し る べ     
風の道標・第三十話




 フィノーラを制圧したシグルド軍は、そのままイード砂漠西の海岸沿いを南下し、ついにグランベル本国へと入った。
 ここから先は、完全にグランベル王国の勢力下である。
 唯一、シグルド達にとって有利な点は、シグルドはバーハラに入り、国王アズムールに対面することが叶えばよく、そしてその障害となりうるのはすでにフリージ公レプトールしかいない。
 シグルドたちにとっては常に後のない戦いの連続ではあったが、レプトールからしても、おそらくシグルドとアズムール王の対面はなんとしても阻止したいものであり、おそらくバーハラの手前、ヴェルトマーでの決戦になることは、誰でも予想は出来た。
「問題は、ヴェルトマー公アルヴィスか」
 作戦会議の席上でのレヴィンの言葉に、シグルドが頷いた。
「アルヴィス卿に関しては、正直読めない。だが、我々としては、ヴェルトマーが敵か味方か分からない以上、彼らに対して無防備になるわけにはいかないだろう。だとすれば……」
「ヴェルトマーは攻略しなければならない。そして、ヴェルトマーの公主はアルヴィス卿だ……まともに考えれば、いかなる理由があれ、防戦してくるだろうな」
 シグルドが渋い顔をする。
 それは、アルヴィスの異母弟であるアゼル公子が、この軍にいる、ということにも関係があるのだろう。
「救いと言えば、情報ではアルヴィス卿はバーハラを離れていないらしい。ファラフレイム相手に戦わなければならない、という事態にはならないだろう」
 一瞬、その場にいるものが安堵の息を漏らす。
 レヴィンのフォルセティの威力を見ている大半の者にとっては、神魔法の中でも最強の威力を誇ると云われるファラフレイムの威力は推して知るべし、というものであるし、この戦いの初期から――あのヴェルダンの襲撃の時から――シグルドと行動を共にしている者は、ファラフレイムの威力を目の当たりにしている。
 たった一人で、数百の兵を一瞬で焼き尽くす光景を。
「フリージ軍の配置は?」
 レヴィンの言葉に、シグルドは頷いて、テーブルの上に広げた地図の、ヴェルトマーの南に広がる――すなわちシグルドたちの真北――に広がる平原を指し示した。
 この地域は、砂漠の蛮族に対する防壁として機能しており、地図上は地形は平坦に見えるが、実際には緩やかな丘がいくつも存在し、意外に見通しの利かない地形である。グランベル軍はこれらの要所に見張り台を設置しており、それによってイード砂漠より侵攻してくる敵軍の動きを把握し、迎撃するのである。
 しかし今回、それらがシグルドたちの防壁として立ち塞がるのである。
 もっとも、攻め難いのは確かではあるが、砂漠の蛮族とは異なり、シグルド達はこの地域の地形を熟知している。オイフェがいればより確実ではあったが、シグルドも仕官学校時代に、ここで戦闘になった場合の演習は、数多くこなしているのだ。
 この戦乱に突入する前は、ヴェルダン、アグストリアと友好的な関係を築いていたグランベルにとっては、外敵というのはイード砂漠より来るものだったからだ。
「ここに、フリージ軍が展開している。また、ヴェルトマー周辺にはヴェルトマー軍も展開しているらしい」
 シグルド軍が、グランベル軍に対して著しく有利な点が一つだけ存在する。
 それは、天馬騎士の存在である。
 元々グランベルは、飛行戦力を保有するシレジア、トラキア両国と矛を交えたことはない。ゆえに、空に対する警戒が弱い。
 本来、バイゲリッターがその数少ない対空戦力であるのだが、先の戦いにおいてバイゲリッターを統べていたアンドレイは戦死し、バイゲリッターもかなりのダメージを受けている。無論、バイゲリッター以外にも弓の使い手がいないわけではないが、高速で飛行する飛行騎士を捉えられるだけの技量の持ち主など、ほとんどいない。
 ゆえに、空から偵察することによって、シグルド軍は敵軍の位置を正確に把握することが出来るのである。
「まあ、典型的な布陣だな……だが、意外にヴェルトマー軍とフリージ軍の間が空いているな」
 フリージ軍、ヴェルトマー軍単独でも、シグルド軍の全軍を凌ぐ兵力がある。だが、それぞれとでは圧倒的に違う、というほどではない。
 だが、両軍が完全に連携して動いた場合、シグルド軍の倍以上の兵力となる。その数を相手した場合、シグルド軍には勝ち目はない。
「連携していないように見せる罠か、それとも本当に連携していないのか……」
「どっちも考えられるが……後者の方が確率は高い、と思う。アルヴィス卿とレプトール卿の性格……というより相性からだけどね」
「そうであって欲しいな」
 レプトールは、確実に神器トールハンマーを持ってきているだろう。となれば、対抗できるのは同じ神器を持つシグルド、レヴィン、ブリギッドの三人しかいない。だが、レヴィンは対外的なことを考えると、レプトールを倒してしまうことは避けたいのが実情だ。
 それに。
「レプトールは、私がやる。奴には、聞かなければならないことがある」
 シグルドは、まるで誓うようにそう呟いた。

 フリージ軍との戦いは、双方にとってまるで予期もしない形で戦局が動いた。
 戦端を開いた当初、互角に推移していたのだが、太陽が中天を過ぎるころ、その太陽とともに突然火の玉が戦場に降り注いだのである。
 それは、炎の長距離魔法メティオ。放ったのは無論ヴェルトマー軍だ。
 そしてその目標は、ことごとくフリージ軍。
 シグルド達はその真意については判断しかねたが、だが、少なくともヴェルトマーが今この瞬間、援護してくれていることだけは明らかであった。
 となれば、この好機を逃す理由はない。
 シグルドは、一気に全軍に突撃を命じ、また、自らも聖剣を握って戦列に飛び込んだ。
 フリージ軍は、それまで友軍と信じていたヴェルトマー軍に後背を突かれ、さらに正面からシグルド軍の攻撃を受けたため、挟撃される形となり、大混乱に陥り、さらにそこに自分たちの主であるレプトールが、シアルフィ公子シグルドに討たれた、という報せが入り、降伏した。
 シグルドもレヴィンも予想もしなかった形で、フリージとの決着はあっけないほど簡単に終わってしまったのである。
 シグルドはそのまま、随行の騎士と共にヴェルトマーへ入城、ヴェルトマー軍を指揮していたアイーダ将軍と会見に向かった。
 残留の軍は、フリージ軍が陣を敷いていた場所に陣を敷き、その指揮はレヴィンが執っている。
 すでに太陽は地平の彼方に沈み、夜の闇が空を支配しつつあった。
 戦闘が終わったのはもう空が赤くなり始めていたころではあるから、まだそれほど時間は経っていない。
「勝った……はずなんだがな」
 最後の戦いだと思ったフリージ軍との戦いは、拍子抜けするほどあっさりと終わってしまった。
 そのせいなのか、あるいは別の理由からなのか、レヴィンはどうしても『これで戦いが終わる』という風に思えないでいる。
 そしてそう感じている者は、レヴィンだけではないらしい。
 それは、この陣全体を包み込む雰囲気からも明らかだ。
「終わった……んですよね」
 聞き慣れた、そして幾度聞いても厭きない声は、無論彼のもっとも愛する女性のものだ。
「ああ……そのはずだ……そのはずなんだが……」
 振り返って見えた妻のその表情は、今、レヴィンが感じている感覚と同じものを感じていることは明らかだった。
「レヴィン様……」
「大丈夫だ。多分シグルドが、いい報せを持ってくるさ。それまで、お前も休んでいろ」
 シグルドが戻れば、事態は見えてくる。
 それが、レヴィンにとってもフュリーにとっても、そしてシグルドにとっても、よい報せであることは疑いようはない。
 だが。
 そのはずだ、と思い込むことで無理矢理自分を安心させようとしている自分がいることを、レヴィンは自覚していた。

「バーハラに凱旋……か」
「ああ。これで、今までの労苦が報われる……レヴィン、いや、レヴィン王。協力、感謝する」
 シグルドがアイーダ将軍との会見から戻ったのは、夜も遅くなってからであった。
「本心からそう思っているのか?」
 レヴィンの言葉に、シグルドは一瞬押し黙る。
「……そう判断しない材料は、ない」
 確かにその通りだ。
 アイーダ将軍によると、ランゴバルト、レプトールの両卿の力が強く、アルヴィス一人では抗うことが出来なかった、という。
 アルヴィスは元々親衛隊を束ねる立場ゆえに、王子派、反王子派どちらにも属さず中立を保っていたが、イザーク戦争におけるクルト王子の暗殺――これをランゴバルトらがやったのは間違いないとシグルドは思っている――とそれに続く王子派の失脚によって、ランゴバルト、レプトールの勢力を、アルヴィスでは抑え切れなかったのは事実だ。
 実際、六公爵の中で一番若輩――アンドレイは正式に継承を済ませてなかった――のアルヴィスでは、あの二人には対抗できなかったに違いない。
 だが、そこへ来てシグルドが破竹の勢いでランゴバルトを討ち、レプトールと対峙した。
 ドズル家の主力たるグラオリッター、フリージ家の主力たるゲルプリッターはいずれもまだイザークから戻ってない。アルヴィスからすれば、国政を壟断し、そして王子暗殺という大逆を犯した奸臣を排斥する絶好の機会であったのは間違いなく、シグルドらに協力したのは至極当然に思える。
 だが。
 そこにこそ、シグルドが、レヴィンが、そして多くの者が感じている違和感がある。
 あまりにも……そう、あまりにもことが都合よく運びすぎた、という気がするのだ。
 アイーダ将軍によると、アルヴィスはレプトール、ランゴバルトがクルト王子を暗殺したことも承知しているという。
 だが、どこでその事実を掴んだというのか。
 また、もしドズルのグラオリッター、あるいはフリージのゲルプリッター、どちらかだけでもイザークから戻ってきていたら、シグルド軍は勝つことなど出来なかったであろう。
 あるいは、ランゴバルトとレプトールが、それぞれ別々に軍を進めるのではなく、同時にシグルド軍と相対したら、やはり敗れていたのはシグルド達のほうだった。
 だが実際にはそうはならず、ランゴバルトはリューベックでシグルドと、不完全な――それでもシグルド軍とほぼ互角の戦力ではあったが――戦力で相対し、敗死、レプトールはヴェルトマーの突然の攻撃の前に軍列が瓦解し、シグルドのティルフィングの前に散った。
 無論、偶然の要素は少なくない。
 シグルドがティルフィングを持っていたのは偶然であり、これがなければレプトールに勝てたという保証はない、というより勝てなかった。その場合、ブリギッドかレヴィンがレプトールと戦っていただろう。
 それに、シグルドであれブリギッドであれ、レプトールに勝てる、という保障があったわけではない。
 諸々の不安を全部飲み込んで、レヴィンはシグルドに向き直った。
 その、頼りない灯火に照らされたシグルドの表情は、影が多くて判じにくかったが、それでも、自分の意見にすべて納得している様子はない。
 だがあえて、レヴィンはそれを無視して口を開いた。
「で、この後はどうなるんだ?」
「アイーダ将軍によれば、アルヴィス卿はすでに真実をご承知である、と。ゆえに我らは逆賊を討ち果たした英雄としてバーハラに凱旋されよ、ということだ」
「それは聞いた。だが、全軍で、か?」
「アイーダ将軍はそう言っていたがな……」
 シグルドはそこで、しばらく考えるそぶりを見せた。そして彼が言葉を紡ごうとした直前、レヴィンが先に口を開く。
「言っておくが、俺は行くぞ。元々俺がここまで来た理由は、シレジアの内乱に際して、勝手に軍を入れた、その理由と責任を追及するためだからな」
 開きかけた口を、シグルドは数回ぱくぱく、と動かしたが、やがてあきらめたように苦笑した。
「そうだったな……となると、ラケシス王女も同じだな……」
 凱旋式で何が起きるか分からない。
 アルヴィスを疑いたくはないが、獅子の口に飛び込む覚悟が必要だと感じているのは事実だ。
 だから、シグルドは自分と部下だけで行くつもりだったのだ。
「ついでに言うと、だ。いまさらでもあるよな。ここまで来て、最後まで付き合う気のないやつは、この軍にはいない」
 シグルドはなおも困ったように、だがどこか嬉しそうにはにかんだ。
「まあ、実際バーハラまで行くってんなら、全軍で行くのは筋違いではあるだろうからな。少なくとも、他国の軍である天馬騎士やノディオンの騎士は外したほうがいいだろう。代表者はともかく、な」
「そうだな……あまり他国の軍を連れていると、どこの軍だ、と言われるだろうしな」
「特に天馬騎士は目立つからな」
 レヴィンの言葉に、シグルドは今度は、愉快そうに笑った。

「私に……残れ、と!?」
 その突然のレヴィンの言葉に、フュリーは納得できない、と声を荒げたが、レヴィンがそれを手で制した。
「そうだ。お前だけじゃない。天馬騎士は全員ここに残れ。バーハラにシグルドが凱旋するにあたって、本来シレジアの俺たちがいるべきではない。俺は先の内乱に関してグランベルに正式に会見を申し込む必要があるから、行かなければならない。だがそこに、天馬騎士を数百騎も連れていては、戦争をしにきたのかと勘違いされる」
「それは……」
 フュリーはその言葉に、視線を泳がせる。
 確かにその通りなのだ。
 天馬騎士はシレジアの象徴ともいえる存在であり、その知名度は高い。そして、今ここにいる天馬騎士は、現在シレジアに存在する全天馬騎士の大半だ。これでは、戦争に来たと思われても不思議ではない。
「それに、この戦いはあくまでグランベルの戦いなんだ。そこに俺たちシレジアの戦力が必要以上に加担してた、という印象を、バーハラの人々にもたれては、グランベルがシレジアの内乱に加担したのと同じ印象をもたれてしまう。分かるな?」
「…………」
「ゆえに、シレジア国王レヴィンとして、天馬騎士団長フュリーに命じる。俺がバーハラから戻るまで、天馬騎士を束ねてこの地で待機せよ。また、何かしら不測の事態が生じた場合は、即座に全軍をまとめてシレジアに帰還せよ」
 フュリーはなおも無言で、視線は下にずらしたまま、黙って聞いている。
「……大丈夫だ。何もありはしない」
「……分かり……ました……」
 フュリーは下を向いたまま、小さくうなずいた。それを見て、レヴィンは安堵の息を漏らすが、それも次のフュリーの言葉を聴くまでであった。
「では、フェスティに天馬騎士を預けます。私は、バーハラまで行きます」
「って、フュリー、おい!?」
 言うが早いか、フュリーは天幕を出て行こうとする。おそらく、フェスティ――臨時の天馬騎士団の副団長――のところへ行くのだろうが、慌ててレヴィンはそのフュリーの肩を掴んで引き止める。
「嫌です」
「え?」
「ずっと昔からの、願いが、やっと叶ったのに、なのに、離れ離れなんて、絶対に、嫌、です」
「フュリー、お前……」
「だから」
 フュリーはそこで振り返った。その瞳には、涙があふれている。
「私はレヴィン様と一緒にいます。そして絶対、レヴィン様と共に、シレジアに……」
 その時になって、レヴィンは、フュリーが何よりも自分と離れてしまうことを恐れていることに気がついた。
 かつて、誰にも何も言わずにシレジアから姿を消したレヴィン。
 その時のフュリーの気持ちは、どのようなものだったのか。
 そして今、レヴィンは再び、フュリーと離れようとしているのだ。
「……そうだったな……すまない、フュリー」
 レヴィンは、フュリーを抱き寄せた。フュリーは逆らわず、レヴィンの胸に収まると、そのまま顔をうずめる。
「一緒に行こう。だが、絶対にシレジアに帰るんだ。いいな。約束だ」
「……はい、レヴィン様……」
 レヴィンは、そのままフュリーを抱きしめ、フュリーもまた、レヴィンを強く抱きしめた。
 初夏にさしかかっている夜の風が、天幕の外でわずかに音を響かせる。
 未来への不安は決してなくなることはなかったが、それでも二人は、確かな想いと共に、お互いを強く感じていた。

 翌朝。
 フュリーはフェスティに天馬騎士団はここに駐屯、ただし情勢によっては即座にシレジアに帰るように命じ、指揮権を彼女に委譲した。
 そしてシレジア王と王妃は、シグルドらと共に、アイーダ将軍の軍に先導されてバーハラへと向かう。
 それが悲劇への道のりであることを、この時誰もが心のどこかで予感しながら、それでも歩みを止められはしなかった。




第二十九話  第三十一話

目次へ