前へ 次へ


魔剣解放




 第二次聖戦が終わった後、セリス達解放軍は大陸の地図を、アルヴィスの台頭、グランベル帝国の建国より以前のものに戻すことで合意した。もっとも、その全てが同一というわけにはいかない。
 王を失い、また、国の要たる竜騎士団、重甲冑騎士団ともに致命的な打撃を受けたトラキア王国は、すでに一国として成り立つだけの国力がなく、北トラキアに依存しなければ生き残ることは出来なかった。
 また、その北トラキアも、アルスター、レンスターを除く諸王家はことごとくが断絶しており、地槍ゲイボルグの継承者の家系であり、解放軍の中核をなしたリーフに、その統治を委ねた。また後に、唯二人のアルスター王家の生き残りの王女の一人であったミランダ王女が、アルスター王国の統治権をレンスター王リーフに委譲、もう一人の生き残りであるリンダ王女も、すでにグランベルの貴族と結婚し、継承権を放棄していたので、アルスター王国も自然に、リーフが統治することになった。
 こうして、南北トラキアを統べる、グランベルに次ぐ大国トラキアが誕生したわけであるが、ほぼ同時期に、もう一つ同等の大国が、レンスターとはグランベルを挟んで逆側に誕生した。
 アグストリア王国である。
 アグストリアは、第一次聖戦終了時、数多の王が統治する、悪く言えば戦国時代の様相を呈していた。
 あまり知られていないが、第一次聖戦は、大陸全土の反帝国勢力が一つとなって一致団結した第二次聖戦とは異なり、大陸全てが協力して戦ったわけではない。
 ダーナの奇跡によって、神々の力を得た十二聖戦士は、その一年後、新たな『国』を興す。それは明確に『反帝国』を掲げた国であり、これがロプト帝国の恐怖政治に震える人々を少しずつひきつけ大きくなり、ロプト帝国への戦争をしかけ、長い戦いの末、ロプト皇帝ガレを討ち取って勝利したのである。
 いわば国と国との戦争が、第一次聖戦であった。
 無論その国は、ロプト帝国を打倒するための存在であったので、聖戦後、それは解体されている。
 解体後、故国に戻り王となった者もいれば、征服した元ロプト帝国の領土の復興のために尽力した者もいる。それは十二聖戦士も例外ではなく、前者はセティ、ヘズル、オード、ダイン、ノヴァで、後者はヘイム、ファラ、ブラギ、ネール、ウル、トード、バルドであった。
 このうち、セティ、オードはそれぞれの故郷の地に、それまで確たる『国』という存在がなかったこともあって――ロプト帝国時代には見捨てられていたのだ――民族をまとめるのは難しいことではなかった。もっとも、オードの故郷イザークは独立不羈の精神が強かったので、マナナン王の時代まできて、ようやく国としての体制が整ったのだが。
 一方、ダイン、ノヴァは本当は南北のトラキアが協力して一国家を建設するはずだった。だが、『ゲイボルグの悲劇』で知られるように、これは泡沫の夢と消え、ダイン、ノヴァの死後、南北は強い確執を百年にもわたって持ち続けることになる。
 ただ、一国にまとまった――というよりは複数の国家が並び立つほど豊かではなかったのだが――南トラキアと異なり、北トラキアは複数の王国が乱立する時代になった。これは、ノヴァが女性であり、その嫁いだ家が最大勢力ではなかった、というのも原因だろう。
 ゆえに、北トラキア――マンスター地方は、レンスター王国を盟主と仰ぎつつ、複数の王国がゆるい共同体を作る政体へと落ち着いた。
 一方のアグストリアであるが、こちらはさらに事情が複雑だった。
 アグストリア地方は、第一次聖戦においても、ロプト帝国にも属さず、かといって解放軍に味方するでもない、という立場を堅持していた。無論、本来はロプト帝国の一地方であるのだが、この時代、帝都バーハラ――当時はロプトと呼ばれていた――からの交通の便の悪かったアグストリアは、まったく省みられなかったシレジア、イザークほどではないが、ほとんど放置に近い自治が認められていたのである。
 ゆえに、諸侯が勝手に内乱を繰り返し、さながら戦国時代のようになっていた。
 そこに現れたのが、ヘズルである。
 ヘズルは、アグストリア地方の諸侯の一人であったが、その武名ゆえに帝国に召抱えられた将軍であり、ロプト帝国でも勇猛をもって知られた人物でもあった。
 その彼が、いかなる理由で解放軍についたのかについては、諸説色々あるが、自らの子を生贄として差し出すことを強要された、というのが一般的だ。彼はそれに逆らい、帝国を脱走したが、その最中妻子を失う。以後彼は帝国に復讐を誓い、解放軍に協力した、というのだ。その話が事実であれば、血を欲する、と云われる魔剣ミストルティンが彼に授けられたのは、運命であったかもしれない。
 そして聖戦後、彼は故郷に戻ってきて、領地を次いだ。だが、この解放軍の中心にいた偉大なる黒騎士に対して、アグストリアの諸侯――帝国崩壊と同時に『王』を名乗っていた――は協力的ではなかった。
 だが、ヘズルもこの地域の出身であり、彼らのことも良く分かっていたのだろう。ヘズルは、まず有力貴族の娘を妻として迎え、その子らを次々に他国へ嫁がせ、あるいは嫁を迎えさせた。
 こうして、血の繋がりによってアグストリア全体を結びつけたのだ。その頃、すぐ隣に誕生した強大なグランベル王国に危機感を募らせた諸侯は、アグスティ王家を盟主とする『アグストリア諸侯連合』を誕生させた。もっとも、ヘズルにとって予想外なことに、魔剣ミストルティンは末娘の嫁いだノディオン王家へと移ってしまったが、かの家に『アグスティ王家の剣』となる誓約をさせるのと引き換えにミストルティンを譲渡している。これが後に、ノディオン王エルトシャンを縛り、結果としてアグストリアの命数を縮めてしまうのは皮肉というしかないが。
 しかし第二次聖戦後、アグストリアに戻ってきたエルトシャンの遺児アレスを、諸侯は歓迎しなかった。
 この当時、帝国の支配の弱まったアグストリアは、すでに帝国の支配を脱したと考え、断絶したアグスティ王家に代わる新たな盟主争奪戦ともいうべき戦乱状態にあったのである。そこに、魔剣ミストルティンを持ち、アグストリアの人々にも人気のあった『獅子王エルトシャン』の遺児が現れたとあっては、自分達の今の地位すら危うくなる。
 そう考えた諸侯は、あろうことか対アレスという目的だけで、同盟を結成したのである。
 まったくもって、アレスとしては呆れるしかないが、唯々諾々と彼らの跳梁を許すわけにもいかなかった。
 彼ら『諸王』の治世は、およそ帝国とほとんど変わらないほどに、人々に凄惨な生活を強いていたのである。
 結果、トラキアやグランベルの援軍も得ていたアレスは、諸王連合を撃破、半年の戦乱で、アグストリアを統一してしまった。
 アレスはそれまで『国』であった各国を、一度すべてアグスティ王家の領地とし、その後、統一戦争で功績のあった者達に与え、忠誠を誓約させた。こうして、トラキア王国同様、アグストリアもまた、一つの国家として統一されたのである。
 アレスの名は、『統一王』の二つ名と共に、生きた伝説として、人々に親しまれている。

 カール・アドル・アイガスは、海からの心地よい風に、わずかに笑みを浮かべた。
 北のシレジアから吹く冷たい北風が、南西からの暖かい風に変わると、もう春だ、と実感できる。
 もっとも、今のカールは、そう春を愛でる余裕はなかった。
 カールはマディノの近くに所領を持つアイガス家の三男である。アイガス家は伯爵位を持ち、それこそロプト帝国時代にまで遡れる由緒ある家系である。もっとも逆にいえば、生き残れる方に常についてきただけ、ともいえるが、それだけの長さを誇る家柄はそれなりに誇ってはいいのだろう。
 だが、三男ともなると、そう楽を出来るわけではない。
 家を継ぐのは当然長男である。次男にも、一応それなりの所領が継承される。だが、三男ともなると、申し訳程度に騎士位をもらうくらいが精一杯、所領などほとんどありはしない。
 さすがにそれでは将来が暗い、と思ったカールが選んだのは、軍人の道だった。一応騎士位は持っているので、名前だけにしないようにしよう、という思惑もある。
 その中で海軍を選んだのは、乗馬がやや苦手、という消極的な理由だったのだが、幸運にも、カールには船乗りとしての才能があったらしい。そろそろ部隊を任されようとしている。最近では、いずれはアグストリアの海軍の長になるのも悪くない、と思っていた。
 そんなことを考え始めるようになっていたとき、突然全軍に非常待機が命じられた。これは、いついかなる時でも一日以内に出撃が可能なように準備し、待機せよ、ということである。
 無論これまで、ただの一度もこのような命令が発せられたことはない。
 アグストリア統一戦争が終わってから、アグストリアでは大きな戦争はない。海軍にしたところで、オーガヒルの海賊の討伐がたまにある程度で、オーガヒルの海賊もここ数年、軍備の整ったアグストリア海軍を相手にするのは避けたいと思っているのか、海賊の被害そのものが減っている。
 ただ、何よりもカールを驚かせたのが、その事態にあって、アレス王がマディノに来た、という事実である。
 なんでも、王都はクロスナイツを預かるノディオン公に任せてきたらしい。それはつまり、このマディノ近郊で、何かが起きる、ということを意味していることにもなる。しかも、クロスナイツの大半は王都アグスティにそのまま留め置いたということは、海軍の出番の可能性が高い。
 いやがうえにも、カールとしては緊張せざるを得ない。ここで活躍し、王の目に留まれば、栄達は約束されるも同然だからだ。

 その変化は、やはり急激だった。
 アレスは、グランベルから『暗黒教団が蜂起する可能性がある』という情報がもたらされた時、真っ先にオーガヒルの海賊を考えた。
 二十年前のアグストリア統一戦争の折、最後まで抵抗した諸王は、オーガヒルの海賊とも手を組み、アレスに対抗した。その時、諸王の何人かは、グランベル帝国から逃げた暗黒教団の司祭らとも手を組んでいたのである。
 無論、諸王の軍勢は完膚なきまでに殲滅したが、海流が複雑に入り乱れ、また、複雑な地形を持つオーガヒルの全てを制圧する事は出来なかった。この地に逃げ込んだ暗黒教団の司祭も、その全てを確実に捕殺したとまでは言い切れない。無論、オーガヒルの海賊を、一人残らず殲滅する事も出来ない。そのオーガヒルの海賊の元に、今暗黒教団の司祭がいないとは保障できないのだ。
 ゆえに、来るとすればオーガヒルの海賊が蜂起する、とアレスはみて、クロスナイツをノディオン公デルムッドに預け、自らは二十騎ほどの騎士を率いて、マディノへと赴いたのである。
 マディノは北側にオーガヒルへと向けた港を持つ街で、また、シレジア側への海の玄関でもある。
 このマディノからシレジアへと行く航路はユグドラル大陸の航路でも有数の難所だ。と言うのも、前述の通り海流が複雑な上、オーガヒルに近付きすぎると海賊に襲われる可能性があるからだ。
 アレスは国が安定してから後、オーガヒルに対抗するために海軍の拡充に努めたが、いかんせんオーガヒルを根城とする海賊達に対しては、個別には対抗しづらい。ただ、装備と数では上回るため、現在ではオーガヒルの海賊の、アグストリアの海岸での被害はほとんどない。
 だがそれでも、かなりの数の軍船を保有しているはずで、暗黒教団と結びついている可能性もある、となれば、蜂起はそこから始まるはず、と考えていたのだ。
 結論から言うと、それは外れではなかった。だが、正解でもなかったのである。
 他の地域で暴動が起きたより少し前。
 海軍哨戒艇の報告で、オーガヒルの海賊が十隻以上からなる船団を率いてマディノに向かっている、という報せが、アレスの元にもたらされた。
 これに対し、アレスは直ちに海軍の出撃を命じる。
 マディノの北の海は水深が深く、かなりの大型船を運用する事が出来る。
 主力となるのはガレー船だ。大きいものでは百人近い漕ぎ手を持つガレー船を含め、大小三十隻。戦術の基本は衝角による突撃の後の切り込みが主だが、最近はカタパルトという大型の弩による攻撃や、また、火矢による攻撃もある。
 マディノの海軍の軍船には帆はない。マディノからシレジアへ行く船は帆を持つが、マディノ近海で運用する事を目的とした軍船は、海流、風共に複雑な場所で使う以上、帆はあまり使い物にならないのである。それに、戦闘になった時、帆は真っ先に火矢に狙われる。
 アレスもまた、旗艦に乗り込んだ。彼に従う二十騎、そして今回、アレスは初めて息子のアルセイドを伴っていた。
 アルセイドは、今年で十六歳になる、アレスの長男で、また、次期国王、すなわち次の魔剣ミストルティンの継承者だ。
 だが彼は、あまりありがたくない二つ名をもって、呼ばれていた。
 剣も学問もあまり真面目にやらない――去年からバーハラの士官学校に入ってはいるのだが――のはもちろん、覇気のないその雰囲気から、『昼寝の王子』などと呼ばれているのだ。
 実際、アレスと並ぶと親子にはあまり見えない、とはよく言われる。と言うのも、アルセイドは輝くような、獅子の鬣にも喩えられる金髪を持ち、そばにいる者の気を引き締めるような印象のアレスとは異なり、どこか柔らかい、そばにいる者をむしろ和やかにするような印象を与える、優しげな雰囲気の持ち主なのだ。
 顔立ちもアレスにはあまり似ていない。アレスに言わせれば、アレスの母グラーニェに似ている、ということらしいが、エルトシャンの妻グラーニェは、体が弱かったこともあり、あまり国民の前には姿を見せなかったため、アグストリアはもちろんノディオンでも記憶している者はほとんどいない。また、グラーニェの姿を描いた絵画も、戦乱でことごとく――エルトシャン単独の絵画は一枚だけアグスティに残っていたのだが――失われている。そのため、アルセイドはどちらかと言うと治世の王である、と思われていた。
 戦列が互いに近付き、海を隔てて、弩の射程まで後わずか、という距離になる。
 アレスはそこで、魔剣ミストルティンを抜き、天に掲げた。
 その剣が、陽光を受けて放つ黒い光は、船団全ての者にとって、力の象徴でもある。
「オーガヒルの海賊ども!! 我が剣の錆となりたければそのまま来るがいい!! だが、少しでも命を永らえたいと思うのならば、己が分をわきまえ、ねぐらへと戻るがいい!!」
 その朗々たる声は、だがさすがに相手に届いているとは思えない。だが、その魔剣の輝きは見えるだろう。そして、それの意味するところもまた、明白だ。アグストリアにおいて、魔剣ミストルティンの黒き輝きは、それに敵対する者にとって、絶対の死を意味する。それほどまでに、アレスの武名はアグストリアにおいて、畏れ敬われているのである。
 だがこの時、当然と言えば当然だが、海賊は止まる事も方向を変える事もしなかった。それを見たアレスは、無言で魔剣を横薙ぎに振る。同時に、ガン、という音と共に、各船からカタパルトに番えられた巨大な槍が放たれた。
 騎馬兵が突撃に使う槍に等しい、その槍は、騎馬兵の突撃以上の勢いで船から放たれる。その数、合計六十本。射程を正確に計算されたそれは、完璧な距離感で、唸りを上げて海賊の戦列に降り注いだ。
 その槍を防ぐ手段など、ありはしない。避けるのが精一杯である。槍は避け損ねた哀れな海賊を貫き、そのまま甲板に突き刺さる。槍によっては、甲板を突き破ってその下にいた漕ぎ手を船に縫いつけた。
 仮に相手に暗黒教団の司祭がいたところで、この攻撃にはなす術はない。対抗できるとしたら、フォルセティやファラフレイムといった、神器しかないだろう。
 難点は、巻き上げるのに時間がかかりすぎて、一斉射しかできないことだ。だが、この攻撃で少なからず被害を出した海賊に対し、アグストリア海軍はさらに火矢による攻撃を加える。海賊側も火矢を放つが、その数は圧倒的に少なく、被害もそれに比例した。
 そして程なく、お互いの顔も確認できるほどの距離になると、白兵戦が始まる。
 オーガヒルの海賊は、アグストリアの海軍より船の扱いには長けているが、二倍以上の船相手にしては、衝角の回避もままならない。
 何隻かの船は、その船体を衝角で打ち砕かれ、早くも海の上に浮かぶ瓦礫と化していた。
 アレスの乗る旗艦もまた、混乱する戦場にあっては敵と肉薄しないというわけにはいかない。陸上の戦いと異なり、海の上での戦いでは、急な方向転換など出来はしない。旗艦もまた、敵船に肉薄し、櫂が絡まって動かなくなってしまった。
 もっともこうなれば、船はやや揺れるだけの足場となる。
 アレスは、魔剣を構えると敵船へと視線を走らせた。
 見える敵兵は三十人ほど。実際には、甲板の下の層に漕ぎ手もいるし、海賊の場合彼らも武器を持っているから、敵の数は百人弱というところか。だが、魔剣を持つアレスにとっては、恐れるべき何者もない。
 そのまま斬りこもうとしたところで、アレスは、海賊らしからぬ、だが予想されていた存在を敵船に見出した。
「やはり、いたか」
 暗黒教団の司祭。彼らの好みなのかそれとも決まりなのか。ご丁寧に、一目でそれと分かるローブを纏っている。二十年前に、幾度も敵対し、そして剣下に降してきた相手だ。
 暗黒司祭の操る闇魔法は、確かに非常に強力な魔法である。暗黒司祭一人の力は、並の魔術師数十人分に匹敵する、というのは決して誇張ではない。
 だが同時に、アレス相手に暗黒司祭ほど無力な存在もない。
 魔を喰らうと云われる魔剣ミストルティンの前では、神器を除くあらゆる魔法が無意味なのだ。
 だがその時、アレスはその司祭に奇妙な違和感を感じた。
 直後、司祭が何かを言う。それは魔法を発動させるための言葉ではなかった。
 なんだかは分からない。だがアレスは、その司祭が危険だ、と感じ、一足飛びに敵船に飛び乗ろうと、足に力を入れる。
 その直後。
 突然、焼け付くような痛みが、背中を襲った。
 喉の奥から、血が逆流してくる。痛みから半瞬をおいて、アレスの口から血が溢れた。
 意識が遠のく。膝から力が抜け、アレスは甲板に倒れこんだ。
 薄れ行く意識の中で、アレスは先ほどの違和感の正体に気付いた。
 あの司祭は、魔剣を目の前にしながら、哂っていたのである。

 アレスのすぐ後ろにいたアルセイドは、一瞬何が起きたか分からなかった。
 父が踏み出そうとしたその瞬間、脇に控えていた騎士が、アレスの斜め後ろに立った。一緒に斬り込むのだろうか、と思ったので、その騎士が剣を抜いているのも何も不思議に思わなかった。
 だが。次の瞬間、その騎士はその剣をアレスに向けて振り下ろしたのである。しかも背中から、だ。
 普段のアレスであれば、一撃でそれほどの傷を負う事はない。彼は、『黒騎士』の二つ名が示すとおり、黒い甲冑を好み、常に戦場ではそれを纏っていた。だが今回、海の上の戦いということで、もし海に落ちた場合に備え、黒塗りではあるが、硬くなめした革の鎧を纏っていたのである。これとて着たまま海に落ちたら沈んでしまうが、留め紐を数本切るだけで脱ぐ事が出来るのだ。その分金属の鎧に比べれば当然防御力は落ちるが、それでも金属の枠では補強されているし、そもそもアレスの技量ならよほどの事がない限りは攻撃を受ける事はない。気をつけるべきは弓だけのはずだった。
 だが、背後から完全な不意打ちを受ける事までは予想してはいない。
 その騎士の剣は、アレスの肩口から背中にかけてを深々と切り裂いていた。それでもなお、アレスは驚異的な反射神経で身をよじり、致命傷を避けていたのだ。本来であれば、肩口に食い込んだ剣がそのまま胸まで斬り裂くはずが、鎧でわずかに鈍った刃は、アレスの背中を斬り裂くに留まったのである。
「父上!!!!」
 アルセイドは文字通り、弾かれたように動いていた。普段の彼を知る者ならば、その動きの迅さに、目を丸くした事だろう。
 アレスを斬りつけた騎士は、アレスに止めを刺そうと剣を振り上げたところで、その腕が異様に軽くなっているのに気がついた。何事か、と考えるより先に、肩の筋肉が腕を振り下ろす。だが、その腕は肘から先がなくなっていた。
 そして直後、その騎士はそれに対する反応を――何も考えられない状態だったのだが――示すよりも早く、首と胴が永久の別れを告げていた。
「父上、しっかり!!」
 アルセイドは父を揺り起こそうとして、止めた。迂闊に動かさないほうがいい、と判断したのだ。
「アル……セイド……お、まえが……」
「くっくっく……黒騎士は倒れた……魔剣はもはやその力を示せん……死ぬがいい!!」
 その声は、わずかな海を隔てて接触している船の上から聞こえた。アルセイドが顔を上げる。その視線の先には、暗黒教団の司祭がいた。
 その司祭の掌中に、闇が満ちる。その闇が、掌中から溢れ出す寸前、それはアレスとアルセイドに向けて放たれた。
「死ね!!」
 避ける事は出来ない。自分は助かっても、父は助からない。抱えて避ける事が出来るかもしれないが、今急激に動かせば、文字通り命に関わる――。
 そう考えた時、アルセイドの手は、導かれるように父の持つ魔剣の柄へと伸びていた。
 その直後、闇が爆ぜる。闇を放った司祭は、アグストリア王と王子の死を確信し、そして即座に裏切られる事になった。
 爆ぜた闇は、瞬く間に収束し、一点に『喰われた』のである。
「なっ……!!」
「よくもやってくれたな、貴様ら……」
 アルセイドは、ゆっくりと魔剣を手に立ち上がる。その魔剣は、アレスが手にしている時と変わらぬ、強い、そして敵対する者を恐怖させるあの黒い光を放っていた。
「バ、バカな。魔剣の継承者はどうしようもない惰弱な王子と……」
「ああ。惰弱で怠け者の王子だ。だが、父を傷付けられて、黙っていられるほど……」
 魔剣を高々と掲げる。体からは、力が溢れていた。
「俺は、腑抜けではない!!」
 剣が振り下ろされる。刹那、衝撃が生じた。それは、司祭もろとも、敵船を真っ二つに打ち砕いていた。

「くそっ!!」
 カールは、今日幾十度目になるか数える気もない剣を振り下ろした。揺れる船の上で、相手はまともに受ける事もかわすことも出来ずに、首筋から血を噴出し、膝から崩れ落ちる。
 海賊との戦いに、カールは自信があった。数も勝り、錬度も劣っていない、という自負がある。だが、戦闘が始まると同時に、それらは全て崩壊した。
 まず、味方から裏切りが出るとは予想していなかった。
 敵軍との交戦が始まると同時に、突然味方の一部が、隣にいる同僚を攻撃し始めたのである。
 これには、カールらも仰天した。
 そのため、敵船から海賊が乗り込んでくるのを防ぐこともまったく出来ず、あっという間に船上は混戦の只中に叩き込まれた。
 さらに、敵は海の上の戦いだというのに、あろうことか甲冑をまとって突撃してきたのである。指揮官が甲冑を纏うことはある。だが、コーヴァス(渡り板)を使って敵船に乗り込む兵が重い甲冑を纏うなど、自殺行為に等しい。実際、コーヴァスの上でバランスを崩し、海に落ちる兵が何人もいる。ただでさえバランスを崩しやすいコーヴァスの上で、重い甲冑など着込んでいたら、一度バランスを崩してしまえば海に落ちてしまうのは道理であり、また、海に落ちて浮かんでくることも不可能に等しい。
 ゆえに、海軍はどうしても軽装備になるはずで、海賊に至っては甲冑などそもそも持ち合わせすらないはずなのだが。
 ただそのせいで、カールらは酷く苦戦させられていた。
 海の上で使う剣は、陸上で使うそれとは異なり、斬る事を重視し、軽く、切れ味を持たせるようわずかに湾曲した刃を持つ。長さも短く、混戦には有利だが、当然間合いが短い。対して相手は、あろう事か海の上ではまず普通使わない甲冑に、長剣である。まともに剣を受けてもこちらの軽い剣は叩き折られるし、何とか懐に飛び込んでも、甲冑に阻まれて致命傷を負わせるのが難しい。
 カールは敵兵を幾人も倒していたが、個人の武だけでこの状況を覆すことは不可能である。
 すでにアグストリア海軍の多くの船は皆殺しにされ、三十隻の軍船のうち、その半数が海賊達の手に落ちていた。
 カールらの船も、カールを含め六人の船員だけが残され、敵兵に囲まれている。後ろは海。逃げ場はない。
 相手は十五人。うち六人は、ついさっきまで仲間だったはずの者だが、彼らも、そして乗り込んできた海賊も、どこか虚ろな目をしている事に、カールは気がついた。
 狂乱の戦場にありながら、まるで心ここにあらず、という感じだ。
「お前ら、一体……」
 だがカールがその疑問を口にする前に、敵が動き出し――そして吹き飛んだ。
 最初に斬りかかったのは甲冑をまとった海賊だったのだが、その海賊は、文字通り胴を両断されて、鮮血の雨をカールらに降らせ、甲板に転がったのである。
 その凄絶な光景に、カールは思わず息を呑んだ。
「ようやくまともに機能してそうな船があったか」
「アルセイド……王子?」
 直接話すのは初めてであるが、無論カールは彼の事は知っている。といっても、不名誉な風聞と共に、であり、また、幾度か見た事がある彼は、その風聞を否定する要素を持たない印象しかなかった。
 だが今、カールの前にいるのは、その彼とは似ても似つかない――顔かたちはまったく同じだのだが――精悍で、圧倒的な迫力すら感じさせる男がいた。確か、アルセイド王子は自分より三つほどは年下であるはずだが、今目の前にたつ王子は、圧倒的な威厳と威圧感を備えており、年齢を超越した『強さ』すら感じさせる。
 敵もまた、アルセイドに圧倒されたのか、動きが止まっていた。
「父上を頼む」
 アルセイドはそういうと、目で船縁を示す。そこには鉤爪のついたロープが引っかかっており、カールがそのロープを見ると、すぐ下に小船があった。そしてその船を見て、カールは目を丸くする。そこにいたのは、黒色の鎧に身を包んだ、国王だったのだ。
「王子、これは……」
 振り返ったカールは、およそありえない光景を目にした。
 アルセイドに圧倒されていた敵兵が、呪縛が解けたようにいっせいに斬りかかり――それが、ただ一閃の黒い軌跡によって、二つに切り裂かれたのである。
 カールも仲間達も、一瞬何が起きたか理解が出来なかった。
 半瞬をおいて、べちゃ、という音と共に敵兵の、上下半身が別々に甲板に落ちる。
 唖然としてカールらが見守っていると、もう一度アルセイドの声が、今度は怒号となって響いた。
「何をしている!! 父上を引き上げ、急いでこの海域から離脱しろ!!」
 アルセイドの叱咤に、カールらは弾かれたように動き出した。
 といっても、さすがに六人でガレー船を動かすのは無理である。アルセイドらは、搭載されていた小型船に乗り込み、慎重にアレス王の体を移す。
「先に行け。俺はまだ生存者がいるであろうから、彼らを助けてから行く」
「し、しかし、王子!!」
「行け!!」
 アルセイドはそれだけ言うと、船の影に姿を消した。
 一瞬カールは、どうすべきかを迷ったが、アレス王の傷が浅くないことを考え、いわれたとおりにこの海域を離脱、マディノへの帰路を急いだ。

 この日出撃したアグストリア海軍は、軍船三十隻、兵員二千。
 うち、マディノに帰還したのは、軍船三隻、兵員三百。その大半が負傷していた。
 惨敗といっていい。
 そして何より、統一王アレスが負傷し、生死の境を彷徨っている、という報せが、国民を非常に動揺させていた。
 エッダから、王妃リーンの弟であるコープル司祭を呼んで治療を、という声があったが、その頃エッダもそれらに応じる余裕などは無論ない。また、あっても彼でもどうしようもなかったであろう。
 アレスもまた、グランベルのセリス王と同じ呪いに、とらわれてしまっていたのである。
 この時点で、アグストリア王の権限は、軍の指揮権と共に王太子であるアルセイドが引き継ぐ。制度上、それが唯一の選択肢だ。
 だが国民で、『昼寝の王子』と呼ばれるこの王子が軍を率いる事に、不安を覚えない者は皆無に近かった。
 そして国民の誰もが、国王の従弟であり、クロスナイツを率いるノディオン公デルムッドに、国王代理として軍を率い、この混乱に対処する事を望んでいたのである。
 しかしデルムッドは迷うことなく、アルセイドが指揮権を引き継ぐ事を認めた。
 それは、後に『眠れる獅子』と呼ばれる事になるアルセイドの資質を、デルムッドだけがただ一人見抜いていたからであった。




< 熱砂の轟炎

ダーナの悲劇再び >


目次へ戻る