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コノート崩壊




 コノートは、すでに壊滅的な状況にあった。
 竜騎士団の壊滅、突然の城壁崩壊。普通ならば、この二つの事実だけでも、抵抗の意思を挫かれるだろう。
 さらにそこに、突然暴徒と化した市民や、異形の怪物まで迫ってきたのだから、コノートが陥落し、完膚なきまでに蹂躙されていてもおかしくはない。
 だが、コノートはそれでもなお、王城を中心に、第三街壁で持ちこたえていた。
 コノートは元々、北トラキアの一都市国家であり、その当時は現在ほどの規模の街ではなかった。
 それが、トラキア王国の王都となることによって、爆発的に発展したのが現在のコノートである。よって、その街の周囲を覆う外壁も、街の拡大に合わせて拡張され続けたのだ。ここで、無能な為政者であれば無秩序に外壁が拡張されそうなものだが、リーフはその様な事はせず、ただ、街の防衛も考え、三つの街壁で城を守る形を作り上げた。こういう場合、当然城に近い部分がより高級な地区とされるのは基本ではあるが。
 そして今、それが幸いしていた。
 突然の攻撃によって破壊されたのは、最外縁の――そして最も堅固な――第一街壁であり、王家は第一街壁から第二街壁までの区画に直ちに避難命令を出した。崩壊した街壁を守るのは困難であり、また、戦力も著しく減退した現状では、不可能だと判断したからである。
 幸い、コノート城には、市民の半数が、半年に渡って生活するだけの物資も蓄えられており、最悪の場合、コノート城に拠って守りを固め、援軍を請うという手もあるのだ。
 避難命令が出された市民は、あてのある者はコノートを離れ――ここが戦場になるのは明らかだったからだ――他の地域へ逃げ、逃げるあてのない市民は第二街壁の内側に逃げ込んだ。
 だが、この第二街壁も、わずか十日で突破されてしまったのである。一つには、第二街壁を守る戦力すら、コノートに残されていなかった、というのがある。
 已む無く、第二街壁のエリアも放棄、現在第三街壁に拠って、防備を固めている状態だ。
 そして、この戦いの指揮を執っていたのが、負傷したディオンでも、王妃ナンナでもなく、まだ十四歳になったばかりの、セネル王子だったのである。

「ふぅっ」
 ついさっきまで、前線で指揮を執っていたセネルは、疲れたように長椅子に身を投げた。
 すでに陽はかなり傾いていて、地平線にかかろうとしている。
「お疲れ様です、殿下」
 そう言って、タイミングよくお茶を出してくれたのはザヴィヤヴァだった。
「ありがとう……兄上の様子は?」
「もう大分よくおなりです。さすがですね」
「そうだね。兄上はすごいよ……本当に」
 セネルがここまで持ちこたえていられるのは、負傷し、療養中の兄、ディオンの存在があったからだ。
 後世、この時のセネル王子の指揮ぶりに、史書は非常に高い評価を与えている。
 王リーフは行方不明、王妃ナンナは健在ではあったが、リーフ王が行方不明となった報せを受け、酷く憔悴しており――それでも、市民の前に出て彼らの心を支え続けていた――実際に指揮を執れる状態にはなかった。王子ディオンは、先の暗黒竜の攻撃によって重態であり、セネル一人がコノートを支えていた、と云われている。
 無論それは間違いではない。ナンナと、特にセネルが健在であったことは、絶望的な防戦を強いられていた兵達に勇気を与えており、また、セネルの防衛指揮はその場の戦局において非常に的確な指示を出し、戦力において圧倒的に劣る――この時すでに、三万以上の傀儡の術に侵された兵、異形の怪物がコノートを攻囲していた――トラキア軍を持ちこたえさせていたのである。
 だが後に、セネルはその時の事に話が及ぶと、必ずこう言ったという。
「私一人では、到底持ちこたえられなかった。私も不安で仕方なかったんだ。でも、母上を助けなくてはならなかったし、それに、兄上が、負傷の身にあり、外部の状況などほとんど分からないにも関わらず、適確に、戦う指針や、敵の執って来るであろう戦術を指南してくださった。だから私でも戦えたんだ」
 これは、兄の立場に遠慮した発言ともされているが、実際、セネルはディオンに多くの指示を受けていたのである。
 無論、セネル自身が持っていた資質が開花しなければ、それらの指示もまったく無意味であったのはいうまでもない。
 ただそれでも、戦局は一向によくなる気配はなかった。
 コノートの街壁が破壊されたその日、恐るべき現象が大陸を覆ったのである。
 転移系魔法が使えなくなったのだ。
 ごく近距離であればともかく、それ以外は、たとえ転送文書であっても、送る事が出来なくなってしまったのだ。
 つまり、ナーガを持つユリア公妃、あるいはセリオ王子がすぐ駆けつける事も不可能になった事を意味する。
 現在、第三街壁の内側に避難しているのは、軍と騎士、傭兵が合わせて三千、市民が二万ほどだ。市民もかなりの数が義勇兵として参戦してくれているし、士気は低くはない。物資も、少なくともこの数であれば半年は持ち堪えるだけあるが、いかんせん相手は疲労を知らないのか、昼夜構わず、ほとんど途切れる事もなく攻めてくる。全軍の疲労は、隠しようもない。
「殿下もあまり無理なさらず……」
「うん、分かってる。ヴィアも適当に休んで。あ、母上の様子は?」
 ナンナは、人々の前では気丈に振舞っているが、セネルの目から見れば、いつ倒れてもおかしくないほどに消耗していた。
 なんといっても、リーフがすでに二十日以上も行方不明なのだから無理もない。
 実際セネルも、倒れそうなほど疲労していた。
 まだ立っていられたのは、自分が倒れても代わりはいない、という責任感からだ。
「大丈夫です。今は、少しお休みされていると思いますが……」
「そか……ごめん、ちょっと休む。日が落ちた頃に起こしてくれ……」
「で、殿下!?」
 ザヴィヤヴァは慌てて振り返ったが、セネルはすでに長椅子に横になって眠ってしまっていた。その様子は、年相応の寝顔だが、今、この少年にコノートにいるすべての将兵の運命がかかっている。
「……無理をなさりませんよう」
 さすがにそのままでは、と思い、他の侍女を呼んでセネルを寝台に運ぶ。  これまで、ザヴィヤヴァはあまり神に祈った事はない。別に信じていないわけではなく、自分が出来る最大限の事をやれば、きっと結果は応えてくれる、神様は努力する者にちゃんと応えてくれる、と思っているからだ。だから祈らない。出来る事を精一杯やる。
 だが今、ザヴィヤヴァは神に祈らずにはいられなかった。

「ただいま、アララフ」
「お帰り、姉ちゃん」
 ザヴィヤヴァは疲れた体を、先ほどの主人のように投げ出した。
 セネルが休んでいる間、自分も少し休もうと思ったのだ。
 ここは、コノート城の一角にある使用人の部屋である。
 この状況下で、家族二人で一部屋与えられているのは、破格の扱いといっていい。ザヴィヤヴァが王子付きの侍女だったおかげである。
 ザヴィヤヴァの弟のアララフは、十歳になったばかりで、一般に言えば『生意気盛り』である。つい先日までは、姉を困らせて遊んだりといったこともしていたのだが、さすがにこの状況になると、そういうこともなくなっていた。
 アララフも状況はよく分かっている。
 少なくとも今が非常事態であるのは誰もがわかっていることだ。
 コノートの二十万の市民は、その七割が郊外へ避難、一割が城内へ逃げ込んだ。そして残り二割は――傀儡の術で敵となっている。
「大丈夫なのかな……」
 ぽそり、と呟くアララフの怖れは、この街に残った全ての者が感じている不安だろう。
 今はセネルの指揮で支えられているコノートだが、いつまでも現有戦力だけで耐え切れないのは少し考えれば分かることだ。そして、援軍は来ないのではないか、という不安を、誰もが感じ始めていたのである。
 そしてそれは、セネルのすぐそばにいるザヴィヤヴァが、誰よりも感じていることだった。
 転移系魔法が使えなくなった事により、完全包囲状態のコノートは、外部と連絡を取る手段がなくなった。伝書鳩を使っても、ことごとく空を飛ぶ異形の怪物に襲われ、一羽とて外へ行ける様子はない。それに、コノートだけがこのように攻囲されているわけではない、というのも容易に想像できる。あるいは、コノートより酷いところが――想像すら出来ないが――あるかもしれない。
 唯一の希望は南トラキアだが、その主力たる竜騎士団はすでに壊滅している。指揮官であるアリオーン大公、ディオン王子、騎士団長ディーン、いずれも重態で、回復の兆しがあるのはディオンだけだ。先に転移魔法でエッダに送られたアリオーン大公がどうなったかなど、まったく分からない。
「大丈夫よ、セネル殿下もがんばっているんだから。少なくとも、諦めたらそれで終わりよ」
 諦めなければ道は開ける。ザヴィヤヴァは今まで、何度も絶望的な――今回ほどではないが――状況にあっても、そう思って乗り切ってきた。
「さて、と。そろそろ殿下を起こしに行かないと」
 いつの間にか、陽は完全に地平に沈んでいた。本当は休んで欲しいところだが、そうも言っていられない。灯りも、油の節約のために制限している現在、部屋はかなり薄暗くなっている。
 手早く身支度を整えて、ザヴィヤヴァは扉を開けた。
「いってらっしゃい、姉ちゃ……」
 ザヴィヤヴァが開けた扉のすぐ前に、四人の男が立っていた。いや、男と判断するのは早計かもしれない。彼らは黒い装束で身を包み、顔もフードで隠していた。灯りもほとんどない廊下では、よほど近くにいなければ、彼らに気付くのは難しいだろうが、さすがに目の前にいればいやでも分かる。
 果たしてその時、どちらの方がより驚いたのかは判断が難しい。ただ、その驚きから立ち直るのは、ザヴィヤヴァよりその男達の方が早かった。
 四人は一瞬で飛び込んでくると、一人がザヴィヤヴァの口と腕を抑え、部屋に引きずり込む。残り三人が、部屋の中を確認し、アララフを見つけると飛び掛った。
「逃げて!!」
 そう叫んだつもりだったが、口を押さえられていてはもごもご、としかいえない。
 だがアララフは、その年齢の少年特有の軽捷さで男達の手を逃れた。だが動く方向までは計算できなかったらしい。アララフはむしろ、部屋の奥に追い込まれてしまっていた。
「姉ちゃんを放せ!!」
 アララフはテーブルの上にあったペーパーナイフをとると、それを構える。だが無論、男達がそれで動じた様子はない。
「そうか、こいつ、確かセネル王子付きの侍女だ。こいつなら、今の王子の居場所を知ってるはずだ」
 アララフを無視して、男の一人が言う。
 その時になって、ザヴィヤヴァは相手が今までの、傀儡の術で操られた相手とは違うことに気付いた。彼らは、自らの意思と考えをもっている!!
「あ、あなたたち、一体何者!?」
 口を抑える手がわずかに緩んでいたのか、今度の声ははっきりと発声された。
「真の神に仕える者だ」
 アララフを囲んだ男の一人が、振り返って答える。それを油断と見たのか、アララフが男に突進した。
「ダメ!!」
 ザヴィヤヴァの声と共に、鈍い音が響いた。
 振り向きざまの男の拳を顔面に直撃したアララフが、吹き飛ばされたのである。飛んだ方向が幸いにも、寝台であったが、もしテーブルなどであったら大怪我ではすまなかったであろう、という勢いだ。だが、その一撃でアララフは完全に気を失ってしまっている。
「さて、あちこち探すのも面倒だ。セネル王子と、ディオン王子の居場所を教えてもらおうか」
 アララフを吹き飛ばした男は、振り返るとザヴィヤヴァに向き直る。小さく目配せすると、一人が扉を閉じてその前に、もう一人がアララフのそばに立つ。
「誰が……!!」
 男は――顔はほとんど見えないが――表情も変えずアララフのそばに立つ男に軽く目配せする。
 その瞬間、ザヴィヤヴァの中で最悪の想像が像を結ぼうとして、そしてそれが明確な形になるよりも前に、それが現実となった。
 アララフのそばに立っていた男が、剣を抜き、それをアララフの右足に突き刺したのである。
「ぎゃああああああ」
 その激痛で、アララフは意識が戻ったらしい。だが、足の脛を突き通された剣は、そのまま板張りの床に食い込み、もがくたびに傷口が広がる。
「やめて!!」
「セネル王子と、ディオン王子はどこだ?」
 その言葉を合図にしたように、アララフの足から剣が引き抜かれた。だが、アララフはすでに激痛のためか、意識を失っている。大きな血管を傷付けたのか、見る見るうちに血の池が広がっていく。
「アララフを助けて!! お願い!!」
「セネル王子と、ディオン王子はどこだ?」
 男が再び、剣を、今度は左足の甲に突き刺した。すでに完全に意識がないのか、アララフはびく、と体を震わせるだけである。
「せ……ねる王……子は」
「僕ならここだ」
 突然の言葉に、男達も、ザヴィヤヴァも驚いて振り返った。
 隣の部屋へ通じる扉の前に、セネルが立っていたのである。
「ヴィアが起こしに来なかったんでね。来てみたら騒ぎになっているようだったから……」
 この部屋には入り口が二つある。一つが先ほど男達が侵入した入り口で、もう一つ、隣の部屋とを隔てる扉だ。
 元々この区画は、かつては大部屋であった部屋を改装し、区切って作られた部屋なので、隣の部屋からも入る事が出来るのである。
「ほう……伴も連れず……ちょうどいい」
 男達が、ザヴィヤヴァやアララフから離れ、セネルを半包囲する。だがセネルも、背後を取らせないように、壁を背にする。
「やれ!!」
 リーダー格の(ザヴィヤヴァに王子の居場所を問い詰めていた男である)男の声と同時に、三人の男がセネルに襲い掛かった。
 それに対してセネルは、素早く身を翻すと、入ってきた扉をくぐって、隣の部屋へと逃げる。
 男達は迷わずそれを追おうとし――そして、鮮血を吹き上げて突然倒れ伏した。
「なっ!!」
「迂闊すぎ。三流」
 聞こえたのは、女の声。同時に、闇の中でも映える銀色の影が、扉の前に立った。
 だが男には、その銀色が何であるかを確認する事すら出来なかった。
 男の両目には、鋭い短剣が深々と突き刺さっていたのである。

「貴方は……」
 現れたのは、ザヴィヤヴァの知らない人物だった。はっとするほどに美しい銀髪が、非常に印象的だ。
 軍装を纏っているので最初男性かとも思ったが、その顔は非常に美しい女性だった。
「無事……というわけではなさそうね」
 その女性はつかつか、とザヴィヤヴァの横を通り過ぎると、アララフの横にかがみ込むと、手をかざし、何かを呟いた。直後、かざされた掌から、光が放射され、同時にアララフの出血が止まっていく。
 しばらくすると、光が収まり、女性は少し疲れたように息をつくと、ザヴィヤヴァに振り返った。
「とりあえず一命は取り留めたわ。しばらくは絶対安静だけど」
「え……あ、ありがとうございます……」
「彼女らはグランベルからの援軍だ」
 一気に色々なことが起きて、混乱しているザヴィヤヴァの疑問に答えたのは、セネルだった。
「グランベル……から?」
「ええ。セリオ王子の頼みでね。私はアルフィリア」
 アルフィリア、と名乗った女性は、よく見るとザヴィヤヴァよりも一回りは年下のようだ。おそらくまだ二十歳になるかならないか、という年齢だろう。少女と表現してもいい容貌でもあるが、そう呼ばせない鋭さを秘めている。また、先ほど見せた力は、彼女が並々ならぬ戦士であり魔法使いであることを示していた。
「しかしいきなりこんな場面に出くわすなんてなぁ」
 そういって現れたのは、アルフィリアとほぼ同年代――ただ、雰囲気でさらに若く見える――こげ茶色の髪の少年だった。
「マズル。とりあえずやつらのうち……」
「生きてる一人はもう縛り上げてます。隊長がやったのは生きちゃいませんよ」
 見ると、先ほど隣の部屋にセネルを追った男のうち一人が、縄をかけられ床に転がっていた。傷は負っているが、腕を切り裂かれただけのようだ。残りは、というとリーダー格だった一人は両目に突き刺さった短剣を見れば、生きているはずはないのが分かる。
 セネルを追った残り二人は、一人は眉間から血を流し、一人は頸部を切り裂かれており、どちらも一目で生きていない、と分かる。
 隊長、と呼ばれていたが、どうやらマズルと呼ばれた少年の隊長がアルフィリアらしい。
「容赦なさすぎだよなぁ……どう考えても」
 話から察するに、一瞬で絶命するほどの致命傷を負わせたのは、ことごとくアルフィリアらしい。人は見かけによらない、というがこれほど恐ろしいギャップがあるのも珍しいかもしれない。おそらく、ドレスを纏い、宮廷のホールで見たら、誰もが虫も殺せないような深窓の令嬢だと思う。それほどの容姿の持ち主だ。
「それから朗報だ。父上が見つかった」

 先の大陸各地を襲った混乱から、コノートはもちろんその他の地域もいまだに立ち直っていなかったが、唯一の例外がバーハラだった。
 第二次聖戦の英雄、セリスの代理として全権を掌握したセリオは、父王を凌ぐほどの指導力を発揮した。
 バーハラの混乱は他の都市と比しても、その都市の規模ゆえにむしろ大きいといえたのだが、セリオは騎士団、正規軍、傭兵部隊を極めて効率的に稼動させ、都市の混乱を数日で鎮圧してしまった。
 その一方で、セリオは転移魔法が使えなくなったことを察知してすぐ、各地の情報を徹底的に集めさせた。このためだけに、新たに要員を公募したほどである。
 そしてセリオは限定的ではあるが、この混乱が大陸全土に及んでいること、そしてそれらの原因がトラキア方面にあるであろうことを推測したらしい。
 とはいえ、バーハラにもそれほど余力があるわけではない。国民の精神的支柱であったセリスが倒れ、バーハラだけでも数千人の戦死者――その三分の一は暴徒、すなわち傀儡の術によって暴走した市民だが――が出ているのだ。今、正規軍を割いて各地の救済に行く余裕は、バーハラにもない。
 だからセリオは、傭兵を一部遊撃軍として編成しなおし、トラキアを含め、各地に派遣することにしたのだ。
 アルフィリアらの部隊も、そうした部隊の一つで、かつ最大のものである。彼女の部隊は、アルフィリアを隊長とした、総数は四百名ほどの部隊だった。
 大きいとはいえないが、小さいとも言い切れない。
 正規軍は割く余裕がない、ということで、隊長すら傭兵から出していたのだが、セリオはこのコノートに派遣する部隊の隊長を、自らアルフィリアに指名した。
 この人事に、一番当惑したのは隊長であるアルフィリアだろう。だが、最初の混乱から続く戦いで、彼女の実力は十分に証明されていたこと、そしてその美貌もあって、一部に信仰めいたものすら生まれつつあったことから、この人事は本人以外には意外なほどすんなりと受け入れられてしまった。
 事態が逼迫していたのもあり、アルフィリアも結局ほとんど異論を(言う機会すらなかったともいうが)言うこともなく、コノートへ出立した。これが十日前のことである。
 そして強行軍でコノート近くまで来たのが二日前だが、ここで彼らは、先に出陣し、行方不明となっていたリーフ率いるトラキア軍と合流できたのである。
 トラキア軍は、先の攻撃によって甚大な被害を受け、全軍の七割が壊滅、残りも無傷の者はほとんどいない、という状態になり、撤退せざるを得なくなった。何より、リーフが重傷を負い、生死の境をさまよっていたというのもある。
 しかしすでにコノートは第一街壁を破壊されており、入城することすら不可能に近い状況となっていた。已む無くコノートの近くに陣を張って身を隠し、反抗の機会を窺っていたところで、アルフィリア達の部隊を見つけ、合流した、というわけだ。
 そしてアルフィリア達は、トラキア軍から少数であれば入ることが出来る隠し通路を教えてもらい、城内と連絡を取るべくコノート城に潜入した、というわけである。
「現在、私の傭兵部隊と、リーフ陛下麾下のトラキア軍で戦える者をあわせた合計が、約一千。多いとは申せませんが、城内の兵力と時機を併せて挟撃すれば、今コノートを囲む敵軍を突破し、リーフ陛下が入城することも可能かと思います」
「それは……確かにそうですが……」
 アルフィリアの提案は、現在の危機的状況を脱する唯一の手段に思える。少なくとも、国王不在、という、絶望的な状況を脱することが出来る。セネルにとっても、父王の存在はそれそのものだけで、どれだけ安心させてくれるか分からない。何より、母ナンナのためにも、父王には戻ってきてもらいたい。
 だが、現実問題として、国王が戻ったとて、持ちこたえられる時間が長くなるだけではないのか、という懸念がある。
 バーハラからの援軍はありがたいが、逆にこれで、バーハラからの、少なくとも近日中のこれ以上の増援はない、ということが確定してしまっている。さらに、アルフィリアらがもたらした情報により、他の地域も、コノートに救援を派遣する余裕などないとも分かってしまった。唯一の頼みはイザーク軍だが、もう到着してもいいはずにも関わらず、何の音沙汰もない。アルフィリアも、イザーク軍の動向はまったくつかめなかったという。
 アルフィリアらの部隊なら、メルゲンでイザーク軍と合流していてもおかしくはないはずなのだが。
「陛下は……なんと?」
「陛下は……実は意識がございません。司祭達の治療でかろうじて一命を取り留めてはおりましたが、出来る限り早く、もっと安静に出来る場所へご案内しなければ……」
 そしてその場所の、最適なのは間違いなくこのコノート城だ。何よりここには、今もコノートの大聖堂を預かる大司教がいる。
「分かりました。こちらの戦力に不足が若干ありますが……それはなんとか致しましょう」
「いや……戦力不足は私が何とかするさ」
 突然加わった声に、セネルはもちろん聞き覚えがあり、だが同時に、ここで聞こえることをまるで考えていなかったので、驚いて振り返った。
「……兄上!!」
 そこに立っていたのは、少なくとも二ヶ月は絶対安静、といわれたディオンだったのである。
「ゲイボルグが加われば、戦力的には一千の兵に匹敵する。それなら何とかなるだろう?」
「無茶です。兄上はまだ怪我が完治されておりません!!」
 実際今も、脂汗が額にびっしりと浮かんでいる。本来ならば、歩くことはもちろん起きることすら難しいほど重傷のはずなのだ。
「お前がここまでやってくれているんだ。私が何もしないで寝ているわけにもいくまい。大丈夫だ。無茶はしない」
 これほど説得力のない言葉も例がない、というほどディオンの言葉には説得力はない。すでに起き上がっていることだけで、相当無茶なことなのだ。
「しかし……!!」
「では、ゲイボルグは私が預かります」
 その声は、その場にいた人物達をさらに驚かせた。
「伯母上……!!」
「久しぶりね、ディオン、セネル」
 そこにいたのは、トラキア大公妃、アルテナだったのである。しかも、かつて纏っていたという紅い鎧に身を包んでいる。
 さらにその後ろに、サリオン大公子までいた。
「ゲイボルグは私でも扱えます。まあ、しばらく戦いの修練すら積んではいませんが……それでも今のあなたよりはマシですよ」
「伯母上……一体、どうやって……」
「私は竜騎士ですよ。空からに決まってるでしょう」
 思わず全員唖然としてしまった。
 コノートの空も、空を飛ぶ異形の怪物によって事実上『封鎖』されていたはずなのだが。
 確かによく見ると、アルテナの鎧には、そこかしこに戦闘の跡と思われるものが見える。だが、アルテナ自身は無傷のようだ。
「……分かりました。伯母上にお任せする方が……良さそう……」
 がく、とディオンは膝をつくと、そのまま倒れ付す。セネルが慌てて駆け寄ったが、ディオンはそれを制して立ち上がった。
「大丈夫だ。少しふらついただけだ。……ちゃんと休むさ」
 そういうと、肩を貸そうとする供にもそれを断って、ふらふらと立ち去っていった。
「昔のリーフそっくり。無茶をする子ね」
 そう言ってから、アルテナは全員を見渡した。
「というわけだから、私がゲイボルグを使います。継承は済ませてても、前継承者が使ってはならないってことはないし……で、ここからが相談なんだけど、セネル」
 アルテナは、すぐ後ろに控えていたサリオンを示す。
「グングニルの継承はまだだけど、この子に使わせたいの。いいかしら?」
「い、いや、私はそんな判断は……」
 確かにグングニルは現在、コノートに保管されている。アリオーンが重傷を負い、エッダに移送された時、天槍はそのままコノートに置かれたのだ。
「よろしいと思います、アルテナ様」
「ナンナ。もう大丈夫なの?」
「はい。リーフ様が生きていらっしゃると分かったら……」
 アルテナとナンナはお互いクスクスと笑う。実際、アルテナもまた、アリオーンが戦死したかも知れない、と知った時、ひどく動揺したのである。
「というわけよ、バーハラの傭兵隊長さん。こちらは、戦力の数は少ないけど、天槍地槍、両方が出るわ。少なくとも、陛下をコノートに入れるくらいは、何とかなると思う」
 それまで、次々に現れる継承者に圧倒されていたアルフィリアは、その言葉ではっと我に返った。
「わ、分かりました。では、刻限だけ定めましょう。その時に、私達も外から敵軍を突破にかかります」
「そうね……陛下のこともあるから、あまり時間はかけられない。明日の昼、太陽が中天に差し掛かったとき、でどう?」
「真昼間……ああ、確かに。そうですね」
 普通、こういう作戦では夜の闇にまぎれるのが普通である。だがそれは、相手が人間である場合だ。
 今回の場合、敵軍の大半は異形の怪物であり、彼らは夜の闇でもまったく視界に困らないことはすでに分かっている。むしろ、昼のほうが活動が鈍いくらいなのだ。
「それと……この男についての処遇はお任せします」
 アルフィリアは、まだ気を失っている、先ほど捕らえた男を示した。
「ええ。数少ない『敵』の情報源ですからね」
 いまだにその正体の判明しない『敵』についての情報。これが、反抗のきっかけになれば、と誰もが思わずにはいられない。
 そして翌日。
 太陽が中天に差し掛かったとき、作戦は開始された。

「愚物どもが無駄な抵抗を試みているようだな……」
 自らの手すら見えないほど深い闇の中、響いた声は、その闇に相応しい陰湿さに満ちていた。
「まさかトラキア王が生存しているとも思わなんだな……コノートも存外しぶとい」
 忌々しさが、その言葉にあふれている。
「グランベル、アグストリアも予想外だ。アレス、セリスが動けなくなればことは済むと言うたのは誰ぞ?」
 その言葉に、その場にいる他の者――姿は見えないが――の気配が、怯えへと変じる。
 それを感じて、声の主は、見えない者達を睥睨するように首を動かす。
 その時、その声とは比較にならないほどの深く、そして昏いうなり声にも似た音が響いた。
「おお……御力が……」
 その場が、喜びに包まれる。ただそれは、一般の喜びとはまるで違う、不気味なまでの陰湿さに満ちた喜びだ。
「くくく……よき時機よ……こんどこそ……」
 男は、何も見えないはずの闇の中を、迷うことなく歩き出す。すると突然、わずかではあるが闇が晴れる。
 そこにあるのは、台座の上にある、黒い宝玉を宿す魔道書。そしてその前に、薄絹だけで身を包み、両手両足を黒い鎖で束縛された少女が、力なくうなだれている。
「我が神よ……再び、我らに仇なす存在に対して、その大いなる力を示したまえ……」
 黒の宝玉が、闇を放つ。それに応じるように、少女の顔に苦痛が浮かんだ。
「くくく……神の怒りを受けるがいい……」

 ――お願い――もう止めて――。

 トラキア軍の反抗作戦は、完全に成功で終わった。
 まだ起きることすら困難なリーフではあったが、それでも、外の囲みを突破し、コノート城に入り、士気は大きく上昇した。
 リーフは、王宮のバルコニーに姿を現し、兵達に、自分が無事であること、そして苦しいが今は耐えて欲しいと訴え、兵、それに避難している市民は歓呼をもってそれに応じた。
 だが、それが終わって、リーフは兵の視界から消えると、すぐに寝台に横になる。
「無茶をしすぎよ、リーフ」
 アルテナが呆れ気味に言う。リーフはそれに、苦笑いを浮かべただけだった。
「いずれにせよ、これでしばらく持ちこたえることが出来ます。父上が無事であるというだけで、コノートは大丈夫です」
 セネルの言葉に、リーフは嬉しそうに笑んだ。この戦いは悲劇ではあるが、セネルが成長してくれた、ということは、リーフにとっては嬉しいことでもあるのだ。
「そうね……ディオンも、まあ無茶は出来ないにしても、そうかからず回復するでしょう。グランベルや他の地域からの援軍もそのうち……」
 その直後。
 大地が揺れた。驚いたセネルとアルテナ、ナンナ、それにアルフィリアがバルコニーへ飛び出す。そして、滅多なことでは動じないアルテナやアルフィリアですら、思わず目を疑った。
 本来、第三街壁があるはずの場所が、何もなくなっていたのである。それは、二十日ほど前に、ナンナが見た光景と、まったく同じ光景だった。




< ダーナの悲劇再び

歌姫の風 >


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