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永き誓い・第三十四話




「ねえ、シャナン」
 肩で息をしているセリスは、血に濡れた剣を手に、もっとも信頼する者の名を呼んだ。
「どうした、セリス」
 応えた方も、相当息は上がっている。
「何人倒したか、覚えている?」
「覚えているわけがないだろう」
 まだ、戦闘が始まってから半刻も過ぎてはいないはずなのだが、すでにセリスの勇者の剣には血がこびり付いて使い物にならなくなり、今セリスが握っているのは、別の――といってもすでに三本目――剣である。だが、これももう限界に近い。
 対するシャナンのバルムンクは、さすがにまだ輝きを失ってはいない。セリス以上に敵兵を倒したはずなのだが、その刀身には血がこびり付くことなく、未だに美しい刃は、夏の陽光を受けて輝いている。
 しかし、それを振るうシャナンの方は、すでにかなりの体力を消耗していた。
 本来、人間が全力で行動できる時間というのは、せいぜい一分程度である。いや、実際にはもっと短い。
 もちろん、常に全力で動きつづけているわけではないのだが、間断なく襲いかかる敵兵相手に、気の休まる暇すらありはしない。
 おまけにこの夏の太陽が、彼らの体力を容赦なく奪いつづけているのである。
 だが、さすがにここへ来て、敵兵の動きも少し鈍くなってきた。
 すでに、橋上の解放軍の周りには、一千近いフリージ軍の将兵の屍が転がっている。対する解放軍の損害は、死者に至ってはまだ数十、負傷し、戦闘不能になった兵を入れてもまだ百にも達していない。さすがに、そのあまりの戦闘能力の差に、フリージ軍も攻撃の手を控え始めたのである。
 幾度か、フリージ軍が距離をおいて弓を放とうとしたのだが、セリス達は敵後衛と無闇に距離を空けないように移動して戦った。また、フリージ軍としても、彼らに橋を突破されては、あとは広い三角州の中にコノートの城砦があるだけであり、コノート城を失陥する可能性を考えると、あまり後退することも出来ないのである。
 また、橋の西側の敵兵は、現在はほとんど攻撃して来ていない。どうやら後衛部隊が相当頑張っているらしい。しかしそれでも、セリス達がぎりぎりの戦いを続けていることには変わりなかった。
 橋の上に転がっている死骸は、当然だがそのまま放置され、場所によってはそれがバリケードにすらなっている。考えてみたらおぞましい話ではあるのだが、そのおかげで解放軍は騎馬隊の突撃を喰らわずにすんでいるのである。
 しかし、今は夏であり、死体は見る見るうちに腐食し、刺激臭を放ち始める。その臭いはその場にいる者を滅入らせるに十分だ。
 もっとも、セリス達はすでに感覚がどこかおかしくなっているのか、あるいは嗅覚が死んでしまっているのか、何も感じなくなっていた。
「セリス、一度下がれ。ここは私が食い止める。その間に、傷の手当てをしろ」
「……分かった」
 幸い、今は敵は一度様子見に入っている。その間に、せめて傷だけでも癒しておかなくてはならない。
「セリス様、大丈夫ですか?」
「ああ、ラナ、頼む」
「は、はい」
 ラナが杖をかざし、暖かな光が溢れ出す。その光の中、セリスは傷の痛みがすっと引いていくのを感じていた。
「ありがとう、ラナ。ラナは、大丈夫?」
「大丈夫です、セリス様。私なんかより、セリス様達のほうが……」
 そう言いながらも、ラナも肩で息をしている。回復魔法は、普通の魔法より体力を使う、と以前聞いたことがある。ラナは今日、ずっと回復魔法を使い続けている。幸い、今は戦局が膠着しているが、多分すぐにでもまた、フリージ軍は大挙して押しかけてくるだろう。
「無理はしないでね。それに、今西側は何とか抑えているけど、いつこっちに来るか分からない。そうしたら、すぐ報せてね」
「はい。セリス様こそ、お気をつけて……」
「うん。じゃあ、行ってくる。どうやらまた敵の攻撃が始まりそうだし。ラナは後ろに下がって」
 見てみると、今度は重装甲の騎馬兵が槍を突き出してゆっくりと前進してくる。ラナは慌てて後退した。
「けっ。そんな鎧で俺のイチイバルを防げるかよ」
「雷の魔法もなっ」
 敵はまだ十分距離があると思っていたのだろう。だが、ファバルのイチイバルの一撃と、アーサーの雷の魔法はその距離で造作なく飛来した。途端、慌てふためいて一部戦列が崩れるが、それでもなお指揮官が纏め上げて突撃を開始する。そこに容赦なく襲いかかる魔法と聖弓の攻撃に、少なからず数を減らしたフリージ軍を、シャナン、セリス、オイフェらの部隊が迎撃した。
 特に、シャナンの働きは凄まじかった。
 敵兵の一人と斬り結んだと思ったら、次の瞬間にはその背後にいる。そこから、突如溢れ出した光がすべて刃となって敵に襲い掛かるのだ。その威力は、重装甲であるはずの騎兵の鎧すらまるで紙のように切り裂いていく。
 落馬した敵兵は、そのまま味方の馬に踏み抜かれ、あるいは落ちた時に頭を打ったりして動かなくなる。
 石で作られたコノート大橋は、雨が降ったときのために橋上の水を河に流す溝があるのだが、いまその溝に流れるのは雨水ではなく、莫大な量の人間の血だった。そしてその血が流れ込むトラキア大河は、徐々にその色を澄んだ青からどす黒い血の色へと変えていく。
 その様は、あまりにも不吉な光景だった。

 その頃、コノート城内にいるスカサハ達も、かなりの窮地に陥っていた。予想していたより遥かに多くの兵士が、城内に残っていたのである。
 最初、見つからずに城内を移動していたスカサハ達だが、いくら少人数とはいえ、六人が固まって城内をうろつけば、目立つ。結局そうかからず見つかってしまい、すでに三回、戦闘を潜り抜けている。
「なんでこんなに中に兵士が残っているんだ!? それも、錬度もやたら高いぞ」
「ヨハルヴァ、声、大きいっ」
 現在六人は、適当な部屋に逃げ込んで、隠れているところだ。まだ城の二層目。ティニーによると、確か六層構造だったというから、まだ半分も来ていない。もっとも、ティニーも、コノートには入ったことはなく、イシュタルから聞いたことがあるだけらしいので、詳しい構造は知らないのである。
「仕方ない。こうなったら二手に分かれよう。旗を持っていくのと、囮と。急がなければ、セリス様達が危ない」
 スカサハの提案に、全員迷わず頷いた。実際、有効な方法などそうありはしない。
「じゃあ、ティニーとユリアの……」
「待ってください。それじゃあ、もし剣で襲われた時に、私とユリア様では何も出来ません。それに、旗を持っていく方だって、十分危険です」
 ティニーが即座に反論する。確かに、その通りである。
「しかしじゃあ……」
「スカサハとユリア、でいいんじゃない? こっちはこっちで上手くやるわよ。パティもいるし」
「しかし……」
「魔法使いがいたとき、ユリアなら大丈夫だし、スカサハなら並の兵士には負けないでしょう?なら、ベストじゃない」
 ラクチェはそう宣言すると、すっと立ち上がった。ヨハルヴァ、ティニー、パティも立ち上がる。
「じゃ、私達が盛大に暴れてくるから、あとよろしくね。スカサハ。言っとくけど、失敗したらただじゃ置かないからね」
「ちょ、ちょっと待てっ。それなら、ラクチェが……」
 スカサハが呼び止めようとしたが、その時すでにラクチェ達は部屋から飛び出していた。直後、強烈な雷撃の魔法の音が響く。
 慌てて追いかけようとしたスカサハを、ユリアが驚くほど強い力で引き止めた。
「行きましょう、スカサハ様。ラクチェ様達の、そしてセリス様達の想いを無駄にしないために」
「ユリア……」
 驚くほど真剣な表情。その表情に、スカサハは自分自身のなすべきことを思い出した。それから、深呼吸して心を落ち着かせる。
「そうだね。やるべきことを、確実にやらないとね。ごめん」
 そういうと、スカサハは床に置いてあった剣を持ち直した。かつて、父が使っていたという銀の大剣。狭いところでは長大な剣は運用が難しいのだが、スカサハはなぜか、そういう状態での剣の扱いがやけに上手だった。ラクチェに言わせると器用すぎる、ということだったが。
 二人は用心深く外に出ると、騒ぎから遠ざかる方向に廊下を駆けた。
 ラクチェ達は相当派手に暴れているらしく、激しい剣戟の音がして、それに時々、ティニーの使う雷の魔法の音が重なる。
 その音を背中に聞きつつ、二人は階上へと上がっていった。階段を上りきったところで、用心深く周囲を見渡す。耳を澄ましてみると、遠くで十数人の走る音が聞こえるが、こちらに来る様子はない。
「よし、行こう。とにかく上に行かなくちゃ」
「はい」
 二人はそのままさらに階段を上っていった。用心深く進むが、上のほうになれば、さすがに警備の兵はほとんどいない。
 しかし、もう大丈夫だろう、と油断したわけではないが、少なからぬ焦燥が、スカサハの注意力を乱していたらしい。
「スカサハ様!!」
 突然ユリアがスカサハの腕を掴んで引っ張らなければ、スカサハの頭は恐らく、柘榴のように割られていただろう。実際、一瞬前までスカサハの頭のあった位置を通過した斧の一撃は、そのまま石造りの床を砕き散らした。
「くっ……!! ユリア、すまない」
 スカサハは素早く体勢を立て直して剣を構えなおし、敵を見据えた。スカサハより頭一半つは背の高い、大男。だがその割には、体は引き締まっていて、隙がない。
(強い……)
 スカサハは本能的にそう感じた。同時に、これほどの戦士がなぜここに、という疑念も沸いてくる。ほとんどの戦力は、出撃したと思っていたのに。
「ふん。直接ブルーム様を狙う、か。まあ数に劣る貴様ら反乱軍としては、それしか手はないだろうな」
 その言葉に、スカサハとユリアは一瞬目を見張る。
(ブルームがまだここにいる?)
 フリージ国王ブルームは、てっきり出撃しているものだと思っていた。まさか、まだコノート城内にいるとは。
 同時にそれで、予想以上に城内に兵が残っていたことにも、合点がいく。確かに、国王が残っているなら、警備の兵はある程度以上残っていて当たり前だ。
「ユリア、下がっていて」
 スカサハはそういうと、油断なく剣を構えて数歩前に出た。そして、相手の武器を見据える。
 長い柄と、大きな刃を持つ戦闘用の斧だ。直撃すれば、ひとたまりもないだろう。だが、当たらなければいいだけのことだ。先端に重量の偏った斧は、どうやっても振り回した後に隙が生じる。それが斧という武器の欠点だ。まして、あれほど大きく長い斧ならば、相当の膂力があってもその隙はかなり大きなものになる。
 要は、最初の一撃さえ避ければ、逆にこちらが一撃で勝てる。懐に飛び込んでしまえば、一瞬で倒すことができる。相手が重甲冑を身に着けているならともかく、相手は皮製の軽い鎧を着ているだけなのだ。
「…………」
「…………」
 しばらく、お互い無言の睨み合いが続く。その沈黙を破ったのは、相手のほうだった。
「貴様にこれでは勝てんな」
 男は突然斧を手放すと、懐から皮製のケースに包まれた、手斧を取り出した。それも、通常の手斧より一回り小さい。いや、斧というのも少し違うかもしれない。柄を完全に刃が覆っている。マンゴーシュなどの手甲の部分が刃になってて、剣の部分がない感じの武器だ。少なくとも、スカサハはそんな武器は初めて見る。
「さて、行かせてもらうぞ!!」
 男はいきなり踏み込んできた。しかし、油断していなかったスカサハはその動きを見切って、大剣を振り下ろす。だが、それはあっさりとその武器に受け止められた。だが、そこから先が予想外であった。
 相手はスカサハの剣の勢いを完全には殺さず、受け流してスカサハの体勢を崩す。だが、そこまでは普通にも十分にあるし、スカサハも予期していた。受け流され、体勢を崩されながらも、スカサハは次に来るであろう相手の斬撃――と言っていいかどうかは疑問だが――に注意を払っていた。ところが。
「ぐっ?!」
 思わぬ方向から脇腹に衝撃を受け、スカサハは吹き飛んだ。相手は、スカサハの剣を受け流す体勢からそのままに、スカサハの脇腹を蹴ったのである。しかも、今更のように気付いたが、男のすねから足の甲にかけては、金属で補強した防具がついていたのだ。それでも致命傷にならなかったのは、ひとえにスカサハの類稀なる反射神経のなせる技だろう。直撃を受ける寸前、頭よりも先に体が反応して、僅かに攻撃の急所を外していたのだ。
 だがそれでも、かなり大きなダメージには違いない。
「まさか、蹴りとは……」
 その攻撃手段を知らないわけではない。だが、蹴りというのはスカサハにとっては相手の意表をついたりする、ちょっとした隙を伺うためのものであり、それ自体に攻撃の主眼を置くことはない。しかし、今受けた一撃は、まるで棍棒で殴られたかのような威力を持っていた。とっさに急所を外さなければ、多分殺されるか気を失うかしていただろう。
「今のを急所を外したか。だが、ダメージはかなりきているようだな」
 スカサハは、強がって平然と立ち上がろうとして失敗し、よろめいてしまった。実際、立つのも辛い。だが、今ここで自分が倒れてしまうと、ユリアを守るものがいなくなる。ユリアは魔法の技量は一級だが、こんな男に攻撃されれば、一瞬であの細い体は吹き飛ばされ、大怪我――下手をすれば死んでしまう。
「どうかな……だが、俺はまだ剣を持っている。一撃であんたを倒すには、十分な体力も残っている」
「ほう……。まだそれだけの強がりを言えるか」
 男は油断なく構えると、じわじわと間合いを詰めてきた。
 間合いはスカサハの方が長いが、男はあの武器で剣を受け流すことに相当なれている。それは、先ほどの動きからもよく分かった。そして、受け流して相手の体制を崩したところに、強力な蹴りを見舞うのだ。その、ほぼ完璧な連続技は、今のスカサハには破る術が思いつかなかった。
「なら、手段は一つしかないよな……」
 呼吸を落ち着ける。蹴られた脇腹は焼けるように痛むが、それを黙殺してスカサハは全神経を、相手と、そして自分の剣に集中した。
 並の剣士なら、この相手に勝つのは相当困難だろう。だが、自分は剣士として最強と謳われるイザーク王家の人間だ。そして、イザーク王家の者を最強たらしめてきた力こそ。
「いくぞ……受けてみろ!!」
 突如、スカサハの体から光が溢れた。翡翠色の、燐光のような淡い光。そしてそれに重なる、蒼月の輝き。
 その光が数条、まるで弧を描くように、次々と男に襲い掛かった。
 その光に対して、本能的にそれを危険だと感じて武器で受け止めようとしたのは、男が非凡であることの証明といえるだろう。だが。
「ぐはっ?!」
 次の瞬間、光は何者にも遮られずに、壁を、天井を、床をずたずたに引き裂いていた。当然、男も。
「ば、バカな……」
 男の武器は、鋭利な刃物で切られた粘土細工のようにずたずたになっている。そして、男の皮鎧もその役目を全くなさず、ずたずたにされていた。個々の傷自体はそれほど深くはないのだが、全身を斬り付けられ、そのことごとくが急所を斬り裂いている。十分致命傷だった。
 それでもなお、しばらく男は立っていたのだが、やがてふら、と体が傾いだ後、そのまま床に倒れこんだ。
「はあっ、はあっ」
 先ほどのダメージと、今の攻撃の反動だろう。スカサハは立っていられるのが不思議なくらいの状態になっていた。
 流星剣を繰り出すのは、無論これが初めてではない。だが、流星剣と同時に月光剣まで使用したのは、これが初めてであった。それに、流星剣や月光剣は実はかなりの体力を消耗する。正確には、技の反動が大きいのだ。体力が十分にあるときであれば、その反動にもたいした影響は受けないが、今のように大きなダメージを負っているときは極力使うな、とシャナンにいつも言われていたのである。それを、しかも二つ同時に使ったのだから、この状態は無理もないことだった。
 その時、ふわり、とした暖かさにスカサハは包まれた。すぐにそれが、ユリアの回復魔法だと気付く。
「あ、ありがとう、ユリア……」
「いえ……これだけの傷と疲労だと、完全回復はちょっと無理ですが……」
 言っている間に、光が失せ、代わりにスカサハはかなり楽になっていた。完全とはいえないが、十分ではある。
「まだ、痛みますか?」
「いや、もう大丈夫。それよりさっきの男……ブルームがここにいるって……」
「ええ……まさか、コノートに残っているなんて……」
「ちょっと二人とも、まだこんなところにいたの?」
 突然出現した第三者に、二人は驚いて振り返ると、そこにはラクチェ達がいた。そして、階下からは大勢の兵士が駆け上がってくる音が聞こえる。
「ちょっと厄介なのがいたんだ。それよりラクチェこそ……」
「敵の数が予想以上に多いのよ。だから、ある程度狭い通路捜して上にきたの」
 そこでスカサハは、まだラクチェ達がここにブルームがいることを知らないことに気が付いた。とりあえず、手早く説明する。ラクチェ達は驚いていたが、一人だけ、全く意外そうにしてない者がいた。というよりは。
「やっぱり……そうでしたか」
「ティニー?」
「……ごめんなさい。なんとなくそうじゃないかと思ってはいたのですが、確信がなかったので……すみません。ラクチェ様、叔父様とは私が決着をつけます。ここ、お願いします」
 ティニーはそれだけ言うと、いきなり走り出した。あっという間に廊下の角を曲がって消えてしまう。五人は思わず呆然としてしまった。しかしその間にも、敵は間近に迫ってきている。
「あ〜、もうっ。とにかくスカサハとユリアは旗を!! ティニーは……」
 ラクチェが言いかけたとき、すでにパティが走り出していた。
「ティニーは私が見てくる。任せて!」
 そういうとパティはティニーが消えた廊下を走っていく。
「ちょっと待て。ラクチェ、それなら俺もここで……」
「いいから行って。今のあんたじゃ、足手まとい。ユリア、スカサハを頼むわ」
「……はい、分かりました」
 ユリアは即座にスカサハの手を取って走り出した。いきなりであったのと、ラクチェにずばっといわれたことが堪えていて、危うく転びそうになりながらも、スカサハは「死ぬなよ!」とだけ言い残すとユリアについていく。
「死ぬわけないじゃない。ヨハルヴァと一緒に死にたくなんかないわよ」
 するとその横で、ヨハルヴァが半ば本当に泣きそうな顔になっていた。
「そんなに……嫌か?」
「あら、ヨハルヴァは死にたいの? 私と一緒に」
「……いや、死にたくねえな。一緒に生きるなら大歓迎だ」
 その言葉に、ラクチェがにっこりと微笑む。
「じゃ、精一杯頑張りましょうっ」
 その通路に駆けつけた兵士にとって、この日は生涯最期の厄日であったことは、言うまでもない。

「な、なぜたった数百の兵士を、殲滅できん!!」
 フリージ軍の将軍は、苛立った声で怒鳴っていた。
 すでに戦いが始まってから一刻(一時間)以上が経過している。橋上の敵軍は、すでに僅か二百。疲労も限界のはずだ。だというのに、未だに殲滅することが出来ない。むしろ、突撃すればした数だけ、フリージ軍が戦死者を出す有様になっている。
「し、しかし……敵の先頭に立つイザークのシャナン王子には、我が軍の兵士では到底太刀打ちできませぬ……」
「やかましい!! いかなイザークの継承者といえど、かつては神剣を持っていても討ち取ることが出来たのだ!! 奴には今神剣がないはずだ!! なぜ殺せん!!」
 フリージ軍の将軍ザインラッドは、かつてのイザーク戦争にも参加していたのだ。当時はまだ将軍などではなく、一部隊を預かる隊長に過ぎなかったのだが、イザーク王の異常なまでの強さを、間近で見た一人なのである。ゆえに、シャナンの力も十分に分かっているつもりだ。だが、バルムンクはあの戦いで失われ、すでにシャナンにそれほど絶大な力があるはずはないのだ。あのイザーク王の力とて、神剣によってこそのものだったはずである。
「そ、それが……」
 恐る恐る進言してきたのは、先ほど突撃し、部下の全てを失って、ほうほうの体で逃げてきた部隊長の一人である。
「あのシャナンの持つ剣。あれは明らかに普通の剣ではありませぬ。もしや、あれは神剣バルムンクでは……」
「何をバカなことを!! 神剣は二十年も前に失われた!! それがなぜ奴の手にある!!」
「し、しかし……兵はこぞって恐れ始めています。イザーク王の手に神剣が戻っている、と……」
 かつてのイザーク戦争におけるマリクル王の鬼神の如き強さは、いまもなお伝えられる伝説の一つとなっている。グランベル軍全軍を以ってなお止めることが出来ず、グランベルの継承者達が共に協力して、やっと討ち取ることが出来たのだ、と。特に継承者三人でも圧倒されたことには緘口令を布きはしたのだが、人の口に垣根は立てられない、ということか。
「臆病風に吹かれおって!! もうよい。このわし自ら、神剣などではないと証明して見せるわ!!」
 ザインラッドはそういうと、愛用の長槍を従者より受け取り、自分の近衛騎士に突撃の号令をかけ、自ら先頭に立って突撃を開始した。
「イザーク王子シャナン!! このフリージ将軍ザインラッドが相手になろうぞ!!」
 長槍を振りかざし、ザインラッドは橋上の敵軍へと突撃する。
 そしてその時、彼は確かにそれを見、そして恐怖に凍りついた。
 もはやどす黒い赤に染め上げられたコノート大橋の、その凄惨な光景の中、ぼんやりと金色に輝く剣と、それをもつ黒髪の長髪の剣士の姿を。そしてそれは、彼に二十年前の、あのグランベルの継承者達がたった一人の継承者に圧倒されていた、あの光景を思い出させる。
 直後。
 彼とその近衛騎士達は、生と死の境界線を一瞬で越え、帰らぬ人となる。
 そして、将軍が討ち取られて同様が走るフリージ軍に追い討ちをかけるような声が、軍列の後方から伝わってきた。
「コノート城が制圧された!! 解放軍の旗が、コノート城にはためいている!!」

 コノート城失陥。この報はフリージ軍を大きく動揺させた。
 フリージ軍の動揺につけいるように、橋上の解放軍二百が突撃。同時に橋の西側で戦っていた解放軍もまた、全軍でフリージ軍を突破、そのままの勢いで二百の兵士によって混乱しているフリージ軍へと攻撃をかけた。
 そしてそこにさらに追い討ちをかける報告が、フリージ軍にもたらされる。
 フリージ王ブルーム戦死。
 この報がもたらされた途端、フリージ軍は総崩れとなって潰走を開始した。
 グラン暦七七七年夏。北トラキア戦争最大の戦いであるコノートの戦いは、フリージ軍の瓦解によって終了した。
 解放軍側の戦死者四百。対するフリージ軍の戦死者は二千五百。解放軍はこの勝利によって、北トラキアのフリージ家の勢力の、大半を殲滅したことになる。残るは、コノートの南マンスターを守る部隊のみ。
 そしてほぼ同時刻。
 コノートの南、マンスターにおいて、リーフ率いる解放軍によるマンスター攻撃が始まろうとしていたのだった。



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