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永き誓い・第三十八話




 ターラの周囲は奇妙なほど静まり返っていた。
 もっとも、それが文字通り嵐の前の静けさであることは、誰もが分かっている。
 ターラの公女リノアンを大将とした解放軍は、ターラまであと百歩程度の場所まで来ていた。
 空は嫌味なくらいに晴れ渡っていて、満月まであと数日、と迫った月が、地上を優しい光で照らしている。街の明りを目指す者達には、十分過ぎるほどの明りだが、しかし、街から外を見張る者達には、必ずしも十分とはいえない。まして、接近する者達が、ほぼ黒い軍装を纏っている、とあればなおさらだ。
 解放軍はこのために、黒馬以外の馬には黒い軍装を纏わせ、さらに蹄は布で覆い、口には布をかませて、徹底して音を立てないようにしていた。
 解放軍は総数約五百。ターラを攻める軍としてはとても多いとはいえないが、かつてリーフ王子はこれの半数の軍をもってターラの包囲網を破り、ターラに至ったというから、無茶ということはないだろう、というのがアレス、シャナンらの意見だった。
 この正面に回っている部隊を指揮するのは、名目はリノアンであったが、実際にはオルエンという女騎士が指揮官である。元はフリージの騎士だというが、リーフは「信用できることは間違いないから」と彼女を指揮官に推挙したのだ。本来なら、アレスかシャナンが指揮すべきだが、今回は彼らは別行動なのである。
 そして、月が中天に差し掛かった頃、突如として轟音が響き渡った。
 何もない虚空に、突然光の蛇がのたうち、それが複雑な軌道を描いて城壁の上に落ちたのだ。
 部隊の先頭を進んでいたオルエンが、長距離雷魔法サンダーストームを、城壁の上の敵に向けて放ったのである。そして同時に、それまで息を殺していた部隊が鬨の声を上げて城壁へと肉薄する。
 ターラの城壁は、本来強固なはずであったが、一年前の戦いでかなり崩壊し、今も応急修理程度しかされていない。解放軍はそこに向けて魔法を放ち、城壁を破壊、そして一気にそこへなだれ込んだ。
 慌てた傭兵達がすぐさまその入り口に詰めてくるが、その時には解放軍はもうかなり市街に侵入している。
 リノアンは、極力市街戦は避けたがっていたが、数に劣る解放軍が戦うには、市街の複雑な地形を利用するより他に方法はない。
 また同時に、リノアンの帰還を宣伝することもまた、解放軍の目的だった。
 ターラの市民はおよそ一万。ターラの傭兵は全部で二千程度。ターラ市民の協力を得られれば、勝利はより確実なものとなるからである。
『市民を巻き込むのは本意じゃない。けど、この戦いは私達だけの戦いじゃない――』
 別れしな、リノアンにそう語ったのは解放軍の盟主たるセリス皇子だった。
「大陸全ての人々のための、誰のためでもない、それぞれのための戦い――」
「リノアン様?」
 いつの間にか声に出ていたらしい。そばに控えていたエダが、怪訝そうに尋ねる。
「いえ、なんでもありません。それより、ディーンは?」
 エダはずっとリノアンのそばに控えているが、ディーンは戦いが始まる頃には、とっくにどこかへいなくなっていたのだ。
「兄は戦いが始まると同時にターラへ踊りこんでいきました。傭兵とベルクローゼンが相手なら、遠慮する理由はない、と――」
 そう言ってターラの破れた城壁――ではなくその上を見やった。竜騎士であるディーンにとっては、城壁など何の障害にもなりはしない。まして、このような夜中であれば、敵兵が弓を持ち出す確率も極めて低い。加えて飛竜は夜目が利く。夜の奇襲は竜騎士の独壇場と言ってもいいのだ。
 思わずリノアンは、小さく笑む。
「無事でいてくれるといいのだけど……」
 それは、部下を想う公女としてではなく、一人の人間の――女性としての願い。エダはそれを見て、少し苦笑しながらリノアンに向き直った。
「大丈夫です。兄は……あれでも、トラキア竜騎士団随一の竜騎士でしたから。だからリノアン様は、ただこの場にあって御身の安全のみをお考え下さい」
 本音を言えば、リノアンも戦場に出て戦いたかった。
 リノアンもまた、聖者ヘイムの血を引く強力な光の魔法の使い手でもあるのだ。
 だが、リノアンは今の自分の役目は分かっていた。このターラを『奪還』するための総大将。生きた大義名分なのだ。
「ディーン……無事で……」
 何より、まだ戦いは始まったばかりである。敵は不意を突かれて混乱しているが、元々兵力にはかなりの開きがある。加えて、ベルクローゼンの存在。
「シャナン様、アレス様、セティ様……お願いします……」
 少女は、祈るように呟いていた。

「どうだ?」
「いけそうだ。罠の類もなさそうだしな。当分使われてないところを見ると、まだ見つかってない通路だと思う」
 問われた男は、用心深く床や壁、天井を観察した後にそう答えた。
「なら、都合はいいが」
「もっとも、城内に着くまで安心は出来ねえ。この手の通路に罠があるのは、ある種お約束だからな」
「それは任せるしかないが……」
「大丈夫っ」
 決して大きくはないが、だが元気のいい声がそこに響く。
「そのために私たちがいるんだから。シャナン様達はゆっくり後ろからついてきてくださいねっ」
 その元気のいい声の主は、三つ編みにした長い金髪の先端を弄びながら、自信たっぷりに言う。それを見て、長い黒髪の剣士――シャナンは小さく笑んだ。
 彼女がいると、悲壮な戦いの中でも、なぜか気が楽に持てる……そんな気がしたのだ。
(フェイアとはまるで違うが……悲壮さを感じさせないのはどこか似てるな……。だが、こういう明るさがなければ、戦うことに押しつぶされるやもしれんな……)
 そう考えてから、シャナンは自分がひどく懐かしい名前を思い出していたことに気が付いた。
 忘れていたわけではない。いや、忘れるはずはないが、だが、その名を、たとえ口に出さなかったとはいえ思い出したのは、とても久しぶりな気がした。面影を想ったことはあった気もするが、名前を思い出したのは、いつ以来だろうか。
「シャナン様?」
 ふと気付くと、パティが不思議そうに顔を覗き込んでいた。
「……いや、なんでもない。それより頼むぞ、パティ、パーン」
「ああ、任せておけ」
 パーン、と呼ばれた男はそういうと先頭に立って歩き始めた。そのすぐ後ろに、パティと、あとラーラという少女が続く。
 別働隊は僅か十一人である。シャナン、アレス、セティら神器の使い手。それにパーンとパティ、パーンの仲間のラーラとトルードという剣士、セイラムという魔術師とティナという名の司祭。それにティナの姉のサフィとその護衛のシヴァという剣士。セティの弟子だというアスベルという魔術師。少数だが、その戦闘能力はきわめて高い。というよりは、継承者三人がいる時点で、並の兵ではまるで相手にはならないだろう。
 ただ、彼ら三人では抜け道を見つけたりすることは出来ないし、罠などがあったとしても、回避や解除の方法がわからない。
 そのためにパティやパーンが来たのだが、彼らの護衛や仲間という形で結局この人数になっている。だが、ティナとサフィは司祭としての力は十分――ティナはかなり怪しかったが開錠の魔法が使えるというのも今回は利点であったため同行している――だし、トルード、シヴァ、アスベルの実力はリーフが保証した。セイラムは元暗黒教団の司祭であり、それを知ったシャナンは最初難色を示したが、セリスに言われて納得した。
『私たちが憎むのは人に災いをなす者達だ。彼は、違うだろう?』と。
 確かに、シャナンから多くのものを奪っていった、その元凶は暗黒教団だ。
 ディアドラ、シグルド、アイラ、ホリン。そしてフェイア。暗黒教団がいなければ、彼らにはもっと幸せな生き方もあったはずで、少なくともあのような死に方をするはずはなかった。その可能性を奪ったのは、間違いなく暗黒教団である。
 だが、彼らは暗黒教団、という一括りであったとしても、それを構成するのは同じ人間。個人である以上、考え方の違いもあり、あるいは理解し(わかり)あえる可能性もある。当たり前のことだが、だが、時として忘れがちなことでもある。
(まあ、彼らの全てが最初から邪悪というわけでは……ないのだからな)
 イード神殿を見てきたシャナンには、それは実感としてわかっていた。
 あの、生きていくのすら困難なほどの辺境に百年も閉じ込められてしまえば、世界の全てを呪いたくもなるだろう。無論、だからといって彼らの所業を看過することは出来ない。だが、思い直すことができる者がいるのなら、あるいは彼らとの間に戦い以外の道を模索する可能性もあるといえる。
(もっとも……あの男だけは許せそうには……ないが……)
 明確に覚えているわけではない。名前も知らない。あの、ディアドラを攫っていった暗黒教団の魔術師。
 あの時に相当の深手を負わせ、当時すでにかなり高齢であったことを考えると、今現在生きているとは、普通なら考えにくい。
 だが、なぜかシャナンはあの男が生きていることを確信していた。それはあるいは、ディアドラを守りきれなかった自分への、怒りの矛先を欲しているだけなのかもしれない。
「憎しみにとらわれた剣を振るうなと、いつも言っている私がこれでは……な」
「何か言いました?」
 心の中で言ったつもりだったが、どうやら言葉に出ていたらしい。パティがすぐ前で不思議そうに首をかしげていた。
「いや、なんでもない。それより、着いたのか?」
「もう少しというところなんだが……」
 シャナンに応じたパーンは壁の前で呟いた。
「どうやら本来、こいつは中から外に出るための通路だったらしくてな。こっちからじゃ開きそうにない」
 そういうとパーンは、明りの魔法のかけられた剣の先端、で壁一体を照らし出した。
 やや青みがかったレンガは、隙間なく組み上げられていて、とても人の入る隙間などあるようには見えない。というよりは、行き止まりにしか見えなかった。
「ここがただの行き止まりという可能性はないのか?」
「いや、ないな。ここを見てくれ」
 セティの問に、パーンはそういうと、壁のある場所を指差す。そこは、一直線に天井から床まで筋が入っていた。
「レンガってのは交互に積み上げるのが常識だ。それがこうなっているってことは、ここがおそらくは両方にずれると見て間違いはない」
「なら、ここを叩き壊せばいいんじゃないか?」
 それまで黙っていたアレスがそういうと、すらりと魔剣ミストルティンを抜き放ち、壁の前に立とうとする。
「まてっ、迂闊なことをするな!」
「なんだと?」
 剣を振り上げたアレスは、そのままの姿勢でパーンの方に振り返る。
「確証はないが……こういう場合、外からこの通路に侵入されることを警戒して、罠が仕掛けられていることも多々あるんだ。無理矢理破壊したら、何が起きるかが分からない」
「じゃあどうしろというんだ。別の入り口でも探すのか? それとも……」
 アレスが苛立ったようにパーンを睨む。
 もう侵入してからもうかなりの時間が経過している。このままでは、暗黒教団の精鋭部隊ベルクローゼンが、解放軍に攻撃をかけ始めてしまう怖れすらある。もし彼らが全滅してしまったら、この戦いはもはや勝ち目はない。
「ねえ。あの隙間、どこに通じてると思う?」
 突然のパティの言葉に、一同は同時に振り返った。そのパティは、天井を指差している。
「ホラ、あそこ。かなり狭いけど、でも風の流れを感じる。ということは、少なくとも外に通じてるってことですよね。第一、ここだって通気は必要だから、どうしているんだろう、と思ってたんですが」
 確かに、言われたところには、かなり狭いが子供ならなんとか入れそうな穴が開いている。それに、かすかに風が流れているのも分かる。
「シャナン様とかパーンさんは無理だけど、私なら入れますよ、あそこ。上手くいけば城内に通じてると思うし、そうすれば中からここ、開けられますよね」
「ちょっと待て、それはあまりに危険だ」
 言葉を揃えて同時に、シャナンとパーンから反対の声があがった。だが、パティは頑として首を振った。
「このままじゃ、どっちにしても危険なのは同じです。それに私だって、解放軍の一員なんですよ」
「しかし……」
「じゃ、私も行くわ。二人なら少しは安全でしょう? 私だってパーンやパティほどじゃないけど、こういう構造とかには慣れてるし」
 その言葉に、さらに大きな声をあげたのはパーンだった。
「なっ、待て、ラーラ。危険すぎる!!」
 パーンは、声の主である黒髪の少女の前に立ちふさがって考え直すように促す。だが、少女――ラーラはパティ同様まったくそれを聞き入れなかった。
「はい、パティに同じく。どこにいたって、危険なのは一緒でしょう?」
「だ、だが……」
「心配してくれるなら、いつもして欲しいな、パーン」
 そういうと、ラーラは少しだけパーンと見詰め合う。そしてふっと視線を外すと、ウェストポーチから鍵爪付ロープを取り出し、それを天井の穴に投げ込んだ。すぐにカチッという音がして引っかかったのが分かる。
「じゃ、パティ、行きましょう、急がないと」
 ラーラはそういうと、するするとロープを登って、穴の中に消えてしまった。
「あ、ま、待って」
「パティ!」
「はい?」
 ロープに手をかけたところを呼び止められたパティは、一瞬その声の主に驚いていた。
「な、何でしょう、シャナン様」
「……いや、気をつけてな」
「……はいっ」
 このとき笑ってしまっていたことを、パティは後で思い返して気が付いた。よく考えるとあまりにも不謹慎だっただろうが、シャナンが初めて自分を気遣ってくれた気がしたのだ。

「ねえ」
 パティはすぐ前を這って進むラーラに声をかけた。
 通路は思ったとおり狭く、小柄な二人でも這って進むのがやっとである。長いこと使われていなかったのだろう。
 おそらく服や髪には埃などがついているだろうが、さしあたってそんなことを気にしてる余裕は、今はない。
 本来なら、会話も避けるべきなのだろうが、ここまで外の喧騒が聞こえてくるということは、逆にここの声が外に漏れた程度なら、まず気付かれることはない。
「なに?」
 ラーラは一瞬、後ろに視線を向けたのだろう。声がこっちに向かってきた。
「あのさ、ラーラって、パーンさんのこと、好きなの?」
 ゴン、というちょっと大きな音が響いた。後ろからで、しかもラーラの持つ頼りない灯りだけでは分かりにくいが、どうやらラーラが頭を抑えてうずくまっているようだ。おそらく、今いる場所の天井の高さを忘れて、思いっきり起き上がろうとしたのだろう。
「な、なにをいきなり言うの!?」
「いや、だってさっきの雰囲気見てて、なんとなく。違うの?」
「い、いや、別に……その、私はともかく、パーンは私のことなんて……」
「じゃあ、ラーラはパーンさんのこと好きなのね」
 古今東西変わらず、女の子はこの手の話は好きだ。無論、それはパティも例に漏れることはない。
 ラーラの表情が見えないのは残念だが、それでも多分今彼女の顔は真っ赤になっているだろう。
 パティとラーラは年齢も近いため――解放軍の女性は元々同世代が多いが――そういう反応は、見ていて楽しいのだ。
 一方ラーラは、というと、表情が見えないだろうということに、やはり感謝していたりする。
「そ、それは……」
「違うの?」
「そ、それを言ったら、パティはどうなのよっ」
 ラーラにしてみたら、これは精一杯の反撃だったのだが……見事に無駄だった。
「私? シャナン様のこと? 好きだよ、とっても」
「……あ、そ、そう……」
「ただ、ね」
 やや声が小さくなったのは、出口が近い、という気がしたからだ。聞こえてくる外の音が大きくなり、同時にこの通路を吹き抜けている風の元が、そう遠くない場所で広がっているのを感じる。恐らく、もうすぐ出口だろう。
「シャナン様が、私の方振り向いてくれることは、期待してないかな」
「なんで?! ……っと」
 ラーラは思わず大きな声で聞き返し、慌てて口を塞いだ。
「なんでって言われても……私、子供だし」
「それは……今はそうかもしれないけど……」
 確かに、パティの年齢は十五歳、もうすぐ十六歳ということらしい。シャナンはもうすぐ二十七歳。倍近い年齢差がある。
「でも、あと六、七年もしたらそのくらい……」
「それだけじゃないの、っていうか、実はあまり年齢は気にしてないから」
 パティはそういいながら、ごそごそとベルトの後ろから長目のナイフを取り出した。今回、とても長剣は持って来れなかったから、これが唯一の武器だ。頼りないことこの上ないが、ないよりはマシである。その刃を検めると、パティは小さく深呼吸をした。
「もうすぐ、出口ね」
「そうね……って、続きは」
 そう言っている間に、角の向こうが明るくなっているのが分かった。どうやら、明りが差し込んでいるらしい。できれば、この穴の中にいる間に発見されないで、と願う。何しろ、何かされたら回避のしようがない。槍を突き込まれても危険だし、あるいは煙などで燻り出されてもたまらない。
「う〜ん。なんていうのかな。ずっと一緒にいたから分かるけど……シャナン様の心、ある女性がずっといるから」
「え? そうなの?」
 ラーラが意外そうに訊き返した。
 ラーラ達は、解放軍に合流してからまだ日が浅い。だから、シャナンを初めて見たのも、かなり最近――彼女らのいたリーフ軍には偽者はいたらしいが――のことで、シャナンについて詳しく知っているわけではない。
 ただ、それでもシャナンには、あまり女性を寄せ付けないような雰囲気があった気がする。だから、一緒について回るパティを、なんとなくすごいとも思っていたのだ。
「うん。直接訊いたわけじゃないけど、なんとなく。でも、今は一緒にいられるだけでいいから」
 実のところ、最初はただかっこいいからついて回っていた。本当に軽い気持ちだったのだ。
 しかしイード神殿で出会ってから数ヶ月。一緒に行動するうちに、そしてずっとシャナンについて回っているうちに、彼がただ強いだけの剣士ではない――どこか違う何かを感じ取ってしまった。そして、それが深い悲しみであることを、実際にはパティはもう、ラクチェから聞いている。
 かつて、シャナンと共にあった、セリスらの姉役であったという女性。そしてもう、この世にはいない人。
(まったく期待してないわけじゃ、ないけど、でもすぐなんて到底無理だから……)
 パティはそっと、心の中で呟いた。
 もう存在しない相手に、遠慮する、という考えはパティにはない。だが、その女性――フェイアという名前らしい――のことは、他人が立ち入ってはならない聖域……そんな気がしていたのだ。だから、先ほどほんの一瞬でも自分のことを心配してくれたという、それだけでパティにとってはとても嬉しいことなのである。
「パーンさんは絶対ラーラのこと好きだと思うよ。だから、頑張ってね」
 自分はこういう役柄だったかなあ、とこういう時パティは悩んでしまう。
 ただ、実はパティ自身気付いていないのだが、孤児院をきりもりしていたパティは、自然にそういう役回りになっていることが多いのである。
 本人も周りもそれに気付かないのは、パティの見た目の印象がそれと分からないからだろう。
「……ありがと。無駄話、ここまでね。先に、行くわ」
 ラーラはかろうじて聞き取れる程度の声でそういうと、素早く角から這い出し、一気に外に出た。半瞬遅れて、パティも続く。
 出たところには、幸いなことに人影はなかった。
 どうやら、ターラの王宮の地下のようだ。といっても、地上に近いのか、すぐ近くから剣戟の音が聞こえてくるような気がする。
 通路の周囲には長柄戦斧を持った石造りの騎士像がずっと並んでいた。
「この近くに、抜け道の入り口があるはず……」
 言いかけたところで、二人は同時に人の気配に気がついた。数人、こちらに向かって走ってくる音がする。二人は同時に、一瞬身体を強張らせた。
 敵か、味方か。
 後者の可能性も、ないわけではない。だが、前者であった場合、ピンチどころではない。一瞬、元の通路に身を潜めることも考えたが、もし見つかってしまったら元も子もない。
「……ラーラ!!」
 言うが早いか、パティはラーラを元の通路――というより通風孔――の前に引っ張る。
「入って。私が囮になって引き離すから、その間に抜け道を探して」
 パティは極力声を殺し、素早く説明する。
「ちょ、ま、待って。それなら」
「迷ってる暇はないの、早く! 私は大丈夫。これでも、継承者の妹なんだからっ」
 それだけ言うと、パティはそのまま足音の方に向かって走り出した。ラーラは慌てて呼び止めようとするが、それは思い留まる。ここで声を上げたら、それこそ二人とも殺されて終わりだ。
「パティ、死んだら、絶対許さないから」
 ラーラはそう言うと通路に飛び込み、息を殺した。程なくして、一つ増えた足音が近付いてきて、ラーラのすぐ目の前を駆け抜けていく。
 それに、追え、逃がすな、という声が重なり、やがて遠ざかっていった。
 それを確認すると、ラーラは素早く飛び出し、周辺を必死に調べた。
 気ばかり急いているためか、あるいはここには入り口がないのか、全然見つからない。
「お願い……早くしないと……」
 その時ふと、祈るように視線を上にずらした時、ラーラの身長の倍くらいの位置のレンガが、一つだけ色が違うのに気が付いた。周囲のものに比して、若干ではあるが、明らかに異なる。
 だが、どうやってもラーラの身長や脚力では、届きそうにない。
「……なんかあるはず。考えなさい、ラーラ。ここを逃げ出す時に、どうするか……」
 あそこに手が届く人間などいるはずがない。だとすれば、道具を使う。だが、剣などでも届く高さではない。ならば――
 ラーラはもう一度周囲を見渡した。
 長柄戦斧を持った騎士像がずっと並んだ回廊。長柄戦斧。その長さなら――。
 ラーラは急いでその戦斧を一つ一つ見ていく。その長柄戦斧の一つが、他と違うことに気が付いた。
「これなら!!」
 予想通り、その長柄戦斧は軽く――あくまで石造りのものに比べればだが――、ラーラでもどうにか持ち上げることが出来た。よろよろとそれをかかげて、ラーラはその色の変わっているレンガに押し当てる。と、そのレンガがずぶずぶと沈んでいった。そして、すぐ目の前の壁が突然ずれ、そこに通路が現れる。中を覗き込んでみると、遥か向こうまで通路が続いてた。
「これがさっきのものに通じているといいのだけど……」
 ラーラは祈るように通路へ向けて走り出そうとして――あることに気付き、思い留まった。これがもし、落城時に逃げるために作られた通路だとしたら。
「こうしておく方が、安全よね」
 ラーラはずれた壁の裏側を見て、そこに予想通りの木製の歯車によるカラクリを見つけ、そこの歯車の一つにナイフを刺し、動かないように固定した。
 これが逃げるためのものだとすれば、この通路は程なく閉じようとするはずだ。あるいは、手動で閉じるのかもしれないが、いずれにしても手は加えておいたほうが安全だろう。
 ラーラはそれだけすると、急いで奥へと駆け出していった。

 ターラの戦いは、最初の熾烈さに比べ、終焉はあまりにもあっさりとしていた。
 数千の傭兵達は、突如城内に現れた数人の敵兵の前にベルクローゼンが全滅したと知るやいなや、あっさりと降伏したのである。
 ベルクローゼン全滅の報が流れるのに呼応して、それまで抑圧されていたターラ市民が立ち上がったのも、彼らの降伏を早めた要因ではある。
 ベルクローゼンは、城内で戦いを見物しているところを、僅か十名程度の兵に急襲され、あっという間に全滅したらしい。
 元々、ターラはこのトラキア王国の支配下にあったとはいえ、実質はこのベルクローゼンが支配していたと言っても過言ではなく、その彼らが全滅したことにより、ターラの市民はもちろん、トラキア派遣のターラの執政官も、これ以上の争いは無駄、と考えたのだろう。
 翌朝、ターラ王宮のバルコニーに立ったリノアン公女を、ターラの市民達は歓呼の声を持って迎えた。
 フリージ王国の間接的支配を受けていた時期をあわせれば、実に十数年ぶりに、ターラは解放されたのである。

 その、市民達が歓呼の声を上げて集まっている王宮の、その奥。
 シャナンはある部屋の寝台の横にいた。寝台で眠っているのは、金髪の――普段編みこまれている髪は、今は解けている――少女である。
 かけられている毛布の下にある胸が規則正しく上下し、少女が呼吸をしていることが分かる。
 少女はもちろんパティだった。
 パティは、まだかろうじて無事だった。ただ、あと数瞬でもシャナン達が駆けつけるのが遅ければ、多分パティはもう生きてはいなかっただろう。
「気をつけろと言ったはずなんだが……」
 その呟きが聞こえたのか、パティが一瞬微笑んだように、シャナンには見えた。
「それにしても……」
 パティの傷は、実は驚くほど軽く、ほとんどかすり傷程度のものばかりだったという。それももう、治癒の魔法で完全に癒えている。今寝込んでいるのは、単に疲労が相当蓄積されているからだ。
 シャナン達が駆けつけたとき、パティは敵兵六人に囲まれた状態だった。まともに考えたら、パティの技量では助かるとは思えない。ちょうど追い詰められたところだったようだが、それまでにかすり傷程度ですんでいた、というのはほとんど奇跡に近い。
「……まさかな」
 ふとシャナンは、一つだけ、力のない、かつ技量が不十分でも長時間戦い、かつ傷ついてもなんとかなる方法を思いついた。だが、すぐその考えを振り払う。
 外ではまだ、人々の歓声にリノアンが応えていた。その声からは、圧政と恐怖から解放された人々の喜びが感じられる。
 だが、戦いはまだ終わったわけではない。むしろ、これからとも言えた。
 トラキア王国、そして、グランベル帝国本土。そこにはまだ、強力な騎士団や傭兵、あるいは正規兵の軍隊が数多くあり、解放軍を迎え撃とうとしているのだろう。
 ただ今は、とりあえずの休息。この間くらいは、この今回の勝利の立役者の少女を看つつまどろむことも、許されるだろう。



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