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永き誓い・第十八話




 崩壊の序曲は、誰も気付かないほど小さな音で静かに奏でられ始めていた。
 そして、それに人々が気付くとき。それは、すでに手遅れともいえるような状態になっている。
 あまりにも静かに、だが確実に広がり始めてきたその絶望が、人々の前に現れるとき、人々は真の恐怖を知ることになる。

 たとえグランベル帝国の中央で事件があったとしても、それがこのイザーク――今はドズル王国だが――まで伝わってくるまでには、それなりに時間がかかる。ましてその事件が、極秘性を伴うとあれば、それをシャナン達が知る術はない。
 少なくとも、今のシャナン達にとっては、グランベルでの出来事は遠い異国の出来事なのだ。
 それでも、時々オイフェらから多少の情報は入ってくる。
 奇妙なことにオイフェは、どうやって手に入れるのか、イザーク国外の情報を入手することが出来るようだ。もっとも、それらの情報は、あまり喜ばしくない情報が多い。
 グランベルが帝国となって、つまりアルヴィスが皇帝に即位してから十年が過ぎていた。
 初期でこそ、皇帝アルヴィスはその強力な指導力で、民衆を導いていた。民は、すこし窮屈な気はしていたが、それでも軍備を増強し民の安全を計り、商業、農業、工業を盛んにするアルヴィスを、支持していた。
 だが、それも十年もすると歪みが出てきているようだ。いや、わずか十年というべきか。特に、大きく変わったのは暗黒教団が台頭してきてからである。
 数年前から、暗黒教団は政治にすら口を出すようになってきた。しかも、アルヴィスはなぜかそれを容認してしまっている。その様は、かつて即位した頃に比べると、あまりにも弱腰だ。
 シャナンは、アルヴィスに直接会った事はない。だが、話に聞く印象では、ある種、圧倒的なカリスマを持つまさに指導者然とした人物で、不正や不平等を許さない人物に思える。だからこそ、迫害されていた暗黒教団にも、その存在を認めたのだろう、と思っていた。
 だが、わずかなりとももたらされる情報から察することの出来る暗黒教団の振る舞いは、節度を逸脱しすぎているように思える。
 オイフェからの話では、グランベル中央では、暗黒教団がかなり好き勝手をやっているらしい。
 噂の域を出ないが、子供狩りが復活したという話もある。商人から聞いた噂だ。又聞きの又聞きだから、あまり信憑性があるとはいいがたい。暗黒教団が台頭し始めた、という情報に尾ひれがついたのではないか、と思うが、用心するにこしたことはないだろう。実際、この噂は結構広まっていて、民衆の間では不安が広がっていた。
「だめだな」
 シャナンは一人ごちた。アルヴィスの失脚を願っている自分を認識してしまったのだ。
 実際、アルヴィスが失脚する、ということは再び戦乱が訪れるということである。それは、民のためにも、自分達のためにもあまりいい状況ではない。
「よっと」
 ひょいと座っていた岩から飛び降りる。岩というより、小さな丘のような高さがあり、普通の人間は飛び降りると怪我をするような高さだが、シャナンにとってはどうということはない。といっても、フェイアなどに見つかると怒られてしまう。怪我なんてしない、といつも言っているのに。
「シャナン!!」
 考えていたそばからいきなり怒鳴られ、シャナンは危うく転びそうになるのをたえた。
「だから大丈夫だと……」
「ちょっとバランス崩したら危ないでしょう!! まったく……」
 そうは言っても本気で怒っているわけではない。確かに、普通の人間が、人の背の4倍以上あるような高さから飛び降りたら怪我をするのだろうから、心配するのはわかる。
「一度聞こうと思っていたんだけど、一体どうやって登っているの?」
 するとシャナンは岩の何箇所かを示す。
「あの辺に足をかけて一気に駆け上がればいい。それほど難しくはない」
「そんなこと出来るの、あなただけよ」
 確かに、その通りだろう。それ以前に普通の人はこの岩の上に登ろうとは考えない。
「上は、眺めがいいんだ。特に朝は。晴れていれば海が見えるから、そこから上がってくる朝日を見ることが出来る」
「それは、わかるけどね……せめて足場くらい作りなさいよ。そしたら、私も上がれるのに」
 フェイアはそう言って顔を膨らませた。結局、彼女も上に上がりたいだけだったのだ。
 その時、強い風が吹いてフェイアの髪が風に泳いだ。少しだけ、シャナンの顔にもかかる。
「髪、伸びたなあ。ね、前から言おうと思っていたんだけど、シャナン、髪のばさないの? 確か、マリクル様も長かったっていうし。結構きれいだと思うな、シャナンの髪の毛」
 シャナンの髪の毛は、肩の辺りで切りそろえてある。これだけは、少年時代とあまり変わっていない。実のところ、ラクチェやスカサハには結構不評であった。中途半端だ、と。ただ、シャナン自身としては、かつてシグルド達と過ごした時期を忘れないために同じ髪型にしているのだ。
「まあ……その分フェイアが伸ばしているし。それに、私が伸ばしたらフェイアに嫉妬される」
 フェイアは一瞬、その言葉の意味がわからなくてきょとんとしていた。
「……って、ちょっと。私の髪の毛だってきれいでしょうが!! 大体、男が髪の毛自慢するなんて変!!」
 あっさりと言いきられてしまったが、シャナンは苦笑するしかなかった。
「言い出したのはフェイアじゃないか」
 フェイアは何も言い返せずに口をつぐみ、頬を膨らませた。だが、しばらくして、どちらともなく吹き出す。
 風がもう一度、フェイアの髪を泳がせていた。

 最悪の情報が、無形の破裂物となって、シャナン達の元へ届いたのは、グラン暦七七二年がもうすぐ終わろうという時期だった。すでに季節は冬に移っている。イザークの奥地などでは、すでに雪が降っているだろう。
 その情報は、オロが知り合いから入手した情報であった。信憑性は高い。何故なら、その情報自体は実体験に基づいているのだ。
「知り合いの孤児院の子供が、全員ドズル王家に連れて行かれた。表向きには、優秀な子供を帝都バーハラで教育し、ゆくゆくは帝国の将来を担う人物を育成するためだ、と言っているが、実態は子供狩りだ。すでにグランベル帝国の中央では、暗黒教団がその力をどんどん拡大させていて、子供狩りが復活したらしい。その時の名目と、今回の名目が同じなのだ」
 孤児院を最初に狙ったのは、恐らく嘆く親がいないからであろう。ある意味では合理的な判断だ。
 だが、だとすると、この孤児院も狙われる可能性は高い。
 時を同じくして、ドズルからの布告文が公布された。内容は、見るまでもない。
 表向きには、親のない、教育を受けられない子供達を、中央で引き取り教育する、というもの。確かに、噂をまったく知らなければ、あるいは信じてしまったかもしれない。だが、それが偽りであることは、考えるまでもない。
「私がなんとか取り繕います。シャナン王子は、子供達を連れて、逃げてください」
 オロの提案に異論を挟む余地はなかった。ただ、どこへ逃げれば良いのか。
「ティルナノグへ、伝書鳩を飛ばします。大体の位置は、王子もご存知でしょう。あとは、オイフェ殿の方から迎えに来てもらうようにすれば、何とかなりますでしょう」
 伝書鳩は、つい最近になってやっと使い始めた連絡手段だ。グランベルなどでは、かつてのイザーク戦争の様子などを、この手段を使って逐一報告していたという。実際、ほんの数日で手紙を(それほど多くを書けはしないが)やり取りできるのは便利であった。
「すまない、オロ。明日には、子供達を連れて行く必要があるな。……生活するのもやっとだ、といっていたが、この際贅沢は言えないか……」
「僕も協力するよ、シャナン」
 シャナンとフェイアは、驚いて振りかえった。すでに、剣を腰に佩いたセリスが立っている。
「セリス、お前はまだ……」
 セリスは、そのシャナンの言葉を遮るように首を振る。
「シャナン、僕だってもう十四歳だ。シャナンが僕達を連れて、父上の軍から離れたのは、まだ九歳だったという。スカサハやラクチェ、デルムッド達だって、戦うつもりだ。彼らだって、もう十三歳なんだから。それに、彼らの実力は、シャナンがよく知っているだろう?」
 確かに、特にスカサハ、ラクチェの剣才は子供達の中でもずば抜けている。聖剣の継承者であるセリスは別格としても、あの双子が、他の子供達より優れているのは確かだ。
 また、デルムッドもさすがは黒騎士ヘズルの血を受け継いでいるだけあって、その才能はスカサハ達と比べてもさほど遜色ない。
「……分かった。セリス。スカサハ、ラクチェ、デルムッド、レスター達と協力して子供達に出発の準備をさせてくれ。明日、日の出前にはこの街を出る」
 シャナンの言葉に、セリスは即座にうなずくと、また部屋に戻っていった。
 この孤児院にいる子供は意外に多い。シャナン達がここに来たときにつれてきたセリス達六人の他、戦災孤児などが十人以上いる。彼ら全員を連れて、となると、実際年長者であるセリス達の協力なしには難しい。だが一方で、セリス達を危険な目に遭わせたくはない、と思うのである。
 恐らく、いきなり子供達が全員逃げたとなれば、軍も追ってくるだろう。だが、布告文がこの街に来たのは今日の朝だから、まさかその翌日に動くとも思うまい。一応、警戒してみたが、まださすがに見張られてはいない。
「シャナンは過保護だからね」
 フェイアが軽い調子でシャナンをからかった。シャナンとしては苦笑するしかない。だが、フェイアもこれで、緊張をほぐそうとしてくれているのだ。シャナンは一度深呼吸をするように体を伸ばす。その後ろから、フェイアはいきなりシャナンに抱きついた。
「フェ、フェイア。ちょっ……」
「大丈夫。落ち着いて、シャナン。あなたは強い。きっと、みんなを守ってティルナノグまで行けるから」
 フェイアはそのまましばらく抱きついて、うろたえるシャナンの反応をクスクスと笑っていた。やがてシャナンから離れると、今度は彼の正面に立つ。
「それに、私だっているんだから。少なくとも、まだ子供達よりは強いわよ。任せなさい」
 そのフェイアは、シャナンにとっては誰よりも頼もしく思えた。

 キエの街を出て、すでに二日が経っていた。孤児院がどうなったのか、もうシャナン達に知る術はない。
 子供達は、最年長のセリスが十四歳、スカサハ、ラクチェ、デルムッド、レスターが十三歳。ラナももう十歳になっている。孤児達の中では、比較的年上だ。他には、年長なのはトリスタンという十三歳の少年がいる。六年前、育ての親であった商人が盗賊に襲われて命を失い、その時にオロの孤児院に引き取られた子だ。なんでも、元はアグストリアに住んでいたという。あるいは、本当の親とは、あのアグストリアでの戦乱ではぐれたのかもしれない。そう考えると、シャナンは少し心が痛む。
 道中は、さして問題はなかった。ただ、どうしても移動速度は落ちるし、足取りも完全には消せない。シャナン達も含めて二十人近い人数の足取りを消すなど不可能なのだから、それは仕方がないのだが、移動速度はもう少し早くしたいのが本音である。
 恐らく、そう遠からずオロの孤児院から子供達が消えたのは発覚するだろう。その時、軍がどのような対応を取るか。
 ただ、少なくとも、噂に聞くダナン王の対応なら容易に想像がつく。オロを捕らえ、自分達の行き先を吐かせようとするだろう。恐らくは、拷問などによって。
 オロは多分、そうなる前に自ら命を絶つ。また、自分達のために犠牲者が出る。いや、始めから分かっていたのに見捨てたのだから、シャナンが殺したようなものだ。足が不自由だといっても、連れてくるべきではなかったのか。
「シャナン」
 いきなり呼ばれて、シャナンは振りかえった。フェイアが、厳しい顔をしてこっちを見ている。
「なんでも一人で背負い込まないで。私も、それにセリス達も、あなたの負担を軽くしようと頑張っているんだから。今の事態は全てあなたのせい? 違うでしょう。あなたは今自分がやれる最大限のことをしている。なら、もっと自信を持ちなさい。イザークの王子様」
 自分を気遣っているのがよく分かる。こういうときのフェイアの前向きな性格に、どれだけ助けられてきたことか。そして多分、これからも助けられていくのだろう。
「そうだな。とにかく今は、ティルナノグまで逃げ延びよう。全ては、それからだ」
 いま何を考えても、事態が好転するわけではない。まず、安全な場所まで行き、それから考えるのだ。後悔はいつでも出来る。今すべきことを、最優先に。後で出来ることは後でやればいい。
 だが、そのシャナン達の行く手を阻む運命は、まだシャナン達を安住の地へ送り出すつもりはないようだった。

「シャナン、わかる?」
 フェイアの言葉に、シャナンは静かにうなずいた。キエの街を出て四日目。最初に追っ手に気がついたのは、シャナンではなく最後尾を行くフェイアだった。フェイアはすぐにシャナンを呼び、シャナンは先導を一時セリスに任せると、気配を殺して偵察に行ったのである。
「多いな。百人はいる。大げさ過ぎるとも思えるが……」
 このとき、シャナンはまだ知らなかったが、中央へ送る子供は、各国にとって義務になっていたのである。すなわち、定められた人数を送れない場合、その国は帝国に対しての忠勤を疑われてしまうのだ。そのため、ダナンも必死なのである。
 だが、かといっていきなり普通の民から子供を取り上げると、反乱の恐れすらある。そのために、やはり親のいない孤児達は帝国に差し出すのに、非常に都合がよかったのだ。だからこそ、逃げ出した子供たちにこれほどの追っ手を差し向けているのである。
「セリス達が逃げ切るのを待つよりは……こちらから仕掛けたほうがいいな。この地形なら、多くを同時に相手にしないで済むだろう」
 シャナン達が今いるのは、文字通り山奥である。
 すぐ近くに、深く地をえぐった急流が流れていて、その向こう側に行けば、恐らく追手は振り切れるだろう。事前に渡された地図によると、この周辺に、その川にある橋はひとつしかなく、しかも吊り橋だ。渡った後に破壊してしまえばいい。橋をドズル軍が復旧するにしても、相当に時間がかかるはずだ。
 だが、セリス達がその橋のある場所まで到着するのは、どうやっても夕方だ。今はまだ昼過ぎ。どうやっても追いつかれる。
 幸い、木々が多く、剣を振り回しにくいといえば振り回しにくいが、その分多くの敵に囲まれないですむ。一、二人セリス達の方へ行ったとしても、セリスやスカサハ、ラクチェならば一人二人は何とかなる。
「仕掛けるの?」
 フェイアはそういいながら、すでに剣の柄を握っている。
「フェイアはここに……」
 そのシャナンの言葉を遮るように、いきなりフェイアが、その口を自分のそれでふさいだ。
「冗談。私も戦うわよ。今のは、おまじない。シャナンが、無事ティルナノグへ着くようにってね」
 シャナンは苦笑した。
「フェイアも、いっしょにな」
 二人はもう一度、唇を合わせた。

 フェイアが気配を殺して、兵士の一人に静かに近づく。そして、そこから一気に気を解放し、敵兵士の一人に斬りかかった。対応の遅れた兵士は、一瞬何が起こったか判断すら出来ないうちに、そのすべての感覚を失う。そして、それを目の前で見せられた別の兵士は「敵襲」と叫ぶ間すら与えられず、現れたもう一人に深々と喉を斬り裂かれ、空気だけがむなしくひゅーという音を立てている。
「敵襲!!!」
 ほんの半瞬で、味方の二人を斬殺された3人目の兵士が、ようやく他の仲間たちへ、状況を報告する声を発することが出来た。だがそれが、彼の最期の声となる。
「ここからだな、死ぬなよ、フェイア」
「あなたこそ」
 言葉と同時に、シャナンは気を解放した。淡い、翡翠の光が彼を包む。その姿は、ある種の神々しさすら伴っていた。半瞬で兵士が十人近く、致命傷を負う。
 それに目を奪われる間に、もう一人の女剣士の剣が、致死の剣舞を繰り広げる。
 たった二人の剣士は、自分たちに数十倍する兵を、圧倒的な力で斬殺していった。

「見積もりが、甘かったか」
 シャナンは悔しそうにいった。さすがに、息が上がっている。とりあえず二百人以上は斬ったことは覚えているが、その先はもう数えていない。フェイアも、もう相当辛そうだ。
 ふと空を見ると、いつのまにか陽は傾いていて、空を朱色に染め上げていた。もう、セリス達はあるいは吊り橋のところまで着いているかもしれないので、逃げ出すことを考えるべきだろう。
 本音を言えば、逃げた方向が分かりにくくなるように、敵兵を全滅させたかったのだが、どう考えてもまだ百人以上いる。どうやら、五百人近くを繰り出していたらしい。多分、時間が経過してしまったので、このあたり一帯に広がっていた兵士たちが集まってしまったのだろう。足取りをつけられたのではなく、文字通り山狩りをされていたようなものだったのだ。
「どうするの、シャナン。正直、私もうそんなに剣を振れないわ」
 フェイアは悔しそうにいう。だが、無理もないだろう。これだけ長時間戦って、息が上がらないほうがおかしい。聖戦士直系のシャナンですらもうかなり辛いのだ。フェイアにいたっては、戦っていられるのが奇跡のようなものだ。
「フェイア。私が今から一方を斬り開く。包囲を突破し、なんとか奴等を撒いて、セリス達の後を追おう。これだけ時間を稼げば、十分だから」
 フェイアは無言でうなずく。それを確認すると、シャナンは再び光をまとった。しかしそれも、最初ほどの力はない。だがそれでも、兵士たちにはすでに十分、死の恐怖を想起させる。
「おおおおお!!!」
 シャナンのつっこんだ方向は、半ば斬り開くまでもなく道が出来る。二人はそこを一気に駆け抜けた。慌てて、兵士たちが後を追う。
 しかし、シャナンもフェイアも、もうあまり速く走る体力は残っていない。対して敵兵には、まだほとんど体力を消耗していないものもいる。
 とりあえずシャナン達は、走りやすい川沿いに出た。すぐ横は、大人四人分くらいの落差のある谷であり、底には急流が流れている。冬の寒い水であり、落ちたらまず助からないが、川沿いは木々が少なく、走りやすいのだ。
 だが。
 ヒュン、という音がしてシャナンのすぐ横に矢が突き刺さったのはそのときだった。このとき、シャナンは自分の迂闊さを呪った。見通しが利く、ということは弓を使える、ということなのだ。
 慌ててまた森の中へ入ろうとしたときに、シャナンは突然突き飛ばされた。
 シャナンはかろうじてバランスを保ち、振り返る。そのシャナンの目に映ったのは、ほんの一瞬前までシャナンがいた場所にいるフェイアと、その背中に突き刺さる矢であった。
「フェイア!!!」
 フェイアの体は、まるで時間の流れが変わってしまったかのようなゆっくりとした動きで――あくまでシャナンにそう見えただけだが――倒れると、それまで走っていた勢いで転がり、谷から虚空へ飛び出した。
 だが、フェイアの体が谷の上に浮いた瞬間、その動きが止まった。シャナンが、かろうじて落ちるフェイアの腕をつかんだのだ。しかし、シャナンも崖の際に寝そべる形になってしまい、体勢を立て直すこともできない。加えて、すでに疲労が限界に近いため、フェイアを引き上げるのも容易なことではなかった。
 そしてそこへ、兵士たちが近づいてくる。
「シャナン、離して。このままじゃ二人とも……」
「だめだ!!」
 シャナンは首を横に振る。
「もうこれ以上、私の前で誰かが死ぬのはたくさんだ。もう……」
 フェイアはしばらく無言だった。だが、その間にも兵士たちは近づいてくる。シャナンが動けない、と分かっているのか、随分と余裕の表情すら伺える。
 フェイアはしばらく泣きそうな表情になっていたが、何かを考えるように目を閉じ、それから微笑んだ。
 それを見て、シャナンはフェイアが何をしようとしているのかを、一瞬で悟った。
「シャナン……ありがとう。……愛してるわ、いつまでも、ずっと」
「まて、フェイア!!」
 シャナンの静止の言葉とほぼ同時に、フェイアはシャナンの手を無理矢理振り切った。当然、支えるもののなくなったフェイアの体は、そのまま谷底へ落ちる。
 そして、底を流れる急流に呑まれ、あっという間に見えなくなった。
「………!!!」
 シャナンの叫びは、激流の音にかき消された。
「へっ。助からねえと思って自殺かい。まああんたらがこの方向に逃げたってことは、ガキどももこの方向だろうな。お前を殺してからゆっくりと……」
 うずくまっているシャナンを見下ろしていた兵士は、そこで言葉に詰まった。
 息が苦しい。まるで、空気そのものが、彼らを押しつぶすかのような感覚が、彼らを包んでいた。
 殺気、などという生易しいものではない。圧倒的な恐怖。絶対的な死。それが、目の前でうずくまっている男から発せられている。
「な、なんだ……」
 文字通り、金縛りにあったような兵士の目の前で、シャナンはゆっくりと立ち上がった。
「我々を……」
 その声は、決して大きくはなかったのに、その場にいた兵士全員に聞こえた。激流の音すら、この男の気配に呑まれて、かき消えたかのように思える。
「我々を追い詰める権利が、貴様らにあるのか!!!」
 光が、弾けた。

 数日後、キエの街から逃げ出したという孤児を捜索に行った部隊がいつまでたっても戻らないため、追跡調査に向かった兵士達は、川のほとりで捜索部隊が全滅しているのを見つけた。彼らが何よりも不思議に思ったのは、いったい何にやられたのだろう、ということだった。
 傷跡だけを見ると、剣に因るものだと思われるのだが、まるで、風の最強魔法、トルネードでも吹き荒れたかのように、周囲の木々などがずたずたに薙ぎ倒されていたのだ。その木々に残った切り跡も、剣によるものに思えたが、彼らの常識では、そんな大木を薙ぎ倒すような剣など、考えられなかった。
 いずれにしても、キエの街から逃げ出した孤児達の行方はわからず、結局捜索は打ち切られた。



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