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歌姫の風




 アグストリアの北は、かつての諸侯連合の時代も、マディノ、シルベールという城砦はあったが、さほど栄えてはいない地域だった。本来であれば、北はシレジア、東はグランベルへと出る事の出来る海の玄関として、マディノは繁栄するに足る要所にあったのだが、当時、オーガヒルの海賊の勢力が強く、また、アグスティ王家も海路をさほど重視しなかったため、それほど発展しなかったのである。
 アグスティ王家としては、海賊の脅威が南に及ばなければよかったのだ。アグストリア最大の戦力であったクロスナイツの拠点シルベール要塞が北にあるのは、このためである。
 しかし統一王アレスの即位以後、北は急速に発展した。アレスは傭兵をしていただけあって、海路と言う存在の流通における重要性を、漠然とではあるが知っていたのである。マディノは、アグストリアの海の玄関として発展し、シレジアの毛皮や木材、北グランベルからの数々の工芸品や貴金属などが多く集まる、一大港町となったのである。王都アグスティとマディノを結ぶ街道は、それを整備した統一王アレスにちなんで『金獅子の街道』とも呼ばれ、隊商が途切れる事はない、とすら云われたほどである。
 だが今、その街道を行き交う隊商は、ただの一つとして存在しない。
 春の南西の風が、この時期また北からの風に変わる。この時期の北からの風は、寒さではなく潮の香と共に涼気を運んで来てくれる。
 しかし今、風の中にある気配を感じる事が出来る者がいるとしても、感じるのは清々しさとはまるで無縁の、呪詛と怨嗟に満ちた呻きにも似た不快感だけだろう。
 先に、マディノ沖の戦いで惨敗したアグストリア軍は、その余勢を駆って攻め上がる海賊達を防ぐことが出来なかった。決定的だったのは、なんといってもアレス王の負傷だ。後を引き継いだのは、王太子であるアルセイド王子である。
 マディノでの攻防は半月ほど繰り広げられたが、この戦いに関して、記述すべき点はほとんどない、というのが史家の一致した意見である。
 なぜなら、アルセイドは、すでにマディノでは海賊軍を短期的には防ぎきれないと判断し、マディノに入った翌日にはこの街の放棄を決めていたらしい。この判断の早さは、後々も評価されている。だがこれには、廷臣はそのほとんどが反対した。しかし、王国最大の重臣にして、最大の戦力を預かるノディオン公デルムッドが賛成したため、マディノの放棄は、上層部の意見の衝突に比して、大した混乱もなく実行された。アルセイドは、街の人々が逃げる時間を稼ぐために、半月ほど防戦を繰り広げ、時には自ら出撃し、海賊軍がマディノを突破できないよう足止めした。
 この時、あらゆる作戦立案に立会い、またその才能を存分に発揮したのが、デルムッドの子、ベルディオだ。また、彼の妹で、『アグストリアの宝玉』とまで謳われる、若干十五歳のセフィア公女の軍は、敵軍に甚大な被害を毎回のように強いて、海賊軍にマディノの攻略をたびたび躊躇させている。
 この二人の活躍で、マディノの住民はほとんど被害を出すことなく、マディノを後にする事が出来た。
 それから、二ヶ月。
 海賊軍はマディノを支配し、そこを拠点としてアグストリア全体を虎視眈々と狙っている。
 一方のアグストリアも、ようやく立て直した戦力で、反撃の機会を伺っている、という情勢だった。
 グラン暦七九九年六月。
 春より夏の色が濃くなってくる季節だった。

「ようやく、動いたか……」
 その日、アルセイドは王都アグスティにある王城で、文字通り待ちに待った報告を受けた。
 翼に、風を意匠化した模様を重ねた紋章。このような紋章を使うのは、ユグドラルでもただ一国しかない。
「仕方ないところもありましょう。かの国は、ようやく春、というところ。少数であればともかく、大軍を、しかも海の上を渡そうとすれば……」
「わかってる」
 ベルディオの言葉に、アルセイドはやや面倒くさそうに答えた。といっても、彼の場合これが地であるから仕方ない。
 一つ年上の再従兄に邪険にされ、ベルディオは一歩下がり、肩を竦める。その様子を見て、父であるデルムッドは苦笑した。
 ここまでよく辛抱強く、と思う。
 海戦で惨敗し、マディノに逃れた時、デルムッドは即座にマディノに拠って守りを固めるだけの戦力はない、と判断した。マディノは北に海を持つ港町であり、東西南は高い城壁で守られているが、北は海があるだけで、防柵あっても城壁というほどのものはほとんどない。海軍が壊滅的打撃を受けた今、短期的にはともかく、怒涛の如く押し寄せる、しかも船の扱いに長けた敵軍に、すでに甚大な被害を被っていた戦力だけで対抗するのは不可能だった。
 最初デルムッドは、アルセイドがマディノでの防戦を主張するものだと思っていた。
 アルセイドの資質は知っている。普段怠けてはいるが、少なくとも騎士としての力も、王としての器量も父アレスに劣るものではない。ただ、いかんせんまだ若い。若さは、勇気と蛮勇を取り違えることが、多々ある。
 だがこの時アルセイドは、デルムッドが何か言う前に「この街から全ての民が逃げるまでにどのくらいかかる」と聞いてきたのである。デルムッドが「半月ほどかと」と答えると、アルセイドは「ではその間だけ防戦する」と宣言した。
 アルセイドもまた、デルムッドとまったく同じ考えだったのである。
 この資質は、非常に得がたい。
 ベルディオは、確かに戦術家として優れている。だが、デルムッドが見る限り、ベルディオは戦局全体を判断する能力は低い。局所的な戦場で勝つ事は出来ても、全体を大局的に見る力に欠ける。対してアルセイドは、その能力が高い。
(ある種、理想的なコンビだな)
 これで、能力が逆だとまた都合が悪い。その意味でも、理想的だ。
 そして、マディノ放棄後、アルセイドはひたすら海賊軍がマディノ近郊から出られないよう、それだけに腐心していた。
 そうして、時を待っていたのである。
 北の、シレジア王国が動くことが出来る季節を。

「ん〜〜〜〜〜〜」
 カール・アドル・アイガスは、少しだけ固くなった体をほぐそうと、大きく伸びをした。時刻は昼を少し回ったところ。起きるにはかなり遅い時間だが、今朝、明るくなるまで歩哨に立っていたのだ。
 この二ヶ月、ほとんど休みなしに戦い続けてきている。
 マディノをあまりにもあっさり放棄した事には驚きはしたが、今思えばそれしか選択肢がなかった、と分かる。また、敵にマディノを与える事により、逆に、敵をそこに封じ込めることが出来ている、とカールは思っている。
 カールを含めた海軍の生き残りは、そのままアルセイド王子の直属に配属転換された。元々、アルセイド王子は直属の護衛騎士以外指揮する兵力を持たない。国王の代理である以上、実際にはクロスナイツが直属とも言えるのだが、王子はこの指揮はノディオン公に任せている。
 アルセイド王子はマディノ放棄後、ほとんど戦場には出ていない。直属とされてしまったカールらも、実はあまり戦う機会には恵まれていない。
 この戦いは、文字通り一大事ではあるのだが、一方で、武門にある者としては、武勲を立てて栄達する、絶好の機会でもあるのだ。だが、すでに二ヶ月近く、それを発揮する機会に恵まれていない。
 話によると、クロスナイツに籍を置く長兄は、いまや『勝利の女神』とまで称されるセフィア公女の下で、多大な武勲を挙げているらしい。らしい、というのは本人から聞いたので(悔しさも混じって)話半分だと思っているのだが、実際、セフィア公女の活躍は兵が三人以上集まる場所では必ず聞こえてくるほどなので、あながち兄の言葉もウソとは言い切れない。
 対して自分は、というと、ひたすら守備である。上官、つまりアルセイド王子が出陣しないのだから、戦場に立つ機会があるはずはなく、兄との武勲の開きは広がる一方である。
「あ〜、くそっ」
 ガン、と柱の一つを蹴る。
 あの海戦の折、王子に感じたあの圧倒的な威圧感は結局錯覚だったのではないか、と思っている。
 このままではいつまでも戦えず、家での立場はますますなくなってしまう。
「あら。荒れてますね」
 突然の声に、カールは驚いて振り返り、そして硬直した。
 そこにいたのが、セフィア公女だったからである。
 公女はまだ十五歳、自分よりは四年も年下だ。この年頃での四年といえば、相当な年齢の開きがあり、ともすれば子供に見える事すらある。
 だが、セフィア公女に関しては、それはまったく当てはまらない。
 確かに冷静に見れば、顔立ちはまだ幼さを残しているし、この年齢特有の、細くしなやかに伸びた手足は、だが一方で色香にはやや欠ける。だが、大人の女性の魅力と少女の可憐さが、ぎりぎりで均衡を保っており、それも彼女の魅力の一つなのだろう。
 輝くような金髪は、それ自体が黄金の冠をも凌ぐ美しさを持ち、深い空の色にも似た瞳は、宝玉と呼ぶに相応しい。紅をさしていなくても、わずかに色づいて見える唇は、とても十五歳の少女のものとは思えない艶やかさすら感じさせる。
 地上に降りた女神の化身、とすら呼ぶ者がいるという。
 実際、今彼女は軍装に身を包んでおり、『少女』であるというより『女神』の方が、よほど似合っている、と思えた。
「ど、どうも、恥ずかしいところをお見せして……」
 これでも容姿には十分に自信がある方だ。社交界ではそれなりに知られ、また、人気もある――三男坊だと知られると距離を置かれることが多いが――し、女性の扱いにも慣れている、つもりだった。
 だが、彼女の前ではそれらは全て無意味である、と思い知らされる。ある意味、彼女の前で普通にしていられる男がいるとしたら、それはとっくに春を過ぎているか、女性に興味がないかのどちらかだろう、と思う。
 セフィアはそれには答えず、くすくすと笑う。その笑顔は、間違いなく年相応の少女のものだが、伝承にある妖精のような愛らしさもある。
「まあ、アルセイド様は辛抱強い方ですからね……その麾下にある貴方達がふてくされるのも無理ないかもしれないけど……」
 カールは軽く目を見開いた。
「僕……あ、いえ、自分がなぜ殿下の配下と……?」
「この時期、その様にふてくされる兵は、あの方の麾下の人たちくらいですからね」
「あ……」
 四歳も年下の少女に指摘され、思わず顔が紅潮する。
「ま、多分そろそろ大変になるでしょう。それも、遠からず、ね」
 それはまさしく予言だったと、後でカールはしみじみと思うことになる。

 吹き荒ぶ北風は、この時期としては滅多にない強さと荒々しさがあった。
 帆はその北風を受けて大きく膨らみ、船は波を割って常ならぬ速度で突き進む。
「この分だと、予定より早く着いてしまいそうだな……」
「先方も、それはご承知ではないでしょうか」
 独り言のつもりだった言葉に反応され、この船団の最高責任者――すなわちシレジア王――セティはやや驚いて振り返った。
「クローディア。お前が風を呼んでいるのか?」
 クローディア、と呼ばれた少女は「いいえ」と首を振る。
「でも、風が私達を導いてくれているようです」
「確かにな」
 風は、風のフォルセティの継承者であるセティ、そしてその娘であり、同じく継承者であるクローディアにとって、最も親しい存在、と言ってもよい。この二人がいるのだから、あるいはこの船団が風に恵まれるのも当然かもしれない。
 シレジア王セティは今年で三十九歳になる。老年、というほどではないが、若いとはいいがたい年齢になっているとはいえる。とはいえ、第二次聖戦における賢者セティの名声はいまだ健在であり、今もなお、ソファラのユリア公妃と並び、大陸最強の魔道士として名高い。
 その娘のクローディアは、十五歳になったばかりである。セティと、王妃ティニーの間に生まれた長女で、二つ上にルードという兄がいるが、フォルセティを継承する資格を有したのは妹のクローディアだった。
 兄ルードは、継承者のいないザクソン公に封ぜられる予定だ。
 普通だとこれで継承争いなどが起きそうなものだが、ルードは、いい意味でも悪い意味でも、祖父であるレヴィンの性格と容姿を受け継いでいて――ただし髪の色は母親と同じだが――、むしろ面倒な国事を妹に押し付けられる、と思っているらしい。セティとしては、公爵ともなれば十分国事に携わる存在であり、真面目にやってもらいたい、と思っているのだが。
 もっとも、今回の出兵に際し、セティはクローディアを伴い、ルードには国の守備と安定を任せた。
 最初セティは、ルードを連れ、クローディアとティニーに国を任せようとしたのだが、クローディアが珍しく、自分が行く、と主張した。セティとしては、ティニーはともかくルードに後事を託すのは限りなく不安だったのだが、結局、押し切られ、クローディアが同行し、ルードが留守番、となった。ルードもティニーも、クローディアの出陣を推したため、事実上多数決で完全敗北したのである。
 ただ、クローディアがなぜ強硬に同行する事を主張したかは分からない。セティも聞いてみたが、教えてくれなかった。ティニーは知っているようではあったが、やはり固く口を閉ざしていた。ただ一言『女同士の話ですから』と言われては、セティにはそれ以上問う事は出来ない。大方恋愛関係の話なのだろうが、少なくとも自分では、色恋沙汰は苦手だ、とセティは思っている。かつての仲間からは盛大に異論が出そうだが。
 ともかく、セティは、天馬騎士と魔法師団の半分、それに海軍を全軍率いて出陣した。
 シレジアは、今回の争乱において、イザークと並んで被害がほぼ皆無であった地域である。
 理由は分からない。ただ、いずれにせよシレジア国内において内乱が発生する事はなかった。
 シレジアが他の地域に比して、発展していない、ということはない。
 シレジア王国は、グランベル帝国の台頭に先んじた内乱と、その後のグランベル帝国の侵略によって、一度は滅ぼされた。だが、シレジアにとって幸いだった事に、グランベル帝国はシレジア王国の支配には消極的だった。一年の半ば近くを雪に閉ざされる上、シレジアは南北に巨大な山脈と大河が横たわり、極めて統治しづらい地形だったのだ。それゆえに、北の果てトーヴェに逃れたシレジア王家はグランベル帝国に見つかる事もなく生き残ったし、国土もさほど荒れはしなかった。
 そうでなければ、ただでさえ雪に閉ざされるこの地域の復興は、他の地域の数倍の労力が必要だっただろう。
 第二次聖戦後、セティは国王としてシレジア王国の復興を宣言し、まず国内の交通網の整備に努めた。
 また、以前はともすると閉鎖的であったシレジア王国だったが、特に海峡を隔ててわずかな距離にあるグランベルとの交易を積極的に推し進め、また、それに伴い沿岸航路の開拓に努めた。
 しかし、海の路が栄えると、当然海賊が出る。一度は壊滅寸前になったとされるオーガヒルの海賊が、シレジアの南から北へ向かう船を狙うのは必然に近かった。そして、それに対抗するため、海軍が整備されるのもまた、必然といえるだろう。
 結果、こと海軍力では、シレジアはユグドラル随一の力を持つようになっていたのである。
 とはいえ、自国の安全だけを、という事態ではないことは、セティはもちろん分かっていた。国内の戦力がほぼ無傷で残った以上、他国の支援に動こうとするのは当然だったのだが――すぐに動けない事情があった。
 雪である。
 今年の冬、シレジアは近年稀に見る大雪に見舞われた。これについては、セティが即位してから以後、彼自身が最も精力を傾けてきたのが、シレジアの大雪に対する対策であり、それが功を奏し、孤立したり雪崩に埋もれてしまう村などはなくてすんだのだが、かといって軍を動員せずに対応できたわけではない。しかもこの雪が、春になっても収まる気配を見せず、五月頭まで、シレジアは大雪に悩まされたのである。
 あるいは、シレジアで争乱が起きなかったのは、起きなかったのではなく、起こせなかったのではないか、と思えるほどだ。
 ようやく雪が解け、大地が顔をのぞかせたのが、五月。雪崩の可能性もほとんどない、と判断できたのは、五月も終わり、六月になる頃だった。
 そうしてようやく、シレジアは援軍を派遣できる状態になったのである。
 最初セティは、グランベルに援軍を出すつもりだった。グランベルとシレジアは、陸路では遠いが、海路では細い海峡を隔ててすぐである。
 シレジアは、三方に海を持ち、また、国土の中央に大きな山脈が存在するため、陸路より実は沿岸航海での海路の方が発達している。だが、セティがまだ国内の大雪対策に奔走している間に、グランベルから特使が来たのである。
 特使によると、グランベル王国は国内での保有戦力及び傭兵で現状への対処は可能のため、他の地域、具体的にはアグストリアへ援軍を出して欲しい、というものであった。また同時期、アグストリアからも援軍の要請が――無論グランベルにも――届いていたのである。
 またそこで初めて、セティはセリスが重傷を負い倒れた事、王子であるセリオが全権を引き継いだ事を知った。
 一瞬、セリスが死んだのかとも思ったが、それは使者が明確に否定しているので、とりあえずセティは安堵した。
 とはいえ、セティはセリオが全権を引き継いだ、という点に、彼自身しか抱かない不安を抱いていた。
 制度上では、セリスが倒れた以上、立太子の儀を迎えていないとはいえ、第一王子であり、光のナーガを継承するセリオが全権を引き継ぐ事は、至極自然だ。また、彼自身の能力も、実務においては未知数とされながら、実際にはセリスを支えていた事は知っているし、軍才においても、士官学校の歴代の学生の中でも、最優秀と噂されるほどであることも知っている。
 別にセティは、セリオの、セリスの後継者としての資質に、疑問を感じているわけではない。
 ただ。
「再び彼が暴走する事があれば……」
 十二年前の悪夢。
 セリオのナーガ継承の儀の時に発現した、セリオの力。
 まだ六歳だったセリオが、ナーガを扱おうとした瞬間に、彼から溢れた力は、セティが知る、いかなる力よりも遥かに強大だった。
 その力は、フォルセティ、ファラフレイム、ナーガの三つを合わせたよりも強力だったのである。
 六歳の時でその力である。もはや、今のセリオの力は、セティにも想像は出来ない。
 それゆえに、セティは常にセリオが継承の儀を行う事を、十二年前からずっと警戒し続けていたのである。
 セリスも、そしてどこからかセリオもそれを察していたのか、結局、セリオが十八歳になる今年になっても、継承の儀は行われていない。
 いずれにせよ、セリオが全権を引き継ぐことは仕方ない。それに、光のナーガは、今もなおイザークにある。グランベルからの情報によると、イザークはシレジア同様国内の被害がほとんどないため、現在、トラキアに援軍を派遣している、と言うことらしい。また、グランベルもトラキアに少数ではあるが援軍を出しているという。
 そういうわけで、シレジア軍は、シレジアの南にあるシレジア港に軍勢を集結、海路アグストリアを目指している、というわけである。
「陛下。アグストリアから、使者が戻りました」
 それは、数日前にアグスティに派遣した天馬騎士である。自分達の到着見込みと、それに伴う攻撃計画をアグストリアに伝えるために送った者だ。天馬騎士を持つシレジアならばこそ、このような連絡が可能なのである。
 シレジア軍単体でも、マディノを攻め落とすことは不可能ではない。シレジアの海軍はユグドラルでも随一の錬度を誇るし、何より魔法兵と天馬騎士が主力である以上、船が接舷する事にこだわる必要はない。足場の有無などほとんど関係のない天馬騎士と、弓ほどの射程はないが遠距離で攻撃できる魔法の組み合わせは、海戦において絶対的な強さを持っていた。
 欲を言えば、海戦では炎魔法か雷魔法の方が効果はある。
 炎魔法であれば、敵船を焼き払う事も可能であるし、雷魔法も、火災を引き起こすことが出来るが、風魔法ではそれはままならない。
 それゆえか、特にシレジア海軍に属する魔術師には、シレジアの者達が伝統的に得意とする風魔法以外に、炎や雷の魔法を得意とする者が多い。
 これもまた、シレジア海軍の強さを支えている要因だった。
 だが、シレジア軍単独でのマディノ攻略は、後々を考えるとあまり好ましくない風聞が流れる可能性がある。それに、シレジア軍の被害も軽視できないものになるだろう。だからセティは、アグストリアと連絡をとり、マディノの奪還を行うことを提案したのである。

 戦いは、夜明け前に始まった。
 海賊はマディノに封じ込められてはいたが、それは、進軍しようとすると、地の利のあるアグストリア軍の神出鬼没な戦術によって出血を強いられ、やむを得ず退却、と言うことが多かった。正面から戦った戦闘は、この二ヶ月の間、ほぼ皆無だったのである。
 それに対して、今回アグストリアはマディノを正面から攻撃した。純粋な戦力の激突は、個々の戦闘能力では騎士が大きく勝るが、海賊軍は数に勝る。そして、暗黒教団の司祭と、先に教団に『服従』した騎士、石巨人などの人非ざる戦力。さらに、マディノの城壁がある。十分に防衛可能だと、彼らは踏んでいた。
 だが、その目論見は一瞬で崩壊した。
 アグストリアの戦力は、約一千。その全てが騎兵であり、うち六百がデルムッド率いるクロスナイツ、二百がハイライン公トリスタンが主将を務める傭兵騎士団、そして二百が、王子アルセイド自らが率いる騎士だった。カールもここに属している。
 炎の魔法を応用した、巨大な合図が上がる。
 これは、信号魔法と呼ばれ、主に広大な戦場で味方の全軍に連絡をするために用いられる信号なのだが、実はこれは、あまりにも奇妙だった。
 アグストリアの全軍は全てマディノの南に集結しており、海賊軍もアグストリアの騎士相手に野戦を挑むほど愚かではない。よって、戦場はマディノ城壁越しの戦いになるわけで、信号魔法など使わずとも、全軍に意思を伝えるのは容易なはずである。しかも、その時の信号魔法は、桁違いの大きさであった。夜明け前、まだ空の暗いこの時間であり、おそらくその光はオーガヒルの海賊砦からでも見えたであろうほどである。
 海賊側に知恵者がいれば、これを奇妙だとは思っただろう。
 夜明け前、すなわち闇に乗じることが出来るはずなのにも関わらず、自らの攻撃のタイミングを明かすことは通常考えられない。無論、アグストリアの兵が全て騎兵であることを考えれば、不意打ちなど馬蹄の音で察知されるから意味がないとは言え、これでは防衛側が十分な迎撃準備を整えることも出来てしまう。いくら重装備の騎兵であろうとも、城壁の上から射放される矢に対しては、完全な防御力を誇ることなど出来るはずもない。
 だが、海賊軍にはそこまで考える者はいなかった。また、暗黒教団の司祭達も同じだ。彼らは無知ではなかったが、その信号魔法は、不必要なほどの大きさを示すことによって、攻撃側の数が大きい、と錯覚させる目的だろうと思ったのである。
 彼らはアグストリア側の戦力を正確に把握している。彼らに『服従』した者は、全てがマディノにいるわけではないのだ。
 だが、その彼らの目論見は完全に外れた。確かに、アグストリアの戦力は、彼らの把握している通りである。そしてアルセイドは、陣内に内通者がいる可能性をとっくに見抜いており、シレジアの援軍について、ごく一部の側近以外にはなんら話していなかったのである。
「くくく……魔剣ミストルティンを以って城門を破るか……確かに可能ではあろうが、たどり着けなければそれまでよ……」
 司祭達は、アルセイドの力を過小評価はしていない。少なくとも、魔剣の継承者としての力は。そして、魔剣が完全な状態である場合、特に継承者の近くではまったくといって良いほど魔法が役に立たないことも良く知っている。だが、魔剣は反面、物理的な攻撃に対する防御はない。無論、それを振るう者は硬い鎧に身を包んでいるだろうが、かといって、雨のごとく降り注ぐ矢の全てから身を守ることなど出来るはずもなく、また、継承者自身が無事であっても、その周りが無事であるはずはない。
 そして、いかに継承者とはいえ、数百、数千の兵で囲めば、鏖殺することは可能だと踏んでいたのだ。
 馬蹄が大地を蹴る音が、地鳴りのようにマディノにも聞こえてきた。
 まだ東の空がわずかに明るくなっているだけであり、南の平原はほぼ完全な暗闇である。だがそれでも、馬蹄の響きからアグストリア軍がどの程度の距離にいるかはわかる。海賊達は、弓や弩構え、矢を射放しようとする。
 その時。
「歌……?」
 馬蹄の轟きに混じって聞こえてくるその歌に、最初に気付いたのは一人の海賊だった。
 透き通るような、と表現力の少ないその海賊でも思ったほどに澄んだ、美しい歌声だった。その歌は、とても遠くから聞こえてきている、というのは分かるのに、それでもなおはっきりと、不思議な響きを彼の耳に届けている。
 その歌は、だんだん明瞭になり、そして海賊達がことごとく気付く。だが無論、歌っている者などどこにも見えない。
 そして直後、異変は起きた。
 突風、といっていいほどの南からの風が、マディノの城壁に叩きつけられて来たのである。しかも、その風は途切れない。突風というより、暴風というべきだろう。
 そのでたらめともいえるほどの風に、海賊達はうろたえた。
 これでは矢を放つことなど出来はしない。放ったところで、風に舞い戻されてしまう。それほどの風だった。
 しかも風は一刻ごとに強くなり、ついには目を開けていられないほどになる。
 ここでもし、冷静な者がいたらやはりこの事態の異常さに気付いただろう。
 風には、馬蹄の音が響いていなかったのだ。
 この強風は、城壁の高さの場所だけ吹いており、地上を駆ける騎士達には、まるで影響がなかったのである。
 そして、海賊がまったく迎撃することが出来ないため、何の障害もなく城壁に達したアルセイドは、魔剣を一閃させた。
 マディノの城門が破壊された時、海賊はまだ混乱の中にあった。

「セティ王、援軍、感謝する」
 そういって差し出されたアグストリア王子の手を、セティは軽い驚きを感じつつ握り返した。
 アグストリアのアルセイド王子といえば、『昼寝の王子』とも呼ばれる、凡庸で覇気のない王子、という評判だったのだ。
 黄金の冠――獅子の鬣にも喩えられる――を思わせる髪を持ち、生まれながらに王威を感じさせる父アレス、祖父エルトシャンとは異なり、アルセイドは容姿は美男といっても良いが、人に強烈な印象を与える方ではない。髪は栗色で、これはアレスの母グラーニェの色だと聞いているし、全体的な印象も、烈しさを感じさせるアレスとは異なり、柔和な顔立ちをしている。
 だが、今セティの前に立つアルセイド王子は、確かに顔立ちは、話に聞いていた通りだが、その印象は柔和、といったものではない。父アレスにも劣らぬ、強い覇気を感じさせるものだった。
「いや。今後もアグストリアとは良い関係でありたいと思っている。それに、隣国に、海賊国家は遠慮したいからね。海に逃げた海賊のうち、海賊どもは、小船で逃げた者は少なくないが、船は全て拿捕、または破壊した。しばらく建て直しはできんだろう」
 アルセイドは、その言葉に小さく笑う。
「ありがとうございます。ところで暗黒教団の司祭は……」
「残念ながら、暗黒教団の司祭どもは一人も捕らえられなかった。さすがに、転移魔法で逃げられてはな」
「そうですか……ですが彼らも、単独ではたいしたことは出来ますまい。それに、捕らえた海賊から彼らの拠点の場所を聞きだしてありますので、いずれ戦力を建て直した後に、討伐を行います。……それにしても、あの風は本当に助かりました」
 あの、攻城戦の時の風は、無論偶然ではない。あれは、シレジアからの使者の示してくれた作戦だった。
 タイミングさえ教えてくれれば、矢を放てないほどの南からの風を吹かせる。その間にマディノに肉薄できないか、と提案してきたのである。
 城攻めというのは、城壁に取り付くまでがまず大変で、さらに城壁をよじ登り、城門を突破することで成功する。
 このうち二つ目の問題は、アグストリア軍にはない。ミストルティンの力ならば、たとえ鉄の扉であろうが、一撃で粉砕することが可能だからだ。
 だが、城門に取り付くまでの被害は、特に数の少ないアグストリア軍には軽視できない。
 アルセイドは最初、シレジアに海から攻めてもらい、敵の戦力を二分してどうにか攻略しようと考えていたのだが、そこに舞い込んだのが、シレジアからの提案だったのだ。
「あれは……セティ王が?」
 するとセティは、少し苦笑する。
「ええ……まあそんなところです。ああ、それから、こっちが私の娘です」
 セティはそういって、傍らに控えていたクローディアを紹介した。
「はじめまして、アルセイド王子。セティの娘、クローディアです」
 そう言って、クローディアは会釈する。
「娘は……正直に申せば、私ほど魔力に優れないが、この娘は風に愛されているようです。父、レヴィンのように」
 アルセイドは良く分からない、という風に首を傾げた。だが、セティもそれ以上説明するつもりはないらしいと判断し、それ以上話を聞くのを諦めた。
 実際には、あの風はクローディアの力であった。
 セティの娘クローディアは、魔道士として優れていないわけではない。というより、非常に優れている部類だといっていい。セティが『自分ほどではない』と言っているが、それは、セティが飛び抜けすぎているだけであり、現在のファラやトードの継承者と比しても、なんら遜色ない力を持っている。
 ただ、それとは別に、彼女には特殊な力があった。いや、力というのとも少し違う。セティが言ったように、クローディアは風に――風の精霊に愛されていた。
 彼女は、歌を以って精霊と対話する力を持っているのである。彼女は、彼女自身の並外れて美しい声もあって、『神の歌姫』と称され、シレジア国内はもちろん、グランベルでも有名である。ただ、その彼女は、その歌を通じて、風の精霊たちと自在に意思を通じ合うことが出来るのだ。
 先のマディノ攻略戦で、アグストリアからの合図を受けたクローディアは、精霊たちに助力を願った。
 クローディア達シレジア海軍のいる場所は、マディノまではまだかなりの距離があり、歌が届くはずはないのだが、精霊たちは、クローディアの願いを受けて、彼女の歌をマディノまで届ける。マディノの海賊達が聞いた歌である。そして、マディノ周辺の風の精霊たちは、クローディアに応えて、暴風を巻き起こした、というわけだ。
 その後、マディノから船で逃げようとした海賊だが、やはりクローディアの力により、シレジア軍には非常に都合のいい風が、そして海賊軍にとっては非常に都合の悪い風が吹き荒れた。そのため、海賊軍はなす術なく次々と拿捕され、海に飛び込んだり、小船に乗り込んで逃げたのである。
 この力について知っているのは、セティとティニー、それにルードだけだ。
 考えようによってはフォルセティよりも遥かに強力な力であるともいえるこの力を、セティはこれまで極力使わせないようにしてきた。
 それに、セティの力についてよく知られているため、これらはセティの力だと思われているのだ。
 ただ今回、おそらく力の出し惜しみをすることは許されない、という気が、セティにはしていた。クローディアが同行する時、あまり強くセティが反対しなかったのは、クローディアの力が必要になるかもしれない、という考えもあったからである。
「とりあえずこれで、アグストリア国内は大丈夫ですか?」
「そうですね……まだ混乱がないわけではないですが、当面は。セティ王はこれから?」
「問題がなければ、このままグランベルへ」
「……ならば……もしよければ、ですが。我が軍の一部隊を同行させてはもらえませんか?」
 その申し出は予想外だった。
「しかし……国内は……」
「それほど多くではありません。ただ……我が国としても、格好がつかないので」
 その言葉で、セティは合点がいったように頷いた。
 今回の戦いは、大陸全土の問題だ。ロプトウスの魔道書の奪取に始まる混乱は、すでに大陸全土に及んでいる。そんな中、国内の問題に終始し続けていては、今後、平和を取り戻した時のアグストリアの立場が、若干微妙なものになる可能性を、アルセイドは恐れたのだ。
 セティは、その感覚を持つアルセイドをむしろ驚きの目で見た。
 まったく、誰が『昼寝の王子』といったかは分からないが、ある意味よく彼を表した言葉だ。確かに彼は昼寝をしているのだ。平和な時は。
「分かりました、王子。といっても、それほど多くは運べませんが……」

 こうして、アグストリア国内の混乱は、ひとまず収まった。まだ、少なくない残党や暗黒教団の司祭もいたのだが、アルセイドはそれでも百名ほどの騎士をシレジア軍と共に派遣する。そのうちの一人に、カールの名があった。




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剣聖二人 >


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