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永き誓い・第六十話




 聖戦が終わった、というのをどの時点をもって言うかは、後世の歴史家の間で意見の分かれるところであるが、暗黒神ロプトウスと化した魔皇子ユリウスをセリス、ユリアの二人が倒した時、とするのが一般的だ。
 そしてサーガなどでは、その後のことはあまり語られてはいない。
 確かに、物語であれば『悪の大王を倒し、世界は平和になりました』という幕引きはいいだろう。だが、生憎とセリス達はそれで終わり、というわけにはいかないのだ。やり直しのきかない、かつそうそう幕を下ろすことの許されない舞台に立つ以上、後片付けを黒子に任せるわけにはいかず、全て自分達で行わなければならないのだ。
 普通ならば、悲願であったグランベル帝国の打倒、そして暗黒神の撃破という偉業を成した後であるのだから、急いで国の建て直しを行わなければならないとしても、まずは祝勝の祭りを催して良いものだ。
 しかし、ユリウスを倒してから一ヶ月。セリス達は、まず最優先でバーハラの復興を行っていた。
 バーハラは、最終決戦を前に、貴族達は逃げ出し、民衆達もそのほとんどが殺されるかまたは街を脱出していて、最後には完全に無人だったのである。
 大陸最大の都として広大な街区を持つバーハラも、人がいなければ出来立ての廃虚だ。祝勝会どころではない。
 まず、セリス達は戦争の終結とグランベル帝国の滅亡、そしてグランベル王国の復活を宣言することにした。
 これには、少なからず異論も出た。
 まず、昔と同じ統治体制を復活させるかどうか、ということである。
 一部の――帝国の廷臣でもあった者達だが――者からは、この戦いはグランベルの正当なる後継者、セリス皇子あっての戦いであるため、グランベル帝国の枠組みは残したまま、セリスが新たに帝位に就いてはどうか、という意見が出たのである。しかし、セリスはこれを一蹴した。
 この戦いは、確かに自分が盟主であったが、一人で戦ったわけでもなければ、自分がいたからこそ勝てた、というものでもない。大陸に住まう多くの人々の、そして各地の指導者達の助力あってこその勝利であり、その彼らの地を再び自分が『奪う』ことは出来ない、と言い切ったのだ。
 そして、セリスは他の仲間達と相談した結果、障害は多く予想されはするが、アルヴィス皇帝が台頭する前の枠組みが、もっとも無理なく統治を行うことが出来ると判断したのである。無論、かつて以上に各国との間の関係を親密なものとする、というのは大前提だ。
 そしてセリス自身は、グランベル王国のバーハラ王家の後継者として、グランベル王国の王位に就くことを宣言した。
 戴冠式は本来収穫祭が行われる日に合わせた。およそ一月後である。
 しかしそれまでが大変だった。
 まずはバーハラに人を呼び戻さなければならない。バーハラに限らず、他の街でも家を捨てて逃亡するケースは多々見られたが、バーハラは先述の通りそれが特に酷かった。大陸最大の都市がほぼ無人になるなど、誰が想像できるだろう。
 セリス達は、まず帝国が滅んだこと、そして解放軍の盟主セリスがグランベル『王国』の国王となること、かつての国家体制が復活することなどを各地に触れ回った。また、バーハラを脱出した民衆に一日も早くバーハラに戻り、復興を手伝ってくれるようにも呼びかけた。
 もちろん、忙しいのはセリスだけではない。オイフェやシャナンらも、まるで働きアリの様に働いていた。
「ふぅ。平和になったのは喜ばしいことではあるし、戦いがないのは良いことではあるが、それでも慣れない作業は本当に疲れるな」
「何を言いますやら。シャナン王子は国に戻ってから、国王になられるのでしょう。その、いい予行練習だと思いなさい」
「……セリスを見ると、国王なんてなるものじゃない、とも思えてしまうよ」
 オイフェの言葉に、シャナンは半ば以上本気でげんなりとして答えた。
 セリスは、本当に倒れるのではないか、と思うほどに働いていた。
 ロプトウスとの最終決戦で重傷を負ったセリスではあるが、コープルのもつバルキリーの杖の力で、数日でほぼ完全に快癒した。
 そしてすぐ、事後処理に取り掛かったわけだが、雑多な事務処理などはオイフェや他の者達ができるし、少しずつかつての帝国の役人達も戻ってきている。帝国の役人、といってもそのほとんどは暗黒教団の跳梁を、むしろ憎々しく感じていた者がほとんどであり、再び職務に精励してもらうことには、なんら問題はない。
 問題は、その暗黒教団に取り入って自らの地位の安泰を図っていた旧帝国貴族――溯ればグランベル王国の貴族でもある――である。
 彼らはセリスに面会を求め、口を揃えて一様に、自分達はやむを得ず帝国に従っていたこと、そしてグランベルの統治が本来あるべき姿を取り戻した以上、新たな王となるセリスに忠誠を誓うと約束してくる。そこまでならまだ良いが、その一方で、かつての自分達の資産の保証を求めぬ者はほとんどいなかった。その態度の軽薄さは、セリスですら目に余った。彼らのほとんどは、むしろ積極的に暗黒教団に協力してきていた者ばかりなのである。
 ごく稀に自分の私財をすべて復興にお使い下さい、という者もいたが、これは本当に例外である。
 だが同時に、彼らを無下に出来ないのが、セリス達の苦しいところだった。
 グランベルは、長い帝国の支配とこの一年の戦争で、大きく疲弊している。少なくとも、来年の収穫期まで乗り切るだけの蓄えは、民衆にはない。だが、それだけの蓄えが彼ら貴族にはある。いっそ彼らをことごとく家ごと取り潰し、財産を抑えてしまえ、と言ったのは、やはり貴族社会に縁のない――これからはそうはいかないだろうが――アレスだったが、さすがにそれは出来るものではなかった。いまでこそ、従順にセリスに従う素振りを見せているが、それはあくまで、自分達に損がない、と踏んでいるからである。もし、彼らがセリスにつくことを損と考え、反乱でも起こそうものなら、その資力は決して侮れない。だから、セリス自らが彼らと対談し、貴族の中でも本当に『使える人材』を探す一方、彼ら貴族に新体制についた方が得だ、と思わせなければならないのだ。そのためにも、彼らの応対はセリスがせざるを得なかったのである。
「まあイザークはこれほど複雑なことにはならないと思うがな。グランベルは広すぎる」
 それは否定しませんが、とオイフェが言いかけた時、元気のいい声と共に、部屋の扉が開け放たれた。
「お疲れ様〜。そろそろお昼ですよー」
 声はもちろんパティのものだった。エプロンを着けているのは、多分厨房を手伝っていたからだろう。
 パティもセリスの戴冠式のあと、ヴェルダンの王女としてファバルと共にヴェルダンに向かうことになっている。これは、シャナンが勧めたことで、パティもあっさり了承した。
 ただ、ヴェルダンは元々国というほど確固たる存在があったとは言い難く、また、シグルド達の戦いによって国が滅ぼされていたこともあり、果たして『ヴェルダン王国』を復活させるべきかどうか、セリス達も決め兼ねていた。そこで、ファバルの提案によって、最小限の人員だけ引き連れてヴェルダンの現状を視察し、あとは情勢によって判断する、としたのだ。
 そのため、現在ファバルはヴェルダンの情報集めに奔走している状態だ。一方で、聖弓イチイバルの継承者として、彼はユングヴィにも責任があるのだが、こちらは完全にレスターに任せているようだ。
 本来、パティもその兄を手伝って忙しいはずなのだが、パティは自分で情報集めをするならともかく、人を使っての情報収集など不慣れなこと甚だしい。結局、手伝わない方がマシ、という結論に達し、自分の得意分野で役立とうとしているわけである。
「そうか、もうそんな時間だったか」
「そうですよ〜。シャナン様もオイフェさんも、時間忘れちゃってるし。早く、食堂に来て下さいねっ」
 パティは元気良く言うと、次の部屋へと走っていく。実際、彼女も疲れていないわけではないだろうが、そんな素振りは微塵も見せない。
「本当に元気のいい娘ですね、彼女は。イザーク王宮は賑やかになりそうだ」
「オイフェ……」
 シャナンはその後に言葉を続けようとしたが何も言わずに首を振り、そのまま食堂へと歩いていった。

 そしてロプトウスが倒れて、およそ一月経った頃。
 すでに大地には秋の色が濃く、荒れ果てた中でも若干の収穫を人々が神に感謝する中、グランベル王セリスの戴冠式が、バーハラで行われた。
 本来、グランベル王の戴冠式ともなれば、数千人にも及ぶ各国の王、貴族らを集め、バーハラの壮大な大聖堂で行われるのが慣わしである。
 だが、その大聖堂はユリウスとの最終決戦で無惨にも破壊され、未だにまったく修復の手がついていない。王宮の神事を司る神官達からは、せめて祭壇だけでも修復し、古式に則った戴冠式を、と主張したが、セリスはそれを断った。
「私は私の力だけで王位に就いたわけではない。多くの人々に助けられて、ようやくこの地位にある。私が王位に就けるのは、多くの人々の助力の成果だ。だから私は、そのことをこそ、この戴冠式で宣言したい」
 そう言って、セリスは民衆を王宮の中庭へと入れて、そのバルコニーで略式の戴冠式を行うことにしたのである。
 本来このバルコニーは、新年の挨拶などで民衆に解放され、国王が民に挨拶をしたり、あるいは国民に対して重大な発表を行ったりする場である。本来の戴冠式でも、戴冠を終えた新王が民に最初にその姿を見せる場所だ。
 戴冠式自体も、セリスは本来の儀式の大半を省略させた。そもそも、そんな無駄に金を使う余裕などはないのである。本音を言えば、継承した宣言を民衆の前で行うだけで済ませてしまいたいのだが、さすがにそれは神官が折れなかった。よって、お互いが話し合い、略式の戴冠式を人々の前で行う。「民衆の前で神事たる戴冠式を披露するのはどうか」と神官は抵抗したのだが、それが折れたのは、セリスが「私は神と人、その両方に認められた王となるために人々の前で戴冠したいのだ」と言ったからである。
 バーハラの街には、一月あまりの間にかなりの人々が戻ってきた。前ほどの規模に戻るにはまだまだ時間はかかるだろうが、それでも帝国が滅んだこと、そして新たなる王が戴冠する、とあって一万人以上の人々が王宮の庭に詰め掛けている。
 その中で、セリスは厳かに戴冠式を済ませると、そのまま民衆に向かって演説を行った。これも異例なことだ。
 しかし、その内容はとてもセリスらしい、とシャナンは思った。
「私一人の力では、帝国を、暗黒神を打倒することは出来なかっただろう。これは、大陸全ての人々の勝利である。そして、もう二度とこのような悲劇を起こさないためにも、我々はより一層、互いの力を集めなければならない」
 セリスはそう宣言すると同時に、大陸の各国に対しての援助を惜しまないことを宣言し、同時にそれらの国に対して友好的な姿勢を崩すことはない、とも宣言した。
 これは、ある意味では茶番である。大陸の指導者たるべき人物は、そのほとんどが解放軍に所属しており、無論ことごとく中心人物でもある。セリスとは、同じ軍に属している同志、というよりはもはや気心の知れた仲間のような存在だ。
 しかし、それは民衆には見えはしない。表向き友好的で、その実相手を出し抜こうとしている関係など、古今尽きることがないのは分かっている。だからこそ、セリスはこのように宣言したのだ。
 その後はそのまま、祝勝会へと突入した。もっとも、祝勝祭というべき規模である。
 食べ物や酒などは、王宮の倉が開けられた。元々、バーハラ城も軍事施設としての機能を持つ。城である以上、篭城戦を考慮して十分な糧食が貯えるだけの倉庫はあるし、事実そこそこの量が貯えられていた。
 もっとも、この倉にあったのは城に篭った帝国兵が数ヶ月耐えられるだけの量で、バーハラの人々が数ヶ月――せめて今年の冬――の間食べていくだけの量はない。ただ、祭の間の分としては十分すぎる量でもある。
 バーハラ城の大広間でも、宴が催されていた。
 この時ばかりは、復興の苦労も忘れ、解放軍の戦士達は互いに互いの苦労を称え、そして、これからの大陸の復興に決意を新たにした。
 また、セリスはこの時も多くの人々に囲まれていた。多くは共に戦った解放軍の戦士達なのだが、たまに元帝国の貴族達の姿も見える。彼らからすれば、名実ともにグランベルの最高権力者となったセリスに取り入ろうと必死なのだろう。セリスとしても無下には出来ず、対応に苦労しているようだ。
 シャナンもイザークに戻り次第、イザーク王として戴冠する予定ではある。だが、ここはイザークではないのでシャナンに無理に取り入ろうとする者はいない――元々グランベルの貴族などは未だにイザークを蛮族の国と思っている者も少なくないのだろう――し、イザーク王国は武を貴ぶ土地柄でもある。そのような気苦労があまりあるとは、思えなかった。
 他に目を転じると、いずれは国王や公爵になることが決まっている者で、一番暇なのがシャナンだった。
 そんな中、突然一際大きなどよめきが、一角で聞こえてきた。目を転じると、いくらかの人の輪が出来ていて、その中心にいるのは、どうやらヨハルヴァとラクチェらしい。彼ら二人を取り囲むのは、多分ドズルの廷臣達だろう。どちらかというと友好的に話している、というよりは何か問い詰めるような感じである。
「ヨハルヴァ様、王子……いえ、公子がドズル公爵家を継ぐのは、なんら問題のあることではありません。ですが……」
「そうです。何もそのような、ご自身の、ひいてはドズル家そのものの命運に関わるようなことを、その様に簡単にお決めになられては……」
 一際大きい声で問い詰めているのが聞こえて、シャナンはそれで話の内容に見当がついた。思わず、忍び笑いが洩れる。
 一方、ヨハルヴァは、不満を隠そうとすらせず、自分とラクチェを囲んだ廷臣達を一瞥した。
「何を待つ必要がある。そもそも、すでにドズル公爵家直系はこの俺一人。ならば、出来るだけ急いで公妃を迎え、その血筋を盤石とすることは、当然だろう」
「い、いえ、それはおっしゃる通りなのですが……失礼ながら、公は直系であらせられるとはいえ、スワンチカを継がぬ身。なれば、より近い血統から妃を選ばれ、より確実に継承者を設けるべきではないかと……」
 これは、自分達の娘を妃として、自分達がドズル公国内で外戚として権勢を振るおう、という下心があるがゆえの言葉でもある。
 実は、ドズル家に限らず、各公家の公爵位に就くことが決まっている各人の知らぬ間に、そのそれぞれの貴族の間で、すでに熾烈な『義理の父親争奪戦』とも言うべきものが水面下で始まっているのだ。しかし、ヨハルヴァはいきなりそれを無視して、この場でイザーク王女ラクチェを妻とする、と発表したのである。
「それに、失礼ながら、その、イザークといえば蛮……」
 その瞬間、がつ、という鈍い音が響いた。一瞬、その周辺の時が止まったように音が消える。そして半瞬遅れて、貴族の一人が鼻から血を流して床と接吻した。
「な、何をなさいます……」
「黙れ。次にそのようなことを言ってみろ。貴様の財産を全て没収した上、爵位を剥奪し市井に放逐するぞ」
「で、殿下……」
「そもそも、それではなんだ? 俺や兄貴や父上が統治していた土地は、蔑視すべき土地だったとでも言うのか?」
 その言葉に、他の貴族達は息を呑んだ。確かに、イザーク王国はドズル王国として、ドズル家が統治していた場所でもあるのだ。彼らのように、かつての戦争を知る世代からすれば、イザーク王国は蛮族の国、という感覚も残っているが、今ではそれは、ドズル家自体を侮辱することにもなる。さらに言うなら、イザークは新グランベル王セリスを育てた大地でもあるのだ。
「も、申し訳ありません……ですが、その、公妃決定というドズル家、ひいてはドズル公国全体にとって極めて重要な事に関して、今この場でお決めになるのはあまりにも性急と……」
「別に今決めたわけじゃない。俺とラクチェは一年以上にもわたって共に戦ってきた。その俺が判断したのだ。それでもまだ、文句があるのか?」
 ここまで言い切られては、彼らもこれ以上抗弁する理由はない。そもそも、ドズル解放にあたって、彼らはなんの戦功もない。それなのに、さも当然のように爵位と領地を安堵されることを不満に思う勢力もまた、存在するのだ。そういった勢力に自分達の地位を追われないためにも、彼らとしては公爵となり、また、兵士達にも信頼されているヨハルヴァに取り入って生き残りを計らなければならないのだ。これ以上、ヨハルヴァの機嫌を損ねてもいいことはない。
 このやりとりの間、ラクチェはずっと口を噤んでいた。下手に口を挟めばより問題が厄介になることは分かっていたし、また、彼女自身混乱していた、というのもある。
 確かに、ヨハルヴァと結婚するつもりはあった。イザークには戻らず、ドズルに滞在する。すでにシャナンにも許可を取って了承済みのことであった。だが、いきなりこの場所で発表されるとは思ってもいなかったのである。
「ヨハルヴァらしいですねえ、シャナン様」
 いつの間にシャナンの傍らに来ていたパティは、半分呆れながらシャナンのすぐ隣に座った。手には、果実酒のグラスがある。
「ああ。まあ、ヨハルヴァとしても不毛な権力争いに煩わされるより、いきなり結果を突きつける方がいいと判断したんだろう」
 そこまではいつも通り振る舞っていたシャナンだが、続くパティの台詞で、危うく口に含んだ酒を吹き出すところだった。
「シャナン様は言ってくれないのですか?」
「なっ……」
「あははっ、冗談ですよぅ♪」
 パティは面白そうにけたけたと笑う。確かにそれが冗談なのはすぐ分かったが、それと驚かないのは別だ。
「それは冗談ですけどね、でも……」
「どうした?」
 パティは少しだけ表情が暗くなり、何かを言おうとしたが、すぐいつもの明るい表情に戻ると、笑顔を見せた。
「いえ、なんでもないです。あ、そういえば、スカサハ知りません? ユリアが探していたんですけど。なんか切羽詰まった様子で」
「……いや、そういえば戴冠式まではいたが……見ないな」
 何か釈然としないものを感じながらも、シャナンはパティに話題を合わせる。
 スカサハは戴冠式の後、一度言葉を交わしただけで、あとは見ていない。今思い出してみれば、いつもの彼より少し沈んでいた気がする。
「まあ、今のバーハラでは滅多なこともあるまい。一応、私の方でも気にかけておこう」
 とりあえず探してみようかとシャナンが立ち上がりかけたところに、さらに別の人物が現れた。
「ここにいたのか、シャナン。少しいいかな?」
 立っていたのは、今日、大国グランベルの王位に就いた人物である。
「ああ。どうした、セリス」
「少しだけ、話したいことがあって。パティ、いいかな?」
「え、あ、はい。もちろんです。じゃ、シャナン様。私はユリアと一緒にスカサハ探してます」
「ああ。もう日も沈んでいるから、一応気を付けてな」
 パティは、はい、とだけ言うとユリアと連れ立ってホールの外に出た。多分、ホールにはもういないと踏んだのだろう。
「ここじゃなんだし、バルコニーでいいかな?」
 パティとユリアを見送ったセリスは、そう言うとバルコニーへと歩いていった。

 バーハラの街は、大変な騒ぎだった。
 そもそもここ数年、まともに収穫祭を祝うようなこともなかったのである。帝国の統治は、最初こそ多少の窮屈さを感じさせる程度であったが、やがて締め付けが厳しくなり、それに伴い租税や夫役が増加した。また、祭事も制限され、昨年一昨年などは収穫祭すら禁じられたのである。
 その、抑圧から解放された反動もあるのだろう。街のあちこちで酒を酌み交わし、歌い、踊る人々の表情は、誰もが笑顔だった。
 賑やかな人通りを避けるように歩く青年を気に留める者は、誰一人いない。
 その青年――スカサハは、手にした酒瓶から酒を呷ると、疲れたように道にある樽の上に座り込んだ。そして、もう一度酒を呷る。
 本来なら、彼もバーハラ城のパーティーに参加しているはずの人物である。解放軍の中でも、特に戦功のあった一人なのだ。しかし、スカサハはあの場にいつまでもいるのが辛かった。
「ユリア……」
 分かってはいたことだ。
 ユリアは、光のナーガを継承する、本来であればバーハラの主となるべき人物である。平和な時代であれば、ユリアは女王として即位し、しかるべき血筋から夫を迎えるのが通例である。いや、実際今回もそうすべきである、という意見は根強く存在した。セリスではなく、ユリアを女王として戴冠させ、セリスを宰相とする、という案である。
 しかし、今回の解放戦争の最大の功労者がセリスであること、そしてセリスもまたバーハラ家の直系のディアドラの子であることから、セリスが即位することで話はまとまったのだ。理想としては、セリスとユリアが結ばれることなのだろうが、それは出来ない。彼らは血を分けた兄妹なのだ。ゆえに、ユリアが王位を継ぐことはありえない。
 しかし、だからといってユリアが自由の身になれるというわけではない。たとえ王位を継がないとはいえ、ユリアは光の神魔法ナーガを継承する存在だ。神器の継承者は、それ自体が強大な力を持つ。それは、この大陸に君臨する聖戦士の家系にとって、その統治を正当化する理由であり、力の象徴でもある。
 故に、ユリアがバーハラ家を出るようなことは、まずありえない。おそらく、グランベル内の有力貴族から婿を迎え、その子とセリスの子――すなわち次のグランベル王――が結婚する、という未来図を描いている廷臣達は少なくないだろう。また、それを当然と思う人々が多いのも事実だ。
 聖戦士、という特別な血の継承をもって統治を行っている以上、血統の保全は何にもまして優先される事柄なのだ。ユリアの婿候補に、スカサハの名前が挙がることはありえない。グランベルの人間がイザークを――セリス達は別にして――蔑んでいることは分かっているし、それになにより、スカサハは婿としてバーハラに赴くことは許されない立場である。
 父であるホリンの生地、ソファラの公爵。それが、イザークに戻り次第スカサハに与えられる地位だ。そしてこれを、スカサハは拒む理由もなければ、拒むつもりもない。また、ソファラの人々も歓迎しているという。
 ソファラ公として名高く、グランベルがイザークに侵攻してきた、あのイザーク戦争で戦死したラザンの子ホリンと、今もなお、その剣名をイザーク人に知られる王女アイラ。この二人を親に持つスカサハを、ソファラの人々が歓迎しないはずはない。
 だが、ソファラを継承することは、ユリアと結ばれる可能性を消してしまうことに繋がる。ナーガの継承者であるユリアが、イザークの、それも一地方であるソファラに降嫁することなど、ありえるはずはないのだ。
 これはもうどうしようもない。自分も納得しているつもりだ。にも関わらず、心は晴れない。そして、鬱屈した何かを紛らわすように、スカサハは再び酒を呷った。
「くそっ!!」
 ユリアの身分が判明した時点で、分かりきっていたことのはずなのに、それでもなお蟠(わだかま)っている自分が情けなくて、スカサハは勢い良く立ち上がると、すぐ側の家の壁を殴り付けた。手の皮がわずかに裂け、少しだけ血が滲む。
 何もかも捨てて、ユリアを攫ってどこかへ行ってしまいたい。そう思ったこともある。だが、それはスカサハの性格的にできなかった。そんな事をすれば、シャナンにもセリスにも迷惑がかかる。何より、ユリアにも。
「何をやっているんだろうな、俺は……」
 多分、イザークに帰ってしまったら、もうユリアに逢うこともなくなるだろう。そうすれば、いつか、時間と共に忘れられるかもしれない。あの紫銀の髪も、深紫の瞳も。そして――。
「スカサハ!!」
 あの、声も。そう思いかけて、スカサハは驚いて顔を上げた。その、数歩先に、まさに今考えていた容姿の持ち主が立っている。
「ユリ……」
 スカサハが名を全部言うより早く、ユリアがスカサハに飛び込んできた。スカサハは、一瞬戸惑ったが、そのまま強くユリアを抱き締める。その細い体も、透けるような肌も、それ自体が光っているように見える紫銀の髪も、紛れもなく最愛の女性のものだった。
「ユリア……どうしてここに……」
「ラクチェから……全部聞きました。どうしてスカサハ、いつも自分だけで勝手に思い込んで決めてしまうんですかっ」
「ラクチェに……?」
 そういえば、パーティー会場を抜ける時、すでに酔っていたスカサハは、内心をラクチェに吐露してしまったような記憶がある。
「いや、その……」
 どうしようもないことだ、と続けようとした時、スカサハは間近で、ユリアの顔を覗き込んではっとなった。
 涙に濡れたその顔は、決してそんな言葉を望んではいない。
「分かってます。私の我が侭だということは。でも、それでも、私はスカサハと別れたくはありません。スカサハ以外の人と、一生を共に歩くことは、考えたくもないです」
「ユリア……」
 それはスカサハも同じ気持ちだ。だが、これは気持ちだけでどうにか出来る問題ではない。
「それとも、スカサハの私に対する気持ちは、その位で諦められるものだったんですか? 私が、他の人を夫としてもいいと」
「そんなはず、あるかっ」
 スカサハは、自分の気持ちの強さのままに、ユリアを強く抱き締めた。このぬくもりを、他の誰かに渡すなど、考えるだけで気が触れそうになる。
「私も、同じです。だから……」
 ユリアは顔を上げ、スカサハの顔を見つめる。
「今すぐは無理です。でも、いつか必ず、私はスカサハのいるところへ行きます。必ず」
「ユリア、それは……」
 不可能に等しい。そう思えた。セリスが許しても、グランベルの廷臣達が許すとは思えない。
 しかし。それでも、諦めるのはまだ早い。少女の目は、それをスカサハに決意させた。
「分かった、ユリア。俺は待ってる。たとえ何年経とうとも。いつか、君が来るのを、必ず」
 スカサハは再び、ユリアを強く抱き締める。そしてユリアも、スカサハを強く抱き締めていた。

「話とはなんだ? セリス」
 秋も深まっていて、バルコニーの風は酒で火照った体に非常に心地よかった。
 普段なら、むしろ寒いくらいだろう。大陸でも北の方に位置するバーハラは、秋も半ばを過ぎると夜はもう外で眠ろうものなら、風邪をひくどころか、下手をすると凍え死ぬほどに冷える。
「いや、別に改まるほどじゃないんだけど。ただ、戴冠式を終えて、これまでのお礼を言わなきゃいけないな、と思って。私がここまで来れたのは……シャナンとオイフェがいてくれたおかげだから」
「それならむしろ、オイフェに言ってやれ。オイフェがいなければ、私も生きてはいない」
 その言葉を聞くと、セリスは目を見開き、次いでくすくすと笑い出した。
「どうした?」
「いや、二人ともまったく同じ事を言うんだなあ、と思って。でも、二人には本当に感謝している。二人がいなかったら、私はとうの昔に死んでいたと思うから」
 シャナンは、しばらく黙っていた後、視線を外し、街の明かりを見下ろしていた。街の喧騒は、まったく収まる様子はないが、街区と城はかなり離れているため、音はほとんど聞こえない。
「……私は、シグルド様、ディアドラ様に受けた恩を返しただけだ。私こそ、オイフェはもちろん……いや、それ以上にシグルド様、ディアドラ様がいなければ、生きてはいなかったと思う」
 そうしてシャナンは、ぽつぽつと、語り始めた。
 イザークの脱出、ヴェルダンでの戦い、シグルド達と家族同然に過ごした日々。
 そして――。
「あの時私は、ディアドラ様を護ることが出来なかった――」
「シャナン……」
「留守をシグルド様に任されながら、ディアドラ様を護ることは出来なかった。しかしその直前、私はディアドラ様とも約束したのだ。ディアドラ様がいない間は、セリスは私が護る、と。シグルド様との約束を果たせなかった私は……せめてもの罪滅ぼしに、その約束を果たしたに過ぎない。お前に礼を言われることではない。むしろ、詫びなければならないのは、私の方なのだ」
 セリスは黙って、首を横に振る。
「それでもシャナン、やはり私は感謝している。シャナンが父上、母上に恩を受けたのは分かるけど、それと私がシャナンに恩義を感じるのは別のことだ」
 セリスは姿勢を正してシャナンに正面から向き合った。
「これまで、ありがとう。そしてこれからは友として、兄として、そして対等の国王として、よろしくお願いする」
「セリス……?」
「もう私は、シャナンに護ってもらうだけの存在ではない。シャナン。母上との約束は、もう十分に果たされていると思う。だから……シャナンはもう、自分の本来の役目を果たしてほしい。本当にこれまで、ありがとう」
 突然、シャナンの目から涙が溢れる。同時に、心が軽くなった。ずっと心につかえていた何かが、セリスの言葉で、音もなく外れたような気がした。
「セリス……」
 シャナンは、顔を伏せて涙を拭うと、ゆっくりと顔を上げた。
「永い……本当に永い戦いだった……」
 シャナンは右手を差し出すと、その手を、セリスが握り、シャナンは強く握り返す。
 秋の冷たい風が、静かに二人の間を吹き抜けていく。
 シャナンはゆっくりと空に浮かぶ月を見上げた。
 その銀色の光と、青くも見える晴れ渡った夜空は、シャナンに二人の人物を想起させる。
 そして、その二人の遺志を継いだ者が、今目の前にいた。グランベルの国王として。
「終わった……な」
 誰に言うとでもなく、シャナンは呟いた。
「うん。そして……これからだ」
 二人はただ、静かに夜空を見上げていた。

 数日後。
 シャナン達イザークの人々がイザークへ帰る日がやってきた。イザークは、バーハラからはもっとも遠い場所の一つであり、しかも二千人以上の兵を引き連れての旅路となるので、軽く二ヶ月はかかる。糧食等については、バーハラから蓄えを出した。さすがに、たかだか二千人の二ヶ月分くらいの食料の余裕はあるのだ。
 イザーク兵の出立は、これもまた一種のお祭りのような騒ぎになっていた。
 この一月で、少なくともバーハラの人々には、イザークに対する偏見が、幾分なくなってきていた。解放軍兵士の大半が、イザーク兵が勇猛であり、優れた戦士であり、騎士とは違っても同様の、高潔な精神の持ち主であることを誰となく語っていたからである。
 実際、初期の解放軍はそのほとんどがイザーク兵である。解放軍の中核を成していた、といってもいい。また、イザーク兵もバーハラの民衆と触れ合う機会が多かったこともあって、バーハラの人々の多くが、イザーク兵との別れを惜しんでいた。中には、ついていくと言い出す者や、イザークの兵と結婚の約束を交わした者もいるらしい。
「少し名残惜しいですね、シャナン様」
 並べて馬を進めるスカサハは、バーハラを幾度も振り返っていた。
「お前の場合、ユリアと別れるのが何よりも名残惜しいのだろう?」
 図星を指されて、スカサハは思わず頬を紅潮させた。スカサハは直前までユリアと共にいて、ずっと別れを惜しんでいたのである。実は、若干出発が遅れていたりもするのだが、その原因の一端は彼にも――本来なら他の兵を統率しなければならないのにそっちのけにしていたので――ある。
「シャ、シャナン様こそ、パティがいなくて探していたじゃないですかっ」
 今度はこちらが図星を指されたのだが、シャナンはそれをまったく表情にも出さなかった。
「別に、探していたわけではないぞ。ただ……」
 言いかけて、シャナンはすぐ横合いの森の中に、一瞬金色の光を見た気がした。数瞬後、その正体に気付いて、半ば驚き、半ば呆れた顔になる。
「……スカサハ、このまま進んでいってくれ。すぐに追いつく」
 言うが早いか、シャナンは馬首を返すと森の中へ飛び込んでいった。スカサハはそれをびっくりして見送ったが、少し考えた後に盛大にため息をついて、苦笑した。
「人のこと言えないと思うけどなあ、俺は」
 その、苦笑されたイザークの王子――まもなくイザーク王――は、森の中で予想通りの人物と会っていた。金色の髪をきれいに結い上げ、珍しく空色のドレスを纏った少女――パティである。
「何をやっているんだ? こんなところで」
 正直、見送りの場所にいなかったとき、シャナンは少なからず落胆したし――表情にはまったく出さなかったが――意外にも思ったのだ。パティなら、必ず現れると思っていたからである。
「う〜ん。やっぱり、お別れって嫌だったんです。ヴェルダンに行くことは、もちろん何も文句はないんですが、でも、シャナン様と離れるのは……」
「何を悩んでいる」
 シャナンはいきなり、ぐしゃぐしゃとパティの頭をこねくり回した。そのため、せっかく結い上げた髪が崩れてしまう。
「うにゃ〜、何するんですかっ。せっかく〜」
「今生の別れというわけではあるまい。イザークもしばらくは落ち着かん。それまで、待ってろ」
「信じて……いいんですよね?」
 パティは恐る恐る、シャナンの顔を見上げる。
 その時シャナンは、パティが先の宴の時に言いよどんだ内容に気がついた。恐らく彼女は、不安だったのだろう。
 考えてみたら、シャナンは一度もパティに、イザークに来い、とは言っていなかったのだ。
 ちなみにパティが意識してやっているかどうかは知らないが、こういうパティの仕草は非常に可愛らしく、男性からすると『放っておけない』と思わせる雰囲気がある。
(……知らずにやっているとしたら、むしろこっちの方が気が気でないな……)
 そう思って、その後でそう考えた自分にシャナンは苦笑した。いつの間に、この少女に強く惹かれている自分を、再認識したことが、なぜかおかしく思えたからだ。
 それを見て、パティの顔がぷーっと膨れる。
「あ、何ですっ。人が真剣に聞いているのにっ」
 今度はむしろ、パティのその顔で笑ってしまった。それでますます、パティの顔が膨れていく。
「もうっ、知らないですっ」
 ついにパティが、ぷい、と後ろを向いてしまう。その様を見て、シャナンは笑いを収めると、もう一度、今度は優しく頭をなでた。
 しばらくされるがままになっていたパティだったが、しばらくして振り返った顔は、涙が溢れそうになっていた。
「信じろ、としか今の私にはいえない。ただ、いつか必ず、イザークに、私の隣に来てもらいたい」
 それはシャナンの、偽らざる気持ちである。かつて、フェイアなしに考えられなかった未来が、今はパティなしでは考えられなくなっていた。それほどに、この少女は、シャナンの中で大きな位置を占めているのだ。
「はい……」
 パティはその言葉を聞くと、溢れそうになっていた涙を拭い、そして笑ってみせた。
「絶対、待ってます。そして、いつか必ず、イザークを見せて下さい」
「ああ。約束する、パティ」
 シャナンがゆっくりと、パティを抱き寄せた。パティは逆らわずに、そのままシャナンの胸の中に納まる。パティが見上げたすぐそこに、シャナンの顔があった。
 風はすでに秋というより冬の装いを纏い、木漏れ日も、地上に暖かさをもたらすにはすでに頼りない。
 それでも二人は、互いにこれ以上ないぬくもりを感じていた。

 グラン暦七七八年冬。
 元イザーク王マリクルの子シャナンは、イザーク王国の復活を宣言し、自らその王位に就いた。
 そしてグラン暦七八〇年春、シャナン王はヴェルダンの王家の王女であるパティを、王妃として迎えている。
 シャナン王の治世で、イザーク王国は空前の発展を遂げ、以後、誰もイザークが蛮土であると蔑むことはなくなった。
 後のイザークの歴史家は、口を揃えてこう伝える。
『剣聖王シャナンの即位をもって、イザーク王国の真の歴史が始まった』と。



第五十九話  エピローグ

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