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黒き雨




「外部から……力が?」
 男の問いに、その前に伏せる男は、かすかな声で「はい」と肯定した。
「外部からとはどういうことだ。この強大な結界に届くほどの力があると言うのか?」
 聞く者全てに恐怖を感じさせずにはいられない声だが、同時に意外に若い。おそらく、まだ三十歳前後であろう。
 その場にいるのは、男が四人。全員が揃いの、フードのあるローブを纏っている。
 それは、暗黒教団の司祭位を示す、暗紫色のローブだ。このローブ自体は、今も珍しくないとは言わないまでも、存在する。
 ロプト教団として再出発した教団の司祭の位にある者は、この色のローブを纏う。だが、彼らのローブには例外なくフードはない。
 かつてはその身を伏せる必要性からだろうか、フードで顔を隠すというのがある種暗黒司祭の身なりの基本であった。だが現在、少なくともロプト教団の司祭たちは自らの顔を隠すことはしない。彼らは彼らで、自分達の信仰に後ろめたいところがあるわけではない、というのを、顔を晒すことで証明しようとしているのだ。
 だが、今この場にいる暗黒教団の司祭達は、全員フードを目深に被り、顔を隠している。
 この空間には光はない。光がないにも関わらず、お互いの姿ははっきりと見えた。黒いキャンパスに、別の色で絵を描いたように、真っ暗闇にもかかわらずお互いの姿ははっきりと見える。といっても、フードの奥の表情を窺い知る事は困難だ。
「外部からの力が何であるかは分かりませぬ。ただ、その力ゆえに、『神』はその力の全てを発揮できずにいるようです」
「むぅ……」
 男は呻くような声を出し、そのまま考え込んだ。
「その『力』……我らが神を抑えうるというのであれば、まさか、継承者ではあるまいな……」
 男の言葉に、他の三人が驚きの声を上げる。
「まさか……かのユリウスは死に、神の血を引く血統は断たれたのでは……」
「いや、まだグランベルのセリスとユリアがいる。偉大なる神の血を継承していたのはディアドラだ。特にユリアは、そのディアドラと、同じく闇の血統のアルヴィスの娘。確かにかの者は憎き神の対抗者の力を継承しているが……聞けば、かの者の子はいずれも光を継がなかったという。となれば……」
「奴らが隠蔽しているだけで、あのユリアの子のいずれかが……!!」
 男達の声に、歓喜の色が混じる。
 アルヴィスとディアドラの子は二人。うち兄のユリウスが闇のロプトウスを、妹のユリアは光のナーガを継承したが、ユリアにも闇の血がまったく流れていないとは限らない。そして、特にユリアの娘は、生まれながらに体が弱く、ほとんど生地であるソファラを出た事すらないという。
 だが、本当にそうなのか。
 体が弱いのではなく、ロプトウスの継承者という事実を隠蔽するためではないのか。
 可能性は、決して低くはない。
「ラジブ司教。その役目、この私に。かの娘が継承者であるか否か、見極めてまいりましょう」
「うむ。ゆけ。だが、もし協力的でなければ……」
「御意」
 男の気配が一つ消える。
 実際、もはや邪魔するのであれば継承者の存在など必要はないのだ。
 男は、その場にいる男達から視線をずらし、闇の彼方を見る。すると、闇がその男の視線に応えるように、一人の少女を映し出した。
 光沢すら放つ、金と銀の中間のような光彩の髪をもつ、まだ十五にもならない少女だ。薄絹一枚に包まれたその体は、物理的には何も拘束されていない。ただ、闇が少女の体を戒めるように囲んでいる。
 少女はわずかに身じろぎした。
 今は夜。眠りの時間だ。もっとも、すでに時間間隔などないに違いない。ただ、少女の力は一定の周期で活性化する。それを彼らは、便宜上『眠りの時間』と呼んでいた。
 コノートの防衛軍が奇妙に思った、ほぼ周期的な敵軍の攻撃の手控えは、これが理由だった。あの異形の怪物もゴーレムも、全てこの少女の力で動いていたのである。
「くくく……継承者が我らに従うならよし、だが、我らに従わぬなら……その様な力など、いらぬ」
 この少女の力は、継承者が闇の聖書を用いた時の力を、遥かに凌ぐ。協力的ではない継承者など、不要なのだ。
 もう一度、少女がわずかに身じろぐ。朦朧とした、時間感覚などとうに消えた状況で、それでも少女は必死に呼びかけた。
(た……す……け……て……)
 このような状況で、誰が助けられるはずもない。にもかかわらず、少女は呼びかけずにはいられなかった。誰かに、ではない。少女自身も知らない一人の人物に、彼女は呼びかけを繰り返していた。
 だが皮肉にもその声は、その人物の力で遮断されていたのである。

 コノート解放から四日、ようやくコノート守備軍も一息つくことができていた。
 リーフは、コノートに残っていた人々のうち、戦う力のない人々を全て郊外に移動させた。これは、理由は二つある。
 一つは、この先『敵』との最終決戦に入る。そしてその拠点となるのはこのコノートだ。今後再び、熾烈な敵の攻撃がある事は十分に予想される。そこに、非戦闘員を置いておく余裕はない。
 もう一つは、純粋に物質的な問題である。
 合計二万もの連合軍を収容すると、非戦闘員を置いておく余裕など、いくらコノート城でもない。
 そのためリーフは、近郊に避難していた市民の下へ、コノートの非戦闘員を移動させた。無論、十分な食料は与えて、である。
 こうして軍人だけの街となったコノートだが、さすがに全軍をコノート城に収容するのは難しく、一部の軍は城の周囲に陣を布いている。
 一方で、軍の指導者達は、いよいよ敵本拠の攻撃のための会議を開始した。これまでは、軍の配置と負傷兵の手当てで精一杯だったのだ。
「敵はこのコノートの南、コニールの街のさらに南にいる。私が見た時は、巨大な暗黒の竜が鎮座してたが、今どうなっているかは、正直分からない。ただ、この竜の力は絶大だ。竜騎士団が一撃で壊滅し、トラキアの騎士団もやはり一撃で粉砕された」
 会議の席上、思わず全員が息を呑む。
「正直に言おう。私は、あのロプトウスの継承者であったユリウスより、今回の暗黒竜の方が強い、と感じている」
 リーフの言葉に、この場の幾人かに緊張が走った。
 リーフは、ユリウスと直接対決して生き残った、数少ない一人だ。突然襲われたユリウスの前になす術なくやられ、また、その時にリーフの第一の家臣であるフィンが――後に生き返る事が出来たが――殺されている。ユリウスの恐ろしさは、誰よりも一番身に染みて分かっている一人だ。
 そのリーフをして、ユリウス以上、と言わしめているのである。
 この会議に参加しているのは、連合軍総大将であるシャナン、副将セティを始めとした連合軍の各将、継承者とその随伴、トラキアの将軍、それに傭兵隊の隊長――アルフィリアもその一人である――も参加している。
 アルフィリアは、その闇の力を体験したわけではないが、この三ヶ月戦い続けて、敵の強大さは嫌と言うほど分かっていた。
 リーフやディオンに至っては、その暗黒竜の攻撃を直撃しているのだ。その強大さは、推して余りある。
「現在、コノートには強力な結界を張っている。おそらく、あの暗黒竜の攻撃が来たとしても防げるであろうほどの力だ。だが、守ってばかりでは勝つ事は出来ない。そして……あれに対抗できるとしたら、ユリア公妃。貴女を置いて他にはいないだろう」
 一同の視線が、紫銀の髪を持つ女性へと集まる。
「……はい」
 表情を硬くして頷いたユリアを見て、横にいるスカサハが、握った拳にわずかに力を込めた。
「無論、私達も最大限支援する。一応私も、本体より遥かに小物ではあろうが、暗黒竜を打ち倒す事も出来る」
 シャナンの言葉に、一同は頷いた。
 最強の魔術師、最強の剣士、最強の騎士。そのいずれもが、ここに集っているのだ。これで勝てない相手だとしたら、そもそも抗うだけ無駄だと思うしかない。だがもちろん、ここにいる誰一人として、それほど諦めのいい者はいなかった。
 作戦開始は五日後と定められた。
 総大将はそのままシャナン。副将にセティと、リーフが名を連ね、グランベル軍はヨハルヴァが主将となる。
 そして傭兵部隊の指揮系統はそのままとされた。

「ようやく隊長とかから解放されると思ったんだけど、まさか苦労が増えるなんてねえ」
 アルフィリアの呟きに、周囲は苦笑した。
 新たに加わった連合軍にも当然少なからず傭兵はいる。先日会ったアーウィルも、扱いとしては傭兵の一人だ。まあ彼の場合は、ドズル公子付という特殊な立場だが、それ以外にも傭兵は多数いるし、彼らの指揮官は基本的に正規軍の兵かあるいは騎士が勤めている場合もある。
 だが、アルフィリアはトラキア傭兵部隊の隊長、という立場を解任されなかった。逆に連合軍の傭兵から若干補充され、合計五百名の傭兵の部隊の隊長になってしまっている。
 自分に務まらないとは思わない。だが、一体どこの世界に十七歳の小娘に、それも一介の傭兵に五百もの兵を預ける軍があるのだろうか。
 総数が二万五千ほどに膨れ上がっているから、五百では小部隊に見えるが、平時であればとんでもない数である。実際、各公国の騎士団一つの総数にほぼ等しい。だからこそ、王や公爵、継承者の居並ぶ会議にも参加しているわけだが。
「まあそれだけ、隊長の力量が評価されてるってことじゃないですか?」
 軽く言うのはマズルだ。その横にいるウルクや、他の傭兵達も同様に頷いている……が。実は、アルフィリアが隊長に再任された最大の理由は彼らだった。
 当初、リーフ王も傭兵部隊の再編にあたり、傭兵隊長を変更するつもりだった。なんと言っても五百もの兵を預かるのだ。いっそ、セネルをあてようかとも考えていたほどだが、その傭兵達から、自分達の隊長はこのままにして欲しい、との嘆願があったのである。リーフとしても、ともすると身勝手な傭兵達を統べるのは、彼ら自身が選んだ人物である方が望ましいのは分かっていたし、また、ここ数ヶ月の戦いでアルフィリアの力量も信頼してたので、彼らの嘆願を容れたのである。
 無論アルフィリアはこの事実は知らない。
 連合軍から補充された傭兵達は、自分達の隊長が自分達よりずっと年下――下手すると半分ほどの年齢――の少女であると知って、当然酷く反発した。そしてあろうことか、そのうちの一人が力量を示せば認めてやる、と彼女に決闘を持ちかけたのである。
 その男は、胸がアルフィリアの頭の位置で、腕の太さや胴回りに至っては倍以上あるような巨躯の男だった。
 当然、彼らはアルフィリアが恐れおののいて逃げると思ったのだが、アルフィリアは平然とその決闘に応じ、挙句に剣――刃を止めた訓練用――でその男をぼこぼこに叩きのめしてしまったのである。それ以後、補充された傭兵達も、少なくとも表向きには何も言わなくなった。元からアルフィリアの下についていた傭兵達が喝采を上げたのは言うまでもない。
 もっとも当のアルフィリアは、ぼこぼこにしてから、しまった、と後悔していた。負けておけば隊長職を降りる格好の口実が出来たのだが、こういう時、見た目によらず負けず嫌いな性格が災いする。ついでに言うなら、女だと言うだけで差別的に扱ってきた彼らに腹が立ったというのもある。
 かくして、アルフィリアは継続してトラキアの傭兵部隊を預かる事になってしまったのだ。
「どこで間違ったのかしら……」
 思い返すが、多分発端はあのグランベルの王子だ。彼がそもそも身分を隠していたりしなければ――別にセリオは隠していたわけではなく言わなかっただけだが――こんな事にならなかったに違いない。実はこれはものすごく無理がある上に理不尽この上ないのだが、その点にアルフィリアは言及するつもりはない。。
「そういえば……」
 アルフィリアはふと、首を傾げた。
「なんでセリオ王子は、この戦いに参加してないのかしら?」
「セリオ王子?」
「そ。マズルは見たわよね、あの王子。ふざけた性格だけど、実力は確かだと思うし。何よりナーガとティルフィングの継承者でしょう?」
 それ以前に、その大国の王子を『ふざけた性格』と言い切るのはどうなんだ、とその場にいる全員が思ったが、それは誰も口に出さない。
「さあ……でも、ナーガはあのユリア様がいるなら問題ないんじゃないのかな?」
 ウルクの言葉に、アルフィリアは首を捻った。
 正直、継承者の力というのは自分達とは次元が違いすぎる。幾度か、ディオン王子が戦う場面を見たが、あの力は本当に人間なのか、と疑いたくなるほどだ。それに、先のコノート解放戦で、アルフィリアは光り輝く竜の姿も見た。おそらくあれが、ユリア公妃によって発現したナーガだろう。
 その威力は、遥か離れていた自分にも、びりびりと大気を震動させる魔力の波動を感じさせるほどのものだった。あんな力がこの世にあるのか、と思ったほどだ。
 だが、これはほとんど『女の勘』のレベルだが、あのセリオ王子は彼らの持つ力以上を隠している気がする。予備動作もなしに一瞬で転移魔法を発動させるなど、普通出来る事ではない。無論、継承者は普通ではないが、彼にとってあの程度の事は、なんでもない事に違いない。継承者の力は確かに絶大だ。それはもう、この戦いで痛感している。
 だが、セリオ王子の力は他の継承者と比しても、底が見えない。強大であるに違いないのに、それをまったく感じさせない。それは、アルフィリアの洞察力を持ってしても、その力をまったく見極める事が出来ないからなのだ。
 もし、この戦いが終わって、また会う機会があったら聞いてみよう、とアルフィリアは決めて、この話題を打ち切った。

 戦いの渦中であるトラキア王都コノートの遥か西。大陸のほぼ中央部。広大な領土を有するグランベル王国の王都バーハラは、現在、戦乱直後の混乱からも回復し、一部ではすでに復旧作業も始まっていた。
 セリス王が倒れた、と聞かされたとき、民衆は著しく混乱し、また、一部では恐慌状態に陥る者すら現れた。それほどに、聖王と謳われるセリスの存在は、グランベルとバーハラにとって大きかったのである。
 しかし、その全権を引き継いだセリオは、その後継者として申し分ない力量を発揮した。
 瞬く間に軍を掌握、適確な指示と人材の配置を行い、バーハラの混乱を最小限に食い止めた。バーハラは、その街の規模はユグドラル最大であり、当然争乱も最大規模だったにも関わらず、なんとわずか二日で、争乱は完全に鎮圧された。さすがに、夜間外出禁止令や戒厳令も出されたが、それも数日の事で、争乱の十日後には、もう市が開かれていたほどである。
 その後もグランベル各地に対して、騎士一人一人にまで指示を出し、各地の争乱を次々に鎮圧していっていた。そのため、グランベルは、どこよりも争乱が治まるのが早かったのである。
 人々は口々に、セリオ王子はセリス王を超える名君になるに違いない、と噂しあっていたが、同時にそれまでは気軽に市井に出ていたセリオが、バーハラ宮殿から外に出る事はほとんどなくなっていた。そのため、感謝の意を表する市民が、毎日のように宮殿に訪れていたのだが、『王子は多忙である』の一言で、誰一人として面会する事は出来なかった。
 それを不満に思う市民がいなかったわけではないが、それでも、セリオの人気は日に日に上昇していっていたのである。
 そして当の本人は、というと、ほぼ不眠不休で働き続けていた。妹のシアが心底心配したほどだが、同時に、今のセリオの代わりが務まる者がいないのも事実だったのだ。
 そのシアは、数少ない、セリオが戦場に赴かない理由を知っている一人だった。
 シアは、兄の力をよく知っている。剣においても、イザークのシャナン、フィオと同等、魔法に至っては、身内の贔屓目なしでも、おそらく叔母のユリアを遥かに超えるだけの力を持っている事を知っている。ただ同時に、兄が、特に魔法の力を振るうことを酷く恐れている事も知っている。だから極力、その力を振るいたくないのだろう。
 シアは幼かったこともあり、まったく知らないのだが、セリオは六歳のときに自分の魔力を暴走させ、両親を殺しかけた事があるらしい。その時、わずか六歳の子供でしかないセリオを止めるのに、ナーガ、フォルセティ、ファラフレイム、ティルフィングの四つの力を必要としたと言う。しかも――この事実は当然伏せられているが――この時の怪我が元で、炎のファラフレイムの継承者であったサイアス司祭は、魔法を使うことが出来なくなったというのだ。
 今の兄の力は、六歳の時の比ではない。魔法に関する力も技術もずば抜けている。おそらく今ならば、自分自身の力を制御できるのではないか、と思うが、おそらく兄は再び暴走させるのが怖いのだろう。だから、力を使わない戦い方で、自分が出来る最大限のことをやっているのだ。
 とはいえ、シアには不安がある。
 兄に死地に赴いて欲しいとは思わない。だが、あの戦場にはシアの婚約者であり、誰よりも大切な人である、フィオ王子もいる。彼にもしもの事があったら――果たして兄を責めないでいられるか、自信はない。
 だからといって、兄に戦え、という事も出来ない。どうしようか迷い続けているままに、半年と言う時間が過ぎてしまっていた。
 バーハラはすでに落ち着きを取り戻していて、人々にとっては争乱はすでに過去の出来事になりつつある。
 だが、未だに父セリスは呪いに倒れたままであるし、セリオは今も、毎日もたらされる各地の状況、それに最前線であるトラキアの状況の報告を受け、騎士一人一人に指示を出している。
 兄が人並みはずれて丈夫であるのは承知しているが、それでも倒れるのではないか、と思ってしまう。
 幸い、夜はちゃんと休んでいると思うのだが、先日久しぶりに会った兄は、驚くほどやつれて見えた。
「大丈夫……よね、きっと、絶対」
 こういうとき、継承者の家系に生まれながら、大した力も持たない自分が歯痒い。剣も弓も魔法もそれなりに修めているが、そのどれも平均よりやや上、と言う程度である。そして、シアの身分からすれば、それは身を守るには十分であっても、貴族に――王家に求められる力としては不足なのだ。
 それが分かっているから、シアは、自分も戦う、などとは言わなかったのだ。
 ただ、悔しい。
 安全な場所にただ一人いる事に、罪悪感すら感じてしまう。
 早く戦いが終わって欲しい。あの平和な日々が帰ってきて欲しい、と切に思う。
 だが事態は、シアも、そしてセリオも予想できないほどの、最悪の局面を迎えようとしていたのである。

「ディオン様、お久しぶりです」
 軍議が終わったディオンは、部屋に戻る廊下の途上、名を呼ばれて振り返り、そして驚いて眼を見開いた。
「イー……リア?」
「はい」
「な、なんでここに……?」
「父上と母上に従って、ついてまいりました」
 ますます驚いて、ディオンは眼を丸くする。
 イーリアは、イザーク王国の第二の都市、ソファラの公爵位にあるスカサハと、その妻ユリアの娘である。母そっくりの容姿の持ち主で、快活さより儚げな印象がある公女で、その印象の通り、体があまり丈夫ではなく、また、かなり内気で引っ込み思案な性格の持ち主だ。
 いま、ディオンと話しているこの声も小さくてか細く、人が賑わっている場所なら、よほど近付かない限り、聞き取るのにも苦労するほどである。
 母ユリアの才を受け継いでいるのか、非常に優れた魔法の才能を持つ上、父スカサハの才も受け継いでいて、体が弱いのに並外れた剣才を誇る。剣に限るならば(かつ短時間であるならば)おそらくディオンでも敵わない。
 ただ、いかんせん体が弱いので、ほとんど遠出した事はない。
 例外がこのコノートで、数回、両親と共に訪れた事がある。そして、年齢も近かったため、ディオンとも良く遊んだ――すぐイーリアが息を切らせてしまうため、木陰で話している事のほうが多かったが――仲で、いわば幼馴染である。ディオンも何回か、ソファラに行った事がある。
 しかし今回、彼女はソファラに残っているものだと思っていた。なんと言っても、余りにも熾烈な戦いである。体の弱い彼女が、しかも長旅を――通常は転移だった――してくるとは思ってなかったのだ。
「てっきり、ソファラにいるものだとばかり……」
「普通に考えれば、私もそう思いますが……幼い頃、幾度も訪れたこのコノートが大事とあって、無理にお願いしてしまったんです」
「ルシオも来ているの?」
 ルシオはイーリアの一つ上の兄で、紫銀の髪に漆黒の瞳のイザーク風の容貌という、非常に珍しい人物だ。コノートに来た事はないが、ディオンがソファラに行った時に遊んだ事はある。
「いえ。兄はソファラです。フェイア姉様もイザークに。共に守りの要、ということだそうです」
「なるほど」
 ルシオは魔法の才能こそイーリアに劣るが、その分剣才はイーリアを上回る。イザークでも、王家――シャナン、フィオ、フェイアの三人――を除けば、最強といわれている。
 ディオンはてっきり、来るのであればルシオが来るのだと思っていたが、あるいはイーリアが手元にいた方が安全だと思ったのかもしれない。
「ディオン様も、お元気そうで何よりです。大怪我をされた、と聞いてとても心配だったのですが……」
「ああ、まあ、最初にちょっとね。今はもう大丈夫。心配かけたかな。すまない」
「い、いえ。その、ご無事ならそれで」
 少しだけ頬が上気したようになっているが、これは彼女の場合いつもの事だ。普段は白磁のように白い肌の持ち主なのだが、興奮したり体調が悪くなると、すぐ頬が紅潮する。
「そう必死に否定しなくてもいいって。それにしても本当に久しぶり。一年……くらいかな?」
「はい、そうですね」
 二人は何とはなしに歩き始めた。
 まだ太陽は沈んでいなくて、廊下はかなり明るい。突き当たりにあるバルコニーに出ると、秋の風が二人をなでた。
 しかし、そこから見える光景は、あまりに痛々しい。
「何度見ても……酷い……」
 イーリアの呟きに、ディオンは拳を握り締める。
 実際、街はかなり酷い状況ではあるが、救いもあった。コノートの家屋のほとんどは石造りであり、完全に破壊された家屋は少ないのだ。道も、かなり破壊されているが、そのほとんどは無事である。
 無論、復興は楽な事ではないが、何よりコノートで整備され始めた上下水道が無事であったのが大きい。きっとコノートは、再び輝きを取り戻せる。
 だが、そのためにもこの戦いを終わらせなければならない――。
 街を見下ろして、考えに耽っていたディオンは、突然突き飛ばされて現実に立ち戻った。
「なに!?」
 一瞬何が起きたのか分からなかった。ただ、柔らかく温かい感触が自分に覆いかぶさっている。
「え……イ、イーリア?」
 何を、と思ったが、その視界の端に捉えた人影に、ディオンはすぐ上体を起こし、立ち上がった。イーリアもすぐ、立ち上がる。
「暗黒教団の司祭か」
 いつの間に現れたのか、そこには暗黒教団の司祭がいた。薄闇に覆われたバルコニーの、最も影の濃い場所。そこに、闇に溶け込むように立っているのである。
「ほう……完全に不意を突いたと思ったのだが……やはり、闇の波動を察知する力があるということか……?」
 見ると、バルコニーの柵が一部、完全に砕けていた。おそらく、魔法を放たれたのだろうが、直撃すれば怪我ではすまなかったかもしれない。そして、イーリアが庇ってくれなければ、確実に直撃していた。
「……何の目的があるのかは分からないが、都合がいい」
 ディオンはそういうと、腰に佩いた剣を抜き、イーリアを庇うように彼女と暗黒司祭の間に立つ。
 だが、その司祭は、ディオンなど見えていないかのように、イーリアへと視線を向けた。
「なるほど……母や祖母に良く似ておる。ソファラにいると思って赴いて、無駄足になったが……確かに、手元にあるほうが守りやすいと踏んだならば……やはり貴様が、ロプトウスの継承者か」
 ディオンは一瞬、この男が何を言ったのか分からなかった。それは、イーリアも同じだ。
「な……ち、違います!! 私は、なんの継承者でもありません!!」
 普段のイーリアを知る者ならば、驚くほど大きな声でイーリアは否定した。
「ふむ……まあそうそう認められるものでもないだろうな……だが、継承者であるならば、なぜ我らの妨げとなる事を為す。偉大なる神の顕現である貴女が」
「ふざけた事を言うな」
 ようやく我を取り戻したディオンが、剣の切っ先を男に向ける。
「イーリアには闇の聖痕などありはしない。ふざけるな」
「ふむ……我らとしても確証があるわけではないが……」
 男はディオンの剣など目に映っていないかのように、平然としている。
 確かに、ディオンは槍に比べて剣は不得手だ。だがそれは、槍術があまりにずば抜けているというだけで、剣においても一流の戦士である。
 一般兵はもちろん、並の騎士でも圧倒する実力を持つ。まして、武器の鍛錬を積んでいない魔道士ならなおさらだ。
(こいつ……!!)
 だがそれでも、ディオンは斬り込めなかった。戦士としてのカンが、この相手は危険だ、と訴えている。だが、その正体は、ディオンには分からない。
「まあそれは、調べれば分かること……」
 男はディオンの構える剣が見えないかのように、平然と二人に向かって歩き出した。それに圧されるように、ディオンが後ずさる。
「くっ……!!」
 ディオンは思い切って斬りかかった。相手の正体が分からないにしても、このまま下がってどうにかなるはずもない。だが男は、それを避けることもせず、平然と腕をかざしてきた。当然、腕は斬り裂かれると――ディオンもイーリアも思ったのだが。
「な、バカな!!」
 あろうことか、男はディオンの剣を平然と腕で受け止めたのである。しかも、その腕にはわずかな傷もない。
「ふむ……並の騎士よりよほど強い力を持っているようだが……その程度では、神の力の恩恵を受けた我に傷をつけることなど出来ぬぞ……」
 まずい。
 反射的にそう感じたディオンは、その場から飛び退った。その直後、その場を男の腕が凪ぐ。ただ腕を振ったように見える動き。だがそれが、見た目通りのものでないことを、ディオンは肌で感じていた。
「ほう……いいカンをしている」
「それはそうだろう。彼はゲイボルグの継承者だからな」
 突然の声は、それまでその場にいなかった者のものだった。
 ディオンもイーリアも、男も驚いて振り返る。
「我が国の公女になにか用か?」
「シャナン陛下!!」
「な……シャナンだと!!」
 これには男は、明らかにうろたえていた。しかも、シャナンの手には、なんともう抜き身のバルムンクがある。
「妙な気配を感じたのでな……ずいぶん久しぶりに感じた、だが間違っても懐かしく思えはしない気配だがな」
 シャナンはそういうと、バルムンクの切っ先を男に向ける。
「あのマンフロイと同じ力を纏うとはな。だが、貴様の力量は明らかにマンフロイに劣る。それでもなお、それだけの力を引き出せる……というのが今回の相手か」
「くっ……」
 男は一瞬だけディオンの方を見る。だが、ディオンも男が襲い掛かってくるのは警戒しているし、今、イーリアを攫おうとしてシャナンに背を向ければ、間違いなくシャナンは一瞬で自分を攻撃することは明らかだった。わずかな隙でも見せれば、自分は死ぬ。もはや逃げるのも容易ではない。
「さて、わざわざこんなところまで来てくれたのだ。貴様らの情報を洗いざらいはいてもら……」
 異変は、その時に起きた。
 地震などないはずのコノートが大きく震動し、一瞬、立っていられないほどになる。その瞬間、男は転移の魔法を発動させて姿を消した。
「な、なんだというのだ……」
 だが、その異変の正体はすぐに明らかになった。
 沈みかけていたとはいえ、まだ大地を照らしていた太陽が、完全に見えなくなっていた。
 空が曇ったわけではない。ただ空が、闇に包まれていたのである。

 グランベル王国王都バーハラ。そのバーハラ宮殿の会議場で、セリオは廷臣たちと戦後の復興計画についての会議を行っていた。
 すでに戦いは終息しつつあり、復興活動の起動の早さは来年以降の収穫にも影響を与えるのだ。
 だが、その席上、セリオは突然立ち上がり、会議場を飛び出した。
「で、殿下!?」
「まずい!!」
 慌てて侍従の騎士が追いかけようと廊下に出たが、すでにセリオの姿はない。
「まさか……もう限界がくるなんて……え!?」
(助けて……お願い……!!)
 それは、直接心に語りかける声だった。
「誰だ!?」
 無論、周囲に人はいない。また、セリオも周囲にいるとは思っていない。
「私を……呼んでいる?」
(もう、私の意志では……)
 それを最後に、言葉は切れた。
 その直後。
 今度は、セリオが予想してた――そしてその他の物は誰も予想してなかった――災厄が、始まったのである。

 アグストリアの王都アグスティでは、王子アルセイドが市民達の歓呼の中を、馬を進めていた。
 オーガヒルの海賊の主だった拠点を潰し、北の海を完全に平定したのである。これで、アグストリアの今回の争乱は、完全に収まったのである。
 だが、人々の歓呼は、一瞬で悲鳴に変わった。
 死と災厄をもたらす、黒き雨によって。

「き……た……!!」
 明かりを取る窓は十分にあり、寝台も豪奢とはいえないまでも、清潔なものだった。むしろ、『神殿』よりよほどいい暮らしであったが、彼女にはそんなことは意味はない。自分の役割は、ロプト神に仇なす存在の排除。それ以外に、やることを知らない。
 にもかかわらず、彼女――リーリアが虜囚となってからずっとおとなしくしていたのは、待っていたからであった。
 自分の中の『鍵』が解き放たれるのを。そして、それと同時にもたらされる、なすべきことを。
 そして――。
 黒き雨が大地を焼いたその日。
 バーハラから、リーリアの姿は消えた。

 この日、ユグドラルの大地を焼いた黒き雨は、もちろん普通の雨などではなかった。
 黒き雨は大地を焼き、森を腐らせ、水を汚した。
 そして奇妙なことに、この『黒き雨』は、まるでそれ自体が意思があるかのように、大陸各地の都市のみに降り注いだのである。
 バーハラ以下、グランベル六公国の首都、エバンス、ミレトス、アグスティ、ダーナ、そしてコノート。
 そして災厄は、それでは終わらなかった。
 大地に降り注いだ黒き雨から、新たな、そして無数の異形の怪物が出現したのである――。




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