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西暦二〇四八年。 大天災、大破局、大破壊、カタストロフ。呼ばれ方こそ違えど、この年に起きた事実を人々が忘れることはないだろう。 世界十数箇所でほぼ同時に発生した大地震と、それに伴う洪水、地盤沈下、さらにはいくつかの隕石の落下と続いたこの年は、『人類史上最悪の年』と云われている。 その大災害によって、都市は破壊され、通信は寸断され、社会体制は崩壊した。 だが、災厄はそれに留まらなかったのである。 災害が一段落し、人々が復興を行おうとした時、第二の災厄が人類を襲ったのだ。 環境破壊の進んでいた地球は、まるで人類に復讐するかのように、それまでの環境を激変させ、世界中のあらゆる場所で気候条件が激変したのである。 突如として寒冷地域が猛暑となり、逆に熱帯雨林が砂漠化した。かと思えば、逆に砂漠に豪雨が降り注ぎ多くの街や集落が水没し、またある場所では植物が異常繁茂して街はおろか地域一つ埋め尽くした。地軸すら歪んだ、と言われている。 それが一段落した後は、激変した環境がもたらした干ばつや寒冷、あるいは突然の雨季の発生などによる食料生産力の大幅な低下で、人々は飢えや疫病に苦しめられ、人口は激減した。 この一年だけで、世界の人口は実にその三分の二が死に絶えたといわれている。 そして国家はそのほとんどが崩壊することとなる。その後、力を失った政府に替わり世界を統治したのは、実質的な、より確実な力を所有していた存在――企業体であった。 彼らは、それぞれ世界に対してより強い影響力を持とうと、互いに統合、あるいは吸収、そして時には水面下、あるいは表立って軍隊――企業軍と呼ばれた――を用いての騒乱を繰り返す。これでさらに世界人口はその半分になったと云われている。 それから半世紀。世界を統治しているのは、いくつかの企業体であった。彼らは、通信技術と交通手段をイニシアティブとして世界をごくわずかな勢力で分割支配していた。彼らがこのように容易に世界を支配できたのは、なにより、生き残ったわずかな通信衛星を、全て『彼ら』が管理していた為である。 |
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に・げ・な・さ・い。 突然頭に響いたその言葉は、少女の全思考を支配した。幾重にも重ねられていた意識の奥底から、全てを貫いてきたかのように表層へと突然響いた声。それは、それまでの、すべての思考を一瞬で完全に被い尽くしていた。全行動、全思考がその言葉に従わなければならない、という本能だけが全てを満たす。その直前までの思考・意志は完全に失われていた。ただ、その声の指示する、たった一言だけ。それを実行するためだけに、少女は全能力を解放していた。 そして、少女はすべての――自分の理性も含めた――制止を振り切って、逃げ出していた。何から逃げるのか。そもそも逃げるべきなのか。それすらも分からない。ただ、この場所にはいてはならない。声は、そういう意味だと、少女の中の何かが言っている。 何度も、外からの声と、自分の理性が行動を止めるように警告する。だが、それらは今の少女には何の効力も意味もなかった。ただ走る。いや、走っているだけではない。半ば浮いている。 なぜそんなことが出来るかなど分からない。ただ、自分には今そうできるというのが分かっている。だから、なんら疑問を持たなかった。 廊下を駆け抜け、いくつものシャッターを潜り抜けてただひたすら外を目指す。なぜかシャッターなどは、彼女が通ろうとする直前で勝手に開いていった。 途中、制止しようとする人が自分の前に現れた気がするが、そんなものは意に介すことなく一瞬で駆け抜ける。 何度目かのシャッターと扉を潜り抜け、建物の外に出た。外は夜の帳が暗黒の色で空を染め上げていたが、建物周辺はライトに照らされていて、非常に明るく、視界に困ることはない。少女は躊躇うことなく、全力で走り出す。 あと少し。あの壁を越えれば良い。壁の遥か手前で跳躍する。少女の体は、その身長の数倍ある壁を、飛び越えるに足る高さまで浮き上がった。移動する速度は、そのままに。きれいな放物線を描いて、少女の体が壁を越えようとしたその時。少女に、光が突き刺さった。 焼けるような痛みを感じた直後、少女の体勢が崩れる。まるでスローモーションのように少女の体は、深い闇の底に落ちた。いくつかの光が、少女を追うように闇に消える。冷たい冬の水が、少女を抱いた。 |
あれからどこをどうやって来たのか。自分が今どこにいるのか。何をやっているのか。全く分からなかった。空は暗く、昼のはずなのだが太陽の光は見えない。冷たい雨が容赦なく体を打ちつけている。 暗い、都市の底のようなこの場所は、ジャンクが多く雨を避けられる場所は容易に見つけられる。衛生を気にしなければ、休む場所にはことかかない。そして、今更気にするようなことは、自分にはない。ずぶ濡れになって体にぴったり張り付いた服の感覚も、雨の感覚もすでにない。 体温低下。心肺機能低下。PSY値下限値以下にダウン。生命維持に支障。自分の中の何かが、自分の状態を正確に分析して警告を出し、然るべき対処法を次々とはじき出す。しかし、全て無視した。もう、どうでもいい。ただ、眠りたかった。足はもう動かない。 少女は、崩れるように屑鉄と屑鉄の間に倒れ込んだ。 雨は止むことなく少女の体を打ち続けていた。 |
目が覚めた、という感覚は奇妙だった。自分はもう死んだ。そう思っていたのに。いや、実際生きていられたとは思えない。意識を失う直前の自分の状態は、間違いなく助からないはずだった。しかし、体に触れているのは、柔らかい布の感触だ。寝台だと、すぐに分かる。 だんだんと意識がはっきりしてきた。白っぽい色の壁は、真新しいとは言えないが、どこか清潔感を感じさせる。ふと気が付くと、自分が何も着ていない状態だと気付く。もっともこの暖かい寝台にいる間は問題ないだろう。 改めて、部屋を見渡す。それほど広くはない。寝台、サイドボード、空のフォトグラフスタンドとメモ帳とペンが置いてある机、花瓶。刺してあるのは造花だ。壁に鏡。窓は高いところに一つと、机の前に一つ。どちらもカーテンがかかっているため、外の光景を窺うことはできない。雨は止んだのだろうか。頼りなげな光がさし込んできている。そして扉が一つ。その扉に目をやった、その時。 ぎい。 あまり建てつけがよくないのか、不愉快な音を立てて、扉が開いた。反射的に警戒する。それは訓練によって身に付けられた反射動作だ。注意深く入ってくる人物を警戒する。 やがて完全に扉が開かれたとき、扉の向こうに立っていた人物は、女性だった。ただその顔を見たとき、少女の顔は驚愕で凍り付いた。そこには、自分がいたのである。 「あ、気が付いたのね。良かった。今、替えの服を出すわね。ちょっと待って」 まるで自分を警戒していない。だが、今はそんなことは気にならない。 その入って来た女性の顔は、確かに自分とそっくりだ。正確にはわずかに違う。自分より彼女の方が年齢が大分上だと思う。けれど驚くほどよく似ている。光の加減で銀色にも見える髪は、長く伸ばされて後ろで纏められているが、肩の辺りまで短くしたら、自分と変わらない。ここまで似ている人間が、本当にいるのか、と疑いたくなる。ふと鏡を見たが、そこに映るのは自分の顔。だが同時に、鏡を介さず見る今入ってきた女性の顔と、ほとんど同じ。 そう考えてから、改めてしげしげと彼女を見る。年齢は二十代半ば、というところか。年齢よりむしろ落ち着いて見えるのは、自分と同じ顔だからかもしれない。自分と比べるため、ずっと落ち着いて見えるのだ。 しかし、彼女はそんなことを気にした様子も見せず、収納スペース――クローゼットという名称はあとから知ることになる――から服と下着を取り出して差し出してきた。 「私のお古だけど我慢して。サイズが合うといいのだけど」 そう言ってにっこりと笑う。そこには、警戒すべきものは何も感じ取れない。少しだけ少女は警戒を解いた。 差し出された服を受け取ると、とりあえずそれに着替える。 「よかった、ちょうどいいみたいね」 強いていえば、腰回りやお尻はちょうどいいのだが、少し胸が大きかった。とはいえ、サイズはほぼ同じと言ってよい。 彼女はそういうとにっこりと笑い、「しばらく待っててね」と部屋から出ていった。ややあって戻ってきた彼女は、トレイに今の少女の欲求を満たすものをのせてきていた。スープである。体が、食べ物を欲しているのは分かっていたのだ。ただ、そのスープから醸し出される匂いは、少女には初めての体験だった。香料などとは違う。ガスなどでもない。それをかいでいると、そのスープを食べたい、と思わせる。 「はい。お腹すいているでしょう?でもいきなりちゃんとしたものだと、お腹がびっくりしちゃうと思って。はい、どうぞ」 食べたことのある形式の食事だ。スプーンをとって口元まで運ぶと、やはりいい匂いがする。口に入れたとき、少女はびっくりして危うくスプーンを取り落としそうになった。 これまで、食事というのは、ただ身体に栄養を補給するための手段だった。出される食べ物は、なんの飾り気もない、固形物や流動食。それを食することを楽しみとしたことはない。しかし。 こんなに食べたい、と思うものは初めてだ。自然、手が早くなる。あっという間に、少女はスープを食べきっていた。 「私は沙羅。あなたは?」 食事が一段落するのを待っていたように、彼女が名乗った。まだ完全に警戒を解いたわけではないが、名前くらいはいいだろう。 「私は……」 そこで、口が止まる。ない。名前がない。いや、名前だけではない。何もない。自分が誰なのか。どこにいたのか。 突然、ぶるぶると震えが来た。名前も、どこから来たかも、何も分からない。自分の中に、頼りにできるものが何もない事実に、少女は気が付いた。 だというのに。 先ほどから一体、頭の中で繰り返される、自動的なその反射動作はなんなのか。現在もなお、頭のどこかで自分の身体状況を正確に分析しようとしている自分がいるのだ。 「もしかして、覚えていないの?」 沙羅はそう言ったが、それほど意外そうには見えなかった。あるいは、予想していたのかもしれない。 「いいわ。思い出すまで、ここにいて。あなたは……そうね、沙耶としておきましょう、とりあえずの名前。私に娘がいたら、つけようと思っている名前よ」 沙羅は一人納得すると「じゃ、決まりね」と言って、食器を片付け始める。その仕種に、なぜか少女は良く分からない苛立ちを隠せなかった。 「私に……」 「なに?」 「私に構わないで!」 少女は激昂していた。こんな感情を、自分が持つということ自体、不思議ではあるのだが、まだそれには気付いていない。とにかく、今はこの沙羅と名乗った女性の傍にいるのが怖かった。 「なぜ?」 少女は、沙羅を傷つけたくない、と強く思った。一方で自分の中にある感覚が、彼女の排除を求めている。危険だ、排除しろ、と。 「人間じゃないの、私は!」 なぜそんな言葉を言ったのか、少女には分かっていなかった。半ば、本能的に出た言葉だった。 がたがたと震えているのが分かる。怖かったのだ。少女はその言葉を言うことに、とてつもない恐怖を感じていたのだ。まるで、何かに急かされるように言ったその言葉に、誰よりも少女自身が震えていた。 「そんなこと言わないで」 沙羅はそういうと、少女を優しく抱きしめた。 「あなたの目も、鼻も、口も、肌も、私と同じじゃない。誰がなんと言おうと、あなたは、人間よ」 その声は、囁くように小さい。しかし、それでなにかの呪縛が解かれた。そんな気がした。いつのまにか、震えもおさまっている。 「沙耶。あなたが本当の自分を取り戻すまで、ここにいていいから。だから、もうそんな自分が人間じゃないなんて言わないで」 その沙羅の言葉は、とても心地く、ゆっくりと心の中に染み込んできた。いつの間にか、震えが止まっている。 沙羅は沙耶の震えが止まったのを確認すると、トレイにスープの皿を戻し部屋を出ていった。出ていく際に「ゆっくりおやすみなさい、沙耶」と言い残して。 不思議なくらい、その言葉は少女を安心させた。初めて感じる安心感。暖かさ。 少女は不思議な安心感に包まれて、深い眠りに就いた。 |
目が覚めると、見えるのはいつも同じ天井だ。変化のない生活。部品として、ただその与えられた通りの作業をこなすための訓練。スピーカー越しに聞こえる声に、生気を感じたことはない。データの羅列で示される状態。能力値という評価。自分という存在が、すぐ横にある機械と何も変わらないとしか思えない。違うのは、その構成要素が異なるだけだ。 「…………」 自分が呼ばれた。だが、なんと呼ばれていたのか。思い出せない。ここは、どこだ。いや、自分が育った場所だ。閉ざされた世界。いつもと変わらない訓練が施される。世界の全てが、自分にただ機械として存在することを強要していた。いや、自分自身すら、自分を機械としてしか考えられないようになっていた。それが、ここでは当たり前。 永遠に続く毎日。自分に与えられた何かのために、それだけのために動く毎日。そこにいた自分は、果たしてなんだったのだろうか。人間ではない。無機質なロボットと同じだ。人間ではない。そうだ。そう言われ続けていた。だから、人間の役に立たなければならない。そうだ。それに疑問を差し挟む余地などない。 強圧的な声が響く。「お前は人間ではないのだ」と。その声は、恐怖だ。逆らってはいけない、とずっと言われてきていた声。それに逆らうことなど出来はしない。 だが、そこに沙羅の優しい声が響いた。 「あなたは、人間よ」 |
目が覚めた。見えた天井は、無機質なダークグレーの天井ではない。良く分からない模様の入った、柔らかい印象の天井だ。どのくらい寝ていたのか、分からない。これまでは、決まった時間に覚醒させられ、決まった訓練を行っていた。一日、というのは訓練が終わる一区切り。訓練の毎日だけは覚えている。どのくらい寝たか、など考える必要すらなかった。その生活が、当たり前だった。 そう考えた時、記憶が戻り始めていることに気が付いた。 無機質な居住空間。訓練の毎日。自分をモノとして扱うことを、自他共に当たり前と感じていた日常。 辛い、と思ったことはなかったと思う。なのに、今思い出すと辛かったとしか思えない。 変化のない毎日は、記憶を曖昧にしている。同じ毎日が、記憶の区別を出来なくしているのだ。 一体自分は、なんなのだろうか、という答えの出ない疑問に堂々巡りをしているとき、ぎい、という音と共に扉が開いた。 「おはよう。起きた?もうお昼よ」 沙羅はそういうと、サイドボードにトレイを置く。見たことのないような食べ物ばかりだが、それもまた食べてみたい、と思う匂いをさせていた。 「食欲はある?昨日、スープを食べたから、普通の食事でもいいかな、って思って」 その態度は、少女には理解できない。人間ではない、などといった者になぜ構うのか。 その間に、沙羅はトレイの上でひっくり返っていたカップの口を上にして、食事の準備を始めている。 「なぜ……」 「え?」 「なぜ、私にそんな風に接するのです?」 沙羅は面食らったような表情になった。それほど奇妙な質問をしたつもりはないのだが、その奇妙かどうかの基準がずれていることは、本人には分からない。 「なぜ…ねえ。倒れている人を助けるのは、当然でしょう?それに、私に良く似ているんだもの。放ってなんかおけないわ」 少女には、その考えは理解できない。沙羅は、さも当然というように言い切ると、不思議な香りのする粉を、カップにスプーンで数杯入れて、お湯を注いだ。途端、その不思議な香りは増幅され、かいだことのない匂いが、部屋に充満する。心地よい香りだ。薬品に満たされた部屋などとは、比べようもない。 「はい。熱いから気をつけて。砂糖は入れる?」 聞かれても分からない。その顔を見ると、沙羅は小さな器から白い塊を一つ取り出して、その心地よい匂いのするものの中に落とした。ポチャン、という小さな音と共に、白い塊は沈んだようだ。沙羅は、スプーンを取り出して、カップの中身をゆっくりとかき回しはじめた。そして、また差し出す。その中にある液体は黒かった。無論、見たことなどない。けれど、この匂いは確かにこの液体から放たれている。 「熱いからね。ゆっくりとね」 沙羅はそう言って、自分もカップを取り出し、手際よく同じ作業をすると、カップを口に運び、ゆっくりと中の液体を飲む。おそるおそる、同じ様に液体に口をつけてみた。 やはり初めての味だった。こんな味の強いものは、飲んだことがない。 ちょっと苦い。けれど、同時に甘い。体が芯から温まっていく感覚だ。少女には初めてのことだった。 「コーヒー飲んだことないのね。美味しいかしら?」 「おい……しい……?」 「……言葉自体を……知らないのね。そうねえ。う〜ん。また飲みたいって、思う?」 沙羅の言葉に、少女は素直に頷く。 「そういう風に思えることが、美味しいってことよ。覚えて置いて損はないわ。あとスープもあるけど、少しちゃんとしたもの、といってもサンドイッチだけど、食べる?」 沙羅はトレイの上にある皿から、三角形のものを一つ摘まむと、少女に差し出した。少女は、それを受け取ったが、どうしていいか分からない。すると沙羅がもう一つそれを摘まんで、そのままかじる。少女もそれに倣った。 言葉は出ない。ただ、少女が感じ入るのは、確かに「美味しい」という感覚だった。もっと食べたい、と思う。それに伴い、自然口の動きが速くなる。 「もっとあるから、ゆっくり…」 沙羅の言葉と同時に、少女がむせ返った。 「ほらほら大丈夫?はい。お水」 慌てて水で飲み込んだ。死ぬかと思った。今まで、こんなことなかったから。飲み干してしまうと、ふうと息を吐く。 「まったく。沙耶は食が細いわね」 その言葉が少女の動きを止めた。 「さ……や……?」 その言葉に、沙羅が空になったコップを受け取りつつ、ちょっと呆れたような表情を見せる。 「あなたの名前、でしょう?名前が分からないと不便だからって、せっかくつけてあげたのに。ショックだなあ。私のお気に入りの名前なのよ。『沙耶』って」 少女は、ただその「さや」という名前を呟くように反芻した。自分に与えられた存在。前に、きっと名前が別にあったはずなのに、何故かこの名前が安心できた。 「さや……私がさや?」 「そう。こういう字」 沙羅は机からメモとペンを取って『沙耶』と書く。さらにその横に『沙羅』と書いた。 「こっちが『沙耶』で、こっちは私の名前。『沙羅』。分かる?」 小さく頷く。漢字は読めるようだ。 「それじゃ、改めて。よろしくね、沙耶」 沙羅はそういって、にっこりと笑う。沙耶は、それに応えるように、ぎこちなく笑った。少女が初めて見せた笑顔に、沙羅は、一瞬驚いたような表情になったが、それは沙耶には見て取れなかった。 「さてと。もう少し休んだ方が良いわよ、沙耶は。ここは私の家だから、ゆっくり休んで回復しなさい。それじゃ、また後で」 沙羅はそういうと、いつのまにか食べ物のなくなっていたトレイを持って、部屋を出ていこうとする。 「あの……」 「なに?」 沙羅はドアのノブに手をかけたまま、振り返った。 「あの、また来てくれますよね……?」 「当たり前でしょう?美味しい夕飯、持ってきてあげるから、それまで休んでいなさい、沙耶」 沙羅は今度こそ扉を開けて、その向こう側に消えた。 沙耶は一人になったという孤独感もなくはなかったが、それ以上に安心していた。なぜだかは分からない。ベッドに潜り込んで、また『沙耶』と小さな声で反芻してみる。自分の名前。それは、自分が一人ではない、となぜか感じられるものだった。 |
次に目が覚めたときは、まださっきの食事からそう時間が経っていないようだった。隣の部屋から、沙羅の声が聞こえてくる。扉の向こうにいるんだと思うとなぜか安心できる。 ベッドから下りて、ゆっくりと立ち上がってみようとする。だが、足に力が入らない。体力も、まだ全然戻ってきていなかった。けど、死ぬことはない。体温も、心肺機能も正常だ。生命維持に支障はない。ただ、疲労値とPSY値が限界なだけ……そこまで考えて、沙耶は自分の考えに驚愕した。 ごく自然に、そんなことを考えている。なぜ、そんな分析をする。いや、なぜそんなことができる。疲労値?PSY値?一体それは何だ。自分はいったい、なんなのか。あの記憶はいったい何なのか。どこかで、誰かの視線を感じる。誰かに見られている。そう、いつも監視されていた。誰に?なんのために? ガタガタと、肩が震えてきた。そう。これは恐怖だ。それも、自分はこの後に起きることを知っている。だから恐れている。 違う。沙耶ではない。自分は……。 |
「沙耶!」 視界が暗転しかけたとき、最初に見えたのは沙羅の顔だった。それだけで、安心できた。沙耶は沙羅に抱き付いた。そのまま強くしがみつく。沙羅は、何も言わずに、まるで包み込むように優しく抱きしめてくれた。 「……もう、大丈夫?」 どれくらいそうしていたのか、沙羅が静かに耳元で聞いてきた。まるで心に染み込むような優しさが感じられる。 「はい。すみません。私……」 何かを説明しようとした沙耶を、沙羅は首を振って制した。 「怖い想いを、口に出さなくていいわ。大丈夫。目を、瞑ってみなさい」 沙耶は、言われるままに目を閉じた。視界が、闇になる。だが、沙羅のぬくもりを感じていることが、沙耶を恐怖に捕らえさせない。 沙羅はただ沙耶を抱きしめていてくれた。それがとても暖かくて、そして優しくて、沙耶はいつの間にか自分の不安がすべて消えているのに気が付いた。 「落ち着いた?」 いつのまに終わっていたのか。沙羅の言葉で沙耶は目を開けた。目の前に、沙羅の顔がある。 やはり驚くほど似ている。多分姉妹だと言っても誰も疑わないだろう。けれど、雰囲気は違う。沙羅は、自分よりずっと大人だ。年齢だけではない。そんな気がする。あるいは、自分も年を取れば、こんな雰囲気を纏えるようになるのだろうか。 「大丈夫?」 沙羅の言葉に、沙耶はコクコクと頷く。そう、とニッコリ笑った沙羅の後ろで、突然ピーッという音が響いた。それを聞いた沙羅は、慌てて立ち上がり走り出す。 「あー、お鍋がー」 急いで駆けていくその沙羅の後ろ姿は、先ほどの落ち着いた雰囲気とのギャップもあって、なぜかひどく滑稽に見えた。 「もう食べられるわよねー?」 音が止まった直後、沙羅の声が聞こえてくる。 「はい。お腹、空きました」 沙耶はその言葉を、素直に言うことができた。 |