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永き誓い・第四十七話




 グラン暦七七八年。シアルフィを発した解放軍は、予定通り軍を大きく二つに分けた。アレスを主将とし、副将にリーフ、アルテナを配するドズル攻略の部隊と、主将をセリスとし、副将にシャナン、オイフェを配したエッダ攻撃部隊である。
 このエッダ攻撃部隊にはフォルセティの継承者を含め、魔法の使い手を多く配していた。これは、エッダがかつても、そして現在も多くの司祭、司教を擁し、強力な魔法の使い手が多いことを警戒してのことである。
 対して、ドズルの攻撃隊は、頑強なことで知られるグラオリッターをも撃破しうる、強力な攻撃部隊を編成した。神器の継承者としては、アレス、アルテナ以外にファバルもこちらに加わっている。
「ドズルの攻撃部隊に参加したのではなかったのだな、パティ」
 シアルフィを発って一日目のキャンプで、忙しく走り回って働いているパティを見つけたシャナンは、食事を受け取る時に少し意外そうに声をかけた。兄ファバルと共にドズルへ向かうものだと思っていたのである。
「うん。迷ったんですけどね。やっぱりシャナン様のそばにいたいし♪」
 シャナンはそれに、やれやれ、と肩を竦め、その場を立ち去った。しかしすぐ、パティが自分の分の食事を抱えてシャナンの側に来る。
「おいおい。いいのか、当番は」
「うん。割り当て時間は終わってたもの。シャナン様が来るのを待っていたの」
 パティはさらりと言うと、シャナンの横にちょこんと座った。
 シャナンはその様に苦笑したが、特に何も言わない。
「戦いって、いつから始まるんでしょう……?」
 しばらく黙々と食事をしていたパティが、不安そうな声で呟いた。
 やはり、パティにとっては不安なのだろう。今でこそこの様に静かな時が流れているが、いざ戦いが始まってしまえば、戦いが終わるまで気の休まる時などない。そして、その戦いの時間とは、一瞬毎に『死』が生産される時間なのだ。
「恐いか?」
「はい……でも、自分が死ぬかもしれない、ってことより、他の誰かが……お兄ちゃんやシャナン様が死ぬかもしれない、って想像する方がもっと恐いです。もう、誰も……誰も死んでなんて欲しくない。すごい自分勝手なのは分かってますけど、でも私は、私がよく知る人に死んでほしくない」
 先の戦いでの魔皇子ユリウスによる甚大な被害は、解放軍の将兵に深い影を落としていた。特に、フィンの戦死は――無事蘇生したとはいえ――全軍に相手の強大さを知らしめることになってしまっていた。
 あれが『敵』だ、という事実は、解放軍にとっては脅威以外の何者でもなかったのである。
 そして、これからの相手は、その魔皇子に従う大陸最強の軍隊。これまでに、シャナンもパティも熾烈な戦いというのは幾度も経験してきている。だが、これからの戦いは、それの比ではない。そしてそれは、文字通り大陸の命運を決める戦いでもあるのだ。
「正直に言うとな」
 シャナンは空になったスープ皿を脇にどけて、パンをかじる。
「私も戦うのは、恐いのだ」
「え?」
 パティの目が、文字通り見開かれ、真ん丸になっている。
「そう驚くこともあるまい。私とて人間だ。自分の死を、恐れぬわけではない。だがそれ以上に、私は人を斬ることを……いや、殺すことを恐れている」
 パティの目がますます大きく開かれ、目が飛び出しそうなほどになっていた。しかもそれで顔が凍り付いている。
「だ、だってシャナン様、解放軍一の剣士で、大陸でも最強で、その、」
「強いことと人殺しを好むことは、同一ではないぞ、パティ」
「あ……」
 パティは酷く恥ずかしくなって、下を向いてしまった。
 確かにその通りだ。そうでなければ、卓越した戦士はみな殺人狂になってしまう。だが、シャナンはもちろん、解放軍の戦士たちは誰も、好んで戦いに身を投じているわけではないのだ。
「確かに私は、剣の実力ならば、誰にも負けない自信がある。だが、だからといって人を殺したいわけではない。……いや、むしろ私は、出来れば人を殺したくなどない。人を斬った時に剣を伝ってくるあの死の感覚は、慣れるものではない」
「シャナン様……」
「私が初めて人を斬り殺したのは、九歳の時だった。イザークに来たばかりの頃だ」
 突然過去のことを話し始めたシャナンを、パティは少し驚いた。これまで、シャナンが過去のことを話すことはほとんどなかったからだ。あったとしても、かつてシグルド達と一緒にいた時期の話か、ティルナノグの話ばかりで、イザークに来たばかりの頃の話は初めて聞くものだった。
「当時私たちは、幼いセリスやスカサハ達を連れて、イザーク王国の辺境を進んでいた。味方もなく、周囲は全て敵。そういう状況だったな。食料も少なく、僅かな先の未来にすら希望を持てない状況。そんな中、元グランベルの兵に襲われた時、私は初めて、人を斬った……いや、殺した。逆上していてな。オイフェが毒を受けて、倒れてしまったのだ」
 我を失っていたとはいえ、あの時のことはよく覚えている。倒れたオイフェ。嘲笑うグランベル兵の顔。そして、シャナンの力を見て恐怖に凍り付く彼らの、死の直前の表情まで鮮明に思い出すことが出来る。
 それから、すでに十八年。その間に、シャナンは数え切れないほど剣を振るい、そして人の命を奪ってきた。
 剣で人を斬り裂く事。そして、その命を奪うこと。それにまったく慣れてない、といえば嘘にはなるだろう。
 しかし、ある程度慣れたからといって、死をもたらしているという事実に平然としていられるかというと、そういうわけではない。今でも時々、自分が殺した敵の顔を夢に見ることがある。
「まあ、だからといって、今更戦うことに迷うことはない。私が迷えば、それだけ解放軍の被害が大きくなる。そういうことは、戦いが終わったあとに考えることにしている。今はな」
「戦いが終わった後……?」
 今更のようだが、パティは自分が戦いの後のことを、まったく考えていないことに気が付いた。
 この戦いは、いつまでも続くものではない。むしろ、既にその終焉が見え始めている戦いだ。バーハラにいるという魔皇子ユリウスを討ち取れば、この戦いは終わる。それはもう、何ヶ月も先の話ではないだろう。
 そして、戦いが終われば当然解放軍が一つにまとまっている必要はない。元々、解放軍の中核を占める者達は、本来大陸のあちこちで統治者であるはずの人物達だ。戦いが終われば、リーフ王子はトラキア半島に戻るのだろうし、セティ王子はシレジアに行くのだろう。当然、シャナン王子はイザークに戻るはずだ。そして、パティ自身は。
 いまだに実感が持てないことではあるのだが、パティはグランベル六公国の一つ、ユングヴィ公家の息女で、さらにはヴェルダンの王女らしい。盗賊である自分が、どこをどうしたらユングヴィ公家だとかヴェルダン王家などという雲の上の存在に属した人間になるのか不思議で仕方ないが、兄ファバルが聖弓イチイバルの継承者であること、そしてパティ自身にある――それまでただの痣だと思っていた――聖痕が、それを証明しているらしいし、オイフェやシャナンの記憶によれば、父親がヴェルダンのジャムカ王子であるのも間違いない。となるとパティはユングヴィか、あるいはヴェルダンに行くことになるだろう。
 シャナンはイザーク。その距離の隔たりは、パティが解放軍に加わってこれまで旅してきた道のりよりも、さらに遠い。
 さらに、戦後はその復興のために忙しくなることは明らかである。とてもではないが、イザークにいるシャナンに会うことなど出来なくなるだろう。
 シャナンと会うことが出来なくなるという事実は、今のパティにとっては想像の外にあった。
「どうした?」
「え、あ、いえ、なんでもないです」
 どうやら考えに沈んでいたらしい。パティは慌てて表情を取り繕う。しかし、このように気軽に話せるのも、あと数ヶ月もない、ということに気付くと、急に寂寥感が込み上げてきた。
「どうした。気分でも悪いのか?」
「いえ、違うんです。あの、私、戦争終わった後のことなんて、全然考えていなかったなあ、って」
「……まあ、勝てるかどうかも分からない戦いだからな。負けるつもりはなくても、先のことを無理に考えるより、明日勝つことを考える方が先決だ。ただそれでも、まったく考えないで戦っていられるわけじゃない」
「そうなんですか?」
 シャナンは「ああ」といってからすっと前方を指差す。といっても、見えるのは森でしかない。
「戦いに勝つことだけを考えるなら、敵兵を森に追い込んで火を放てばいい。だが、そんなことをすれば、その後の復興が大変になる。まあこれは、帝国側も同じだ。ただ勝つだけでは意味がない。勝った後に、生きていくことを考える以上な」
「それは、そうですよねえ」
「この戦いはただ勝てばいいというものではない。パティだって、相討ちになりたくはなかろう? 勝つには勝ったが、その後が復興しようがないほどだったら、相討ちと同じだ」
「そりゃあ、そうですけど……」
 本当は、パティの悩みはそれとは全然違ったのだけど。
 でもなんとなく、パティは少しだけ心を落ち着かせることが出来た。
「よしっ」
 パティは勢い良く立ち上がると、パンパン、と服に付いた汚れを払った。
 いつのまにか、シャナンの皿もパティの皿もすべて空になっている。
「シャナン様、おかわりはいいですか?」
「あ、ああ。いや、もういい。明日は敵軍と激突するからな。その時にお腹いっぱいで動けなくてはどうしようもない」
 シャナン様に限ってそういうことなんてないと思うんだけど。
 パティはそう思ったが、特に口には出さなかった。
 シャナン率いる歩兵部隊は、ここよりあと半日ほど行った先で、敵の傭兵部隊と激突する予定になっている。この部隊は本隊である騎兵部隊よりも一日先行していて、エッダの南の森から回り込み、エッダを攻撃する進路を取っていた。傍目には兵力分散の愚を犯しているようだが、数の差を不利にさせない森を進行し、しかも率いるのはシャナンである。そしてこの情報は、わざとエッダにはもたらされていた。つまり、敵軍としては南からの攻撃に対して十分な迎撃態勢を整えざるを得ないのだ。
 ただこれは、逆に言えばシャナン達の部隊は非常に危険な状況に置かれることにもなる。しかしそれでも、シャナン達は負ける気がまったくしていなかった。
「明日、がんばって下さいね。といっても……シャナン様に恐いの、魔法だけですよね」
 魔法の中には、通常より遥かに射程の長い魔法が存在する。これらは、前兆のある魔法――具体的には直接ダメージを与える魔法――であれば、シャナンなら造作なく気付いて回避することが出来るが、前兆のない、あるいは非常にわかりにくい魔法がある。眠りの魔法スリープや、沈黙の魔法サイレスなどがこれだ。沈黙の魔法は、シャナンには意味がないとしても、眠りの魔法はさすがにシャナンでも危険だ。
「まあ、そのための聖水だからな」
 シャナンは腰に下げた袋から、硝子の小瓶を取り出す。
 聖水とは、主に司祭によって聖別された特別な水で、強力な破魔の力を秘めている。これを振り掛ければ、大体半日程度、並の魔法はまるで通用しなくなる、というもので、特に魔法に対しては強い抵抗力を持たない戦士達には重宝するものである。
 ただ、生成に非常に時間がかかり、また決して安価でもないので、あまり使うことはない。とはいえこのような戦いになれば使わざるを得ないわけで、シャナンら指揮官には全員に渡されていた。
「気をつけて下さいね、シャナン様。パティ特製のお弁当用意して待ってますから♪」
 パティは出来るだけ明るい声を出した。
 それにシャナンはわずかに微笑んだ。
「それは、楽しみにしていよう」

「くっ。なんてことだ。やつらがここまでなりふりかまわなくなっていたとは……」
 空は闇。今夜は雲が厚いため、星も月もまったく見えない。にもかかわらず、周囲は眩しいほどに明るかった。
 森の中を照らすのは、紅蓮の業火。その炎の舌は、次々と木々に燃え移り、天をも焦がさんとばかりに燃え盛っている。
 夜襲があることは十分に予測できていた。というよりは、夜襲は確実にあると考えていて、シャナン達は既にその迎撃態勢を整えた状態で、待ち受けていたのだ。だが、第一撃は、シャナン達の予想を完全に越えていた。
 エッダ軍は、森に火を放って解放軍を炎によって包囲したのである。
 この辺りの森は古い木々が多く、またこのところ乾燥した天候が続いていたため、森はあっという間に燃え上がった。そして敵軍は、その炎から脱出しようとする解放軍を待ち伏せて撃滅する戦法を取ってきたのである。
「正気とは思えん」
 この辺りの森は、エッダの近郊まで連なる、広大な森林地帯の一角である。乾燥したこの季節、一度ついた火はそうそう消えることはない。
 凄まじい勢いで燃え広がる炎は、数日とかからず森をことごとく焼き尽くしてしまうだろう。それは、ここに住む木こりや狩人達の、生命線を断つことにもなる。
 しかし、だからといってシャナン達にも打つ手はない。いくら強大な力を誇るバルムンクやフォルセティをもってしても、この大火を抑えることなど出来ようはずもない。
 とにかく、延焼を防ぐしかない、と判断したシャナンは、後続の部隊に伝令を飛ばさせ、魔術師部隊に直ちに急行するように命じた。
 もっとも、聡いセリスやセティなら、この炎から発せられる明かりを見て異常を察し、急行してくれるかもしれない。正直、時間的にはそれに期待するしかなかった。
 魔術師の、特に風魔法の力なら、風を制御して炎が広がるのを防ぐことが出来るし、また、フォルセティなら巨木をもなぎ倒して、延焼を防ぐことも出来る。だが、さすがに剣でそのようなことが出来るのは、ほとんどいない。ラクチェやスカサハらの操る月光剣や、あるいはアルテナ、セリス、アレスらの神器の力なら可能だが、今この場にいるのはシャナン一人だ。
 油断していたつもりは欠片もないが、相手の出方を見誤ったのは確かだった。或いは、相手の覚悟を甘く見過ぎていたのかもしれない。
 シャナンはとりあえず伝令を走らせて、自分は火の切れ目を目指して走った。敵兵が待ち受けているだろうが、この火勢である。敵兵も、それほど多くは配置してない、ということに期待するしかない。
 だが、その直後。
 突然シャナンは、全身の力がまるで何かに吸い取られたかのように脱力した。
 足元がふらつき、やがてもつれて倒れ伏す。必死で立ち上がろうとするのだが、体がまったく言うことを聞かなかった。それどころか、意識まで朦朧としてくる。
「……しまった……」
 その時になって、シャナンはようやく自分の身に何が起きたかを悟った。
 眠りをもたらす長距離魔法スリープ。考えてみたら、急いで天幕を出たので、聖水を体にふりかけるのを完全に忘れていた。
 敵はエッダ軍。当然、そういう魔法の使い手が少ないはずはないのである。
「く……そ……」
 いくら体を動かそうとしても、まるで言うことを聞かない。
 実は、まだ意識がかろうじてとはいえあるというのは、驚異的といっていいことなのではあるが、かといってシャナンには何の救いにもなりはしない。
 そしてそのシャナンの視界の端に、何者かの軍靴が入って来ていた。

「あっ!!」
 パティは、シャナンの指示を受け、急ぎ最低限の物資だけをまとめて炎の輪を突破しようとしていた。その途中、シャナンの天幕が見え、ふと何か重要な忘れ物がないだろうか、と一瞬立ち寄った時、テーブルの上にそれを見つけたのである。
 シャナンが持っていっているはずの聖水を。
 おそらく、シャナンが急いでいて忘れてしまったのだろう。無論シャナンは聖水などなくても、そもそも攻撃魔法など当たることすらない。だが、シャナンでも回避できない魔法がある。そのために、シャナンは聖水を持っていくはずだったのに。
 胸騒ぎがした。無論、シャナンがそんな魔法の標的にされることなく無事でいる確率は、非常に高い。にもかかわらず、パティは言い知れぬ恐怖と不安を感じていた。
 戦後のことを、シャナンと話したのは今日のことである。その時、シャナンと別れてしまうことを、パティは恐れた。しかし、戦いが終わっても、会おうと思えば会うことが出来ないわけではない。イザークとユングヴィがどれだけ遠くても、これまでパティは遠くイードからここまで来たのだから。
 だが、今感じている不安は、それとは違う。シャナンの存在を感じられなくなる、そういう恐怖。それは、つまり。
 その考えに至った時、パティは聖水を持って走り出していた。
 途中、何人かの兵が逆方向に走るパティを見咎め制止したが、パティはもちろん立ち止まらなかった。
 自分が行った方が足手まといになるかもしれない。それ以前にきっと大丈夫に違いない。
 そんな考えが幾度も過ぎったにもかかわらず、パティはそのまま、紅蓮の炎の燃え盛る森へと突っ込んでいった。



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