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永き誓い・第三十九話




 ターラを解放した解放軍は、事後の処理をリノアンらに任せ、翌日の昼過ぎには本隊と合流すべくターラを出立した。
 ターラに残したのはリノアンと彼女の護衛である二人の竜騎士、それにリーフの軍の頃から彼女らに随行していた者達である。ターラに雇われていた傭兵達は降伏したあと、そのまま改めて解放軍に雇われる格好となり、ターラの治安維持と復興の手伝いをしている。とりあえず、グランベル帝国が攻めて来ない限りは、ターラは問題ないだろう。
 その他、解放軍本体より引き連れてきた兵士のうち半数をターラに残し、シャナンらはもと来た道とは違う、南東へと行く進路を取ろうとした。目指すは、ミーズ城の次――トラキア王国は地形が複雑であり、軍が進軍出来るような平地が限られていて、その要所要所に必ず城砦があるのだ――の大規模城砦であるカパトギアである。ほとんど道なき道を行くことになるが、ここでもまた、往路で道案内をしてくれた紫竜山の山賊達が道案内を勤めてくれた。
 道なき道とはいえ、それほど険しくもなく、シャナンらはかなり順調に進んでいたのだが、路程の半分も来たところで大きく方向転換することになった。
「進路を街道に向ける? どういうことだ。俺達はこのままカパトギアに向かい、セリスらとタイミングを合わせて、カパトギアを攻撃するはずじゃなかったのか?」
 進路を変更する旨を告げられた席で、アレスはともすると、不快に思っているかのような口調で詰問した。もっとも、彼の場合はこのような口調が地であるから仕方がない。
「私もそのつもりだったのだが……」
 シャナンはそういうと、小さな紙片をアレスに手渡した。
 それは、シアルフィ公国の刻印が印された、セリス自身の手による文書である。
「今朝、伝書鳩が届けてきたものだ」
 この時代、長距離の連絡については、主に手紙が主ではあるのだが、手紙は届くのに時間がかかる。だが、転移の魔法は使い手も少なく、また長距離を移動する場合には術者にかかる負担が格段に増大する上、魔法で探知されることがあるため、特に隠密に行動する軍との連絡に用いられることはない。
 そこで用いられるのが、伝書犬や伝書鳩といった手段である。この伝達手段は、かつての聖戦において、潜伏した聖戦士たちがお互いの連絡手段に、それぞれの飼っていた鳩や犬を使ったのが始まりと云われているが、それより以前から存在した方法である、とも云われている。
 諸説様々で、起源ははっきりしていないが、軍事行動中の離れた部隊との文書のやり取りに便利なため、よく用いられているのだ。
 特に伝書鳩のうち、特定の目印に対して移動する性質のある特殊な種類は貴重で、解放軍でも数羽しか所持していないが、移動中の軍にすら手紙を届けることができるので非常に重宝する。
「……まだ進軍できていないのか」
 手紙を読んだアレスは、やや呆れたように呟いた。
 手紙は、簡潔にセリス達、解放軍本隊がミーズ城に足止めをくっていることが示されていた。どうやら何かあったらしいが、そこまではこの小さな紙面には書かれていない。
「とにかくこのままカパトギアに向かったとしても、セリス達はまだ到着していない。で、我々だけで『トラキアの盾』とまで謳われるハンニバル将軍を相手するのは、勇猛を通り越して無謀だ」
「確かにな……」
 この部隊に随行しているシャナン、アレス、セティの三人が全力を持ってすれば、あるいはハンニバルの部隊を無理矢理打ち破ることも可能だろう。だが、そうやってカパトギアを奪取しても意味がない。たった三人では城砦を守ることは出来るはずがないからだ。
「とにかく一度、ミーズまで戻り、セリス達と合流しよう。それに、トラキアにもターラの失陥は遠からず伝わる。その後の動きは、正直俺では読めん」
 ターラはトラキア王国にとっても、重要な軍事拠点と言っていい場所である。それを解放軍が解放したことが、この先のトラキア軍の動きにどう影響するか。シャナンはしばらく考えてみたが、思いつかないので考えるのをやめた。こういうのは、レヴィンなりオイフェなり、得意な人間に任せればいい。
「合流してからだな。それならとにかく急いだ方がいい。でないと……」
「私達の居場所がトラキア軍に知れたら、それこそ各個撃破の憂き目を見ますね」
 アレスの言葉を、セティが引き継いだ。シャナンも小さく頷く。
 本来、このような山間部であれば攻撃を受ける確率は低いのだが、トラキア王国の最精鋭たる竜騎士団には地形など関係はない。如何なる場所にいる軍であろうと、高空から急襲し、殲滅する。空の死神、と恐れられた竜騎士の力は、誰もが見聞きして知っているのだ。
「それにまあ、もしミーズが攻撃を受けてセリス様達が動けないでいるとしたら、我々がこの位置から戻れば、丁度挟撃できるかも知れませんね」
「そう上手く行くとは……思えんが、まあそうなれば僥倖だな」
 セティの言葉に、シャナンは思わず微笑んだ。

 シャナン達がミーズに戻ったのは、それから三日後である。
 そこでシャナン達は、セリス達がなぜ動いていなかったのかを知った。
 最初、トラキア軍の攻撃があったのはいうまでもない。ところが、このトラキア軍の司令官が死んだと思われていたリーフの姉だったというのだ。このあたりは戦場でなにやらやり取りがあったらしいが、とにかくトラキア軍は撤退した。そのあと、トラキア軍の動きはない。
 だが、ここでミーズ城内で一つの事件が起きた。
 最初は、変死体の兵士発見されたことだった。しかし、その原因を調べてみると、どうやら暗黒魔法らしい、ということになった。どうやら、解放軍の中に暗黒教団の人間が紛れ込んでいたらしい。内部から解放軍を混乱、あるいは殲滅しようと企んでいるのか。
 そこでセリス達は進軍を取りやめ――表向きにはトラキア軍の大規模攻撃があるという情報があったため防備を固めているとして――内密に調査を進めたのだ。
 内密にしたのは、被害の規模が小規模であることを考慮すると、少人数であることは確実であること、下手に兵士相互で疑念を抱いて欲しくなかったためである。また、おおっぴらに動くと逃げ出される可能性もありえたからだ。そして、信頼できる者達だけで調査し、ようやく犯人――予想通り暗黒教団の人間だった――を捕縛したらしい。シャナン達はその翌日に戻ってきたのだ。
「ずいぶんそっちも……大変だったんだな」
 出されたお茶をすすりつつ、シャナンは簡単にターラの報告を済ませたあとにそう言った。
「まあね。ちょっと神経が磨り減った気分だったよ。スカサハとか、疲れきって今ごろ部屋で寝てるよ」
「あいつは心配性だからな」
「それもあるけど……なんか一回、ユリアが狙われたらしく、それからまったく眠っていなかったんだって」
 セリスはそこで少し、深刻そうな表情になる。
「実は私も心配だったんだけどね。ただ、スカサハに任せておけば、とりあえず大丈夫かな、と思って。それに、一人を心配しつづけられるほどの余裕もなくてね」
「むしろ、ラナが狙われたか?」
「なっ、シャ、シャナンっ」
 セリスの顔が、やや紅潮する。その様を見て、シャナンは彼にしては珍しく、くくっ、と笑った。
 幼い頃から――というよりは生まれた時から――セリスを見ているシャナンにとっては、このような時にも、セリスが成長していることを見て取れるのがなんとなく嬉しい。まして相手も、同じく赤ん坊の時から見ている少女だ。なんとなく、兄のような、あるいは親のような感覚すらあるのだ。
「まあいずれにしても、無事片がついてよかった。これで、問題はなくなったわけだ。まあ……ここまで来たら、一日二日を急ぐ、ということもないからな」
 うん、とセリスは頷いた。
「むしろ軍内部に危険分子がいることが先に分かって、良かったと思ってる。もしこれで、戦場でおかしな事をされてもそう簡単に気付けないからね」
「そうだな」
 戦場というのは、ある種異様な空間だ。普段なら気付くようなことに気付かないことなど、珍しくはない。
 もし戦場で、こっそりと息を潜めてセリスに近付く者がいたとしても、恐らく誰一人として気付きはしないだろう。そしてまた、戦場で将が一人斃れることも、珍しくもなんともないのだ。
「とりあえず、明日か明後日にはミーズを発つ。正直、トラキア軍がここ数日何もしてこないのも不気味なんだ。斥候の話では、トラキア城では先に攻撃した部隊が戻ってから、動きはないらしい。もっとも、二日前の報告だけど……」
 通常、伝書鳩による伝達手段は非常に早く有効で、特に敵軍の本拠地を監視していれば、ほぼ確実に、先に敵軍の動きを知ることが出来る手段なのだが、唯二つ例外がある。それが、伝書鳩同様空を征く天馬騎士と、もう一つが竜騎士の動きである。
 特に竜騎士の移動速度は伝書鳩をも上回り、竜騎士が出撃してから伝書鳩を飛ばしたところで、絶対に間に合うことはない。ただ、竜騎士も天馬騎士も、軍隊として動く以上、前準備、というものが確実にある。だから、それを注意深く監視していれば、少なくとも彼らの出撃を察知することは出来るのだ。しかし、その報告も、ここ数日はないらしい。
「トラバント王がミーズ奪還を諦めたとは思えない。多分、何か策を立てているのか……」
「あるいは我々同様、何か他に原因があるか、だな」
「そう。ただどっちにしても、我々も明後日にはカパトギアへ向けて進軍を開始する。今回は珍しく、数では我が軍の方がやや有利だ。もっとも、竜騎士を普通の数え方をするものじゃないけど。ただ、出来ればトラキア王国とは事を構えたくはない」
 今回の相手は、暗黒教団でも、暗黒教団に与しているグランベル帝国でもない。トラキア王国は、グランベル帝国と敵対する関係にあるわけではないが、解放軍に敵対する立場にもない。
 あるいは協力できるかもしれない相手だ。だが、現実としては、もう既に幾度も刃を交えてしまっている。
 争うべきじゃない相手と争っている。その矛盾が、セリスには辛かった。
「そう気負うな、セリス」
「え?」
「あまりなんでも背負い込まなくていい。その為に、私達がいるのだからな」
 セリスは少し俯いた後に顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「うん。ありがとう、シャナン」

 同刻。
 その話題に出ていたスカサハは、実に半日以上に及ぶ睡眠から、ようやく目覚めようとしていた。
 それまで丸二日間、一時も気の休まることがなかったので、緊張の糸が切れた途端、文字通り死んだように眠っていたのである。
「う……」
「あ、気付かれましたか?」
 目を開けて、最初に見えたのは銀の光。それが、すぐ目の前の少女の髪の色だと気付くのにやや間が空き、そしてお互いの顔が驚くほど近いのに気付くのに、さらに間が空いた。
「うわわわわっ」
「ど、どうされました!?」
 その少女――ユリアは驚いてあたりを見回す。だが、当然なにも見えない。
「あのね、スカサハはきっとユリアの顔が近くにあったから驚いたのよ」
「え……?」
 突然割り込んできた第三者の声は、スカサハにもユリアにも聞きなれた声だった。
「ラクチェっ。余計なことを……」
「……はいはい。とにかくよく寝てたわね。でもユリアったらずっと心配して貴方の傍についていてくれたんだから、お礼ぐらい言いなさいよ」
 ラクチェはそれだけいうと、そそくさとその場を立ち去る。
 それを見送ったユリアは、くすくすと笑いながらスカサハの寝てるベッドの横の椅子に座る。
「お疲れ様でした、本当に……」
「いや、君を守るのは、俺の役目だから……」
 それが言い訳だ、というのは分かっていた。
 多分、最初はそうだった。セリスに命じられて、ユリアを護衛していた。けれど、今は違う。命令がなくても、いや、別命があっても、スカサハはいつの間にかユリアを最優先に考えるようになっていた。
「……ありがとう……ございます……」
 一方のユリアも、口の端まで上りかけた問いを、かろうじて、言外に推し留めた。『それは、役目だからですか?』という問いを。
 聞いてしまえば、今のこの関係が壊れてしまう。そんな恐怖が、その問いを発するのをユリアに躊躇わせたのだ。
「……ユリア?」
「あ、いえ。そうだ。リンゴを食べますか? ラナがさっき、持って来てくれたので」
「そうだね。じゃあ、お願いするよ」
「はい」
 今は、これでいい。この戦いが終わるまでは。
 もし応えてもらえなくも、この関係を維持すれば戦争が終わるまではいられるのだから。
 しかし、お互いがそう思っているのに気付いていないのは、もはや当人達だけであった。

「本っ当に見ててもどかしいわね、あの二人は」
「仕方ねえんじゃねえ? スカサハはああいう性格だし、ユリアって子も積極的な性格じゃあないし」
「それはそうなんだけどね……」
 ラクチェは思わずため息をつく。
「せめてあんたの半分も、スカサハが積極的だったら、とは思うわ」
 そう言って振り返った先には、どこかやんちゃな、だが人好きのする笑顔を持つ男性がいる。
 幼い頃、まだお互いの属する陣営すらわかっていなかった頃に知り合った二人の少年は、そのことを理解した時、自分達の家ではなく、友誼と、そして彼ら自身の想いと、そして彼ら自身の考えで属する陣営を変えた。それは、黒髪の少女と、その双子の兄にとっては、とても嬉しいことではあったが――同時に、消し去り様のない悲しみをもたらした。
 あの、イザークの最後の、リボーでの戦い。
 自らの剣技を過信していたラクチェは、単身ダナンに挑んだ。
 だが、たとえ遊蕩の限りを尽くしていたとしても、ダナンもまた、聖斧スワンチカを継承する聖戦士の一人。当時のラクチェで、どうにかなる相手ではなかった。そのラクチェを助けたのが、ヨハルヴァ。だが、ダナンの力はそのヨハルヴァを一蹴し、そしてまさに致命の一撃がヨハルヴァを捉えようとしたその時、その一撃をヨハルヴァに代わって受けたのがヨハンだった。
 ラクチェが、ヨハルヴァの気持ちに応えないのは、ヨハンのことが忘れられないだけではない。
 あの時、自分の力を過信したりしなければ、ヨハンは死ぬようなことはなかったはずである。
 ヨハンを殺したのは、自分だ。その意識が、ラクチェにはある。
 いっそ、ヨハルヴァに罵倒され、憎まれた方がよかった。だが、ヨハルヴァはラクチェはもちろん、兄を殺した父すら、憎んではいない。
『兄貴が死んだのは俺のせいだ。他の誰のせいでも……ない。それに、こうなっちまったことは……後悔していない。俺は俺の、親父は親父の、そして多分……兄貴も兄貴の、それぞれやるべきことを選んでんだ。きっとそうだ。きっと、選んだんだ――』
 ヨハンを埋葬した時、力なく、自分に言い聞かせるように呟いていたヨハルヴァの元から、ラクチェは逃げた。
 あれからすでに半年以上。
 気付いたら、こんな遠くまで来ている。今ならば、きっとダナン相手にも不覚を取ることはないだろう。それぐらい、ラクチェもまた強くなっていた。だがそれだけに、あの時の自分の軽挙が悔やまれて仕方ない。
「まあ、兄貴ほどじゃねえよ、俺も」
「……」
 ラクチェは、それには答えなかった。
 ヨハンと共にいた期間は、ごく僅か。
 時間にして一月足らずである。その間二人は、それこそ毎日のように――しかもなぜか二人同時には来なかった――ラクチェを口説こうとしてきた。ただ、そのやり方はまったく違い、ヨハンは聞いているこっちが恥ずかしくなるような台詞を、ヨハルヴァはヨハルヴァであまりにも真正面から――。ただ、その時のラクチェは、そういう時間がずっと続くものだと思っていた。
 二人に共通していたのは、これ以上ないほどはっきりした気持ち。それ自体は、ラクチェは今でも、悪い気はしていない。ただ。
 ヨハルヴァ自身がそうであるように、ラクチェもまた、ヨハンの死が重く、まるで楔のように心に突き刺さっているのは事実だった。実際、あれ以来ヨハルヴァはラクチェへの好意を隠そうとまではしないまでも、それ以前のようにはっきりとは言ってこなくなったのだ。コノートで聞いた彼の言葉は、本当に久しぶりだったのだ。
 お互い、別の話題をしつつ……心を探り合っている。
 コノート以来、忘れかけていたお互いの気持ちを再認識してしまったため、ここ数日、ヨハルヴァとラクチェはむしろギクシャクとしていた。無論普段は考える余裕もないが、このような時には意識してしまう。
「ラクチェ……」
「ごめん、今は、まだ」
 ヨハルヴァが何か言いかけたところで、ラクチェは走り出してしまっていた。

 彼らのそのような思惑とは別に、事態は常に動き続けている。
 そのことを良く分かっているセリスやシャナンは、明日には軍を進発させ、カパトギアへ向かうことを決定した。
「カパトギアのハンニバル将軍は名将だ。彼に、采配の自由を許すようなことになれば、我が軍の被害は軽視できないものになるだろう」
 トラキア王国が誇る名将ハンニバル。『トラキアの盾』とまで呼ばれるこの将軍の名声は、遠くイザークにまで伝わってきていた。
 実際、三十年以上前に北トラキアからトラキア王国を滅ぼそうとしてトラキア王国へ攻勢をかけたことがある。だがこれは、ミーズの手前において、ハンニバル将軍ただ一人の采配の前に惨敗を喫し、以後、ハンニバル将軍はミーズの城主となり、『ミーズはトラキアの盾である』とまで言わしめ、やがてそれが彼自身の『トラキアの盾』という異名へとなったと云う。
 今回、解放軍がミーズをあっさり陥落せしめることが出来たのも、ハンニバル将軍がミーズを留守にしていたからに他ならない。
 だがもう、その名将と戦わざるを得ない状況になっているのは、明らかであった。
 ただ。
「なぜハンニバル将軍ほどの名将が、我々と敵対するのだろう」
 セリスの疑問は、この一点に尽きた。
 以前、別の形でハンニバル将軍と話す機会のあったリーフ、それにハンニバル将軍を父を慕うカリオンなどの話からすれば、むしろ味方に引き入れることすら、不可能ではないと思う。いや、彼だけではなく、トラバント王とも、無理をして争う必要などないのだ。
 ただ、この意見にはリーフが猛反対した。無理もないだろう。彼は、両親をトラバントに殺されている。その相手と和解するなど、到底考えられることではない。
「ただそれでも、戦わずに済ませられるなら、そうしたい……」
 それがセリスの願いであった。
 しかし。
 セリスも、そしてシャナンもまた、トラキアという大地と、そしてトラバントという人物のことを理解していなかったというのを、その翌日に思い知ることになる。

 その報がシャナンの元にもたらされたのは、シャナンが久しぶりの寝台での睡眠から目覚めた直後だった。
 その兵士は酷く混乱していて、要領を得ない報告ながら、その内容を聞いてシャナンは慄然とした。
 曰く『トラバント王が単身、ミーズに攻めてきた』というのである。
 シャナンは着るものもそこそこに、神剣を手に取ると部屋を飛び出した。廊下で、同じように息を切らして飛び出すセリスに出会う。
「セリス、聞いたか」
「うん。でも、単身、って、」
 言葉が途切れ途切れになるのは、走りながら会話をしているからである。
 いくつかの階段を下りて、城内を走り抜ける。伝令の話では、トラバントは城門の前で戦っているらしい、とのことだった。
「分からん、だが、油断するな」
 トラバントであれば、ほぼ間違いなく天槍グングニルを持っている。あれとまともに戦えるのは、この解放軍にも何人いるか。恐らく、並の兵士はもちろん、スカサハやラクチェ、聖剣を持たないセリスでも無理だ。正直、自分やアレスでもなければ、相手にはならないだろう。
 ところが。
「……なに?」
 城門の前には、いつの間にか人だかりが出来ていた。
 その、一番前にいるのはリーフである。そして、トラバントは――。
「……フィン?」
 シャナンもセリスも予想しなかった光景が、そこにあった。
 トラバントは、フィンただ一騎と戦っていたのだ。そして、その手にあるのは――・
「グングニルじゃ、ない?」
 その手にあるのは、あの天槍ではなく、ごく普通の――といっても一級品ではるが――真銀の槍。
 確かに、トラバントは天槍を持たずしても大陸最強の竜騎士の一人であろうが、だが、これでは解放軍に単身攻撃をかける、というよりは――。
「リーフ王子、これは……」
「見てのとおりです。そして……この戦いは、誰も手を出してはならない――」
 リーフは、見て分かるほど強く唇をかみ締めていた。
 父母の敵と見てきたトラバント。そして、そのトラバントと戦うフィン。
 そういえば、とシャナンは思い出した。
 確かに、リーフはトラバントを怨んでいるだろう。だが、それはフィンも同じ、あるいはそれ以上かもしれない。
 キュアン王子とエスリン王女が殺された時、フィンはリーフを守ってレンスターに残っていたという。その後で、主君の凶報を聞いたときの彼の気持ちは、シャナンには痛いほどわかった。あの時、自分がいたとしても、結果が変わらなかったとしても――。
 そして。
「トラバント王……」
 その戦いに、凄惨さはなかった。怨詛も、悔恨も、そして憎しみもなく。ただ、二人の騎士が、己の全てをかけて戦っている。
(ああ、そうか……)
 天槍グングニルを持たず、いわば自殺としか思えぬこの単身での攻撃。それに、シャナンはトラバントの覚悟を感じ取った。
 ただ一人で、トラキア王国の全てをかけて、そしてその全ての浄化のために戦う、贖罪の王の姿。今のシャナンには、トラバントがその様に映った。
 この戦いの決着は、そのままトラキア王国の戦いの決着。トラバントはその覚悟でここに来ている。
 勝てるはずなどない、死を覚悟した王の、それでも最後の誇りをかけた戦い。そして、トラバントが相手としているのが、かつてそのトラバントに全てを奪われた、フィン。
 偶然か、あるいは意図したことなのか。どちらにせよ――。
(最後まで、トラキアの王たらんとするか)
 恐らくもう、天槍グングニルは王子であるアリオーンに継承されているのだろう。
 この先、彼がどのような決断をするかは分からない。あるいは、父王の死に様を見て、降伏するか。それとも父のように誇り高くあろうとするか。あるいは、己と国が生き残るために、帝国と続けて手を組み、解放軍の行く手を阻むか、あるいは――。
 そしてトラバントは、自分の最期の清算として、ここに現れたのだ。
 だからフィンを、相手として選んだのかもしれない。
 自らの過去を知る、その相手として――。
 その時、おお、というどよめきが漏れた。
 はっとして顔を上げたとき、そこに空を舞う飛竜の姿はない。一瞬の間を置いて、それが地に降り立っているからと気付く。そして、その飛竜の上に人影はなく、また、フィンの騎馬の上にも人影はない。ただ、地面に立つ者が一人。
(フィンが……勝ったか)
 倒れたトラバントの息は既になく、ややあって喚声が響き渡った。
 そんな中、フィンはゆっくりと歩き、労うリーフの言葉に頭を下げたあと、シャナンの方に向き直った。
「……シャナン王子。手出しなさらなかったこと、感謝いたします」
「いや。礼を言われるようなことでは、ない」
 フィンはそれでもなお頭を下げると、今度はセリスに向き直る。
「セリス皇子、もしかなうなら、トラバントを丁重に葬って下さい。この、トラキアの大地に」
「分かった。必ず、そうさせてもらうよ、フィン」
 フィンはその言葉に、少しだけ笑みを見せると、リーフと、あとから駆けつけたナンナに連れられてその場を立ち去っていった。
「シャナン。私はあらためて、トラバントという人物を知った気がした。この人は悲しいほどに、ただ、トラキアの大地を、そして自分の国民を愛していた……そんな気がする」
 リーフを見送ったセリスは、ふと、シャナンにそうもらした。
「そうだな。だが、彼は方法を誤った。あるいは――」
 それが、二人に共通した、もう一つの人物を想起させる。
 理想を求め、誰よりも賢王たる資質を持っていたであろうにも関わらず、道を誤ったもう一人の存在を。
「オイフェ」
 セリスは一息つくと、凛とした声と共に振り返った。
「トラバント王の遺体を、丁重に葬るように。場所は任せる。また、今後トラキアがどう動くかは、わからない。直ちに軍を整え、いつでも進発できるようにしておいてくれ。昼前には、カパトギアへ向けて進軍する」
「はっ」
 オイフェは踵を返すと、控えていた騎士たちにテキパキと指示を与えていく。それを見ていたシャナンは、もう一度倒れたトラバントを見遣った。トラキアの国王の遺体は、すでに布が被せられ、丁重に城内へ運ばれようとしている。
 シャナンは静かに、その運ばれていく遺体に頭を下げた。

 しかしこれは、トラキア王国における戦いの前哨戦でしかなかった。
 翌日、ミーズ城に戦慄すべき報がもたらされる。
 曰く『ハンニバル将軍とその麾下の重甲冑騎士団、カパトギアを発す――』
 トラキア王国の戦いは、セリスらの望みも虚しく、激しさを増そうとしていた。



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