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シグルド達は、シレジア王国の冬の厳しさ、というのは最初の一月で十分体験したつもりでいたが、しかしそれはまだ、シレジアの冬の始まりに過ぎなかったのだ。 さらに三ヶ月。本格的な冬に入ったシレジアは、シグルド軍の全員――シレジア出身者であるレヴィン王子とフュリー達天馬騎士を除いた――の想像を超えていた。今年はあまり雪が降らない、などとレヴィン達が話していた翌日から数日間、雪が降り続けたのだ。 シグルド達のいるセイレーン城にも、もちろん城下町というものがある。その街の建物で、ただ一つとして一階建てはないのだ。最低でも二階、あるいは三階はある。しかも、すべての家々が、石材か、または強固な木材で作られていて、どの家もちょっとした砦ぐらいの強度はある。その理由を、シグルド達は思い知った。 一階が全部雪に埋もれてしまうのである。だから、頑丈に作っていないと、雪の重みで潰れてしまうのだ。来た時は、随分と高い家々が並ぶ町並みだと思ったが、今見るとごく普通の町並みになっている。いや、普通ではないだろう。なぜなら文字どおり白一色なのだ。 「すごいな。イザークでもこれほどの雪は降らない」 城の自室のバルコニーから街を見下ろしたアイラは、半ば感心したように言った。イザークも、シレジアと同じくらい北にあるため、当然冬はかなりの雪が降る。だが、それでもこれほどではない。少なくとも、街が埋もれてしまうほどの雪が降ることはない。『雪の女神に祝福された大地』とは、決して誇張ではなかったのだ。 「あ〜、駄目じゃないか、アイラ。こんな寒いところにいたら。お腹の子供が凍え死んじゃうよ」 シャナンは部屋に来るなりそういって、アイラを部屋の中に引きずり戻す。セイレーン城は――というよりシレジアの城、都市部の家々は――地下水をくみ上げて家の壁の中を通している。もちろん飲み水としても利用しているが、同時に暖房効果もあるのだ。 「シャナン……そんなに寝てばかりだと、私の方がふやけてしまう。本音を言えば、少しは……」 「ダメ!! 剣の稽古なんてやって、もし怪我したらどうするの?」 アイラが剣の稽古で怪我などしたことはいままでなかったのだが、そういっても今のシャナンには通用しないだろう。 アイラは、ホリンと結婚してしばらくして懐妊した。 正直、自分が子供を産むこと、母になることなど、全く考えていなかったのだが、現実として、自分の中に新しい命が宿っている。 妊娠と言うことに対して、不安がないわけではないのだが、幸い、ラーナ王妃が、信頼のおける産婆を遣わしてくれていたし、なにより、同時期に結婚したエーディンが少し早く懐妊していたことが、アイラには心強かった。やはり、一人だったら不安だっただろう。 アイラはそのままずるずると引きずられて、ベッドに座らされた。そして、シャナンは消えかかった暖炉を火かき棒で突ついて、火の勢いを強くする。ややあって、赤い炎がぱっと付いた。なんとなく、部屋の温度が上がったようにも思える。 「とにかくおとなしくしてるんだよ」 シャナンはそれだけ言うと再び部屋を出ていった。確か今日はレヴィン王子と街に行くと言っていたから、多分それだろう。しかしまだ生まれるまで半年はあるというのに、シャナンはずっと自分をこんな風に扱うつもりだろうか、と思うとちょっとうんざりした。 ホリンは今はいない。今日は朝早くから街に行くといっていた。何か用事があるらしかったが、聞いても教えてくれなかった。帰ってきたらもう一度問い詰めよう、と考えてからアイラは寝台に横になる。眠くもないし、疲れてもいないはずだが、部屋の温度が上がったためだろうか。急に眠くなって、アイラは眠りに落ちた。 |
「そんなに雪が珍しいのか? シャナン」 レヴィンが、雪ではしゃぐシャナンに、半ば感心したように言った。 「雪は珍しくないよ。イザークでもよく降っていたし。でも、こんなに積もるのなんて見たことなかったもの」 そういって雪の上を走る。もっとも、走るといっても実際には雪に足が取られるので、まともに走ることなど出来ない。 「けど、大変なんだぞ、この雪のおかげで」 レヴィンはあきれたように言ったが、シャナンには聞こえていなかったようだ。この辺、シャナンも年相応の子供である。しかしその一方で、すでに並みの騎士級の剣技をすでに持っている。当人はまだ八歳の子供だというのに。しかし自分も、同じ位の年に、風使いとしての実力は、すでに魔法師団の一員に匹敵する、といわれていた。継承者、というのはやはり特別なのかもしれない。 「レヴィン!!」 考え事は、シャナンが呼ぶ声で中断された。シャナンは角から顔だけ覗かせて道の奥を覗いている。あまり、一国の王子のやることではない。 「どうした、シャナン」 そういいながら、結局レヴィンも同じような格好で道を覗き込む。そこにいたのはホリンと、見たことのない女戦士だった。この国の人間ではない。というより、おそらくイザークの人間だろう。鮮やかのほどの黒髪は、イザーク人特有のものだ。ホリンの金髪は極めて稀な例外である。 「ふうん。あんたがまさかシグルド軍にいるとはねえ。負ける戦はしないのが主義じゃなかったのかい?」 女の声だ。まるで、舌なめずりするような、という表現がぴったりのような声だった。 「別にそんなつもりはない。俺が属したところがたまたま負けなかっただけだ。お前こそなぜこの国にいる。ここは、お前らのようなハイエナのたかるようなものなど、ありはしないぞ」 ホリンの声には、わずかだが嫌悪が感じられる。シャナンとレヴィンは、その時になって、女以外に何人かの傭兵風の男達がいるのに気が付いた。女も、アイラが以前使っていたような大剣を持っている。 「それはどうかねえ。ま、あんたと戦うかどうかは知らないけどね」 女はそれだけ言うと、男達と共に去っていった。シャナンとレヴィンはその雰囲気に呑まれかけていたが、先に解放されたのはシャナンだった。 「ホリン、今の人、だれ?」 ホリンはその時になってシャナンがいるのに気が付いたようだ。驚いてシャナンを見て、それからレヴィンにも気付く。 「……今のは昔の知り合いだ。『地獄のレイミア』と言えば、レヴィン王子は聞いたことぐらいはあるだろう」 その名は、確かにレヴィンも聞いたことがあった。剣の腕もさることながら、レイミア――彼女の率いる傭兵が全部と言う話だが――の名前は、その残虐性で知られている。たとえ女子供にも容赦することがないのだ。彼らに皆殺しにされたという村は枚挙に暇がない。無論、表向きは村人が武器を持って抵抗した、とあるし、そういう事実も報告はされている。だが、おそらくその行為に駆り立てるように仕向けたのは彼らだろう。 「大方叔父上が呼んだのかもしれないな。なにしろ、叔父上は今半ば公然と兵を集めているからな」 シレジアの前王の弟達が反乱を起こそうとしている、というのはもはや隠しようのな事実としてシレジア全土に広まっていた。ただ、その「いつか」が分かっていないだけである。 シレジア風にいうならば、『冬の雲は、雪を降らす』というのと同じものだ。ホリンやシャナンは詳しくは知らないが、天馬騎士団も王妃派、王弟派に分裂しているらしい。 「まぁ明日何か起きるということもないだろう。さて、保護者がいるから俺は一人で失礼するぜ。ホリン、シャナンは任せた」 レヴィンは言うが早いかあっという間に去っていった。あるいは、もしかしたらシャナンが一緒にいればあまり遠くになど行かないだろう、というフュリー辺りの目論見があったのかもしれないが、それはホリンやシャナンの知るところではない。 「相変わらずな王子だな。だが、どこかマリクル王子に似ている……」 その言葉に、シャナンは驚いて顔を起こした。 「ホリン、お父さんのこと知っているの?」 考えてみれば当然だ。ホリンがソファラ領主の息子であった以上、面識があってもなんら不思議ではない。 「ああ。一度だけ手合わせを願ったことがある。一瞬で負けたがね」 ホリンは苦笑しながら言う。ふと、シャナンを見た。あの素質は、間違いなくこの少年にも継がれている。あるいは、それ以上の力として。正直、今でもすでに油断して戦ったら打ち込まれそうになることがある。おそらく、体つきが大人のそれと同じくらいになったときには、剣術ではこのユグドラルで誰も敵わないのではないか、とすら思えてくる。 だが。 剣技が優れていることと、戦場で生き残れるかどうかは、また別問題である。戦場では強いものが生き残るとは限らない。生き残ろうとする意志の強いものが生き残るのだ。 そして、人を殺して自分が生き延びる、ということ。それは、人を一度も切ったことがないシャナンには、分からないだろう。しかし、それをシャナンに教えることは出来ない。こればっかりは、自分で分かってもらうしかないのだ。 「どうしたの、ホリン。難しい顔して」 気が付いたら、シャナンが不思議そうな顔で見上げている。一瞬、ホリンは自分が考えすぎていることに気が付いた。シャナンはまだ八歳だ。自分が八歳のときのことを考えると、まだ十分過ぎる時間がある。 「なんでもない。俺は城に戻るが、お前はどうする?」 するとシャナンは一瞬考えこんでみせたが、すぐ顔を上げる。 「うん、帰るよ。で、また剣の稽古つけて。今日こそホリンから一本取るんだから。あれ? でも用事は?」 シャナンはホリンが今日用事がある、といって朝早くから出かけていたことを思い出していた。 「ああ。もうすんだ。あの……さっきの傭兵に会いに行ったんだ。というか……正しくは噂を聞いたので確認しただけだがな」 「噂?」 「なんでもない。シャナンは気にするな。それより戻ろう。雲行きが怪しい」 いわれてシャナンも頭上を見上げる。いつのまにか、雲が重く垂れ込めていた。普通なら雨、というところだが、シレジアでこの季節に雨は降らない。必ず雪である。 「うわ、ホントだ。早く帰ろう」 言うが早いかシャナンは城へと走っていく。やや遅れてホリンが続いた。 (レイミアが呼ばれた……いや、レイミアが戦乱の匂いを嗅ぎ付けてここへ来たのか? どちらにせよ、しばらくは油断できないな、これは……) |
ホリンの不安をよそに、シレジアでの暮らしは不思議なほど平穏に過ぎていった。 無論、手放しに喜べるわけではない。いまだにシグルド達がシレジアにいる、ということはシグルドにかけられた嫌疑が晴れていない、ということなのだ。目下クルト王子暗殺の首謀者、とされているシアルフィ公主バイロンは行方不明。もう死んでいるのでは、という噂すらある。 そんな噂をシグルドは信じてはいなかったが、それでも、もう半年以上行方が分からないのでは、あるいは、とも考えてしまうのだろう。 その一方で、シグルドはディアドラの行方も調べていたが、シレジアにいる状態では満足な調査も出来ない。時々、ディアドラの名を呟いているらしい。また、それをシャナンが聞いてしまうと、シャナンもまた、その日一日中沈んでいるような状態になってしまう。 しかし、そんな中でも、喜ばしいことは起きる。夏に入ってすぐに、エーディンが男の子を産んだ。名は、エーディンの祖父の名を取ってレスターとつけられた。なんでも、祖父と同じ、ユングヴィでは珍しい青い髪だったからそうつけたらしい。かつてのユングヴィ公主レスターはウルの再来、とすら呼ばれていた。祖父は弓の名手であったらしく、その名にあやかったという。 そしてそのエーディンの出産から一月後、今度はアイラが出産した。エーディンのときもそうだったが、アイラのときも、半ば公然と、男の子と女の子、どちらが生まれるかの賭けが行われていたが、アイラのときは、全員が正解者だった。 アイラは双子を産んだのである。男の子と女の子の双子を。 |
「まだかな〜」 シャナンは扉の前をうろうろと歩き続けていた。 その様子を見ていたホリンは、半ば呆れてしまったが、彼自身、あまり落ち着いているとは言いがたい。 かなり前に赤子の鳴き声が聞こえたのに、ずっと部屋に入れてもらえない理由が、双子だ、と聞いたときはひどく驚き、また不安になった。産みの苦しみ、というのは話には聞いたことがあるが、いきなり双子とは。アイラは大丈夫なのか、という不安がずっと離れなかった。気が付くと、横でシャナンが同じように不安そうな表情をしていたが、そのおかげでかえってホリンは落ち着くことができた。 「大丈夫だ、シャナン。アイラが強いのは、お前がよく知っているだろう」 そうは言ってもこの場合の強さが全く別問題であることは、やはりシャナンにも分かっているようだ。 結局、こういう時、男は無力なものなのである。 そこへ、二度目の赤子の鳴き声が響いた。痛いほどの沈黙の中、赤子の鳴き声だけが響いている。 そして、どれほどの時が流れたのか、二人の前の扉が開かれた。出てきたのはエスリンである。 「お待たせ。ホリンだけ入っていいわよ」 シャナンは一瞬「なんで」と言いそうになるが、それは抑えた。最初にアイラや子供に会う権利は、やはり夫であり父親であるホリンのものだろう。 部屋事体は別に他の部屋とそう変わるものではない。ただ、大きなベッドの上に、アイラが横たわっている。その横にいるのが子供なのだろうか。ベッドの横には産婆らしい女性がいる。ホリンは、もちろん生まれた直後の赤ん坊など見たことはない。弟が生まれたときも、数日してから会ったのだ。 横になっているアイラに、何か声をかけようと思ったが、かける言葉をホリンは見つけられなかった。すると、アイラの方が先に口を開く。 「産みの苦しみ、とはよく聞いていたけど、本当だったな。けど、ミストルティンで斬られたお前よりは楽だと思ったら、耐えられた」 アイラはそういって笑う。その笑みには、これまでになかった『なにか』が感じられた。 「名前……二人分考えないとな。何故か男の子が産まれると思って考えていたのだが……」 するとアイラは驚いたような顔になる。 「私は何故か女の子の名前だけ考えていたな。なんというんだ?男の子の名前は」 ホリンも同じような顔になる。お互い、考えていた名前の性別が違っていたとは。あるいは、双子が産まれることを予感していたのだろうか。 「スカサハ、だ」 アイラは無論その名前を知っていた。イザーク王国の祖、剣聖オードと共に戦った戦士の一人。後のソファラの祖でもある。 「いい名じゃないか。私はラクチェ、だ。私の叔母上から頂くことにした」 イザーク王妹ラクチェ。マナナン王の妹で、剣才はマナナンに匹敵する、とすら言われていた人物である。 「良い名だ。きっとその名に恥じぬ強い子になってくれるだろう」 数瞬の沈黙。それを破ったのは赤ん坊の泣き声だった。同時にエスリンが申し訳なさそうに扉から顔を覗かせている。 「あの〜。シャナン押さえておくの限界なんだけど、いい?」 「シャナンもいるの? いいですよ、エスリン王女」 その声とほぼ同時にシャナンが部屋に駆け込んできた。その音で赤ん坊が起きてしまい、また泣き始める。結局泣き止まず、アイラはエスリンの援軍を頼むことになった。 |
ユグドラルでももっとも美しいといわれているシレジアの夏。動乱の予感を孕みながらも、時はまだ静かに過ぎて行く。 |