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永き誓い・第五十六話




 はあっ、はあっ。
 バーハラの南東。西側からは解放軍が攻め上がっているため、所狭しと軍が展開しているが、この南東部はほとんど軍勢は展開していない。ほとんど無人の平原が広がっている。その平原を、一人の金髪の少女が、全力で駆けていた。
 既に息は上がっている。元々、体力がある方ではない。短距離を駆け抜けるのは得意だが、長距離を走ることなど、普段そうそうあることではないのだから当然だろう。長旅にはなれているが、それとは疲れ方が違う。
 それでも、そのバーハラの平原を駆ける少女は、倒れそうになる自分を叱咤し続けて走り続けた。
 何かに急かされるように。そうしなければ、取り返しが付かないのではないか、という予感を振り払うように。
 ただ、その少女は走り続けていた。

『シャナン……ありがとう。……愛してるわ、いつまでも、ずっと』
 そういって、彼女は激流の中に消えた。その光景を、シャナンは忘れたことはない。いや、忘れることが出来なかった。あるいは、その光景を覚えていることで、彼女が死んだことを自分で忘れないように――現実を見失わないように――していたのかもしれない。
 そう。
 彼女は死んだ。それは絶対に間違いない事実だ。
 ――本当に間違いなかったのか?
 響き渡る内なる声。
 ――死体を確認したわけじゃない。そう。彼女が生きている可能性を、一度でも考慮しなかったのか?
 ありえない。それはもう、絶対に。
 あの激流に呑まれて助かる確率など、あるはずはない。
 ――じゃあ目の前に立っているのは、誰なんだ?
 長い黒髪。イザーク人としてはやや白く見える肌、少し大き目の黒い瞳と細い顎。その一つ一つを、シャナンは今でも鮮明に覚えている。若干違って見えるのは、彼女もまた年を取っているからかもしれない。
 あれはフェイアだ。
 いや、違う。
 シャナンの中は今、その二つの声がせめぎあっていた。
「……生きていることに驚いてるの? それほど、不思議なことではないわ。確かに、死にかけたけどね」
 ノイン――フェイアは話をしましょう、とでも言うように剣を下ろす。
「あの濁流に呑まれて、私は死にかけた。あるいは死んだのかもしれない。でもその時、神の声が私に聞こえたの。それは、この世界の真実を伝えていたわ。この世界がかつて何に支配されていたか。世界の本来あるべき姿がそこにはあった。そして、その正当なる支配を復活させることこそ、正しいことなのだと、分かったの」
 フェイアの声にはまるで澱みがなかった。ただ本当に、自分の考えていることをそのまま伝えているように聞こえる。
「だが、そのために大陸に住まう人々を虐げて良いというのか! その中には、かつてあのキエの街にいた孤児達も入っているのだぞ!」
「仕方ないわ。それが神の意志なのだから」
「なっ……」
「神の意志の前には、人は抗うことすら許されない。この世界における、それは絶対の条理。人が神に逆らうことが、許されると思うの?」
「だが、その神というのは、所詮竜族だろう!」
 するとフェイアは、むしろ意外そうな顔をしてシャナンを見詰め返した。
「この世界における神とは竜族のこと。そう捉えて何か問題があるの?」
 シャナンは言葉が続けられなかった。
 確かに、竜族の力は絶大だ。そして神、というのは実はその定義は酷く曖昧である。ならば、神を竜族と定義してしまっても、あるいは問題はないのではないか。
「そう。だから貴方達のしていることは神に逆らう、いわば大逆の罪……。でもシャナン。私は貴方を殺させたくない。だから、貴方だけでも、本来人があるべき道に戻って。私から、ロプトウス様にお頼み申し上げるわ。もしかしたら、許されるかもしれない。お願い。貴方を失いたくないの。この六年、ずっと寂しかったんだから……」
「フェイア……」
 頭がくらくらとする。
 フェイアの言葉は、少なくとも彼女自身にとっては完全な真実を語っているように聞こえる。だが、シャナンには、フェイアがそのようなことを言うはずがない、と分かっていた。にもかかわらず、フェイアの言葉を完全に否定できない自分がいる。これがもし、まったく違う赤の他人の言葉であれば、あるいは迷わなかったのかもしれない。だが、今目の前にいる十二魔将の言葉は――いや、声は――シャナンにとって否定しがたい響きを持っていたのだ。
 だが。
「……たとえお前の言葉でも、それは聞けない。今の私は解放軍の剣士、そしてイザークの後継者たるシャナンだ。その信頼を――いや、名を裏切ることは出来ない」
「神に……神に、逆らうというの?」
「ロプトウスが神だというのなら、私の中に宿るオードの力もまた、神の力だ。違うか? ならば私は、神の力を振るうことの出来る者であり、ロプトウスに服従する謂れはない」
 実際そのように考えていたわけではない。ただ、適当に言葉をならべてみただけだ。
 これは所詮人と人の戦いなのだ。神――竜族の力を宿していようが、それを振るうのは人間の意志なのだから。
「もうやめよう、フェイア。私はお前と戦いたくはない。降伏してくれ。もうこの戦いは終わる。お前が生きていてくれたのなら、私はそれで……」
 それに対するフェイアの返答は、強烈な斬撃であった。シャナンはぎりぎりで――だが余裕をもって――その一撃を躱す。
「止めろ。いくらお前が十二魔将の一人とはいえ、私には勝てない」
「それはどうかしら?」
 言葉と踏み込みは同時。だがそれも、シャナンを圧倒できるほどではない。シャナンはあっさりと、今度は先ほどより遥かに鋭い一撃でフェイアの剣を跳ね上げると、大きく出来た空間に斬撃を繰り出した。ただし、わざとまだフェイアが避けられる程度の一撃。それで、彼女が実力差を悟って降伏してくれれば、と思ったのだ。
 ところが、フェイアはまったくそれを避けようとしなかった。むしろ逆に、刃に突っ込んできたのである。
「なっ……」
 シャナンは慌てて剣の軌道を変えた。振りぬかれた剣がフェイアの髪に微かに触れ、数本、宙に舞わせる。
「やっぱりね……貴方じゃ、私を殺せない……」
「くっ……」
「でもね……」
 フェイアは再び、先ほど以上の凄まじさで剣を繰り出してきた。それは、完全に防御を捨てた攻撃である。
「貴方を他の人に殺されるくらいなら、私が殺す!!」
「よせ、フェイア!!」
 シャナンはどうにかその攻撃をやり過ごそうとした。
 このフェイアを倒すのは簡単だ。防御をまるで考慮してない攻撃など、今のシャナンなら簡単に捌いて致命の一撃を繰り出せる。だがそれは、フェイアを傷つけることになる。
 彼女が何に影響されているかは分からない。だが、少なくとも目の前に立つフェイアは、間違いなくフェイアの身体ではある。そしてそれが生きて動いている以上、シャナンにはそれを傷つけることは出来なかった。
 あの時。あとほんの少しでも自分が強ければ。
 そう思ったことは、一度や二度ではない。そして思い返した時、悔恨を感じなかったことなど、一度もない。
 仲間が増え、戦いが進み、そしてすぐ側にいつも賑やかに、そして楽しく笑っている少女がずっといてくれたことで、いつしか辛い思い出を思い出すことは減ったが、それでも、シャナンにとってはフェイアは特別な存在なのだ。
 しかしそうしたシャナンの葛藤などまるで意に介さないフェイアの攻撃は、激しくなる一方だった。
「くっ!!」
 攻撃のみに集中し、一切防御を考えない攻撃というのがこれほど苛烈とは、シャナンは思わなかった。いわば普通『一か八か』で繰り出されてくる攻撃を、連発されるようなものである。通常ではありえない踏み込み、鋭さを持った攻撃は、シャナンが普段繰り出す攻撃に匹敵する威力がある。
 また、本来人間が繰り出せる以上の攻撃を、フェイアは繰り返していた。それは、肉体への反動を恐れない、十二魔将だからこそ可能な攻撃である。それは、徐々にシャナンすら追い詰めつつあった。
 このままではいつまでももたない。それはシャナンが誰よりも分かっていた。
 剣を弾き飛ばそうと思ったが、それは相手がもっとも警戒していることらしい。剣を弾くために柄に近いところを叩こうとすると、フェイアはあろうことか自分の身体を入れてそれを妨害してくる。通常とはまったく逆の発想だが、現在のシャナンには極めて有効な手段でもあった。
 やるべきことは明らかだ。
 今目の前にいる剣士は十二魔将の一人であり、解放軍の敵だ。解放軍の戦士であるシャナンがすべきことは、この相手を倒すことである。
「くそお!!」
 シャナンは剣で地を薙いだ。その剣の威力で大地が爆ぜ、その衝撃が二人に一瞬距離を取らせる。
「やめるんだ、フェイア。お前では私に勝てないのはもう分かっているだろう。これ以上は……」
「なら、なぜ貴方は私を斬らないの?」
「……っ」
 シャナンにそれは答えられなかった。いや、恐らくフェイアはそれは承知の上で聞いたのだろう。
「言ったでしょう? 貴方は優しいから、だから貴方に私は……!?」
 フェイアの言葉は、彼女自身の斬撃とそれに続いた複数の金属音に遮断された。
「誰!?」
「パティ!?」
 突然割り込んで来たのは数本のナイフ。それらは全て、フェイアめがけて飛来したが、全て剣で叩き落とされていた。そして、その投じられた方向にいたのは、金髪の、肩で息をしている少女――パティだった。
「パティ、なぜ戻ってきた。先に行けといったはずだ!」
「だ、だって胸騒ぎがして、どうしても気になったから。シャナン様に何かあったんじゃないかと……!?」
 パティはそこで息を呑んだ。凄まじい殺気が、自分に向けられていることに気付いたからである。
「……だ、誰……?」
「よせ、フェイア、その娘に手を出すな」
「え?」
 パティは驚いて目を見開いた。
 確かに今、シャナンは『フェイア』と言った。その名前は、かつてシャナンの恋人だったという幼馴染の名前のはずだ。そして、もう何年も前に死んだはずの人の名前である。
「そう……そうなのね。シャナンが私と来てくれない理由は……」
 幽鬼のような、と表現するのがもっとも正しいだろうか。そんな雰囲気を、パティはフェイアに感じた。しかしそれも一瞬のこと。次の瞬間、フェイアはパティのすぐ目の前にいた。
「嘘っ」
 油断していたつもりはない。十分に警戒していたつもりだった。にもかかわらず、パティはフェイアの接近に気付くことが出来なかった。
「よせっ!!」
 奇妙なほど世界が遅く感じられ、下段から振り上げられるフェイアの持つ剣がパティに迫る。シャナンの声も、遥か遠い。
(これはまずいかなあ……)
 このままだと、どう考えても剣は脇腹から胸を斬り裂くだろう。あるいは、この勢いなら胴を切断されるかもしれない。しかし、避けたくても身体はまったく動かない。
 しかし、その刃はいつまで経ってもパティには届かなかった。

「え……?」
「……シャナン、どうして邪魔をするの……やはり……」
 いつ移動してきたのか、パティとフェイアの間にシャナンが割り込み、フェイアの剣を受け止めていた。
「……今ので確信したよ、フェイア」
 シャナンはそのまま、フェイアの剣を押し返す。フェイアはそれに逆らわずに一度大きく後ろに飛んだ。
「何が?」
「お前はフェイアじゃない。フェイアならば、パティを殺そうとはしない。彼女は、子供を殺せるような女性じゃなかった。たとえ、何があろうとな」
「………………」
「肉体がフェイアのものであろうと、お前の心はフェイアのものじゃない。十二魔将ノイン……それがお前だ」
 シャナンはバルムンクの切っ先を上げ、フェイアに向ける。その先にあるフェイアは、哀しみすら感じさせる表情をしている。
「シャナン……やはり、分かってくれないのね……私はこんなにも、貴方のことを想い続けていたのに……」
「フェイア……」
 その憂いを帯びた表情を見ていると、シャナンは、自分で言ったことが本当に正しいか自身がなくなってくる。
 本当にフェイアではないのか。確信を抱いたはずなのに、それでもなお心が揺れる。
「きっと、その娘がいるからね……まだ迷っているんでしょう? シャナン。今その娘を殺して、貴方の目を覚まさせてあげる……」
 再び、フェイアに殺気が戻る。このままでは、いつまで経っても同じだ。いや、あの苛烈な攻撃を、今度は全て防がなくては、パティが殺されてしまう。同じ過ちを繰り返すわけにはいかないのだ。
 その時。
 シャナンは、フェイアの、殺気に満ちた気配の中、その瞳だけが微かに哀惜の憂いを帯びていることに気が付いた。
(……フェイア?)
 ――私を殺して
 まるで、そう訴えかけているように。
(そうか……そうだよな。私は、何を迷っていたんだ……)
 これがフェイアの肉体であるのは間違いないだろう。だが、少なくともその行動はフェイアの意志によるものではない。そして十二魔将は、人の肉体に宿る存在ではなかったか。
「そこまでだ、フェイア……いや、十二魔将ノイン。私が相手をする」
「貴方に、私が斬れて……?」
 ノインはわざと無防備に手を広げてシャナンの前に立つ。
「シャナン様……?」
 パティにも、この状況がどういう事態であるか、大体の想像が出来た。そして同時に、シャナンが何をしようとしているかも。
「シャナン様、ダメ。いくら操られているといっても、あの人は、あの人は……」
 フェイアの話は、ラクチェからたくさん聞いている。特に、ここ最近で。ラクチェはあまり聞かない方がいいのでは、と言ったが、パティが聞きたかったのだ。最初にシャナンの心を掴み、愛された人物がどういう女性(ひと)だったのか。
 別にそれでどうこうするつもりなどない。真似をするなど論外だ。もしかしたら、あるいは怖かったのかもしれない。シャナンが、どこかでフェイアの影を追い続けているかもしれない、いや、そうではない、という確証が欲しかったからかもしれない。
 ただそれは、完全にパティの思い違いであった。シャナンはフェイアの記憶を大切にしてはいるが、それを追うようなことはしてなかったのだ。ただ、思い出としてしまっているだけ。同じように想われようとはパティは思っていない。自分とフェイアは違うのだから。まったく違う気持ちを、共有できればいい。パティはそう思っていた。ただ、その話を聞いているうちに、シャナンのフェイアへの想いがどれほど強かったのか、ということもまた、パティはもう良く分かっていた。
 そして今、どういう訳か目の前にいる女性はそのフェイアだという。そして同時に、十二魔将の一人でもあるらしい。
 十二魔将のことは、パティも一通り聞いている。ただあれは、死体を乗っ取ることは出来なかったはずだ。つまり、目の前のフェイアという人間は、生者以外ではありえない。
「パティ。分かっている。だが……」
 シャナンも、目の前のフェイアの肉体がまだ生きていることは分かっていた。だが、シャナンはパティ以上に十二魔将についての説明を受けていたのである。
『十二魔将の憑依した肉体は生きている者でなければならない。なぜならば、十二魔将の魂はその者の生命力を喰らうことでその者に憑依するのだ。そして、憑依された肉体は十二魔将の魂が生命力を供給して動く。だから、十二魔将に憑依された時点で、その本人の本来の生命力は、全て十二魔将に喰われてしまい、やつらの魂を維持するための存在に変質する。つまり、十二魔将に体を奪われた人物は、実際には死んでしまっているのも同じなんだ』
 確かにあの肉体はフェイアのものだろう。生きているし、心臓も脈打っている。だが、それをもたらしている活力の源は、他ならぬ十二魔将ノインの魂。そして、ノインの魂もまた、逆にフェイアの生命力を糧にして存在している。フェイアとノインを引き離すことは不可能なのだ。そうした瞬間、フェイアは死ぬ。
 だが。
(そうだな――お前ならそう望むな……フェイア)
 シャナンに、もう迷いはなかった。
「行くぞ……ノイン」
「なっ!!」
 ノインがその攻撃を弾けたのは、相当な幸運だったというべきだろう。シャナンが本気で踏み込んだ一撃を弾いたのは、さすがは十二魔将であり、そしてフェイアであるといえる。だが、その一撃の重さに吹き飛ばされたノインは、続く二撃目に対処するために体勢を立て直すことは出来なかった。
「ころっ……!!」
 殺すのか、この娘を。あるいはそう言いたかったのかもしれない。だが、その言葉は激痛によって妨げられた。呆然とノインが見下ろしたその瞳に映るのは、バルムンクが、深々と己の胸に突き刺さった光景。そしてその切っ先は、完全に背中へ突き抜けている。
「ば……」
 微かに動かした口から、血が溢れ出す。
 溢れ出した血が一度途切れた時、ノインを維持する生命力は、完全に尽きていた。
 そのまま、シャナンに覆い被さるように倒れ込む。
「フェイア、すまないっ」
 シャナンはフェイアを、そのまま抱き締める。
 直後、傷口と口から血が溢れ出し、辺りの地面をどす黒い赤に塗り替えていた。

「フェイア……」
 フェイアの傷は、完全に致命傷だった。バルムンクの一撃は左胸を貫通している。普通なら即死の状態だ。
 周囲に幾分残った十二魔将の軍はいたが、指揮官たるノインが死んだからだろう。糸が切れた人形のように、倒れて動かなくなっている。
「そ、そうだ、太陽剣の逆なら……」
 パティは慌て傷口に手を当て、あのシャナンを助けた時の様に意識を集中した。あの時同様、微かな光が傷口を伝っていく。二度目であるためか、疲労はさほどない。だが、シャナンは静かに首を振って、パティの手を傷口から離させた。
「え……なんで!?」
「パティ……気持ちは嬉しいが、無駄だ。生命の器が壊れた対象を癒す術はない……たとえそれが、聖杖バルキリーであろうとも」
「器が……?」
「気持ちだけ……もらっておくわ、パティ……ちゃん?」
「フェイアさんっ!?」
 パティはもう一度手を当てようとした。だがその手を、今度はフェイアが掴む。
「私はもう……六年前に壊れてるの。だから、一切の治癒は無駄……今こうして話せるのも、ノインが消える時に僅かに残った力があるから。でも、もう……」
 そこまで言ったところで、フェイアは大きく咳き込んだ。同時に、血の塊が口から吐き出される。
「パティちゃん……っていうのね。シャナンのこと、よろしくね……この人、これで結構……」
「やめてよ、そんなの。私、もっといっぱい貴女と話したいです。だからそんなこと言わないで」
「ふふ……でもそうし、たら、私がシャナンを、取っちゃうかも、しれないわよ……?」
「そんなこと分からないでしょうっ、だから、死なないでっ。勝負するなら……」
 フェイアは小さく笑うと、瞼の重さに耐えかねた様に目を閉じた。
 パティはフェイアが死んだのかと慌てたが、まだ微かに呼吸の音が聞こえ、思わず安堵する。
「勝負は……また、今度ね……あ、シャナン……」
「なんだ、フェイア」
 シャナンはこれまで、一言も話さず、ただいたわるように優しくフェイアの手を握っていた。
「ノインの……言葉ね……あれ、私の……」
「ああ、分かっている」
 かすかにフェイアは微笑む。
「私も愛している。フェイア。一日たりとも、忘れたことはない」
「フェイアさんっ、私、私……」
 フェイアは静かに首を振ると、シャナンの手を掴み、そのまま自分の胸の上にあるパティの手に重ねた。
「パティちゃん……シャナンと……」
 ふ、と。唐突にフェイアの身体の力が抜けた。手が地面に落ちる。
 幾度となく見た『死』が、今目の前の女性にも訪れたことを、シャナンもパティも悟らずにはいられなかった。
 その時。
「あ……」
 まるで彼女の最後の意志であるかのように。唇か呼気を吐き出した。
 そしてそれきり、彼女は動かなくなる。
 だが、かすかに動いた唇は、確かに、紡いだ。
『ありがとう……シャナン』と。
 その死に顔は、ここが戦場であるとは信じられないほど、穏やかなものだった。

 長い放心状態にも似た状態から立ち直ったのは、シャナンが先だった。
 いつのまにか日は暮れて、夕闇が当たりを包みつつある。
 シャナンは死人のような表情のまま、地に突き刺さったバルムンクを抜くと――なぜか刀身には血の一滴も付いてない――鞘に収め、立ち上がろうとする。だが、とたんにぐらりと揺らいで、尻餅をついて再び座り込んでしまった。
「シャナン様……」
「分かってはいた。そもそも、既に死んだと思っていたんだ。だから、もう覚悟するまでもないことだったんだ。フェイアは六年前に死んだ。目の前にいたのは、フェイアの姿をした十二魔将の一人で、フェイアじゃない。フェイアの姿をして、私を困惑させようと……」
「シャナン様っ!!」
 パティはシャナンの頭を、自分の胸に抱き寄せると、そのまま強く抱いた。
「いいんです。泣いて下さい。悲しいこと、我慢しないで下さい……」
 そう言っているパティもまた、大粒の涙を流していた。だが、シャナンは涙を流していなかったのだ。
「今ここで、我慢しなくていいんです、シャナン様……」
 ぽた、と。大粒の水滴が地を打つ音が、小さく響いた。
「シャナン様……」
「う、う、ああああああああああああ……!!」
 そしてシャナンは、パティにしがみつき、崩れ落ちて泣いた。まるで、これまで抑えていた悲しみの、全てが一度に襲ってきたかのように。
 薄暮に包まれた空の下、シャナンの慟哭がいつまでも響く。
 パティはただ、シャナンを強く強く抱きしめていた。



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