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出発時より、遥かに乾いた風が頬を撫ぜた。 水気のまるでない風により、海からも遠いこの地においては、大地すらその乾きからは逃げられない。 色を失った大地は、乾いた砂のみを大地に満たし、その向こうにある岩山は、そのうちに抱える水を守るように赤い岩塊を風に晒していた。 死の砂漠とも呼ばれるこのイード砂漠における、ほぼ唯一の都市。それがダーナである。 正確には、ダーナの南はメルゲン谷と呼ばれる広大な谷間になっていて、そこではわずかながら植物の自生も見られるが、大抵ここも砂漠の一部とされている。 かつては砂漠のオアシスの街として、そこそこの大きさの街と砦のある場所であったが、それが都市と呼ばれるほどに成長したのには、理由がある。 かつての十二聖戦士の聖戦が始まるより一年前、『ダーナ砦の奇跡』と呼ばれる神々の降臨。そのまさに、記念すべき場所がこのダーナなのである。 ロプト帝国崩壊後、ダーナは聖戦士たちによって聖地として定められ、どの国にも属さない自由都市とされた。元々、北トラキアからグランベルの南東、エッダへ抜ける通り道でもあったため、ダーナは商業の拠点として栄え、最盛期には人口五万を数える大都市となった。 しかし、あのイザーク戦争の原因ともなった、イザーク、リボーの部族によるダーナ襲撃は『ダーナの悲劇』と呼ばれ、住民はその八割以上が虐殺された。現在、このリボー部族の暴走は、暗黒教団が裏で暗躍していた、といわれている。 その後、ダーナはグランベルの主となったアルヴィスの保護の下で再び発展を遂げた。第二次聖戦の折には、イザークで旗揚げをしたセリス達によって攻め落とされているが、この時セリス達は、市街には被害を出さず、軍事拠点である砦だけを攻撃している。 そのダーナ砦を、今再び、四十年前の再現のように、イザーク軍が取り囲んでいた。 先頭に立つのは、無論イザーク王たるシャナンである。 そのシャナンは、苦虫を百以上噛み潰したような顔をしていた。 「ダーナの住民は、そのことごとくが正気を失っている、と考えざるを得ません」 ダーナに潜入させた兵の報告だ。 大陸全土を襲った『闇』による攻撃、それに続く暗黒司祭を始めとする暗黒教団及び彼らに操られた――と思われる――人々の蜂起。それからすでに半月が経っていた。 幸か不幸か、イザーク王国はそれらの被害はまったく受けなかったため、シャナンはもし事があったときの防衛の戦力を残し、イザークより軍を発し、トラキアに向かう事にした。すでにセリスから、敵の存在がトラキアにある事を聞いていたためである。 イザークからトラキアは海を渡ればすぐなのだが、この海は常に海流が不安定で、場所によっては大渦すら発生する、魔の海峡であった。ごくわずか、複雑な岩場を持つ島が連なっている場所があり、そこから小さな船での行き来は可能なのだが、大きな船は当然航行できない。また、イザーク王国はそもそも海軍を持たず、草原の民ゆえ、港も大きなものがない。 こういう理由から、イザーク軍はイード砂漠へと出て、海岸沿いに南下する、というかつて解放軍が辿ったルートと同じルートを使ってトラキアに行く事になった。 ところが、イード砂漠を海岸沿いに南下するところで、イザーク軍は幾度となく攻撃を受けた。 それがことごとく、ダーナの軍勢だったのだ。 ダーナは都市国家だが、常備軍を持たない。常に傭兵に頼っている。これ自体は、ダーナの伝統でもあるのだが、それゆえにダーナには常に多くの傭兵がいる。イザーク軍を襲ってきたのは、その傭兵達だ。 しかも、その兵の全てが、まるで意思なき人形のような目をしていたのだ。 彼らは仲間が殺されようが、自らが傷つこうが、まるで意に介さず突っ込んでくるのである。文字通り、体が動かなくなるまで、だ。 これには、大陸でも随一の錬度を誇るイザーク軍もてこずった。 トラキアの援軍に赴くはずが、これでは余計な消耗を繰り返すだけである。しかも敵は、ゲリラ的に夜襲や奇襲を繰り返し、イザーク軍に消耗を強いてくる。 このままでは消耗が無視できなくなる、と考えたシャナンは、ダーナを攻撃する事を決断した。 もっとも、シャナンにとってそれは苦渋の決断だった。 イザークがダーナを攻める、というのは、シャナンにとって、どうしても『ダーナの悲劇』を思い出さずにはいられない。 かつて解放軍で攻撃した時は、イザーク軍というよりセリス軍だったが、今度は紛れもなくイザーク人の軍隊だ。 もっとも、そんな感傷で判断を誤るような事は、シャナンにはない。ただ、攻めるにしても被害を最小にしたい、というのがシャナンの願いであり、そのためにダーナに使者を派遣したが、あろうことか二度にわたって派遣された使者は、いずれも帰ってこなかった。 相手が暗黒教団でもない限り、その様な事はありえない。そう考えて、シャナンはダーナがすでに暗黒教団の手に落ちている可能性を考え、斥候を出した。しかし、十人送った斥候で、帰ってきたのはわずかに二人。残りは、ことごとく発見され、殺されたと言う。 その戻った斥候のもたらした報告は、シャナンらを慄然とさせた。 ダーナは、その城、街のあらゆる人々が、何かに憑かれたかのごとく正気を失っている、というのだ。ゆえに、忍び込んでも即座に彼らは『異物』に反応し、斥候らはまともに偵察も出来ずに脱出してきたのである。 そして、斥候を派遣する前に集めた情報の中に、ちょうど半月ほど前、ダーナに『闇』が落ちた、という報告が複数あった。その『闇』は、コノート、ヴェルトマーらを襲った『闇』と同時に放たれたものだが、シャナンは無論それは知らない。ただ、このダーナに落ちたものは、他の地域に落ちた『闇』とは異なる性質を持つものだった。 いずれにせよ、シャナンとしてはダーナをこのまま放置するわけにはいかない。このままトラキアへ向かえば、背後より攻撃を受ける可能性もある、というよりかなり高いと考えざるを得ない。 となれば、ダーナの脅威を徹底的に排除するしか、方法はないのである。 「ダーナを攻め落とす。ダーナの脅威の排除完了後に、トラキアへ援軍に向かう」 シャナンはそう宣言すると、全軍の陣を整えるように命じた。 ダーナ滅亡の、二日前の事である。 |
夜の砂漠は、昼からは想像が出来ないほどに寒くなる。学者によると、昼間の熱が大地に吸収され、夜の寒さは和らぐものだが、水分のほとんどない砂漠では、大地がすぐに冷えてしまい、寒くなるのだと言う。夏であればそれほどではないが、春先のこの時期は、そうかからず大地の熱は逃げてしまっているらしい。イザークの冬ほどではないが、かなりの寒さを感じる。 ふと空を見上げると、見事なほどに満天の星空だった。 まもなく、この星空が照らした大地を人血で汚すかと思うと、申し訳なく思えてしまうほどに。 かつても、解放軍にあって、あちこちで人の血を流してきた。それは二十年前の解放軍に限らず、この大地で、幾度となく繰り返され続けた所業に過ぎない。星々も大地も、そんな光景はもう見飽きているほどに見てきているだろう。 「星々よ、願わくば此度の悪夢も、地上の詮無き争いごとと流したまえ……ふ、感傷だな」 「地上の業は地上の人に……。どうも決まらないな。フェイアよりはマシだと思うけど。でも、ジーンは詩人だな」 「フィオ王子……これは失礼を」 突然の声に、ジーンはわずかに驚きつつも、内心の動揺は外に出さなかった。 現れたのは、シャナンの長男、すなわちイザーク第一王子のフィオである。今年で十八歳になるこの王子は、神剣バルムンクの継承者であり、イザークで唯一、シャナン王とほぼ互角に戦う事ができる人物でもある。 「フェイア王女は……でも歌は非常に上手ですよ」 「そうだけど。というか歌があれだけ上手くて、あれだけ文学的才能がないのもすごいとは思うよ、俺は」 フェイアは、その美貌で知られるが、同時にその美しい歌声でも知られている。彼女自身も歌が好きで、その歌声は隣国シレジアの王女で『神の歌姫』とまで称されるクローディア王女とどちらが素晴らしいか、と言われており、半年ほど前、シレジア王セティの生誕祭にシャナンと共に赴いたフェイアは、クローディア王女と共に祝賀の歌を捧げ、セティ王はもちろん、列席していた各国の王、諸侯らに絶賛されている。 ただ、その歌の才能に反して、フェイア本人はどこまでも散文的な性格をしていた。 本人に言わせれば、過去の偉大なる詩人達の素晴らしい詩があるのだから、自分はそれを歌い上げるだけでいい、というが、クローディア王女は、彼女自身が優れた詩人としても知られている。人々の想像は勝手なもので、フェイア王女もさぞ素晴らしい詩を作るに違いない、と噂されているが、フェイアは歌以外の才能の全てが剣につぎ込まれている、というのが身内の意見だ。 もっともその意見とて、彼女より圧倒的に強いフィオやシャナンから出ては本人には嫌味にしか聞こえないのだろうが、フィオは、フェイアが飛びぬけて優れた剣才を持っている事をよく知っている。自分達の事を棚に上げるが、自分と父、そしてセリオは例外に等しい。身内の欲目ではなく、フェイアの実力は他の継承者に匹敵すると思っているし、それはジーンも同意見だった。 要するに、身内に人外に等しい存在ばかりがいたのが、彼女の不幸なのかもしれない。 何も、彼女のそばに彼女以上の存在ばかり集まらなくても、とジーンは思うのだが、こればかりはどうしようもない。 「ジーンは解放軍にも参加してたよな。ダーナは覚えているか?」 「いえ。私が参戦したのは、コノートに入ってからですので、解放軍がダーナを攻撃された後です」 「あ、そうだったのか」 ジーンが解放軍に参加したのは、コノートからだ。正確には、コノート攻略戦の後からである。 傭兵仲間でもあったファバルが解放軍に参加していると聞き、半ば引きずられるように参加した。だが、あの戦いに参加した事はジーンにとっても誇りである。 ダーナという地に、ジーンは思い入れはない。ダーナと聞いて誰もが思い出すのは『ダーナの奇跡』だが、イザークの人々にとっては、ダーナは悲劇の地、という印象の方が強いらしい、と知ったのは、イザークに移り住んでからだ。 それだけに今回、シャナン王がどういう想いでイザークを攻めるのかは分からない。 ただ、同僚、特にかつてのイザーク戦争を知る者――五十歳以上の者――には複雑そうな顔をする者が多い。 「陛下の心中を察しきる事は出来ませんが……私は、私のなすべき事をするだけです」 「まあ、そうだな」 フィオは剣の柄を検めた。 戦いとなれば、どうあっても犠牲は出る。犠牲者が一人も出ない戦いなど、ありえない。 本当は戦わずにすめばそれが一番であり、実際、シャナンもパティもフィオも、そしてフェイアもそれに心砕いていることを、ジーンはよく知っている。元々独立不羈の精神が強く、また、他者に支配される事を好まないイザークにおいて、王家というものを努めるのがどれだけ大変なことか、ジーンはこのイザークに来て痛感した。 シャナンやフィオが強いのは、誰かに勝つためではない。誰にも勝てないと思わせる――そんな理由もあるのかもしれない。そして、今、ほとんどの国の指導者が、やはり継承者で占められているのも、同じではないか。ふとジーンは、そんな事を考えていた。 |
「ダーナの民、全てが、だと?」 シャナンの、半ば呆然とした言葉に、その向かいに立つソファラ公妃ユリアは、小さく、だが確実に頷いた。 「半月前にこの地に降ったという『闇』について、分かっている事は多くはないです。ただ、グランベルから届いた報せによれば、ヴェルトマーにも『闇』が降ったそうですが、その時、ヴェルトマーの東、イードの砦が壊滅状態になったと。また、同様の被害がコノートでも出た、という噂もあります。しかしこのダーナではそれはない――不発だったのかもしれませんが……」 「ありえんな」 シャナンはその楽観論を否定した。 ヴェルトマーと、バーハラに降ったという『闇』については、セリオから連絡が来た。同時にセリスが呪いに囚われた事が記されていたが、シャナンはセリオがすべての指揮権を引き継いでいる、ということでそれについては問題はないと判断している。シャナンは、この大陸で、セリオの資質について最も正確に把握している一人であり、少なくともセリオであれば、セリスの代わりとしてなんら不足することのないことを熟知していた。 また、トラキアから伝わってくる噂で、コノートでも同様の被害が出ているらしい。他にも竜騎士団が全滅したとかリーフ王が戦死したとか、悪い噂ばかりが来る。ただ、真実を半分にしたとしても、トラキア王国が未曾有の危機に陥っているのは確かだ。実際、イードに入った時点で送った伝書鳩の返事は、未だにない。それより以前に送った使者も、未だに戻ってはいない。 トラキアに何かあったのは確実であり、一日も早く駆けつけなければならない。そのためにも、ダーナの脅威を出来る限り早く排除しなければならないのだ。 そして、シャナンはダーナの、少なくとも軍の大半が何かしらの手段で洗脳されている可能性が高い、と考えた。そしてそれが、おそらく何かしらの闇の魔力によるものであろうとも。そしてその方法について、シャナンらかつての聖戦に参加した者は、ことごとく思い当たる術があった。 傀儡(くぐつ)の術と呼ばれる邪法。闇の魔力で精神を束縛し、肉体を意のままに操る魔法。強力なものになると、その精神すら破壊し、完全に肉の傀儡と化す。そこまで強力なのは、大司教であったマンフロイくらいしか使えなかったはずだが、弱った人間に対して傀儡の術をかける事は、司祭クラスならば出来る者も多かったらしい。 そこでシャナンは、傀儡の術を誰よりもよく知る――かつて影響下にあった――ユリアに、捕らえたダーナ兵で、傀儡の術の影響下にあるかを調べさせた。答えは予想通り。だが、その後に発したユリアの言葉は、シャナンらの予想を遥かに超えるものだった。 シャナンは、おそらくごく一部の者が傀儡の術で操られているものだと考えていた。 だがユリアは、ダーナの民の全てが、傀儡の術の影響下にある、と告げたのである。 「ダーナ全体が強い『闇』の気配に満ちています。それこそ、あのマンフロイより遥かに強力な。そして、この地に落ちたという『闇』と、他の地域とは異なり破壊されていない城壁。これから察するに、この地に落ちた『闇』は、破壊ではなく――」 その先をユリアは続けなかった。 ダーナがもしすべて『闇』に、すなわち傀儡の術に侵されているのならば、ダーナの脅威の排除のために、イザーク軍の取る道は一つしかない。 「我々の手で、再びダーナを人血に沈める、というのか……」 かつて、イザーク戦争の発端となった、リボーの部族によるダーナの虐殺。幼かったとはいえ、シャナンも記憶に残っている。イザークにとって、ある意味ダーナという名は、忌避すべき名でもあった。 だが、事態が最悪の状況へと転がり落ちている以上、感傷以上のものではないイザークのダーナへの拘りなど、露ほどの価値もない。少なくとも、コノートは尋常ならざる事態が生じているのは確実で、今コノートに駆けつけられる戦力は、このイザーク軍しかない。伝わってくる情報が話半分としても、トラキア王国が壊滅的な打撃を受けているのは間違いないのだ。 一日も早く、コノートまで行かなくてはならないのだ。そのために、ダーナ通過に余計な時間をかけている余裕はない。 可能な限り迅速に、ダーナを、少なくとも敵対し得ない状態にするしかない。 そして、ダーナの民全てが傀儡の術に侵されているのであれば、取れる手段は、ダーナの戦力の徹底した排除。すなわち、ダーナに住まう数万人を監禁、または殺害するしかない。 だが監禁するとしても、数万人を閉じ込めておくことの出来る施設など、ありはしない。ダーナの砦に押し込んだとしても、一人も逃がさぬように見張るには、少なくとも千人からの見張りが必要になる。だが、そんな余剰戦力はないし、それで封じ込められるという保証もない。仮に封じ込めるとしても、数万人が死なないように維持するのは、容易な事ではない。 理想は、傀儡の術を解くことだが、傀儡の術の最も恐るべき点は、その解除がほぼ不可能である点である。唯一の方法が術者を殺すことで、ユリアはこれで救う事ができたが、今回、術者が誰であるかすら分からない。 術者が分からない以上、術を解くのは不可能に近い。 出口は、一つしかない。 「ダーナを攻撃する。……敵対する者は……」 シャナンはそこで言葉を止める。本当にそれしかないのか。他に手はないのか、と考えるが、答えは明らかだった。 「その全てを戦闘不能にしろ。ただし、正気を保っている者がいた場合、必ず保護せよ」 最後の言葉は、まずいないだろう、と分かっていてもなお言わずにはいられなかった言葉だ。 かつて聖戦が終わった時、シャナンはもうこれで戦いは終わった、と思っていた。 だが――。 (私の――いや、この大陸は歴史を血で購う事を求めているのかも知れんな――) 後に、かつての『ダーナの悲劇』と区別するため『ダーナの悪夢』とも呼ばれた戦いが、始まろうとしていた。 |
夜明けと共に、戦端は開かれた。 かつて、パティが見つけたダーナへの侵入口は、今回もまるで見張られていなかった。 そもそも、この通路の存在は、ダーナの領主も知らないはずである。 戦後、ダーナが自由都市となった時、この地を管理していたグランベルから市民に統治権が委譲される際、隠し通路についてセリスは伝達しなかったと言う。実は特に他意があったわけではない。セリスとしては、この隠し通路の存在を、それほど重視していなかったのである。通路の存在は、解放軍のうち、コノート攻略戦に参加した者達ならば大抵は知っている。別に緘口令も布かなかったので、遠からず伝わるだろう、と思っていたのだが、どうやらそうはならなかったらしい。あるいは、傀儡の術の影響下ではそんな事にまで思考が至らないのだろうか。 一応罠の可能性も考えたが、調査した結果その可能性は否定された。少なくともここ十年以上、通路に人が入った形跡すらなかったのだ。 シャナンは、自らは正面から攻撃を開始し、破壊鎚で城門を破壊、一方砦は、潜入した兵に城門を開かせ、一気に決着をつけることにした。 そもそもイザークの民は攻城戦は得意ではない。元々遊牧民族の国であり、かつては歩くより先に乗馬を覚える、とまでいわれていたほどだ。ゆえに野戦では圧倒的に強いが、反面、城攻めは攻守共にあまり得意ではない。かつての、圧倒的に数に劣るイザーク戦争でも、イザークが決戦に選んだのは篭城戦ではなく野戦であった。 そのイザーク軍をして、らしくない破壊鎚を使っての攻城戦は、かつて解放軍がこのダーナに対して取った戦術なのだ。ゆえにシャナンも当時を思い出して、ダーナ攻略が決定した時に、すぐ用意させたのである。 理想を言えば、転移系魔法で兵を一気に送り込む奇襲がいいのだが、今回、それは出来なかった。 一つは純粋に、人数の問題である。 イザークは武勇に優れた兵は多いが、魔法に優れた者は少ない。転移系魔法の使い手となると、なんとソファラ公妃ユリア、その娘のイーリアの二人だけである。しかもイーリアは体が弱く、ソファラに残している。イーリアの兄ルシオは同行しているが、、魔法が使えない。そうでなくても、消耗の激しい転移魔法をそれほど連発するわけにはいかないのだ。 そして決定的な理由があった。 いつからか、ユリアにもはっきりはしないが、転移魔法が現在、まったく使えないらしい。ごく短距離であれば何とかなるが、長距離となるとまったく発動しないという。この理由は、ユリアにもさっぱり分からない。気付いたのは、ナーガを受け取るためにバーハラに行こうとした時である。そのため、今ユリアの手にはナーガはない。 とにかくそういうわけで、転移魔法を使う戦術は、今回とれない。 ダーナは大きなテーブルに似た岩山の上にある都市で、堅固な城壁に囲まれた単一の都市国家だ。南はトラキアに、西はグランベルに通じるその中間地点のため、トラキアからグランベルに行く場合、大半がここを通る。岩山もあまり広いとは言えず、イザーク軍としては最も苦手とする地形でもある。ゆえに、極力城壁をはさんでの戦いは避けたいのだ。 ダーナをことさら脅威として残したのは、『敵』からすればおそらくイザークの足止めだろう。イザークからトラキアへ行くにはダーナの近くを通らざるを得ず、そしてダーナは、イザーク軍が最も苦手とする地形にある都市だ。 シャナンは、ダーナ攻略の成否を握る潜入部隊を、フィオに任せた。 「通路自体は安全だと思うが、城内に入れば、最悪数万の兵を相手にしなければならない可能性がある。私がいければいいのだが、さすがに私が陣頭になければ、訝しむ者がいるかもしれぬ。全てが傀儡の術の影響下とは限らないからな」 傀儡の術は、基本的に術者の与えた命令に従って動くが、思考能力のほとんどを奪われているため、臨機応変の判断は出来ない。そのため、術者が設定した『命令者』が存在する事がままあるのだ。そして、これだけの規模である以上、おそらくその『命令者』は必ず存在すると見ていい。 フィオに従うのは、王宮護士百人ほど。さらに、かつてこの通路を使ってのダーナ攻略に参加した、スカサハやロドルバンも加わっている。ジーンもいた。文字通り、一騎当千の兵達だ。 正面の門からの戦いの喚声が聞こえると、フィオ達は即座に突入を開始した。 通路は隠されているというだけで、罠などがあるわけでもなく、見つけ方さえ知っていれば造作なく入る事が出来る。フィオを先頭に、百人のイザーク兵は通路を駆け抜けた。スカサハやロドルバンは、どこに出るかも覚えている。息を殺して通路の奥まで到達したフィオは、外の音に耳を傾けた。やや遠くに、戦いの音が聞こえる。あるいはもう城門を突破したのか、かなり声が近い。。 フィオはスカサハ、ロドルバンと顔を見合わせると、小さく頷きあった。 彼らの目的は砦の門の開扉と、おそらくいるであろう『命令者』の発見、可能ならば捕縛である。 「いくぞ!!」 フィオの声に応えて、隠し扉が開かれた。暗い通路を通ってきた者達にはありがたい事に、その外――中庭は、朝日にわずかに染まった空以外は、夜に属している。 本来なら、これは完全な奇襲であり、相手の指揮系統の混乱すら期待できる作戦だ。 だが今回、相手の勝手がまるで違っていた。 中庭には、それなりの数の兵が存在していたのだが、突然現れたフィオ達に、彼らは驚いた様子も見せず、無表情に迫ってきたのである。 「……分かってはいたが、不気味すぎるな!!」 刹那、光が流れた。 同時に、フィオに迫ろうとしていた兵が、血煙をあげて倒れ伏す。 だが、ここからが本番だった。 ダーナの軍事施設は街の中心にある砦に集中しており、この砦の門は唯一つ、空掘を渡す橋をかねた扉だけである。正確には通用門に等しい門が裏手にもあるが、少数の潜入にはともかく、多数の兵が突入するには余りにも向かない。 そのため、フィオ達はまずダーナの砦の橋を落とし、それを閉ざせなくするようにする。それで砦を落とせば、普通は戦いは終わる。 フィオは麾下の兵のうち、選りすぐりの十人だけを、ロドルバンに任せ、砦にそのまま突入させた。これは、『命令者』を探し、倒すための部隊だ。仮に『命令者』がいなかったとしても、砦を押さえてしまえば後の戦いが有利になる、というのもあるし、あるいは『闇』の影響を逃れた人々がいるとしたら、やはり砦だろう。 一方、フィオ、スカサハたちは、まっすぐに砦の正面口に向かう。ダーナの砦の開閉装置は、扉のすぐ横にあるのだ。 砦内に突然敵が現れる事を想定していなかったのか、守備兵は思ったより少ない。逆に言えば、この後外門を開くのに苦労すると言うことだが、フィオはどのような敵であれ、父以外に負けない、という自負があった。 「…………」 無表情に迫る敵、というのは、フィオの想像以上に不気味ではあったが、フィオの剣はその戸惑いすら感じさせない、圧倒的な鋭さで周囲の兵を切り刻む。 あるいは、平和な時に生きてきた王子には似つかわしくない、殺戮の宴といえた。 剣閃が血煙の中に舞い、その都度、四肢を失った兵が倒れ伏す。 「……末恐ろしいな……」 スカサハはその様を見て、半ば感心し、半ば恐怖した。 確かに、シャナンはフィオを温室で育てたりはしなかった。幼い頃からイザークで暮らしているセリオと共に、実戦の技を、そして心構えを説き続けた。さらに、賊の討伐に同行させた事もある。 武をもって截つ。それがイザークの王であり、そしてユグドラルの支配者でもあるのだ。もっともシャナンは、この戦いが始まる前に『まさか本当に役立つとは思わなかったがな』と言っていたが、スカサハは、かつて自分が初めて人を殺した時に受けた衝撃を考えると、シャナンの育て方は正しかったのだろう。 「しょせん、我らは人の屍の上に玉座を築いているだろうからな……」 ひゅん、と剣閃が薙ぐ。その一閃で、スカサハに斬りかかろうとしていた四人の兵が、攻撃手段を失っていた。 「スカサハ叔父!!」 驚くべき速さというべきだろう。フィオはもう開閉装置に達したらしい。砦を囲う壁の、中ほどの高さにある小窓から、フィオの声がして、同時にゆっくりと橋が降り始めた。 ぎぎぎ、という鈍い音と共に橋は降り、ずん、という音がして堀の上に分厚い板張りの道が出来上がった。それと同時に、スカサハとフィオは、橋に繋がる鎖に、剣を振るう。ギン、という金属的な音が響き、鎖は音高く弾け飛んだ。 だが、その直後にフィオとスカサハが見た光景は、彼らの予想を超えていた。 「なっ!!!」 ダーナの街の、城門付近。そこから急速に、破壊の牙が街全体を覆いつくそうとしていたのである。 炎という名の、破壊の牙が。 |
その赤い炎は、無論砦内に突入したロドルバンたちにも見えていた。だがその時、彼らはその炎に気を取られる余裕もなかった。 彼らは、この戦いで初めて、自らの意思を持っている相手と対峙していたのである。 「くくく……よくここまで、イザークの諸君」 砦内をここまで駆け抜けるまでに、ロドルバンの部隊も少なからず消耗していた。今この場に立っているのは、ロドルバン、ジーン、それに若いイザークの戦士が四人の、合計六人だけだ。 「お前が『命令者』か」 「……いかにも。そして、君たちイザークの兵は、ここで死ぬ。ダーナ全てが、罠だとは考えなかったようだな」 「なっ……」 言われてから、ジーンははっとなって回りを見回した。血の臭いの満ちた部屋に、わずかに混じるこの臭いは。 「油……!!」 ジーンの言葉に、ロドルバンははっとなって振り返った。 「はーっはっはっは。遅いわ、もう。イザークはここで全滅するのだ!!」 男の手に炎が生まれる。その瞬間、ロドルバンとジーンだけが、反射的に行動していた。 一瞬の踏み込み。続く剣閃が、男の両腕を吹き飛ばす。 だが。 「くくく……残念だったな……」 男が倒れる。 男が床に倒れるその寸前、腰にあった小さな壺が割れた。 それが極めて可燃性の高い油である事を、ジーンは知っていた。 そして、男のベルトに、火打石がつけられていることも同時に見て取ったのである。 「逃げろ!!」 そう叫ぶのが精一杯だった。 直後、紅蓮の爆炎が、ダーナの砦と街を、すべて包み込んでいた。 |
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