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永き誓い・第四十五話




 それは、あまりにも奇妙に思えた。
 ミレトスの南北を、陸路で移動する唯一の道、ミレトス峡谷。当然そこは、帝国軍が勢力を結集して解放軍を迎え撃つと思われていたのだ。実際、この細い峡谷で縦深陣を敷かれたら、その突破はたとえ神器を所有する解放軍の将とて、容易なことではない。
 帝国本土に攻め込むための最難関の一つ――もう一つはミレトス大橋――と思われていたのだ。
 ところが、斥候の報告によると、申し訳程度の警備の兵はいるが、これはいつものことであり、それ以外に軍勢の影は見えない、という。
「どう思う、レヴィン、シャナン、オイフェ」
 セリスは、三度目の同じ報告を受けて、三人を振り返った。
「通常では考えられない。俺が敵将でも、ここは我々を食い止める、絶好の場所だ。縦深陣を敷き、こちらの戦力を殺ぐ。いくらこちらに神器があるとはいえ、その数はわずかに五つ。これだけで、解放軍の全戦力を守り切ることは不可能だ」
「確かにそうですね。まともに考えて、ここに軍を配さない理由は、ない」
「じゃあ、罠?」
「それも考えたのだが……」
 レヴィンは三回にわたる偵察結果から察するに、それもありえない、という。
 実際、最初の報告で軍が配されてない、と聞いた時から、レヴィンは罠、あるいは伏兵の可能性を考え、斥候に事細かに指示を与えて偵察させた。しかし、いずれにも敵兵の姿を見つけたという報告はなし。これでは、罠の仕掛けようもない。
「考えられるとしたら、むしろ帝国軍側の問題、かもしれないな」
「帝国の?」
 シャナンの言葉に、セリスは首を傾げる。
「ああ。暗黒教団と帝国との関係は、決していいとはいえない。実際、それで離反してこちらに降った将軍も少なくはない。その動きが、帝国軍内部にあっても何ら不思議はないだろう。それにここは、暗黒教団の支配地。先の戦いの折も、それでどちらかというと消極的な将軍がいたとも聞いているしな」
「ああ、確かに。リデール将軍、と言う方でした。非常に優秀な将だったと思うのですが……。ああいう方がこのような場に派遣される、ということは、それだけ帝国軍内部も色々混乱がある、とも考えられます」
「そうか……なら、私たちにもまだ付け入る隙があるということだね」
「そうだな。ただ、用心にこしたことはあるまいが……よし、明日、神速をもってミレトス峡谷を抜け、抜けたところに布陣する」
 レヴィンはそう宣言すると、編成の指示を次々に発していく。
 そんな中、シャナンはなおも怪訝そうな表情をしていた。
「どうしたの? シャナン」
「ん。ああ、いや。たいしたことじゃない」
「何か気になることでも?」
「いや、そうではないのだが……」
 シャナンはそこで言い澱む。
 実際、別になにか気付いたわけではない。斥候の結果からは、敵軍の存在を感じさせるものは一切ない。それに、アルテナ王女らが空から見てみても、敵軍は見えなかったという。ならば、やはり敵は布陣していない。
 だが、そんなことがありえるのだろうか。あえて、ここで食い止めず、ミレトス大橋を決戦の地と定めたのか。
 だが、ミレトス大橋は見通しが利く。こちらには、フォルセティ、イチイバルという強力な長射程攻撃が可能な神器があり、また、フリージの魔法騎士団の一部を吸収しているため、魔法戦ならば、グランベルのロートリッター、ゲルプリッターなどとも互角の勝負が出来る。敵がそのことを知らないはずはない。
 ならば、兵を伏せることのできるこの地形を利して、解放軍を谷に留めて伏兵で攻撃をした方が遥かに効率が良い。
 だが、足止めする部隊がなければ意味はない。仮に、数度の偵察や空からでも発見されない程度の少数の兵を伏せていたとしても、そんな数ではすでに一万にも膨れ上がっている解放軍に対して、効果的な攻撃など出来るはずもない。
 まともに考えれば、ミレトス大橋より、ミレトス峡谷の方が、遥かに防衛には適している。
 それを、いくら帝国軍と暗黒教団の関係が悪いからといって、完全に防備を捨てるだろうか。
 シャナンはなぜか、嫌な感覚が付き纏い続けていた。
 そして、そのシャナンの感覚は、決して間違ってはいなかったのである。

「ふふふ……やってきた。さあ、イシュタル、競争だ……」

 その災厄は、まさに突然出現した。
 ミレトス峡谷を抜けた解放軍を待っていたのは、たった二人の敵将だったのだ。
 解放軍は、ミレトス峡谷を抜けたところのミレトス平原で、敵軍が待ち伏せしている可能性を考え、軍の編成を大きく二つに分けた。第一陣から本陣までに騎兵部隊を集め、後陣に歩兵部隊を中心とした部隊を編成したのである。この目的は、もし伏兵があった場合、まず前衛が駆け抜けて敵陣を突き破り、状況を把握できたところで歩兵部隊が伏兵と戦闘に入り、騎兵部隊は大きく迂回して敵の側背を攻撃する予定だったのだ。
 ところが、予想に反して敵軍はいなかった。
 いたのは、たった二人の武将。
 魔皇子ユリウスと、雷神イシュタルの二人。
 この戦いは、シャナンは後衛に配されていたため、詳細はまったく知らない。ただ、前衛部隊にいたアレスによると、そのたった二人のために、一千近い兵が犠牲になったという。そしてその犠牲者の中には、あのレンスターの青騎士フィンの名すらあった。
 そしてその二人は、その後何事もなかったかのように立ち去り、解放軍はミレトスを目前にして一度陣を立て直さざるを得なかった。
「……なんてことだ……あれが……」
 オイフェががっくりと肩を落としている。だが、無理もないだろう。
 オイフェは、戦いにはほとんど参加していなかったとはいえ、フィンとはあのシグルド達との時間を共有している、数少ない仲間だったのだ。
 それは、レヴィンやシャナンも同様だが、オイフェは特に目の前でそれをやられた、というのが悔しく、衝撃が大きかったらしい。
「あれが、我々の敵……というわけだ」
「実際フィンを失った痛手はかなり大きい。リーフの軍に動揺が広がっている」
 リーフの養父といってもいいフィンは、事実上トラキア解放軍の精神的な支柱の一人でもあった。実際、フィン、シャナン、オイフェらは、その存在自体が戦力として以上に軍にとってすでになくてはならないものになっている。
「リーフ王子は?」
「セリスと一緒だ。たいした王子だ。気丈に振舞っている。まあ、フィンが助かる可能性がある、と示唆したのが効いたかもしれん」
 レヴィンの言葉に、オイフェとシャナンは驚いて振り返った。
「聖杖バルキリーだ。ハンニバル将軍の養子であるコープルが持っていた。偶然陣ですれ違わなければ、気付かなかったがな。あれは間違いなくバルキリーの杖だ。ならば、フィンほどに力のある武将ならば、助かる可能性がある」
「ちょっと待ってください。聖杖バルキリーは、あのバーハラの悲劇で失われたはずでは。クロード神父と共に」
 オイフェは、かつてミデェールから、バーハラの悲劇の顛末を聞いている。そしてそこで、クロード神父はミデェールが見た限り、最後まで戦場に残っていたはずなのだ。
「理由は俺にも分からん。だが、コープルはバルキリーが使えると言っていた。その力を、彼は把握している。だとすれば、彼の父親は、ほぼ間違いなくクロード神父ということになると思う。実際、クロード神父があのバーハラの悲劇で死んだ、という確認をした者などいやしない」
「奇跡のようなものですね……」
 オイフェの言葉に、シャナンも何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。
 あのバーハラの悲劇で散り散りになったはずの、シグルドと共に戦った者達。その遺児が、それぞれ個々の思惑があるにも関わらず、今一つの旗の下に集いつつある。
 最初、自分達だけで始まった、絶望的とも思えた解放戦争。だが、その戦いの中で、多くの仲間たちが、まるで運命に導かれるように集っている。
「フィンが助かる確率は?」
「良くて五分五分、というところだ。バルキリーの杖は誰でも生き返せる、というわけじゃない。あれも戦いのために作られた十二神器の一つだからな。戦いの中で非業に倒れた、強き戦士を蘇らせるための力だ。並の騎士なんかじゃ、まず生き返ることはない。だが……」
 その先は言わずとも分かっていた。
 フィンは、戦乱のトラキア半島を、リーフ王子を守って戦い抜いてきた戦士だ。その力は、聖戦士にすら匹敵する。聖戦士のひとりであるトラバントと互角の勝負をしてみせたのが、何よりの証明だろう。
「ただ、確実を期すならば、正式の手順と儀式を踏んだほうがいい。そして、それをやるだけの施設はそうそうあるものではないが……少なくとも、この先には確実にある」
 レヴィンはそういうと、現在の軍のいる場所から橋を渡って対岸――すなわち、シアルフィ城を指し示した。
「まずミレトスを陥落させる。そしてそのまま、ミレトス大橋を抜け、グランベルへ侵攻する。最初の目標は、シアルフィだ」
 レヴィンの言葉に、オイフェが小さく体を震わせた。
「いよいよ……ですね。あの時から二十年以上……まさか、これほど長く留守にするとは……」
 オイフェの言葉にこめられた感慨は、シャナンにも完全には理解できなかった。だが、なんとなくは分かる。
 かつて、ヴェルダンの侵攻を食い止め、攫われたエーディン公女を助け出すために、オイフェは軍属としてシアルフィを発った。しかしそれきり、彼がシアルフィに戻ることはなく、アグストリア、シレジア、そしてイザークへと移り、再び戦いを経てこの場所に帰ってきたのである。
「フィンのことはコープルらに任せよう。リーフも今は、戦ってもらわなければならない。まずはミレトスだ」
 レヴィンはそう宣言すると、かつ、と指揮棒で地図のシアルフィ城の場所を叩いた。

「ふふふ。何年ぶりかな、ユリア。会えて嬉しいよ」
 その、赤い髪の少年は、心底嬉しそうに――しかしどこか歪んだものを感じさせる――笑みを浮かべ、正面に立つ少女を見下ろした。かつては、ともすると彼女の方が背が高かったのだが、今では彼の方がずっと高い。彼自身、背が特に高い方というわけではないのだが、少女の方が平均よりやや小柄なのだ。
「兄様はどこです」
 詰問するような少女の声に、少年はむしろ愉快そうに笑った。
「どうしたんだい、ユリア。兄は私じゃないか。目の前にいるのに『どこです』はないだろう」
「貴方はユリウス兄様じゃない。兄様はどこです」
 ユリウス、と呼ばれた赤毛の少年はやはり愉快そうに笑い、そして傍らに控えていた暗紫色のローブの方に振り返る。
「どうやら記憶は完全に戻っているようだな、マンフロイ」
「はい。ショックによる記憶の封鎖のようなものでしたので、記憶に結びつくものを確認したことで、記憶が戻ったのではないかと」
 ユリウスは「そうか」というと再びユリアの方に振り返る。
「まさか記憶を失っているとは思わなかったからね。道理でなんの行動もなかったはずだよ。しかし解放軍にいるとは、さすがに予想できなかった。まあ、こうして戻ってきてくれたことは、兄として嬉しいよ」
 そういって、また笑う。その笑みは、優しさ、暖かさとは無縁の、残忍さを宿した笑みである。
「何しろ、ユリアが生きていると、いつ私に逆らってくるか分からないからね。こうして手元にいてくれた方がいいのだけど……その目は、素直に私に従うつもりはなさそうだね」
「何をする気だ、ユリウス!!」
 それまで、壁際に立っていた壮年の男が、慌てたように踏み出そうとして――ユリウスに睨まれて踏みとどまった。
「父上は余計なことをなさらないで頂きたい。そもそも、せっかくの新たな神の子の候補を逃がそうなどと……余計なことを」
「何が神の子の候補だ!!」
 子供狩りによって狩られた子供達。それは、すべてバーハラに送られ、そこで互いに互いを殺しあわされる。そしてそこで生き残った者が、『神に選ばれた者』として新たな暗黒教団の一員となるのだ。つまり、暗黒神にとっての新たなる『神の子』の誕生というわけだ。
 だが、それで生き残る子供など、百人に一人もいない。
 そして、これは噂でしかないが、その死した子供達の血は、暗黒神復活に――すなわちユリウスに――捧げられている、とも言われている。
「父上。貴方は私のやることに口出しする必要はない。そう言ったはずです」
「ぐっ……」
 ユリウスに父と呼ばれた男――グランベル帝国皇帝アルヴィスは、言葉が続けられず、押し黙った。
「そうそう。そろそろ来る私の異父兄率いる軍をどうにかすることを考えた方がいいですよ。何しろ貴方は、彼にとっては父親の仇なのですからね」
 彼は、明らかにこの状況を愉しんでいた。イザーク、トラキアと失陥し、反帝国の気運は大陸全土で高まっている。解放軍が通っていないアグストリアなどでも、諸卿に軍を出すように命じても、何かと理由をつけて応じなくなりつつあった。
 だが、それも無駄だ。それを、アルヴィスは知っている。たとえ万の軍を持ってしても、このユリウスには敵わない。対抗しうる力は、今、ユリウスの手に落ちた。
 どこでこれほどに道を誤ったのか。アルヴィスはその自身への問い掛けを幾度繰り返したか分からない。
 だが、答えは分かっている。あの時。自らの野心を実現に移し、真に国を憂う騎士達を騙し討ちにしたあの時から。おそらく、あの時から全てが決定的に間違った方向に進んだのだろう。
「さてユリア。君が私に従順であるなら、私としても妹を殺したりはしなくてすむのだが……」
 ユリウスの目に、残忍というより愉悦の光が宿った。それは、ある意味では無邪気と表してもいいかもしれない。ちょうど、何も知らない子供が虫を殺すような、そんな無邪気で残酷な輝き。
「私が、素直に殺されると思いますか」
 そういうと、ユリアは身構える。しかし、手に魔道書はなく、ユリアはほとんど無力だ。ユリウスもそれを知ってか、酷く愉しそうに笑っている。
 アルヴィスは絶望を悟った。ユリウスは、この場で血を分けた妹を殺すつもりだ、と。だが、自分が止めたところで絶対にユリウスは止めはしない。かくなる上は、自分が今この場で殺されることになろうとも、それだけは阻止しなければならない。
「ま……」
「お待ち下さい、ユリウス様」
 その声は、アルヴィスも、おそらくはユリウスも予想しなかった方から発せられた。
「なんだ、マンフロイ」
「殺すことなどいつでも出来ること。しかしそれでは、いささか興がなさすぎます」
 マンフロイの言葉に、ユリウスは首をかしげる。
「どうするというのだ?」
「奴等に絶望というものを教えてやりましょう。我らの手ではなく、奴等の手で奴等の希望を失わせるのです」
 ユリウスは、なおも分からない、というように首をひねった。
「何、すぐお分かりになりますよ。それこそが、奴等の末路に相応しい……」
「まあいい。分かった、マンフロイに任せる。だが、しくじるなよ」
「無論でございます。このマンフロイに全てお任せを」
 マンフロイは恭しく頭を下げると、ユリウスより更に残忍……というよりは醜怪といっていい笑みを浮かべ、ユリアを見やる。その顔に、思わずユリアは数歩後退った。
「まて、マンフロイ。何をする気だ。仮にもこのグランベル帝国の皇女に」
 アルヴィスはマンフロイとユリアの間に立ち塞がったが、これほどそぐわない称号もないだろう、と内心苦笑した。
 今この場で、マンフロイを殺すことなら、難しいことではない。いかにマンフロイが強力な魔力を持とうとも、彼一人ならファラフレイムの力なら一撃で倒せるだろう。
 だが、そうなればユリアは確実にこの場で殺される。マンフロイの狙いが何かは分からないが、だが、今この場で殺されなければ、ユリアが助かる可能性が、たとえ絹糸のような細さであってもあるかもしれないのだ。
「おどき下さい、皇帝陛下。それに、ユリウス殿下のご指示はお聞きになられたでしょう。それより、あの忌々しい解放軍を防ぐための方策を練られてはどうですか? 『貴方の』帝国を守るためにね」
 マンフロイはそういうと、嘲るような表情になる。
 これほど軽視された『皇帝』は歴史上初だろう、などとアルヴィスは思った。しかし、今殺されるわけにはいかない。もはや、自分の罪は死をもってしても償いきれないものとなっているだろう。
 だが、だからこそ汚辱にまみれてでも生きて、なさなければならないことがあるのだ。
「……分かった。だが、その前に娘と話をさせてもらおう。そのくらいは良かろう?」
 マンフロイは怪訝そうな顔になったが、ユリウスが「父上もユリアにはお甘いからな」とだけ言って、許可した。
 その後、ユリウスは部屋に入ってきたイシュタルと話していて、アルヴィスから興味を失ったらしい。やがて、マンフロイとイシュタルを伴って出て行く。一瞬、ワープの魔法でユリアを逃がせないかとも考えたが、周囲に満ちた重圧が、それを不可能にしていることを悟った。あのユリウスの力は、その場に居ずして、相手の魔力を抑え込むほどになっている。
「……ユリア……」
 アルヴィスは、ユリアの方へ向き直った。
 おそらく、これが娘との最後の対話になることを悟りながら。

 グラン暦七七八年。解放軍はついにミレトスを陥落させ、シアルフィへと迫ろうとしていた。
 後の世に、数多くの伝説と逸話を残した『第二の聖戦』が、ここに始まろうとしていたのであった。



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