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「これはまたすごいね……。ティルナノグでもこれほどの雪は滅多になかったと思う」 セリスは、目の前の一面の銀世界を見て、感心したように呟いた。その傍らでは、ラナも呆然と一面の銀世界を見つめている。 「トラキアでも、これほどの積雪は非常に珍しいです。私の記憶する限り、雪がまともに積もるなんて子供の頃にあと一回あったかないか程度で、それもこれほどではありませんでした」 セリスにそう答えたのはアルテナ王女である。 アリオーンに受けた傷は、既に治癒魔法をかけてもらってはいるのだが、まだ僅かに痛むため、一応今は腕を吊っている状態だ。 「でもそれじゃあ、トラキアの人々は大雪に対する備えってのは、ないんじゃない?」 その言葉に、アルテナは少しだけ微笑んだ。 「大丈夫……だと思います。トラキアは、確かに大雪には慣れてはおりませんが、風雨……というより風に強い建物を造ります。冬は雪が降らないだけで非常に寒いので、木造の建物では寒さを凌ぎきれないため、基本的に全て石造りの建物ばかりですから」 「そうか。なら、いいのだけど……何かあっても、この場所からじゃ私達にも援助できないから……」 実際には、解放軍に民衆を援助するだけの余力はほとんどないのだが、それでもセリスはそう言ってくれる。その心遣いが、アルテナには――いくらレンスターの王女だと分かっても、やはりこのトラキアが彼女の故郷であるのだ――嬉しかった。 「それに、これだけの雪だと野盗なども動けません。トラキアの民は暖をとることには慣れておりますから、大丈夫だと思います。それにあと、トラキアはあちこちに湯が沸く泉があるのです」 アルテナの言葉に、セリスは安心し、それから少し驚いた顔になる。 「お湯が、湧く? 水じゃなくて?」 その表情が面白くて、アルテナは思わず吹き出しそうになった。 「はい。ですから、凍えて死ぬようなことも、まずないのではないかと。実はこの城にもありますよ。ご存知なかったですか?」 セリスとラナが、一様に首を横に振る。 「それは……便利だなあ。ティルナノグにもそんなのがあったら、冬はもうちょっと楽だったかもね」 セリスはそう言って視線をラナにずらす。 「そうですね…」 「……ティルナノグとは、それほど厳しい土地だったのですか?」 アルテナとしては、これほど貧しいトラキアを見てもそれほど驚かなかったセリスを、実はかなり意外に思っているのだ。 「そうだね……イザークの、それも人里離れた場所だったからね。基本的に自給自足。三日くらい、水以外なにも口に出来ない、とかあったから。今思うと、よく冬を越せていた、と思うくらいだよ」 ティルナノグの冬は、シレジアほどではないがほぼ雪に覆われる。つまり、冬は作物がまったく取れない。ただでさえ蓄えのないティルナノグでは、暖をとるための薪の調達すら不自由することもあった。 もっとも、今は実はシャナン達の方がもっとずっと苦労してきたことを知っている。シャナンらは、セリス達のために危険を冒して街まで出向いたり、あるいは山野で獣を狩ったりして、冬を耐え凌がせてくれたのだ。 「セリス皇子も、本当に苦労されていたのですね……」 「どうかな。私は確かに苦労したけど、でも支えてくれる人がいた。それを言ったら、シャナンやオイフェなんて、もっと大変だったと思う。本当に、彼らには感謝してる。私が今生きているのは、あの二人のおかげだから……」 「リーフにとってのフィン、ですね」 「そうだね。そういえば、時々三人一緒にいるのを見るね。あと、レヴィンとも」 多分、共通する話題があるのだろう、と思う。 彼ら四人は、いずれも自分達の父の時代を知っている。その時のことを思い出して、語り合うこともあるのかもしれない。 いつか、話してもらいたい、とは思う。父の、母の、そしてその友や仲間達のことを。 「まずは、この戦いに勝ち抜かないと、かな」 誰にいうでもなく、セリスは白い斑点で彩られた灰色の空を見上げていた。 |
トラキアの戦いが終わって、十日ほどが経過していた。 解放軍は最初、グランベル本土――ミレトス地方――に行きやすいルテキアに全軍を集合させるつもりだった。ところがここで、雪が降り始めたのである。 多少であれば影響はないが、雪はあっという間に積もりはじめ、大地を白に染め上げてしまった。こうなっては、トラキア内の移動は不可能に等しい。 いっそのこと、今分散した戦力をそのままそれぞれの城砦に駐留させて冬を乗り切ろうと思ったが、それはレヴィンが反対した。 確かに、普通の軍であれば、雪が積もってしまえばトラキア国内を移動するのは不可能になり、攻撃される恐れはない。 だが、暗黒教団の誇る精鋭『ベルクローゼン』は違う。彼らは《自己転移》の魔法を使いこなし、如何なる場所にも現れるのだ。そうなると、個別に攻撃され、、少なからず被害を出す怖れがありえる、というのだ。 しかし、全戦力を一箇所に集めるとなると、これもまた問題があった。アルテナに追随して解放軍に降った竜騎士を含めて、解放軍は既にかなりの規模になっていて、全軍収容できるのは、ミーズかトラキアしかなかったのである。 そこで、セリスはせめてグランベルに近いトラキアに全戦力を集中させることにした。ミーズでは、春になってミレトスへ侵攻する時、やはり遠すぎる、というのがあるからだ。 こうなると解放軍の行動は早かった。特に、ミーズの方には本当に急いでもらわないと、移動ができなくなる。 ミーズにいる部隊の一部は、そこからマンスター方面へと――つまり自分の家へと――帰っていくが、解放軍の戦力として残ることを選んだ者達は、トラキアまで来てもらわなければならない。セリスはアルテナ達竜騎士に飛んでもらって、ミーズ、カパトギア、ルテキアに連絡を取り、昨日ようやく全軍が集結した。 もっとも、ミーズから来た部隊は強行軍がたたって完全に疲れきっていて、今は全員夢の中である。 そして、この集合を待っていたかのように、雪がほとんど吹雪に変わり、現在もなお降り続けている。既に、人の背丈以上に雪が積もっているらしい。 もっとも、これだけ雪が積もってしまえば、ベルクローゼンはともかく、それ以外にこのトラキアまで攻撃に来る者はまずない。 ベルクローゼンにしたところで、《自己転移》の移動可能距離がさほど長くはない以上、何度か雪の中を進むことになる。そこまで無理をして攻撃してくるとは、あまり思えない。 ということは、少なくとも雪が解ける春まで、敵の攻撃はほとんどないと考えてよくなった。 そのため、解放軍としては予想もしなかった、長い休養をとることが出来ることになったのだ。 もっとも、毎日凍えるような寒さではあるが、それでもこれまでずっと戦い続けている解放軍にとって、これほどの休息は非常にありがたかった。特に、リーフ王子に同行していた者は、人によっては一年半以上戦い続けていたらしい。 そして、この休みはまた、休養と共に、自分達自身の錬度を上げるための期間でもあるのだった。 |
「はぁっ、はぁっ」 ほぼ城の下層部にある、鍛錬場。 竜騎士を主体とするトラキアとはいえ、何も騎乗しての戦いが全てというわけではないから、当然このような施設もある。 直径が五十歩ほどの石畳のホールは、暖房があるどころか窓はいわゆる戸板であり、完全に閉じるか開け放つしかない。 だが、昼間の今は、採光のために開け放っているため、時折身震いするほど冷たい風が雪と共に入り込んでくる。 だが、その部屋の中心で模擬剣をぶつけ合う二人のうちの一人は、そんな寒さの中でも、汗でぐっしょりになっていた。 「どうしたスカサハ。ここまで戦って来れた力は、そんなものじゃないだろう」 「は、はい!」 スカサハは呼吸を整えて数歩踏み出すと、そのあと一気に踏み込んで剣を突き込んだ。だが、それを急激に止め、そこから斬り上げる。だがそれも、相手――シャナンには完全に見切られた動きだった。 斬り上げた剣は見事に空を斬り、頂点に達して一瞬止まる。そこへシャナンの剣がスカサハの剣をさらに上に弾く。その衝撃に、スカサハは剣を握っていることが出来ず、スカサハの剣は上方へ弾き飛ばされて、少し離れたところに落ちて乾いた音と共に床に転がった。 「お前は次の動作が顔に出ているんだ。だから読まれる」 「そうは言いますが……」 あの一瞬でそれだけのことを見極められる人物が、果たして何人いるというのか、とスカサハなどは思う。 「相手が一人ならいい。だが、相手が複数いたら、お前が攻撃した相手は倒せるかもしれないが、別の者に今のような攻撃を受けてみろ。どうなる?」 「あ、は、はい……」 スカサハは恥じ入ったように小さくなる。 実際、シャナンの目から見ても、スカサハは一人の剣士としては、十分水準以上――というよりは水準を遥かに超えている。ただ、それだけではダメなのだ。少なくとも、今の解放軍には、一人でも多くの強力な戦士が必要だ。そして、スカサハは、確実にその一人として数えられる存在なのである。 「さらにいうなら、お前は確かに一対一には強いが、相手が複数である場合、多少実力が劣っている相手でも不覚を取るだろう」 う、とスカサハはさらに小さくなる。 シャナンと手合わせをする前に、シャナンはロドルバン、ラドネイ、トリスタンの三人とスカサハを同時に戦わせた。スカサハの実力は、彼ら個々人を相手にした場合は、既に相手にならないほどに強くなっている。だが、この三人が同時にかかってきた時、あっさりと負けてしまったのだ。 「お前は一方向しか見えなくなるからな。まあ、集中力があるのはいいことだが……全方位に気を張らなければ、この先は生き残れんぞ」 口で言うのは簡単だよなあ、などとスカサハはぼやきたくなるが、だが、シャナンが言っていることは不可能なことでもないことは、先ほど証明されたばかりだった。 先ほどシャナンは、スカサハ、ラクチェ、それにリーフ王子に同行していたマリータという少女――驚いたことにイザーク王家の血を引く者らしい――の三人を、同時に相手にして見せたのだ。三人とも、手加減抜き、しかも真剣を使わせてのことである。 だが、三人はシャナンに攻撃を当てるどころか、かすらせることすら出来ずにあっさりと全員剣を弾き飛ばされて負けた。三人とも、流星剣や月光剣を使ったにも関わらず、だ。 「お前達の流星剣や月光剣は確かに強力だ。だが、あれはほんの一瞬、繰り出す前と後に隙がある。特にお前達のは予備動作に癖があるからな。いいか。技に頼るな。正確な、素早い一撃は、流星剣に勝る。相手の動きを見ろ。相手と自分の距離、それに剣の長さ。そういったものを常に考えて、自分の間合い……というよりは、自分のペースで戦うんだ。そうすれば、おのずと相手の攻撃は自分のもっとも防御しやすい時に来る」 「簡単に言いますけど……」 ラクチェが不満そうな声でいう。 「いきなりシャナン様みたいなことは、出来ませんよ」 「それはそうだが……せっかくの休息だ。雪が解けるまで、みっちりしごいてやるよ」 「はいっ」 一人元気そうに返事をしたのは、マリータだった。 彼女はずっとシャナンに憧れていて、これ以上ないほどにこの特訓を楽しんでいるようだ。 (しかし……やはり父親に似るのか……) マリータに初めて会ったのは、トラキアへ進軍している時だった。 実は、マリータはいつもシャナンを見ていたらしいが、シャナンがマリータのことを全然気にしていなかっただけである。自己紹介されて、初めて彼女がガルザスの娘であると気付いたのだ。ただ、マリータの流星剣は、シャナンに直接伝授してもらった、という。 だが、マリータのいう流星剣の伝授、というのはシャナンにはさっぱり記憶になかった。聞いた限り、どう考えてもその頃シャナンはティルナノグにいる。 その時思いついたのは、自分に良く似た男――確かシャナムという名だった――のことだが、あの男が流星剣を伝授できたとは思えない。 もっとも、マリータの流星剣は不完全で、結局シャナンが教えなおすことにはなったのだが。 「お疲れ様っ」 突然割り込んだ元気な声は、もちろんパティのものだった。全員分の温かいお茶とパンの差し入れである。このところ、訓練が終わる頃にパティの差し入れがあるのは、もはや日課になっていた。その後ろから、ラナやユリアも現れる。 「すまんな、パティ」 シャナンはそういいながら、備え付けの椅子に座る。他の者も、めいめい椅子に座っていった。 「いいんですよぉ。楽しくて手伝っているんですから。それに、今日はラナやユリアも手伝ってくれたし」 見ると、ラナやユリアも同じようなお盆を持っている。 「お疲れ様です、スカサハ様」 「ラクチェも、お疲れ。マリータも」 「ありがとう、ラナ」 黒髪の少女二人の声が唱和した。 マリータは解放軍――というよりはセリス軍――に合流したのはマンスターからだったが、同じイザークの剣士、ということであっという間にラクチェと仲が良くなり、そのつながりでラナとも良く話すようになっていた。 リーフに随行していた軍は、その三分の一ほどはフィアナという村の自警団や紫竜山の山賊の出身で、マリータもフィアナの出身だった。 だが、フィアナの者達は、雪が本格的になる前にフィアナに戻ってしまっている。 その為、マリータは急に知り合いが減ったことになるのだが――意外にあっさりと解放軍に馴染んでくれていた。 シャナンとしては、ガルザスに『頼む』といわれた手前、どうしようかと思ってはいたのだが――といってもトラキアでの戦いではほとんど忘れていたが――そういう心配は無用だったらしい。 「まあ、同じ年代同士なら、話も合うか」 もっとも、マリータとラクチェらの年齢は確かに近いのだが、純粋な世代としては実は一つ違う。マリータの父ガルザスがシャナンやラクチェ、スカサハらの従兄である。 シャナンの父マリクルや、スカサハ達の母アイラの姉が、ガルザスの母親だ。 ガルザスは相当早く生まれた子供であるため、少し世代がずれているように思えるだけである。 いつかは、マリータに父や親族のことを教えてやる必要もあるだろう。その時には、出来れば世界が平和であって欲しい――。 「シャナン様?」 考え事をしていたシャナンの正面に、パティの顔があった。丁度パンを食べた直後なのか、口の周りにパン挟んだ燻製肉につけたソースがついたままであった。それがなぜか酷く可笑しく見えて、シャナンは思わず吹き出してしまう。 「あ、なんですか。人の顔見て笑うなんて〜」 「そうはいうがな、パティ。自分の顔、鏡で見てみたほうが良いぞ」 「?」 言われてパティは、素直に壁際にある大鏡の前に行く。この鍛錬場は、自分の構え等を確認できるように壁に全身を映し出せる鏡がいくつか備え付けられているのだ。 「……あ〜」 パティは鏡を見た瞬間、慌てて口元を拭い、それから怒ったような表情で振り返った。 「酷いっ、シャナン様。教えてくれれば良いのにっ」 スカサハ達もくすくす笑っているのを見て、パティはさらにむくれてしまう。 「う〜〜〜〜〜。もー怒ったっ。シャナン様っ。一緒にお風呂入ってくれなきゃ、許さないっ」 「なっ……」 パティの言葉に、シャナンは絶句し、他の者は一斉にシャナンに視線を向けた。 「ちょ、ちょっと待て。一体どうやったらそういう結論が出る?!」 「……シャナン様……?」 「……いつの間にそういう間柄に……?」 スカサハとラクチェが、ぼそぼとと呟く。 「存じ上げませんでした……そうだったんですか……」 「ショックですけど……。いえ、でもそれなら応援しますねっ」 持ち前の天然を発揮して追従するユリアと、ダメ押しするマリータ。 「セ、セリス様にご報告しないと……」 とんでもないことをいうラナ。 「だ、だから待てと言っているっ!」 その直後、パティがいきなり笑い出した。 「あはっ。冗談ですよぅ♪ シャナン様、赤くなってません?」 パティがお腹を押さえてコロコロと笑う。 「……」 ぶちん。 さすがのシャナンもこれには堪忍袋の緒が切れたらしい。がた、と立ち上がってパティに掴みかかる。 「きゃ〜、シャナン様がいじめる〜」 「この、パティっ。冗談にもほどがあるぞっ」 少なくとも、追いかけている方は至極真面目だった……と思われるが。 「傍から見てると、なんか仲のいい恋人か兄妹のどっちかですねえ、あのお二人」 お茶を飲みながらのユリアの呟きに、当事者以外のその場にいる全員が、深く頷いていた。 |
「でも、実際どうなんですか? パティは」 ユリアの声に、じゃぶじゃぶと湯の流れる音が重なった。 「え? 何が?」 問われたパティは、気持ち良さそうにぷかぷかとその湯に浮いている。 ここは、トラキア城の最下層部にある湯泉である。 トラキア城の地下から湧き出しているというこの湯は、非常に高温で、通常、暖を取るために城内に汲み上げられているのだが、この最下層部では別の層から湧き出す冷泉と混ぜることによって適温にして溜めて、大きなお風呂を作り出しているのだ。 普通、身体を湯で洗う、というのは実際には湯を沸かし、身体を拭くだけのものであり、この様にわざわざ湯を満たしてそれに浸かる、というのは、少なくともある程度以上の階級にしか許されない特権である。 ただ、トラキア王国に関しては、この湯泉があちこちにあるため、貧困層の者達でもこのような恩恵に預かれるらしい。その他にも、当然だが冬の暖をとるのに使うなど、この湯泉はトラキアの生活にはなくてはならないものとなっている。 「シャナン様のことです。あれは冗談だったとしても……」 あのあと、結局訓練は再開されず、パティ達はお風呂に入ろう、ということになったのだ。トラキア城の風呂はかなりの数があり、パティ達が使うのは士官用――パティも一応士官扱いされている――の風呂で、この時間は誰も使っていなかった。 「う〜ん。別に、全部冗談ってわけでもないんだけど」 パティはそういうと、身体を起こした。 「私はシャナン様のことが好き。憧れとか、そういうものじゃなくて。ただ、シャナン様が私をちゃんと見てくれてないのも、分かってる」 「それでも、諦めないの……?」 恐る恐る聞いたラクチェに、パティは大きく頷いた。 「うん。まあそりゃあ、シャナン様から見たら、私まだ子供だけど……」 年齢不相応、というほどではないが、パティはあまり女性らしさ、を感じさせるような体型ではない。無論それは、本人が持っている雰囲気に因るところも非常に大なのだが。どちらかというと『可愛らしい』という形容の方があっている。ただそれでも、こういう時のパティは、確かに女性としての意識を感じさせた。 ラクチェは、それが正直羨ましい、と思えた。 パティには、既にシャナンの昔の恋人――フェイアのことを話している。ラクチェは話すつもりはなかったが、パティがそれを望んだのだ。 正直、フェイアのことがなければ、ラクチェもまた、シャナンに憧れ以上の感情を抱いていたかもしれない、と思う。 けれど、自分達を生かすために死んだあの人のことを知っているラクチェには、到底あの人の代わりは出来ない、と分かっていた。 無論、ヨハンやヨハルヴァが――ヨハンは死んでしまったが――いてくれたことも影響しているだろう。 けど、パティはそれでも諦めない、と言った。震える声で。しかし、はっきりと。 『死んだ人に対抗したって、勝てるはずないけど、でも、私は私で、シャナン様のことが好きだから』 応えてくれるとは、実はあまり期待していないらしい。先の冗談めかした言い方も、実はパティなりの照れ隠しだと、ラクチェは知っている。 「でも私も、これからだしっ」 ぐっと握り拳をつきあげ気合を入れるパティは、なぜか酷く滑稽に見える。 「まあ、パティもまだ成長しそうだしね」 さくっとラクチェは、パティの気にしてることを言う。 「あ、酷いっ。そういうこと、言う?!」 「いーじゃない。私なんて望みないし。まあ、あまり胸とか大きくても、困るんだけどね」 剣士であるラクチェにとって、むしろ女性らしい体型は戦闘に向かなくなるだけなのである。 「それよりさ〜」 じゃぶじゃぶ、と湯をかきわけるように移動して、パティはユリアの傍に来た。 「あのさ、ユリアはどうなの? スカサハのこと」 こちらは、反応が非常に分かりやすかった。湯に浸かっているのだから、多少上気していたとしても、それでも異常なほどはっきりと、しかもほぼ一瞬でユリアの顔が真っ赤になる。普段顔が白いだけに、これは非常に顕著だ。 「え、え、あの、その……」 「わっかりやすい〜。可愛い♪」 「ホント。でもユリアくらいしっかりした子なら、安心できるわ〜。それに絶対、スカサハもユリアのこと好きだって。大丈夫」 「あ、あの、ラクチェ……」 ユリアの顔がさらに赤くなっていき、顔が半分沈んでしまう。 「でも、私、その、ラクチェやパティみたいに綺麗じゃないし……」 「……」 思わず二人は、顔を見合わせてしまった。 ユリアは、同性の自分達から見ても、十分綺麗だと思える。 それに、何というか、守ってあげたくなる――実際には解放軍でもトップクラスに強力な魔術師だが――ような、そんな気がするのだ。庇護欲をそそられる、というか。 多分スカサハも、そういうところにも惹かれたのだろう。 ちなみにこの分析には、ラクチェは自信がある。要するに、自分の逆だからだ。 「あの、それ、本気で……?」 聞いてはみたが、ユリアが嫌味を言うような性格でないのは、よく分かっている。 「だってその、私、胸とか小さい……」 最後の声は、湯の流れる音にかき消されてほとんど聞こえなかった。 「あ〜」 確かにユリアは、年齢に比してやや……いわゆる細い体型である。もっとも、記憶を失っているユリアの年齢は正確にはわからないのだが、大体十五、六歳というところだろう。ただ、どうみてもパティなどよりもユリアのほうが細かった。 「でもさ、多分スカサハ、そういうの気にしないわよ。大丈夫だって、ユリア、可愛いんだから自信持ってっ」 もうこれ以上ないくらい赤くなっていたユリアは、そのまま顔を下に向けてぶくぶくと息を吐いている。こういう仕種は、本当に可愛い、と思うし多分スカサハもそんなところに惹かれたのだろう。 「そういえば、はじめユリアってセリス様のことが好きなのかと思ったんだけどね。っていうか、いつの間に、っていうのは気になるんだけど」 「そう。それは聞きたいなあ♪ 私、途中から参加してるから、詳しく知らなくって」 「あの、ですからそれは……その、セリス様も、とても好きというか、その、とても大切に思えるのですが、その……」 半ばお湯に口が半分浸かった状態で話すのは、照れ隠しなのだろう。ただ、ラクチェもパティもユリアに顔を――というより耳を――近づけているため、効果はまったくない。 「ふんふん」 「あの、ですから、その……」 耳を大きくしてにじり寄る少女が二人。 「何の話、ですか?」 突然聞こえてきた新しい声に、三人は同時に入り口を見た。 「あ、ティニー、いらっしゃい♪」 パティがまた嬉しそうにティニーににじり寄る。その様は、獲物を見つけてじわじわ近付くネコの様だ、とラクチェは思って、危うく吹き出しそうになった。 それに、確かティニーは最近、マンスターで仲間になったセティという魔術師と、とても仲が良いらしい。今のパティにとっては、格好の餌食というわけだ。 「さて、じゃあ私はこれで……わぷっ!?」 ラクチェが風呂から上がろうとしたら、突然足を掴まれてまた風呂に引きずり込まれた。 「ちょ、何……」 「逃がしませんよ、ラクチェ」 やったのはパティだと思ったラクチェは――だがパティは入り口近くにいるティニーのそばにいるのだからそんなことは出来るはずもない――自分の足を掴んでいるのがユリアだと知って驚いた。 「あ、あの、ユリア……?」 「ご自分だけ逃げようとしても、ダメですからね」 「そうそう、ラクチェ、甘いよ♪」 「え、え〜と、これは……」 事情のわかってないティニーが、それでもなんとなく気配を察して逃げようとしたが、時既に遅し。ティニーの手は、パティに掴まれていた。 そして。 結局のぼせた少女四人は、夕方過ぎまで自室に転がっていることになる。 |
「どう。みんなの調子は」 「悪くはない。マリータという少女も、長じれば相当な使い手になると思う。まだまだ未熟なところはあるが、少なくとも春までには十分力をつけられる」 シャナンの言葉に、セリスは安心したように微笑んだ。 「そうか。まあ、この休息は、ある意味天がくれた恵みだね」 「そうだな……確かに」 トラキアに事実上封じ込められてしまう格好になった解放軍だが、同時に、現在は攻撃を恐れる必要がなくなっている。もちろん、雪解けと共にグランベルはこのトラキアに軍を差し向けてくるだろうし、解放軍は逆にここからミレトス地方へ進軍しなければならない。もはや、正面激突は避けられないだろう。 しかもこの状況では、新たに志願兵が増えるということもありえない。つまり、現有戦力で、ミレトス地方を突破し、グランベル帝国本土へと至らなければならないのだ。 だからセリスは、この機会に出来るだけ兵一人一人を訓練し、解放軍全体の錬度を高めることにした。実際、解放軍は既に三千以上の大軍となってはいるが、その多くは志願兵や市民からの義勇兵であり、その錬度はお世辞にも高いとはいえない。 だが、この先の相手はグランベル帝国である。 寄せ集め同然の軍では、もはや勝ち進むことは出来ない。 これまで勝ち進んでこれたのは、フリージ軍はこちらを侮ってくれたからであり、トラキア軍は元々少数精鋭の軍だから、数の上での不利はさほどなかったためだ。 しかし、もうそういうわけにはいかないだろう。相手は、フリージ軍よりも遥かに錬度の高い、グランベル軍の正規兵なのだ。 トラキアの雪が解け出すまで、約三ヶ月。セリスは、その間に出来るだけ軍としての完成度を高めるつもりなのである。 「まあ、それほど気を張りつづけても仕方ない。お前も、少しは気を抜け。せっかくの休みだからな」 「シャナンもね」 「……私は、そう無理はしていないつもりだが?」 その言葉に、セリスは少しだけ苦笑いをした。 「いつもそうだ、ってわけじゃないけどね。でもシャナンは、常に……そう、何かを自分に課している。まるで、それが自分の義務……いや、もっと違う何かみたいに」 沈黙が少しだけ、二人の間を支配した。 その沈黙に耐えかねて、セリスが言葉を発そうとした時、シャナンが先に、短く、そして小さく言葉を発する。 「……誓い、だ」 「え?」 答えがあると期待していなかったセリスは、驚いてシャナンの方に向き直り、聞き返した。 「かつて……ディアドラ様が攫われた時……私は直前に、ディアドラ様から頼まれたのだ。セリスを頼む、と」 「え、でもそれは……」 セリスは既に、母ディアドラが攫われた時のことを、詳細に聞いている。母が父に会いに行こうとして単身城を出た時に、暗黒教団の司祭に攫われたこと。そしてその時に、赤ん坊を――つまり自分を城に置いていったことを。 「でもそれは、母上が……その、自分がそうなることも知らずに軽く頼んだだけ……のはずだ」 当時から、シャナンは母ディアドラと一緒にいつもいて、自分の面倒を見てくれていた、と聞いているから、それは自然にそう頼んだだけではないだろうか。 「……そうかもしれん。だが、私にとってはそれは、ディアドラ様と交わした、最後の約束なのだ。そして、お前をシグルド様に託された時、私は誓った。必ずお前を守り抜く、とな」 「シャナン……」 きっとシャナンは、今までも、そしてこれからもその為に生きていくつもりなのだろう。 今更ながら、セリスはシャナンがフェイアを失ってなお、戦い続けられる理由を知った。全ては、幼い頃の、小さな約束のためだということを。 「でもシャナン、いつまでも私は守られなければならないほど弱いつもりはないよ?」 「それは分かっているが……」 それにはシャナンは苦笑いをした。 実は、セリスは既に戦士としては、超一流の実力を保有している。 かつてはスカサハ、ラクチェらと共に稽古をしていたが、今はそれもやることはない。 それは、セリスが軍を束ねる立場となり、他のことで忙しくなり始めたから、というのもあるが、実は既にスカサハ、ラクチェらよりも強くなってしまっている、というのがある。 恐らく、解放軍の中でもセリスと剣で互角以上に戦えるのは、アレスとシャナンだけだろう。それは、本人達の努力とか、資質の問題ではない。『神器の継承者』という、その圧倒的な潜在能力が生み出す実力の違いなのだ。 だがそれでも、シャナンにとってはまだまだセリスは見ていて不安になる存在でもあるのだ。セリスが未だに継承すべき神器、聖剣ティルフィングを持っていない、というのも理由の一つである。 その聖剣ティルフィングの所在は、現在をもってなお行方不明である。 最後にその所在が確認されているのは、十七年前のあのバーハラの悲劇。 あの時、シグルドは確かにティルフィングを持っていったはずだ。だが、その戦いでシグルドは殺されている。恐らく順当に行けば、あの時戦った相手である、皇帝アルヴィスが持っている可能性が一番高い。いくら神の炎ファラフレイムでも、聖剣を焼き尽くすことは不可能のはずだ。 「まあ、聖剣は多分グランベルのどこかにはあるはずだ。それをまず、探さないとね」 シャナンの心の内を見透かしたように、セリスが微笑んだ。 「それに、今焦ったって仕方ないのは確かだしね。シャナンも、少しは気を抜いた方が良いよ。私一人のために、シャナンの人生を使って欲しくはないからね」 「ああ……分かった」 その時ふと浮かんだのが、先ほど追い掛け回した金髪の少女のことであったことは、シャナン自身ほとんど自覚のないことだった。 |
雪は少し止んではまた降り出す、ということを繰り返し、なんと二十日間も断続的に降り続き、トラキア王国を完全に雪の中に埋もれさせてしまった。 実はグランベル軍は、この機会にルテキア城などを攻略し、待ち伏せをしようとして軍を派遣したのだが、ルテキアにつくまでもなく一千の兵が全員行方不明になる、という事態に見舞われた。 また、この動きは解放軍も察知していて、以後解放軍は飛行戦力での警戒を行っていたが、それ以後、さすがのグランベル軍も、これ以上雪のトラキアには軍を進めようとはしなかった。 |
そして三ヵ月後。 遅い春と共に、再び戦乱の幕が開こうとしていた。 時にグラン暦七七八年早春。 解放軍は、まだ雪の解け始めていないトラキアを発し、ミレトス最東端の都市、ペルルークを攻撃する。 それは、後に『聖戦』と呼ばれる戦いの幕開けでもあった。 |