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永き誓い・第二十二話




「風が違う、な……」
 イザークに吹き荒ぶ風とは違う、暖かさと湿り気を伴った風にその長い黒髪を弄ばせながら、シャナンは眼下に広がる豊かな大地を見下ろした。
 イザークとは海を挟んで隣国になる、トラキア半島。現在は、北側が、かつてのグランベル六公家の一つ、フリージ家が治めるフリージ王国となっている大地である。
 考えてみれば、かつてシグルドの元を離れイザークに逃げ延びて以来、イザークを出るのはシャナンでも初めてだった。オイフェは何回か国境付近まで行って情報を集めてきたりしていたが、国境外に出たことはない。ただ、そろそろグランベル本国の動きなども探る必要があるだろう、ということから、遠くへ出立する準備は進めている。
 セリス達の初陣から、もう二年が過ぎていた。すでにセリスは十八歳。つまり、ディアドラが攫われてからすでに十八年が過ぎたということになる。
 自分でも年を取った、という気もしなくもない。自分ももう二十五歳だ。もっとも、それほど老け込んだつもりはないが、だがラクチェやスカサハに「年よりくさい」などと言われると、納得してしまうところもあるのも分かっている。
 あれからシャナン達は、できる限り子供狩りで攫われる子供達を助けようと活動を続けていた。だが、小規模の、およそ軍ともいえない規模の彼らでは、助けられる数には限界はある。犠牲になった子供たちは、決して少なくはない。
 ただ、別の動きも出始めていた。
 それは、人々にシャナンの生存、そして、セリスの存在がささやかれ始めたことである。
 無論これは、一長一短である。人々にとって、セリスやシャナンの存在は希望になると同時に、現皇帝アルヴィスにとって、シグルドの息子セリスは、なんとしても抹殺しなければならない存在だろう。叛逆者シグルドの息子というだけではなく、どこから広まったのか、シグルドの妻が現在の后妃ディアドラである、ということが、人々の間にまことしやかにささやかれ始めている。つまり、セリスは后妃ディアドラの残した、バーハラ家の長男であり、正当なグランベルの継承者なのでは、という噂があるのだという。何重もの意味で、皇帝アルヴィスにとっては疎ましい存在だろう。
 さらに、シグルドは、アルヴィスと暗黒教団の企みに気付き反乱をおこしたのだ、という説が、半ば真実であるかのように、広く流布しているらしい。
 果たしてそれが事実であるかどうかは、実際に同行していたシャナンやオイフェの目から見ると、疑わしいものである。
 確かに、シグルドはクロード神父から、何か邪悪な意思が胎動し始めている、ということは聞いていたらしいが、それが暗黒教団であることや、黒幕がアルヴィスであることまでは確信がなかったのだろう。ただ、多少疑っていたから、最後の凱旋式は少人数で赴いたのだ。
 ティルナノグの者達は、もしあそこで全軍を引き連れていたら勝てはしないまでも生き残れたかもしれないのに、と言う者もいるが、オイフェやシャナンはそれがありえないことを分かっていた。
 アルヴィスがあの凱旋式で配備していた軍は、実にシグルド軍全軍の十倍を超え、むしろ少数であるがゆえに混乱を引き起こせた、とあの戦場で生き残ったレヴィン自身も語っていたのである。
 生きていてほしい、とは思っても、十五年以上経って、シャナン達の噂が広まってもなお、消息が全く分からない者達は、おそらく誰も生きてはいないのだと、あきらめている。
 現在、ティルナノグの人口はおよそ四百人。最初から比べるとずいぶんと増えている。
 無論、すべてが戦える人間というわけではなく、むしろ非戦闘員の方が多い。
 そして、ドズル王であるダナンは、今や最優先でシャナン達を狩りだそうとしていた。
 最初こそ、シャナン達の子供狩りの妨害活動を無視していたのだが、やがてその首謀者がシャナンやオイフェ、そしてセリスらであることを知り、皇帝に対する忠義を示すためにも、何としても討ち取ろうと躍起になっている。
 幸い、ティルナノグはまだ発見されていない。
 まさか、砂漠と高山に囲まれた北の辺境にあるとは、さすがに思い至らないらしい。シャナンらはもう慣れてしまったので、ティルナノグに戻ることはそれほどの労苦というわけでもないが、知らない者にとって、その先に何があるか分からないのに、高山や砂漠を越える気にはとてもなれるものではないだろう。
 ただそれでも危険な時期には違いなく、シャナンとしてはそんな時期にティルナノグを離れたくはなかった。ただ、同時にシャナンにはやらなければいけないことがあったのだ。
 神剣バルムンクの捜索。
 イザーク王家に受け継がれし、オードの継承者のみが使うことができるという十二神器の一つ。
 その存在は、かつて父マリクルがイザークに侵攻してきたグランベル軍との戦いで敗れた時以来、行方不明である。今にして思えば、あの臨終間際のバイロンに聞いておけばよかった、とも思うが、あの時にそんなことは思いつかなかったし、聞ける状況でもなかった。
 しかし、情報を集めようにも、シャナン達はそれほど動き回ることは出来ない。たまに商人などから手に入れる情報、そして極稀に唐突に現れるレヴィンがもたらす情報が、ほぼすべてであった。
 セリスの存在が知られ始めている以上、いつまでもこのティルナノグにいることは出来ない。いつかは、帝国に対して兵を挙げることになる。その時、バルムンクの力は戦いには必ず必要だ。少なくとも、本当にグランベル帝国と戦争となれば、少なからず神器の継承者と戦うことになる。
 シャナンは、どのような相手であれ、遅れを取らない、という自信はある。だが、神器の継承者の力を、そして神器を握った時の力というものを、決して軽視してはいない。
 そんな時、旅の商人からシャナン達に一つの情報がもたらされた。『マンスターに選ばれたものにしか使えない神聖な剣がある』というのだ。聞いてきたのはラドネイで、彼女は興奮しきってその商人に確認したのだが、どうやらその噂自体は意外に有名らしい。
 いつからかは分からないが、マンスターの宝物庫に特別ながあり、それは選ばれた者にしか使えないという。
 こうきけば、誰でも真っ先に思い浮かべるのは十二神器である。
 そして、神器の中で剣は三つ。
 聖剣ティルフィング。
 魔剣ミストルティン。
 神剣バルムンク。
 これらはいずれも行方不明である。ただおそらく、ティルフィングはアルヴィスが所有しているだろう、と思われる。シグルドを屠ったアルヴィスが、それをそのまま放置しておくとは思えないし、かといってそう邪険に扱うとも思えなかったからだ。
 ミストルティンの行方は、現在では分かっていない。エルトシャン王の死後、ラケシスが預かったが、その後彼女は、バーハラでの虐殺を逃げ延びて、レンスターに行ったらしい。ただ、レンスターで夫フィンと再会しているが、レンスター陥落後のフィンやラケシスの消息は定かではない。レヴィンは何か知っている風だったが、教えてはくれなかった。
 そしてバルムンク。これはさらに不明だ。イザーク戦争の後、おそらく最初はグランベル軍が保有していたと思われるが、クルト王子の暗殺、そしてその後の混乱で、もはやどうなったかがさっぱりなのである。
 だが逆に、マンスターにある可能性は、決して否定できない。マリクルと戦ったうちの一人、レプトールが預かっていた可能性は否定できず、そしてそれならば、その息子ブルームが持っていて、このトラキア半島に持ち込んだということだってありえるのである。
 もっとも、シャナンもそこまで考えてきたわけではない。ただ、そういう噂があったらとにかく確認しなければ、という想いからここまできたのである。留守はオイフェに任せてきた。多少の不安がないわけではないが、まず大丈夫だとは思う。あとは、できるだけ早く確認してティルナノグに帰るだけだ。
「今度こそ……今度こそ、バルムンクであるといいのだが」
 シャナンは、半ば祈るような気持ちで、街道を歩み進んでいった。

 マンスターは北トラキアの中でも、南北との境界に位置する、城塞都市である。トラキアが南北に分かれて以後、マンスターは常に南からの侵略の危険に晒されており、必然、そのような城塞都市となっていったのである。
 現在の領主はレイドリック。かつてはコノートの将軍でありながら祖国を裏切り、国をトラキアに売り渡し、さらにフリージ軍が侵攻してきたら今度はトラキアを裏切りマンスター公におさまっているという、卑怯極まりない男である。
 もっとも、今のシャナンはそんなことは興味はない。ただ、マンスターにあるという剣がバルムンクか否か、それだけが問題なのだ。
「城塞都市とは言うが、交通の要衝でもあるからな。街に入るのは容易か」
 さりげなく旅人を装ってマンスターに入ったシャナンの目に映ったのは、見事な石造りの街並みだった。おそらく、トラキアの竜騎士の高空からの投槍などによる攻撃にも耐えられるように、という理由だろう。どの建物も頑強さにおいては、大陸でも類を見ないのではないか、と思えるほどだった。
 しかし、街全体の雰囲気は予想通り沈んでいる。無理もないだろう。この街は、北トラキアにおける暗黒教団の拠点でもあるらしい。特に、この地方の教団を束ねるベルドという暗黒司教の名は、恐怖と共に人々の心に刻み込まれているという。
 とりあえずシャナンは適当な宿を取った。
 このような時勢とはいえ、別に旅人はそれほど珍しくはない。むしろ、戦いに巻き込まれるのを厭い、旅を続ける者も少なくはない。ただ、難民との区別が難しいが、さし当たって宿にとっては金を払ってくれれば、それで問題はないのだろう。
「さてと、どうやって忍び込んだものだか……」
 いくらシャナンでも、正面突破できると思うほど楽観視はしていない。こういう時は、むしろ盗賊が得意とするような技術の方が便利なのだが、残念ながらシャナンはそんな技術は持っていない。
「とりあえず、様子を探るか……」
 城にあまり近寄ると怪しまれるだろうが、さし当たって旅人が城を珍しげに見てる分にはそう怪しまれないだろう、と睨んだシャナンは、夕方になると宿を出ると城の近くまで歩いていった。一応、全部の荷物を持っていく。
 城は城塞都市の名にふさわしく、堅牢な造りであることを感じさせたが、それ以上に、圧迫感を感じた。人々を威圧しようとする、そんな意思を。
「あまり長居をしたい場所ではないな……早いところ目的を果たすとするか……」
 城の入り口は正面口が一つ、それに通用口がいくつか。当然その全てに見張りがいる。
 こういう城は、大抵秘密の抜け道をいくつか持っているはずだが、さすがにシャナンにそんなものを見つける才能はない。
 とりあえず、いくつかある通用口のうち、一つ、もっとも見張りの少ない、かつ周囲から見通しのきかない通用口に標的を定めた。見張りの兵は、特に緊張した様子も見せず、大きなあくびをかみころしている。本当はすぐ行動を起こすつもりはなかったのだが、こうも油断した様子だとチャンスにも思えたのだ。
「まあ、平時はこんなものだろうな……」
 シャナンはごく普通の旅人を装ってゆっくり歩いて近寄っていく。やがてシャナンの姿に気付いた見張りは、少しだけ緊張を取り戻し、しかしすぐにそれを解いた。傍目には旅人が道に迷ったようにしか見えないからだ。
「おい、お前、何のようだ」
「ああ、すまない。道に迷ってしまって……」
 そういいながらシャナンは自分と見張りの位置を確認した。数は三人。いずれも緊張した様子はない。
「ちっ、その年になって迷う……!?」
 シャナンに話し掛けようとした見張りは、おそらく何が起こったかすら分からなかっただろう。そして、言葉が唐突に途切れたため、何事かと残り二人が顔を上げる。だが、その時にはシャナンはその二人のすぐそばにいた。
「……っ」
「悪いな」
 やや夕闇に沈みつつあるマンスターの城の一角に、風を切る音が二回。それだけだった。見張りの兵のうち二人は、いずれも白目を向いて倒れている。おそらく、一日は起きることが出来ないだろう。だが、出血はない。シャナンの剣はまだ鞘をつけたままだったのである。
「こんな奴らを斬っても仕方ないからな……」
 そしてもう一人。これはわざと急所を外したのである。苦しそうにうめいたまま、地面に転がっている。
「聞きたいことがある。答えてもらおうか」
 シャナンは男の胸倉を掴んで引きずり立たせると、剣を鞘から抜き放ち、肩の上に剣の背を乗せた。それだけで男は言葉を失ってしまう。
「この城に特別な剣があるという話を知っているな。どこにある?」
 我ながら悪役をやっているな、という認識に、シャナンは小さく笑った。だが、それすらも男には残忍な笑みに見えたのかもしれない。
「あ、ある。ち、地下の宝物庫という話だ。ほ、宝物庫はこっからだと、三つ目の階段を下りて、まっすぐだ……」
「ご苦労」
 シャナンは剣の柄で男の後頭部を打ち、気絶させた。そして、気を失った三人を目立たない場所に引きずり込む。
「さて、と。これからはもう運だな……」
 シャナンは用心深く扉を開けると、気配を殺して中に滑り込んだ。そして周囲に神経を張り巡らせる。そのとたん、奇妙な感覚に気が付いた。
「階下で騒ぎが起きている……? なんだ?」
 混乱した兵士達の気配、争いあう音、剣を打ち合う音。間違いなく、かなりの人数で争っている音である。
「反乱でも起きたか? まさかな……」
 とりあえずあまり構っている余裕はない。それに、混乱が生じているのなら、それに乗じる、という手もある。
 シャナンは気配を殺すのをやめ、やや駆け足で地下への階段へと急いだ。目的の階段はすぐわかった。
「ここか……?!」
 シャナンが降りようとしたその時、別の階段を駆け足で上がってくる気配があった。瞬間、身構えるが、相手は無防備に、何か焦った様子でシャナンの前に飛び出した。
「や、やつら止められないんだ。早く増援を……」
 上がってきたのはこの城の兵士だ。人数は二人。相当混乱しているのか、シャナンを見ても侵入者だと気付かず、必死に応援を呼ぶよう訴えかけている。
「な、何をしてるんだ、早く…………あ……」
「悪いな、味方じゃなくて」
 その言葉を最後に、兵士は二人とも、壁に叩きつけられて昏倒した。
「何が起きているかは分からんが、好都合ではあるな。混乱に乗じさせてもらう」
 一体誰が暴れているのか、それとも反乱を起こしたのかは分からないが、この際誰であろうと構いはしない。騒ぎが起こっているのなら都合がいい。
 シャナンは素早く目的の階段を下りていった。ほぼ入れ違いに、兵士が駆け上がってきた階段から何人かが駆け上がり、そのまま城内へと向かったが、それはシャナンは全く預かり知らぬことである。
 地下室は、思った以上に静かであった。単に混乱が地上に移動したからでもあるのかもしれない。廊下に申し訳程度にある灯火のおかげで、どうにか明りには困らない。どうやら、人の気配はないようだ。
「助かるな……」
 見張りがいないのはありがたい。あるいは、さっきの騒ぎのほうに全部行ってしまったのかもしれないが、とりあえずそれならそれで、好都合ではある。
 地下は構造は複雑ではないが、想像以上に広かった。もっとも、それは無理もない。シャナンは知らなかったが、ここは暗黒教団のアジトへとつながるフロアでもあったのだ。ただ、今教団の魔道士達がいないのは、地上で催し物をやっていたからなのである。
「本当に広い……ここか?」
 かなり歩き回ったあと、シャナンは明らかに他の部屋とは違う、頑丈な鍵のかけられた部屋を見つけた。内側の気配を探ってみるが、特に人の気配はない。シャナンは、周囲に人の気配がないことを確認すると、鍵を剣で粉砕した。
 中に明りはなかったが、ほとんど明りのないようなところを歩きつづけていたので、さほど困りはしない。まず目に入ったのは宝石類。それに美術品の数々。ここが宝物庫であることは間違いようだ。
「ここにあるといいのだが……?!」
 人ではない、何かの気配を感じたシャナンは、反射的に身構えつつ振り返った。その先にあるのは、一振りの剣。
「バルムンク……いや、違う。だが、これは……」
 淡い金色の輝きすら放っているように見えるその剣は、一目で普通の剣ではないことは見て取れる。頑丈な封印がかけられていて、どうやらかなりわけありの剣のようだ。
「……多分、これのことだったのだろうな……」
 シャナンは、声に落胆を隠せなかった。過剰な期待をしていたわけではないが、マンスターまでわざわざ来たというのに空振りというのは、さすがに悔しい。
 とはいえ、ここでいつまでも立ち止まっているわけにもいかない。せっかくだから、この剣をもらっていこうか、と考えたその時、同じフロアに人の気配が生じたのを感じた。どうやら見張りが戻ってきたようである。
「ちっ、こんな時に」
 多少未練がなくはないが、いちいち封印を解いている余裕もない。それに、この剣が本当に所有者を選ぶのなら、今自分が使えるという確証もない。下手をすると荷物になるだけだ。シャナンは剣を諦めると、廊下へと駆け出した。同時に、その視界の正面に黒いローブ姿が映る。
 その姿を見た瞬間。
 シャナンは全身の血液が沸騰したかのような錯覚すら覚え、文字通り矢のように駆け出していた。
「侵入者……!!」
 ローブの男の腕が踊る。その手から暗黒の波動が撃ち出された時、すでに男は絶命していた。右肩口から左胴へと文字通り切断された男は、ずるずると気味の悪い音を立てて上半身が転がり、ついで下半身がバランスを失って崩れ落ちる。
「……貴様でないのは分かっている。だが、私は貴様らを許すことはできん」
 あの、十八年前の出来事は、今でもシャナンの脳裏に焼き付いている。
 あの時、今の力があれば。それが不可能であるとわかっていても、そう思わずにいられない。だが、もう二度と敗れはしない。セリスを守り抜くために。そして、ディアドラとの約束を果たすために。
 一瞬過去への想いにとらわれかけたシャナンは、すぐさま頭を振ると駆け出した。見張りが戻ってきたということは、おそらく城内の混乱が片付いたか、あるいは命令系統が回復したということだろう。もうこの城に用はない以上、これ以上長居する必要はない。
 途中、数度兵士と渡り合ったが、シャナンはどうにか城外に脱出することが出来た。
 幸い、旅装を全部もって来ていたので、このまま帰路につくことが出来る。街道を避け、山道を登る。ふと、振り返ってみると、眼下に見えるマンスター周辺では、騎馬や兵士が整列し、物々しい雰囲気に包まれていた。よくは見えないが、南に進撃するつもりのようだ。
「やれやれ。しかし軍まで出しているとは一体、なにが……!?」
 シャナンがその場を飛び退るのと、そのシャナンが立っていた場所の地面が砕けるのはほぼ同時だった。ガラガラと崖下に、粉砕された地面が落ちていく。そして、その斬撃にかすかに見えた光を、シャナンは誰よりもよく知っていた。
「な、誰だ!!」
 今の攻撃は、間違いなく流星剣。だが、すでに流星剣の使い手は自分、それにスカサハとラクチェしかいないはずである。
「なるほど……道理で地下の捕虜が脱走した時、伝令が上にこなかったわけだ。他に侵入者がいたのか」
 現れたのは、黒髪の、シャナンより十年ほどは年長の男だった。シャナンがもっているのと大差ない大剣を片手で軽々と扱っている。一目で、並の使い手でないことは見て取れた。
「誰だ、貴様は……」
 黒髪、ということはイザーク人という可能性は十分にある。だが、流星剣を使えるとなると話は別だ。流星剣は、イザーク王家の血を引くものにしか、すなわちイザーク王家とそれらと婚姻関係にあったリボー、ソファラ、ガネーシャの者にしか使えないはずである。
「俺が誰だろうと関係あるまい。これから死ぬ者に、教える必要はない」
 来る。その男の殺気を感じ取ったシャナンは、旅装を地面に落とすと素早く剣を引き抜いた。ほぼ同時に、男の体が光に包まれる。それは、翡翠と蒼月。
「馬鹿な!!」
 先ほどは見間違いかとも思った。だが、今度は間違いない。これは紛れもなく、イザークに伝えられし秘剣、流星剣と月光剣。
「くっ……」
 シャナンはそれらを紙一重で避けた。並の者ならば、いや、スカサハやラクチェでもやられていただろう。それほどまでに、男の剣閃は鋭いものだったのだ。
「なんだと……俺の流星剣を、避けた……何者だ、貴様は」
 今度は男のほうが驚く番だった。確かに、これでしとめられなかった相手は、今までいないだろう。シャナンとて、油断したらやられかねない。
「その質問は、私が先にしたはずだが」
 一方のシャナンの方には、幾分の余裕があった。確かに、男の実力はシャナンが今まで相対した中では、間違いなく最強である。おそらく、アイラやホリンよりも上だろう。相手の正体が分からないのは不気味だが、相手の今の質問は、裏を返せば、今の一撃が絶対の自信のあった一撃であり、それをシャナンは完全に見切ることが出来た。
「……ガルザスだ」
「ガル、ザス……?」
 その名は、一瞬シャナンの記憶に引っかかった。そしてそれが、もうほぼ忘れてしまっていた、まだイザークの、王宮にいた頃の記憶を呼び戻す。
「まさか……リボーの、ガルザス公子か!?」
「貴様、なぜそれを!!」
 シャナンとガルザス、二人が同時に驚愕していた。
 ガルザスの名を、シャナンは聞いたことがあった。マリクルの姉であり、リボー公家に嫁いだリヴェラの子。つまり、自分の従兄にガルザスという名の公子がいたはずである。だが、かのリボーの暴挙の時、リボー公は自殺し、リヴェラとガルザスの行方はわからなくなった。どうやらリボーの暴挙直後に逃がしていたらしい、とは云われていた。
 その後、イザークも滅んでしまい、誰も行方不明になっていたリボーの公子のことなど、気にもかけていなかったのだ。だが、もしそのガルザスだとしたら、流星剣を使えることは、何ら不思議はない。リヴェラも、流星剣の使い手として知られた姫だったのだ。
「まさか、生きていたとは……リヴェラ伯母上も、ご存命なのか……?」
「伯母……だと……? 貴様、まさか……」
 ガルザスの表情が、驚愕から呆然とした表情へ、そして喜びへと変わっていく。
「くっくくく……そうか、貴様、シャナンか!!」
 その言葉と同時に、ガルザスは再び、先ほど以上の鋭さで流星剣を繰り出した。まさか突然攻撃されると思っていなかったシャナンは、完全に回避できず一撃が腕をかすめてしまう。だが、幸い動きに影響が出るほどの痛みではない。
「な、何をする、ガルザス」
「何をする、だと? 笑わせるな」
 ガルザスは油断なく剣を構え、じわじわと間合いを詰めてくる。
「貴様が安穏と過ごしてきた間、俺と母、そして俺の妻と娘がどのような苦難に遭っていたかなど、貴様は知るまい!!」
 再び攻撃。しかし今度はシャナンも警戒していたので、いずれも紙一重で避けた。
 そして避けて一息ついたあとに、改めてガルザスの言葉の意味するところを考えるが、まったく分からない。
「一体、何のことだ」
「裏切り者として故郷を追い出された俺と母が、どのような境遇にあったか、貴様ごときには想像もできまい」
 その声には、陰惨、と言っても余りあるほどの呪詛が込められているかのようだった。そこから、彼と彼の母が、そしておそらく妻や娘が、これまでにどのような艱難辛苦を味わってきたかが、感じられる気がする。
「……そうか……お前も苦労したのだな……」
 確かに、リボーを追われた彼らがどのような苦労をしたのか、それはシャナンには分からない。
 だが。
 シャナンは剣を構えなおすと静かにその切っ先をガルザスに向けた。
「だが、お前だけが艱難辛苦を越えてきたと思うのは、大きな誤りだ」
「ほざけ!!」
 ガルザスは三度目の流星剣を繰り出す。だが、今度はシャナンは避けようともしない。
「いつまでも通じると思うな!!」
 シャナンはその全ての斬光に対して、自らの剣をもってかすかに触れるだけで、その軌道を変え、一歩も動かずにやり過ごした。
「な、なんだと……」
「ガルザス。確かにお前の流星剣は見事なものだ。だが……」
 ただ一閃。
 シャナンは剣を水平に薙ぐ。その瞬間。
 すさまじい爆発音と共に、ガルザスの立っていた地面が、粉々に砕け散った。
「ぐああ!!」
 ガルザスはまともに爆発の余波を受けて吹き飛ばされ、転倒する。
「今、お前と戦うことは、意味がない。それに……倒す意味もない」
「なんだとっ」
 ガルザスはいきり立って立ち上がろうとしたが、全身が激痛に襲われて立ち上がることはできなかった。流星剣でもない、たった一撃。それだけで圧倒されてしまった事実に、ガルザスは愕然とした。
「ガルザス。その剣が全て暗黒に包まれていたら、私はお前を斬るのは躊躇わなかっただろう……。だが、まだ死ぬわけにはいかぬようだからな……」
 シャナンはそれだけ言うと、剣を収め、振り返って歩き出した。
「待て、シャナン。ここで俺を殺さなければ、俺はいつかお前を殺すぞ!!」
 それが負け惜しみであることは、ガルザスにもわかっていたが、だがこの身を襲う無力感と屈辱を、少しでも外に吐き出さねば狂気に呑まれそうだったのだ。
 だが、シャナンはそれには応えず、また振り返りもせずに立ち去っていく。あとには、絶望と、そして自分の奥底をあっさりと見抜かれたことに対する恐怖にとらわれた剣士が一人、ただうずくまっていた。

 グラン暦七七六年初夏。トラキア半島のマンスターで起きた事件は、後に歴史書にも記されるほどの出来事ではあったのだが、そこにシャナンの名はない。
 シャナン自身、あの時の騒ぎの詳細についてはずっとあとになって知り、ひどく驚いたものである。ただ、シャナンはこの時、人々が反抗するだけの意思を集め始めている、と感じていた。それは、とりもなおさず自分達が決起する日が、すなわち雌伏の時に別れを告げる日が近いことを示している。
 そしてグラン暦七七七年。
 希望を託された光が、ついに動き出す時が近付いてきていた。



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