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紅き河




 それは、膨大な数の人と異形なる者の軍勢だった。
 後の記録によれば、イザーク、シレジア、グランベルの連合軍は総数二万。
 内訳はイザーク軍が六千で、この七割が騎兵で残りは歩兵。シレジア軍が四千でうち六百が天馬騎士、五百が魔法師団、二千の正規兵、残りは傭兵である。また、百名ほど、アグストリアからの軍勢が参戦している。
 グランベルは、各公国の騎士団が合わせて三千、これにヴェルトマーの兵が一千、三千の正規兵と残りが傭兵だ。
 これだけの軍勢は、第二次聖戦の時と同数であり、また、装備や軍隊の規律という点においては、かつてを上回るだろう。
 対するメルゲン軍――という呼称が正しいかは疑問だが――は、総数は三万を数える。そしてそのうち二万が、メルゲンの民だ。
 暗黒教団に完全に制圧されたメルゲンは、ダーナ同様、住民の全てがその完全なる支配下――すなわち傀儡の術の影響下――に置かれた。そして、そのうち戦う力を持つ十台半ばから五十歳くらいまでの者が、武器、あるいは武器になりそうなものを持って戦場に来ているのである。大きな鍋などを防具の代わりとしているのは、いっそ滑稽ですらあるが、戦う相手にとっては笑い話ではすまない。
 無論、トラキア王国のメルゲン駐在の軍もあり、これは一千ほどだ。
 そして、ある意味連合軍にとってさらに厄介なのは、異形の怪物の存在だった。
 ゴーレム――形状によってはゴイレル、ガーゴイル――と呼ばれる、ロプト帝国時代に造られた巨大な石人形や、闇の影響を受けて狂った精霊や飛竜、闇の魔力で動く、元『人』であったモノ。あるいは、もはや何であるかも分からない異形の怪物たち。それらが合わせて、一万ほどもいる。
 メルゲンは、トラキア半島に入るための唯二つの道の一つであり、敵からしてもここに戦力を傾けるのは当然と言えば当然だ。
 戦いの前哨戦にて、最大の障害を排した連合軍だが、本当の戦いはこれからである。
 その、暗黒の竜を撃破した、連合軍総大将たるシャナンは、静かに手に持つ長刀――バルムンクではない――を空に向ける。
 一瞬の静寂。それを受けて、シャナンは剣を振り下ろした。
「全軍、突撃!!」
「突撃!!」
 その声と共に、馬蹄の轟がメルゲン谷を満たした。
 本隊のイザーク軍の騎兵が、まさに全軍が一つの生き物になったかのようにメルゲン谷を駆ける。その先頭にいるのはフィオで、そのすぐ横には一際目を引く、黒いイザーク馬が、騎手も乗せずに走っている。
「父上!!」
 イザーク軍はそのまま、前方にいたシャナンを飲み込んだ。余人ならば、そのまま馬蹄に踏み抜かれて死んでしまうところだろう。だが、次の瞬間、シャナンの姿はフィオの横を駆けていた黒馬の上にあった。
 イザークの騎兵部隊の速度は速い。騎乗戦闘での実力においては、グランベルの騎士が最高峰だとされているが、実はイザークの騎兵も、それに勝るとも劣らない実力を持つ。ただ、グランベルの騎兵が基本的に重装備で、軍馬の突進力を力とする戦術を得意とするのに対し、イザークの民は馬を自分の足の延長として使う。巧みに馬を操り、縦横無尽に戦場を自在に駆ける。かつての、彼我兵力の差が大きかったイザーク戦争において、イザーク軍が正面からグランベル軍に敵わなかったのは、兵の錬度の問題ではない。むしろ、兵の個人の力は、イザークはグランベルを大きく上回っていた。ただ、あの時は純粋に、国力の差による戦力の違いが大きすぎただけである。
 だが今は違う。イザーク王国は、第二次聖戦後に大きく発展し、国力においてグランベル王国にすら引けをとらない。戦争の影響もあり、いまだ熟練の戦士の数は多いとはいえないが、それでもその兵力と錬度は、ユグドラル随一なのである。
 その戦い方ゆえ、イザークの騎兵は、グランベルの騎兵が使う槍ではなく、グレイブと呼ばれる武器を使う。正確には、グレイブは突く、斬るといった目的のために、長い柄に、槍よりも長い片刃の剣を取り付けた武器だが、イザークのそれは柄がやや短く、代わりに刃が大きい。むしろ、イザークの剣の柄を非常に長くしたもの、と言う方が正しいだろう。イザークでは長巻と呼ばれる。
 騎馬の突進力を威力とする攻撃を行わないため、イザークの兵は普段使っている武器と同じ感覚で、馬上から使える武器としてこの武器を好むものが多い。無論中には例外もいて、普通に槍を使う者や、あるいは逆に無理矢理馬上から攻撃できるように、非常に大きな刃を持つ剣を使う者もいる。
 このイザーク騎馬兵の目的はただ一つ。敵陣を突破し、メルゲン城へ到達、城壁を突破することである。
 イザーク兵六千のうち、騎兵のみの三千が突撃、敵陣を混乱させ、そこに後続の軍が攻撃を仕掛ける。そしてイザーク軍はころあいをみて、メルゲン城に肉薄し、城門を突破しようと言うわけだ。本来、攻城戦は苦手とするイザークではあるが、何事にも例外はある。今回の場合、バルムンクを使って城門を破壊するという、城砦建築者泣かせの手段を用いるつもりなのだ。
 そして、このイザーク兵に続いて戦闘に入ったのは、シレジアの天馬騎士だった。
 天馬騎士の役目は、敵飛行戦力の撃破である。
 飛行する敵と戦ったことのある経験を持つ兵士は、滅多にいない。まして、今回のように、人非ざる存在となると、誰もいないだろう。それはシレジア天馬騎士とて同じだったが、それでも、二重の苦手がない分、まだ対処は出来る、という考えだ。
 さらに左翼からはセティを先頭としたシレジアの魔法師団と傭兵、右翼からはグランベル軍が突撃する。
 最初のイザーク軍が敵陣に突っ込んだ直後、敵左翼に対して、右翼から矢の雨が降る。
 それが、全面衝突の合図となった。

 メルゲン谷は、狭いとはいえないが、それでも合計で五万にもなる軍が展開するには少し狭い。
 実際に激突しているのは、お互い半分ほどの軍勢である。
 本来、これほどの戦いとなれば数日間続くことも珍しくはないのだが、連合軍には、この戦いを複数日にわたって続けるつもりなど、毛頭なかった。
 何より、敵軍がそもそも補給を必要としていない可能性すらあるのだ。長期戦は、明らかにこちらに不利である。
 そのためにも、出来るだけ早くメルゲン城を陥落させ、圧倒的優勢を確保しなければならないのだ。
 本来、城砦が陥落すれば戦いは終わる。だが、今回それは期待できるとは思えない。ただ、メルゲン城には、おそらく『命令者』がいる、とシャナン達は睨んでいる。最悪、その者を倒せば、少なくとも敵の戦闘能力は激減する。秩序のない軍など、烏合の衆に過ぎない。
 シャナンとフィオ率いるイザーク軍は、文字通り敵軍の中を、急流が岩を避け、あるいは削って流れるかのように突破した。
 その、イザーク軍がメルゲン城まであとわずか、という時、突然地面が揺れた。
「何……地震!?」
 だが、シャナンの記憶する限り、この辺りは地震などほとんどないはずだ。特にメルゲン谷は地盤も固く、安定している。何しろ城壁の前に堀を掘る事すら困難なほど谷底の岩盤は固いのである。
 その正体が判明したのは、その直後だった。
 城壁が爆ぜた。
 その、粉々になった石壁が、弾雨となってイザーク軍に、そしてメルゲン軍に降り注ぐ。
 イザーク兵は必死に馬を操り、影に入ったりしながら避けるが、それでも被害はとても小さいとはいえない。
 そしてその吹き飛んだ城壁の向こう側にいたのは――
「暗黒竜!!」
 先ほど、シャナンが吹き飛ばした暗黒竜よりやや小さな黒き竜が五体、そこにいたのである。

「天地(あめつち)を繋ぐ光。刹那なるその輝きよ。大いなる天の咆哮、その御力たる雷神の鎚を、今ここに遣わし給え!!」
 直後、紫電が視界を焼いた。
 凄まじい轟音と、それに伴う濁流のような光が、敵軍を薙ぎ払う。
 その力は、ゴーレムの強靭な外皮をモノともせず貫き、半身を抉り取っていた。
「ったく、数、多過ぎ!!」
 その輝きは、フリージ公女シャリンの放つ、雷のトールハンマーのものだ。
 ゴーレムには、普通の兵では対抗できない。強靭な外皮を持つゴーレムに対しては、ほとんどの武器も魔法も通じない。破壊するには、尋常ならざる力で、すなわち神器によって攻撃するのが、一番確実なのである。
 しかし神器の、特に魔法は膨大な精神力を必要とする。元々魔法は、それを放つ時に術者に少なからず負担を強いる。それは当然、強力な魔法になればなるほど大きくなる。セティやユリアほどの魔道士になれば、神器であろうとも自らの呼吸と同じレベルでその力を振るう事が出来る。シャリンも、雷魔法に関してはそのレベルに達するほどの遣い手だ。
 だが、シャリンはトールハンマーを使うのは、今回が初めてであった。
 慣れない魔法の連発は、本人がそれと意識できないうちに疲労が、特に精神を蝕む。注意力が散漫になり、視界が狭くなる。
 自らが標的と定めた対象以外に対する警戒心すらなくなってしまう。
 それは、シャリンがトールハンマーを継承したとき、王の名代としてそれに立ち会ったセリオ王子に言われていたことであった。
 そのため――。
「天を駆け、地に降り立つ輝き、大いなる雷竜の咆哮よ。遥けき此方より来たりて、我が敵を撃て!!」
 クレオの声が、終わると同時に、その掌中から光が迸った。それは、正確に敵味方が入り乱れる戦場で、敵兵のみを貫いていく。
 その雷撃に撃たれた敵兵――おそらくは本来は民間人であろうが――はその衝撃に一瞬動きが止まり、やがて倒れ伏した。
「くっ……」
 少なからず心が痛む。彼らのほとんどは民間人であり、仮に軍人であったとしても、本来戦うはずのない相手なのだ。
 それが、暗黒教団に操られたばかりに、敵として倒さざるを得なくなってしまっている。
 傀儡の術と言うのは、術者を倒せば解けるものらしいが、これほどの規模で傀儡の術を使える存在など、クレオは無論知らない。トラキアにいる、という話だが、一体どれほどの存在だと言うのか。
「ぼけっとするな!!」
 突然のオルヴァスの声に、クレオは、はっと驚いて顔を上げた。
 魔法による消耗と、考え事のせいだろう。すぐ目の前に敵兵が来ていたのにすら気付いていなかったらしい。
 首筋から血を噴出して倒れる敵兵は、だがどう見てもごく普通の市民にしか見えなかった。
「す、すみません……」
「考えるなら後にしておけ。戦場では、不要な事を考えた奴から、死ぬんだ」
「は、はいっ」
 その時再び、轟音と共に視界が一瞬光に満たされる。
 トールハンマーのものだ。
 今のクレオの役目は、魔法に集中し、無防備に近い公女を守ることだ。
 その事を再確認したクレオの前で、また、一人の敵兵――農具を振りかざしているところを見ると、本来は農民なのだろう――が、その武器もろともオルヴァスの剣で首筋を切り裂かれ、血を噴出し、ややあって倒れた。
 適確に『殺す』事だけを目的にした、冷徹無比の剣。クレオには、真似の出来ない芸当でもある。剣技としても、そして心情的にも。
 オルヴァスはフリージの騎士になる前、若い頃に出奔し、傭兵部隊にいた事があると聞いているから、多分その時の経験なのだろうが。
 しばらくして、公女が一度休むために後方に下がるのに合わせ、クレオらも下がる。
「見事……ですね」
 一息をついたクレオは、そう呟いてしまっていた。
「あん? まあ、あまり気分のいいもんじゃないがね」
 人を殺すことにも、正直言えば、クレオは慣れていない。
 そもそも、第二次聖戦以後、大きな戦いというのはほとんどない。無論、傭兵稼業が食い扶持に困る事はあまりなかったようだから、小さな争いなどは事欠かなかったのだろうが、騎士であるクレオが戦いに赴くような事態は、これまでなかった。
 実戦経験がない、といわれればそれまでだろう。ただ、クレオは十分に訓練はつんでいるつもりだったし、実際、傭兵らと比較してもその実力は高い。ただ、決定的な経験の差を、クレオは感じていた。
「これが、戦争……」
「そうだ。相手を殺して自分が生き残る、最も原始的で、最も単純な場所だ。迷った奴から、先に死ぬ」
 人間の尊厳も、騎士の誇りもここでは価値はない。その事を、クレオは改めて痛感していた。
「……分かってます。分かってますが……」
 安っぽい理想主義などに、一片の価値もない場所。それが戦場だと、頭では分かっていたのだが――体がついてこない。
「辛いなら、後方に待機しててもいいよ?」
「なっ……」
 突然割り込んできて、しかもその軽い口調にクレオは反感を覚えかけ――慌てて口を噤んだ。
「で、殿下……」
 先ほどは、さすがにトールハンマーの連発で疲労を見せていたのだが、もう回復したらしい。継承者とは一体どうなっているんだ、とも思う。
「無理はしなくてだいじょぶ。私がその分、何とかするから」
 だがよく見ると、シャリンも疲労の色は隠せない。あれほどの魔法をあれだけ連発したのだから当たり前だが、シャリンは極力、それを人に察せられないようにしている。
「殿下……」
 ふとクレオは、シャリン公女についてのフリージ内での風聞を思い出した。
 シャリン公女は、フリージ家の養女である。現在のフリージ公であるアミッドと、その妻フェミナの間に生まれた子ではない。
 アミッドの異父妹で、今は亡きアルスター王家の姫であるリンダ公女と、フリージの騎士の間に生まれたのが、シャリン公女だ。
 フリージ家は、グランベル六公国の中で、最も立場の弱い公家、と云われている。
 継承者が帝国側であったこともそうだが、何より、直系の継承者を失っていたのが大きい。この点が、同じく継承者が帝国に与していたドズルとは異なる。ドズルも継承者を失ったが、その弟であり、直系の最後の一人であるヨハルヴァが継承者となる事で、混乱なく継承されたのだ。
 しかし、フリージは継承者であったイシュタルには他に兄弟姉妹はなく、直系は断たれてしまった。そして解放軍でフリージの血を継承するのは四人。先々代のフリージ公爵であったレプトールの娘、ティルテュの子であるアーサーとティニーと、同じくレプトールの娘エスニャの子アミッドとリンダである。
 しかしアーサーは、確認されている限り唯一のヴェルトマーの継承者――ファラフレイム継承者サイアスの存在は、彼が継承を拒否したこともあって、一般には知られていない――であった。先代の継承者であるアルヴィスの娘であるユリアが健在だったが、彼女はナーガを継承する身であり、ヴェルトマーを継承するわけにはいかなかったし――結局その後にイザークに嫁いだのだが――、アーサーが、かつてアルヴィスにただ一人『認められた』弟であるアゼルの子であったため、ヴェルトマーを彼が継承するのには大した混乱もなかったという。
 さらに、アミッドが最初、フリージの継承を拒否していた、という経緯がある。
 最初セリスは、フリージの継承をアミッドに要請したらしい。残る三人の中では、彼が最年長である事、それに、もう一人の有力候補ティニーが、シレジア王セティと恋仲である事も考慮したらしい。だがこの要請を、アミッドは一度拒否している。それは、彼にとってはフリージ家というのは、ずっと父の仇であったからだ。結局その時は、ティニーが已む無くフリージを継承しているが、アミッドがフリージ家を継承するまで、という暫定措置だった。
 結局アミッドはフリージ家を継承するのだが、一度拒否した公爵に対して、当然だがフリージの貴族が好意的であろうはずはない。そしてさらに悪い事に、アミッドの子に継承者は誕生しなかった。継承者は、アミッドの異父妹の子に誕生――シレジア王家やヴェルトマー公家に誕生するよりはマシだったが――したのである。その、シャリンと名付けられた娘は、フリージ家に養女として入り、公女となる。だが、当然他のフリージ貴族にとっては面白くはない。
 結局、シャリンは『亜流の継承者』などと陰口を叩かれ、アミッドについても、シレジア生まれのシレジア育ちであることもあって『傍流の公爵』などと半ば公然と言われる。そしてそういう話がシャリンやアミッドに届かないはずはなく、アミッドは公爵としての責務を、他の公爵以上に果たし、フリージは大きく発展しているが、それでも、貴族達はアミッドに対しては好意的ではない。そしてシャリンは――。
「殿下。ご無理はなさらないで下さい。余人がなんと言おうと、私達は殿下が唯一人の、私達が仕えるべき人であると、思っております」
 その意味を察したのか、シャリンは軽く目を見開いた。そして、くす、と小さく笑う。
「ありがと、クレオ。でも、まだ大丈夫だから。少なくとも、トールハンマーを使えるのは私だけ。それは、絶対に変わらない事実だからね――」
「殿下」
 それまで黙ってみていたオルヴァスが、口を挟む。
「敵軍の右翼後方に、新たなゴーレムの出現が確認されました。お疲れとは思いますが――」
「うん。大丈夫。倒れるまでは、まだあるから」
 その決意が痛々しい。ふとオルヴァスを見ると、彼も同じ心境のようだ。
 その時、ああそうか、とクレオは唐突に気付いた。
 騎士の誇りも持てないこの戦い。だがそれでも、戦う理由はあるのだということに。

 アグストリアの所属となる軍は、総数は非常に少ない。連合軍二万のうち、わずか百騎に過ぎない。だが今、その百騎のうちの一人であるカールは、自分が今日、一体何人分の働きをしているのかを考えようとして、止めた。
 アグストリア騎士を率いるのは、クロスナイツの長デルムッドの子ベルディオだ。だが、実質率いているのは、彼ではない。彼の妹、セフィアである。
『アグストリアの宝玉』とも呼ばれ、また、アグストリア内の戦いでは『勝利の女神』とも呼ばれた彼女の力は、この戦場でも健在だった。
 実際に、騎兵の動きを定めているのはベルディオだ。戦場を見て、極めて適確なタイミングで突撃を指示する。ただ、指示するのは妹に対してだけで、セフィアはそれを受けて、突撃を指示するのである。
 彼女に続く騎士――自分も含めて――は、ある種の信仰に支配されていたのではないか、とカールは後に思った。セフィア公女が率いている限り、自分達に負けはありえない、という信仰に。
 そしてそれは、少なくともこの戦場においては、完全な真実として存在した。
 アグストリアの騎兵が突撃する都度、敵軍は出血を強いられ、二度三度とそれを繰り返すと、戦線を維持できずに瓦解した。
 今回の敵に『士気』というものは存在しない。文字通り死人の如く、死戦を行う。だがそれでも、肉体の損傷が過ぎれば動けなくなるし、元々戦闘に長けた者たちではない――その事実を思い出すと心が痛まなくはないが――のだ。動きの統制を失った敵軍など、文字通り烏合の衆でしかなかった。

 弦が風を震わせる音が、ジーンの耳を打った。
 鋭く射放された矢は、狙い過たず、敵兵に突き刺さる。
 ややあって、敵兵はぐらり、と体を傾ぎ、馬上から転落した。瞬く間に、それは馬群の中に消える。落ちた体がどうなったかは、想像しか出来ない。
「……っつ……」
 わずかな心の痛みが、声に出た。
 今ジーンが射殺したのは、おそらくはメルゲンの騎士、つまりトラキアの騎士だろう。本来であれば、戦わなくていいはずだった相手だ。だが今、そんな事に遠慮する余裕は、ない。
 三度、矢を放ったところで、ジーンらは弓を鞍に固定すると、長巻を構えた。
 戦場はすでに混乱の極みにあった。
 突出したイザーク軍は、早々にメルゲン城に肉薄したが、そこに待っていたのはあろう事か暗黒の闇に塗りこめられた竜だったのである。それも、五体。メルゲンに肉薄したイザーク軍の、二割がその最初の息吹で、吹き飛ばされた。ジーンが助かったのは、後方に配置されていたからで、最前線は一瞬で壊滅してしまったのである。
 その後、イザーク軍は一度後退、戦線を立て直したのだが、城壁より遥かに厄介な暗黒竜の突破は、容易な事ではない。
 どうやら先ほど天から降り立った竜よりは弱いらしく、兵たちの攻撃も効果があるらしい。かといって、生身であれに相対するのは、勇気を奮い起こせば出来る、というものでもない。
 さらにそこに敵軍が迫る。結局、シャナンもフィオも、まず敵兵を排除しなければならない、と判断したのである。
 しかし、そこ敵兵というのは、メルゲンの住まう人であったり、メルゲンの兵であったりする者だ。
 軍全体の錬度においては、連合軍とメルゲン軍では比較にならない。ただ、彼らは恐怖と痛みがない。ゆえに、本来動けなくなる傷を負ってもなお、それを意に介さず攻撃をかけてくるのだ。倒すには、完全に動けなくなるように、致命傷を負わせるしかないのである。
 肉薄してくる敵兵の顔には、何の表情もない。
 戦場では、一瞬の隙が命取りとなるため、普通敵の表情など気にする余裕はない。だが、大抵その表情は、怒りや恐怖、あるいは狂気など、何かしら激しい感情が浮き出たものであるはずなのだが、今の相手はまったくの無表情だ。その顔が一瞬目に入ると、慄然とする。
 恐ろしい、というのとは違う。気味が悪い、というのが一番適切な表現だろうか。
 無表情に、声すら上げずに戦場で迫ってくる敵、というのがこれほど恐ろしいとは、ジーンは思わなかった。
 先のダーナ攻略戦時は、ダーナ砦の中にいた敵は数も少なかったし、斬り結んだ時にはすでに倒していた。何より、あの時はまだ暗かったため、あまり敵の表情を意識する事もなかったのだ。
 だが、これほどの大軍で、それが全て無表情、というのは想像を絶している。
 ジーンはかつて、解放軍に属していた時に、最後の決戦においても同じような相手と戦っていたが、当時ジーンはファバル率いる弓兵隊に属していたため、敵と直接斬り結ぶ事がなかったのだ。
 無論、そう思いつつも、ジーンの剣は容赦なく敵兵の急所を斬り裂いていた。これらはもはや、反射動作に等しい。
 ジーンの長巻が振るわれる度、その半円運動の軌跡の半分には、血の赤が混じる。そして、ジーンが駆け抜けた直後に、その傷口から血を噴出して、敵兵は血に倒れ伏していくのだ。
 そういう光景が、メルゲン谷のあらゆる場所で繰り広げられていた。
 そして、乾いた大地がその血を吸って黒く染まる。だが、固い岩盤を持つ大地は、血をあまり吸収できず、吸収されなかった血はそのまま低きへと流れていく。それはまるで、紅い河のようですらあった。

「おらあ!!」
 轟音は、敵ではなく大地を砕いた音だった。
 ドズル公子ヨハンの持つ巨斧スワンチカが、大地に叩きつけられたのである。
 その威力で生じた衝撃波が、直後、そこに迫った闇のブレスを遮断した。
 そしてブレスが途切れた直後、暗黒竜が硬直する。
「いまだ!!」
 ヨハンの声に、グラオリッターが応え、暗黒竜の一体に迫った。駆け抜けざまに、次々に巨大な戦斧を暗黒竜に叩きつける。一撃一撃の威力は、巨躯を誇る竜には大して効かないかもしれないが、それとて積み重なれば小さなダメージではない。
「ありえないよな、まったく!!」
 アーウィルもまた騎士たちに混じって暗黒竜に肉薄し、長柄戦斧を叩き付けた。
 本来、彼が得意とする武器は剣であり、斧などこれまで使った事はない。だが、腕の力で振り回す剣が、あの巨躯にどれほどの効果があるか分からないため、アーウィルも長柄戦斧を借りたのだ。これなら、思い切り振り回して叩きつけるだけで、凄まじい破壊力を生むし、馬上から振り下ろすだけでいい。
 本来、これを敵に――しかも馬上から――当てるなど、相当の熟練が必要とされるが、今回の場合相手が巨大であり、距離感さえ間違えなければ、そもそも外しようがない。
 アーウィルの振り下ろした戦斧は、固い手応えと共に暗黒竜にめり込んだ。だが、血は出ない。
 いかなる存在であるかはさっぱりだが、説明された事によると、ゴーレムと同じような存在じゃないか、と言うことである。
 騎士たちの突撃が終わったその最後に、ヨハンが突っ込んできた。馬上にあってなお、不自然なほど巨大なその斧を、アーウィルと大差ない体格のヨハンが振り回す光景は、何度見ても異様だ。
 暗黒竜は、そのヨハンの攻撃に対処しようとするが、騎士たちの攻撃によって、少なからずダメージを受けていたのであろう、その動きは鈍く、ヨハンは造作なくその懐に飛び込むと、聖斧を一閃させた。それは、騎士たちの攻撃が叩きつけられた腹部に炸裂し、その部分を、文字通り吹き飛ばす。
 とたん、暗黒竜の全身に、ヒビが広がっていった。暗黒竜が、苦悶の咆哮をあげる。
「へ、他愛ねえ」
 ヨハンはアーウィルの横に馬を止めると、にや、と笑ってみせる。つられて、アーウィルも笑おうとした。
 終わった、と誰もが思った、その時。
『ゴガァァァァァァァ』
 最期の力だろう。暗黒竜が、その首を、ヨハンの方へと伸ばしてきたのである。巨大な竜の顎が、二人の視界いっぱいになる。
「しまっ……!!」
 どちらがそう叫んだか、後になってもアーウィルもヨハンも思い出せなかった。だが、反射的な動きは、意外な事にアーウィルの方が速かった。
 アーウィルは反射的に、長柄戦斧を縦にかざした。敵に向かってダメージを与えようという意図ではない。ただ、本当に反射的にそうした。
「ウィル!!」
 ヨハンの声の直後、凄まじい音が周囲に響き渡った。死んだかな、とアーウィルが思った直後。
「目を瞑る奴があるか!!」
 ごう、という風を殴るような音が、アーウィルのすぐ頭上を通り抜けた。同時に凄まじい爆風が、アーウィルを容赦なく叩く。だがそれでも、アーウィルは、何かを掴んだまま吹き飛ばないように耐えていたのだが、その掴んでいる何かが、不意に支えをなくしたのか、外れてしまった。そのため、アーウィルはバランスを崩して尻餅をついた。
「てっ」
 そうしてから、ようやく自分がまだ生きている事、それもほとんど傷を負っていないことに気付く。恐る恐る開けた視界に見えたのは、頭部の上半分が完全に吹き飛んだ竜――やはりゴーレムと同じなのか、石だ――と、すぐ横に立っているヨハンだ。
「一体……」
「大したもんだな、ウィル。お前、剣より才能あるんじゃないか? 奴の口を、そいつをつっかえ棒にするなんてよ」
「へ?」
 言われてから、アーウィルは自分の手にあるのが、ついさっきまで持っていた長柄戦斧の、先端を失った柄である事に気がついた。
 反射的に、アーウィルは長柄戦斧で、竜の顎を閉じれないようにつっかえ棒にしたらしい。無論、長柄戦斧の強度では抑え続ける事は出来ないが、ほんの一瞬、竜の動きが止まった。そこにヨハンがスワンチカを振るったらしい。
「……いや、何がなんだか覚えては……」
 まだ混乱しているアーウィルに、ヨハンが手を差し出す。
「立てよ。まだ戦いは、終わっちゃいねえ」
「あ、ああ……」
 アーウィルは、ヨハンの手を取って立ち上がる。
「に、しても」
「ん?」
「やっぱお前護衛にして良かったぜ。うんうん。俺の目に狂いはなかった。また頼むぜ」
 頼まれたって、もう二度とこんな事はごめんだ、と思いつつ。
 それでも、アーウィルはヨハンの力に慣れた事を、どこか誇らしく思えている自分を感じていた。

 戦いが始まったのは、朝陽が昇りきってしばらくしてであった。
 その、永劫に終わらないのではないか、という戦いは、だが一日で終わってしまった。
 正面の『人』の軍勢をイザーク軍とシレジア軍が、そして『魔』の軍勢をグランベル軍がそれぞれ、ほぼ瓦解させたのである。
 この戦いは、後に『紅き谷の悪夢』とも呼ばれ、『黒の処断』中最悪の戦場とも云われたこの戦いは、五体――最初に現れたものも含めれば六体――の竜が滅んでもなお続き、太陽がその色を赤く変え始めた時、ようやく終わった。
 五体の竜は、それぞれイザーク王シャナン、その息子であるフィオ、ドズル公子ヨハン、フリージ公女シャリン、シレジア王セティの手によって、完全に破壊され、残る魔の軍団もまた、そのことごとくは主にフリージの軍によって殲滅し、また、人の軍も同じく殲滅された。
 ここで言う『殲滅』とは文字通りの意味である。
 傀儡の術によって操られた敵兵は、文字通り最後の一人まで抵抗した。その最後の一人が誰であったか、記録は黙して語らない。ただ、年端も行かない子供であった、と伝えられている。
 連合軍の戦死者は、四千を数えた。全軍の二割という、本来であれば負け戦並の戦死者でも、この場合間違いなく『勝った』と言い切れた。なぜなら、敵軍は唯の一人として生存者がいなかったのである。
 すなわち、戦死者二万、魔の軍勢も数えるなら、三万になる。
 この日、最も戦功を挙げた者は、フリージ公女シャリンであるといわれている。彼女はこの戦いで、かの雷神イシュタルにも劣らないほどの力を示し、名実共にフリージの継承者として認められた、最初の一歩であるとされている。もっとも彼女は、この戦いの事を自ら話すような事を、決してしなかった。
 それは、彼女に限らず、この戦いに参加した全ての将兵が、同じであったという。
 暮れつつある太陽の、赤い光に照らされて、大地が紅に染まる。それは、本来であれば、メルゲン谷の風物詩ともいえる光景であるが、連合軍は、この時誰もが同じことを感じていた。
 この戦いのことを問われると、彼らはただこう言うのである。
 まるで、谷底を、紅き血の河が流れているようだった、と――。




< 剣聖二人

聖戦再び >


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