前へ 次へ

永き誓い・第三十六話




 心地よい涼気を含んだ風が、辺りを駆け抜けた。
 夏の強い陽射しの下を駆け抜けてきた風とは異なり、山の木々の間を抜けてきた風は、適度に涼しさを宿していて、暑熱を和らげてくれる。加えて、イザークの冷たいが乾いた風とも違い、この風は瑞々しさを感じさせた。
 そんな心地よい山中を歩くのは、イザークの王子シャナンと、ユングヴィの公女――本人にすら自覚がないが――であるパティである。
 最初はパティとファバルのはずだったのだが、ファバルは軍の再編によって、新たに結成された自分の部隊の仕事に忙殺されてしまい、出発まで大忙しとなってしまったのだ。
 コノートを陥落させ、事実上フリージ王国が滅亡してからというもの、コノートには――恐らくはマンスターにもだろう――義勇兵が続々と集まってきていたのだ。オイフェ、レヴィンもその仕事に忙殺されているのだが、シャナンはなぜか逃げ出すことが出来た。というのも、先日ファバルやパティの孤児院に宿泊したために、仕事の分担を振られなかったのである。ちなみにその分のとばっちりを受けたのはスカサハとヨハルヴァだ。本当はファバルも一度は孤児院に戻るはずだったのだが、弓兵部隊の編成作業をレスターらと共同でやらされていて、それどころではなかったらしい。
 で、この手の仕事は途中で引き継ぐより、いっそ一人が最後までやったほうが早いことが多い。特に今回は、日数もない。
 というわけでシャナンは、恐らく彼に割り当てられるはずの仕事の、本来の十分の一程度の仕事しか回ってこず、あっという間に終わってしまい、手持ち無沙汰になったところを、パティが気分転換に、と山歩きに誘ったのである。
 シャナンとしても、周囲の恨みがましい――時には殺意すらこもっているのではないかというような(特にスカサハやヨハルヴァ)――視線から逃げるのにもちょうど良かったため、パティの誘いに乗った、というわけだ。
 ちなみにそのあとで、またシャナンに割り振るのがちょうどいい仕事が増えたのだが、それで泣いたのは今度はオイフェだったらしい。
 そういうわけで、シャナンとパティは、コノートの南にある丘陵地帯に出かけたのである。
 この辺りは、トラキア大河のすぐそばまで山が迫っていて、それが天然の堤防になっている。ただ、水は山を通して逆側にも小川を作っているようで、山の逆側には肥沃な土地が広がっているわけだ。
 その、トラキア大河に面している斜面の森の中は、大河の上を通過した風が斜面を駆け上がるため、時折その河の冷たい水気を伴った風が吹き抜ける。そのおかげで、真夏とは思えないほど涼しくて気持ちがいい。
「よく、皆と一緒にハイキングとか、来たんです」
 そう言ってシャナンを先導するパティは、本当に嬉しそうだった。
 正直、パティにもシャナンが来てくれるのは予想外だったのだ。兄が忙しくてダメ、となって意外にシャナンが手持ち無沙汰らしい、という話を聞いたのでダメ元で誘ってみたのである。
「気分転換にはいいだろう」
 というのがシャナンの承諾の返答。
 実際、シャナンとしても多少気晴らしをしたいというのはあった。
 オイフェ達には悪いが、多少気が滅入っていたというのはある。
 一体、先の戦いで自分は何人殺したのか。誇張ではなく、先の敵の戦死者のうち、四人に一人以上を、自分一人で殺していている。
 人を殺すことに対して、かつてのように躊躇することはない。かといって罪悪感を感じないわけではない。彼らとて、親や兄弟や、あるいは恋人や妻子がいただろう。それを奪ってしまう権利は、誰にもありはしない。
 無論、今この大陸では、彼らより遥かに理不尽な理由で、同じように家族を、友人を、恋人を失う者が数多くいる。
 その者達のためということは簡単だが、奪われたものの大きさに変わりはない。
 戦っているときはそんなことを考える余裕もないが、今、あのコノート大橋の惨状を思い出してしまうと、自分が既に血の泉に沈んでいっているのではないか、という錯覚すら覚える。かつて、初めて人を殺したときと同じ、だがそれより遥かに深い感覚となって。
「シャナン様?」
 名を呼ばれて顔を上げた先で、パティがやや心配そうにシャナンを見つめていた。半瞬、目が合う。
 澄んだ曇りのない瞳。人を殺す罪悪も、その闇も知らないその清純さは、ある種シャナンには眩しいとすら思えた。
「楽しく、ないですか?」
 少しだけ沈んだ声。
「いや、少し考え事をしていただけだ。しかし、気持ちのいい場所だな」
 ふと振り返ると、トラキア大河の美しく雄大な流れが見える。
 先の戦いでは、大橋の周辺が赤黒い血の色に染まったが、今は太陽の光を反射して、時々美しく輝いている。そこには、戦争の凄惨さを感じさせるものなど何もない。
 人の愚かな争いも何も、全て飲み込んでしまうかのように、大河はいつもの光景を取り戻している。所詮、人の営みなどこの大陸の中では微々たるものなのかもしれない。
「へへ。いいでしょ、ここ。私のお気に入りの場所なんです。コノートに戻ったら、絶対行こうって決めてて。ただまだフリージ兵とかいないとも限らないから、ちょっと怖かったんですけど……」
「私は護衛役か? まあ、かまわんがな。気晴らしにはなる」
「世界最強の護衛ですね」
 そう言ってパティが笑い、シャナンも少し微笑んだ。
 さらに少し歩いたところで、見晴らしの良い、少し開けたところがあり、二人はそこでパティが作ってきた弁当を広げ、一休みすることにした。
「……パティ、意外に料理とか上手なんだな」
 一口食べたシャナンが、驚いたように口を開いた。正直、予想以上に美味しかったのである。
「ひど〜い。意外にってなんですか。これでも、孤児院を切り盛りしてるから料理はなれているんですっ」
 パティは不満そうにぷぅ、と頬を膨らませる。
 その顔が可笑しくて、シャナンは思わず吹き出した。
「あ、ひどい〜。人の顔見て笑うことないじゃないですか」
「そうは言うがな、その顔、鏡で見てから言った方がいいぞ」
「う〜」
 そのパティの表情に、シャナンは今度は声を出して笑った。

「お疲れ様。大丈夫ですか?」
 ようやく一区切りついて、ソファに横になって休んでいるスカサハのところに、ユリアがレモン水を持ってきてくれた。地下水をくみ上げた水で作ったレモン水は、冷たく冷えていて、慣れない仕事に疲れていたスカサハには、非常にありがたかった。
「ありがとう、ユリア。しかし……肩が凝るね、こういうのは。戦場の方が、気は楽だよ」
 スカサハは明るくそう言って笑ったが、ユリアはその言葉に、逆に沈んだような表情になる。
「ユリア?」
「私は……この方がいいです。セリス様やスカサハ様に、命の危険がない方が……」
「あ……ごめん」
 スカサハは自分の迂闊さを後悔した。最前線に出ることの少ない――今回のコノート戦はある種最前線にいたが――ユリアにとって、戦いはいつも誰かが死んでしまうのではないか、という恐怖に脅えさせる存在なのだ。
 無事に皆が戻ってきたときのユリアの表情は、いつもとても嬉しそうで、今ではスカサハはそのユリアの笑顔を見たいがために戦っているという気すらしている。
「いえ、その……」
「確かに、戦場の方が楽、というのは可笑しいよね。まあ無理に考えなくていいからなんだけどさ、でも、考えてみたらこうやってのんびりできることなんて、戦場じゃ無理だし、そう考えればこれも悪くないよ」
「スカサハ様……」
 ユリアは安堵したように微笑むと、空になったスカサハのコップに再びレモン水を注ぎ、それからテーブルの上の書類をまとめ上げると窓を開けた。
 夏とはいえ、城の高層に位置するこの部屋には、かなり気持ちのいい風が入ってくる。先ほどまでは、書類が風で吹き飛ばされないように窓を閉めていたのだ。
「ほら、気持ちいいですよ、外」
 やや強い風に煽られて、ユリアの紫銀の髪がたなびく。それがちょうど陽に透けて、まるで水晶細工のような美しさを思わせた。
 一瞬、その様に見惚れたスカサハは、やや照れたように視線をそらすと、書類が風で吹き飛んでいないことを確認する。その後、横目でユリアを見やったが、彼女は外の風景を見ているようだった。
(ユリアは俺のことをどう思っているんだろう……?)
 ユリアと話すようになった最初のきっかけは、セリスがスカサハにユリアの護衛を頼んだことだった。レヴィンがガネーシャで現れたときに連れてきていた儚げな印象の少女。それがユリアだった。
「スカサハなら、安心して任せられるから」
 セリスはそう言って、スカサハに護衛を依頼した。
 もっとも、実際に四六時中護衛しているわけではない。
 スカサハも、今では部隊を預かる身であるし、ユリアは後方支援が主だ。必然、戦場では違う場所にいることが多くなる。コノート攻略戦で最後まで一緒だったのは、むしろ珍しい。
 もっとも、ユリアの出実については謎が多い。
 回復魔法が得意だと言っていたユリアだが、同時に彼女は強力な光の魔法の使い手でもあった。その実力は、同じ魔術師でフリージ公家の血を引くアーサーやティニーらをして、驚嘆させるほどである。
 ただ、それほど強力な光の魔法の使い手、となるとその出自は必然限られてくる。元々、光の魔法の使い手、というのは非常に少ないのだ。
 スカサハはよく知らないが、光の魔法、というのは相当に才能があるか、あるいは血の力――すなわち、聖者ヘイムの力――を継承していなければ、使いこなすことは困難らしい。
 ある種、自分やラクチェが使う流星剣に似ている。あれも、オードの直系か、その血を引く者以外では、使いこなすことは出来ないと云われている。他の三星剣は、修練次第では修得も可能らしいが、流星剣は例外らしい。
 そしてユリアは、別に魔法の修練を積んだ記憶はないという。もっとも、十歳以前の記憶がまともにないのだから、あてにはならない。
 ただそれでも、あれだけ強力な光の魔法を使いこなす、ということは、相当に才能があったか、あるいはヘイムの血を継承しているか、だ。しかし、ラナに聞いたのだが、ユリアにはどこにも聖痕はなかったらしい。
 もっともその事実は、スカサハを安心させた。もしユリアがヘイムの力の継承者――すなわちグランベル王家の人間だとしたら、自分では近づくことすら出来ない存在になってしまうような気がしたからだ。
(多分、俺はユリアに惹かれている……よな)
 気付いたのは少し前からだ。
 こういう穏やかな時間、というのはスカサハも好きだった。
 なまじ、妹のラクチェが騒がしいだけに、そういう言う時間が貴重だった、というのもある。
 ただ最近は、それ以上になぜか嬉しく思っていることに気が付いた。そして、以前と違うことは、常にユリアが一緒にいる、という点だ。実際、ユリアが何か用事でいない時などは、そういう感覚はないのである。
 ただ、ユリアが自分をどう思ってくれているか、ということになると、さっぱり分からなかった。
 嫌われてはいない、とは思う。だが、嫌われていない、と好かれている、の間には大きな隔たりがあることは、スカサハにだって分かる。
 訊いてしまうのは容易いが、訊いてしまうと今の関係を壊しそうな気がして、結局訊く気になれなかった。それに、今は戦争中だ。そんなことで、お互いが遠慮しあうようになってしまって、実際の戦いで気が散ってしまうかもしれない。まずは、この戦争に勝つことだ。そのあとからだって、遅くはないはずだ。
「スカサハ様、どうしました?」
「え? ああ、別に。ちょっとぼーっとして。疲れているのかな、やっぱり」
「少し、休まれますか?」
 それも非常に魅力的な提案だったが、せっかくこんな穏やかな時間をユリアと一緒に過ごせているのを、終わらせてしまうのが惜しく思えた。
「……いや、まだいいよ。夜に眠れなくなる。外、何が見える?」
「綺麗ですよ。今日はよく晴れていて。海が、まるで宝石みたいに」
 ユリアはそういうと少しだけ身体をずらした。
 スカサハは、多少動悸が早くなるのを自覚しながらも、その空いた場所に行き、外の景色を眺める。
「本当だ。これは綺麗だね。疲れも吹っ飛ぶよ」
「はい。本当に、とっても綺麗ですね」
 そういうと、ユリアもまた遠方へと視線を投じた。
 風が、二人の間を優しく吹き抜ける。
 できれば、こんな時間がずっと続けばいい。
 そう思っていたのは、決してスカサハだけではないことを、この時のスカサハが気付くことはなかった。

 その頃、ヨハルヴァはようやく全ての仕事を終えて、次の仕事を与えられる前に、早々に逃げ出していた。
 スカサハ以上にヨハルヴァはこういう仕事が苦手である。細かい部隊の編成や人員の把握、および装備の手配と確認など、今までまともにやったことはなかったのだ。
 無論実際に手を動かすのはさらに部下の者達ではあるが、その報告を逐一受けて、問題がないことを確認するのはヨハルヴァの仕事である。出された報告の内容をきっちり理解し、問題があれば指摘して再確認させなければならず、そういう細かい仕事は本当に苦手だった。
 だが、いいかげんそう無責任でもいられない。
 実際、イザークから自分を慕ってついてきてくれた兵士、それに兄ヨハンの部下などは、やはり自分以外の下につきたがらなかったし、ヨハルヴァも出来れば自分で面倒を見たいと思っていた。
 これまではそういう雑務を得意とする部下もいて、ヨハルヴァは最後に『問題なかった』という報告を受けるだけで済ませていた。しかし、それを担当していた者が、今回、セリスらと共に、先にマンスターに向かってしまったのである。
 やっと慣れない仕事が一段落したので、雑務から逃げ出せた、というわけだ。
 とりあえず城を出たヨハルヴァは、海の方に向かった。
 海を、ただ見てみたかったのだ。
 彼が領主として赴任したソファラは内陸の土地であったし、これまでの進軍はそんな余裕はなかった。加えて、あまり海沿いに近い進軍ルートを辿らなかった、というのもある。
 さらに、ヨハルヴァは生まれてからずっと、実はまともに海を見たことはなかったのだ。幼少の頃はドズルにいたし、ドズルからイザークへの道はイード砂漠南方の草原地帯を通った。イザーク王国内は、もう完全に内陸の街道伝いだ。
 現在いるコノートは、幸運にも海辺にある、といっていい街である。無論城からも海は見えるが、ヨハルヴァは波打ち際、というのもぜひ見てみたくて、馬を走らせて海岸へと向かった。
「……すげぇ……」
 海岸へと辿り着いたヨハルヴァは、ただ一言、それだけを言った。
 亡き兄であるならば、あるいはここでしゃれた言葉の一つでも出ただろうか、などと思ってみるが、考えてもやはり自分からはしゃれた言葉は出なかった。だが、あるいは兄でもそんな言葉は無理だったのではないだろうか、とすら思える。
 無限に連なる波と、遥か彼方まで広がる水。途絶えることのない、浜辺へと打ち寄せてくる波の動きは、法則性があるようでいて、よく見るとその全てにおいて毎回違うものであることがわかる。その波の崩れるざざー、という音ですら、どこか神秘的なものすら感じられた。
「こんなの見ると……自分がちっぽけだなあ、って改めて思い知るよなあ」
「でも、やれることはやらないと、じゃない?」
 突然かけられた声に、ヨハルヴァは驚いて振り返った。そこに立っているのは、黒髪の、横の髪だけ長く伸ばしている少女。無論、ヨハルヴァのよく知る人物である。
「ラクチェか。どうしたんだ?」
「別に。ただ、なんとなく来てみただけよ」
 ラクチェはそれだけ言うと、ヨハルヴァの隣に座り込んだ。ヨハルヴァは何か言おうとして――やめて、寝転がる。やや傾いた陽が、空を少しずつ朱色に染め始めていた。今見えているのは東の海なので、そちら側は暗い。それがちょっと残念に思えた。ただ、朝陽はこちらから昇るはずである。
「お仕事、お疲れ様」
「ん? ああ。まあ、なんとかな。俺もいつまでもただ戦場で暴れりゃいいって身分というわけにもな」
「少しは、頭使うようになって来たじゃない」
「……ラクチェ、お前、俺をどう思ってるんだ?」
「猪突猛進の馬鹿」
「…………」
 ヨハルヴァががっくりとうなだれる。その様を見て、ラクチェが声をあげて笑った。
「いまさら落ち込むの?」
「そうは言うがなあ……。惚れてる女に言われたら、それなりに傷つくぜ?」
「えっ……」
「どうした……って、あ……」
 ラクチェが半ば凍ったのを見て、ヨハルヴァは自分があっさりと『告白』してしまっていたことに気が付いた。
 一応、自分の気持ちは、もうずっと前から決まっていた。
 ただ、亡き兄への遠慮から、今まで言えないでいたのだ。ヨハンもまた、ラクチェのことが好きだったのは、よく分かっていた。だから二人は、解放軍に加わる時、密かに「抜け駆けはしない」という約束まで交わしている。
 しかし、ヨハンは戦死した。
 イザーク最後の戦いである、リボーでの戦闘において。
 そしてヨハンは死の間際、ヨハルヴァにだけこう囁いたのだ。『ラクチェを、他の奴に取られたら、承知しないぞ』と。
 果たしてこれが本気であったのかどうかは分からない。
 ヨハンは死に、自分だけ生き残った。
 あの時、ヨハンは自分を庇って死んだ。つまり、本来なら自分が死ぬはずだったのだ。その事実が、ヨハルヴァにラクチェに対して遠慮をさせてしまう要因になっていたのである。
 それだけに、今口走ってしまったのは、ヨハルヴァとしてはかなり迂闊であった。だが、言ってしまったことを取り消すことは出来ない。
「分かっては、いたんだけどね」
「………………」
 ラクチェのその言葉は、ヨハルヴァにもそれほど意外なことではなかった。実際、自分もヨハンも言動は分かり易すぎるほど分かり易かっただろうから。
「ただ……ごめん。今は、考えられない。まだ、忘れられそうにない」
 既に生者ではない者。ラクチェの中に、これ以上ないほどに強く面影を残している兄。おもわず、ヨハルヴァは臍をかんだ。
「ごめんね。……私、もう行くね」
 ラクチェはそういうと、そそくさと立ち上がって立ち去っていく。ヨハルヴァはしばらくそれを見送っていたが、ふと東の暗くなった海を見て、それからもう一度ラクチェの方に振り返ると、大きな声で呼び止めた。
「ラクチェ、明日の早朝、もう一回ここに来ないか?」
「え?」
「いや、たいしたことじゃないんだが……」
 ヨハルヴァは少し照れくさそうに笑うと、西の空を見やった。こちらは、海ではなく北トラキアの大地が広がっていて、陸の黒い影の上に広がる空は鮮やかな朱色だった。
「こんなのんびりできるの、もうしばらくないような気がしてな。朝日を、一緒に見ないか?」
 一瞬の沈黙。
「うん、いいわよ」
 そう言って振り返ったラクチェの表情は、逆光の影響もあって、ヨハルヴァには見えなかった。

 シャナンとパティが戻ってきたのは、ほぼ日も暮れて、辺りが薄暗くなってきてからのことであった。
 街の入り口の門の辺りは、間もなく閉ざされることを告げる鐘が鳴り響いている。
「シャナン様、早く戻らないと、閉め出されちゃいますよ」
 パティがせかすように腕を引っ張る。
 実際にはシャナンなら、別に閉め出されてもすぐ入れてもらえるのだが、パティはそういうことは念頭にないらしい。
 苦笑しつつも、パティに引っ張られるままだったシャナンが突然立ち止まったのは、門まで後少し、という場所だった。
「シャナン様?」
「……パティ、先に戻っていろ。門番、すまないがしばらく開けたままにしておいてくれ」
 シャナンはそれだけ言うと、いきなり駆け出して街道脇の木々の間に消えてしまった。
「シャナン様!?」
 パティが呼び止めるのも聞かず、シャナンは森の中を駆け続けた。
 やがて、やや開けた場所に出ると、そこには一つの人影を認める。そしてそれは、予想通りの人物であった。
「久しぶりだな、ガルザス」
 かつて、シャナンがマンスターを訪れたときに戦った、シャナンの従兄にして流星剣の使い手。そして滅ぼされたリボーの公子。
 その実力は、シャナンの知る限りは、ほぼ最高レベルに位置する男だ。
「良く来たな、シャナン」
 直後、金属同士のぶつかり合う音が、周囲に鳴り響いた。
 互いに無言のまま、剣を打ち合わせ続ける。並の剣士であれば、何が起こっているかも分からないような速度で、二人はしばらく剣を合わせつづけていた。
「さすがに、勝てぬか」
 ガルザスは一度離れると、別に悔しそうにな表情も見せず、剣を収めた。
 シャナンも剣を収め、小さく息を吐くと、ガルザスのほうに向き直る。
「これからどうするつもりだ」
「……決めてはいない」
 ガルザスはそっけなく答えた。だがそこに、迷いは感じられない。
「我々と共に戦うつもりはないのか」
 ガルザスはそれには答えず、自分の荷物を背負うと歩き出した。
「伝言なら聞くが?」
 ガルザスがわざわざこんな場所でシャナンを待っていた理由は、何かあるはずである。シャナンはそのことを言ったのだが、どうやら図星だったようだ。
「マリータを頼む。お前なら、決してあの娘の剣を、俺のように間違えた方向へは進めまい」
「……分かった」
 マリータ、というのは初めて聞く名ではあった。ただ、何者かは大体想像がつく。シャナンは短くそれだけ答えた後、さらに言葉を続けた。
「死ぬなよ」
「そのつもりだ」
 その言葉を最後に、ガルザスは森の闇の中に消えた。あとには、静寂だけが残されている。
 ガルザスに何があったのか、無論シャナンは完全に理解などしていない。
 ただ一つだけいえることは、ガルザスは本来の――すなわち、オードの力を継承する者の一人としての誇りを、完全に取り戻している、ということだ。
 そして同時に、これまでの自分の贖罪のために、残りの全てを捧げる覚悟なのだろう。
 その時、少し離れたところからパティが自分を呼ぶ声が聞こえてきた。その、あまりにも雰囲気の違う明るい声に、シャナンは思わず苦笑する。
「シャナン様、どこ行ったんですか〜? もうすぐ門閉められちゃいますよ〜」
 同じ戦いの道を選びながらも、自分はやはり運がいいのだろう、とシャナンは感じていた。
 確かに辛い時期はあったが、それでも仲間達がいた。あるいは、ガルザスもティルナノグにいたら、違う運命があったのではないだろうか、などとも思う。もっとも、あまり想像は出来ないが。
「シャナン様〜?」
 パティの声が、一層近くなって聞こえてくる。シャナンはもう一度苦笑してから、パティの声に応えた。

 二日後。再編成を終えたコノート残留部隊は、マンスターへと進発した。
 僅か四日間の駐留であったのだが、その間にも続々と義勇兵が集まり、結局一万近い大部隊での移動となる。
 マンスターの情勢は、現時点ではトラキア軍との睨み合いが続いている状態らしい。そこにこれだけの大軍がマンスターに到着すれば、トラキアとしても無駄な争いは避けてくれるだろう、というのがレヴィンの読みだった。
 だが。
 解放軍は、トラキア王国の誇り高さを侮っていたことを、すぐに思い知ることになる。



第三十五話  第三十七話

目次へ戻る