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巨大な建造物でも、崩れ始める原因は、大抵ほんの小さな歪みであるという。だが、崩壊の予兆とも言うべきそのかすかな歪みに気付く者は、ほとんどいない。 そして、その崩壊に気付いたときには、すでに修復不可能になっていることが多いものだ。 それは、グランベル帝国という名の巨大な建造物とて、例外ではない。 小さな、かすかな歪みは、明敏をもってなる皇帝アルヴィスすら気付かないほど静かに、少しずつ広がり、巨大な帝国を蝕みつつあった。 グラン暦七七〇年。人々は、まだその歪みを知らないでいる。 |
その日、キエの街は大層な賑わいであった。人々が通りに溢れ、露店が所狭しと並ぶ。 ただ、どこか緊張した雰囲気もあった。多く兵士が街道を固め、周囲に目を光らせている。 一方で、街の人々の間ではある種のお祭り騒ぎが起きているのだ。 別にたいしたことではない。 ドズル王であるダナンの息子ブリアンが、神器聖斧スワンチカを継承したことにより、グランベル皇帝領内(旧グランベル王国領)のドズル家の領地を相続することが決まったのである。さらに、ダナンはこれを機会にイザークでの支配権を強めるために、旧王都イザークに第二子のヨハンを、ソファラに第三子のヨハルヴァを、ガネーシャにはダナンの右腕、とまで呼ばれているハロルド将軍を領主として赴任させることを決定した。 これらは、むしろシャナン達にとっては歓迎せざることである。 イザークにおけるドズル家の支配力が強くなることを喜ぶ理由は、少なくとも彼らにはない。今回のお祭り騒ぎにしたところで、半ばはそれが口実に過ぎない。結局、民も楽しみに飢えていたのだろう。 ただ今回は、そのソファラへ向かうヨハルヴァ王子と、ガネーシャに向かうハロルド将軍がキエの街に停泊する、ということになっていた。そのため、ものものしい警備が布かれているのだ。 実際、イザーク国内では、ドズル家は当然だが歓迎されているわけではない。ゆえに、王子を暗殺しようとするものがいても、全くおかしくはない。 シャナンとしては、それで無用な混乱を招くことこそ恐れていた。 現在のところ、ドズル家の支配は行き過ぎたところはない。無論、水準を遥か低くしての話ではある。ただ、それで暮らしていくことができないわけではない。少なくとも、今ドズル家と戦う必要を、シャナンは感じられなかった。 あるいは、ずっとこのままかもしれない。セリスはもう十二歳になる。十分に分別のつく年齢だ。 一度、シャナンはセリスに全てを説明した上で、どうしたいかを聞いてみたことがある。その時、セリスは迷うことなく答えた。 「僕がどういう生まれであっても、今ここにいるのは、孤児院にいるセリスだ。それに、父上は僕が復讐心に駆られて戦乱を起こすようなことを望まないと思う。シャナンだって、そう思うんでしょう?」 シャナンに返す言葉はなかった。セリスは、シグルドの願いを正確に受け止めていたのだ。 ただ、セリスはそれに付け足しもしている。 「でも、もし帝国の治世が傾いて、人々が苦しむような時代になったら、それが帝国を打倒することで解決しう売るのであれば、その時は僕は兵を挙げる。それは、きっと父上も許されると思う」 自分より他人を思いやる心。セリスは間違いなくシグルドの子だ、とこういう時シャナンは強く思う。 となれば、自分はその、いざというときのために力を貯えよう、と考えるのだ。 だがその反面、あるいは平和であるのならばこのままでもいいと思う。 イザークの王位に、シャナンはこだわりはない。ドズルの支配とて、いつまでも窮屈とも限らない。 あるいは、ずっと先には、オイフェやエーディンもティルナノグから出てこれるようになるかもしれない。 別に、イザーク王家だって、はじめから王族であったわけではない。というより、始祖オードは、有力部族の長の子であったといっても、一介の剣士だったのだ。血筋だけで支配する、という体制が正しいのか、そもそもシャナンには分からない。 もしかしたらどうでもいいことかもしれない。生きていくのに、多少の不自由があったとしても、それは当たり前のことだ。一介の民人として、一生を終える。それも悪くない。それほど変化に富んだ人生を望んでいるわけでもないのだ。第一、子供時代で、普通の人の一生分の冒険をしてきたようなものなのだから。 |
ドズル家の第三子ヨハルヴァの評判は、実はあまりよくない。 今年で十一歳。セリスより一つ下、スカサハやラクチェと同じ年のはずである。 ただ、よく『乱暴者』といわれている。あるいは『粗雑である』と。ただ、その噂のうち、半分は好意的な意味を含んでいるらしい。 物心ついた頃からドズル王国の王子であったのに、まるでそのようなことは気にしない。よく城下へ行き、街の子供達と共に遊ぶ。 ただ、ここでただ遊ぶのではなくて、いわゆる悪戯があまりに多く、また、すぐ城下の子供達と喧嘩をしたりするため、そのように呼ばれるらしい。 ある大臣の自慢の白馬を、黒馬に変えてしまったこともあるという。さすがにこの時は父ダナンに相当怒られたようだが、それでもヨハルヴァの悪戯は止まらなかった。 もっとも、一説には彼の悪戯がいつも成功していた裏には、兄ヨハンが手引きしていたという話もある。 その一方で、ヨハンとヨハルヴァの兄弟は、あまり仲がよくないとも噂されていて、これについてはどちらが本当かは分からない。単に喧嘩が多いだけ、という話もある。 そういう性格のためか、ヨハルヴァは主に街の下層階級の――といっても現在のイザークでその呼び方による区別が正しいかどうかはともかく――人々に人気があった。ゆえに、シャナンは、ヨハルヴァが派遣された後のソファラについてはあまり心配していなかった。あるいはむしろ、開放的になるかもしれない。 問題はガネーシャである。 ガネーシャの領主となるハロルドは、ダナンの右腕、といわれるだけあって、政治・軍事両面の才能に長けた人物である。また、個人としても武将として名を馳せている、有能な人物だ。 その彼の赴任するガネーシャの西には、しばらく平原が続いた後、大きな砂漠が――イード砂漠ほどではないが――がある。そして、その先にはオイフェ達の隠れ住むティルナノグがあるのだ。オイフェ達は、シャナン達への連絡のため、時々ガネーシャまでは出てくることが多い。万に一つ、を考えずにはいられない。 もっとも最近は、ガネーシャも避けて、山岳帯の麓を通って、ガネーシャには行かないようにしているらしい。ゆっくりだが、ドズル家の支配はイザークの辺境にまで広がってきているということだ。 「どちらにしても、私達はまだ動けず、か。あるいはずっとこのままかもしれないな」 シャナンはそういって、傍らにいる女性を振り返った。問いかけられた女性は、ちょっと首をかしげる仕種を見せる。長い黒髪の一部が、肩から落ちて風に流れた。 「不満?」 「いや。別に聖戦士の末裔だからって、戦いの人生を歩まなくてはならないってことはないだろう。静かな一生を終えてもいいはずだ。まして、今は戦乱の時代じゃない」 シャナンはそういってからいたずらっぽい笑みを浮かべた。 「ただそうなると、フェイアは本来王宮で過ごしていたのかもしれないのに、とは思うけど」 「バカ」 フェイアはシャナンの頭を軽く小突いた。 「大体、それだったら私達、そもそも逢えなかった可能性だってあるじゃないの。その方が、いや」 「それは、そうか」 シャナンは苦笑した。確かに、イザークが滅ぼされず、シャナンも国外に逃げなくてはならないような状況になっていなければ、フェイアとも逢わなかったかもしれない。元剣術指南の娘、として会うことはあったかもしれないが、こんな風にゆっくり話し合えることはないだろう。そういう点では、シャナンはこの多くの偶然に感謝している。それは、フェイアも同じだ。 街は、明日明後日とヨハルヴァ王子、ハロルド将軍が滞在する準備と、それに合わせたお祭り騒ぎで賑わっているが、街外れにあるこの孤児院には、わずかに喧騒が聞こえるだけである。 すでに陽はその半ばを地平に委ねていて、空は朱く染まっていた。かすかに聞こえる喧燥の他には、風の音しかしない。 フェイアが、シャナンの手を握る。シャナンも、それを握り返した。 「シャナン〜〜〜」 いきなり響いた声に、二人は驚いて手を離した。同時に、不自然に距離を取る。声の主はセリスだった。 「ど、どうした、セリス。何かあったのか?」 極力冷静に、シャナンは尋ねた。もっとも、セリスではシャナン達の動揺を見抜くことなどはできるはずもない。 「ラクチェがいないんだ。なんか外に遊びに行っちゃったみたい。今、スカサハとデルムッド、レスターが探しに行くって」 「オロは?」 「オロおじさんはもう探しに」 シャナンとフェイアは顔を見合わせてから、走り出した。 「セリス、スカサハ達は孤児院からでないように言っておいてくれ。セリスもだ。もう遅いから」 シャナンはそれだけ言うと、フェイアと一緒に走り出した。 普段ならそれほど問題ではない。だが、今は街はかなり警戒が厳しい。それに、ラクチェはかなりアイラに似てきている。アイラの子供時代を知る者であれば、間違えてしまっても不思議ではないほどに。事実、オロは一度間違えた。 あまりアイラと会ったことのないオロですら間違えたのだ。もし、アイラをよく知る者であれば、あるいはいらぬ嫌疑――といっても事実なのだが――を招きかねない。それだけは避けなければならなかった。 |
道に迷った、と気付くのは、大抵、もうどうやっても自力では戻れないような状態になってから気付くものである。いや、だからこそ『道に迷った』というのか。もっとも、今迷っている少女の年齢だと「迷子」というのが一番適切だろう。 だが、この少女は自分が迷子になったことを、なかなか認めなかった。大抵においてそうだが、自分の状況を把握することを遅らせることは、事態を確実に悪化させる。この場合は、まさしくそれであった。 「もう!! スカもデルムもどこいっちゃったのよ。かくれんぼで隠れるにしたって、遠くに行きすぎよ!!」 さすがにもう、自分が道に迷ったことは分かっている。寂しさを紛らすために、声を出しているだけだ。 元々、普段からあまり孤児院を離れたことはない。 そうでなくても今は、なんかよく分からないけどみんな騒いでいて、普段と街の雰囲気が違いすぎる。孤児院から離れたのが迂闊過ぎるのだが、十一歳の少女に、そんなことが判断できるはずもない。 救いであったことは、自分と同じ髪と肌の色の人が多いことだ。異郷にきた、という感覚がなくてすむ。 もっとも、それもあまり効果はない。知らない人ばかりだと、すぐに孤独感が押し寄せてくる。 陽は、すでに地平に沈みつつあり、天空の支配を星と月、そして闇に譲ろうとしていた。 今日は、昼に剣の稽古を少しした後はずっと遊んでいたため、実はかなり疲れているのがとどめだった。遊んでいるときは認識しなかったが、こうなるとその疲労がずっしりとのしかかってくる。普通だと、泣き出すところなのだろうけど、少女は泣くのが嫌いだった。実は半べそになっているのだが、少女にそれはわからない。ただぐっと、泣くのをこらえて歩きつづけていた。 道行く人は、明日の準備や、久々に――例えきっかけがなんであれ――お祭り騒ぎが出来ることに気を取られていて、泣きそうなのを我慢しながら歩いている女の子には気付かない。 少女はそのまま街を歩きつづけ、市街地を抜けたところまで来て、近くにあった階段に座り込んでしまった。疲れてしまって、さすがにもう歩けなくなってしまったのだ。 |
「お前、こんなところで何してるんだ?」 かけられた声は、大人のものではなかった。少女は力なく顔を上げる。声をかけてきたのは、まだいたずらっぽさの残る、少年だった。年は、少女とそう変わらないように見える。 「迷子か?」 少女――ラクチェはそれに、カチン、と反応した。実際にはもう迷子だということはわかっていたのだが、ムキになって否定したくなる。 「違うわよ!! ちょっと休んでいるだけ!!」 いきなり怒鳴られた少年は、ちょっとびっくりしたが、「そうか」とだけ言うと少女の横に座る。 「俺も、ちょっと休ませてもらうぜ。別に、専用席ってわけじゃないよな」 少年は座るとそのまま体を倒す。すでに、空には星々が輝いていた。 「俺はヨハルヴァ。お前は?」 「あ、あたしはラクチェ……」 まるで魔法にかかってしまったように、あっさりと答えてしまった。ヨハルヴァ、という名前は聞いたことがある気がしたが、ラクチェは思い出せない。 「ふうん。いい名前だな」 ヨハルヴァと名乗った少年は、そのまま星を見上げている。 「俺は、実は迷子みたいなもんなんだ。何もしたいこと思い付かなくってさ。ただ親父に言われて、そのとおりに行動する。結局、まだ子供だから親父の言うことに従うしかなくてさ」 この少年は、何を話しているんだろう、とラクチェは思ったが、ふと自分に当てはめてみる。孤児院での生活。変わらない日常。自分の意志で何かしてきたわけではない。よく考えてみたら。 「私も……そうかもしれない。孤児院の生活は、楽じゃないけど、でも何もかもそこにはあるし……」 「お前孤児なのか。……悪かった」 ラクチェは不思議そうに首をかしげた。ラクチェには、何故ヨハルヴァが謝るのか分からなかった。 ラクチェが孤児になったのは、直接的な原因は皇帝アルヴィスが父母を殺したからである。だが、それと目の前の少年が関係あるとは思えない。大体、そんなことを知るはずもない。 「別に……あなたは関係ないんじゃない? だってあたし達、さっき会ったばかりだよ?」 考えて見たら初対面の割に、この少年は気さくに話しかけてくる。なれなれしい、という印象はなくもない。けど、それがいやらしくなかった。彼の持つ雰囲気だろうか。それとも『友達』とはこういうものかもしれない、とも思えてきた。 孤児院にも友達はたくさんいる。というより、彼らはもう、兄弟のようなものだ。物心つく前からずっと一緒にいるのだから。けれど、このヨハルヴァという少年は、今日初めて会った。にも関わらず、感覚的には孤児院の友達に似ている。ちょっと違う気がするが、それが『兄弟』とは違う感覚のような気がした。 ふと気がつくと、少年はじっと空を見上げていた。空はすでにその支配者を夜に移していて、星々が瞬いている。 「人はそれぞれ己の星を持つ。その星の導きと、己の意志が、我らの道をすべて決する」 いきなりヨハルヴァが語り始めた文章は、文字通りラクチェには意味不明だった。きょとんとした表情でヨハルヴァを見やる。 「いや、詩好きな兄貴がいてさ。こないだ、イザークで別れる時にふと洩らしていたのを思いだしたんだよ。俺も実はよく意味は分からないけど……ただ、俺にも運命の星ってあるのかなあ、とか思ってな」 言われてラクチェも星空を見上げた。明るい星、暗い星、赤い星、青い星。色々な星があり、その数は到底数え切れない。そうなると、本当に自分の運命の星もあるのではないか、という気がしてくる。 「ちょっと詩にかぶれ過ぎている兄貴だけどな。でも、俺は結構好きなんだが……しばらく別れて暮らすことになっちまってよ。親父が言うから、仕方ないけどな。で、そんな時にふと、俺の星は俺をどうするんだ、とか兄貴の言葉を思い出すんだ」 ラクチェにはやっぱりよく分からない。ただ、星の中に自分の星があるというのであれば、見つけてみたい気もした。 もっとも、普段剣の練習をするときなどは、忘れてしまっているに違いない。そう考えるとおかしいものだが、結局自分には剣が一番似合っている。女の子らしく夜空の星の神秘を感じるのは、ラナやマナに任せればいいや、などと思うのだ。 ふと気がついたとき、誰かが近寄ってきていた。一瞬、自分を探しに来た誰かかと思ったが、違うようだ。するといきなり、ヨハルヴァが立ち上がった。 「ちぇ、もう見つかったのか。まあこっそり先行して、しかも勝手に歩き回ったら怒られるか。親父でなくても」 ヨハルヴァはそういうと、階段を一気に飛び降りた。そして、気配のする方へ歩き始める。 「俺、そろそろ行くわ。勝手に出てきちまってたんでな。ラクチェも、もう少し待てばきっと探してくれている人が来るよ。じゃあ、またな」 「え、またって……」 「友達と別れるときは、そう言うもんだろう?」 ラクチェは、「そうだね。じゃあ、また」といって笑った。なぜか、嬉しかったのだ。ヨハルヴァは一瞬驚いたような顔を見せた後、駆けていった。ラクチェはその後姿を見送ってから、妙なことに気がついた。 「また」といっても会う保証はないのだ。けれど、なぜかまた会えるような気がした。 いつの間にか、沈んでいた気持ちはどっかへ行っていた。 ラクチェを探しに来たシャナンが、彼女を見つけたのはそれからすぐのことである。ラクチェから、ヨハルヴァの事を聞いたシャナンは、非常に驚いた。話のとおりならば、その少年はドズル家の第三子、ヨハルヴァに間違いない。 けれど、ラクチェにはそんなものは関係ないのだろう。ニコニコと楽しそうにヨハルヴァとの話をしていた。 あるいは、本来肩書きを取れば、みんなこんな風に仲良く出来るのではないか、と思えても来る。 だがもし、彼らが戦わなければならないときが来て、その時ヨハルヴァが父ダナンと共に、彼らの敵になったとしたら。それは、あまりにもむごいような気がする。かつての、シグルド公子とエルトシャン王のように。出来れば、そうはしたくない。 争いの中で、お互いの意志とは関係なく敵味方に分かれるというのは、珍しくはない。それが、戦乱の時代の宿命ともいえるだろう。 だが、そういう悲劇は出来るだけ避けたいと思う。本来、戦う必要などないのだから。 |
だが、事態は徐々に悪夢のシナリオへと動いていた。グラン暦七七一年、帝都バーハラで、人知れず、だが後の歴史の全てに影響を与える事件が発生した。 皇妃ディアドラの死去、ならびに皇女ユリアの失踪。 だが、その本当の理由を知るものは、さらに極一部であった。 そして、この時から大陸に再び恐怖が甦ったのである。 誰も知らないところで、誰に知られることなく、歴史は闇へ向けて加速を開始していた。 |