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混迷の王国




 トラキアに出現した暗黒竜。それに伴うと思われる大陸各地の暴動は、イザーク、シレジアを除く大陸のほぼ全域で勃発していた。
 どこからか軍が攻めてくるわけではない。突然、それまでの隣人が暴徒と化すのである。
 各国とも、セリス王からの通達――ロプトウスの魔道書が奪われたこと――を受けて、暗黒教団の行動があるものとばかり思っていた。だが戦いは、まるで予想できなかった場所から起こったのである。
 各国、各都市共に混乱し、指揮系統は寸断された。実はバーハラはまだいいほうであったのだ。地域によっては、騎士や官僚の中に、正気を失う者が出た地域もあったのである。

「くっ……」
 相手の剣が、わずかにわき腹をかすめた。幸い、皮革の胴鎧をわずかに裂いただけで傷を負うことはなかったが、体はもう疲労による限界を訴えていた。
 立て続けに突きこまれる剣を、どれも紙一重でかわすと、一瞬できた隙に早口で言霊を繰る。それに応えて、掌中に出現した光は、次の瞬間轟音と共に解き放たれ、閃光が敵兵を――少し前までの部下――を貫いた。
 魔法は手が痛むことはない。だが、心が痛む。しかし、手加減をしている余裕もない。
 フリージ公国のゲルプリッターは、グランベル六公国の騎士団の中でも随一の錬度を誇る――それをまさか自らの身で確認することになろうとは思いもしなかった。
 今朝までは、本当に何事もなかった。
 ただ、待機命令が出ていたことから、何事かはあるのだろう、とは思っていた。だが、突然内乱めいた状態になるとは誰が想像できよう。
 嫌な感じ、とでも言うべきか、その気配を感じたのは昼前。
 それが何だったのかは、今も分からない。
 ただ、その直後に扉の向こう側――見張りがいるはずの――でうめき声や争う声が聞こえ、何事かと思ったところに突然襲われた。
 常日頃から公家の親衛隊として武装していたのが幸いした。だが、フリージ公国の騎士ではトップクラスの実力があるという自負があるが、いかんせん多勢に無勢だ。
 逃げ出せればまだ良かったのだろうが、この後ろは公家のプライベートエリアであり、そこに暴徒を入れることなどできようはずもない。
 しかも何人倒しても、暴徒は次から次へと現れる。
「このっ……!!」
 一瞬距離を開けることができたその隙に、呪文を完成させる。雷の上級魔法トローンが、暴徒に容赦なく光の牙をむく。
 だが、並の人間なら一撃で絶命する一撃も、同じゲルプリッター相手にはやや効果は薄い。まして、相手は痛みを感じていないのか、雷撃によって焼け爛れた肉体を気にもせずに、そのまま突っ込んでくる。
「しまっ……」
 雷撃を放った直後の、一瞬の硬直。
 本来であれば、雷撃を受けてまともに動くことができないはずなのだが、この相手はその常識が通じなかった。
 そして、予想もしなかった攻撃がそこに来たのである。  焼け爛れ、崩れ落ちそうになっている左腕を、なんと思い切り振り回すと、その左腕がそのまま千切れて飛んできたのだ。
 普通に戦場で戦っている限り、絶対にあるはずのない攻撃だった。
 衝撃が頭を揺らす。
 一瞬視界が黒くなり、再び明りを取り戻した時、眼前に剣の切っ先が見えた。文字通り、目の前。あと、手の幅ほども突き出せば、自分の額に突き刺さる位置。
 死んだ、と思った。
 だが、その死の刃は、額に突き刺さることなく、逆に急速に遠のいていった。
「無事か、クレオ殿!!」
 その声に、はっとなって振り返った。
 立っていたのは、黒髪の長身の男性。その手にあるのは、長大な槍である。
「オルヴァ殿、助かりました」
 オルヴァ、と呼ばれたその男は小さく頷くと、その槍を勢いよく振り回した。
 その柄に打たれて、敵が吹き飛んでいく。
「俺が敵を防ぐ。その間に、魔法を頼む」
 はい、と頷くと、一歩下がり、立て続けに魔法を唱える。轟音と共に放たれる雷撃は、戦いながら発動させたものとは比較にならない精度と威力をもって、敵に襲い掛かった。

「無事で何よりだ」
「ありがとうございます。助かりました」
 広間に転がる死体は、ゆうに十体を数える。大半は雷の魔法によって絶命した者で、焦げ臭い、嫌な臭いが辺りに満ちていたが、これはどうしようもない。
「それにしてもこれは一体……」
「俺にもわからん」
 彼は、お手上げ、とばかりに両手を広げる。
 オルヴァ――正しくはオルヴァス・フレジアというフリージの騎士である。
 年齢は三十を過ぎたあたりのはずだが、詳しくはクレオも知らない。ただ、自分より年上だ、というのは確かのはずだ。
 槍と魔法に優れ、若くしてゲルプリッターの幹部となったが、その勤務態度が問題になり降格された――という噂の持ち主だ。果たしてそれが真実であるかはクレオは知らない。
 ただ、万事にいい加減、という噂は必ずしも事実無根であるとは限らず、この辺りが彼がその実力を評価されない所以かもしれない。
 クレオは、本名をクレオ・ウィエといい、フリージ貴族の娘である。若くしてゲルプリッターに入団し、特に魔法の力に秀でていて、ゲルプリッターでも頭角を現した。二十五歳になった時には部隊長を務めるほどになっていたが、そこでフリージ公家の親衛隊に配属されたのだ。そこにいたのがオルヴァスだった。
 やや型破りなオルヴァスと生真面目なクレオでは、気が合うはずはないのだが、なぜか一緒にいることが多い。
「一体何がどうなって……」
 クレオはわずかに唇を噛む。
 先ほど打ち倒した中には、かつての同僚までいたのだ。彼は、フリージ家の騎士として誇りを持ち、間違っても裏切りなどやるような人間には見えなかったのに。
「とりあえず、俺達の仕事は公爵閣下と、公子様達の守りだ。幸い、この先の暴徒はほとんどいなかったから、もう片付いているが……」
 どうやら、クレオがここを守っている間に、この奥はオルヴァスが片付けてくれていたらしい。
「とにかく、一度公爵閣下に……」
 言いかけたところで、ドォン、という大きな音が響き、同時に壁が、床が、柱が大きな揺れに襲われた。
 二人は一瞬顔を見合わせ、すぐその音の方向――城門へと駆けていく。
 そこで見えたものは、信じがたい光景だった。
「なっ……」
 そこにいたのは、巨大な怪物、というべきか。
 普通の人のゆうに三倍以上ある巨大な体躯、その手にあるのは巨大な棍棒。人の形はしているが、人ではないのは明らかだった。その肌は、血の通った肉体ではなく、石で出来ていたのだ。
「ゴーレム……?」
 かつて、魔法の研究が盛んに行われていたロプト帝国時代に作られたという、石の巨人。すでに製法も失われ、十二聖戦士達によってことごとくが破壊されたとされる、幻の兵器だ。
 それが今、目の前にある。それも――
「考えたくないが、見えるの全部そうかよ……」
 その数、十体。
 すでに多くの兵がそのゴーレムと戦ったようだが、なす術はなかったらしい。無理もない。剣が効く相手には見えないし、雷の魔法でも、どの程度効果があるのか分からない。
「やるしか、ねえか」
 勝てる相手ではないだろうが、食い止めなければフリージ城が敵――何者なのか分からないが――に蹂躙される。それを防ぐのが彼らの役割だ。
 幸いというか、ゴーレムの動きはそれほど速くはない。よく見て落ち着いてかかれば、その攻撃を避けるのは難しくない。ただしそれは、あくまで相手が一体の場合だ。
 ゴーレムの攻撃は、巨大な棍棒による打撃が主であるが、その打撃のうち、上段から振り下ろされるそれは、その他とは速さが違う。また、考えたくもないが、直撃した場合、文字通り生きたまま潰される事は想像に難くない。まあ、一瞬で絶命するだろうが。
 そしてそれが複数の方向から同時に来ると、もはや避けるのに必死で、攻撃する間もありはしない。
 それでも、クレオやオルヴァス、それに他のフリージ兵や傭兵は良くがんばっていた。
 だが、有効な攻撃をまるで繰り出せない彼らと、かすりでもすれば大打撃になるゴーレムではそもそもが勝負にならない。
 そして、一瞬の隙は、そのまま死に直結する致命の間合いとなる。
 ずずん、という背筋が凍りそうになる一撃が、クレオのすぐ真横に落ちた。ほとんど紙一重だ。その、凄まじい一撃で巻き起こされた爆風が、一瞬クレオを舞い上がらせる。
 クレオは、その硬直から即座に立ち直ると、数歩後ずさり、その場で魔法を放とうとした。何度か見て、ゴーレムが棍棒を振り下ろした直後にはかなり大きな隙があるのが分かっている。
 ところが。
 その、振り下ろされた棍棒が、ありえない速度で真横に弾け飛んできたのだ。
 一瞬、その棍棒の向こう側に、別のゴーレムの棍棒が見えた。おそらく、玉突きの容量で棍棒を弾いたのだろう。
 避けられない、と判断したクレオは、真後ろに飛んだ。少しでも衝撃を和らげよう、と思ったのだ。
 その彼女が飛んだ速度の数倍で、棍棒が迫る。反射的に剣をかざしたが、それは一瞬で乾いた音と共に折れ、クレオは棍棒を直撃した。
「あぐっ」
 全身がばらばらになるかと思った。それほどの衝撃だった。
 不幸中の幸いは、クレオが吹き飛んだ先に植え込みがあったことだろう。クレオはそこに、受身も取れずに突っ込んだが、植え込みと柔らかい土のおかげで、少なくとも即死は免れた。
「クレオ!!」
 遠くでオルヴァスの声が聞こえる。だが、クレオの視界は急速に閉ざされていった。
 ただ、わずかな震動から、ゴーレムが自分に近付いていることを、どこか遠くで感じながら、クレオの意識は闇に落ちた。

 ドガァ、と表現するしかない音が響き、その巨大な石像は、文字通り木っ端微塵になって吹き飛んだ。
 その向こうに立っているのは、柄の長さだけで身の丈ほど、刃の大きさに至っては、子供が完全に隠れることが出来るのでは、という巨大な斧を持った、少年。
 余人がほとんど手も足も出ない相手を、文字通り一撃で彼は撃砕した。
 そのある種のでたらめさには、驚くを通り越して呆れてしまう。
 自分の雇い主でありながら、本当に彼を守る必要があるのか、という疑問を、アーウィル・クロフォードは感じずにはいられなかった。
 街でよく会う、気の合った友人。彼――ヨハンの、つい先日までのアーウィルの認識である。
 お互いの仕事の話などすることはほとんどなく、酒場でのバカ騒ぎ仲間、というのが彼との付き合いだった。ただ、どうやらそれなりの身分ある人間らしい、と分かったのは十日ほど前。かといって、それほど付き合いが変わることもなかったが、先日、軍が傭兵を募集し、アーウィルがそれに応じようと思ってる、とヨハンに話したところ、だったら俺に雇われろ、というので雇われたのだが――。
 その彼が、まさかドズル家の公子、それも、聖斧スワンチカの継承者だったとは、思いもしなかった。
 アーウィルが知るはずもないが、この心境はバーハラにいるアルフィリアなら、きっと同意してくれるだろう。
 頼むからそんなところを公子が出歩くな、と。
 とはいえ、契約してしまった以上、アーウィルはヨハンの護衛となったわけだが、それで何が変わるかというと、何も変わりはしなかった。遊び相手が欲しかったんじゃないか、といぶかしんだほどである。
 だが、それは突然起きた。
 街の人々や、グラオリッターの一部の暴徒化、さらには巨大な石の巨人――アーウィルはゴーレムというのを知らない――の襲撃。街はもちろん、城も大混乱になり、指揮系統もむちゃくちゃな状態での乱戦が始まった。
 暴徒はともかくゴーレムに対抗する有効な手段はほとんどなく、アーウィル達が絶望を感じ始めた時、ヨハンが現れたのだ。
 その手にある巨大な斧が、ただの斧ではない事は一目で分かった。そしてヨハンは、その巨大な斧を、まるで細棒を扱うかのように軽々と振り回すと、横殴りにゴーレムへと斬りかかったのである。そしてその刃は、造作なくゴーレムのその石の体に食い込み、そこから無数の亀裂を発して、ゴーレムは木っ端微塵になってしまったのだ。
 そこからは、ヨハンの独壇場に近かった。圧倒的な戦力を誇ったゴーレムも、その斧――おそらくは聖斧スワンチカ――の前では、雑兵に過ぎなかったのである。
 十体近くいたゴーレムは、アーウィルらがゴーレム以外の暴徒を何とかする間に、ヨハン一人の手によって全滅していた。
「……すごい……な」
 それしか言葉はない。
 これまでも幾度も吟遊詩人のサーガなどで聞いてきた聖戦士の力、というのを、文字通り目の当たりにしたわけだが、その力は正直想像を遥かに超えていた。
「ま、ウィル達が他を何とかしてくれてたからな。俺一人じゃ、ちょっと辛いよ」
 確かにこの場にはゴーレム以外にも暴徒が百人近くいたが……本当に『辛い』のかはかなり疑わしい。
 とはいえ、今のアーウィルの仕事は彼を守ることなのだ。これに疑問を持ってしまっては仕事が出来ない。
 アーウィルは一度首をぶんぶん、と振ると、それに関しては考えないことにした。
 街もかなり混乱していたようだが、どうやらこちらも事態は収束しつつあるらしい。あくまで、今は、だが。
「しかし……これは一体どういうことなんでしょうか、公子」
「さぁなぁ……俺もよくわからねぇ。ただ……暗黒教団が関わっている、ってぇ話だけどな」
「暗黒教団!?」
 アーウィルにとって、暗黒教団というのはお話の中だけの存在だ。
 生まれた時はすでに聖戦は終わっていて、暗黒教団もロプト教団として、わずかな人々が信仰を守るだけの存在でしかなかった。いわば、アーウィルにとって、暗黒教団というのは御伽噺に出てくる悪い魔法使いと同じようなものなのだ。
「まあ、ウィルなら言ってもいいか。一応、他言するなよ」
 だからそういう秘密なら言うな、と言いたいが、そういわれると聞きたくなるのが人である。
 アーウィルは「分かった」と頷いて、ヨハンの続きの言葉を待った。
「バーハラに封印してあった、ロプトウスの魔道書……つまり、ロプトウスの神器だな。これが、何者かに奪われたらしい。それに、トラキアでは暗黒竜が出現したって話もある」
 アーウィルの頭の許容量は、一瞬でその最大値を振り切っていた。

 カツン、と杖が大理石の床を叩く音が響いた。直後、ばたばたばた、と人が折り重なるように倒れていく。
「ふぅ……」
 その杖の持ち主――エッダの公主であり、ブラギの継承者でもあるコープルは、安堵の溜息を吐いた。
 どうにか、魔法が効いたらしい。
 彼の周囲には、武器を持った兵が数十人、すべて倒れ伏していた。
 突然感じた、強烈な闇の波動。そして直後に、エッダのあちこちで人が暴徒と化し、それは城内の兵にまで及んだ。
 エッダは、他の公国とは異なり、独自の騎士団を持たない。元々、公国とエッダ教団は、ほとんど同一の存在であり――ブラギに住む者全員が教団の人間というわけではないが――それゆえ、特に治癒系魔法を修める者が多く、それらに特化した者達で編成された部隊、魔法師団がある。
 彼らは攻撃力という点においては皆無に近い。代わりに、眠りの魔法や、動きを封じる魔法などで敵に対抗する。
 ところが、今回の暴徒は魔法に対する抵抗力が上がっているのか、それとも元々魔法に対して強い者が多いためか――エッダは他の地域に比べても、魔法に馴染んでいる者が多く、必然的に魔法に強い者が多い――ほとんど効果がなかったのである。
 結果、魔法師団は総崩れとなって、公爵の居城へと暴徒がなだれ込んだ。
 だがそこで、公主コープルは、その手にある杖――神器たる聖杖バルキリー――を振るうと、あっさりと暴徒全員眠らせてしまったのである。
「この者達を一応縛っておきなさい。魔法を解いたわけではありませんから」
「魔法……?」
 コープルの言葉に、司祭の一人が訝しげに首をかしげる。
「彼らは魔法で暴徒と化しているだけです。魔法はあとでまとめて解きましょう。いつかけられたのかは分かりませんが」
 暴徒の中に、何かの魔法があるのは分かった。ただ、魔法というより、半ば呪いに近い。幸い、コープルはバルキリーの力で一時的に彼らを眠らせることが出来たが、呪いを解くには至らなかった。エッダの後継者である自分でこれなのだから、他の地域では暴徒に対するにはおそらく武力をもってしかないだろう。
 これがこのエッダだけで起きた異変とは考えにくい。先ほど感じた、強烈な闇の波動のことも気になる。
 すでにバーハラから、ロプトウスの魔道書が奪われたことは聞いている。無関係であるとは思えない。
 今出来ることは何か、と考えるが、もしこの争乱が大陸中で発生しているとなれば、バーハラのセリスと連絡を取ることすら難しいかもしれない。
「当面、こちらで対処していくしかなさそうですね……」
 一応、セリスの指示で傭兵を集めてはいたが、元々エッダという街の特性上、集まった数は非常に少ない。
「とにかく、こちらの体勢が整わない限りはなんとも出来ませんね……」
 姿の見えない敵と戦うというのが、これほど難しいとは思わなかった。戦いといえば目の前にいる敵を倒せばいいはずだった。だが今回、敵は未だにその姿を見せない。今回の暴徒は、あくまで彼らに利用された者でしかないはずだ。
 そしてその敵の中心に、ロプトウスの魔道書があるのだろう。
 ただ。
 かつての暗黒教団でも、これほどのことは出来なかったように思える。あるいはもしかしたら、今回の敵は暗黒教団より強大な存在なのだろうか。
 その想像ゆえか、まだ寒さの感じさせる季節ゆえか、コープルはかすかに震える自分を自覚した。

「バカな……」
 オイフェは、その光景を、ただ呆然と見ていた。
 大陸各地で突然発生した暴動は、当然シアルフィでも起きていた。ただ、オイフェは知る由もなかったが、その暴動の規模は、他の地域に比べると驚くほど小さいものだった。
 元々精強なグリューンリッターの力もあって、暴動はあっさりと鎮圧され、オイフェらは原因究明を図ろうとした、その時であった。
 人々が空を指し、何かを言っている。オイフェもまた、空を見上げ――そこで『それ』を見た。
 たとえるなら、黒い星だろうか。
 その、巨大な『闇』の塊は、凄まじいまでも悪寒にもにた感覚を周囲に撒き散らしていた。
 それはそのままシアルフィの市街の城門付近に落ち、次の瞬間、視界が灼けた。
 黒い、天をも焦がすような巨大な炎で。
 巨大な赤い炎というのは、人間の奥底にある炎に対する原始的な恐怖を呼び起こすという。
 だが、この時シアルフィにいた――爆発に巻き込まれなかった――者達が感じたのは、炎に対する恐怖ではなかった。
 もっと根源的な、純粋な恐怖。意志の弱い者は、それだけで心を砕かれそうな、怨嗟にも似た、死の国の悲鳴。
 それが、シアルフィに住まうすべての者に、襲い掛かったのだ。
 そしてパニックが起きた。
 それは、精強をもってなるグリューンリッターでも例外ではなく、指揮系統は完全に混乱し、市街は恐怖に狂った人々があふれた。
 オイフェはかろうじて正気を保ったが、自らが動けるようになった時、すでにシアルフィの街も城も回復不可能なまでに混乱しきっていた。

 その頃、ユングヴィでも混乱が広がっていた。
 ユングヴィもまた、シアルフィ同様暴動の規模は小さかった。また、シアルフィのように『闇』が飛来したりもしていない。
 だが、ユングヴィ公国第二の都市――ユン河を隔てて境を接するエバンス――に、『闇』が落ちたのである。
 そしてその日から半年に亘って、エバンスから生者は消えた。

「よぉ。生きてるようだな」
 クレオが目が覚めて、最初に飛び込んできたのは、白い天井だった。
 体の節々が痛む。だが、特に大仰な包帯などは巻かれてはいない。
「痛みはもうないはずだ……と言ってたが、どうだ?」
 その時になって、クレオはすぐ横にオルヴァスがいることに気がついた。
 首を横に倒すと、周囲には何人かの兵が寝ているが、やはりそれほど酷い怪我の者はいないように思える。
 だが――。
「よく私が、無事だったな……」
 気を失う寸前のことは覚えている。正直、死んだと思ったのだが。
 朧げに記憶が蘇る。確か自分は、ゴーレムと戦って――
 そこまで思い出したところで、クレオはがば、と体を跳ね上げた。節々が、その突然の動きの抗議を痛みで主張するが、クレオはわずかに顔をしかめただけで、オルヴァスに詰め寄る。
「敵はどうなった!? あの、石の巨人どもは!?」
「お、落ち着け。とりあえず、そいつらについては終わったよ」
「終わった……?」
 あの、強大な相手を、しかも十体も。いったいどうやったというのか。
「オルヴァ、貴方が?」
 オルヴァスはその問いに、まさか、と肩を竦める。
「俺じゃねえ。公女様だ。いや、正しくは……フリージの継承者、と言うべきかな。ほら、あそこ」
 そこには、茶色の髪の、活発そうな少女が、兵士達に治癒魔法をかけて回っている。自分も、あの少女にかけてもらったのだろうか。
 そこまで考えて、クレオは自分の怪我が、とんでもなく酷いものであったはずだ、と思い出した。それこそ、あのままであればそうかからず死ぬであろうほどの傷であったはずだ。
「フリージ公家の養女――シャリン公女だ。聞いてはいるだろ?」
 その名前は、無論クレオも知っているし、幾度か話もしたことはある。
 現在、フリージを治める公爵はアミッド卿だ。彼は、前フリージ公ブルームの妹、エスニャの息子である。父親は、シレジアの魔道士らしいが、詳しいことは分かっていない。
 フリージは、聖戦後にかなり公爵が替わっている。
 最初に公爵位に就いたのは、エスニャの姉、ティルテュの娘ティニーだった。
 彼女の父は、グランベル六公家の一つ、ヴェルトマーのアゼル卿であり、アゼル卿は先の皇帝アルヴィスの弟でもある。アルヴィス皇帝の弟というのは、血縁上はかなり多数存在するらしい――イザークのリボー公もその一人らしい――が、ヴェルトマーの姓を名乗ることが許されていたのは、アゼル卿ただ一人だったらしい。
 いずれにせよ、歴代では珍しい女公爵であったが、ティニー公女の兄アーサー公子は、ヴェルトマーを継承しなければならなかったため、彼女がフリージを継いだ。しかしその後、ティニー公女はシレジア王セティと結婚、シレジアへ嫁いだため、フリージは継承者不在となるところで、アミッド公子が継承することになったという。
 実は、聖戦終了直後にアミッド公子が継承する、という話もあったらしいが、アミッド公子がそれを拒絶したという話もある。
 このせいか、アミッド卿に対する風当たりはかなり強かった。
 継承順位からいえば確かにアーサー、ティニー両公女に次ぐが、父親がはっきりしないこと、また、グランベル全体にシレジアという土地に対する蔑視的な考えが存在すること、そして、アミッドと、彼の妻フェミナの間に、継承者が生まれないのではないか、という懸念が存在したことが理由だ。フェミナ公妃がごく普通の平民の出自だというのも理由の一つだ。
 実際、彼らの子に継承者は現れなかった。ただ、彼らも、そしてフリージの貴族も予想もしないところに、継承者が誕生したのである。
 アミッドの父親違いの妹であり、聖戦後、解放軍の騎士の一人と結婚していたリンダの娘が、昨年、継承者であることが分かったのである。
 それが、シャリンである。
 これには、貴族達も、アミッドも困ったらしい。
 過去、他家へ嫁いだ王女の家に神器が受け継がれてしまった例が、アグストリアにあるが、この時はアグスティ王家とノディオン王家はあくまで対等の王国であった。それゆえ、アグスティ王家はノディオン王家の絶対の忠誠を誓約させる代わりに、ノディオン王家が魔剣ミストルティンを継承するようになったのだ。
 だが今回、フリージ公とフリージの貴族という立場の違いが存在する。
 結局、シャリン嬢がフリージ公家の養女となることで落ち着いたのだが、そのシャリンに対する風当たりは、アミッドに対するそれを凌いだ。
 血筋から言えば、母のリンダはエスニャとアルスター王の子である。ただ、元々アルスター王国自体が、グランベル帝国の従属国の一つであった。
 シャリンも、それほどきっちり躾けられて育ったわけでもなく、ゆえに宮中に入ってからは、有形無形の嫌がらせが酷かったらしい。
 クレオは立場上、何度かシャリン公女と話す機会もあったが、個人的には好感を持っている。フリージ公国は、グランベル帝国時代はトラキアをフリージ王国として支配していたため、貴族達の気位が高い。それは、今の子女にも受け継がれているのだが、裏切り者として迫害されていたリンダを母に持ち、かつ貴族とはいってもそれほどの家柄でない家で育ってきたせいか、シャリンにはそういった陰湿な部分がまるでなかった。
 まだ確か十四歳になるかならないかという年齢のはずで、そういう嫌がらせに対して傷つかないはずはないのだが、シャリンはとても明るくていい公女だと、思っている。
 ただ同時に、継承者としての力も、その年齢ゆえにあまり感じたこともなかったのだが――。
「公女が……ゴーレムを?」
 クレオの問いに対して、オルヴァスは無言で窓の外を示した。クレオは、堅くなった体を無理矢理動かして、窓際に行き――そこで固まった。
 ゴーレムがすべて、ばらばらにされている。よく見ると、部分的に融解したようになっているゴーレムもいる。
「あのシャリン公女の力だ。あれでトールハンマーじゃないってんだから、おっそろしい話さ。継承者ってのは、化け物かね……」
 炎の魔法ではなく、雷の魔法で岩をも溶かすほどの高温を生み出した、ということらしい。
 シャリン公女に、魔法の才能はある、とは聞いていた。だが、これほどとは思ってもいなかったのだ。
「とりあえず、いったん暴動は落ち着いてる。これで終わってくれりゃあいいんだが……」
 戦闘の熾烈さの割には、死者は思ったよりは少ないらしい。とはいえ、これまで経験してきた、どの戦いよりも、被害は大きい。
 だが、これで終わるとは、クレオもオルヴァスも思ってはいなかった。
 まだ『敵』が見えない。この状況で終わってくれると思うほど、二人は楽観的になれなかったのである。  そして二人はまだ知らなかった。
 フリージが、まだマシであったことを。



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熱砂の轟炎 >


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