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永き誓い・第三十二話




 レンスターを進発して一週間。解放軍はコノートまでの道の半ばほどを踏破していた。
 ここまでは、フリージ軍の抵抗は全くない。その静けさが、逆に無気味ですらある。嵐の前の静けさ、と言うべきか。恐らくは、軍を集結させて解放軍を迎撃するつもりなのだろう。
 コノートは、トラキア大河の河口にある巨大な三角州の上にある街だ。
 三角州、と言っても、その大きさは巨大で、地盤も安定している。ただ、ひたすら平坦な地形のため、攻めるに易く、守るに難い。また、いくら広いとはいえ、大軍を展開できるほどではない。その為、コノートの守りは、その三角州へと渡る大橋が最大の要である。
 ただ、これは文字通り最終防衛線だ。最初から背水の陣で挑んでくる可能性もなくはなかったが、現在でもフリージ軍は解放軍以上の兵力を備えているわけで、最初から大軍の展開し難い河の近くに布陣してくるとは思いにくい。
「来るなら、ここだろうな」
 早朝、軍議の席でレヴィンはそう断言した。オイフェも無言で頷く。
「まあそうだろうね。私が敵将でも、そうする」
 セリスはそう言って、地図に目を落とした。
 サルマージャの平原。
 レンスターからコノートへと至る道は、地図では平坦に見えるが、実際には周辺の地形はかなり起伏に富んでいる。そんな中、この平原だけはかなりの広さがあり、全体的にもなだらかな地形が多く、大軍を運用するには非常に都合がよい。
 サルマージャの平原は、街道から少し外れた位置にあるため、無視して直進できなくもないが、そうすれば橋の手前で、サルマージャの平原に配された軍と橋を守る軍とで、確実に前後から挟撃されることになる。そんな手段を選ぶほど馬鹿な手はない。
 だが、ある程度見通しの利く平原での激突となれば、純粋に数が物を言う。兵力において圧倒的に劣る解放軍は、どうやっても辛い戦いになる。
「サルマージャの平原……まあ、戦いようはあるさ」
 レヴィンは不敵に笑うと、テントの入り口から見える外の風景に目をやる。
 その時、斥候の兵が戻ってきた。それは、サルマージャの平原にフリージ軍が終結しつつあることを報告してくるものだった。

 その翌日の正午。風は逆に疎ましくなるほどに無風。初夏の眩しい陽射しが、容赦なく大地を照りつける中、解放軍とフリージ軍は戦端を開いた。
 最初はお互いに矢戦をしかけあう。それぞれ、盾を頭上に掲げ、雨のように降り注ぐ死の鋼を防ぐ。たまに盾の隙間に落ちた矢が、運悪く人に命中した時に、そこから苦痛の声があがり、倒れたところにさらに矢が降り注ぎ、確実な死をもたらす。だが、倒れた者を振り返る余裕は、お互いにありはしない。
 やがて、互いの距離が近くなると、弓を手放し、それぞれ接近戦の武器を握り馬速を上げる。数千の馬蹄が大地を蹴り、鬨の声が空を満たした。剣と剣、槍と槍、斧と斧。あるいはそれぞれが激しく交錯し、一瞬ごとに死が生産されていく。
 セリスもまた、その最前線で剣を振るっていた。セリスの青く輝く兵装は、誰よりも目立っていたため、次々に敵兵が襲いかかってきていた。だが、そのそばにオイフェの姿はあっても、シャナンの姿はない。いや、シャナンの姿は、戦場のどこにもありはしなかった。
「よくもまあ、こんな無茶な手を!!」
 オイフェの剣が敵兵の頚部を斬り裂き、絶命させる。その倒れた兵の後ろから突き出された槍を、オイフェはかろうじて避け、すれ違い様に腹部に斬りつけた。鎧の分厚いところに当たった剣からは、強烈な反動がオイフェの手に伝わったが、相手の騎士はその反動でバランスを崩して落馬し、そして一瞬後には、味方と敵の馬蹄に踏み抜かれている。
「一度に退くことができれば、楽なんだけどね!」
 その横でセリスも鮮やかな剣技を披露していた。オイフェとも違い、馬と剣を巧みに操り、周囲の状況を全て掴んでいるかのように、最小限の動きで敵兵を倒していく。
 しかし、個人の武勇はともかく、解放軍全体としてはじわじわと後退を始めていた。だが、その様子を平原近くの山の上から見下ろし、一人ほくそえんでいた人物がいる。レヴィンであった。
「無茶な作戦案なんだが……良くやってくれる。さすがはセリスだ。どうにか、上手くいったと思うぞ」
 解放軍の後退速度はだんだん増加し、やがて潰走状態になっていく。当然、勝ち戦にあるフリージ軍はだんだん暴走し、指揮官の命令も聞かずに突出していった。
「成功したら、レヴィンはペテン師の才能があるって言われるね、これは。もっともそう言えるようにしなきゃいけないんだけどさ」
 作戦を説明されたセリスの第一声がそれだった。もっとも、レヴィン自身それを否定はしていない。
「まあ、兵の実数を誤魔化すのは用兵の基本だ」
 レヴィンはこの戦いにおいて、二重の罠をフリージ軍に仕掛けていた。
 まず、重装備の騎兵を揃えて、それを前面に並べ、突撃する。そして、可能な限りフリージ軍を食い止める。そして、精鋭二百の騎兵をリヴィルドというイザークの剣士――かつてのガネーシャ公エルオンの孫で、祖父同様馬上での剣技に長けている――に率いさせ、後方の森に待機させていたのだ。サルマージャの平原の南側は、広大な森林地帯になっていて、大軍を潜めるのは不可能だが、二百程度なら隠すことが出来るのである。
 さらにレヴィンは、フリージ軍の将軍達の情報が不正確であることを利用した。
 解放軍の兵力は、アルスターを攻撃したときは一千だったが、レンスター攻略後、実は二千以上に膨れ上がっているのである。これは、レンスター、アルスターが解放されたことにより、北トラキア各地から志願兵が集まったり、あるいはかつてのレンスターやアルスターの遺臣らが立ち上がり、資金を提供したり傭兵を提供した結果である。そしてレヴィンは、この増えた兵力をわざと遅れて進発させ、解放軍の兵力が増加させたことを気付かせないようにしたのだ。そして、その全兵力をシャナンに任せ、敵陣のさらに後背に回り込ませているのである。
「頃合かな……」
 レヴィンは右手をかざすと、小さく呪文を唱えた。やがてその右手に風が渦巻き、やがて圧倒的な力――竜巻となる。レヴィンの手から放たれた竜巻は、周囲の木々を巻き上げ、遥か天空へと放り出した。それはもちろん、戦場からも見える。それが、合図だった。
 長く伸び切ったフリージ軍の戦線の中間に、温存していた二百の騎兵が側面から襲い掛かった。まさか兵が伏せられているとは思っていなかったフリージ軍は、その数すら確認せずに混乱状態となる。リヴィルドは敵兵を倒すことではなく、ただ幾度も駆け抜けることにのみ主眼を置いて、ひたすら戦場を駆けた。
 結果、フリージ軍の中陣はいくつにも細かく分断される形となってしまった。そしてそこに、セリス率いる解放軍が撤退を止め、逆撃に転じる。無秩序に突撃していたフリージ軍は、その整然と反撃に出た解放軍によってかなりの打撃を受け、そして自分達の後背が襲われたことを知り、壊乱状態となり、われ先に撤退を開始した。そこに、軍隊としての秩序はもはやない。
「反乱軍だ!! やつら、俺達を包囲するつもりだぞ!! 逃げ場がなくなる!!」
 実は、最初の一言目は、フリージ軍の軍服を失敬した解放軍の兵士が叫んだものである。だが、その言葉は瞬く間にフリージ軍の前線部隊全体に広まり、フリージ軍は完全に混乱して撤退――というより逃走を開始した。そこに、容赦なく解放軍が襲いかかる。
「一体前線では何が起こっているのだ」
 フリージ軍を指揮するムハマド将軍は、苛々しながら側近に言葉を求めた。だが、側近もまた、混乱しているだけである。
「と、とりあえず前線部隊がやられているようなのですが……」
「おのれ……オーヴォ将軍が先走らなければこのようなことには……」
 本来、レンスター攻撃の部隊はムハマド将軍とオーヴォ将軍の二人の将軍の部隊で行うはずだった。だが、オーヴォ将軍は功を焦り、先にレンスター城を攻撃、すでに敗死している。元々戦力的に一千の部隊であったこと、また、オーヴォ将軍が攻撃をかけたときは、まだリーフ王子の軍とセリス皇子の軍が共にレンスターにあったため、完全に包囲、殲滅されたらしい。
 その為、ムハマド将軍はリーフ王子の軍が分進したのを確認してから進軍し、かつ他の将軍の部隊まで借り受けてきたのだが、このままでは自分もオーヴォ将軍の後を追いかねない。
「やむをえん。全軍、迎撃体制を敷きつつ後退。軍を再編……」
 その時、後方から怒号が聞こえ、ムハマド将軍は言葉を止めた。やがて怒号の中から、言葉がいくつか聞こえてくる。
「反乱軍だ〜。背後から攻撃してきたぞ〜〜〜!!」
「なんだと、そんな馬鹿な!!」
 反乱軍は目の前にいるだけで全軍のはずだ。この上、まだ背後に回す戦力などあるはずはない。
「落ち着け!!どうせ少数の突貫部隊だ!! 惑わされるな!! 包囲して叩き潰せ!!」
 この指示は、彼がもっている情報の範囲なら、正しいものだった。彼のもっていた情報ならば、解放軍はどうやっても背後にせいぜい百程度の兵力しか割くことは出来ないはずだったからだ。
 だが、このとき背後から襲い掛かった解放軍の兵力は、彼の想定の十倍。一千もの兵力だったのである。
「しょ、将軍。後背からの反乱軍の兵力はおよそ一千です!!」
「な、なんだと!?そんな馬鹿な!!」
 もしここで、ムハマド将軍がまだ平静を保ち、兵力の再結集と再編成を図ることが出来れば、まだフリージ軍の本陣の兵力は合計で三千。互角以上の戦いが出来るはずだった。だが、ムハマド将軍にはそこまでの才能はなかったのである。
 彼が取った行動は、結局我先に逃げ出すことだったのだ。
 そして当然だが、指揮官の遁走はそのまま全軍の混乱へと繋がる。
 指揮官逃亡、の報を聞いた兵士は、戦況が絶望的であると考え、我も我も、と敗走を開始した。
 そこに解放軍が容赦なく襲いかかる。
「一兵たりとも逃がすな」
 レヴィンから出されていた指示である。ここで逃がした兵士は、ある程度はそのまま逃げ出すだろうが、残りはそのままこの後のトラキア大河の戦いで再び敵となる。非情なようだが、ここで一人でも減らしておかなければならないのだ。

「あ〜あ。見てらんねえなあ。戦場についたら終わってるようなもんじゃねえか」
 そう言ってぼやいたのは、まだ少年と言っていい年齢の、金髪の若者だった。短くそろえた金色の髪は、陽光に照らされて美しい光を放っている。そして同様に、あるいはそれ以上に美しい光を反射(うつ)している弓が彼に手にあった。
 立っているのは、戦場を見下ろせる、木々が茂っている小高い丘である。
「ったく、あの女が一緒に運んでくれりゃあ、もうちょっと早く着いたのに」
 コノート城を出る時に、一緒にブルーム王に出陣を命じられたフリージの王女イシュタルに対して、彼は毒づいた。彼女はさっさと転移の魔法で戦場に向かってしまったのだ。一緒に送ってくれ、と頼んだのだが、あっさりと無視されてしまった。
「とりあえず……仕方ないから指揮官でも射落としておくか……」
 少年はそういうと、左肩にかけてあった弓を持ち、矢筒から矢を一本取り出すと、ゆっくりと弦を引き絞り、狙いを定めた。
「まずは……と」
 あまり殺すつもりはない。だが、とりあえず戦闘力を奪わなければ話にならないだろう。
 ビン、という弦が大気を震わせる音が響き、矢が放たれた。
 巻き上げ式の弓ではない普通の弓は、普通、長距離の的を狙う場合、やまなりに矢を射放するのが一般的である。上級の練達者は、その放つ角度と弓の強さで、正確に命中させるのだ。
 だが、今少年が放った矢は、やまなりではなく、一直線に飛んでいった。空気を引き裂き、全ての抵抗をねじ伏せるかのようにして、目標へ恐ろしい速度で飛来し、そして部隊を指揮していた騎士――リヴィルド――の右足を射抜いた。距離にして二百歩以上。圧倒的な弓勢と正確さである。
「さて、一人、と」
 その結果を完全に見定めず、少年はもう一度矢をつがえると、今度は別のやはり指揮官っぽいのを狙った。
「よし、今度はあいつ、と……」
 再び弦が大気を振るわせる。そしてその矢は、狙い過たずその指揮官――シャナンの元へと飛来していった。

「シャナン様!!」
 ラクチェの言葉に、シャナンは一瞬動きを止めた。その、ほんの一瞬。視界のはしに、自分に向けて飛来する矢が映る。
「なっ……!!」
 シャナンは反射的にバルムンクを振るい、矢じりを弾き飛ばした。本能的に、矢を叩き折っても矢じりだけでも自分のところに到達すると感じたからである。
「ぐっ、な、これは……」
 信じられないほど重い一撃だった。受けた右手が、若干痺れてしまっている。弓矢でこれだけの威力のある一撃など、聞いたこともない。
 周囲を見渡すが、弓を持っている敵兵はいない。当然だ。こんな乱戦の中で弓を使えば、間違えて味方を射抜く確率だって十分高いのだ。
 そうなると――と顔を上げたシャナンに、再び矢が襲いかかる。シャナンはかろうじて上体ををそらして矢を避けた。その矢はそのまま地面にめり込み、矢自体が見えなくなる。とんでもない弓勢だ。
 何者かは分からない。だが、これほどの者を放っておいては、あるいはセリスが危ない。
「スカサハ、ロドルバン、この場は任せる!!」
 シャナンはそれだけ言うと、馬首を返し、疾走させた。しかし、真っ直ぐ走ることはせず、不規則に。そうでもしなければ、今の射手に射抜かれる確率が高いからである。だが、不思議なことに、それ以上矢は飛んでこなかった。

「……嘘だろ……俺の矢を、続けて二回も……?」
 攻撃を予知することは不可能なはずだ。まして、この弓によって放たれた矢は、圧倒的な速度と破壊力で対象に迫る。それを見切ることなど、人間には不可能だ。
 だが、二回続けて避けられたのは、少なくとも目の前で起きた現実である。しかも、相手はこちらに気付いたらしい。馬首を返してジグザグにだがこちらに向かってくる。
「冗談じゃない。いくらなんでもあんなのとやれるか」
 接近戦にも、かなりの自信はある。平和なれしたフリージ軍の将兵などに遅れをとるつもりはない。だが、自分の矢を弾いたり避けたり出来るような化け物相手に、自分の剣や体術が通じると思うほど、自分の能力を過信してはいない。
「とりあえず移動して……」
 少年がそう思った矢先。
「こらっ、お兄ちゃん!!」
「そ、その声は……」
 少年は恐る恐る振り返る。そしてその視線の先に予想通りの人物を見つけた時、半ば安心し、半ば驚いていた。
「パ、パティ。なんでお前がここにいるんだ?! ったく、半年も留守にして。心配しただろうが!!」
「お兄ちゃんこそなんでこんなところにいるのよ。まさか、フリージ軍に雇われているんじゃないでしょうね!!」
 パティはずかずかと、彼女が兄と呼んだ少年に近付いていく。その迫力に、思わず少年がたじろぎ、それでもなお踏みとどまると反論を開始した。
「だ、大体お前が何でここにいるんだ? まさか、反乱軍に属しているのか?」
「とーぜんじゃない」
 パティは、兄のささやかな反撃をあっさりと受け止めた。
「どっちが正しいかなんて考える必要ないでしょう? お兄ちゃん、忘れたの? 教会の皆が何で親を無くしたか。それも全部、フリージ王国のせいでしょう? フリージ王国や、グランベル帝国の軍隊があの子達の親を殺したのよ。それなのに、なんでその連中に雇われてるのよっ」
「い、いや、それはその……」
「お兄ちゃん、いつもそう。肝心なところが抜けてて、考えなしで」
「ちょ、ちょっと待て。考えなしとはなんだ。お前だっていつも教会空けて、子供達に心配かけて。デイジーにばっかり負担押し付けて」
「お兄ちゃんと違って、私はちゃんと考えてるもん。お金ちゃんとたまったら帰るし、お金なくなる前には絶対教会に戻るもん」
 それは屁理屈というのだが、この場合兄は妹の一方的なまくし立てに、とっさに反論を思いつかない。
 その時、近くの茂みから馬が飛び出してきた。
「ここにいたか!!」
「い?!」
 馬は鮮やかに少年の前に着地し、そして馬上の人物はそのまま少年に剣を振り下ろそうとする。
「シャナン様、ダメー!!」
「パティ!?」
 暴風に近い風が周囲に吹き荒れた。
 少年が死を覚悟して閉じた目を開いた時、彼の前には妹が立っていて、そのすぐ上にはすらりとした美しい剣がある。ただ、その剣は剣の面が地面と平行になっていた。
「パ……パティ?」
「……無茶をする。大丈夫か?!」
 馬上の黒髪の剣士――先ほど矢を弾いた人物だ――は鮮やかに馬から飛び、パティの前に降りたった。
「あ……あははは……腰、抜けちゃった……」
 ずるずるとパティがそのまま崩れ落ちる。それを、黒髪の人物は慌てて馬から飛び降りて支えた。
「お、おい……。しかし、一体どういうことだ?」
「えっとね、この人、私のお兄ちゃんの、ファバルなの」
「お前の、兄?」
「で、お兄ちゃん。この方、イザークのシャナン王子。知ってるよね?」
「げ」
 ファバルは、思わず全身から冷や汗が流れた。
 最強とも謳われているシャナン王子に自分が斬り付けられた、という恐怖が今ごろになって分かってきたからである。確かに、シャナン王子なら自分の矢を弾くことも造作もないだろう。自分は、とんでもない相手を射倒そうとしていたのだ。
「え、えっと……俺、いや、私は……」
「……そうか。ということはその弓……確かに見覚えがある。なるほどな」
「え?」
 一瞬何を言われたか理解できないファバルを放って、シャナンはパティの方に向き直った。
「どうだ? 立てるか?」
「う〜ん。だめ〜。シャナン様おぶってください〜」
 そのとたん、シャナンがパティの両肩を離した。当然、支えるもののなくなったパティは、地面にぺたん、と座り込む。
「どうやら立てるようだな。しかしどこに行っていたかと思えば……」
「てへへ……やっぱり気付かれちゃいますね」
 パティはそう言うと、平然と立ち上がった。
「なんとなく、気配、っていうのかな。お兄ちゃんが近くにいる気がしたんです。まあそれに、可能性考えたらお兄ちゃんがフリージ軍に雇われている可能性、高いし。お兄ちゃん考えなしだから、きっと雇われているだろうって。あ、これでもコノートではアサエロさんと並んで有名な傭兵なんですよ。で、お兄ちゃんがいるならこの辺かなあ、と思って」
 考えなしはやめろ、というファバルの抗議の声が途中に挟まったが、パティは綺麗に無視していた。
「なるほどな……大体分かったが……。ファバル、これからどうする?」
「いや、どうするって言われても……パティはどうするんだよ」
「私? もちろんシャナン様についていくよ。それに……お兄ちゃんも行かない?」
「俺は……」
 傭兵としての義理はなくもない。だが、元々後払いの仕事でもあったし、それほどこだわる理由もないといえばない。
「来るがいい。お前達の両親のことも教えてやる」
「……え?」
 ファバルは目を見張り、それから妹を見た。パティはにっこりと笑って頷いてみせる。
「ちょ、それどういうことだよ!!」
「話は後だ。戦いは、まだ終わってないからな。せっかくだ。この位置からわが軍を援護してくれ。パティ、終わったらファバルと一緒に合流しろ」
「は〜い」
「ちょ、ちょっと待てよ!!」
 ファバルが慌てて追いつこうとするが、シャナンは素早く馬に飛び乗ると、そのまま斜面を見事に駆けて、戦場へと戻っていく。
「一体、どういうことなんだ……。パティ、何か知ってるのか?」
「う〜ん。話はあとあと。とりあえず、今はシャナン様を助けてよ、ね?」
「……分かったよ。ったく。後で絶対、全部話してもらうからな」
 ファバルはそういうと、再び矢をつがえると狙いを定めて射放した。矢は、かすかな光すら散らして、フリージ軍の将軍の肩を射抜いた。

「お、俺がユングヴィ公家の継承者……? これが、伝説の十二神器の一つ……?」
「それだけじゃない。君の父上は、ほぼ間違いなくヴェルダンのジャムカ王子だ。つまり君は、ヴェルダン王国の継承者でもある」
 ファバルは呆然としたまま開いた口がふさがらなかった。
 これまで天涯孤独の身だと思っていたのが、いきなり君は王子様だと言われて理解できるほうがおかしい。
「……まあいきなり理解しろって方に無理があるだろうね。でも、聖弓イチイバルは強力な戦力だ。歓迎する。リヴィルドも、怪我はラナが治してくれた。そうかからず回復するだろう」
「あ……その、すまなかった。俺、そんなの全然考えてなくて。その、あの軍人さん、大丈夫だったか?」
「心配はないよ。命に別状はない。それにしても、あれはわざと足を?」
「ああ。戦争だからって、そうむやみに人殺しもな。でも、本当にすまなかった。セリス皇子」
「気にしなくていいよ。リヴィルドも無事だったし、君という大きな戦力を得ることも出来た」
 セリスはそういうと、ファバルに手を差し出す。ファバルは戸惑いつつ、その手を握り返した。
「いや、俺が馬鹿だった。これからは皇子、そして解放軍のためにこの弓を使う。それが、父さん、母さんの願いでもあると思う。これから、よろしく」
「こちらこそ、よろしく頼むよ、ファバル」
「パティ、どうした。そんなに嬉しいのか?」
 それまで無言で見ていたシャナンが、すぐ横で嬉しそうにしているパティに気付いて声をかけた。
「えへへ。そりゃ、やっぱりお兄ちゃんと一緒だと嬉しいし」
 シャナンはふっと笑うと、天幕の外に目を向けた。
 外ではまだ、戦後処理のために走り回る兵士達が見える。
 この戦いは勝利に終わったが、まだ次がある。
 だが、その過程において、かつてシグルドと共に戦った人々の忘れ形見たちが次々と参戦してくれることに、シャナンは何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。

 グラン暦七七七年夏。解放軍はムハマド将軍の部隊を撃破し、ついにコノートへと迫る。そしてその手前にあるのは、雄大な流れをたたえるトラキア大河と、そしてコノートへといたる唯一の道コノート大橋。その橋を制圧すれば、コノートは陥落したも同然である。だが逆に、それはフリージ王国の最後の砦。その戦いは、間違いなく、総力戦となるだろう。
 フリージ軍は、相次ぐ敗戦と敗走によりその数を減らしたとはいえ、なお六千もの大軍を擁している。対する解放軍は二千。
 後の歴史書に『トラキア大河を全て朱色に染め上げた』とまで記述されたコノートの戦いが、いよいよ開始されようとしていたのだった。



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