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永き誓い・第五十七話




 日は既に暮れ、周囲は闇の静寂の訪れを待っていた。いつ上がったのか、月が上空に昇っている。だが、その月の光に優しさを感じる者はいなかった。その、血のように赤い月には。
「……シャナン様……結局追いついてこなかったわね……」
 ラクチェは、視線を遠くにずらして呟いた。
 その視線の先にあるのは、灯火の輝きをいくらか宿す、堅牢な壁に囲まれた都市。
 グランベル帝国皇帝直轄領ヴェルトマー。それが、その都市の名である。正確には、この周辺の地域一帯を指してヴェルトマー地方と呼ぶのだが、かつてのグランベル王国時代の地勢図が頭に入っているラクチェやロドルバンにとっては、ヴェルトマー公国という方が馴染みがある。かつては。ヴェルトマー公爵であった、今は亡きアルヴィスが治めていた地である。
「いまや暗黒教団の本拠地……か……」
 ラクチェの横にいるロドルバンが、呟く。
 暗黒教団は、特に帝国の実権がユリウスに移ってからは、ヴェルトマーをその根拠地としていた。イード神殿に近い、という事由もあっただろう。現在、ヴェルトマーは、暗黒大司教マンフロイの支配する、文字通りの暗黒の街となっているのだ。
「シャナン様のことだ。何かあったんだろうけど……でも、マンフロイを倒さないとスカサハもユリアも解放されない。確かに戦力的には辛いけど、やるしかないだろう」
「そうね。私達と、それにアーサーやフィー達天馬騎士もいる。ヴェルトマーの攻略は可能だと思うわ」
 シャナンと別れた翌朝、アーサーを連れて、フィー達天馬騎士が合流した。
 ラクチェらはシャナンが夜には追いついてくると思っていたのだが、シャナンとパティは結局朝まで戻ってこず、代わりに合流したのはバーハラの天馬騎士と戦っていたはずのフィーとアーサーだったのだ。
 フィーの話によると、最初は劣勢だったのだが、途中からアルテナとアリオーン率いるトラキア竜騎士が加勢してくれたため、戦局は逆転し、フィー自身バーハラの天馬騎士の指揮官一人を討ち倒すなど、バーハラの天馬騎士の主立った将帥を討ち取り、天馬騎士を撃滅または降伏せしめ、即座にレヴィンの判断でフィー達天馬騎士はイザーク軍の増援に向かったということだった。
 しかしその途中で、フィーらはシャナンは見なかったと思う、といっている。
 もっとも、フィー達の移動径路だとシャナン達のいる方向とは若干異なるし、それに、空中から一人二人の人間を発見するなど、能動的に探していない限り容易なことではないので、単に見つからなかった、あるいは見落とした可能性が高いだろう。
 とりあえずラクチェらは、そのうち追いつくだろう、と判断して予定通り進軍し続けたが、結局シャナン達はヴェルトマーが間近に迫ったこの日まで、合流しなかった。
 現在の問題は、マンフロイをどうやって倒すか、である。
 先に、マンフロイと対峙した一人であるマリータは、あのマンフロイには勝てるとは思えなかった、という。彼女は、ラクチェらと同様流星剣、月光剣の使い手であり、解放軍でもトップクラスの実力を有する剣士だ。その彼女をして『勝てるとは思えない』と言わしめる、というのは決して彼女が臆病だというわけではないだろう。恐らく、本当にマンフロイはそれほどの恐るべき力を秘めているに違いない。
 イザークでマンフロイに確実に対抗できるのは、シャナンしかいない。それは分かっていた。
 しかしなぜ、今に至るまでシャナンが来ないのか。ラクチェらは言い知れぬ不安に駆られずにはいられなかった。
 ただそれに対しては、実はラクチェもロドルバンもマリータもあまり心配してはいない。
 シャナンが死んだとは、到底思えない。それはもう、確信に等しい。たとえ相手が魔皇子ユリウスであろうとも、今のシャナンを倒すのは極めて困難だ、と思っているくらいなのだ。その配下の十二魔将の一人にやられるなど、ありうるはずがない。
 しかし一方で、なぜ今もなお合流してこないのかが、分からなかった。
 シャナンは誰よりも、マンフロイと戦うことを切望していたはずである。
 結果として、彼が何かしらの異変に巻き込まれたのではないか、という推測が出来るが、かといってシャナンを待って行軍を止めるわけにはいかない。この行軍には、解放軍全体の命運が懸かっているのだ。
「翌朝までは待とう。それで来なければ、ヴェルトマー攻略を開始するしかない」
 ロドルバンの言葉に、ラクチェは頷いた。
「そうね。アーサーやフィー達天馬騎士も来てくれたしね。いくらマンフロイだって何とかなるわよ」
 実際、特にアーサーは解放軍でも随一の力を誇る魔術師である。彼が加わったことで、ヴェルトマー攻略は遥かに容易になった。
「だな。まあそれに、マンフロイよりまずヴェルトマー攻略だろう。マンフロイはどうせヴェルトマーの城だ。まず、あの城壁越えねえとな」
「確かに、まずそれよね。ヨハルヴァにしては、まともなこというじゃない」
「おい、ラクチェ……」
 ヨハルヴァは、心底情けない顔になった。
「冗談よ、冗談。ほらほらっ」
 まだ落ち込んでいるヨハルヴァの背中を、ラクチェが慰めるように叩く。その様子を見て、ロドルバンは苦笑するしかなかった。
「とりあえず、今のうちに兵は休んでおいてもらおう。それでいいよな、ラクチェ」
「もちろん。あ、そうだ。フィーとアーサーに後で来てもらうようにお願いしておいて。明日のこと、打ち合わせておきたいから」
 ロドルバンは「分かった」というと陣へ消えていく。後には、ラクチェとヨハルヴァだけが残された。
「心配か? やっぱり。シャナン王子のこと」
 しばらくの沈黙の後、ヨハルヴァが少しだけ遠慮するような口調で尋ねてきた。
「そうね……心配じゃない、といえば嘘にはなると思うわ。何といっても、私達イザーク人にとってはかけがえのない方だからね」
「ああ……それはんそうだけど、その……」
 ヨハルヴァが言い澱んでいるのを見て、ラクチェは数瞬首を傾げ、それからその理由に考えが至ると同時に、ヨハルヴァを小突いた。
「てっ。何するんだよ」
「余計なこと考えるからよ。そりゃ確かに、シャナン様に憧れていた時期はあるけどね。でもそれは昔の話。心外ねえ。貴方に疑われるなんて……」
「ち、違うっ、別に俺は疑ったりなんかして……」
「どうかしらね〜?」
 ラクチェがくすくすと笑う。
 その様子を見て、ヨハルヴァはラクチェがまったくそんなことを考えていないことに気がついた。
「あ、ラクチェ、お前分かっててからかったなっ」
 ヨハルヴァが怒ったようにラクチェにつかみ掛かろうとして、ラクチェはそれをひょい、と避けようとする。だが、ヨハルヴァの動きの方が今日は機敏だったのか、ラクチェはあっさりと彼に捕まってしまった。
「あ、こら、離しなさいっ」
「いや、今日という今日は許さねえ」
 ヨハルヴァはラクチェを完全に押さえ込み――実際にはほとんど力など入っていないのだが――ラクチェを抱き寄せたとき、、第三者が現れた。
「あのねえ。じゃれあってるなら、呼ぶのは後にしてくれればいいのに」
 現れたのは、グリーンのショートカットの少女。そしてもう一人は、銀色の髪の男だった。
 ラクチェとヨハルヴァは、慌てて距離をとる。
「あ、あんた達いつからそこに?」
 ラクチェは顔を紅潮させていた。もっとも、迂闊なのは自分の方だ。さっき、ロドルバンに呼んでくるように、と頼んだばかりだというのに。
「じゃれてるなら、終わった後に呼んでくれればいいのに。そしたら俺達も……ってぇっ!」
「この馬鹿っ。何言ってるのっ」
 言うまでもなくアーサーがフィーに小突かれた……というよりはもう拳骨で殴られていた。
「いいじゃねえか。別にう……」
 即座に繰り出されるフィーの拳。しかし今度は、アーサーはそれを食らいつつもフィーの手を掴み、自分の方に引き寄せていた。
「ちょ、こらあっ」
「……あ、あのさ。それこそ……あとでやって欲しい……んだけど……」
 周りが良く見えていなかったヨハルヴァとラクチェと、周りを気にしなくなるアーサーとフィーと、どちらがどう、というわけではないが、恐らく他人からしてみたらどちらも「他でやってくれ」と言いたくなるのだけは疑いないだろう。
「ご、ごめん。とりあえず、明日の話、だっけ?」
「うん……そう……だけど……」
 結局、かなり気力が萎えてしまった四人が、まともに話をしたのは、それから大分経ってからのことであった。

 翌朝。天気は晴れ渡っているとは言いがたく、むしろ暗雲が立ち込めていた。あるいはここが、暗黒教団の現在の本拠地とも呼べる場所だからなのか、それは彼らには分からない。ただ、言い知れぬ不気味さを、ヴェルトマーの街全体から感じているのは、ラクチェ達だけではないだろう。
 そんな中、アーサーはただ一人気を吐いていた。
 彼にとってヴェルトマーは、父親の祖国でもあるのだ。
 戦力的には解放軍が圧倒的に有利である。ヴェルトマーには、傭兵を中心に暗黒教団を合わせても五百程度しかいない。対する解放軍は、フィー達天馬騎士が合流したことによって、ほぼ一千。倍する戦力を持ち、しかもイザークの、錬度の高い兵が中心だ。
 一般的には、城攻めには守備側の四倍の戦力が必要とされているが、ヴェルトマーを守るのに五百は少なすぎる。しかし、どうやらヴェルトマー軍もそれはわかっていたらしい。東西南北にある大門は、そのいずれもが開け放たれていた。はじめから、市街戦をやるつもりらしい。
 市街戦で入り組んだ地形に入り込んでしまっては、数の有利は活かせない。また、市街に潜む兵を無視してヴェルトマー城に雪崩れ込もうにも、城はさすがに一千もの軍勢が一度に雪崩れ込むのは不可能である。そして、城門に集まったところを後背から攻撃されては、やはり数の有利は活かせなくなる。ヴェルトマー側の狙いはそんなところだろう。
 そこで、ラクチェ達は部隊を大きく二つに分けることにした。一つは、自分達を含めた最精鋭部隊で、これが城に突入、マンフロイを討ち取る。残りは、市街地の制圧を行うことにしたのだ。ヴェルトマーの市民には迷惑この上ないが、市街戦が既に避けられない以上、仕方がない。また、解放軍側に有利な条件としては、市民が立ち上がってくれれば、その戦力差は計上するのが無駄なほどの差になる。そうすれば、ヴェルトマー市街地の制圧など、一瞬で終わる。残るは、ヴェルトマー城だけになってくれるだろう。
 どちらにしても、勝算はかなりある。というよりは、情勢的に敗れることなどありえない、と思える戦いだ。
 しかしそれでも、ラクチェ達は、言い知れぬ不安感を覚えずにはいられなかった。
 それが、暗黒大司教マンフロイの存在によるものであるのは、考えるまでもない。
 マリータやサラをして彼女らに『勝てない』と思わせしめた存在。その正体に怯えない方が難しい。
 そして何よりもシャナンの不在。それが、彼女らの心に、言い知れぬ不安感を募らせていたのだ。
 しかしそういう不安を余所に、ついにヴェルトマー攻略戦は開始された。

「迂闊だった……」
 既にラクチェの周囲には、莫大な数の屍体が転がっている。そのほとんどはここにいるラクチェ、ヨハルヴァ、アーサー、フィー達の力を示すものだが、同時に彼らもまた、疲れ切っていた。
 作戦はほぼ予想通りに展開した。解放軍のうち、ラクチェ、ヨハルヴァ、アーサー、フィーら、精鋭部隊は市街を一気に駆け抜け、市街制圧を行う部隊の指揮をイザーク軍はロドルバン、天馬騎士はミーシャに任せた。
 しかしヴェルトマー城に突入し、しばらく進んだところで、ラクチェらは完全に待ち伏せを受けた。暗黒教団は、市街地には傭兵と一部の司祭のみを待機させ、主力である暗黒司祭のほとんどを、ヴェルトマー城に配していたのである。いくら数が多くないとはいえ、暗黒司祭の実力は、並の兵士の比ではない。特に、アーサーとフィーはともかく、ラクチェやヨハルヴァは魔法に対する耐性が低く、かするだけでも相当な打撃となる。また、アーサーにしたところで、彼の得意とする雷や炎の魔法は、暗黒司祭の使う闇の魔法とは相性が悪い。魔道士としての実力では勝っていても、その属性によってむしろ圧されることすらある。
 それでもなお、彼らが戦っていられるのはさすがは聖戦士、というべきだろう。既に三十人以上の敵兵を斬り伏せている。しかしもう、限界に近付きつつあった。
「くくく……お前達さえ倒れれば、外の軍勢などどうにでもなる……」
 暗黒司祭の一人がゆっくりと近付いてくる。実際、既に体力は限界に近かった。回復魔法を得意とする味方を引き連れてこなかったのもまた、彼らの失敗だっただろう。加えて、ここの暗黒司祭は、明らかにこれまで戦ってきたどの暗黒司祭よりも強かった。
「ちょっとこれは……まずいかな……」
 出来れば援軍を呼びたいところだが、既にヴェルトマー城のかなり上層まで来ているため、地上には声など届かないだろう。大窓からは空を飛び交う天馬騎士が見えるが、声を張り上げたところで聞こえるはずもなく、また、彼女らは地上に気を配っているので、こちらに気付くとは思えない。こちらに気付くようだったら、地上からの矢に狙われていることに気付かないだろう。
「くくく……さすがはイザークの戦士……といえるが、所詮この程度よ。我ら、偉大なる神に従う信徒に……?!」
 暗黒司祭の言葉を遮ったのは、甲高い、硝子の割れる音だった。そして直後に、巨大な影がラクチェ達と敵兵の間に割り込み、目を開けていられないほどの光が迸る。その光が消えた時、敵兵は全滅していた。
「大丈夫? 間に合って良かった」
 まだ光で目がぼやけていたが、その声は聞き覚えがある声だった。
「ちょっとまってね。今、回復魔法を使うから」
 更に聞こえたのは別の少女の声。そしてすぐに、柔らかい感覚に身体が包まれ、疲労しきっていた身体が急速に回復していった。
「サラ……貴女も来たの?」
 たった今回復魔法を使ったのは、サラだった。暗黒大司教マンフロイの孫娘である。
「無事だったか。アリオーン王子が不安に思われてな。俺が派遣された」
「ディーンさん……」
 ラクチェ達はそこでようやく、最初に飛び込んできた影が、ディーンの愛竜であることに気付いた。
「闇魔法にはアーサーさんの使う炎や雷の魔法は相性が悪いですしね。だから、私も」
 そう言ってディーンの影からひょこ、と顔を出したのは、薄紅色の髪の少女、リノアンである。トラキアの自治都市ターラの公主であり、また、聖王家バーハラの傍流で、解放軍では、ユリアに匹敵する強力な光魔法の使い手だ。暗黒司祭と戦うに当たっては、これ以上の援軍はない。
 また、サラもリノアンほどではないが光の魔法を使いこなすことが出来る、強力な魔術師であり、また回復魔法も得意とする。
「私もね」
「マリータ!!」
「ヴァイスリッターをほぼ撃滅できたので、我々だけ先にこちらに、とセリス皇子がな。しかし、シャナン王子はどうしたのだ? 外の軍を指揮しているわけでもあるまい?」
 ディーンの言葉に、ラクチェは微かに表情を曇らせた。
「シャナン王子は……バーハラの東で十二魔将の一人を足止めするために残られ……今日になってもまだ合流されていないんです。しかし、この作戦は一日を争うので、私達だけで……」
 今になってもなお合流しないシャナンのことは、ラクチェのみならず全員にとって心配で仕方のないことだった。だが、それを気にしてばかりもいられない。今ラクチェが語ったように、一日も早くヴェルトマーを、というよりはマンフロイを討ち取らなければならない。そうでなければユリアは正気に戻らず、そしてそのユリアを封じているスカサハも帰ってこない。
 あるいは、ラクチェは不安だったのかもしれない。生まれてからずっと、共に戦ってきたスカサハが、初めてラクチェと共にいない。これまで一度も、二人は同じ戦場になかったことはなかった。無論四六時中一緒にいたわけでもないが、戦う時は必ずスカサハが感じられた。しかし今、スカサハはいない。それがラクチェに、言い知れぬ不安をもたらしていたのかもしれない。そして更に、今はシャナンがいない。
「そうか……だが、シャナン王子のことだ。無事でいるに違いない。かの王子は、天槍を持たれたアリオーン王子とすら互角に戦ったほどの実力の持ち主。そうむざむざとやられるはずはない」
「そ、そうですね。きっと何か事情があるんですよね」
 ラクチェも別に、シャナンがやられたとは思っていない。ただ、何も分からないというのが酷く不安なだけだ。ディーンの言葉で全ての不安が消えたわけではないが、それでも大分心が軽くなったのは確かだった。
「さあ、行きましょう。この戦いを終わらせるためにっ!!」

「ほう……ここまで来るとはな……。しかしサラよ。再びわしと見えるか。お前の力では、わしには敵わぬと分かったはずではないのか?」
 マンフロイは、思った通り本来ヴェルトマー公が座すべき拝謁室にいた。
 グランベル六大公は、小国の国王に匹敵する権威と権勢を誇る。ゆえに、本来国王の住まう王城にしかない謁見の間に近いものがある。それが拝謁室と呼ばれるものだ。名称が若干異なるのは、国王に遠慮しているため、と云われているが、大抵の人は普通に謁見室と言ってしまう事の方が多い。
 拝謁室は軽く三百人は入れるほどのホールで、その奥の、一段高くなったところに豪奢な椅子がある。本来そこはヴェルトマー公の座す椅子であり、この部屋はヴェルトマー家の権威を象徴する部屋でもある。だから万事広く作られていて、採光のための窓も大きく、また、灯火もふんだんに用いられているので夜昼問わず明るいはずの場所だ。ましてこの部屋の主は炎のファラフレイムの継承者。公自身の輝きによってもまた、部屋が明るく照らされる、と称されたこともあるほどだ。
 だが今、空は暗雲が垂れ込めていて光なく、そして何よりも、その椅子に座す存在は暗黒そのものだった。
「一人では敵わなかった。でも、今は一人じゃない。私には多くの仲間がいる!!」
 サラは臆せずに祖父を――暗黒大司教を見据えた。その強い視線には、一点の迷いもない。
「なるほどのう。確かに仲間を多く連れておる様じゃ。じゃが、それでこのわしに勝てると思うとはな……くっくっく……」
「強がりはそこまでにするのね」
 ラクチェは、愛用の勇者の剣の切っ先をまっすぐにマンフロイに向けた。
「貴方がいくら強大な力を持つといっても、所詮魔術師。接近戦に持ち込めばどうということはないわ」
「ほう……ならかかってきてみてはどうだ? 何を躊躇う」
「…………」
 ラクチェは返答せず、ただ睨み返した。
 実際、ラクチェ達はマンフロイを見つけたら即座に襲い掛かるつもりだったのだ。ラクチェ自身が言ったように、マンフロイがいくら暗黒大司教であろうと、所詮魔術師。接近戦ではラクチェやマリータに敵うはずがない。アーサー、リノアン、サラ達の魔法で隙を作って一気に踏み込めば、一瞬で倒せる。そう思っていたのだ。
 だが、ラクチェはそれで本当に上手く行くかどうかが分からなくなっていた。
 確信はない。だが、予感に近い何か。強いて言うなら、これまで戦ってきた中で培われた、戦士の勘というものかもしれない。それが、このマンフロイという男が、これまでのよう相手とは、根本的に何かが違うということを告げていたのだ。
「どうした。こぬのならこちらから行くぞ……」
 マンフロイは公座から立ち上がると、悠然と前に進み出てきた。
 その様子は、圧倒的なまでの余裕すら感じさせる。
「ふん……まだ来ぬというのなら……」
 その言葉で、ラクチェははっとなった。それは、他の者も同じだったらしい。そして次の瞬間、彼らは相互に理想的な連携をとった攻撃を行っていた。
「――光よ!!」
 まずサラが、簡易詠唱でライトニングを放った。
 サラはすでに、ライトニングの魔法はほとんど詠唱無しで――やや威力は落ちるが――撃つことが出来るのだ。
「ぬっ……」
 予想通り、サラの放った力は、マンフロイに届く寸前で消滅している。
 しかしサラも、この一撃が祖父にダメージを与えられるなどとは期待していない。サラの一撃は、あくまで次の攻撃までの時間稼ぎなのだ。
「天にある光、その御力、竜となりて顕れたるを求めん。大いなる御柱、天より降りて全てを浄(きよ)め給え!!」
「大地に眠りし大いなる息吹。偉大なる火竜の吐息の根元を今ここに。灼熱の業火よ、地を穿ち、天を焼く力、我が前に示せ!!」
 続けて、リノアンの光の最強魔法オーラと、炎の最強魔法ボルガノンが同時に炸裂した。並の相手はもちろん、普通の存在ならいかなる者であろうとも無事であるはずのない攻撃。だが、今彼らが相手をしているのは、普通の存在ではなかった。
「ほうほう。やりおるわ……」
 この二つの魔法の同時攻撃すら、マンフロイには届いていなかった。平然と、まるで涼風でも浴びているかのようである。
 だが。
「もらった!!」
 ほぼ、前後左右、さらに直上。ラクチェ、マリータ、ヨハルヴァ、ディーン、フィーが同時に襲い掛かったのだ。ラクチェは正面から、ヨハルヴァとディーンがそれぞれ左右から。マリータが後背から。そしてペガサスに跨っていた――さすがに城内で飛竜は使えないのでディーンは徒歩なのだ――フィーがほぼ直上から。
 避ける場所はない。そして、ラクチェとマリータは容赦なく、流星剣と月光剣を同時に繰り出す、完全な一撃必殺の攻撃。たとえスワンチカの護りであろうとも、この攻撃の前では無力だ。
 ラクチェ達は――心のどこかであるいはまだ疑っていたのかもしれないが――マンフロイの死を確信した。
 その次の瞬間。
 どん、という部屋全体が震える衝撃と共に、ラクチェ達は部屋の柱や壁に、悲鳴を上げる暇すらなく叩き付けられた。
「ぐっ」
「あ、が、ごほっ」
 程度の差は若干あるが――後方にいた魔術師三人は斬りかかった五人よりは若干跳ね飛ばされた勢いが弱かったらしい――全員、思い切り壁や柱に体を叩きつけられた。一瞬、息が止まってしまうほどの思うほどの衝撃。ただ一人、フィーだけマーニャを巧みに操って天井にぶつかるのを回避した。しかしそれでも、最初に吹き飛ばされたその威力で、かなりのダメージを負っている。
「くっくっく……その程度でこのわしを倒そうなどというのか?」
「そんな……バカな……」
 ディーンが槍を杖代わりにしてなんとか立ち上がる。
「このマンフロイの力を甘く見おって……貴様らごときが何人かかってこようが、わしの敵ではないわ……」
 闇がマンフロイを包んでいる。
 この場にいる誰もが、それを実感した。しかもその闇は、強力な障壁となってマンフロイを護っているのだ。
「ふむ。どうやら外の戦いもほぼ終わった様じゃな」
 ラクチェははっとなって、外を見やった。いつのまにか、市街地からは戦いの喧騒が消えている。ややああって響いてくるのは、勝利の鬨の声。
「残念だったわね。もうすぐここに解放軍が押し寄せる。城内の兵ももういない。いくら大司教といえど、一人で数千の兵を相手には出来ないでしょう?」
 本当は一千なのだが、ラクチェはあえて数を誇張した。そうすれば、少しは怖じ気づくかと期待したのだが、それが無駄であることもまた、ラクチェはどこかで分かっていた。
「ふははははは。無力な兵がたとえ数万押し寄せたところで、何程のものか。それに、お前達は勝ったと思っておるようだが……」
 城下から聞こえてくる声は徐々に大きくなり、市民達も混じり始めたのが分かる。それは、解放された喜びに満ちた声。恐らく、城下の帝国軍は完全に駆逐したのだろう。
「おうおう。無駄に喜びおって。すぐ絶望の悲鳴に変わるとも知らず……」
 マンフロイはそう言うと、袖下から小さな容器を取り出した。そしてその蓋を開け、その中身の液体を自分の周囲にふりまいている。
「何をする気!?」
 サラが驚いたように叫んだ。そのサラの様子で、少なくともあれがただの液体でないことは確かだ。
「なに。別にヴェルトマーを吹き飛ばそうというわけではない。ただ、愚か者にそれに相応しい価値を与えてやろうというだけじゃ……」
 マンフロイの言葉に続くように、そのふりまかれた液体が、黒い光を放ち始めた。もし、マンフロイを上から見る者がいたら、彼の周りの魔法陣が出来ていることを見ることが出来ただろう。黒い、人血によって描かれた邪悪な魔法陣を。
「くくくく……今こそ見せてやろう。わしが、ロプト神に授かった偉大なる力を!!」
 音もなく、黒い光が溢れ出す。そして同時に、外の歓声は全て悲鳴に変わっていた。



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