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シレジア王国についたシグルド軍は、まず追手を警戒したが、それはありえなかった。 オーガヒルの略奪・破壊行為によって、めぼしい港は船ごと破壊されており、使い物にならず、またこれから季節が冬に向かうところだったのだ。 シレジアの冬、といえば大陸中で有名である。曰く、『冬にシレジアで戦うものは、等しくその愚かさを思い知るであろう。それは、神々とて例外にあらず』と。 この場合の神々、とは神器を所有する聖戦士達を指すのだが、どちらにしても冬のシレジアで戦おう、というのが無謀である、ということを表している。 なぜ、かの風使いセティが、いくら自分の故郷だからといって、このような厳寒の地に、自分の国を作ったか、定かではない。また、その環境の厳しさゆえに、グランベルとの国交もあまり盛んではない。だからこそ、アイラ達も最初はこの国に身を隠そうかと思ったのだが、当時、シレジアは内乱の噂があり、アイラはそれに巻き込まれるのを避けて、ヴェルダンまで行ったのだ。 結果として、それが正しかったのかは定かではない。ヴェルダンに行っても結局戦いに巻き込まれ(自分から傭兵となったのだが)、気がつくと仇敵であるはずのグランベルのシグルドと一緒に、グランベルの反逆者、としてグランベルに追われることとなっていた。 別段、今更グランベルに追われることはおかしいとは思わないが、シグルドがアイラやシャナンのおかげで追われることになっている、というのは一方では真実であるだけに、それがやりきれない想いとなって、呪縛のようにアイラを縛っていた。 シャナンは、というと、彼はさらに苦しんでいた。外見上は、普段と変わらないように振る舞っている。だが、ディアドラの失踪、さらに今回のシグルドの事実上のグランベル追放の一因が自分にあることくらい、シャナンはもう分かるようになっている。それは少年の心に、深い傷を残すことになるのではないだろうか。アイラはそれが心配だった。 |
アイラやシャナンの思惑とは関係なく、他の者達にとっても事態は深刻ではあった。シグルドの軍には、多くの公子、王子が参加している。特に、ドズル公子レックスとフリージ公女ティルテュの立場は複雑であった。彼らの父親は、シグルドの父であるバイロン卿の政敵であり、また、今回シグルド達を捕縛すべく軍を率いてきたのもまた、彼らの父親だったのだ。 グランベルの貴族は、他にはユングヴィの公女エーディンと、今回見つかったブリギッド、ヴェルトマーのアゼルがいる。 エーディン、ブリギッドについては、父親であるユングヴィ公爵たるリング卿が、バイロン卿と共にクルト王子を暗殺した、とされていて、息子であるアンドレイに殺されたらしい。 アゼルの兄アルヴィスは未だに沈黙を守っている、という話である。おそらく、ランゴバルト、レプトールの勢力が短期間で大きくなりすぎて、動きが取れない、というのあたりであろう。 シレジアのラーナ王妃がシグルド軍に貸してくれた城は、シレジアの王都、シレジアの北西にあるセイレーン城で、海が近い。といってもこの季節は、見事なまでに海も凍りついてしまっている。 大半の者にとっては、馴れない北国であったが、少なくともグランベル軍に捕縛され、処刑されるよりは遥かにマシなわけで、とりあえずみんな落ち着くことになった。シグルドは、ここからバーハラのアズムール王に自らの身の潔白を証明する手紙を書き続けるつもりらしい。 アイラとシャナンにしてみても、今の状況はいいとは言いがたいが、少なくとも悪くはなっていなかった。たとえシグルドが守ってくれているとしても、実際いつグランベルに引き渡されるか、という不安は心のどこかに感じてはいたのだ。だが、現在の状況ではそれはありえない。無論、シグルドがそんなことをするはずもないが、時として、政治というものが、人々の思惑を大きく外れることがあるというのは、アイラにも分かっていた。 しかし、いずれにしても、今の状況では、すぐに事態を変えることができないのは同じである。 そんなわけで、大半の者にとっては予想外に平穏が訪れた。シレジアの寒さは決して楽とは言いがたいが、少なくとも剣光に気をつけて過ごす必要はなくなっているのだ。 そして、その様な時期になると、『平和』を実感したくなる。エーディン公女と、騎士ミデェールの結婚式の話題が上がってきたのは、そんな時期だった。 もともと、エーディンとミデェールは、婚約はしていたのだ。挙式は、ユングヴィに帰還してから、と思っていたのだろう。だが、今は反逆者であり、ユングヴィに戻れるあてなど、ない。そういうわけで、ならばここで結婚しよう、という話になったのだ。結婚式は一月後。この日は、二人が初めて出会った日だと言う。 |
シャナンを探して城内を歩いてたアイラが、レックスを見つけたのは城の中庭だった。このセイレーン城は、中庭が多く、この中庭も、そんなたくさんあるうちの一つである。城の外れにあるためか、あまり人など来ることはない。それでも、小さな噴水などが設置されている。地下水をくみ上げているらしく、冬も凍りつくことはない。飲み水としても利用されているものの一つだ。 「どうした? こんなところで」 別にそれほど用があってシャナンを探していたわけではない。ただ、なんとなくレックスの様子が淋しそうだったから声をかけてしまっていた。 加えて、ここ最近なぜか落ち着かない気持ちだったのもある。シャナンが、ほとんどセリスの部屋に行ってしまっていて、会わない日も珍しくないからだ、とアイラは思っていた。 「ん? ああ、アイラか。なんか用か?」 レックスの返事はそっけない。どこか、声にも張りがないように思える。 その時、アイラはアグストリアでシグルド捕縛の軍の指揮を執っていたうちの一人が、レックスの父親であることを思い出した。 「父親のことか?」 それを聞くと、レックスはゆっくりと振り返った。 「ああ。親父も昔はあんなじゃなかったんだ。ちょっと欲の皮突っ張っていたけどな。それがなんで……」 泣いているようにも見える。アイラは、男性が泣いているのは初めて見る。 「よくは分からないが……お前がそう思うのであれば、自分の父を信じてやればどうだ? あるいは、思い直してくれるかもしれないだろう」 するとレックスは意外そうな顔をアイラに向けた。 「今までひたすら無視してくれていたのに、なんか今日は優しいな。やっと俺の気持ちに気付いてもらえたのか?」 「何のことだ?」 レックスはアイラの言葉を無視して、アイラの肩に手を回してきた。そのままやや強引に自分の方に引き寄せる。 「今度エーディンとミデェールも結婚するんだ。俺達も一緒に……」 レックスの言葉はそこで遮られた。代わりに響いたのは、平手打ちの音。 「な、何をいきなり言い出すのだ!!」 レックスははたかれた頬を押さえながらも、なおアイラを正面から見据えていた。 「……だが、アイラだっていつまでも結婚しないつもりか? 俺はお前と結婚したい、と思っている」 アイラは一瞬たじろいだ。イザークにいたころから、結婚の話はいくつもあったが、これほど正面から、はっきりと言われたことはない。まして、イザークを出てからは、結婚、というのはひどく現実離れしたようなものに思われていたのだ。 「どうなんだ? それとも、一生結婚しないつもりか?」 少し前であれば、その質問に、すぐ返事を出すことができたように思える。だが、今その返事をするのがなぜか躊躇われた。 「わ、私は……」 何かを言おうとするが、声に、言葉にならない。言うべき事は分かっている気がするのに、なぜかそれは口から出てこなかった。 レックスは、アイラの返事をまたずに、少しずつ近付いてくる。アイラは、少しずつ後ろに下がっていたが、その自覚はなかった。だから、背中が壁にぶつかった時、ひどく恐怖を感じた。 「ち、近付くな。斬るぞ!!」 そう言って剣の柄に手をかける。だが、その手も震えていた。 「やってみろよ。お前になら構わない」 レックスは言葉どおり、構わずに近づいてくる。アイラは、これまでのどんな時よりも恐怖していた。 「や、やめてくれ。私は……」 「ホリンが好き、なんだろう?」 アイラは驚いたようにレックスの顔を見た。レックスは別の方を見て、なんとも複雑な顔をしている。 「ちくしょう。俺が先に声をかけたのに」 そう言ってから、アイラの方に向き直った。 「シャナンのことが大事だ、というのは分かるがな、もう少し自分の事だって考えてやってもいいと思うぞ。シャナンだっていつまでも子供じゃないんだからな」 アイラはまだ呆然としていた。レックスが言った言葉。それは自分にとっての真実であることを、直感で悟っていたのだ。だが、傭兵であるホリンは、シレジアに来ていないのではないのか。てっきり、そう思っていたのだが。 「なんだか知らんが、ホリンはまだこの軍にいるぜ。シャナンから聞いていなかったのか?」 レックスは意外そうに言う。そうだったのか。ならば教えてくれればいいのに、と思ったが、考えてみたら、ホリンがアイラに行動を申告する義理はないのである。 「私は……」 アイラが自失している間に、レックスは中庭を出ようとしていた。そして、思い出したように立ち止まる。 「アイラ、ホリンに振られたら俺のところに来いよ。いいな。俺は公子なんだからな。将来は保証できるぜ」 レックスはそれだけ言うと、中庭を出ていった。廊下に出たところで、自嘲気味に笑う。 「身分を自慢して、女を口説くようになったらお終いだよな……」 アイラは、まだ呆然と立ちすくんでいたが、やがて、意を決したように走り出した。 |
「ホリン!」 呼びかけられて、ホリンは立ち止まった。もう傷はすっかりよくなっているらしく、動きにも不自然さはない。 「まだ従軍していたのか。てっきり、アグストリアに残ったと思っていたのだが……」 シレジアに向かう前に、シグルドは傭兵達に最後の給料を渡して、それで契約が切れたことを告げた。あのような事態になったら、給金を踏み倒してもよさそうなものだが、そうしないのが、シグルドという人物なのだろう。傭兵達はシグルドの律義さに感謝をしつつも、みな軍を去っていた。ホリンも当然、その時に軍を去っていったと思っていた。あまりにもあわただしかったため、それを確認している余裕すらなかったのだ。 「俺は、シグルド公子の剣に何かを見つけたから同行しているんだ。最初にそう言っただろう」 確かに、そういう事を言っていたという記憶はある。だが、それにしてもあまりにも分の悪い仕事ではないのか。 「変わった男だな、お前は」 「そうかも知れん。それに、シャナンに剣を教える約束もしている。ここに留まる理由としては、それで十分だろう」 ホリンはそれだけ答えると、また歩き始めた。 「待っ……」 呼び止めかけて、アイラはなぜか言葉が出なかった。応えてもらえないのではないか、という恐怖が、言葉を発するのを押し留めたのである。 |
実はホリンは、シレジアに来てから、ほとんど毎日シャナンに剣の稽古をつけていた。 アイラが、ホリンが未だに軍にいるのに気付かなかったのは、シャナンがほとんどアイラの部屋に行かず、シグルドの部屋で寝泊まりしていたからである。シャナンは、歩き始めたばかりのセリスの相手をする一方で、時間さえあればホリンに剣の稽古をつけてもらっていた。ホリンも、ただがむしゃらに強さを求めるのであれば、教えるつもりはなかったが、シャナンの想いは、そんな上辺だけのものではない、ということを感じ取り、本気で付き合っていたのだ。 シャナンの剣才は驚くべきものがあった。 まだ、八歳という幼年のため、力は当然ない。使っている剣も、練習用の剣の中でも、もっとも軽く作られているものである。 しかし、剣の速さ、正確さ、そして戦いの中で相手の動きを読む力は、すでにその卓越した才能の片鱗を見せつつあった。 ホリンもまた、自分が若いころに、剣に関しては天才的である、と言われたことがあったが、少なくともシャナンと同じ年にこれだけの力はなかったと思う。 この才能がこのまま伸びていったとしたらどうなるのか、もはや想像すらできない。まして、シャナンは神剣バルムンクの継承者でもある。シャナンが成長し、いずれバルムンクをその手にした時、一体どれほどの力となるのか。それはもはや人間の域を越えているのではないか、とすら思えてくる。 「やっぱりホリンは強いね。全然、撃ち込む隙がない」 稽古が終わった後で、シャナンは平然とそう言ってくる。隙がない、ということを既に見抜いているその力は、間違いなく本物だ。下手をすると、体力以外なら、既にノイッシュやアレク達と同等になっているのではないだろうか。あらためてホリンは、イザーク王家の、神器の継承者の力、というものを再認識した。 「お前が生まれる前から剣を握っているからな。お前が同じ年になるころには、俺など遥かに追い越しているだろうよ」 それは、世辞ではない。また、シャナンはそんな言葉くらいで自惚れるような性格でもなかった。だが、次の言葉は予測できなかった。 「ホリン、アイラと結婚しないの?」 黙々と剣を手入れしていたホリンは、危うくそれを取り落としそうになる。 「いきなりだな、シャナン」 平常心を装っているが、内心ではかなり驚いていた。ただ幸い、シャナンは剣以外は年相応の子供であり、そんなホリンの内心までは見抜くことはできない。 「う〜ん。アイラ、ホリンのこと好きみたいだから、ホリンがよければ、って思ったんだけど」 そう言いながら、もう元気よく立ち上がる。 「それじゃ、そろそろセリスが昼寝から起きる時間だから。また明日ね」 シャナンはそれだけ言い残すと、足早に鍛練場を出ていった。ホリンは半ば呆然としていたが、やがて気を取り直して再び剣の手入れを始める。 「俺は故国を捨てた身だ。その俺が、彼女と一緒になるわけにはいかない……」 ホリンはそのまま、手入れを続けた。だから、シャナンがまっすぐシグルドの部屋に行かず、途中でエスリンの部屋に寄ったことなど、知る由もなかった。 |
一月後。 明日はエーディンとミデェールの結婚式、とあって城内は賑わっていた。女性達は、明日着るドレスなどを選んでいる。ノイッシュ、アレクら騎士たちも、会場の設営を手伝わされていた。 アイラは、料理の手伝いなどするつもりもなかったから、自室に引きこもっていた。下手に外に出ると、エスリンやラケシスに無理矢理ドレスを着させられそうになるからである。 さすがに、部屋に閉じこもっていたら大丈夫だろう、と思っていたのだが、伏兵というのはいるものである。 ノックの音もそこそこに、部屋に入って来たのはシャナンだった。一瞬、アイラはエスリン達が来たのかと思い身構えたが、その緊張をすぐに解く。 「ちょっとアイラ、来てくれない?」 シャナンは言うが早いか、すでにアイラの手を引っ張っている。 あまり部屋から出たくないのだが、と思ったが、考えてみたらシャナンとまともに話すのすら、久しぶりである。最近、剣もかなり上達したと聞くので、それも見せてもらいたい、と思い、外に出た。だが、シャナンが向かったのは鍛練場ではなかった。 「シャ、シャナン、ここは……」 「見て分からない?」 シャナンはニコニコしながらアイラをその部屋へ引きずり込んだ。そこは、エスリン達がドレスを選んでいる部屋だったのだ。 「ま、待て。私はドレスなんて……」 精一杯抵抗しようとするが、既に遅かった。気がついたらラケシスに腕を掴まれている。無理矢理振りほどこうとしたが、全く動かなかった。 「はい、ここまで来たら観念してね」 ラケシスは、さして力を入れたふうでもないのに、全力で抵抗しようとするアイラを部屋に引きずっていく。そして、そのまま大鏡の前にアイラを立たせた。 「それじゃ、動かないで下さいね」 そういったのは、軍に属するものではなく、城の侍女にも見えなかった。シレジア人らしい緑色の髪の、大柄な中年の女性である。彼女は、素早くアイラの肩幅などを計ってしまうと、にっこりとエスリン達の方を見て笑った。 「大丈夫、これならちょっと直すだけでいいから、明朝までにはできるさね。それじゃ、また来ますね」 彼女はそう言って部屋を出て行く。アイラは何が起きたのか、さっぱり分からなかった。 「い、一体何なんだ。私はドレスなど……」 言いかけて言葉に詰まる。エスリンが凄まじい迫力でアイラを睨んでいたのだ。 「だ〜め!! 明日の朝、絶対にこの部屋に来ること!! 来なかったら私達みんなで押しかけるわよ!!」 その言葉に、部屋にいた女性がみんな賛同する。アイラは、抵抗するのが無駄であることを悟った。だが、これだけで終わらないことに、アイラはまだ気付いていなかった。 |
翌日。エーディンとミデェールの結婚式の日である。まるでそれを祝福するように、空は雲一つない快晴であった。 外は雪に覆われた景色であるが、その白い大地が陽光を受けて美しく輝き、宝石のようにすら見える。 そして、アイラは布団に包まっていた。別に寒いわけではなく、ただ、結婚式に出席などしたくない、というだけだった。 自分にドレスが似合うはずはない。恥をかくだけだ。いっそ仮病で休ませてもらおうか、と考えた時、シャナンが入って来た。だが、今度はアイラはシャナンも警戒している。そのため、ベッドから出ようとしなかった。 「今さら無駄な抵抗してもね……」 シャナンの声にもう一人の足音が重なった。かと思うとあっさりと布団がはがされる。そこにいるのはラケシスであった。 「はい、諦めましょうね。いいじゃないの。あなたの相手はちゃんと応えてくれそうなんだから」 その言葉に、シャナンは慌てて飛びついてラケシスの口を手で塞ぐ。ラケシス自身も「あ」と言って口を手で塞いでいた。しかし、アイラには何のことか分からない。無理に抵抗しようとしてみたが、結局引きずり起こされてしまった。ラケシスの力は、見た目に反して、アイラより遥かに強いのだ。 「あ、来た来た。やっぱりね〜。シャナンだけじゃ荷が重いって思ってね」 エスリンはニコニコしながらアイラを招き寄せる。ここまで来たら、アイラも観念していた。その様子を見て、エスリンは服を運んでくる。 もう好きにしてくれ、と思っていたアイラの態度が豹変したのはその服を見た時だった。いくらアイラがこのようなことに疎くても、その服がなんなのかはすぐに分かる。それは、本来花嫁が着るべきもののはずだ。 「ちょ、ちょっとまって。それを今日着るのは、エーディンのはずじゃ?」 アイラはすでに逃げ腰になっている。が、またもやラケシスに両肩を掴まれて身動きが取れない。 「そうよ。エーディンは隣の部屋でこれと同じようなもの着ているわ。でもね、今日はあなたも着るのよ」 アイラは、何を言われたのか、すぐには理解できなかった。一瞬、呆然としていたが、すぐ回復すると、慌ててラケシスを振りほどこうとする。 「わ、私は誰とも結婚なんてしない!!」 「ホリンさんでも?」 アイラは一瞬言葉を詰まらせた。何も言葉が出ない。以前であれば、「そうだ」ということもできたが、それを言うことはできなかった。どこかで、それを望んでいた自分。それをいきなり認識させられた。そんな感じがした。 「で、でもホリンが私と結婚したいかは……」 その声は、シグルド軍最強の女剣士と呼ばれる者の声ではなく、一人の、弱々しい女性の声だった。 「大丈夫、ホリンさんも今キュアン達に引っ張られているころだから。ホリンさんの気持ちは、シャナンから大体聞いているしね」 アイラはその言葉で、今回の首謀者がシャナンであることを直感的に察した。だが、その時シャナンはすでに部屋から逃げ出していた。 |
あまり落ち着かない。普段着ることのないような服を着ているからだけでないことは、分かっていた。 まさか、このような事態になるとは、さすがに想像もできなかった。イザーク王国を出てきたのは、まだほんの数年前である。その時、シレジアで、このような形で結婚式をやるとは、思いもしなかった。 扉がノックされたのは、どのくらい時間が経ってからか、分からなかった。ただ、その扉の向こう側にいる人物については、誰だか分かっていた。このような場所で、無視するわけにもいかない。 「開いている」 アイラは短くそれだけ言った。入って来たのは、思った通りホリンだった。ホリンの着ている服は、おそらくシグルドかキュアン辺りの正装を直したものだろう。グランベルの紋章は外してあるが、非常に新鮮に見えた。 「よく、似合っているな」 「世辞はいい」 アイラはぶっきらぼうにそれだけ答えた。「似合っている」といわれて嬉しい、と思う気持ちがあるのだが、そう答えてしまうのが、アイラである。 アイラをしばらく見ていたホリンは、やがて意を決したように、懐から、何かを取り出した。小さな箱に入った、それは指輪だった。ただ、かなり古いものである。そして、その指輪に刻まれた紋章に、アイラは見覚えがあった。 「これは……イザーク、ソファラの紋章……なぜお前がこれを?!」 それは間違いなく、イザーク王国がソファラを公爵家とした時に、ソファラ家の紋章として定められたもの。元をたどれば、ソファラの族長のシンボルたる紋章である。 「俺の母の形見だ。母がかつて、父に送られたものらしい。俺が国を出る時に、父がこれだけは持っていけ、と預けてくれた」 その指輪は、明らかにソファラ家の、それも公家に連なるものしか持つことが許されないはずのものである。 「ホリンお前は……」 「俺の故郷はイザークだ。イザーク王国ソファラ家。それが俺の本当の故郷。だが、俺は十年以上前に故郷を出た。故郷を捨てたんだ。だから……今お前を娶ることが、本当に許されるのか、俺自身まだわからない」 ホリンの出身がイザークの貴族だった。これは意外なことに思えたが、だとすれば自分と互角といえるほどの剣技を持つことも、説明がつく。イザーク人らしからぬ髪の毛だから、今まで気付きもしなかったのだが。 その時、アイラの記憶に何かがひっかかった。その向こうに見えたイメージが、今目の前にいる男と重なった時、アイラはホリンを思い出した。今ではない。かつて、まだイザークが平和であった時期。その時に自分はホリンと会っていたはずだ。 「ホリン、お前、私とイザークで会っていないか? いや、会っているはずだ。まだ平和だったイザークで……」 ホリンは少し驚いたようにアイラを見て、それから微笑んだ。アイラは初めて、ホリンが微笑むのを見た。 「思い出してくれたのか。確かに会っている。思えばその時から、俺はお前に心奪われていたのかも知れん……。再会した時から、お前を守る。それだけを考えていたのだからな……」 そう言ってから、ホリンは指輪を箱から取り出した。そして、アイラに差し出す。 「受け取ってくれ。これは、こういう時のために、父が預けてくれたものだと思う」 するとアイラは、その手をホリンの方に押し戻した。ホリンはびっくりしたようにアイラを見ている。その表情もまた、アイラが初めて見るものだった。 「ふふ。それはこの後だろう。シャナンにはめられた気はするが、私はこれでも、とっても嬉しいと思っているのだぞ」 ホリンは、わかった、というように指輪を再び懐にしまい込んだ。 「だが、私はイザークの復興を果たさなければならない。付き合ってくれるのか?」 アイラはそう聞いたが、もうその答えは分かっていた。 「もちろんだ。俺は、お前を守ると決めている。それは、ひいてはイザークを再びよみがえらせることだ。イザークは、俺にとっても故郷だ。そのために戦うことを躊躇う理由は、俺にはない」 「……そうか。ならば、私達の道は、一つになれるのだな」 そう言って笑ったアイラを、ホリンは誰よりも美しいと感じていた。 |
結婚式は盛大なものとなった。ユングヴィの公女エーディン、そしてイザークの王女アイラの結婚式であるのだから当然であろう。本来なら、一組だけでも国を挙げて祝うほどの組み合わせである。だが、反逆者としての烙印を押されている彼らに、そのようなことができようはずもない。 それでも、彼らは十分に幸せそうに見えた。ただ、その式場で、ホリンとアイラの宣誓のとき、会場にいたもの全てが、驚くことになる。 そして後に、レックス公子は親友のアゼルに、こう洩らした。 「だったら初めから名乗っていろよ。まるで俺が道化じゃないか」 |
グラン暦七五年初冬。ユングヴィ公女エーディンは、ユングヴィの騎士ミデェールと、イザークの王妹アイラは、イザーク王国ソファラの公子ホリンと結婚した。冬の寒き時にも関わらず、セイレーン城は、人々の明るい笑い声で満たされ、未来への期待を感じさせてくれる。しかし、時代は彼らをさらに過酷な運命へと導くのであった。 |