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沙耶の体力は、程なく回復した。 実は最初に沙羅の家で目が覚めたとき、沙羅が沙耶を見つけてから五日ほど経過していたのだと聞いたときは、驚いた。おそらく、その間沙羅はずっと看病していてくれたのだろう。正直、なんでそこまでするのだろうと思うのだが、それは、沙耶の感覚が違うだけで、沙羅には当たり前のことらしい。 沙羅の家は、スラムの一画にある。スラムといっても、瓦礫ばかりだとか、治安が悪い場所ばかりというわけではない。無論治安の悪い場所もあるし、瓦礫ばかりの場所もあるが。 だが大半は、再開発で見捨てられた地域であり、多くの人が住んでいるのだ。むしろ、そこに住む人々は企業管理都市(キャピタル)に住む人々よりも、活力に溢れている。 沙羅の家に来て十日目、つまり沙耶が目を覚ましてから五日目に、沙耶は初めて家の外に出た。無論、沙羅と一緒にである。ただの買い物であったのだが、沙耶にとって、外はなぜか全てが新鮮に見えた。 その日は天気も良く、文字どおり雲一つない青空が広がっていた。風にはやや冷たさを感じなくもないのだが、それもまた沙耶には心地よい。 破壊され尽くされた地球全体の環境は、この地域をの気候をかつて「春」「秋」と呼ばれていた季節と「冬」と呼ばれた季節だけに変えてしまっている。今は「冬」から「春」になりつつある季節。時には冷たい雨も降るが、だんだんと暖かい風が吹くようになってきていて、過ごしやすい。この地域は、大天災の後、気候的条件がそれほど厳しくならなかった、数少ない地域なのである。 再開発から洩れたこのスラムは、昔の地名をそのままに、「横浜」と呼ばれていた。 実際には、すでに新横浜市というキャピタルが存在する。この地域は、かつての大天災で完全に崩壊し、再建に莫大な費用と労力が必要であることから、その全てが放棄された。行政機能や住民の多くは、新しく建設された新横浜市に移っている。 だが、この地域に愛着のある、住みなれた街を離れることを拒んだ人々は、街を再建していった。スラム、というのはあくまで行政側――企業にとっての呼び方であり、そこに住む人々にとっては、こここそが自分達の街なのである。 沙羅の家は、その横浜の中心街からほど近い場所にある。 人が集まり、社会体として成立している以上、沙羅も働かなければ、食い扶持を稼げない。沙羅の仕事は、読み書きを教えることだ、と教えてもらった。 スラムは、読み書きできない子が多い。日々の糧を得るのに精一杯の家では、余計な教育を行う余裕などないからである。再建に必死になっていた時期、まさか読み書きの習得できない環境になってしまうとは、誰も思わなかったのである。 企業の庇護下にあるキャピタルであれば、無償の学校が存在する。だが、スラムにはない。 読み書きできる人が少ないわけではないが、同時に読み書きを教えるほど余裕のある人もあまりいない。そのため、民間で読み書きを教えるための施設を運営するようになった。沙羅はそこで働いているらしい。 「大体、食べ物はここで買うの」 沙羅は、物珍しさにきょろきょろする沙耶に、一つ一つ説明していく。実際、沙耶には何もかも珍しかった。年相応――いや、それ以上の好奇心を最大に発揮して、次々に沙羅に質問する。沙羅としては、沙耶が人見知りしてしまうのではないか、という懸念があったのだが、どうやら完全に杞憂だったようだ。 「あれは?」 沙耶は半ばから崩れかけた、二本の巨大な柱のようなものを指差した。途中から崩れてしまっている、というのは分かるのに、それでもなお、周囲にあるどの建造物より大きい。 「あれはかつて、この横浜の象徴とまでいわれた建物。もっとも、建造された時期は半世紀近く違うらしいけど……。どちらも、地震で壊れてしまって。確か元は、この国で一番目と二番目に高い建物だったそうよ。今は見る影もないけど」 壊れてなおあの大きさなのだから、元は相当大きかったのだろう。 「入れるのですか?」 「あそこは立ち入り禁止。どこだったかの企業が管理しているらしいわ。何しているか知らないけどね」 ちょっと残念だなと思ったが、二つのビルはそれ以上少女の好奇心を引き付けはしなかった。 沙羅は、沙耶を図書館に案内した。旧時代の蔵書というのは、現在では貴重なものである。まして、この図書館の蔵書はかなり数が多く、特に貴重な書物も多かった。また、当時最新の免震構造を持った建物であったため、大天災の時も、その蔵書の多くは無事だったのである。 当初、企業がすべて回収しようとしたのだが、これは住民の頑強な抵抗にあって断念した。以来ここは、スラムの人々によって管理されている。そして、沙羅が読み書きを教えているのもまた、この図書館だ。 「沙耶は読み書きは大丈夫よね?」 聞かれて沙耶は、すぐに頷いた。実際、日本語だけではなく英語やドイツ語といった言葉もわかる。どうやら自分は、相当高度な教育も受けていたようだ。知識ばかりがある。 昔の記憶がないというこが不安でないといえば嘘になるが、沙羅のそばにいると、不思議と心が落ち着く。知識で知っている母親、というのはこういうものなのだろうか、と思うが、それはさすがにわからないし、大体自分と沙羅では十歳ほどしか年齢は変わらない。当てになる記憶ではないが、自分は今十五、六歳だと覚えている。沙羅は、せいぜい二〇半ばだ。親子というには無理がある。 「じゃあ、適当に本読んで待っていて。私は、行ってくるから」 沙羅はそういって、地下のフロアに入っていく。沙耶はそれを見送ると、正面の扉をくぐる。そこは、文字通り本の山であった。ここの人々の、本を大切にしようという想いが伝わってくる。 何気に、目に付いた一冊を取った。歴史の本のようだ。それも、大天災よりも遥かに以前。西暦一〇〇〇年頃の記録だ。 別に、沙耶にとって真新しい知識は何もない。自分でも不気味だが、自分の中には驚くほど多くの知識が詰まっている。だが、色がない。そう思える。この本から伝わってくる知識には色がある。それが事実だったんだと、伝わってくる。それがなぜか新鮮に思えて、沙耶は次々に色々な本を読みふけっていった。 |
「おねえちゃん」 何冊目かの本を読みふけっていた沙耶の上着の裾を引っ張ったのは、五歳ぐらいの少女だった。日本人らしい黒髪のおかっぱ頭の上に、一ふさだけ小さな飾りゴムで髪の毛を纏めてアクセントにしている。椅子に座っている沙耶を見上げている瞳が極端に大きい気がして、それが印象に残った。 「どう……したの?」 いきなり声をかけられて、正直戸惑った。沙耶はこの子のことを知らない。何を期待しているのか、さっぱり分からない。数瞬の沈黙。だが、しばらくして女の子は、少しだけ不安そうな瞳で、しかし意を決するように一冊の本を沙耶に見せた。絵の入った、童話の本だ。 「よんで、ほしいの」 一瞬沙耶は何を言われたのか分からなかった。他の人に頼んでいるのか、と思ったが、少女は明らかに自分に頼んでいる。 「わ、私に?あの、でもなんで……?」 周りに、同じように本を読んでいる人はたくさんいる。その中で、なぜ自分を選んだのだろうか。 「おねえちゃん、すごくたのしそうな目で、ご本よんでいたもの」 少女のその言葉に、沙耶は面食らった。予想もしていない答えだったのだ。 「それに、おねえちゃんやさしそうだから」 この答えも、予想していなかった。どうやったら、自分がそう見えるのだろう、とすら思ってしまう。 確かに、同じ顔の沙羅は優しい表情をしている、と思う。けれど、自分は。記憶の奥底にある、感情のない、表情のない自分の顔。それが、当たり前だった。今までは。 ただ、そう言ってもらえることは、なぜかちょっとだけ嬉しかった。もしかしたら、沙羅と一緒にいることで、自分にもそんな表情が出来るようになったのだろうか。 「いいわよ。貸してごらんなさい」 沙耶が言うと、少女はぱっと明るい顔になって、沙耶に本を手渡すと、自分は素早く沙耶の膝の上に乗ってしまう。ちょうど、沙耶と本の間に入る格好になった。沙耶は、さすがにこれには驚いたが、不思議と悪い気はしない。 「じゃ、読むわよ。『ここは大きな木のあるへいわなくに……』」 |
「お待たせ、沙耶」 沙耶が少女の本を読み終わるのを待っていたように、沙羅は戻ってきた。少女は本を抱えると、満面の笑みで「ありがとう、おねえちゃん」と言って走り去っていく。一度立ち止まってきょろきょろすると、もう一度大きく頭を下げると、また走り出そた。ややあって、沙羅と同じくらいの年齢の女性に連れられて、少女は外に出ていく。 ああ、親子なんだな、と思うと少し羨ましい。沙羅もそれは同じなのか、優しい目でその親子を見ていた。 「とりあえず、今日は帰りましょうか。あなたも疲れたでしょう?」 言われて、思った以上に疲れていることに沙耶は気が付いた。お腹も空いてきている。 「はい。お腹も、空きました」 沙羅はニッコリと笑うと「私も」といって、沙耶を促すように歩き出す。沙耶は取り出していた本を元の場所に急いで戻すと、沙羅の後に続いた。 外は、いつのまにか朱色の空になっていた。山の東斜面にあるこの場所からでは、西側にある太陽が沈むのは見えない。だがそちら側の空が鮮やかな朱色に染まっているのは分かる。東側の空は、すでにその支配を夜に移譲させつつあった。いくつか、小さな瞬きも見え始めている。 「退屈、していなかった?」 沙耶はそんなことはない、と首を振る。実際、退屈しなかった。女の子と話せたのもなぜか嬉しかった。考えてみたら、沙耶がこの街に来てから沙羅以外で話した最初の子だ。 「そ。よかった。それじゃ、今日は美味しいもの食べましょうね」 沙羅はそういうと、ぶるんと一度腕を振り回し、それから沙耶の手を引いて歩き出した。 |
変化のない日常。それでも沙耶にとって、それらは常に変化に満ちている、と感じられた。記憶の中にある自分には、時間の区別が付かない。正確に、毎日が同じだった為だ。けれど、ここは違う。太陽も空も、毎日違う表情を見せてくれるし、道行く人に挨拶をすれば、毎回違う反応が返ってくる。 沙羅の家に来て一ヶ月。沙耶もようやく街に慣れて、一人で出歩くようになった。 最初、お金の概念すら分からなかったのだが、それらの常識も身に付いた。完全ではないが、沙羅の家を中心として、ある程度の地図も頭に入っている。 一月の間に、沙耶も随分と明るくなり、正体不明の記憶に脅えることも少なくなった。いまだに、時々不安になることはあるが、それでも前ほどではない。何より、沙耶には沙羅が自分と同じような境遇である、ということがわかったのが大きかったのかもしれない。 沙羅もまた、子供の頃の記憶がなかった、というのだ。気が付いたらこの街にいたという。でも、彼女はこの街で生き抜いた。もう十年も前の話である。 当時、この横浜では大規模なスラム狩りがあり、沙羅もかなり苦労したらしい。スラム狩りというのは、企業がスラムの人口を抑制するために行う、人口調整という名の虐殺である。現在では横浜ほど大きな、複数の企業の中立地帯となっているスラムでは行われることはないが、ほんの十年前には、この横浜でも行われたのである。 記憶のない少女が生きていくには、相当辛かったであろうが、沙羅はその時のことはあまり話さない。また、沙耶もさすがにちょっと訊き辛い。ただ、それならば自分も十分生きていけるはずだ、と思えたのは確かだった。 ある種、沙耶にとって沙羅は目標のようにも思えていたのだ。顔がそっくりだ、というのも理由の一つかもしれない。 沙耶が、沙羅に相談を持ちかけたのは、そんな時期だった。 「仕事?」 沙羅は、驚いたように聞き返す。無論、言葉の意味がわからなかったわけではない。 「はい。だって私、ずっと沙羅のお世話になりっぱなしで。少なくとも、この街の人はみんな働いて、お金を稼いでそれで生活しています。私と同じぐらいの人や、私よりもっと小さな子供さえ働いています。だから、私も働かないと、と思って」 沙羅は、しばらく考えるそぶりを見せる。手をあごにやって「うーん」といいながら下を向いたり、上を向いたりした。やがて、にっこりと笑うと、沙羅の方に向き直る。 「いいわ、沙耶。ところで沙耶、得意なことなんてある?」 言われて、沙耶も答えられなかった。自分に何ができるのか。あまり考えていなかった。それも考えずに仕事する、と言い出してるだから無謀な話だ。沙耶が困ったように口をつぐんでいると、沙羅はクスリ、と笑う。 「そんなに考えなくても、あなたにできることはあるわ。私のお手伝い」 一瞬、沙耶は何のことか理解できずにきょとんとしてしまう。 沙羅は、その間に彼女が普段読み書きの学校で使っているテキストを持ってきた。 「これ。あなた、読み書き両方とも完璧でしょう?知識も豊富みたいだし。正直、あそこの学校、子供たちが増えちゃって、人手が足りなかったの」 「がっこう……?」 それは、沙耶には聞きなれない単語であった。それを見て、沙羅は紙に字を書いた。 「学校。本当は読み書きだけじゃなくて、ほかにもいろんなことを習う場所で、昔だとあなたくらいの年齢の子はみんな学校に言って、勉強したり、友達と遊んだりしたらしいけど……ごめんなさいね。あなたは先生ってことで入ることになるから……」 「せんせい?」 それもまた、聞きなれない言葉だ。沙羅は再び紙にペンを走らせる。 「先に生まれた、と書いて先生。いろんなことを教えてくれる人のこと。だから、あなたもあそこで読み書きを子供たちに教えるのならば、子供たちにとってあなたは『先生』になるの」 「じゃあ、私にとって、沙羅は先生?」 沙羅は不意をつかれたような表情になって、それからクスクスと笑い出した。 「だって、私にいろんなことを教えてくれたもの。だったら、私にとっては、沙羅は先生ではないの?」 「そう……ね。確かにそうとも言えるわね。まあそれはいいとしても。どうする?沙耶。やってみる?」 少し照れたように沙羅は訊ねる。沙耶は、即答するのを一瞬躊躇した。『教える』という行為が果たして自分にできるのか、という不安もある。 「……はい。やってみます。お願いします、『先生』」 沙耶はそういって笑った。つられるように、沙羅も笑う。くすぐったいような、それでいて嬉しいような。沙耶はそう感じながら笑いつづけていた。 |
翌日。 沙耶は、沙羅と一緒に図書館へ行った。無論『学校』へ行くのである。 沙羅について図書館の奥へ入っていくと、やや薄暗い通路の、いくつかある扉のうちの一つに入った。そこはちょっと広い部屋になっている。 小さな机が二十ほども並んでいて、それらはすべて同じ方向を向くように椅子が配されている。そして、それらの机と向かい合うように、大き目の机が一つ。その机の後ろの壁には、何か大きな黒っぽい、やや緑がかった板がある。その下にはといのようなものがあり、白い棒がいくつか置いてある。机はともかく、黒い板や白い棒は始めてみるものだった。 「今日は、やり方も分からないでしょうし、私のやることを見ていて。良ければ、明日から手伝ってもらうから。正直、人が本当に足りなかったから、助かるわ」 沙羅はそういうと椅子を持ってきて、その部屋の黒い板のある壁と逆側の壁のそばに置いた。 「とりあえず、ここで見ていて。もうすぐ、子供達も来ると思うから」 沙羅の言葉が言い終わらないうちに、元気な声が聞こえてくる。ややあって、十歳にまだなっていないだろう、という子供が入ってきた。「おはようございますー」という元気のいい声が心地よい。 そして入ってきた少年は、沙耶を見て、それから沙羅を見て、驚いたようにきょろきょろしている。当たり前だろう。あまりにもよく似ているのだ。 「私の妹の沙耶。今度からここで、みんなの先生になる予定なの。今日は見習いよ」 打ち合わせていた通りに、沙羅は説明した。実際、これで疑うものはいないだろう。この街に住む人々に、出生記録などありはしないのだから。 「ふーん」 少年は沙耶を値踏みするようにまじまじと見た。こう見られると、なぜか緊張する。 「おれ、健太。よろしく」 いきなり少年はそういって、沙耶に手を差し出した。沙耶がびっくりして沙羅の方を見ると、沙羅はニッコリと笑って頷く。 沙耶は少し戸惑いながらも、その少年の手を取った。 少年は、ぶんぶんと手を振って、それからもう一度「よろしく、新しい先生」と言うと椅子の一つに座る。 ややあって次々と来た子供達に、沙耶は毎回同じことをすることになった。 |
「どう?できそう?」 『授業』が終わった後、子供達を見送った沙羅は、沙耶に聞いてきた。 「はい。出来ると思います」 実際それほど難しいことをやっているわけではない。年齢によって、教えることは違うようだが、内容は沙耶にとっては改めて知識を引き起こす必要すらないほどのことだ。 「そか。じゃ、手続きしないとね。こっち来て。校長先生に話すから」 沙羅はそういうと、荷物をまとめて部屋を出る。沙耶はそのすぐ後に続いた。連れていかれた部屋は、あまり飾り気のない部屋で、大きな机と、壁に二つほど大きな本棚がある。入る前に扉の前にあったプレートには『館長室』とあった。部屋の中央に、五十歳くらいの女性が立っている。沙羅とは別の感じで、とっても優しそうな気がした。 「この子が、この前話した、私の妹の沙耶です。それで、この子も読み書きは完全に出来るので。そのまだ若いですけど……」 沙羅がちょっと言いよどむようにしているのは、沙耶には珍しかった。 「ええ。先生は本当に不足していましたから。ぜひお願いしたいわ」 その女性は、そういうと沙耶の前に来て、その手を握る。 「よろしくお願いしますね、沙耶さん」 その手は、沙耶にはとても大きく、そして暖かく感じられた。この人の暖かさ優しさが伝わってくるようだ。 「はい。精一杯がんばります」 |
翌日から、沙耶も『学校』で主に読み書きを教えることになった。といってもやることは難しいものではない。 沙耶が受け持つことになったのは、月曜日から木曜日までの四日間。毎日3時間ほどである。 読み書きを習いに来る子供は、当然だが幼い子が多い。大体五、六歳くらいから十歳くらいだ。小さな子供には、ひらがなやカタカナを教えて、ある程度大きな子には、基本的なものを中心に漢字を教える。合わせて、アルファベットも教えていく。また、読み書きの他にも簡単な歴史の授業もやる。これも、それほど難しいことではない。 無論、個人によって飲み込みの速さの差もある。そういったものも考慮しなければならない。最初見たときは簡単そうに思えたのに、実は意外に大変だった。ちょっと沙羅を恨みたくなったが、言い出したのは自分だし、それに子供達と話している時間は、思っていた以上に楽しいものだった。 沙羅は時々古い知り合いが経営する酒場の手伝いをすることがあった。この日は帰りが遅くなる。この日は、沙耶が食事当番になっていた。これも沙耶が望んだことである。 もちろん料理など全くやったことはない。沙羅の書いてくれた紙の説明書――レシピと言うらしい――の通りにやっても、上手くいかない。けれど、それでも沙羅は食べてくれるので、次は美味しいものを作ろう、といつもがんばるのだが、やはりあまり上手くいかないのだ。 「そう気負わなくていいわよ。私だって、始めはひどかったもの。一度なんてお魚まっ黒にしちゃって、煙がすごく出て、近所の人に火事だと思われたことあったし」 いつもあっさり食事を作ってみせる沙羅からは、想像できない。でも考えてみたら、沙羅はもう十年以上も一人で暮らしてきたのだ。料理することすら知らなかった自分がいきなり作れるようになるはずもない。 「あ、でもね。あんまり失敗続きだと困っちゃうな」 沙羅はクスクスと笑いながら、沙耶が失敗した野菜スープを食べている。野菜を大きく切りすぎて、野菜スープと言うより、野菜サラダにスープをかけたようになってしまったものだ。 「見た目はともかく、味は悪くないから。あとは、ちょっとしたセンス」 沙耶は「そうかですか?」と言いながら、野菜を口に運んだ。 時計が、午前一時を示す。酒場での仕事の日は、いつも遅い夕飯だったのだが、沙耶が夕飯を作るようになってから、さらに遅くなった気がする。多分気のせいではない。 「さて、片付け片付け。お風呂、入ってなさい」 後片付けは沙羅がいつもやっている。食べ終わって空になった食器を流し場に持って行く。その間に沙耶は寝間着を取り出して風呂に向かおうとして、ふと立ち止まった。 「沙羅、一緒に入りません?」 沙羅はちょっとびっくりしたような顔になったが、少し考えた後、 「いいわよ。ちょっと待ってて」 と言うと、手早く食器を洗い終えて、自分の寝間着を取り出した。 「どうしたのかな、この甘えん坊さんは」 からかうような、沙羅の口調は、なぜかは分からないが沙耶にはとても心地良いものだった。 |
この時代、一般的には風呂というのはシャワーが普通なのだが、沙羅の家には古い、いわゆる日本式の風呂があるのだ。この風呂があるから、沙羅は実はこの家を選んだのではないか、と沙耶は思っている。実際、このお風呂は気持ちがいい。 先に沙耶が風呂場に入って、すぐあとに沙羅が入ってくる。湯船に湛えられたお湯を、沙耶が手桶ですくって自分にかけ、もう一度すくって沙羅にかけた。 「うーん。悔しい」 突然沙羅が言う。 「同じような顔していても、肌のハリが違うなあって。ちょっと悔しい」 「でもそれを言ったら、沙羅の方がずっと綺麗です。私より……」 改めて見ると、沙耶と沙羅ではかなりスタイルが違う。年齢差もあるのだろうが、以前借りた沙羅の服、というのも胸は余ってたのにその他はちょうど良かった。以前の自分ならそんなこと欠片も気にしない――というより胸などないほうが動きやすいと思っていただろうが、これもここでの生活の影響だろうか。 「そんなの、沙耶はこれからだって。でもね〜。お肌のハリだけはどうしようもないのよ〜」 そういいながら、沙羅は、沙耶の肌に指を伝わせる。一瞬、ゾクッとして思わず体を引いてしまった。沙羅は、それが面白かったのか、またやろうとする。 「くすぐったいー」 沙耶の抗議をしばらく無視して遊んでいた沙羅は、まるでそのバチがあたったように滑って転んでしまった。その体勢がひどく滑稽に見えて、沙耶は思わず声を出して笑ってしまう。そのとき、沙羅の背中に手のひらぐらいの大きさの、火傷のような痕があるのを見つけてしまった。 「いたたた……。どうしたの?って、ああ、これね。すっごい昔。覚えてないくらい前からあるの。別にもう痛くもないから」 確かに、すでに傷はふさがってしまっている。けど、当時は相当痛かっただろう。沙羅が、この街に来た時にあったというスラム狩りの時にできたものだろうか。 「なに考え事してるの?ホラ、体が冷えて、風邪引いちゃうわよ」 言うが早いか、沙羅は手桶で沙耶にお湯をばっとかけた。沙耶は頭からお湯をかぶってしまう。 「いきなり……私も!」 沙耶も同じように手桶でお湯をすくって沙羅にかける。結局水遊びならぬお湯遊びになってしまった。 翌日。 先生のうち、二人が風邪気味だったのは、言うまでもない。 |
失われた記憶の向こう側に対する不安はないわけではい。だが、沙耶にとって、静かな、安らぎに満ちた生活が続いていた。 沙耶は、この生活がいつまでも続くといいな、と願っていた。 |