前へ 次へ


エピローグ




「沙耶、そろそろ行かないと遅れるぞ」
「はいはーい」
 沙耶は薄手のコートを半分羽織った状態で玄関から出てきた。
「あ、しまった。テキスト忘れてる!」
 そういうと、踵を返して慌ててまた家の中に戻る。一分ほどでまた出てきた。
「お待たせ。行きましょ」
「少し急ぐぞ。俺達が子供達より後だと、格好がつかないからな」
 陣が先に走り出す。
「待って。鍵まだかけてない」
 沙耶は急いでポケットから鍵を取り出した。

 あれから二ヶ月が過ぎていた。
 あの時。
 完全に解放された沙耶の能力はランドマークタワー全体を襲った。コンクリートが弾け、窓ガラスは砕け、そして支柱となっている鉄筋の全てが粉々になった。
 ほんの一分ほどでランドマークタワーは瓦礫の塊となり、崩れ切ったのである。その様を見ていた横浜の住人は、「まるで砂山が崩れるようだった」と表現した。
 沙羅は死んでいた。沙耶の能力を解放する鍵が、沙羅自身だったのである。沙耶の能力は、沙羅をも遥かに凌ぐほど強力だったのだ。それがクロリアに気付かれると、沙耶はもはや完全に実験体にされてしまう。だから沙羅は、生まれてすぐの沙耶の力を封印したのだ。彼らに廃棄処分にされない程度の力を残して。けど、それでもなお逃げるだけの力が身についた時に、逃げ出すように暗示をかけて。そして、逃げ出した沙耶が沙羅に会った時に、その力すら封じた。普通に生活する上では、むしろ危険なものだからである。ただあとからかけた封印は、沙耶の手で解除されている。しかし、最初の沙羅の封印は非常に強力で、実は沙耶の力は、いわばその封印から洩れ出ていた力だったのだ。
 タワー崩壊後も、クロリアは何も変わっていない。ランドマークタワーの崩壊については、大規模なテロと報じられた。実際、全部間違いというわけではない。あれも立派なテロだろう。
 月宮一樹は生死不明で行方不明といわれている。だが、あれで生き延びれたとは到底思えない。
 特殊能力者たちがどうなったのか、沙耶も陣も気にはなっていたのだが、どうやらほとんどはタワーの崩壊に巻き込まれたようだ。さすがに念動力をもってしても、崩れ落ちる瓦礫を支えることはできなかっただろう。陣でも不可能だ。
 だが、だからといってクロリアという企業全体が揺らぐようなことはない。無論、特殊能力者の研究に関しては相当後退しただろう。第一人者であった月宮や素の配下の者達がいなくなり、また、彼らの抱えていた特殊能力者もほとんどがいなくなったのだ。
 しかも、とどめとばかりに、沙耶はクロリアの本社であるスパイラルタワーに転移能力(テレポーテーション)で潜入し、特殊能力者の研究に関するデータを全て破壊してきたのだ。公開も考えなくはなかったのだが、自分や陣にも影響が出る可能性があることを考慮したのである。
 その後、沙耶と陣はかつての沙羅の家に住んでいる。沙羅の遺体は、スラムにある共同墓地に葬ってもらった。その葬儀には、驚くほどの人々が弔いに来てくれた。
 結局沙羅と沙耶の関係は姉妹ということで通してしまった。さすがに真実は言えるものではない。
 スラムの人々はきっと色々大変だったんだろうね、と言って何も詮索しないでくれた。実際この街に移り住んできたりする者は、何かしら過去にあった者達ばかりなのだ。その心遣いが沙耶には嬉しかった。だから、またこの街に住もうと思ったのかもしれない。
 そして沙耶は、再び学校の先生になった。陣も一緒である。他に仕事がなかったからというのもあるが、沙耶はまたこの仕事がしたかったのである。沙羅に教えてもらったこの仕事が。
 陣にも勧めたのは、少しでも愛想がよくならないだろうか、と思ったからだ。このことは彼には内緒である。でも最近、少し愛想がよくなったような気はする。
 実はそれは子供達だけのおかげではないのだが、沙耶はまだそれに気付いてはいない。
 当たり前の、ごく普通の人間としての生活。
 沙羅が望み、そして沙耶にも送ってもらいたいと望んでいたその暮らしを、沙耶はようやく手に入れていた。

「おい、早くしろよ」
 一瞬、過去に想いを馳せていた沙耶は、陣の声で現実に立ち戻った。
 あわてて扉を閉めようとするところで、玄関に置いてある沙羅と一緒に撮った写真が目に入る。あのハイキングの時に、駅で撮った写真だ。
 二人で並んで撮っているのだが、その時に沙羅が指を二本立てて、それがなんだか聞いた記憶がある。ただ、実は沙羅もよく分かっていなかった。そんな小さな思い出が、沙耶の中にはまだたくさん溢れていた。
 そのうち、この思い出も風化していくのかもしれない。
 けど、沙耶は忘れない。
 自分には、世界で一番素敵なお母さんがいたんだ、ということを。
 写真の中の沙羅は、こちらに視線を向け、まるで何かを言っているように見えた。
 沙耶もその沙羅に視線を合わせる。そして、にっこりと微笑んだ。
「行ってきます、お母さん」
 扉を閉めて、鍵をかける。
 見上げた空は、どこまでも青く澄んでいた。




  後書き

目次へ戻る