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永き誓い・第五十一話




 どん、という凄まじい音が、ラクチェの感覚を急激に現実に引き戻した。
 そして、その正面にあるのは、真紅の滝。それが、軍馬が真っ二つにされたものだと気付くのに、ラクチェは一瞬を必要とした。
「なに呆けているんだ、ラクチェ!!」
 ラクチェが生まれた時からずっと共にあった者の声。
「え、あ、私……」
 その時になって、ラクチェはようやく自分の置かれた状況を理解した。
 目の前に転がっている、胴が真っ二つにされた軍馬と、その向こう側にいる巨大な斧を持った戦士。全身が一瞬で活性化し、意識が鮮明になると同時に、今何をすべきかを、体が即座に判断する。
「ちっ。邪魔が入ったか」
 その斧を持った戦士――ブリアンは、少しだけ悔しそうに言ったが、言葉ほどに悔しがっていないのは明らかであった。追い詰めた獲物の止めを刺そうとしたとき、最後の一撃をはずしてしまった。せいぜい、どの程度のことだ。
「新手だな。同じく、イザークの剣士のようだが……」
「イザークのスカサハだ。妹が世話になったみたいだな」
 その新手、スカサハの言葉に、ブリアンは少しだけ目を見開いた。
「なるほど。兄妹か。だが、何人で来ようと無駄なこと。このスワンチカの前では、貴様らの剣など無力だ」
「どうかな……」
「だめ、スカサハ!!」
「ラクチェ!?」
 スカサハは踏み出そうとした矢先をとめられ、わずかにたたらを踏んで踏みとどまった。
「ブリアンは月光剣を知ってたの。私の月光剣も、見切られてしまった。だから……」
「……なるほど」
 道理でラクチェやヨハルヴァがてこずるはずだ。確かに、ブリアンは神器継承者ではあるが、いかに彼でも、斧という武器が持つ弱点――重さ――は克服できるはずがない。その隙をついて、一撃必殺の剣を叩き込めば、勝つことも出来るはずだ。そして、確かにスワンチカは無類の防御力を所有者に与えるというが、スカサハもラクチェも、いかなる防御をも貫くことが出来る必殺剣、月光剣ならば勝てると踏んでいた。だが、甘かったらしい。
「迂闊に繰り出せば、逆にあの斧の餌食、というわけか……」
 三星剣全部に――スカサハらは最後の太陽剣は見たこともないが――共通して言えることだが、基本的にあの技は繰り出した後に隙が出来る。無論、修練によってその隙を限りなくなくすことは出来るし、実際、シャナンの流星剣などは隙など到底ないと思えるのだが、少なくともスカサハやラクチェでは、その隙をなくすことは出来ない。そして、神器を持つ継承者相手では、その一瞬の隙が命取りとなる。
「しかし、だからといって怖気づくわけにはいかないよな」
「ほう。絶対的不利を悟ってもなお俺に挑むというのか。そこまで行くと、勇気ではなく蛮勇と呼ぶべきだな」
「言ってろ」
 スカサハはその背にある長大な剣を抜き放った。スカサハ自身の背丈ほどもあるその剣は、総身が銀。真銀と呼ばれる、希少金属。鋼よりも軽く硬いその金属で作られた剣は、普通の鋼の剣に比べると、はるかに威力がある。本来、大剣は扱いにくいことがその欠点であるが、この真銀で作られた大剣はスカサハが最も慣れ親しんでいる武器で、扱いやすさにおいて短剣にも匹敵する。スカサハの父ホリンが使い、そしてスカサハがこれまでの戦いで使ってきた愛剣である。
「ほう……その剣なら、あるいは力づくでスワンチカの守りを破れるというのか?」
「どうかな……」
 スカサハが、大剣を構えて腰を落とす。そのすぐ横で、ラクチェとヨハルヴァも身構えた。
「三人同時か。いいだろう。絶望的な実力の違いというものを見せてやろう!!」
 言葉とほぼ同時の斬撃。巨大な斧を持っているとは到底思えないほどの、凄まじい速度の踏み込みである。
「くらえっ!!!」
 その一撃は、誰を狙ったわけでもなく、なんとスカサハとラクチェの間の地面を穿った。
 凄まじい炸裂音と、衝撃。舞い上がった土煙で、あたりの視界が一気に悪くなる。
「しまった!」
 スカサハとラクチェは反射的に飛びのいた。一瞬前までいた空間を、暴風と共に斧が突き抜けていく。
「今なら!!」
「ラクチェ、よせ!」
 ヨハルヴァとスカサハの制止の声を無視して、その斧を振りぬいた隙を突こうとして土煙の中に突っ込んだラクチェは、突然腹部に強烈な痛みを感じ、気付いた時には後ろに吹き飛ばされていた。
「ぐっ?!」
「ふん。斧の隙を狙おうという考えはまあ分からなくはないが、この俺にそんな手が通じると思うな」
 ラクチェは何とか立ち上がろうとして、途端に体がふらついてしまい、がく、と膝から崩れ落ちる。
「い、一体……」
「蹴られたのよ。ちょ、ちょっとまずいかな……」
 ブリアンは、スワンチカを振り抜いた後に突っ込んでくる者がいることを予期して、そこに蹴りを繰り出していたのだ。その蹴りは、斧を振り抜いた反動を利用していたため、ブリアン自身の体躯もあって、棍棒にも匹敵する威力になっていたらしい。
「しばらくその女は立てまいな。さて、どうする?!」
 そのままブリアンは、動けないラクチェに迫ってきた。
「兄貴、待てぇ!!」
 ヨハルヴァは、なんとしてもブリアンを止めようとして、思い切り斧を振り下ろしたが、それはあっさりとはじき返され、逆にヨハルヴァが吹き飛ばされる。
「死ねっ!!」
「させるか!」
 ブリアンがラクチェにスワンチカ振り下ろそうとするその前に、スカサハが立ちふさがった。しかし、ブリアンはそれを意に介さずにスワンチカを振り下ろす。
 避ければラクチェにスワンチカが直撃する。つまり、あの斧を受けるしかない。しかし、あの巨大な斧が、しかもブリアンの膂力で振り下ろされてくるその重さを受け止めるのは、いかにスカサハとはいえ、到底不可能である。
 だがそれでも、スカサハはスワンチカの刃に剣を合わせた。
 刹那、ほんの一瞬拮抗したかに見えた二つの刃は、やがて上にある刃が容赦なく重力にしたがって下りてくる。そしてスカサハも、その勢いに真っ向からぶつかることはしなかった。そうすれば、いかに真銀製の剣とはいえ、粉々にされてしまうからだ。ただ、剣の刃を傾け、その上にスワンチカの刃を滑らせる。かすかに、金属が焦げるようなにおいが二人の鼻をついた。
 完全に攻撃を受け流したスカサハは、そこから地を滑らせて大剣を繰り出そうとする。同時に、そのままの動きで気を一気に爆発させた。一瞬のうちにまるで燐光のように舞い上がった蒼い光が、剣に吸い込まれていく。
 勝てた。
 ヨハルヴァもラクチェもそう思った。普通、全力で振り下ろした斧をその勢いを逸らされてしまえば、相手はバランスを崩しているものだ。だが、今彼らの相手にしてるのは、普通の相手ではなかった。
「甘いわぁ!!」
 その状態から、なんとブリアンは手首の返しだけでスカサハの剣を上にはじいた。その動きをまるで予想していなかったスカサハは、完全に重心が上に移ってしまって、半ば吹き飛ばされそうになるのを必死にこらえる。そこにさらに、ブリアンの一撃が襲い掛かってきた。
 凄まじい金属音が響き渡る。空に煌く、銀色の大剣。それは陽光を受けて光を放ちながら、はるか遠くに突き刺さり、スカサハは完全に武器を失ってしまった。
 さらにそこに、ブリアンが拳を、スカサハの鳩尾にめり込ませた。それは、スワンチカを振り上げた勢いを利用したもので、一瞬、スカサハの体が宙に浮き上がる。
「ぐ?!」
 スカサハは腹を押さえて、そのまま両膝から崩れてしまう。そしてそこに、ブリアンが止めを刺すためにスワンチカを高々と振り上げた。
「スカサハ!!」
 ラクチェは、ほとんど反射的に跳ね起き、月光剣を繰り出した。月光剣の苦手な彼女が、これほどの速度で月光剣を繰り出すのは、初めてだっただろう。そしてこの時、ラクチェは腹部の激痛もなにも、完全に忘れていたし、ブリアンも、まさかラクチェが再び立ち上がってくるのは予想していなかった。
 しかしそれでも、なおブリアンはスワンチカの柄でラクチェの剣を受け止めていた。またも凄まじい金属音が響き渡ったが、ラクチェの剣はスワンチカの柄の皮にわずかに食い込んだだけ。そして、ラクチェの動きが止まったところに、再びラクチェは腹部をブリアンに蹴られ、吹き飛ばされる。
「残念だった……!?」
 突然の激痛が、ブリアンを襲った。そして、その直後。
「ヨハルヴァ、やれーーーっ!!」
「おおおおおおお!!!」
 雄叫びと共にブリアンの視界に飛び込んできたのは、ヨハルヴァだった。半ば飛び上がって、その勢いもろとも斧を振り下ろしてくる。しかし、ブリアンがそれを受けるためにスワンチカを持つ手に力を入れようとした時、再び激痛が走った。どうやら、利き腕を何かしらの方法で傷つけられたらしい。
 このままでは避けられない、ということは分かったが、それでもブリアンはまだ、ヨハルヴァの力では、スワンチカの守りを貫けないことを信じていた。あるいはそれは、過信だったのかもしれない。
 だから、彼には見えなかった。ヨハルヴァが、斧戦士ネールの、すなわちスワンチカの輝きを宿していたことに。
 そして、自分のスワンチカの力が、その半ばを失っていたことに。
 どん、と。
 そんな音が聞こえそうなほどの一撃。
 ヨハルヴァが振り下ろした斧は、ブリアンの肩甲を打ち砕き、胴鎧を裂き、そしてブリアンの肉体に達して鎖骨を撃砕し、胸の半ばまでに達した。
「がっ……!!」
 一瞬で喉まで達した血が、口から溢れ出す。同時にブリアンの視界は一瞬赤に染まり、そして急激に暗くなっていく。
 その右腕には、深々と刃渡りが手のひらの幅ほどの短剣が、鎧を貫いて突き刺さっていた。

 ブリアンを失ったグラオリッターは脆かった。絶対的な信仰によって支えられた力、というのは、それを失うと脆いものである。
 ブリアンの戦死は、瞬く間に戦場に広がり、騎士や兵士達は動揺し、指揮系統の統一を欠いたグラオリッターは、すでに解放軍の敵ではなく、空が茜色に染まる頃には、完全に敗走してしまっていた。
 この最大の功労者は、もちろんブリアンを討ち取ったヨハルヴァと、スカサハ、ラクチェらであるのだが、同時に三人はブリアンが後衛にいるであろう事を分かった上で黙っていたことに対しては、アウグストからかなり苦言を呈された。
「今回は勝てましたが、相手は神器の継承者です。次も勝てるとは限りませぬ。お三方は、もう我が軍にはなくてはならない存在。どうか今後、このような無茶は決してなさらぬよう」
 アウグストでよかった、と三人は内心胸をなでおろしていた。これがシャナンやレヴィンでは、さぞこっぴどく叱られたであろうからだ。
 グラオリッターを撃破した解放軍は、そこから二日ほど進軍し、ついにドズル城にまで至った。
 ドズルは、他の公国の公都同様、街と城が少し離れたところにある。最悪、敵軍が市民を盾にして戦う懸念がなくはなかったのだが、それは杞憂だった。すでにドズルには、市民を盾にするほどの戦力すら残っていなかったのである。
 若干、暗黒教団の兵が城内に残っていた程度で、それとてすでに解放軍の相手ではない。苦戦したグラオリッター戦に比べると、ドズル攻略はあっけないほど簡単に終わった。
 ここで解放軍は、エッダ攻撃に赴いた戦力との再合流を果たすため、しばらくドズル城に駐留することになった。合流後、北部の山の西を大きく迂回しつつ、フリージへと進撃する予定になっている。
 エッダの部隊から、首尾よくエッダを制圧した、という報告が届いたのは、ドズル攻略がなった直後だった。
 合流は五日後。それまで、ドズル攻略部隊は骨休めが出来る。無論、兵を整えたり負傷兵の手当てなど、実際は大忙しではあるのだが、それでもやはり、ミレトスに入ってからこっち、ほぼ連戦続きだった彼らにとっては、久しぶりの休暇といっていい期間だった。

 置いてある調度品は、そのすべてに見覚えがあった。ずっとそのままだったのだろう。それを命じたのは誰なのだろう、と考えて、彼はすぐそれをやめた。誰であろうと、別に構わない。答えられる者も、おそらくもういないだろう。
 窓から見える光景は、かすかな月明かりに照らされた森の闇。表面だけがかすかに月光を受けて光っているが、その中は暗黒。その月明かりにしたところで、新月からわずかに日が過ぎただけなので、頼りないことこの上ない。
 闇、というのは人に等しく恐怖を与える存在だというが、それは嘘ではないだろう。あの森にいま行け、と言われたら、彼でも二の足を踏みたくなる。だが、昼間ならどうということはないだろうに。
 そんなことをとりとめもなく考えていたので、彼はすぐ後ろに人が来ていることに気付かなかった。
「ここにいたのね、ヨハルヴァ」
「ラクチェか」
 振り返らなくても、声の主はすぐ分かる。
「祝勝会の会場からいなくなっているから、どこに行ったのかと思って」
 そう言いつつ、ラクチェは部屋を見渡した。
「考えてみたら、ここ、あなたの城でもあるものね。どこに行ったのかと思ったのだけど……ここは?」
 飛びぬけて広いとは言えない部屋だが、狭くはない。個室としては、十分な広さのある部屋だ。天蓋付きのベッドが一つ、それに応接のためのソファやテーブル。恐らくはこの城の誰かの個室だろう。
「俺の……いや、俺がかつてドズルにいた頃に住んでいた部屋だ」
「ヨハルヴァの?」
 ラクチェは少なからず驚いた。だが、考えてみれば当然のことだ。ヨハルヴァは、ラクチェに初めて会ったあの時より以前は、本国、つまりグランベル帝国内で過ごしていたのだから。
 ただ、ラクチェの知るヨハルヴァは、ソファラの領主としてのヨハルヴァだけ。つまりここは、ラクチェの知らないヨハルヴァがいた場所なのだ。そう考えると、少し不思議な気がした。
「ああ。もう……八年は前になるのか。俺がここにいたのは」
「逆に言えば、私たちが出会ってからも、八年ね」
 ヨハルヴァとラクチェが初めて出会ったのは、グラン暦七七〇年。ヨハルヴァが、ソファラの領主として派遣された時である。まさかあの時は、このような場所にこのような形で立っていようとは、欠片も思っていなかった。人の巡り合わせ、とは分からないものだ。
 あれから八年。本来、敵対する陣営に属していたはずのヨハルヴァとラクチェは、共に戦う道を歩んでいる。本来なら、ヨハンも共に。
「……ヨハンの部屋も、あるの?」
 沈黙。
 しかしそれは、そう長くは続かなかった。
「ああ。すぐ隣だ。見ていくか?」
 ラクチェは、ゆっくりと首を横に振る。
「ううん。いい。ねえ、ヨハルヴァとヨハンって、どんな兄弟だったの?」
「別に普通さ。遊んで騒いで、時々喧嘩して。結構性格は違ったと思うんだが、意外に……仲は良かったかもな。まあ、まだガキだったってのもあると思うけどよ」
 ヨハルヴァとヨハンが一緒に過ごしていたのは、八年前までだ。その後は、それぞれイザークとソファラの領主となり、そうそう会えなくなってしまっている。たまに会っても、久しぶりに会うのだからわざわざ喧嘩するようなこともなかったのだろう。
「ソファラで会った時も、仲良かったものね」
「あの時は……ラクチェに会ったのは驚いたよなあ。あれは……五年前か」
「そうね、そのくらいかしら」
 まだ戦いが起きておらず、そこそこ世界が平和を甘受していた頃。
「考えてみたら、ラクチェと良く話すようになったのなんて、この一年くらいなんだよな」
「そうね……なんか、ずっと前から知り合いだったように思ってたけど」
 五年か、と呟いて、ヨハルヴァは視線を落とし、自分の手を見た。
「戦いが始まる前、俺は何も知らない青二才だった。いや、多分今でもそうだろう。ブリアン兄貴だって、俺が言うと言い訳がましいけど、昔はあんなんじゃなかった。まあ偉ぶってはいたけど、俺に……いや、俺やヨハンにとっちゃ、いい兄貴だったんだ。年が離れていたし、親父が早くにイザークに行っちまったのもあって、色々遊んでもらったりもした。俺やヨハンに武器の扱い方を教えてくれたのも、ブリアンの兄貴だった……」
 ヨハルヴァの声が微かに震えているのに、ラクチェは気が付いた。しかし、何を言ってあげればいいのかが、まるで分からなかった。
「ヨハンは親父の手にかかって死んだ。けどあれは、俺が殺したようなものだった。俺が未熟だったから、親父に遅れを取ったから……ヨハンは、俺を怨んでいるだろうな……」
「ヨハルヴァ、そんな風に自分を責めないで。あの時あなたは、自分に出来る最大のことをやろうとした。ヨハンだって、あなたのことを怨んだりはしていない」
「ヨハンなら……そうかもな。だが俺は、親父を殺した。そして、ヨハン兄貴が死ぬ原因になった。挙句、ブリアンの兄貴を、最後の肉親をも、この手にかけた。俺の……」
 ヨハルヴァはそこで、自分の手を、ただじっと見る。
「俺のこの手は、血にまみれている。しかも、それは全て肉親の、俺と血の繋がった親父の、兄貴達の血だ」
 ぽた、と。小さな音が響いた。
 それは、ヨハルヴァが流す涙が床に落ちた音。
 ヨハルヴァは、大粒の涙を止め処もなく流していた。
「そして、俺だけが生き残った。俺は、この血に見合うだけの何かが出来るのか。それが、俺には分からない。そんなことも分からないままに、親父を、兄貴達を殺してきてしまった」
「ヨハルヴァ……」
「親殺し、兄弟殺しは大罪だ。それは分かってる。もしかしたら、それを償う道はあるのかもしれない。だが、俺にそんなことが出来るのか!?」
 何に対してか、ヨハルヴァはまるで何かに怯えるかのように叫んだ。自分にのしかかる重圧に対する恐怖からか。それとも、親殺し、兄弟殺しという罪に対する恐怖なのか。
「俺が……俺だけが生き残ったことは、単なる運だ。だけど、本当は俺は……」
「ヨハルヴァ!!」
 ラクチェはただ強く、ヨハルヴァを抱きしめた。まるで幼子が恐怖に怯えるのを庇うように。優しく、強く。
「あなたは生き残った。生き残ったからこそ、やらなくてはならないことがある。でもそれは、あなた一人でやらなくてはならないものではないの」
 ヨハルヴァはなおも、小さく、何かに怯えるように体を震わせている。
「みんな、親の、兄弟の、友人の死を乗り越えてきた。そして自分が生き残るために、多くの人々をその手にかけてきた。あなただけが罪を犯したわけではないの」
 どのくらいの時が経ったか。ヨハルヴァの震えが、いつの間にか止まっていた。
「…………ラクチェ……」
 かすかに絞り出した声は、まだ震えているようにも思えた。
「大体、そんなことで震えているなんて、あなたらしくないわよ」
「……だな」
 ふっとヨハルヴァが笑んだ
「すまねえ、ラクチェ。ちょっと取り乱した」
「らしくなかったわね、確かに」
 ヨハルヴァは、ああ、と頷くと、再び窓の外の森に目を向ける。
「今の俺は、この森の中にいるようなものだな。どちらに向かって歩き出せばいいのか、ちょっと先すら見えない暗い森の中。だが……」
 振り返った彼の顔は、すでに先ほどのような消沈した色は――かすかに涙の後が残っていたが――なく、いつもの、どこかいたずらっけのある、自信にあふれた表情に戻っていた。
「落ち込んでいる暇があったら、歩き出さないといつまで経っても出られないからな。いつか罪を問われるとしても、生き残った俺にしか出来ないことは、山積みされているんだからな」
「そういうこと」
 ラクチェはそういうと、ヨハルヴァに寄り添った。
「でも、次また今度落ち込んだら、今度はあなたを突き飛ばしてでも前に歩かせるわ。見ていて、不安だもの」
「おいおい、信用ないなあ。まあ見てろよ。戦いが終わったら、このドズルをどこよりも活気のある街にしてみせるさ」
「ええ。一番近くで、それを見せてもらうわ」
「え?」
 ヨハルヴァは一瞬その意味を図りかねた。やがてそれを理解し、目を瞬かせる。
「お、おい。だってラクチェはイザークに……」
「私は戦いが終わっても、イザークには帰らないわ。イザークは、シャナン様やスカサハ、ロドルバン達がいれば十分。だから私は、ドズルに残る。あなた、近くで見てないと不安だもの」
「し、しかし……」
「それとも、私がドズルにいたら、迷惑?」
 ヨハルヴァは慌てて、大仰に首を横に振った。
「そんなことはねえ、けど……」
「けど?」
 ラクチェは、ヨハルヴァの正面に立って、彼を見上げた。普段、あまり意識しないが、ヨハルヴァはラクチェより頭半分ほど高い。それが、こう間近で並んで立つと、良く分かった。
 八年前に出会った少年。彼が傍らにいるのが当たり前になったのは、いつからだったのだろう。
 そしてそれは、ヨハルヴァにとっても同じだった。
 ただ、どうしてもお互いに素直に言い出せなかったのは、同じ場所に立っていたもう一人の存在と、その喪失。だがそれにいつまでも囚われていることは、未来への道を捨てることになることを、ヨハルヴァもラクチェも、とっくに気付いていた。
「いいのか、俺で……」
 ラクチェは一瞬呆然とした顔になり、それからくすくすと小さく笑いつつ、ヨハルヴァの首に腕を回す。
「今更、あなたがそういうことを言うの?」
 窓の外は暗く、雲間から頼りない月光が部屋をかすかに照らすだけ。その光も、窓枠の形の光以外には射さず、そして宴会の喧騒もまた遠かった。
 すぐ近くにいなければ互いの顔も分からないような明るさの中、それでもお互いがはっきり見える距離。二人は、お互いの存在を何よりも強く感じていた。

 翌朝。
 スカサハはいつものように早朝に起き出して、城内を歩いていた。
 ティルナノグに住んでいた頃からの、彼の日課の一つだ。要するにただの散歩なのだが、戦いが始まってからは、あちこちの城や街を歩くことが多く、そういう初めての場所を歩くのは、実はちょっとした楽しみであった。早朝、というのは、なんとなく空気が澄んでいて爽やかな気がして、新しい何かを発見できるような、そんな気がするからである。
 そのスカサハが、城内をまるで人目を忍ぶように歩く人影を見つけたのは、城の廊下だった。彼と同じ黒髪の少女。それが誰であるかを、彼が間違えることはない。
 しかし、ラクチェがスカサハと同じ時間に起きていることなど、まずありえない。それに。
「おはよう、ラクチェ。珍しく早起きだな」
 声をかけられた方は、飛び上がるほど驚いていた。
「ス、スカサハ。お、おはよう。相変わらず、早いのね」
 妹の声に少なからず緊張があるのを、スカサハは見逃しはしない。だてに生まれてからずっと一緒だったわけではないのだ。
「まあ、別に俺がとやかく言うことじゃないけどな。ただ、さすがに無断で他の部屋に寝泊りするのは程々にしろよ。同室のラドネイが、昨夜は心配していたぞ」
「え、あ、うん。そうね。ちょっと酔っちゃって。あとで、謝っておくわ」
 スカサハは「そうしておけ」というと、別に何事もなかったように、その場を立ち去ろうとしていく。ラクチェは、スカサハが通り過ぎた時、小さく安堵の息を洩らしたが、その直後、突然スカサハが立ち止まった。
「ああ、そうそう」
 振り返ったスカサハは、とても愉しそうな表情を浮かべている。
「別に悪いとは言わないけどな。一応、そういう時は誰かにアリバイくらいは頼んでおけよ。でないと、噂なんてあっという間に広まるぞ」
 それだけ言うと、スカサハは再び歩き出し、廊下の向こう側に消えてしまう。
 後には、顔を真っ赤にしたラクチェが一人、取り残されていた。



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