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熱砂の轟炎




 グランベル王国の一公国であるヴェルトマー公国は、グランベル六公国の中でも、特別な役割を与えられている公国だった。
 グランベル王国の最北に位置するこの公国は、東に広大な『魔の砂漠』とも呼ばれるイード砂漠がある。そして、この『魔の砂漠』という呼称は、決して誇張などではない。
 かつてここに、ロプト帝国を追われた暗黒教団が逃げ込んだのも、決して故なきことではない。ここは、十二聖戦士の聖戦よりも遥か以前から、『魔の砂漠』と呼ばれ、恐れられてきた、文字通りの秘境なのである。暗黒教団がこの砂漠に逃げ込んだのも、ここであれば聖戦士たちの追撃を振り切れる、と考えたからで、実際、それで彼らは百年の雌伏の時を越えてきている。
 無論イード砂漠も、完全に無人の死の荒野というわけではない。『砂漠の民』と呼ばれる少数民族がいることはわかっているし、また、いくつかオアシスだって存在する。ただ、そのあまりの広大さゆえ、イード砂漠の全容を掴んでいるものは、皆無に近い。
 また、砂漠の民は、かつてグラン王国時代に罪人として追放された者達の末裔とも云われていて、それゆえか、大陸の人々に対して敵対心が強い、と云われている。これについては実際に確かめたことはないが、実際、十二聖戦士のうちの七人がグランベル王国を建国した際、ヴェルトマーを治めていたファラは、ヘイムの意を受けて砂漠に対する防備を固めたことからも、砂漠に対する警戒心がひとかたならぬものであることは窺い知ることが出来る。後にヴェルトマー公国の手によって作られたフィノーラやリューベックも、表向きには砂漠を監視するための――リューベックは実際にはシレジア監視のための城砦だったらしいが――拠点として建設されたものだ。
 これはセリスの代でも変わってはいない。
 ヴェルトマー公には、イード砂漠の監視という役割が、今も与えられている。実際、先の聖戦以後、逃げ延びた暗黒教団の一部がイード砂漠に逃げ込んだ、という話もある。無論セリスらは追撃したが、広大なイード砂漠を探索することは極めて困難であり、また、当時まだ大陸は安定しておらず、大きな人数をイード砂漠の探索に当てるわけにもいかなかった。
 後の暗黒教団――ロプト教団に対する懐柔策は、彼らのような強硬派の勢力を極力殺ぐ目的もあったのである。
 そういうわけで、ヴェルトマー公となったアーサーは、戦後、イード砂漠を監視するために、新たに城砦を建設している。
 ヴェルトマーの公都の東、イード砂漠との境に建設されたこの城砦は、イード城と呼ばれ、常備軍として騎兵三百、歩兵七百の計一千の兵が配されている。やや過剰と思えるほどの軍備だが、その分、これまでフィノーラ、リューベックに配されていた兵は減員している。シレジアとの関係がかつてのグランベル王国の時より大幅に改善されていることや、フィノーラはヴェルトマーから遠すぎるため、終戦直後にイード城と両方を維持するのが困難だったためである。
 現在、リューベック、フィノーラはイザークからの北周りでの交易商人の中継地として重要な拠点となっているが、軍備はあまり増強されていない。
 二つの城に配されているのは、歩兵のみ三百。これも少ないほうではないが、特にフィノーラは人口が五千を超えようとしている現在では、やや少ないことは否めない。ただ、それゆえにこの二つの街はより『商人の街』という色合いを強くしている。
 そして、当然だがこれらの街や城も、現在大陸全土を襲っている混乱から、逃れられるはずはなかったのである。

「ば、バカな……」
 フィノーラの守備隊を預かるのは、ロートリッターの一人で、ヴェルトマーの子爵家の一つ、カインザルト家の当主、今年二十七歳になるルーファウスだった。
 辺境の一都市とはいえ、その守備を預かるというのは大任である。フィノーラ、リューベックの守備隊長というのは、イードの守備隊長に次ぐ地位であり、地位的には将軍に次ぐ。無論末席に等しいが、無事任を終えれば、出世の道が待っている。
 あくまで、無事に終えれば、だ。
 実際、彼もついさっきまで、自分の明るい未来を信じていた。
 大陸は平和の時代を迎えており、戦功による出世はほとんどありえない。その中にあって、このフィノーラ(あるいはリューベック)の守備隊長、さらにはイードの守備隊長から将軍職、というのは、数少ない、確実な出世街道のひとつなのだ。そしてルーファウスは、あと一年で任期を終え、イードの守備隊長への赴任が内々に決まっていたのである。それが終われば、ヴェルトマーの将軍の一人となれる。
 ヴェルトマーの――他の公国やバーハラも同じだが――軍制は、常備軍と騎士団の二つからなる。
 騎士団とは、ヴェルトマーではロートリッターのことであり、これはなるにはそれなりの身分または推薦が必要となる。当然、軍においても花形であり、また、人気もある。また、騎士団は騎士叙勲を受けるまでは非常に狭き門だが、入った後は見事に実力主義となっている。無論、身分がまったく考慮されないということはないが、それでも家柄だけで実力を持たない者が騎士団長になることはない。定員は騎士団によって異なるが、ロートリッターの場合は四百となっている。
 これに対し、常備軍は主に志願兵から構成される軍で、こちらは特に資格などは必要はない。定員に達している場合は選別試験が行われるが、それもあまりない。定員はヴェルトマーの場合は二千となっている。これに、非常時であれば傭兵が雇い入れられる。こちらはその時に応じて規模が変わる。
 常備軍は歩兵と騎兵で構成されており、公国や、時期によってその比率は異なるが、大体三割が騎兵である。
 こちらも、ある程度は実力で成り上がることは出来るが、ある程度以上は難しい。また、常備軍の責任者たる将軍職は、大抵は騎士が兼任する。こちらはよく、家柄が重視される。例外的に、働きが認められて騎士に叙勲される者もいないではないが。
 逆に言えば、家柄があり、かといって騎士団の団長になるほどの実力がない騎士にとっては、常備軍の将軍となることは、一番の出世街道なのだ。
 だが、彼のその未来は今失われつつあった。
 ぽた、ぽた、と流れ落ちる血が、それが床を打つ毎に、生命と共に未来までもが流れ出していく。
 そして、その身に突き立つ刃の柄を握っているのは、あろうことか自分の部下だったのだ。
「な、なぜ……」
 信を置いていた部下の一人だ。四十歳になる熟練の兵士で、年長者であり、このフィノーラにおいては先輩であったこともあって、色々意見を聞くこともあった。決してないがしろにしていたことはなかったはずだ。
 だが、その彼の真意を知る機会は、ルーファウスには永遠に与えられることはなかった。
 そして、フィノーラはこの後、四ヶ月にわたって暗黒時代を思い出さされることになる。

「ふぅ……」
 混乱は当然フィノーラだけではない。ヴェルトマーの街は、フィノーラ以上の混乱に襲われていた。
 突然生じた闇の波動。そして、それが通り過ぎた後に、他の街同様、突如街の人々が暴徒と化したのである。
 幸い、セリス王からの通達で、傭兵部隊も編成していたし、騎士団も全軍待機していたおかげもあって、混乱こそあれ、戦いはそうかからず収束してくれた。
 とはいえ、その被害は小さくない。
 街の人も少なからず犠牲になったし、なにより、集めた傭兵からも暴徒が生じたのは予想外だった。
「なんだってんだ、まったく……」
「アーサー、大丈夫?」
「ああ……」
 ヴェルトマー公アーサーは、妻の言葉に頷きつつ振り返り、その妻の格好に一瞬呆れてしまった。
「お前……なんだってそんな格好を……」
 アーサーの妻、つまりヴェルトマー公妃フィーは、当然だがグランベル王国においても、その地位では最上位に位置する女性である。シレジア王セティの妹であり、身分的にも文句なしに上流階級、といえる人物だが、その実態が『貴族の令嬢』などとは程遠いことは、誰よりもアーサー自身が良く知っている。
 だが、そのアーサーをしても、その時のフィーの格好は、彼を呆れさせるに十分なものだったのだ。
 見事なドレスの、そのスカートの部分を――おそらく動きやすくなるようになるために――思い切り引き裂いて、槍を持った公妃など、誰が想像しようか。
「いいじゃない。騎士服に着替えている余裕、なかったんだし」
 それはそうだろうが、と言いかけて、アーサーは止めた。
 言っても無駄であることはこの二十数年の付き合いで誰よりもよく分かっている。間違ったって、この公妃がそこらの貴族のお嬢様や細君よろしく『部屋の奥で震えている』などという行動を取ることは、ありえない。
「テオとエティスはどうした?」
 代わって口をついたのは、二人の子供のことだった。
「二人とも、すぐ街に飛び出して……あ、帰ってきたみたい」
 フィーの言葉に、拝謁室の入り口に目をやると、そこに見事な赤い髪の男女が現れる。
「父上、母上!!」
「お父様、お母様!!」
 入ってきたのは、鮮やかな赤い髪を持つ二人の男女。
 アーサーとフィーの子、テオとエティスである。
 年子で生まれたこの兄妹が両親と並ぶのを見て、すぐ親子だ、と思う人は少ない。
 アーサーが銀、フィーがグリーンの髪を持つのに対し、二人の子供は両方とも鮮やかな赤い髪を持つ。
 それは、ヴェルトマー公爵家の者であることを示す、何よりの証である。むしろ、銀髪でヴェルトマーの当主であるアーサーが珍しいだけだ。
 テオは今年で十六歳になり、卓越した炎の魔法を操る力を持つ。だが、それ以上であるのが妹のエティスだった。
 なぜなら、エティスはファラフレイムの継承者でもあるのだ。つい先日、継承の儀を済ませたばかりでもある。
「無事だったか。二人とも」
「はい。私達は。ただ……」
 テオとエティスは、混乱が生じる前、城外に出ていたらしい。そして、その時、ヴェルトマー上空から東へと飛び去る『闇』を見たという。
「闇? 何だそれは」
「そう……としかいえません。ただ、すごい……不快感というかざらつくような感覚が、それから感じました。そして直後、暴動が起きたのです」
 アーサーはその場で腕を組み考え込んだ。
 テオもエティスも魔法の才豊かな子だ。その彼らがその『闇』から感じたという不快感は、本物だろう。実際アーサーも、暴動が起きる寸前、なんともいえない胸のざわめきに似たものを感じた。無関係とは思えない。
「東……へか」
 東といえば、イード城のある方角になる。
 セリスから知らされていたロプトウスの魔道書が奪われた事実、何かにとり憑かれたかのように暴れだした人々。そして、東へと飛び去ったという不快感を感じさせた『闇』の存在。
 さらに、未確認ではあるが、トラキアに暗黒竜が出現したという情報もある。
 それらは、聖戦を経験してきたアーサー達に、ある一つの存在を、想起させる。
 暗黒教団。すでに聖戦から二十年以上が経過し、その大半の勢力はロプト教団として、ひそやかに存在するのみになったはずであるが、あの戦後の混乱で、大半の司祭はその行方が知れなくなっている。その生き残りがいたとすれば。
 なおもアーサーが思考を進めようとしたところで、ロートリッターの一人が慌てて駆け込んできた。
「どうした?」
 何事か、とアーサーは問うてから、その騎士の異様さに気がついた。
 顔面蒼白、という言葉をそのまま体現したかのようにその騎士の顔は白く、そして、髪もまた、元の色が何色であったか分からないほどに白くなっている。ロートリッターに属するテオでも一瞬、彼がロートリッターの一員であるのか判断がつかなかった。ただ、その騎士が身に纏う服は、確かにロートリッターの制服だった。
「こ、公爵閣下……イ、イードが……」
 四人はその場で顔を見合わせた。
 まさに今しがた、そのイードで何事があったのか、と考えかけたところなのだ。
「魔の……軍団が……」
 直後、騎士の口からごぽ、という音を立てて血の塊が吐き出される。とたん、堰を切ったように血が溢れ、その騎士は倒れた。すでに息はなかった。
「一体……」
 何事が生じているかは、アーサーにも分からない。だが、一ついえることは、状況が極めて危険な状態にあること、そしてイード城で何事かが生じた、ということだ。
 イードには合計一千の兵が配されており、先だってのセリス王の布告以後、ロートリッターを新たに二十騎、派遣していた。今ここで息絶えたのも、そのうちの一人だろう。
「ここで考えても仕方あるまい。ロートリッターの半数を、イードに派遣する。何事かあったのは確実だ。情報があまりに少ないのが問題だが……」
 イード城とヴェルトマーは近いとはいえ、早馬で飛ばしても一日はかかる距離だ。行軍しながらとなれば、さらに時間がかかる。
「じゃあ、先に私が行ってきましょうか。私なら、マーニャで飛ばせば、そうかからないわ」
「な!?」
 その提案は、もちろん公妃フィーからである。
「まて、そんな、危険すぎる!!」
「かといって、ヴェルトマーでペガサスを駆るのは私一人よ? で、イードで何が起きているかの情報は必要でしょう?」
「だからって、お前、もう二十年近く実戦から遠ざかってるじゃないか」
「実戦についてはその通りだけど、マーニャに乗るのはいつものことよ?」
「それはそうだが……いや、やっぱり危険すぎる。何があるか分からないんだ。そんな場所にお前一人行かせるわけにはいかない」
「あのねぇ、アーサー。私だってまだまだ……」
 かつての仲間が見れば、「ああ、やっぱりこの二人だ」と思うような会話だが、やっているのはヴェルトマー公爵とその妃である。まったくもって、他人からみたら威厳も何もない。
「じゃあお父様、私も一緒に行くということでどうでしょう?」
 突然会話に割って入った娘の言葉に、アーサーは一瞬天を仰いだ。
 まったくもって、エティスは外見はともかく中身は本当に母親に良く似ている。普段、おしとやかな娘を演じているエティスだが、その本性は誰もが『フィーの娘』であると納得する、思い切りの良さと行動力を兼ね備えている。もっとも、大半の人間に言わせれば『アーサーの娘でもあるよなあ』となるのだが――これでもアーサーはこの二十年でずいぶん丸くなったと思ってる。
「私なら、お母様と一緒にマーニャに乗っても、速力は落ちませんし、ね?」
 エティスの言葉に、フィーは「そうね、確かに。いつも乗ってるし」と、とんでもないことを言う。
「まて、だからお前達だけでは……」
 なおも反対しようとするアーサーを前に、エティスは姿勢を直して向き直った。
「はい。私も正直、何があるか分からない、おそらくは戦場に行くことには不安がないわけではありません。ですから、ファラフレイムの使用を許可してください」
「なっ……」
 アーサーは一瞬言葉を失い、フィーは目を丸くした。
「エティス……」
 継承の儀を終えたのはつい先日のことではあるが、確かにエティスはすでにファラフレイムを継承しており、それを扱う資格を持つ。また現実問題として、ファラフレイムの先の継承者はサイアス司祭であるが、彼は十二年前に何かの事故で大怪我を負ってしまい、以後魔法が使えなくなっている。よって、現在ファラフレイムを使うことが出来るのは、エティスただ一人だ。
 だが、実際問題として、聖戦以後、少なくともグランベルでは、継承の儀やその他の儀式を除いて、神器は使われていない。実はすでにドズル公子がスワンチカをしかも無許可で振るっているが、アーサーはもちろんこの事実を知らない。神器の持つ強大な力は、それ自体が大陸における勢力のバランスを変えかねない。特に、魔法の神器は、その破壊力の強さもさることながら、光のナーガ、風のフォルセティはともかく、残る炎のファラフレイムと雷のトールハンマーは戦後に生まれた継承者しか扱えないが、、その力に現在の継承者が振り回されるのではないか、という懸念から、継承の儀を終えていても、実質の管理は先代の継承者か、その親が行っている。
 もっとも、未だに継承の儀を行っていないナーガとトールハンマーは別としても、継承の儀を終えているファラフレイムを、エティスが使うこと自体には問題はないはずではある。ただ、今回の争乱が、果たして神器をもって当たらなければならないほどの者なのか、アーサーには判断がつかなかった。
 だが。
 久しく忘れかけていた、戦いの感覚が、アーサーに、そしてフィーにファラフレイムの、いや、神器すべての必要性を感じさせている。この事態は、決して一過性のものではない。何か強大な存在を、背後に感じる。かつての、ロプトウスのような。
「分かった。ファラフレイムの使用を許可する」
 アーサーはそう言うと、玉座の背にある窪みに、自らの持つ公爵位を示す徽章を外すと、そこに当てはめた。わずかに、徽章が光り輝き、ずず、という鈍い音を立てて、玉座がずれる。完全に玉座がずれると、下に下りる階段があり、アーサーは自らが降り、続いてエティスが降りた。
 階段はすぐ終わり、通路が十歩ほど続く。そしてその奥に、赤い光の輝きで満たされた部屋があった。
 その中心には、真紅の宝玉をはめ込まれた、神聖さすら感じさせる魔道書が一冊、炎に包まれて浮いている。
 これが、ファラフレイムの魔道書であった。
 かつて、アルヴィス皇帝がナーガを隠すのに使っていたのもこの部屋だが、本来神器を安置するための部屋なのだ。
「もっていけ、エティス」
 エティスは小さく頷くと、炎渦巻くその魔道書に、迷わずに手を伸ばす。すると、炎はエティスを避けるようにゆがみ、そして彼女にまとわりつくように舞い踊った。
 その炎を気にもせず、エティスは魔道書を掴む。すると、それまで周りを回っていた炎は、まるでエティスを敬うように引き下がり、そして魔道書にはめ込まれた宝玉に吸い込まれていった。
「イードはフィーとお前に任せる。だが無理はするな。私もあとから、ロートリッターを率いて行く」
 その言葉に、娘はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「でもお父様、そろそろお年ですし、無理をなさらない方が良いですよ?」
 直後のアーサーの怒鳴り声は、封印の間の入り口で待っていたフィーとテオにも、はっきりと聞こえるほど大きかった。

 何が起こったのかわからない。
 この日、同じ時、同じ思いをした者は、大陸全土に何人いたかは分からない。ただ、おそらく大陸の人口に近い人数が、そう思ったことは、後の人々の共通して語るところである。
 そして、イード城に偶然滞在していたルーイもまた、同じ想いにとらわれていた。
 ただ、イードにいた者のそれは、他の大半の地域のそれより、より強い混乱を伴っていた。
 イード城は、東側に砦と分厚い壁を持ち、イード砂漠側を監視する城砦である。東側の壁は高さが人の背の五倍に達し、中に通路があるほどに分厚く、また、特に外壁に面している部分の壁の厚さは人が両手を広げた幅の倍ほどもある。イード側に開けた扉は二箇所あるが、いずれも鋲を打たれた、分厚い鉄の扉が二重あり、たとえ破城鎚をもってしてもそうたやすく破ることは出来ない。
 この過剰ともいえる防備は、聖戦後、イード砂漠に再び逃げ込んだといわれる暗黒教団の報復を恐れた人々にとって、安心を感じさせるためにも必要なものだった。
 そして城砦しかなかったこの場所だったのが、いつの間にか人々を休めるための宿が開き、市が立ち、やがて少しずつ広がって街と呼べるものが出来上がったのが、約十年前。砦の東側はすぐ壁であるから、西側に街が作られたのは必然ではあるが、それゆえ、イードの街は朝日が遅く、逆に黄昏が長い。『朱の街』と洒落て呼ぶ者もいる。夕方になると、城砦とその壁が、夕日を受けて真っ赤になることから、そう呼ぶのだ。
 もっとも、実際にこの壁越しに攻防が行われたことは、聖戦後二十年経つが、一度もない。
 魔の砂漠とも呼ばれるイードの、凶暴な獣がたまに現れることもあるが、それでもさすがにこの威容を誇る城壁には近付いてくることはなかった。
 特にイザークからの北周りの交易路で、イード砂漠を越えてくる交易商人にとっては、このイードの巨壁が見えると、ようやく砂漠が終わるのだ、という安心感に包まれるのである。
 難攻不落のグランベルの東の国境。それがイード城という存在だった。
 だが。
 その壁が、一瞬で消えた。
 突然空から降ってきた『闇』を見たものは、多くはない。だが、それによってもたらされた衝撃を感じなかった者は、イードには一人としていなかった。
 突然、イード砂漠に面する東側の城壁一体が吹き飛び、その衝撃は大きくはないイードの街全てを襲った。さすがに、砦――イードは正しくは城ではないので兵が駐屯するのは砦である――は崩れたりはしなかったが、それでも東側に面していた窓のガラスはことごとく吹き飛んだ。
 そして、その衝撃がとまった時、人々はありうるはずのないものを見た。
 圧倒的な存在感で、街とイード砂漠を隔てていた壁が、消えていたからである。
 いや、正確にはその一部が完全に消滅しているだけだ。だがそれでも、人々は一体何が起こったのか、まったく分からない。そして直後、暴動が起きた。これは、他の地域同様のものであったが、イードのそれは驚くほど小規模だった。あくまで、他の地域に比べれば、ではあるが。とはいえ、程なく鎮圧されたあとに、『それ』が地平の彼方に見えたのである。
「なに、あれ……」
 ルーイはその時、偶然歩哨に立っていた。
 最初の壁の崩壊と、その後の混乱によって、駐留している軍が大打撃を受け、とにかく壁の補修をしなければならなかったのである。
 ルーイは、彫刻を生業とするため、それに関係して土木関連の技術にも多少通じていて、工兵として軍に一時的に雇われた形になった。そして、補修のために崩壊したその壁を視察している時に、『それ』を見たのである。
 イード城の東は、荒涼たる砂漠が広がっている。イード砂漠は、全てが不毛の大地というわけではなく、山岳も存在するのだが、ことイード城から見える光景は、そのことごとくが砂の大地であり、遥か地平まで見渡すことが出来る。
 ルーイが視察を開始したのは、壁の崩壊の翌朝で、イードの街にいる限り、これまではあまり見ることのなかった、地平から昇る太陽というものが、まぶしく見えた。そして、その太陽の光の中に、奇妙なものを見つけたのは、おそらくルーイが最初だっただろう。
 地平の彼方に、砂煙が上がっている。はじめ、その煙しか見えなかったそれが、何か多くの者が進むのだと気付くのにはそうかからない。そして、その『何者か』が、ありえないほど大勢であること、そしてその一部がありえないほどに巨大であることに気付くのには、わずかな時間を必要とした。
「敵――」
 反射的にそう思った。その間にも、影は見る見る巨大になっていく。
 それは、ゆうに一千にも及ぶ軍勢だった。そして――そのうちの五十以上が、他の地域で猛威を振るったゴーレムであった。

 イードは大混乱に陥った。
 一つには、イードの守備を預かるケルンハルト伯爵が、先の暴動で重傷を負い、指揮系統が回復してなかったというのもある。
 だが、すでに逃げ出すだけの時間はなかった。一千にも及ぶ軍は、その時にははっきり視認できるほどの距離に迫っていたのである。
 城壁が健在であれば、あるいはそれに拠って守ることも出来たかもしれない。
 だが今、その頼みの城壁は存在せず、それどころかその崩壊した城壁の向こうに見える軍勢は、人々の恐怖を助長した。
 逃げ出そうとする者、恐慌状態に陥る者、ただひたすら神に祈る者、抵抗しようと武器を取る者、人々の反応はさまざまであったが、その中にあって、ルーイはなぜか奇妙に落ち着いた気分だった。
 死を覚悟した、というわけではない。
 ただ、何かが来る、という予感めいたものを感じていたのだ。
 そうしている間に、一部の兵士達が何とか食い止めようと、崩壊した壁の外側に集まりかけた時、『彼女』は現れた。
 白い翼からまるで舞うように降り立ったその女性は、砂漠の乾いた風に、その、夕焼けよりも赤い髪をなびかせている。
 そしてその手には、その髪よりも赤い、真紅と表現するのが相応しい輝きを放つ何かがあった。
「あの人は――?」
 あとで思い返せば、その白い翼はペガサスのものだった、と分かるし、ヴェルトマーでペガサスといえば公妃フィーの駆るマーニャ以外にはない。そして、降り立った女性は、その赤い髪と、マーニャに乗ってくる可能性があるのであれば、公女エティス以外にはいないだろう。
 だがその時、ルーイは、まるで女神が降り立ったように感じていた。
 その女神の手が、静かにかざされる。聞こえるはずのない音韻が、ルーイには聞こえた気がした。
 直後、大地は焼け、天が焦げた。
 そう錯覚するほどの、凄まじい炎が、敵軍と女神の間に荒れ狂ったのである。
 その凄まじい炎は、その一千の軍勢の足を、ゴーレムもろとも止めてしまった。
 後に、一千の軍勢を、ただ一撃をもって恫喝したその公女は、こう呼ばれることになる。
『炎帝の愛し子』と――。




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