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永き誓い・第五十八話




 どのくらいその場所にいたのかは分からなかった。ただ、少なくとも1回は、昼と夜が巡ったと思う。
 体中が疲労による痛みを訴え、何よりも休息を欲していたが、それでもなお、少女は動かなかった。その、永久に止まったままに思われた時が動いたのは、朝日――たぶん二度目だ――が昇り始めた時だ。かすかに、腕の中の人が動いたのだ。
「シャナン様……」
 その呼びかけに、それまでずっと少女――パティの腕の中でうずくまっていた男性は小さく頷き、そして立ち上がった。
 顔は涙の跡で酷く汚れていたが、それでも、その目には強い光が宿っている。以前の、強い輝きが、彼の双眸に戻っていた。
「ありがとうパティ。心配をかけた」
「いいえ」
 パティは小さく首を横に振る。
「こんな私でも、シャナン様を支えることが出来るんだって。そう思えたこと、実は凄く嬉しいんです」
 その笑みは、疲労の色を隠しきれてはいなかったが、金の髪が朝の光を受けて輝き、今のシャナンには驚くほど魅力的に見えた。かすかに胸が熱くなるのを自覚したシャナンは、それを悟られない様に太陽の方向を向く。
 もう季節は夏に移りつつあった。本来かなり寒冷な地方であるバーハラも、この時期になると昼間は汗ばむような暑熱を感じるようになる。ただそれでも、朝のまだ太陽が昇り始めたばかりであるこの時間は、どこか空気がひんやりとしていて、過ごしやすい。
 風を久しぶりに感じた気がして、それがとても気持ちよく思えた。
「行くんですか、シャナン様」
「ああ。随分遅れてしまったからな」
 そして、指を口に含んで、一度ひゅ、と鳴らす。
 シャナンが乗ってきた馬はよく訓練された馬で、すぐ近くにちゃんと待機していたらしく、すぐに現れた。ヴェルトマーまでは軍行なら三日程度の距離だが、単騎駆けならば一昼夜あれば十分だ。
「パティは……」
「分かってます」
 パティはそういうと勢い良く立ち上がろうとし……そしてがく、と足がくだけてしまった。危うく倒れそうなところで、シャナンに支えられる。
「わわ、あ、ありがとうございます。おっかしいな……」
「無理をするな。しばらく休んでいけばいい。この辺りには敵もいなさそうだし、お前なら敵に見つからない様に休むことも出来るだろう。回復してから、セリス達と合流しろ。大丈夫。私もすぐ合流する。やることをすませたらな」
「はい。……シャナン様もご無事で」
 シャナンは小さく頷くと、鮮やかに舞い上がり馬上の人となる。
 馬の方は十分に休んだからか、かなり元気そうだ。
 パティはそのすぐ横に立っていたのだが、突然シャナンが頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「ふにゃあ!?」
「そんな顔をするな。すぐ戻ってくる」
「私、そんな顔してました?」
 するとシャナンは、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ああ。かなり変な顔していたぞ」
 パティは思わず、頬を膨らませた。
「むー、そんな変な顔してませんっ」
「じゃあいつものように笑っていろ。お前に沈んだ顔は似合わんぞ」
「……でもそれじゃあ、私いつも能天気なバカみたいじゃないですか〜」
「違ったのか?」
「違いますっ」
 シャナンはそのパティを見て、もう一度、今度は声を上げて笑い、それから馬首を巡らせた。
「安心しろ。もうこの戦いは終わる。お前は良くやった。本当に感謝している。今度は……私の番だ」
 そう言ってシャナンはパティの頭を、今度は優しくなでた。
「はい、がんばってきて下さい、シャナン様」
 シャナンはそれに力強く頷くと、馬腹を蹴って馬を走らせた。
 ヴェルトマー攻略戦開始の、一日前の朝のことである。

「な、なに? 何なの?!」
 黒い光に包まれるマンフロイ。そして外から聞こえてくる悲鳴。
 何が起きているのか、ラクチェらには分からなかった。ただ、一つだけ確かなことがある。
 このマンフロイが、とてつもなく危険な相手だということ。そして、これまで以上に強力な力を発揮しようとしていることである。
「ふはははは。素晴らしい。力が溢れてくる!!」
「一体、何をしたの!?」
 サラの詰問に、マンフロイはむしろ満足そうに高笑いをした。
「知りたいか。いいだろう。教えてやろう。このヴェルトマーには、予め、ある魔呪がかけてあったのだ。人の生命力を吸い、術者の力と変える術がな」
「まさか!!」
「察しが良いな。さすが我が孫。そう。このヴェルトマーに住まう者の生命力を、、今我が力として吸収しておるのじゃ。もっとも、ある程度以上の力を持つ者から力を吸い出すことは出来ぬが、並の兵士などでは到底抗いきれぬわ!!」
 つまり、外の悲鳴は生命力を吸い取られている兵士や街の人々の叫びなのだ。
「やめろぉ!!」
 アーサーは絶叫と共に魔力を爆発的に上昇させた。
 ヴェルトマーの民は、アーサーにとっては他人ではない。本来、公子として彼らに対して責任を持つべき立場であるのがアーサーだ。その民の命が奪われていくのを、見過ごすことができるはずもない。
 アーサーは炎の魔法をマンフロイに叩き付けた。それも、一撃ではない。二撃、三撃と連続的に、彼自身の魔力の限界を超えて叩き付けた。しかしそれらはすべて、マンフロイを包む黒い光すら突破することが出来ない。
「ほうほう……無駄なことを。じゃが、大した力じゃ。暗黒神の贄には、そのような強い力を持つ者こそ相応しい……」
 その言葉に続いて、マンフロイの腕が踊る。
 マンフロイを包む闇が踊り、まるで触手のように伸びてきてアーサーに襲い掛かった。
「うわあっ!!」
「アーサーっ!!」
 フィーの機転がなければ、アーサーは少なくとも闇の触手の攻撃を回避することは出来なかっただろう。フィーはマーニャで突っ込んで、槍の穂先でアーサーの服の襟を貫き、そのまま無理矢理引き摺ったのだ。非常に乱暴なやり方ではあったが、仮に突き飛ばしても今の攻撃は避けきれなかったであろうから、これは極めて適切な方法だった。
「一度に攻撃をかけるわよ!!」
 ラクチェのその声で、解放軍の戦士達は弾かれたように個々の役割を認識し、行動を起こした。
 リノアン、サラ、アーサーが今度は目くらましのための魔法をマンフロイに叩き付け――効果がないのは分かりきっていた――そこにラクチェ、ヨハルヴァ、マリータ、ディーン、フィーが突っ込む。先ほどと同じ攻撃ではあるが、先ほどとは違い、ラクチェとヨハルヴァが先に、ディーン、マリータ、フィーが少し遅れる、時間差をつけた攻撃だった。仮に、先ほどと同じ衝撃波でやられたとしても、あの衝撃波は多分連続では放てない。だから、その隙を突けば所詮マンフロイ自身は年老いた魔術師。攻撃が命中しさえすれば勝てる、と踏んだのだ。これだけの攻撃を、何の示し合わせも無しに行うのは、彼らが非凡であることを示すものでもあるといえよう。
 そして、この攻撃の前ではいくらマンフロイでも回避も防御も間に合わない、という確信が彼らにあった。
 しかし、事態は彼らの予想を完全に裏切った。
 彼らの刃は、マンフロイに届くことなく、その手前で何かに阻まれ、そしてそのまま見えない手に捕まれたようにピクリとも動かなくなってしまったのである。
「ど、どういうこと!?」
「一体何が……」
 正体不明の事態に対しては、人間誰もが一瞬パニックになる。それは、彼らでも同じだった。ただ彼らが普通と違うのは、取り乱し、混乱に任せた行動をとるようなことがないことだ。即座に冷静さを取り戻し、対応策を考え様とする。しかしこの場合、冷静になったところで何の解決策も出てはこなかった。
「ふはははは。無駄なことだ。我を上回る存在は、二つしかない。すなわち、我が神ロプト神と、光のナーガのみよ。我が力は既に、ロプト神に匹敵しうるほどにまで高められた力なのだ!!」
 魔術に詳しいサラやアーサーらは、その言葉でマンフロイの力の正体を見破った。
 つまりマンフロイは、あの闇の魔道書と同等の力を揮うことを可能にする力を、ユリウスから譲り受けたに違いない。ユリウス――暗黒神ロプトウスのもつ暗黒の結界。その力の前では、ナーガ神の力以外はいかなるものとてその力を失う、と云われている。しかし、その力はロプトウスの血を引く継承者の力あってのことのはず。それを、マンフロイは莫大な数の生贄によって補っているのだろう。
 つまりこれはロプトウス――魔皇子ユリウスと戦うのに等しいとも言える。
「暗黒の結界……」
「ほう。理解したか。自分達が相手をしている力の正体を」
 マンフロイは、心底楽しそうに――そして邪悪に――笑った。
「サラ、どういうこと!?」
「マンフロイは、この人はあのユリウス皇子と同じ、暗黒の結界を形成する力を与えられているの!!」
「そ……」
 そんな馬鹿な、という言葉をラクチェは呑み込んだ。実際、この力はそれ以外では説明できないのだ。ただ同時に、それは自分達では勝ち目がまずないことを意味していた。暗黒の結界の力は、かつてミレトス攻防戦で、突如現れたユリウスと戦った者から聞いている。いかなる攻撃もまったく無駄であり、そしてその力は、大地を砕き、空を裂いた、とすら。
「今ごろ気付いても遅い。だが、貴様らならロプト神復活を祝う贄としては相応しいと言えよう。光栄に思うがいい。偉大なる神の、その血肉となることを認めてやろうというのだからな……」
「ふざけないで!!」
 マリータが無理矢理、重くなった剣と体を叱咤してマンフロイへと向き直る。いくら暗黒の結界があろうと、操るのは所詮人間。剣が突き刺されば、無事ですむはずはない。そう考えて、マリータは剣を水平に構えて全体重をかけ、真正面から突っ込んだ。
「マリータ、駄目!!」
 サラが叫ぶのと、マンフロイを囲む闇の一部が顎の形となってマリータに襲い掛かるのは、ほぼ同時だった。
 回避を考えないで突っ込んでいたマリータが――しかも暗黒の結界で力を削ぎ落とされている状態で――それを避けられるはずもなく、真正面からその顎に喰いつかれる。
「きゃああああああ!!」
 鮮血が飛び散り、マリータの体が拝謁室の宙を舞った。マリータの身体は柱に受け身も取れずに叩き付けられ、マリータは一度だけ呻くと、それきり動かなくなる。
「マリータ!!」
「むう。いかんな……殺してしまったか……」
「よくも!!」
 ラクチェが激昂して剣を振り上げ、飛び込む。
「ラクチェっ!!」
 ヨハルヴァは、それに反射的に続いた。一人より二人、と思ったのだ。しかし、マンフロイにはまったく通じなかった。
 今度は二本伸びてきた闇の触手が、二人それぞれに絡み付く。そしてそのまま、二人を締め上げ始めた。
「う、ぐっ、か、がぁあああああ!!!」
「げふ、あ、ぎ、あ、あああああ!!」
 バキバキ、という嫌な音が響く。宙に釣り上げられた二人は、闇に押しつぶされて苦痛の呻き声を上げた。
「今度は死なぬ程度に加減しなければのう。……どうした。もう来ぬのか?」
 勝てない。残ったアーサー達は、それを悟らざるを得なかった。
 解放軍では、継承者を除けば最強を誇るラクチェ、マリータですらまったく歯が立たない。魔法は、マンフロイがこの術を発動させる前から通じなかった。今の状態ではなおさらだろう。
 つまり、今の自分たちの戦力では、この大司教にはなす術がない、ということだ。
「ほう。いい顔になってきおったの。そうじゃ、その顔じゃ。その絶望に打ちひしがれたその顔。我ら暗黒神の前で、無力さを噛み締め己の限界と愚かさを悟ったその顔は、格別じゃ。ふははははははっ」
 すでにラクチェとヨハルヴァは、叫ぶ気力すらなくしぐったりとして、闇の触手によって宙に吊り下げられている。それに気付いたマンフロイは、二人をまるで、ゴミでも捨てるように放り投げた。力を失った二人は、嫌な音を立てて床に転がった。サラとリノアンが慌てて駆け寄ると、まだ微かに息がある。だが、身体のダメージは酷く、回復魔法でもすぐに癒すことは不可能だった。おそらく、骨が何本かは折れている。
「さて……残るはお前達だけじゃな……外の者など、物の数ではないからのう。なに。安心するがよい。苦痛は一瞬のことじゃ。その後は、暗黒神の血肉として、お主らの存在は永遠となるのじゃからの……」
「誰がそんな運命を甘受するかよ!!」
 アーサーは無駄と分かっていても、雷の魔法を、自分の最大の力で叩き付けた。しかしそれは、むなしくマンフロイの手前で霧散してしまう。
「……リノアン。別れは言わんぞ」
「はい、ディーン。」
 勝ち目はまったくない。だが、逃げられるとも思えない。
 リノアンとディーンは、すでに覚悟を決めたらしい。だがその一方で、ディーンはアーサーに目配せし、それからフィーをみやった。それだけで、アーサーは彼が何を言いたいかを悟り、一瞬の躊躇の後頷き、それから用心深く移動し、フィーのすぐそばに来る。
「フィー」
「なに、アーサー」
 フィーもまた、覚悟を決めていた。だが、アーサーの言葉はその覚悟を裏切るものだった。
「次の攻撃で、壁に穴を開ける。そこからフィーは逃げてくれ」
「なっ……嫌よ、私。一人だけ助かるなんて、そんなこと……」
「違うの、フィー」
「リノアン?」
「もう私達は逃げ切れない。でも、貴方のペガサスなら、運が良ければ逃げ切れる。だから、このマンフロイのことを、セリス様やリーフ様に伝えて欲しいの。でなければ、私達の二の舞になってしまう」
「フィーも戦いたいと思ってるのは分かってる。けど、ここで全員が死んだら、俺達は無駄死にだ。だから、頼む」
 アーサーの言葉に、ディーンとリノアンも無言で頷いた。
「……分かった。でも、約束して。どんなことになっても、絶対自分から死んだりしないって」
 マンフロイは、自分達を生贄として欲している。つまり、即座に殺すつもりはないのだろう。
「ああ、意地でも生き延びてやるさ。まだフィーと一緒に、生きたいからな」
「私もよ、アーサー。だから絶対、生きててね」
 本当なら、別れを惜しむ抱擁を交わしたいところだが、さすがにその余裕をくれるような相手でもないだろう。代わりに、アーサーは片目を瞑って、にっこりと笑って見せた。
「くくく。祈りの言葉でも唱えておったのか?」
 マンフロイは悠然と近付いてくる。まるで、警戒する様子もない。
「余裕かましてくれるぜ……じゃ、いくぞ!!」
 アーサーの言葉と同時に、リノアンがまず魔法を放った。無論それは、マンフロイに届く前に霧散してしまう。マンフロイは避けようともしない。その横で、アーサーが続けて魔法を使おうとするのを、平然と見ている。
「無駄だと言うことがまだ分からぬようだな……」
「どうかな!!」
 続けてアーサーが放った魔法はボルガノン。だが、その爆炎の口は、マンフロイの下にではなく、まったく見当違いの、壁のすぐ側に出現した。凄まじい爆発が巻き起こり、壁に大穴が開く。
「なに!?」
「フィー、行けぇ!!」
 その言葉を受けて、フィーがペガサスを操り、破壊された穴へとまっしぐらに向かう。
「おのれ、行かすか!!」
 闇の触手が一本踊りだし、フィーを追尾した。だが、その間にディーンが立ち塞がる。
「させるか!!」
 ディーンは槍の柄で闇を受け止めたが、その衝撃で吹き飛ばされた。だが、闇もまた方向を転じられ、フィーを捉えることは出来ず、その間にフィーは外に飛び出した。

 外に出たフィーの目に映ったのは、目を覆いたくなるような凄惨な光景だった。
 城の近くに、生きている人が見当たらない。
 城周辺には、市街戦に勝利しこれから城に攻め入ろうという兵がたくさんいたはずだが、彼らはすでに『人だったモノ』に変じてしまっていた。遠目にも、生きていないと分かる。肌が黒く変色し、ひび割れ、やせ細ったそれは、まるで人を干物にしたかのようだ。生命力が吸われたということだろうか。その姿に、フィーは一瞬吐き気をもよおしたが、気を取り直すとマーニャの手綱を握って西を目指す。
 もうアーサーには会えない。フィーは漠然と、アーサー達が死を覚悟していることを悟っていた。これは戦争だ。今この瞬間だって、どこかで戦っている兵士に死が訪れている。それがただ、アーサー達にも回ってきた。それだけのことなのに。それでもどこかで、自分達は死なない、などと思っていたのかもしれない。そんなはずはないのに。
 しかし、騎士として、解放軍の一人の戦士として今やるべきことは、一刻も早く本隊と合流し、マンフロイの、あのロプトウスの力を半ば手にしている恐るべき強敵の情報を伝えることである。
 本隊になら、神器を持つ戦士が幾人もいる。自分達では歯が立たなくても、彼らならマンフロイを倒せるだろう。
 しかし、彼らがヴェルトマーまで来るのには、どう急いでも五日はかかる。その間、アーサー達が生き延びている可能性はゼロだろう。
 胸が痛む。出来るなら、あの場に留まって一緒に戦いたい。しかしそれは出来ない。マンフロイを倒さなければ、この戦いは勝てない。そして、そのための情報は何としても必要なのだ。
「生きてて……みんな……お願い……」
 祈るような気持ちで、フィーはマーニャを限界速度以上で西へと向かわせる。
 しかし、最後にもう一度、と思ってヴェルトマーの方を振り返った時。
 フィーはそこに、最後の奇跡を見つけていた。

「いよいよ、最期かなあ……」
 アーサーはボロボロになったマントを脱ぎ捨て、剣を支えになんとか立ち上がった。
 本来であれば、このマントは耐魔の呪を織り込んだものであり、魔法使い相手に戦う場合には非常に有効なものなのだが、既にその力は完全に尽き、今はただ重いだけだったのだ。
 サラ、リノアン、ディーンもまだ立っている。驚いたのは、ラクチェが立ち上がったことだ。これ以上悪化しない様に、とサラが回復魔法をかけたらしいのだが、ラクチェはそれだけで立ち上がったらしい。しかし、その動きは本来のものとは程遠い。恐らく、あちこちの骨にヒビが入るか、あるいは一部は折れていて、途方もない激痛に苛まれているはずなのだが、ラクチェの表情を見ていると、本当に痛みを感じているのかどうかさえ疑わしくなる。
 そのラクチェは、実際には一瞬でも気を抜くと気を失いそうなほどの激痛に耐えていた。勝ち目があると思って立ち上がったわけでは、もちろんない。ただ、攻撃を少しでも分散させることができれば、誰かが生き残る確率が少しは上がるかもしれないとだけ思ったのだ。
「なんとか、援軍が来るまで粘れば……」
 ラクチェの言葉に、マンフロイは突然高笑いをした。
「ふははははは。出ていった天馬騎士が仲間を呼んでくるのまで粘るつもりか? だが、援軍がくるまで、早くても五日六日というところであろう。違うか? 貴様らは大幅に先行し、わしを倒す魂胆だったのだろうが……」
 ラクチェやアーサーの顔が驚きと悔しさに支配された。
「お主らの軍の動向を把握してないわしだと思うたか。愚か者め。所詮真実の神に逆らう愚か者はこの程度であろうな。何、安心しろ。我が力で殺されれば、それはそのまま、偉大なる暗黒神の力となるのだからな……」
 マンフロイの身体を包み込む暗黒は、フィーが出ていった時より更に濃く、さらに巨大な影となっていた。すでに拝謁室の半ばを埋め尽くしている。
「良く粘ったとは誉めてやろう。だが、それもここまで。最期は、わしの最大の力をもって、貴様らを葬ってくれよう。光栄に思うがいい。大司教自らが、貴様らにトドメを刺してやろうというのだからな」
 二重の意味で大きなお世話だが、彼らに拒否権はどう考えてもない。
 マンフロイを包む暗黒の一部が肥大化し、それが竜の頭を形作る。そしてそのまま、蛇のように伸びたその闇が、ゆっくりと鎌首をもたげ始めた。
(終わりかなあ……これは)
 死にたいなどとは欠片も思っていないが、その希望をマンフロイが聞いてくれるとは思えない。いくらなんでも、この状況で助かると思えるほど、アーサーは楽観的ではなかったし、それはリノアンやサラ、ディーンらも同じだったらしい。
 ふとアーサーは、リノアンとディーンが寄り添っているのを見て、少し羨ましく思った。だが、逆に考えれば、二人ともここで死んでしまうというのは、やはり悲惨というべきなのだろうか。一緒に死にたい、なんていうのは、追い詰められた心理状態による一時的な願望か、それとも真実それを望んでいるのか、アーサーはこの状況でなぜか考えてしまった。
(まあ、やっぱりフィーだけでも生き延びてくれた方が嬉しいよな……でも、最期にもう一回フィーの声、聞きたかったかな……)
「死ぬがいい!! 愚かな反逆者ども!!」
 闇の竜が、マンフロイの声に応えて、一気に迫ってきた。壁を、天井を、床を抉りながら迫るそれは、どこか奇妙に現実感がない。まるで夢の中の光景のように思えた。
 しかしそこで、アーサーは自分が望んだ声が自分を呼ぶのを、確かに聞いた。
「アーサーっ!!」
 しかし、彼女が今ここにいるはずはない。とすれば幻聴か。
 最期に幻聴でも彼女の声が聞けたなら、それも悪くはないか。そんなことを考えた瞬間、凄まじい爆音が、アーサー達の耳を支配した。
 死んだな。
 この場にいた誰もがそう思った。これで痛苦から解放されるなら、それはそれでいいじゃないか。そう思いかけたのだが、傷の痛みはいつまで経っても去る様子はない。今もまだ、全身が激痛に襲われている。
「アーサー、しっかりして!!」
 今度は幻聴ではない。はっきりと、フィーの声が聞こえ、アーサーは驚いて意識を覚醒させた。目の前にあるのは、半泣きのフィーの顔。一瞬天国かとも思ったが、その背景はボロボロになったヴェルトマー城の拝謁室だ。
「え……?」
「すまなかった、みんな。遅くなって申し訳ない」
 その声に驚いたアーサーは上体を起こそうとして激痛に阻まれ、かろうじて視線だけその声の方に向けた。サラ、リノアン、ディーン、ラクチェらも同じようにその声の方向を見る。
「……シャナン様!!」
 ラクチェが叫ぶ。しかし、アーサーは、一瞬それがシャナンだと分からなかった。
 姿は確かにシャナン王子だ。それは間違いない。だが、その全身を、金色の光が包み込んでいたのだ。それがあまりにも現実感を伴わなくて、一瞬誰か分からなかった。
「ほう……オードの後継者か。あのノインと戦って無事とは、さすがだな……」
「やはりあれは、お前の仕業だったのだな……」
「いかにも。あのイザークの娘……フェイアと言ったか。あの娘の肉体なら、お前は倒すことは出来ぬ、と踏んだが、甘かったというわけか。ふむ」
「え……」
 ラクチェが驚愕の表情のまま固まっていた。しかし、アーサー達には何のことかさっぱり分からない。
「そうだな……だが、感謝もしている。彼女の最期に、立ち会わせてくれたことにな」
 そのシャナンの声は、怒りも憎しみもなく、ただ穏やかに、そして本心を述べているように聞こえた。
「シャナン……様……?」
 シャナンは一瞬ラクチェの方を見て微笑むと、バルムンクを静かに水平に振った。その剣先から金色の光が洩れ、それがラクチェ達に降り注ぐ。
「ぬ……何を……なに!?」
 この時初めて、マンフロイが狼狽した。だが、驚いていたのはマンフロイだけではない。アーサーやラクチェにしても同じだった。
 シャナンの放った光に触れた途端、傷口が急速にふさがり、瞬く間に完全に治癒してしまったのである。光が消えた時には、もうすっかり痛みはなくなっていた。
「こ、これは……」
「まさか、太陽剣……?」
「すごい……これならもう一度、戦えるっ」
 ラクチェやアーサーは立ち上がると、シャナンの近くに立ち、構え直した。
 だがシャナンは、手で彼らを制した。
「私一人で良い。それよりお前達は、城下の兵を助けろ。まだ生きている者もいるようだ」
「危険です!! いくらシャナン様でも、今のマンフロイは……」
 ラクチェが慌てて止めようとして、そして言葉に詰まった。一切の反論を許さない、その強い意志が、そこにあった。
「私一人でいい。それより、城下の兵を」
「大した自信だな……オードの後継者よ。だが、すぐにその自信が過信であったと後悔することになる。もっとも、何人でかかってこようが同じじゃがな」
「さあラクチェ、マリータ。行け。マンフロイは任せておけ」
 シャナンはマンフロイの言葉は一切気にせず、ラクチェたちにこの場を去るように促した。
「は、はいっ」
 これまでと何かが違う。ラクチェはそれを感じていた。これまでも、シャナンは幾度となくバルムンクを揮って戦ってきた。その力は、ラクチェなどとは比べられるものではない。だが、比較とかそういうレベルを、今のシャナンは完全に超えている。そう感じさせる何かが、今のシャナンにはあった。
 一方アーサーもまた、シャナンがこれまでと違う、というよりはその力の全てを解き放とうとしていることに気が付いた。
 アーサーは、これまで数回、継承者が全力をもって神器を使う場面に出くわしている。ブルームのトールハンマー、アルヴィスのファラフレイム。そして、セリスのティルフィング。
 ほとんどの者は気付いてすらいないだろうが、継承者達は常に力を全開にして戦っているわけではない。むしろ、その力を最大にすることは、ごく稀なことだ。
 そして、その力が激突する戦いは、言語を絶するものとなる。たとえば、シアルフィで繰り広げられたセリスとアルヴィスの戦いのように。
 そして今、シャナンもその力を完全に解き放とうとしている。
 継承者がその力を最大に発揮しようとする時に微かに立ち上る金色の光。それが、継承者の力の発現を表すものだ、とアーサーは漠然と知っていた。今まさに、シャナンはその金色の光に包まれている。
 ただ、これほど強く、そして優しく輝く光は、アーサーは見たことがない。あのアルヴィスの光も相当な強さであったが、それをも超えている。
「わかったよ、シャナン王子。貴方に任せる。ついでにあとで、遅刻した原因も教えてくれ」
 そしてアーサー達は拝謁室を出ていった。本来、魔術師相手に背中を向けて走ることなど危なくて絶対に出来ないのだが、なぜかこの時はそれでも安全だ、と確信できていた。あるいはもう、この時にシャナンの勝利が分かっていたのかもしれない。

「ふん。いかに継承者とはいえ、オード一人でわしに立ち向かうというのか。愚かな……」
 マンフロイの『闇』が更に濃さを増す。しかしシャナンは、それを気にした様子はない。
「私はこの時を、二十年近くも待ち続けた。だが、奇妙なものだな。いざこうなると、お前に対する憎しみはあるのだが、わずかに哀れみを感じる」
「なんだと……」
 マンフロイの顔が、不機嫌そうに歪む。
「百年もの間、あのイードに封じられていた、その辛さはわずかなりとも分かるつもりだ。我らもまた、極寒のティルナノグで十数年を過ごすこととなったのだからな。だが、哀れだと思うのは、お前達はそこで何が過ちであったのかを理解できなかった、ということだ。自分達がなぜ敗れたか。なぜ蔑まれたのか、をな」
「下らぬことを。真なる神に逆らう愚か者の戯言など聞くつもりはないわっ!!」
 マンフロイは、舌戦はこれまで、といわんばかりに先ほどアーサーに向けて放った一撃を放った。しかしそれを、シャナンはかすかに体をずらすだけで避ける。
「……おのれっ」
 マンフロイは苛立ったように今度は連続で闇を撃つ。だが、シャナンはそれを紙一重で避ける。通り過ぎた力が壁に激突し、凄まじい爆風が二人を煽った。
「ぬ……」
「無駄だ。マンフロイ。私にお前の攻撃は当たらない」
「ほざけぇ!!」
 マンフロイは再び、闇の竜による攻撃を繰り出した。今度は、一度に十近い数を叩き付けようとする。
「無駄だと言った」
 凄まじい爆発と共に、拝謁室の床や天井が爆ぜる。しかし、シャナンはやはり全てを完全に避けるだけではなく、何発かは剣の切っ先でかすかに方向を変えているようにすら見える。
「馬鹿な……」
 マンフロイは初めて、焦燥に駆られていた。
 オードの実力、というのは良く分かっているつもりだった。凄まじい剣技を誇る、最強の剣士。しかし所詮は戦士であり、魔法には無力だ。そう思っていた。加えて、オードの力は、魔法に対する力を増大させるようなものはなかったはずだ。
「しかし、いかなる過去があれ、お前たちのしてきたことを、私は許すつもりはない……たとえ、誰が許そうとも」
 シャナンはゆっくりとバルムンクを構え、その切っ先をマンフロイに向けた。
 この時をどれほど待ち望んだことか。
 ディアドラが攫われた時、そして、バーハラの悲劇のことを聞いた時。あの時の絶望を、悔しさを、シャナンは思い出さずにはいられない。
 そして、フェイア。彼女を、あのように利用したこの男のことを、シャナンは許すことなど出来はしない。
「お前は、お前だけは……」
「た、たかがオードの力で、このわしの暗黒の結界破れると思うなっ!!」
 そう叫ぶ時点で、戦いに勝てないのでは、という恐怖を隠そうとしているのと同じなのだが、今のマンフロイはそれに気付く余裕を失っていたらしい。
 あるいは、目の前のオードの継承者が、ともすればナーガすら上回るほどの力を内包していることを、本能的に察していたのかもしれない。
 しかしそれでもなお、マンフロイは一呼吸おくと、再び元の余裕と、そして冷静さを取り戻していた。
 確かにオードの力は強大なようだが、それは自分とて同じ。そして何より、自分の力は尽きることがないのだ。
「かくなる上は、我が力の全てをもって、お前を葬ってくれよう。見るがいい。この、極限たる暗黒の力を!!」
 闇が更に濃さを増し、そしてマンフロイを包み込む。
「お前だけは、この私が殺す!!」
 シャナンの全身が光に包まれていく。
 そして、光と闇が、全てを呑み込んでいた。



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