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永き誓い・第三十一話




「それが、トールハンマーか……」
 巨大な雷球がその男――フリージ王ブルームの周りに浮かんでいた。その一つ一つに込められた破壊力ですら、恐らく一軍を恫喝せしめるに十分すぎる力があるだろう。大気が帯電し、肌がチリチリする。パチパチ、という音がその部屋を満たし、髪の毛がかすかに引き寄せられていくような感覚すらある。
「ふん。よくここまで来た、とは誉めてやろう。だが、私の手にトールハンマーがある限り、貴様らに勝ち目はない。それを今、思い知らせてやろう!!」
 ブルームは手を掲げ、そして振り下ろした。雷球の一つが反応し、そこから一条の電光が迸る。その、圧倒的な速度を持つ一撃は、何者にも見切ることは出来ない。
 元々、雷系の魔法は正確に放たれたら避ける術はほとんどない、と云われている。術者の手から放たれ、目標に到達するまでの時間が非常に短い――というよりは一瞬なのだ。ただ、狙点が小さく、対象に正確に命中させにくい――相手が剣を持っていたり金属鎧を纏っていれば幾分楽になるし、高位魔法であればある程度狙点が広くなるが――こと、狙点固定から発動までの時間にタイムラグ――しかも高位魔法になればなるほどこのタイムラグが大きくなる――があり、その間に対象に動かれると外れてしまう、という欠点がある。その為、高位の雷魔法の使い手は、術者としての力量もさることながら、さしずめ戦士のような戦いの技術を求められ、それによって相手の動きを読んで雷撃を放つ必要がある。
 フリージ家直属の魔法騎士団であるゲルプリッターが、純粋な魔道士ではなく、魔法戦士が多いのも、戦士としての力量も兼ね備えているからに他ならない。
 それだけ、雷魔法は扱いが難しい魔法でもある。
 しかし、それらの欠点は、神器たるトールハンマーにはほとんどない。
 狙点固定から発動までの時間は最速といわれる風魔法と同等かそれ以上に速く、また雷撃も相当太い。無論、威力は他の魔法とは比較にならない。
 ゆえに、ブルームはこの部屋に入ってきた愚かな剣士が、トールハンマーの神の雷に打たれ、絶命することを信じて疑わなかった。
 だが。
「なるほどな……確かに、並の相手ではいかんともしがたいな」
 その声は、確かに今打ったはずの剣士の声だ。ブルームは驚いて振り返ると、そこには今トールハンマーによって死んだはずの――ブルームがそう思っただけだが――男が平然と立っている。
「生憎だが、この私にはトールハンマーは通じない。かつて、我が父に通じなかったのと同じようにな」
 ブルームはそういわれて、はっとなった。彼は、あのイザーク戦争において、父レプトールがイザーク王マリクルと戦っているのを見ているのである。そして、その時その王の手にあった剣と、今目の前の男の持っている剣は、紛れもなく同じものであった。
「ば、馬鹿な。バルムンクはもう二十年近く前に失われたはずだ!!」
「さすがに分かったか。ならば、もはや無駄な抵抗はすまい?」
 シャナンはゆっくりと、しかも無防備に――少なくとも傍目にはそう見える――ブルームの方に近づいていく。
「う、うわああああ!!」
 ブルームの周囲に浮かぶ雷球から、次々と雷撃が放たれた。だがそれは、一つとしてシャナンにかすることすらなく、アルスターの謁見の間の床を穿つだけだ。
「終わりだ、ブルーム!!」
 シャナンは一気に突っ込み、流星剣を繰り出そうとする。だがその直前、突然ブルームの姿が光の円に囲まれたかと思うと、霞み始めた。
「なに?!」
 シャナンの見ている前で、ブルームの姿は完全に掻き消えてしまった。
 後に残るのは、かすかな光の円。それも、時間と共に消えつつある。
「一体これは……」
「転移魔法です」
 それまで、部屋の外で待機していたスカサハとユリアが部屋に入ってきていた。
「転移魔法……つまり、逃げたのか?」
「はい」
 シャナンの質問に、ユリアは頷く。
「急いで発動させたようですから、そう遠くへは行ってないと思いますが……でも、もう一度使ってしまえばかなり遠くまでも逃げきれると思います。恐らく、追跡は不可能ではないかと」
「……そうか。まあ、取り逃がしたのは仕方ないか。だが、目的は達っせたな。スカサハ、ブルームが逃げ出したことをセリスに知らせて来い。出来るだけ大声でな」
「はいっ」
 スカサハは急いで部屋を駆け出していく。そのすぐ後に、ユリアが続いた。
 王が逃げ出したとなれば、アルスター軍の士気は当然落ちる。というよりは、抵抗する者はいなくなるに違いない。
「しかし……凄まじい威力だな」
 シャナンは、ボロボロになった部屋を見て独りごちた。
 実際、見た目ほどに余裕があったわけではない。油断すれば、直撃しうる可能性は十分にあった。ただ、ブルームは魔道士としては――水準よりは遥かに上にあるとしても――ずば抜けて優れている、というほどではない気がした。もしこれが、トールハンマーを持たずとも『雷神』とまで称されるイシュタル王女であったら、あるいはシャナンでもそれほど余裕を持っていられなかったかもしれない。
 いずれにせよ、神器同士の戦いにおいては、武器が互角である以上、その使い手の力によって結果が変わる。そのことを、シャナンは改めて認識した。
 ややあって、外から歓声が聞こえてくる。
 それが、解放軍の勝利の声であることは、疑いようのないことであった。

 レンスターのリーフ王子の軍が無事であったという報せは、アルスター陥落の三日後に届いた。タイミングとしては本当に間一髪であったという。
 レンスター城の正門も破られ、攻撃を受けそうになるところでアレスの部隊が後背を急襲し、それに呼応してリーフ王子の軍も城より出撃、挟撃する形となってフリージ軍を撃退できたらしい。
 時間的には、アルスターが落ちた半日後、というところだ。
 セリスは早速、アルスター城の守りをシャナンとレヴィンに委ねて、軍の一部を率いてレンスター城へと進発した。従弟に早く会いたいのだろう。
 一方でシャナンとレヴィンは、アルスターの残存兵から、解放軍に協力する者には武器と食料を与え軍に編入し、解放軍に従うことを潔しとしない者達――ほとんどは生粋のフリージ軍人――については、最低限の食料と水のみを与え、城から追い出した。非情なようだが、解放軍とて無限の糧食があるわけではない。アルスターにはそれなりの備蓄があったが、それとて無限ではない。
 ただ、幸いなことに、今は季節が夏であるため、食料の調達は難しくない。彼らに生きる意思があるならば、生き残ることは出来るだろう。
 アルスターは、この先、解放軍がフリージ王国と戦っていくにあたっての新たなる拠点となった。
 解放軍の戦力は、合流したリーフ王子の軍、アルスターの降伏兵を合わせて、すでに三千。かつてのイザークでの戦いのような、ゲリラじみた戦い方が出来る規模ではない。
 そんな折、リーフ王子から分進攻撃の提案が届いたのは、夏の太陽が容赦なく地上を照りつける、晴れ渡った日の昼間だった。
「分進とはどういうことだ?」
 レヴィンが訝しむ様に使者に尋ねた。使者は、かつてのレンスターの遺臣の一人だと言うカリオンという騎士である。
「はい。リーフ王子は一日も早くマンスターを攻め落としたい、という意志をもっておられます。これは、かつてリーフ王子がマンスターにおいて囚われたとき、リーフ王子にとって恩人ともいえる方が囚われてしまったからだということです」
「ふむ」
 レヴィンは顎に手を当て、しばらく考え込む。
 その横で、シャナンも数の計算を行っていた。
 リーフ王子の戦力は、全軍で約五百。中核となるのは、リーフ王子が育ったというフィアナの者達と、マンスター解放のために戦っていたマギ団という団体、それにレンスターの遺臣達だ。特にマギ団の者達は、マンスターは出来るだけ早く取り戻したいところだろう。それに、囚われているという者は、フィアナの指導者的立場にあった者らしく、彼らも一日も早くマンスターへと行きたいに違いない。
 レンスターの遺臣達は、レンスターを奪還できたことで満足している風もあるが、だが戦いがまだ続く以上、リーフ王子についていくという覚悟はあるという。これは、自身もかつてレンスターの騎士だった者の息子であるカリオンの言葉だ。
 それに、とシャナンは北トラキアの地図に目を落とした。
 レンスターからマンスターへ向かうルートは二つある。
 一つは街道沿い――つまり、コノートから南下する方法。
 もう一つは、北トラキアの真ん中を斜めに横断し、直接向かう方法。そしてその途中にはダンツヒという砦がある。ここは、砦とあるが、実際には北トラキアにおいて、帝国に逆らった者達を収容しておく収容所だ。その性格上、そこそこの軍が駐留しており、レンスターからマンスターへ向かうにはこのダンツヒを落とさなければならない。だが、ダンツヒを解放できれば、そこにいる者達は解放軍に協力してくれるだろう。
 そして、わざわざ分進を提言してくる、ということは、リーフ王子は街道沿いではなく、直接マンスターへと向かうルートを取るつもりなのだろう。そうでなければ、こちらと同じルートを通ることになる。
「レヴィン……」
「分かってる、シャナン。考えることは大体同じようだな」
 レヴィンの視線も、シャナンと同じ場所――ダンツヒに固定されていたのだ。
「そうなると、我々としては手早くこのアルスターの近くまできているであろう敵の援軍をまず撃退する必要があるな。まあ、レンスターにも向かっているだろうが……そっちはセリスとオイフェが行っているから、何とかなるだろう」
 レヴィンはそう言ってから、レンスターからの使者であるカリオンを見やった。
「ちょうどいい。貴殿にも協力してもらうぞ」

 三日後、解放軍はアルスターを進発し、レンスターへと向かった。すでに、アルスターを奪還――最初は援軍のはずだったのだが――しようとして迫っていた部隊は、すべて撃退されてしまっている。
 時間を惜しんだレヴィンは、思い切った方法でフリージ軍を壊滅させてしまったのである。
 まず、深夜に大軍が移動したような気配を見せる。これは、実際にはカリオン以下数十名の騎士が行った偽装であった。
 そして直後から、アルスターの守りの兵がほとんどいないように見せかけた。フリージ軍は当然、解放軍が出て行ったのではないか、という風に考える。また、実際に数千の兵が陣を張ったような跡がレンスターへと向かう街道上で発見されたため、彼らはそれを確信したのだ。
 そして、彼らは僅かな守備兵力のみのアルスターを制圧し、解放軍を後背から脅かそうと考えたらしい。また、アルスター攻撃の部隊に、解放軍によって放り出された兵がいたことも、彼らの攻撃意思を加速させていたのである。特に、アルスターの守備を預かっていたレイギル将軍などは、汚名を注ぐチャンスと考えたのだ。だがそれすら、レヴィンのしかけた罠の伏線であったのだ。
 形ばかりの抵抗を受けつつ、あっさりとアルスター城内へ入ったフリージ軍は、そこで自分達が罠に嵌められたことを思い知った。
 アルスターの街を駆け抜けようとした兵士は、突然道が沈み込んだことに対応できず、ことごとく落とし穴に落ちていく。しかも勢いがついているため、後ろの兵士達も止まる事が出来ずに、次々と自軍の兵士達を押しつぶしてしまう。そこに、矢の雨が降り、突撃した兵士は壊滅的打撃を受けた。
 また、まだ城壁内に突入していなかったがゆえに鋼の雨を受けずにすんだ部隊は、突然後背から攻撃を受けた。
 カリオン率いる騎馬部隊、それに、あらかじめ城外に待機していたシャナン率いるイザークの剣士達が、それぞれ攻撃を開始したのだ。さらにアルスターからも解放軍が出撃してきて、結果、フリージ軍は三方から攻撃され、散り散りになって撤退したのである。
 壊滅的打撃を受けたフリージ軍は、再攻撃出来なくなるほどに戦力を失い、撤退するしかなった。そして解放軍は、あらためてアルスターに最低限の守備兵力を残し、レンスターへと向かったのである。
 レンスターに到着したシャナン達は、少なからず驚いた。予想以上に、城はボロボロだったからである。
「よくこれで……半年ももったな……」
 城壁はあちこちが崩れ、場所によっては完全になくなっている。そういった場所では恐らく激しい戦いがあったのだろうか、地面の色が違うのは、多分大地が血を吸ったからだろう。
 そんなことを考えながら城内を歩いていたとき、シャナンに近付いて来る人影があった。
 茶色の髪に、白い鎧を身に纏った、少年、といってもいい年齢の者だ。
「貴方が、シャナン王子?」
「……貴公は?」
 問いかけながら、シャナンはその少年の正体に気付いた。茶色の髪と、その目元には見覚えがある。
 遥かな、過去の記憶。まだ自分が、守られるだけだった存在の頃の、懐かしい記憶の中の人物と、その顔が重なったのだ。
「レンスターのリーフといいます。初めまして」
 そう言ってリーフは右手を差し出す。シャナンは少しだけ微笑んで右手を出した。
「イザークのシャナンだ。よろしく」
「剣聖とまで謳われる貴方に会えて、嬉しいです」
 リーフが握り返してくる。その後で、リーフは不意に表情を崩した。
「しかし……なるほど、よく似ている」
「似てる?」
「いえ、我が軍にシャナムというイザーク人がいるのですが……かつて貴方の名前を騙っていたこともあるらしく、容貌がどのくらい似ているのかと思ったら……」
 リーフがやや苦笑する。つられてシャナンも苦笑した。
 自分の名前がある程度有名になっているのは分かっていたが、それにしても名前を騙られるとは思わなかった。それほど似てるというのであれば、多少興味が出なくもない。
「あれ? シャナン様? いつの間にこちらに?」
 城壁から降りてきたのは、ティニーである。アルスターの戦いにおいて仲間になった少女で、フリージ軍に属していたが、実はアーサーの妹だったらしい。
「ティニー? ……いや、私はさっきからここにいたが?」
「え? だってさっき……」
 その時。
「こらぁっ!! 白状しなさいっ!!」
 すぐ向こう側の壁から突然響いてきた大きな声は、ラクチェのものだ。
「ま、まて。私はだから……」
「だから何もないっ。いい根性ね〜。シャナン様に化けようなんてっ」
「……おや。どうやら……」
 がさがさ、と近くの茂みが揺れて突然人が飛び出してきた。そのすぐ後に、ラクチェが続いて飛び出してくる。
「ラクチェ、どうした」
「あ、シャナン様。こいつ、シャナン様を騙って……」
 ラクチェがすぐ前の男をひっ捕まえてシャナンの前に引き摺り出す。それを見て、思わずシャナンは目を白黒させた。そこには、自分そっくりの顔があったのである。
「こ、これは……」
「へ……俺がもう一人……?」
「……え〜と……」
 リーフもやや呆然としてしまっている。その横でティニーが、シャナンともう一人をきょろきょろと見比べていた。
「よく見ると別の方だと分かりますけど……よく似ていらっしゃいますね……」
「彼が、シャナムだ。その……」
「も、もしかして、本物?」
「……そのようだな。なるほど。確かに似ている」
 シャナンとしては苦笑するしかない。
 自分の容姿については、実は黒髪長髪のイザーク人、という以外はあまり知られていないはずである。噂には尾ひれがつくものなのだが、なぜか自分は容貌が秀麗、ということで通っているらしい。とりあえず、目の前のシャナムの容貌は、秀麗といってもいいだろう。気持ち、自分より若い気もする。
「あ、あの〜。俺、その……」
「シャナン様の名前を騙って、女の子に声かけまくっているってのは、貴方でしょう!! 白状しなさい!!」
「私の名前で……?」
 思わずシャナンは吹き出した。多分その調子でラクチェにも声をかけた挙句、正体がばれてしまったのだろう。シャナンのことを良く知らない者ならともかく、生まれたときからずっと一緒のラクチェは、さすがにごまかされなかったらしい。もっともそれで間違えてもらいたくはないが。
「まあ彼にも悪気があったわけではないので……」
 リーフも苦笑いしながらフォローした。シャナンとしては苦笑するしかない。つられてティニーも笑い出した。
「え? あの、シャナン様?」
 ラクチェだけ一人何がなんだかわからず、きょろきょろしてしまっている。
「お〜い、ラクチェ、セリスが呼んで……あ? なにきょとんとしてるんだ?」
「う、うるさいわねっ。ヨハルヴァには関係ないでしょっ」
 ぱーん、という音が響いて、辺りが一瞬静寂に包まれる。
 およそこの上なく理不尽な怒りと共に張り手を食らわされたヨハルヴァは、どかどかと地面を踏み抜かんばかりの勢いで歩き去っていくラクチェの背中を呆然と見送った後、力なく呟いた。
「ラクチェ……俺、何かしたか……?」
 ヨハルヴァ以外のその場にいる者達は、再び吹き出していた。

 城内の一角が笑いに包まれていた頃、ユリアは一人城壁の上を歩いていた。城壁、と言ってもあちこちが破壊されていて、中には気をつけないと今にも崩れだしそうな場所もある。あちこちに染み付いた血。そしてそこかしこに転がったままの折れた剣や矢などは、戦いの激しさを感じさせた。
「こんなところに……半年……」
 それも、援軍がどこから来るという保証もなく、だ。正直、気が遠くなる。
 無論、解放軍の戦いとて、楽な戦いだったわけではない。イザークも、ダーナも、メルゲンも、レヴィンやオイフェ、セリスやシャナンらが必死になってもっとも勝率の高い戦いをしたからこそ、解放軍はここまで勝って来れたのだ。
 ふと視線を落すと、兵士のものだったのだろう兜が転がっていた。かすかにこびりついているのは、その兵士の血か、あるいは返り血なのかは分からない。
 ユリアは静かに手を合わせ、そして目を閉じると、祈るように歌い始めた。なぜか、記憶に残っていた歌。ただこれが、魂を鎮めるための歌だとは、なんとなく覚えているのである。

 永遠を鎮める森の奥
 御霊は還る その優しき腕(かいな)の内へ
 英雄も 咎人も 愚者も 賢者も 等しく
 母なる者よ 優しき者よ
 ただ今は 慈悲をもって
 その大いなる安らぎの揺り籠を
 安息を得し 御霊のために……

「その歌……」
 突然声をかけられて、ユリアははっとなって振り返った。いつの間にか、すぐ近くに少女が一人、立っていた。
 年の頃は、自分よりやや下だろうか。十三、四歳というところだ。白い、ゆったりとした服装で、どこか自分の服と似ている。だが、ユリアの目を引いたのは、その髪の色だった。ウェーブのかかったその長い髪の色は、ユリアと同じ紫銀。ユリアは、かつてシレジアで過ごしていたときから今日まで、自分と同じ色の髪を見たことはなかった。
「貴女は……」
「その歌……って、その前に自己紹介ね。私はサラ。リーフ様と一緒に戦ってるの。貴女は?」
「あ、私はユリア……です。セリス様と一緒に……」
「ユリア……どこかで聞いたことある気もするけど……」
 サラと名乗った少女はしばらく考え込む。だが、すぐそれを止めてユリアのほうに向き直ってきた。
「それより、さっきの歌、貴女、どこで教えてもらったの?」
「え?」
「歌ってたでしょう。鎮魂の歌。私が、お母さんに教えてもらった……」
 サラはそういうと、目を閉じて歌い始める。

 永遠を鎮める森の奥
 御霊は還る その優しき腕(かいな)の内へ
 英雄も 咎人も 愚者も 賢者も 等しく
 母なる者よ 優しき者よ

 それには、途中からユリアも加わっていた。二人の細い、だが美しい歌声が周囲に響いていく。

 ただ今は 慈悲をもって
 その大いなる安らぎの揺り籠を
 安息を得し 御霊のために……

「ホラ、やっぱり。ねえ、誰に習ったの? もしかして貴女も……」
「わから……ないんです。私、記憶がなくて……」
「え? あ、ごめんなさい……。もしかしたら、同じ出身かな、と思ったのだけど……」
「同じ、出身……?」
 サラはこくりと頷く。
「そう。精霊の森。ヴェルダン地方にある、かつて闇の一族が隠れ住んでいた森。今はもう、何もないけれど……」
「闇、の……?」
 その言葉が、ユリアの閉ざされた記憶の中の、扉の一つを叩く。
 血に濡れた手。赤い瞳。その向こう側にある、闇―――。
「……ユリア? どうし――」
 サラはそこまで言いかけたところで、慌ててユリアの肩を掴んだ。ユリアは、まるで何かに怯えるように肩ががたがたと震え、顔は冷や汗で濡れている。
「ちょ、あの、ユリア?」
「い……や……。たすけ……て。セリス様……」
「ユリア!!」
 突然聞こえた第三者の声に、サラは驚いて振り返った。そこにはイザーク人と思われる青年――少年と言ってもいいかもしれないが――が立っている。
「ユリア、どうした!!」
 そのイザーク人は急いで駆け寄ってくると、ユリアのそばにしゃがみこんだ。ユリアは彼の胸にしがみついて震えつづけている。
「一体……君は?」
 ここで自分をいきなり疑ったりされると思っていたサラは、ちょっと拍子抜けした。
「い、いえ。普通に話していたら突然……あ、貴方は?」
「俺はスカサハ。ユリアの護衛だ。君は見ない顔だけど……リーフ王子の軍の?」
「ええ。サラといいます。ユリア、一体……」
 スカサハは分からない、というように顔を横に振る。その腕の中で、ユリアは少し落ち着いたのか震えは小さくなっているようだ。
「ユリア、大丈夫かい?」
「……はい。ごめんなさい、スカサハ様。ご迷惑を……」
「いや、そんなことはないけれど。大丈夫? 立てるかい?」
「はい。大丈夫です」
 ようやく落ち着いたのか、ユリアはスカサハから離れて立ち上がる。その後で、自分が抱きついてしまっていたことに気付き、顔が紅潮したが、スカサハは気付かず、サラの方に向き直っていた。なぜかそれが悔しくて、ユリアはスカサハの袖を掴んでいた。
「ユリア?」
 スカサハが不思議そうにユリアを振り返ったが、ユリアは俯いたままである。
「まだ、気分悪そうね。じゃ、騎士様にお願いして私は退散するわ。あとはよろしく」
 サラはそういうと、足早に去っていった。後には、スカサハとユリアだけが残される。
「えっと、とりあえず、戻ろう。少し休んだ方がよさそうだよ。いつ出撃になるか分からないしね」
「……はい」
 ユリアは小さく返事をして歩き始めた。だがそれでも、スカサハの袖は離していなかった。

 合流して四日後、解放軍は軍を二つに分けて進撃を開始した。ちなみに、コノートから来たレンスター攻撃の部隊はすでに完全に迎撃されている。とはいえ、すぐ後続が来るだろう。ただ、これ以上レンスター城に拠って防衛しても、レンスター城の損壊度から考えて、あまり効果がないと思われることから、進撃することにしたのだ。
 リーフ王子の軍に、アレス、デルムッド率いる騎兵二百を追加した部隊は、このまま北トラキアを斜めに横断し、ダンツヒを解放した後に直接マンスターを攻撃することになっている。そして、セリス達はこのまま街道を東進する。現在ブルーム王が拠点としている、コノートを攻略するのだ。
 魔力を喰らう、とすら言われ、魔法に対して強力な魔剣ミストルティンの使い手アレスをリーフ王子の軍に回したのは、マンスターが暗黒教団のトラキアにおける拠点、と言われているからだ。本当は魔道士部隊も回してあげたいところなのだが、コノートはフリージ軍にとっても絶対に譲れない拠点であり、ここに現在トラキアにある全戦力を回してくるのは確実である。そうなると、当然かのゲルプリッターが出てくるわけで、魔道士は一人でも多く欲しいのだ。もっとも、リーフ王子の軍にも魔術師はかなりの数がいたので、無理に回す必要がなかった、というのもある。
「それじゃあリーフ王子。マンスターで」
「はい、セリス皇子も気を付けて。コノートの守備は強固と聞きます。ですが、セリス様ならきっと。ご武運をお祈りしております」
「ありがとう、リーフ王子。君もね」
 二人はそういうと、堅く握手をした。その目には、共に希望が宿っている。共に、この大陸を暗黒から解放する。その、夢物語としか思えない話が、今彼ら二人には、現実の可能性として見えてきているのだ。
「セリス様、そろそろ……」
「ああ、ユリア。そうだね。私達も出撃だ」
 セリスはユリアの言葉に頷くと、もう一度リーフの方を振り返った。
「それでは、マンスターで」
「はい、セリス皇子。それにユリア殿もお気をつけて。必ず、マンスターでお待ちしています」
 そういうと、リーフは馬に跨り、自分の部隊のいる方へと駆け出していった。後に数人の騎士が続く。
「さて、こちらも行こうか。そういえばユリア、スカサハは?」
 いつもならユリアのそばにいるはずのスカサハが、今日はいないのである。
「あ、シャナン様と部隊編成について打ち合わせ中だとかで……」
「やっぱり護衛と部隊長兼任は辛そうだなあ。護衛、変わってもらった方がいいかな」
 その言葉に、ユリアはなぜか慌てて反応していた。
「い、いえ。スカサハ様、大丈夫だって言ってましたから、その……」
 その言葉に、セリスがぷっと吹き出した。
「なんかずいぶんスカサハの護衛が気に入ったんだね。ま、とりあえず現状のままだよ。ユリア。本意じゃないけど……今回の戦いは君にもがんばってもらいたい。なら、前線にいるスカサハは最良の護衛だしね」
 セリスはなおもくすくすと笑いながら、自陣へと歩き始めた。
 ふと振り返ると、リーフ王子の軍が移動するのが、緑の切れ間に見える。
 さらに目を転じると、鮮やかな緑の稜線が広がっていた。だが、自分達はこれからそれらを赤く染め上げようとしている。それは、あるいはとても罪深いことのように思えた。
「セリス」
「……シャナン。びっくりした。どうしたの?」
「いや、戻りが遅いと思ってな。リーフ王子は、進発したのか」
「うん。……シャナン」
 セリスはもう一度遠景へと視線をずらす。もう、リーフ王子の軍も見えなくなっていて、ただ雄大な自然だけが広がっていた。
「私達がやろうとしていることも、あるいはこの大陸の――この自然の前ではとても小さく思えてしまう……。いや、いけないな。私がこんなことを言っては」
 セリスは自分で自分の頭を小突く。
「そうだな。確かに無意味かもしれん」
「シャナン?」
 セリスは意外そうにシャナンを見た。シャナンの帝国を恨む気持ちは、良く知っている。それだけに、そういうことを言うとは思ってもいなかったのだ。
「人が人を殺すこと――これ自体、すでに自然から見れば歪んだことだろう。ただ、それは帝国とて同じだ」
 シャナンはそういうと、セリスの横に並び、同じように遠くを見つめた。
「私は別に、正義の味方など気取るつもりはない。偽善であるのも分かっているし、復讐の念もある。ただ、それでもこの世界の一部として、この世界が少しでもよくなるようにするのは……この世界にいる者の役目だとおもう」
「シャナン……」
「普段からこんなことは考えてはいないさ。ものの考え方の一例だ。それより行くぞ、セリス。リーフ王子に遅れをとっては、格好がつかんぞ」
 セリスはその言葉に頷くと、再び自陣へと歩き始めた。その後ろからついてきていたシャナンは、ふと立ち止まってもう一度トラキアの山々を見る。
「復讐か……忘れたわけじゃない。だが、いつまでもそれに囚われていることなど、望みはしないだろうな……」
 元気のいい少女の幻影が、シャナンの脳裏によぎった。声が聞けるなら、きっと「当たり前でしょう!!」と言ったに違いない、と思うとなぜか笑いがこみ上げてきた。
「シャナン、どうしたの?」
「いや、今行く」
 セリスに返事をして、シャナンも陣へと戻る。その先に待つのは戦いの運命。しかし、その運命の終焉がどのようなものであるのか、それは神ならぬ身の彼らには、分かるはずもないものだった。

 グラン暦七七七年夏。解放軍はついにフリージ王国との決戦に挑む。
 まず先行するのはムハマド将軍率いるフリージ軍。フリージ軍は全軍で一万。解放軍は二千。圧倒的不利な状況の中、北トラキアの運命を決める戦いが、刻一刻と迫ってきていたのである。



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