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永き誓い・第五十話




 戦いの始まる朝、というのは、どうしていつも静かなのだろう。
 普段なら聞こえる鳥や動物の鳴き声も聞こえない。かすかに聞こえるのは、風の音だけ。それすら、控え目に思える。
 これから、凄絶な戦いが始まるとは、到底思えないほどだ。いや、戦いが始まろうとしているからこそ、静かなのだろうか。動物達は、皆その場所に立ち込めた緊張を感じて、逃げ出すか、あるいは巣穴に引きこもっているのかもしれない。だから、普段よりずっと静かなのか。
 眼下に見える平原は、小さな街ほどの広さもあるが、大軍が展開するには向いていない。あるいは、平和な時であればバザーなどが開かれていたのではないだろうか、と思えるような場所だった。
 実際、この平原はシアルフィとドズルのほぼ中間地点であり、近くに大きな街はなく、そして平原のあちこちに水場も点在しているから、その想像は多分正しい。
「この戦いが終わって、平和になったらあるいは、ここにまたバザーが戻ってくるかな……」
 平原を見下ろしていた黒髪の少年――そろそろ青年という年齢に達しつつあるが――は、誰に言うとなく独り言ちた。
「何をしてるの、スカサハ」
「戦いの前って、いつも静かだな、と思ってね。ラクチェ、準備は?」
 彼は振り返らずに答えた。声から、彼の名を呼んだのが誰かは、考えるまでもなかったのだ。
「いつでも出陣可能。あとは……」
 ラクチェは、眼下の平原を見渡した。ところどころに水や川があり、多少起伏に富んだ平原。騎馬を並べて突撃させるにはあまり向かない場所で、だからこそ解放軍はグラオリッターとの戦いの場所に選んだ。
 だが、グラオリッターがその突進力ではなく数そのものを圧力として用いる戦術を取ってくると推測されるため、地形的にはむしろ撹乱するための騎兵の機動力すら使えない分、解放軍の方がやや不利にもなりえる。
「静かね……でも静かなのに、どこか緊張感が漂ってる。空気がピリピリしてるって感じね」
 スカサハは、黙って頷く。
 肌を突き刺すような、というほどの緊張感ではない。しかし、これから何かが始まるという予感がする、そんな緊張感だ。
 いや、実際始まるのだ。
 ドズル家の命運を決める、その戦いが。

 グラオリッターと解放軍は、その平原のほぼ中央付近で相対した。
 時間は、正午よりも少し前。
 スカサハの推測どおり、ここはかつては定期的に大きなバザーが開かれていた場所で、時にはそれは、下手な街よりも賑わったという。そしてそのバザーの中心となっていた場所が、今両軍がにらみ合っている場所だった。
 互いの距離は歩幅にしておよそ五百歩。両軍とも、正面に立つのは重装備の騎兵である。
 両軍数千の殺気が、その中間でぶつかり合う。気の弱い兵であれば、その気配だけで逃げ出したくなったことだろう。だが、今ここで逃げ出すような弱兵は、グラオリッターにも解放軍にもいはしない。両軍は静かに歩みを進め、そして、三百歩の距離になった時、まず最初に風がうなりをあげた。
 空を、黒い横向きの雨が薙ぐ。それは、先端に鋼の殺意を込められた、死の雨だ。
 ざあ、という音と共に発したその矢の雨は、解放軍から一方的に降り注がれた。対するグラオリッターは、その雨が放たれると同時に、全軍が突撃してくる。その様は、大地を揺るがせんばかりである。
 グラオリッターには、矢を能く使う兵がいない。ゆえに、最初から矢戦は捨て、一気に突撃をかけてきたのだ。
 グラオリッターの騎士は、片手にある巨大な方形盾を掲げ、矢を防ぐ。その盾は、幅が軍馬ほど、高さに至っては人の身長ほどはある巨大なもので、表面に薄い鋼板を張りつけ、縁をやはり鋼で補強されたもの。その重さは、普通の成人男子でも両手で持つのがやっと、というほどだ。それを片手で扱うことも、グラオリッターの騎士が非凡であることを証明している。
 だが、その盾を持ってしても、雨のように降り注ぐ矢から、完全に身を守ることは出来ない。少なからず盾の隙間に矢は落ちるが、それでもなお、騎士も軍馬も鎧で固めてあるグラオリッターは、滅多なことでは倒れることはない。本当に数騎が倒れる程度だ。
 ただし、例外もある。
 本来矢は、放物線状に放つ。射程距離を伸ばすと共に、物体が落下する速度を利用して、少しでも威力を保つためだ。だが、一撃だけ、あろうことか水平に放たれている、光り輝く矢があった。
 その光の矢は、水平に放たれているにもかかわらず、失速もせず風の影響すら受けずにグラオリッターの戦列に達し、容赦なくグラオリッターを、その鎧ごと射貫いていく。それはもちろん、ウルの聖戦士ファバルのもつ、聖弓イチイバルから放たれた矢であった。
 しかし、たった一人の力で軍を止めることが出来るはずもなく、やがて彼我の距離は、弓が使えなくなるような距離になる。
「全軍、突撃!!」
 アレスの声が響き渡り、魔剣が、陽光を反射して黒い光を放った。
 そして、その直後。解放軍の騎兵全軍が突撃を開始したのである。

「始まったわね」
 互いの軍が突撃を開始した時、スカサハ、ラクチェ、ヨハルヴァの率いる別働隊は、すでにグラオリッターの後背に回り込んでいた。
 山間を大きく迂回し、見つからないように尾根に隠れながら進み、そしてグラオリッターの最後衛までもう百歩もないような距離まで移動してきたのだ。その距離に、まさか一千近い兵が伏せているとは、ブリアンでも思わないだろう。
「俺たちの攻撃の目的は、グラオリッターの後衛が攻撃された、という事実によって、全体の士気を挫くこと。まずこれが第一だ」
 スカサハに言葉に、ラクチェとヨハルヴァは頷く。
「そりゃそうだ。たかだか一千の兵じゃ、撹乱くらいしか出来ないからな」
「けど、あなたの目的は違うでしょう?」
「そっちは好きにしていいさ、ヨハルヴァ。元々、この戦いはドズル家にとっても重要な戦いだ。お前がブリアン公子と対して、どうするか、は俺たち――解放軍が決めていいことじゃない」
「すまねえ、スカサハ」
「そう思うなら生き残れ。俺は、一人残ったラクチェを悲しませるような奴を、義弟にするつもりはない」
 いきなりのスカサハの言葉に、ヨハルヴァとラクチェの顔が、一気に赤くなる。
「な、何言ってるのよ、スカサハっ」
 その様子に、スカサハは小さく笑った後、すぐ真面目な表情になった。
「どちらにしても、グラオリッターがブリアン公子の命で降伏するか、あるいは瓦解するか。どちらかのきっかけは、俺たちに任されているんだ。それだけは、肝に銘じておけ。」
「……分かってる」
「じゃ、行こうか」
 スカサハは呟くように言って、森の中に伏せている仲間たちの方に振り返った。
 彼らの視線を受けて、スカサハはゆっくりと剣を抜き放つと、高々と掲げ、そして特に号令もなく振り下ろした。そして同時に、森から一気に飛び出して駆け出す。その後を、一千の兵が続き、そして鬨の声があがった。

「何事だ!!」
「て、敵襲です。背後から。かなりの数の兵が、森に伏せていた模様です」
「バカな!」
 ブリアンは、山を越えてくる兵がいるかもしれない、という可能性を忘れていたわけではない。むしろ、十分に警戒していたつもりだった。だから、ここ数日幾度も斥候を出していたのだ。だが、山を越えてくる部隊はない、と報告されていた。
 実際、解放軍はドズルとエッダの両方に同時に対するために、軍を二つに分けているので、そのように兵をさらに分ける余裕がないのだ、とそう判断していたのだ。まさか、斥候の目につかないように、徹底して隠密で多数の兵を山越えさせてくるとは、思わなかったのである。
「くそっ。温存している部隊を、すべて迎撃にまわせ!!」
 ブリアンは、全軍のほぼ半数を未だに待機させたままなのだ。
「し、しかしそれでは前線への援軍がままなりません」
「構わん!! ここで本陣が奇襲を受けて苦戦、などと虚報が流れてみろ。前線は浮き足立って、勝てる戦も勝てん! どうせ、背後から来た部隊はたいした数ではあるまい。まず叩き潰し、逆に反乱軍の連中の士気を挫いてやれ!!」
 この冷静な判断は、さすがにブリアンが非凡であることを表している。前線は確かに苦戦しているが、おそらくまだ戦線は維持できる。
 ブリアンは、解放軍――彼にとっては反乱軍だが――の力を、決して過小評価はしていなかった。おそらく、単純にぶつかり合えば、グラオリッターと互角であると判断していたのだ。ゆえに、まず前衛部隊が解放軍をその圧力で押し留める。そして、両軍が疲弊したところで後衛が前衛と入れ替わって突撃し、撃滅する。それが彼の基本的な戦術案だった。
 逆に言えば、前衛部隊は後衛が無傷で残っているという安心感から、多少の劣勢でもなんとか戦っていられるのだ。それがもし、本陣が崩壊した、などという噂が流れようものなら、でこの戦いに勝ち目はなくなる。ブリアンは、戦場における虚報がどれだけ恐ろしいものかも、良く知っているのだ。
 だからこそ、そういう噂が出るよりも前に、伏兵部隊を叩き潰そうと考えたのだった。
「スワンチカをこれへ!!」
 その言葉に、周囲の兵がぎょっとなる。
「こ、公子御自ら戦われずとも。たかが反乱軍の伏兵ごとき、我らにお任せを……」
 ブリアンはその言葉を容れず、側近が持ってきた巨大な斧を、軽々と片手で持ち上げた。
 所有者に最強の防御力を与えるという、神器・聖斧スワンチカ。それを握ると同時に、何か力がわきあがってくるのを、彼は感じていた。
「後の指揮は任せる。我が後背を突くその勇気に敬意を表してやるだけだ。そして同時に思い知らせてやる。我は、背後にすら死角がない、ということをな」
「ブ、ブリアン様!!」
 近侍の騎士が止める間もなく、ブリアンは馬首を返すと一気に戦場へと駆けていく。
「まあ、めったなことなどあろうはずもあるまい。ブリアン様のスワンチカの護りを貫けるものなど、この世にありはしないのだからな」
 しかしそれが、彼らがブリアンを見る最後になろうとは、この時は誰も思わなかった。

「くっ、さすがに強い……!」
 何人目かの騎士を斬ったスカサハは、すでに馬上にあった。はじめは地上で戦っていたのだが、さすがにグラオリッターの馬上から振り下ろされる斧を受け止めるのは苦しいと判断し、馬を奪ったのだ。
 イザークの民は馬を能く使う。馬上で剣を振るうことは、スカサハは不自由はしなかったが、さすがにこの状態では流星剣や月光剣は使えない。しかし、今はそういう一撃にかける技ではなく、確実に敵の攻撃を捌き、そして敵の鎧の隙間を正確に貫くことが最重要であり、それならば馬上にあるほうが有利だ。
 いつの間にかヨハルヴァもラクチェも、姿は見えなくなっている。ヨハルヴァはまっすぐに兄の元へ向かったのだろう。とすれば、ラクチェも一緒だろうか。心配しないわけではないが、今他人のこと心配をする余裕は、スカサハにもない。とにかく無事で、と願うしかなかった。
 その一方、ヨハルヴァとラクチェは、スカサハの予想したとおり二人一緒にいて、一直線に本陣へと向かっていた。
 グラオリッターがいかに優れているとはいえ、ヨハルヴァもまた、聖戦士の血を受け継ぐドズル家直系の公子。その実力は、グラオリッターの騎士を上回る。そしてラクチェの剣は、威力こそグラオリッターの斧には及ばないものの、その迅さと正確さは、グラオリッターの比ではなかった。
 その、快進撃を続ける二人の動きが止まったのは、特に何があったわけでもない。
 ただ、圧倒的な存在感。それを感じ取ったからである。そしてそれが何であるかは、考えるまでもない。
「な……お前、ヨハルヴァ!!」
「ブリアン兄貴……」
 兄弟の対面。だがそこに、世間一般で考えられるような暖かな親交などは、存在しなかった。
「反乱軍に与した、とは聞いていたが……本当だったとは。この、ドズル家の恥さらしめ!!」
 ブリアンから感じられる圧力が、さらに強まった。この場に立っていることすら辛くなるほどである。
「まて、聞いてくれ、兄貴。兄貴だって聖戦士だろう。今、グランベル帝国がどうなっているか、知っているのか!?」
 ヨハルヴァは、やはり出来れば戦いたくはなかった。ただ、もしかしたら、兄が今のグランベルの現状を――かつてのロプト帝国が甦ろうとしている現状を――知らないのではないか、という期待があったのだ。もしそうなら、あるいは兄が元の聖戦士の矜持を取り戻して、味方になってくれるのではないか、と思ったのだ。
 だが、ブリアンの次の言葉は、そんなヨハルヴァの期待を粉々にするものだった。
「それがどうした」
「なっ……」
「ユリウス殿下が暗黒神の生まれ変わりと呼ばれていること、暗黒教団の跳梁。それに気付かぬ俺だと思っているのか。だが、それがどうしたというのだ」
「あ、兄貴……?」
「力のあるものが全てを制する。それのどこがおかしい。かつてロプト帝国は、力が劣ったがゆえに十二聖戦士に敗れ、歴史から消えた。そして今度は、その十二聖戦士達がロプトの力に敗れ、歴史の表舞台から退場する。ただそれだけのことだ。そして我がドズル家は、そのような愚を犯さぬような道を辿るまでだ」
 ヨハルヴァは愕然としていた。
 兄は、全てを承知の上で帝国に、いや、暗黒教団に手を貸していたのだ。
「……親父も、親父も同じ考えだったのか!?」
「当然だ。俺の報告を受けて、二人で決めたことだ。もっとも父は、子供狩りなどにはやや消極的だったがな」
 怒りに体が震えている。
 ヨハルヴァは、これ以上ないほど強く斧を握り締めていた。
「分かったよ兄貴。俺の腹も決まった。兄貴、死んでくれ。これ以上、ドズル家の名誉を汚さないために」
 もう、それしかない。ヨハルヴァは自分でも驚くほどあっさりと、ブリアンを殺すことを決意していた。
「くっくっく。俺を殺す? お前が?」
 ずん、という音がして、巨大なスワンチカの、その刃が地面にめり込んでいた。
「面白い。絶対的な実力の違いという奴を見せてやろう」
「悪いけど、私もやらせてもらうわ」
 それまで黙っていたラクチェが、口を挟む。
「一対一、なんてこだわるつもりはないしね。私は騎士じゃないし。それに、かつてあなた達は、私の伯父を止めるために、聖戦士が複数で戦った、と聞いてるし」
「伯父……そうか、貴様、イザーク王家の人間か。なるほど。面白い」
 ブリアンは愉しそうに笑うと、ひらりと馬から飛び降りた。超重量の斧を持っているとは思えない身のこなしである。
「馬上で戦っては、お前達には万に一つの勝ち目もあるまい。これはハンデだ。せいぜい、抵抗して見せろ。お前達、手を出すなよ」
 ブリアンは余裕の表情を浮かべつつ、周囲の兵が飛び出そうとするのを言い留める。
「……馬鹿にして……!!」
 ラクチェは、一気に飛び上がると、まっすぐにブリアンに斬りかかった。しかし、ブリアンは避けるそぶりすら見せない。
「もらった!!」
 完全に必殺の間合い。ブリアンが纏っている鎧は、さすがにグラオリッターを率いる者らしい重厚なものに見えるが、それでも人間が纏って動けるように作ってある以上、強度にはおのずと限界がある。そして、今のラクチェの一撃を防ぎきれる鎧など、存在するはずがない。
 さらにラクチェは、関節部を保護している、一般的に装甲が薄くなっている箇所を狙って、斬りつけた。
 しかし。
 がつっ、と。
 嫌な音が響いた後、白銀の光を放つ剣が、宙を舞い、回転しながら地面に落ちた。落ちたのはラクチェの剣。だが、ブリアンは身じろぎ一つしていない。
「な、何……」
 なぜ剣が宙を舞ったかは分かっている。斬りつけた時の、あまりの衝撃にラクチェが手を離してしまったからだ。だが、問題はその衝撃だ。まるで、鉄の塊を殴りつけたような、いや、それ以上の硬さだった。なまじ斬りつけた時の勢いがありすぎて、衝撃に手が耐えられなかったのである。
「ラクチェ、避けろ!!」
 呆然としてたラクチェの眼前に、巨大な斧が振り下ろされるのが見えた。その一撃は、ラクチェの剣よりも速い。
 どん、と地面が爆ぜた。ブリアンは振り下ろしたスワンチカを、苦もなく再び持ち上げた。
 ラクチェは、かろうじてヨハルヴァに突き飛ばされたおかげで、スワンチカの直撃を避けていた。ヨハルヴァが急いで立たせて、ラクチェは慌てて剣を拾う。
「なんだ。その女、お前の女か?」
「うるせえ。兄貴には関係ない」
「まあ、どちらでもいいことだな。お前らは、ここで死ぬのだからな。……いや、その女は、暗黒神への供物にも良いかも知れんな……」
 暗黒神への供物、とはそのまま生贄を意味する。ヨハルヴァはそれを聞いて、半ば仰天して顔を上げた。
「ま、まさか兄貴、これまでにも……」
「当然だろう。ロプト神へ忠義を示すために、供物は必要不可欠なのだからな」
 この時、ヨハルヴァはこの目の前の男を兄と思うことすらやめた。この男は、すでにロプト神の忠実な下僕に過ぎない。もはや、倒すことに何の躊躇も必要ない。
「兄貴……いや、ブリアン。ドズル家の名誉のため……何より、聖戦士の名誉のため、俺は絶対にお前を倒す!!」
「夢言(ゆめごと)など聞く気はない。ヨハルヴァ、お前もここで死ね!!」
 ブリアンが初めて、攻勢に転じてきた。まるで嵐のような斧の攻撃は、その速さも威力も、ヨハルヴァとは比較にならない。ヨハルヴァもラクチェも、かろうじて回避するのが精一杯だ。
 埒が明かない、と判断した二人は、一度大きく距離をとる。
「くそ、これじゃあ……」
 圧倒的なブリアンの攻撃は、踏み込む隙すらない様に思える。しかも、踏み込んだところで、あの絶対的な防御力を破る力は、今のヨハルヴァにはない。
 一体どうしたら、と考えたところで、すぐ横のラクチェが小声で呼びかけてきた。
「ヨハルヴァ、今から一瞬、隙を作るから、その時に思いっきり攻撃して。あなたの力なら、あの守りを破れるかもしれない」
「隙ってどうやって……」
 ラクチェは、自信たっぷりの笑みを浮かべる。
「イザークの剣士の力を、甘く見ないで。いかなる力も貫く力、というものが存在するのよ。上手くいけば、あるいは一撃で致命傷を与えられるわ」
「相談は終わったか?」
 ブリアンは悠然と構えて、二人が話しているのをただ見ていた。それは恐らく、自分とスワンチカの力に絶対的な自信があるのだろう。だがその自信こそ、ラクチェにとってはつけこむ隙になる。
「今行くわよ。あなたこそ、イザークの剣士を甘く見たことを、後悔させてあげる」
 ラクチェは呼吸を整えて、静かに剣を構える。
(こっちはスカサハの方が、得意なんだけどね)
 呼吸が整うのにあわせて、ラクチェは自分の周囲の全てを同時に知覚できる感覚に包まれた。気が高まる、というのだろうか。そして、周囲の存在の全てのうち、ラクチェはただ目の前の巨大な斧を持った騎士に、全感覚を集中させた。
 月光剣。
 イザークに伝わる三星剣の一つで、二人の父ホリンが得意としていた、という剣技。いかなる存在をも斬り裂き貫く事の出来る力。すべての感覚を集中させ、対象の『気の隙間』に、自分の剣気を同調させることにより、あらゆる存在に阻害されることなく剣を振り抜くことができる技。
 ただラクチェは、実はこの技はあまり得意ではない。どちらかというと、流星剣の方が得意だ。だが、流星剣では恐らくあの守りを貫くには足りない。だから今回は月光剣を選んだ。あるいはやろうと思えば、流星剣と月光剣を同時に繰り出すことも不可能ではないと思うのだが、さすがにここでぶっつけ本番で試す気にはなれない。ちなみによくしたもので、なぜかスカサハは流星剣より月光剣の方が得意だった。
「ほう……何かを仕掛けてくるつもりのようだな。面白い」
 さすがにブリアンは超一流の戦士である。ラクチェの気配を察し、油断なくスワンチカを構え直した。
 その構えには、まったく隙がない。
 ぎりぎりの緊張感が、周囲を満たす。周囲では、なおも戦いの喧燥が続いているのだが、ここはまるで別世界のように停止している。
 永遠にも思える一瞬。その沈黙を破ったのは、ラクチェの靴が地を蹴る音だった。そしてラクチェは、一気に間合いを詰める。
 あと一歩でラクチェの剣の間合いに入るという距離。その距離がブリアンの間合いだった。
「死ねっ!!」
 風を破壊するような音と共に、巨大な斧が振り下ろされる。ラクチェはそれを受け流そうともせず、横に跳んで斧を完全に回避した。
 斧という武器は威力が大きいが、一度振り回した後その重さゆえに構え直すのに一瞬の時間を必要とする。それが、ラクチェの狙いだった。
(もらった!!)
 声に発することすらない、刹那の時間。ラクチェから放たれた蒼い光が剣に集まり、そしてブリアンへその刃が迫る。回避不可能の間合い。だが、直後に響いたのは、鋭い金属音だった。
「え!?」
「あまいわっ!!」
 ラクチェの剣がぶつかっていたのは、スワンチカの柄。いかな月光剣でも、神器を斬り裂くことはさすがにできない。防がれるなど予想もしていなかったラクチェは、一瞬動きと思考の両方が止まる。そしてブリアンは、ラクチェが見せた一瞬の隙を逃さなかった。
「ラクチェ!!」
 再び響く金属音は二つ。一つは鋭く、一つは鈍い。
 ラクチェは、自分が半瞬宙を舞ったことまでは自覚したが、直後に地面に叩き付けられ、さらにその上に何かが落ちてきて、一瞬呼吸が止まってしまった。
「あぐっ」
「ぐっ」
 重なった声は、上に落ちてきたもの――人の声。
「ヨハルヴァ!?」
 ラクチェは慌てて起き上がる。倒れているヨハルヴァの、その鎧の胸甲が完全に砕けていた。
「ちょ、ヨハルヴァ、冗談止めてっ!!」
 ラクチェは一瞬で血の気が引いた。がくがくとヨハルヴァの胸倉を掴んで揺する。
「ちょ、まて、ラクチェ、大丈夫だっ」
 一瞬気を失っていただけなのだろうか。ヨハルヴァはすぐ覚醒した。思わず、安堵の息が洩れる。
「かすっただけだ。といっても、かすっただけでこれかよ……」
 完全に砕けた胸甲は、すでに見る影もない。しかも、衝撃によるものか、切り裂かれた服の下に、かすかに血が滲んでいた。
「腕を上げたな、ヨハルヴァ。俺の一撃を受け流すとは。かつてのお前なら、その女ごと真っ二つになっていただろう。しかし……予想通り、月光剣か」
「なぜ、あなたが月光剣を知っているの!?」
 月光剣は、これまでの戦いでもほとんど使っていない。そもそも三星剣の存在は、伝承の中では有名であっても、それが具体的にどのようなものであるかは、まったく伝わっていないのだ。確かにドズル家はイザークを支配していたが、だからといってブリアンが知っているはずはないと思っていた。
 だが、知っていたのだ。知らなければ、先ほどの一撃とてああも無理矢理防ごうとはしないはずだ。スワンチカの圧倒的な防御力の前では、ラクチェの攻撃などまるで通用しないのだから。
「俺がスワンチカを継承する時に、親父から聞いたのだ。親父も、祖父から聞いたといっていたがな。『イザークの剣士相手には、油断するな。彼らは、スワンチカの護りを貫く力を持っている』とな。お前が『イザークの剣士』と言ったので、思い出したのだがな」
「そんな……」
 それでは、勝ち目などない。しかも、もうブリアンには月光剣を見せてしまった。ブリアンの実力ならば、次に月光剣を繰り出した時、彼はそれを造作なく受け止め、そしてその後に生じる隙を見逃しはしないだろう。三星剣は、繰り出した直後に隙がある、という最大の欠点があるのだ。
「さあどうした。もう手詰まりか? ならばこちらから行くぞ!!」
 ブリアンのその言葉の直後、ラクチェは自分の眼前にスワンチカの刃がある事実に気が付いた。
 油断していたつもりはない。だが、互いの距離は十歩は開いていたはずだ。にもかかわらず、一瞬でブリアンはその間合いを詰めたというのか。
 死んだかな、という思考は、ひどく現実離れしたものに思えた。まるで他人事であるかのように、ラクチェはあっさりとその『死』を受け入れようとしていた。



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