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永き誓い・第五十二話




 ドズルとエッダの同時失陥は、グランベル帝国軍に少なからず衝撃を与えた。
 これは、ただ単に二つの城を失陥した、というだけではない。
 解放軍が分進攻撃を行ってなお、グランベル帝国軍二軍を同時に相手にすることが出来るほどの戦力を持っている、ということを証明して見せたことになるのだ。
 そして、グランベル帝国軍の残る拠点は、フリージ、バーハラ、ヴェルトマーの三つのみ。すでにシアルフィ、エッダ、ドズルを解放軍によって占領され、ユングヴィが市民と一部の騎士達の蜂起によって帝国に叛旗を翻したことにより、グランベル帝国はすでにその半ば以上の領土を失っていることになる。
 しかも、ヴェルトマー軍は皇帝アルヴィスと共に、シアルフィで敗北、ほぼ壊滅状態である。
 つまり、帝国に残された軍は、フリージ、バーハラ、それに暗黒教団、あとはユングヴィを脱出した公主スコピオの率いるバイゲリッターを中心とした部隊のみ。
 もっとも、それでもなお総兵力は解放軍に倍する軍勢があるのだが、解放軍の勢いを止められるのか、という不安を、帝国軍の将帥は感じずにはいられなかった。
 それでもなお、帝国が瓦解しなかったのは、何より最精鋭にして最大の部隊であるバーハラのヴァイスリッターと、雷神イシュタル、そして魔皇子ユリウスの存在があったからだ。この三つの存在が全軍に与える影響力は、計り知れないものがあったのである。
 さらに、ほぼ無傷で残っているゲルプリッターの存在もあった。ゲルプリッターは、その錬度において、ヴァイスリッターに比肩しうる、とまで言われるほどの精鋭部隊で、フリージ王国の失陥の際、指揮官のラインハルトが、コノートの陥落とブルーム王の戦死を知って、生命をかけて撤退させていたため、ほぼ無傷でグランベル本国まで戻っていたのだ。それと、フリージ正規軍をあわせた総兵力は、解放軍全軍の半数に匹敵する。
 それが、フリージ城の堅牢な城壁に拠って、解放軍迎撃準備を整えていた。そしてさらに、解放軍の背後にバイゲリッターを展開させ、挟撃する体勢にあったのである。
 それに対して、解放軍はほぼ全軍を以ってフリージ城を攻撃した。背後のバイゲリッター迎撃に充てたのはただ一部隊、ファバルの率いる弓兵部隊のみである。これは非常にリスクの高い賭けではあったが、ファバルは見事にその役目を果たしてみせた。
 ファバルはユングヴィ当主のスコピオを討ち取り、そしてそのまま『聖弓イチイバルの後継者』としてバイゲリッターを制したのである。
 こうして、背後の憂いをファバルの部隊のみで完全に防ぎきった解放軍は、フリージ軍が予想も出来なかった速度でフリージ城を攻撃し、短いが熾烈な戦いの末、ついにフリージの支配者となっていたヒルダをアーサーが討ち取り、フリージを陥落させた。
 ついに解放軍は、魔皇子ユリウスのいるバーハラまでの要害を、全て踏破したのである。
 時にグラン暦七七八年初夏。
 しかし大陸北方に位置するフリージの周辺は、未だに肌寒さを感じる季節であった。

 夏とは思えないほど冷たい風が吹き抜け、バルコニーにいたパティは思わず身を竦めた。その寒さは、単に風が冷たいからだけではない。北ではなく、東から来る風。その中にある闇を、あるいは自分も感じ取っているのだろうか。
 フリージからほぼ真東にあるバーハラ。そこに、解放軍最大の敵がいる。
 魔皇子ユリウス。ロプトウスの化身とも呼ばれている、暗黒教団の、いわば神そのもの。
 一度だけ解放軍の前に現れたユリウスは、瞬く間にトラキア軍を壊滅させ、あの青の槍騎士フィンを一瞬で倒した。フィンはその時の傷のため、今でも戦うことは出来ず、シアルフィ城で療養している。
 しかし、その強大な力を持つ相手を、解放軍は倒さなければならない。かつては、十二聖戦士が全て協力し、そして光の聖者ヘイムの力で、ロプトウスの力を揮うロプト帝国皇帝ガレを倒したというが、解放軍にはヘイムの力を引き継ぐ存在はいない。そして、十二聖戦士も、お互いに敵味方に分かれ戦うという事態に及んでしまっている。つまり、現在の解放軍は、かつての聖戦の時の解放軍に比べると遥かに戦力が劣ることになる。
 だがそれでも、パティは今の自分達が敗れる、とは考えていない。必ず勝てる。そう思っていた。
 だが今、バーハラから吹いてくる風を感じると、言い知れぬ不安に身を強ばらせてしまう。
『ロプトウスに対抗できるのは、神竜ナーガの力だけだ』
 ふと先ほど、レヴィンが明かした聖戦士の力の正体に付いての話が、脳裏をかすめる。
 伝説の聖戦士の力。そして、自分の中にも若干宿っているこの力が、古代竜族のものだった。レヴィンはそう言う。彼が言うのだから、多分そうなのだろう。ただパティは、そう言われても実感が湧かなかった。
 古代竜族など、御伽噺の中にしか出てこないような、およそ空想上の存在だと思っていた。いや、普段そんな存在を思い出すことすら、まったくなかった。それが突然、聖戦士の力は竜族のものだ、といわれたところで、理解しろという方が無理だ。少なくとも、パティには理解できない。
 ただそれでも、とりあえず分かったことがある。ロプトウスに対抗する力は、ヘイムの力を継承した存在――つまりユリア――にしかない、ということだ。しかし、ユリアはすでに敵の手に落ちている。まともに考えたら、生かしておくはずがない。誰もがそう思っていたのだが。
『ユリアさんは、生きています』
 同じ席で、突然発言したのはサラだった。
 サラのことを、パティは良くは知らない。知っているのは、マンフロイの孫娘だということ。ただ、どうやっても彼女と暗黒司教のマンフロイとは結びつかない。何か色々事情があるらしい。
 そしてその彼女が、ドズル攻略後になんとその祖父の元へ行ったらしい。彼女は祖父を殺すつもりだったらしいが、それはかなわず、結局ラナに助けられて戻ってきたという。ただその時、サラは確かにユリアの魔力の波動を、マンフロイの近くで感じた、という。
 もっとも彼女も急いで戻ってきたし、ちゃんと確認してはいないが、それでもユリアがいたのは間違いない、という。つまり解放軍としては、何処かに囚われているであろうユリアを助け出し、そしてユリアにユリウスを倒してもらう必要がある、とレヴィンは言った。
 しかし。
「でもそれって……ユリアにお兄さん殺せ、って言ってるんだよね……」
 ユリアとユリウス、そしてセリスが兄妹であることはすでに判明している。そして、ユリア、ユリウスとセリスは父親が違うが、ユリアとユリウスは確実に同じ両親を持つ兄妹だ。パティは、ファバルを殺さなければならない、と考えるだけで寒気がする。
「どうした、パティ」
「あ、シャナン様……」
「大方、先ほどのレヴィンの話のことか?」
「……それも……あるんですが……」
 風がもう一度吹きぬける。パティはもう一度身震いする。
「……北風より、東風の方が寒さを感じるな……」
 シャナンもまた、パティと同じ事を感じていたのだ。風が冷たいわけではない。にもかかわらず、東からの風は、人を身震いさせる何かがある。
「この向こうに、ユリアと、ユリアのお兄さんがいるんですよね」
「……その表現が、正しいかは分からないがな」
「え?」
 パティはシャナンの言葉の意味を掴みかねて、首を傾げる。
「神器というのは、ただの武器ではない。それは、聖戦士の中に眠る力を――竜族の力を呼び覚ますものだ」
「シャナン様は、レヴィン様のお話を全部信じたのですか?」
 レヴィンは先ほど、聖戦士の力というものが古代竜族の力であると説明した。
 これまで、神々の力と信じていたものが、竜族のものだ、と言われて即座に理解しろという方が無理がある。パティはとりあえず、竜族も神様みたいなものだろう、と単純にそう捉えている。
「そうだな。信じるに足るだけのものがある、とは思う。私は良く分からない神々よりは、竜族が力の根元である、と言われた方が納得できる」
 パティは再び首を傾げる。パティにとって、神々と竜族の間にどれだけの違いあるか、というのが分からない。
「まあ、竜族を神と捉えるなら、分かりやすいかも知れんな。ここで言う竜族、というのはトラキアにいる飛竜などとはまるで別物だ。『竜』と呼ぶのは、ただ形が似ているからだ、と思っていいと思う。ただどちらにせよ、かつて聖戦士達に力を授けた存在は、神というあやふやな存在ではなく、確実に力を持った何者かだった、ということだ」
「神様が存在した、って考え方ですか?」
「そうともいう。だが、彼らは神であっても間違いを犯さない存在ではない。また、神話で云われるほどに万能でもない。むしろ、その能力はかなり制限されている。そう。人間とさほど変わらないほどに」
「よく、分からないです。でも、力の源が神様や竜族でも、今私達が戦っている相手も、結局は人間ですよね?」
 なおも首を傾げるパティを見て、シャナンは微笑む。
「あ、なんで笑うんですかっ。そりゃ、私は頭は良くないですけど〜」
「すまん。そういう訳じゃない。そうだな。結局人間に過ぎない。だが……」
 シャナンは腰に佩いたバルムンクの柄を握る。
「神器は竜族の力を呼び覚ますと同時に、その精神に強い影響を与える。正確には、聖戦士の血に眠った竜族の血に、心が影響を受けるのだろう。つまり、今のユリウスはユリウスであって、ユリウスではない、という可能性がある」
「え!?」
 パティは驚いてシャナンを見た。しかしそこにいるのは、普段と変わらぬシャナンである。
「安心しろ。私やファバルは、別に神器を振るってもなんの影響もない。だが、ロプトウスは違う……そう、レヴィンは見ている。元々、人間に仇なすことを目論んだ暗黒竜の力だから、人の精神への影響などまるで考えなかっただろう……ということだ」
「心が……人じゃない?」
「ああ。そう考えるとつじつまが合うと思わんか?」
 それは、パティにも納得のいく気がした。
 ユリウス皇子についての風聞は、七年前を境に急に変わっている。
 盗賊という職業柄、パティは実はオイフェと同じか、それ以上にグランベルの噂話に通じている。その中には、当然グランベルの皇家に関する噂もあった。
 そして七年前、つまりグラン暦七七一年を境に、グランベル皇室に対する話がゆっくりと変化していっていたのだ。無論当時、パティにとっては何の関係もない話だと思っていたから、大して気に留めてはいなかったが、今考えると奇妙な話だったと思う。
 事の発端は――今ではほぼ事実だと知っているが――皇妃ディアドラの失踪の噂だった。
 当時はまさか、と思ったが、実際その時から、ディアドラ皇妃は公式の場に出てくることがなくなったという。
 そしてそれと同時に、聡明をもって知られていた皇子ユリウスが、突然残虐な性癖を帯びるようになってきたという。声を潜めて囁かれていた噂の中には、ディアドラ皇妃はユリウス皇子に殺されたのだ、というものまであった。
 そしてこれこそが、事実なのだろう、と今では分かる。
 これまで、このユリウス皇子の突然の変化を説明できるような、信憑性のある話はなかった。グラン暦七七一年までのユリウス皇子は、グランベル帝国を更に栄えさせる、知勇を兼ね備えた偉大な後継者となるに違いない、と誰もが語っていたほど、将来を期待された皇子だったのだ。
 だが、もし神器が、人の精神に強い影響を与えるというのであれば、説明ができる。恐らく、グラン暦七七一年に、ユリウスは手にしたのだ。暗黒神ロプトウスの力の宿った――いや、ロプトウスの力を解放させる禍々しき神器を。
 ただ、そう考えると、自然、もう一つの不安が鎌首をもたげてくる。
「他の……十二聖戦士の神器は、そういうことはないんでしょうか? その、人格が変わってしまうようなことって」
 この解放軍には、神器の継承者が多い。そして、そのことごとくが神器を手に入れている。
「さあな。少なくとも、バルムンクやイチイバルはそういう影響はないと言っただろう。……まあ、ファバルがイチイバルを手にする前と後で性格が変わったかは私には分からないが……」
「そういうことはなかったと思います」
 というよりは、パティにも分からないというのが正直なところだ。
 イチイバルは、ファバルが物心付いた頃にデューがどこからか持ってきたものである。その頃の記憶など、パティにはほとんどない。もしファバルが、イチイバルを手にしたことで変わったとしても、気付きはしないだろう。もっとも、そういうことはなかったと思っている。根拠はない。ただ、確信に近い。
「少なくとも……ほとんどの神器はそういうことはあるまい。だが、ロプトウスは……その例外ということになる」
 一瞬、パティは違和感を覚えた。なぜ今、シャナンは『ロプトウス以外の神器は』と言わなかったのだろう、と。単なる言い回しの問題かもしれないが、しかしパティがその疑問を口にするより先に、シャナンが言葉を続けたため、パティは質問することが出来なかった。
「いずれにせよ、今のユリウスはかつてのロプト帝国皇帝と同じだ。倒さなければ、こちらが滅ぶしかない。もっとも、確かにユリアに兄殺しをしろ、というのは……私も気は進まない」
「スカサハ、複雑そうな顔してましたもんね」
 ユリアが生きているらしい、と聞いた時、スカサハは声こそあげなかったものの、これ以上なく嬉しそうに見えた。だがそれは、ユリアが実の兄を倒さなければならない、という運命に対さなければならないということを意味している。
「まあ、これはユリアが決めることだ。だが……」
 東の空を、もう一度みやる。魔皇子ユリウスのいる、暗黒の宮殿。それがこの、遥か連峰の先にある。
「必要とあれば、私はたとえユリウスであろうと、斬る」
 もうこれ以上、悲しみを増やしたくはない。
 誰かを失う悲しみは、自身が傷つくことよりも遥かに辛い。そんな想いを、シャナンはもう誰にもさせたくはなかった。

「生きているらしいって分かったのに、浮かない顔ね」
「そうかな」
 スカサハは振り向かずにそれだけ答えて、なおも東の空を見詰めていた。振り返らなくても、誰が立っているかは分かっている。
「もっと喜ぶと思ったんだけど。あの話を聞いたら」
「嬉しかったよ。でも、同時に色々考えちゃってな」
「……そう……ね……」
 なんのことかは、彼女――ラクチェにも容易に想像が出来る。なぜなら、彼女が愛する人も、結果として同じ運命を歩むことになってしまったからだ。
「……あ、すまん。ヨハルヴァもそうだったんだよな」
「うん……考えてみたら私達、運がいいわよね」
 実際この戦いでは、肉親が敵味方に分かれてしまっているケースは、少なくない。一般兵士でもかなりいるし、聖戦士の血を継承する者達ですら、それは多い。聖戦士とは、かつてロプトウスを打倒するための存在であったはずにも関わらず、だ。
「あとな。なんで生かしてあるのか、とか……な」
「スカサハっ!!」
「怒るなよ。冷静に考えたら、どう考えても不思議なんだ。悪逆非道で知られる暗黒教団の、それも大司教が、なぜ自分達の神であるロプトウスを滅ぼす可能性をもった存在を生かしている?」
「それは……」
 それはあの席において、誰もが思ったことでもある。
 誰もが考えないようにしていたが、正直誰もユリアが生きているとは思っていなかった。セリスなどは、なんとなく生きているとは思う、と言ってはいたが、希望的観測なのは明らかだった。
 だが、先に祖父マンフロイと対峙したサラが戻ってきた時、間違いなくユリアが近くにいた、という。状態は分からないが、あの魔力を間違えることはありえない、と断言した。
 そのサラがマンフロイと対峙した場所は、正確なところは分かっていない。サラはマンフロイの魔力を辿って転移したし、応援に駆けつけ、そして呼び戻したのも、そのサラの転移の波動をラナがなんとか辿っただけで、場所については正確に分かってはいない。
 だが、少なくともかなり大きな城砦であったのは確かで、また、かなり離れていたことも間違いない。そうなると、考えられる場所はもはや二つ。バーハラか、ヴェルトマー。このどちらかに、マンフロイとユリアはいるはずである。
「とりあえず、考えたところで答えなんて出ないって。生きているって分かっただけでもいいじゃない。希望がまだあるんだから、ね?」
 ラクチェはかがみ込んだ姿勢からスカサハの顔を見上げる。その仕種が、驚くほど可愛くて、一瞬スカサハは後退った。
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもない」
 また一瞬、ユリアにも似ている、と思った。
 顔かたちはまるで違う二人だが、一瞬そういう雰囲気を感じさせたのだ。
 男勝りで、可愛気などとまるで無縁だと思っていたラクチェも、いつのまにかそういう雰囲気を纏うようになっていた、というのにあるいは驚いたのかもしれない。
 実際、ラクチェはここ最近、急激に変わってきていると思う。上手い言い方が思い付かないが、単純に言えば綺麗になった。照れくさいので、ラクチェに対しては口が裂けても言わないが。
「変なスカサハ。ま、とにかくこの戦いもあと少しだしね。終わった時、どうしようもなく落ち込んだスカサハは見たくないもの」
「ああ。そうだな」
 スカサハはもう一度、東へと視線を転じた。見えるのは、暗雲立ち込める空と、暗く彩られた山々のみ。そのどこかに、ユリアがいるのだろう。
「必ず、救い出してみせる」
 たとえそれが、どんなに困難であろうとも。自分の身が引き裂かれることになろうとも。もう二度と、あの手を放しはしない。
 スカサハは、ただじっと東の空を見詰めていた。

 ごく短い休息は、戦士達の決意を新たなものとした。
 明かされた聖戦士の力の謎。だがそれは、彼らの責任ではない。与えられた力を使うのは、彼らの意志だ。そしてもし、その『力』に振り回された者が敵だというのならば、この戦いはあるいは、竜族と人の戦いなのかもしれない。その考えが正しいのかどうか。それを答えられる者は、恐らくいないだろう。
 ただ、一つだけはっきりしていることがある。
 人と人の戦いであれ、人と竜の戦いであれ、この戦いが、後の大陸全ての運命を決するということ。それだけは明らかであった。
 グラン暦七七八年夏。戦いはついに、最後の戦場を迎えようとしていた。



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