劇を、シグルドはまだ知らない。
 そしてそれは、混迷の時代への、序曲でもあった。




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