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永き誓い・第五十四話




「霧が……深いな」
 シャナンは少しだけ顔を険しくした。
 昨日の敗戦から一夜明け、再び、今度は万全の態勢で再戦に臨もうという解放軍の前に現れたのは、朝もやというにはあまりにも濃い霧だった。五十歩も離れると、もう何があるかまるで見えない。まともに敵味方の識別が出来る距離となると、もう接近戦の距離と言っていい。
「まあこれならば、お互い弓や魔法の攻撃は使えないから、一概に不都合とも言えないか。とはいえ、油断は出来んがな」
 シャナンはそう言うと、すぐ横のセリスをかえりみる。
「そうだね。これなら、雷神のトールハンマーもいきなり飛んでくることはないと思う。まあ、どちらにしてもイシュタル王女は、出来れば倒したくない相手ではあるけど」
 イシュタル王女が、暗黒帝国と化したグランベル帝国の中にあって、まだ良心を保った存在であることは、すでに周知であった。彼女は、生け贄とされる子供を、出来るだけ匿ってフリージの市街に隠していたのである。もちろんそれは、彼女自身の雷名あってのことではあるにせよ、彼女が暗黒教団のやり方に否定的であるのは間違いない。さらに、彼女はフリージ公国での信が篤い。後々のことも考えると、出来ることなら倒すようなことはしたくはない。
「まあその辺りは、セティやティニーに任せておこう。こっちはこっちで、大仕事だ」
 姿こそ見えないが、白い闇の向こう側に、多くの兵が集っている気配を感じられる。恐らくその中には、ユリアもいることだろう。そしてその向こうが、バーハラ。そこには更に、十二魔将に率いられた軍勢が、解放軍を待ち受けているのは疑いない。だが、今回シャナンらの目的は、そのさらに先にあった。
 ヴェルトマー城。そこに恐らく、暗黒大司教であるマンフロイがいる。彼を倒さなければ、あのユリアを縛っている束縛を解くことは出来ない。そしてそれが出来なければ、解放軍は魔皇子ユリウスに勝利する手段がない。ただそのためには、まず目の前で展開しているイシュタル、ユリアが率いるヴァイスリッターを突破しなければならないのだ。
「こちらは全てはスカサハにかかっている。頼んだぞ」
「は、はい」
 そのスカサハは、酷く緊張した面持ちで答えた。実際、手が震えているのが、少し離れていても分かる。だが、無理もないだろう。何しろ、全軍の命運がスカサハの手に委ねられているのであり、さらに、今回、ユリアを『眠りの魔剣』で封じるのに失敗した場合、間違ってしまえばユリアを殺してしまう恐れすらあるのだ。
『眠りの魔剣の魔力を解放させるのは難しいことじゃない。それぞれに定められたキーワードを言うだけだ。まあ、剣に意識を集中する必要もあるのだが、それはスカサハなら難しいことではあるまい。重要なのはイメージだ。ただ問題は、この魔力は剣に触れているものにしか作用しない。通常の使用時のように、近くで発動すればいい、というものではない。もし離れた状態で発動させたら、恐らく一瞬魔力に囚われるだけで、すぐに脱出されるだろう。そうなってしまったら……我々としては、ユリアを殺すしかなくなる。眠りの魔剣は貴重な武器だ。予備はない。探している余裕もない』
 あるいは、限界までダメージを与えて、立てなくしては、という意見も出た。だが、レヴィンは恐らくそれは不可能だろう、と却下したのだ。
『傀儡の術、というのは本来の人間の能力以上の能力を発揮させる。恐怖心というものがなくなれば、人間は限界をあっさり超えるものだ。そして、肉体に返ってくる反動を気にしないで戦うことも出来る。何しろ肉体が滅んだところで関係ないからな。だから、傀儡の術の支配下にある存在を止めるには、殺すか、あるいは、少なくとも肉体が動けなくなるほどのダメージを与えるしかない』
 簡単に言えば、手足の腱を切断する、といった方法である。だが、ユリアを迂闊に捕え、それがマンフロイに知れるとマンフロイはユリアを自殺させる可能性も十分に考えられる。そうなってしまっては、何の意味もない。だから、今回のような特殊な魔力の影響下で、他の全ての影響を排除するしか、対応策がなかったのである。
「あまり気負うな……とは言いたいがそれは無理だろうな。だが、ユリアを救えるのはお前しかいない。そのことを忘れるな」
「はいっ」
 そのスカサハの返事に呼応したように、解放軍の正面の気配に変化が生じた。
 敵軍が、前進を開始したのである。
「……いよいよか」
 セリスは小さく頷いた後、右手を高々と掲げ、そして振り下ろす。それに応じて、解放軍の軍列が、整然と前進を開始した。
 後世の史書において、第二次聖戦でもっとも苛烈だったと伝えられる『バーハラ平原の戦い』の幕が、静かに上がろうとしていた。

 戦闘は、予想通り矢戦もそこそこに、お互い軍列入り乱れる混戦へと突入した。双方の軍勢は、解放軍が約二万、ヴァイスリッターは約三千、それに正規軍――これらも傀儡の術の影響下にある――が約一万三千。数だけならば、解放軍が優勢であるが、相手は死を恐れない軍勢で、しかも傷を受けたところで、さほど動きに影響が出ない。また、ヴァイスリッターの背後にはまだ十二魔将の軍勢がある。こちらは、数は少ないらしいが、それでも十二魔将全軍では六千はいる。解放軍としては、極力被害を抑えて、十二魔将の軍を撃破し、魔皇子ユリウスとの戦いに備えたいところなのだ。
 戦局は、概ねレヴィンやオイフェの立てた策のとおりに推移した。魔法が強力なヴァイスリッターであるが、さすがにこれだけ戦場が入り乱れていると、そうそう使うことは出来ない。いくら傀儡の術で操られているとはいえ、友軍の戦力を減らすような愚挙は、さすがにやらないらしい。結果、接近戦に持ち込めた解放軍は、本来なら相当手強いはずのヴァイスリッターの魔術師や弓兵相手に、かなり有利に戦いを進めることが出来た。
 そんな中、スカサハはただひたすら、戦場を馬で駆け抜けていた。途中数回、敵兵と斬り結んだが、一合するだけでほとんど戦わずに駆け抜ける。周囲にはすでに味方はおらず、完全に敵兵に囲まれているが、スカサハの卓越した馬術は、敵兵に狙わせる隙を与えなかった。
(ユリア……!!)
 スカサハはただ、ユリアだけを探していた。この深い霧の中、至近距離まで近付かなければ、人の識別など到底出来るものではない。にもかかわらず、スカサハには、ユリアのいる場所だけが強く感じられる。あるいは、そんな気がしていただけかもしれない。だが、その直感を、スカサハはまったく疑っていなかった。
(……いた!!)
 霧のカーテンの向こうに、スカサハはユリアらしきシルエットを発見した。今のスカサハは、ユリアの気配を間違えることなどない。スカサハは手綱を引いて馬首を巡らせかけたところで危険を感じて、馬から飛び降りた。それとほぼ同時に、スカサハの乗っていた馬を巨大な光の柱が包み込む。
「くっ!!」
最期の嘶きすらなく、ここまで良くがんばってくれた馬は一瞬で絶命した。光の魔法の中でも最大の威力を持つ魔法の一つ、オーラ。あれを直撃したら、いくらスカサハでも到底助からない。だがこれで、相手がユリアであることもまた、確定した。ナーガの継承者であるユリア以外に、これほど強力なオーラを操れる存在など、いるはずもないからだ。
「ククク……殺サレニキタカ」
「ユリアを返してもらう」
 スカサハはそれまで持っていた剣を捨てると、背中に背負ったもう一本の剣を抜き放った。眠りの魔剣。パティから預かった――といっても返す予定のあるものではないが――魔力の宿った剣である。
「ソウカ、オ前、コノ娘ニ惚レテイルノカ」
 ユリアの顔と声で言われると、本来なら多分顔が羞恥で真っ赤になるところなのだろうが、今のユリアに言われてもむしろ嫌悪感しか沸かなかった。そしてそれが、ユリアを汚しているようでますます許せなくなる。
「ユリアを返してもらう」
 スカサハは意を決すると剣の切っ先をユリアに向けた。だが、ユリアに動じた様子はない。周囲の敵兵もまた、まるで事態の成り行きを見守るように遠巻きに二人を囲んでいた。
「無駄ダ。コノ娘ノ精神ハ、スデニ完全ニ闇ニ飲ミコマレテイル」
「ユリアはそんなに弱くはない。甘く見るな」
 実際には、言い切れる自信はない。ただ、ユリアはあの時、少しでも前を見ようとしていた。そのユリアが、闇にそう容易く屈するとは、到底思えない。
「ホウ……言イ切ルカ。ダガ、コウイウノハドウダ……?」
 突然、それまでまるで仮面のように固まって変化のなかったユリアの顔に、表情が表れた。それはまるで、どこか怯えたような頼りなげな、ちょうど初めて会った頃のユリアの表情だ。
「なっ……」
「お願い、止めて。そんなものを私に向けないで……。仕方がないの。もう、この世界はロプト神のもの。だから……諦めて……」
 声も表情も仕種も、間違いなくユリアのものだった。一瞬、正気に戻ったのではないか、とすら思いたくなるほどである。
 だがそれは、明らかにユリアを乗っ取っている『闇』が為さしめていることだ。分かりきっている。
 にもかかわらず、スカサハの手はがくがくと震えてきていた。
「ごめんなさい……あなた達を倒せば、私は自由になれるの。だから、私のために……お願いだから、ね?」
 それと同時に炸裂したのは、オーラの魔法だった。半ば呆然としていたスカサハは、それを避けることが出来ずに完全に直撃してしまう。全身がずたずたになったかと思ったほどだ。スカサハは一瞬で意識を失いかけ、その場で倒れ込むが、すぐ剣をついて立ち上がろうとする。
「ぐ……あっ」
「ごめんなさい……でも、仕方ないの。もうこの世界はロプト神のものだから……私では逆らえないから。だから諦めて……」
「よ……せ……」
 スカサハは剣を杖代わりにして、かろうじて立ち上がった。その先にいるのは、やはり悲しみと不安に顔を曇らせた、ユリアである。
「お願い、避けないで。貴方達を殺せば、私は……」
「ユリア……」
 こんなことはありえない、と分かっていても、それでもなお攻撃に出ることが出来ない。自分の意志がこれほど脆弱だとは、スカサハは思わなかった。そしてもう、スカサハは動くだけの気力を失っていた。
「さよなら……」
 光がスカサハを包み込む。その瞬間、スカサハの脳裏に出会ってからのユリアとの多くの思い出が過ぎった。
 初めてイザークで出会ったとき。そして、イード砂漠で話したこと、コノートで共に戦ったこと。雪深いトラキアで、共に星を見上げたこと。
 そして、あの攫われる直前の、ペルルークでのこと。
 確かあの時、ユリアは。
『本当は誰も争いたくない。そのはずなのに……なぜなのでしょう?』
 そうだった。
 敵である帝国兵のことすら、思いやることの出来る少女。それがユリアだ。そのユリアが、自分のためだけにこのようなことをするはずがない。それこそが、何よりもユリアへの侮辱だ。
「う、おおおおおおお!!」
 どん、という音と共に光が炸裂する。だが、スカサハはかろうじて回避していた。
「お願い、これ以上抵抗しな……」
「これ以上、ユリアを侮辱するな!!」
 スカサハは死にそうな状態とはは思えないような鋭い踏み込みで、ユリアとの距離を一気に詰めた。そして、剣を水平に薙ぐ。だがそれを、ユリアは避けるそぶりすら見せなかった。彼らからすれば、解放軍の手でユリアを殺せれば、それで十分なのである。ゆえに、避けようとしなかったのだが、それこそがスカサハの狙いだった。
 その斬撃を、スカサハは急激に停止させる。そしてそのまま、ユリアの手を掴み、引き寄せると右手に剣を持ったまま抱きしめた。
「ナニヲッ……」
「シャナン様、後は頼みます……ラヴァス!!」
 スカサハの言葉と同時に、剣が砕けた。同時に、凄まじい魔力の波動が周囲を一瞬で巻き込み――そして、全てが停止した。

「ぬ……? ユリア皇女の波動が消えた……だが、死んだわけでは……ない?」
 昼だというのに明かり一つ射さない暗黒の間で、マンフロイは怪訝そうに顔を顰めた。
 ユリアの状態は常に把握している。殺されたら、すぐ分かるはずだ。もちろん、殺された瞬間に術は切れる。正確には、死の直前に。つまりユリアを殺した相手は、正気に戻ったユリアが死ぬのを、なす術なく見守るしかないのだ。そしてさらに、死後その身は闇に食われ、たとえあのバルキリーの力でも復活できない。そうしたはずだった。
 だが今、そうした魔法の発動プロセスが一切行われず、いきなりユリアの存在が消えた。
「……これは一体……」
 やむを得ない、とマンフロイは傍らの水晶球を取り出す。その水晶球に意識を集中すると、やがて水晶球の中の景色が歪み、そして戦場を映し出した。その、戦場で生み出される死と絶望は、彼や彼の主にとってこの上ない美味ではあるが、この時マンフロイはその中央に映し出された、二人の男女が抱き合ったまま不自然に立っていることに気付いた。
「……まさか、時間を凍結させたじゃと? ばかな、解放軍にそれほど魔術に通じている者がいるはずは……」
 時間を操る魔法は、かつてロプト帝国時代に研究されていた分野ではあるが、現在は完全に失われている。そのはずだ。
 その時マンフロイは、二人の足元にある柄だけになった剣の存在に気付いた。
「なるほど……あの魔剣か……」
 ロプト帝国時代に作られた、特殊な魔剣。その中の一本に、確か時間を停滞させる魔法を乗せた剣があるとは聞いたことがある。
「面白い。ユリア皇女を殺すでもなく制してみせたか。ということは、傀儡の術にも気付いておるのであろうが……くっくっく。なるほど。この儂を倒して、ユリア皇女を取り戻そうという算段か……。面白い……完全復活を遂げたロプト神に与えられし大いなる力……受けてみるがいい。くっくくく……ふ、ふ、ふははははははっ」
 マンフロイは、この上なく可笑しいことを見つけたかのように笑った。
 そしてその哄笑に応えるように、その部屋にわだかまる『闇』が、ぞろりと蠢動した。

「やったか、スカサハ……」
 戦場の空気が変わったことを、シャナンは確かに感じ取った。同時に、シャナンにも分かるほどの魔力の発散。これがおそらく、眠りの魔剣の魔力の解放なのだろう。
「スカサハ……」
 すぐ近くで、ラクチェが唇を噛む。スカサハが成功した、ということは、スカサハもまた、ユリアが囚われた時の牢獄に囚われたということだ。もしかしたら、永久に戻ってこれないかもしれない。
「大丈夫さ、ラクチェ」
 ラクチェの不安を読み取ったように、横を駆けるヨハルヴァが明るい声を出した。
「スカサハもユリアも、きっと帰ってくる。だから俺達は、やるべきことをやればいいんだ」
「ヨハルヴァの言う通りだな。とにかくまず、このヴァイスリッターを突破、そのまま十二魔将の陣を突破して、ヴェルトマーまで急ぐぞ。そして必ずマンフロイを倒すんだ。そうすれば、必ず二人は帰ってくる」
「……はいっ!!」
 ラクチェは元気良く頷くと、手綱を握り直して馬速を上げる。
「あ、ちょっとラクチェっ!」
 馬に乗りなれていないパティが、慌てて後を追いかける。そのすぐ後に、シャナン達イザークの部隊が続く。
 イザークの部隊は、ヴァイスリッター左翼を、完全に突き抜けようとしていた。

 バーハラの南西部。木々の生い茂る森の中を、一人の兵が走っていた。注意深い者なら、彼もまた傀儡の術の支配下にあることが分かるだろう。だが、彼の場合はユリアとは異なり、彼本来の意識が完全に闇に喰われているため、本来の人格が闇と融合した形で残されているのが異なる。
 そして彼は、森の少し開けた場所に到着すると、その中央に立っている一人の人物の前で跪いた。
「ノイン将軍。反乱軍の一部隊が、ヴァイスリッターの部隊を抜け、こちらに向かっている模様です。どうなさいますか」
 彼が将軍、と呼んだその人物は、良く見ると女性であることはすぐに分かる。
 黒く塗り込まれた胸甲が、わずかに女性のために余裕を持たされた構造になっているのだ。また、その隙間から見える手足も若干細く、全体的な印象も女性だということを判断する材料となる。
 だがそれでも、一見して女性だと思うものはいないだろう。それは、完全に顔を包み込むフルフェイスのせいだった。
 鎧と同じく完全に黒色のそのマスクは、頭を完全に包み込んでいて、目の部分だけが開いている。それだけでは、女性だと分かるはずもなく、また、そのマスクの装飾には女性らしさなどまるで感じさせないものであった。
 そして、背中には長大な、やや反った剣。
 強力な剣技を誇る、十二魔将の一人ノイン。かつてロプト帝国時代には、親の目の前でその息子達を傀儡の術で操り殺しあわせ、逆上したところをその剣で切り刻む、ということを愉しみとしていたという残忍な精神の持ち主である。しかもそれらを全て無表情でやってのけ、十二魔将でもっとも冷酷残忍な一人、と云われたほどの人物だ。
「……どこの部隊が?」
 フルフェイスの中でくぐもった声は、男性のものか女性のものかをまるで判断させない。
「イザークのシャナン王子に率いられた部隊のようです。どうやら、ユリア皇女の部隊を突破した模様です」
 ノインの、フルフェイスの下の目が、わずかに見開かれる。その時、確かに彼女は驚いていたのだ。
「……そう……。イザーク……シャナンか……」
 この時、もしこの兵士に感情があるとしたら、そしてノインがマスクを被っていなければ、さぞ驚いたことだろう。
 ノインは確かに、笑っていたのだ。



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