前へ | 次へ |
灼熱の業火が、竜型のゴーレムを焼き尽くした。 本来、石材で出来ているそれは、生半可な攻撃ではまずダメージを負うことすらないのだが、今、その業火は文字通り、ゴーレムを巨大な『石炭』に変えてしまう。そして直後に、全身に亀裂が入り、ばらばらと砂のように崩れ去った。 その様を見て、ルーイは言葉を失っていた。 今この状況は、とてもではないが落ち着いていられる状況ではない。 ヴェルトマーの東に位置するイードの城砦は、イード砂漠――ここにも先の『黒き雨』は降り注いだ――から間断なく襲来する敵軍に対して、ぎりぎりの防衛線を展開している。 彼我の兵力差は、少なく見積もっても十倍以上。無論こちらが少数だ。 そしてその兵力差を、たった一人で覆しているのが、今、ゴーレムを炭屑と化した、炎のファラフレイムの遣い手、エティスだ。 その、炎を纏った姿は、ある種の美しさすらある。 炎とは、本来人も獣も本能的に恐れる存在だ。しかし人は炎を恐れるだけではなく、温かみを感じる事もある。 だが、エティスの操る炎から感じるのは、そのどちらでもない。 あえて言うなら、神聖さ、とでも言うべきか。 だが、どれほどの言葉を連ねても、それは表現できるとは思えない。紅蓮の炎を纏う彼女の美しさは、言葉には出来ないのだ。 あの『黒き雨』からすでに九日。圧倒的ともいえる敵軍に、しかしエティスはまったく怖れる事もなく、そして絶望に囚われる事もなく、ファラフレイムを振るい続けている。 すでに辺りは夜の帳が下りつつあり、ファラフレイムの紅蓮の炎はその中で、闇の侵食を拒否するかのように燃え盛っていた。 「さすがに、今日は終わりね。あと、よろしくね、ルーイ」 はい、とルーイは応じる。 ルーイは相変わらず、イードの補修工事を請け負っているのである。いつの間にやら責任者ということにまでなってしまっていた。『黒き雨』以降、城砦は毎日のように苛烈な攻撃を受けており、すでにがたがたになっているが、幸いにも敵軍は夜、活動が鈍る。その時に、出来る限りの補修を行うのが彼女達の役目だ。 しかしルーイは、すぐ持ち場に行かずに、エティスを見ていた。 真紅の髪は緩やかに波打っていて、それ自体も炎であるかのように見える。だがそれ以上にルーイを不思議に思わせたのは、彼女がこの状況にあってなお、活き活きとしてるようにすらみえることだった。 「ん、何?」 「あ、いえ……その……」 少し言いよどんだが、ルーイはそれでも湧いてきた疑問を解決させたい欲求に従った。 「その、この状況下で、その様に振舞えるのが凄いと思えまして。それだけですが……」 状況は絶望的だ。 敵軍は尽きることなく湧いてくるし、状況打開の糸口すら見えない。事態が打開される要素は何もなく、ただ、緩慢に自らの滅びを待つだけの状況――少なくとも、ルーイにはそう思えてならなかったし、実際、すでに諦観がこのイードも支配しつつある。 「そうねぇ。別に確たる根拠があるわけじゃないんだけど」 そういうエティスは、むしろ嬉しそうにも見えた。 「七日前……だったかな。セリオ王子がここを通っていった。覚えてる?」 「はい」 七日前、つまり『黒き雨』から三日目の夜、イードを一人の騎手が通過した。 ちょうど城砦の補修工事を行っていたルーイは、その騎手が一度城内に入るのを案内したのである。 年齢は、二十歳にはいってないくらいの、青い髪と深紫色の瞳の青年で、驚くほど整った顔立ちをしていたので良く覚えていた。暗くてはっきりとは見えなかったが、平和になったら是非彫刻のモデルになってもらいたい、と思ったほどだが――それが、グランベル王子セリオである、と聞いて仰天した。 まさか王子が、供の一人も連れずにこの最前線に来るなど、想像もしていなかったからである。 だがそのセリオは、エティスやヴェルトマー公であるアーサーへの挨拶もそこそこに、新たな馬を受け取ると、ほとんど休みもせずに――実際には一刻ほど休んだらしいが――出立してしまったのである。無論、単騎で。 「きっと、セリオ王子がもうすぐこの戦いを終わらせてくれる。私はそう思うの。だから、あとちょっとだ、と思えば頑張れるのよ」 ルーイにはそれは分からない。 グランベルのセリオといえば、光のーガと聖剣ティルフィング、二つの神器の継承者だ。無論ルーイもそれは知っている。そして、神器の絶大な力は毎日のように見ているのだから、期待したくはなる。 だが、コノートに集まっているという戦力は、その継承者が文字通り鈴なり状態のはずだ。にもかかわらず、戦乱が終わる気配はない。そこに、いくら一人で二つの神器を扱えるからといって、一人が加わった程度で状況が好転するとは、ルーイには思えなかった。 「確かにセリオ王子はとても強いのかもしれませんが……でも、この状況で一人増えたところでどうにかなるとは……私には思えませんが……」 言ってから、考えてみたらとんでもなく不敬なことを言ってることに気付いた。 ただ幸いにも、エティスが気にした様子はない。 「そうね、私も、普通に考えたらそうだと分かってるのよ。頭では。でも、なぜかそう思えるの」 その時になって、ルーイはエティスが嬉しそうにセリオのことを話しているのに気がついた。それは、これまで半年もの間、彼女が見せたことのなかった表情。そして、ここ数日――つまりセリオが通過してから――見せるようになった表情だ。 それは、ただ希望を感じている、というだけの表情ではないことを、ルーイは、理性ではなく感情で、理解していた。 |
「あぐっ!!」 怪物の口から飛び出した針が、クレオの肩口を貫いた。 その怪物が、針を噴出すのは分かっていたのだが、それでも避けられなかった。しかし、その針とすれ違うように放たれた雷撃は、怪物の顔面を捉え、怪物は頭から煙を出して大きく揺らぎ、やがて大地に倒れ伏す。その、倒れた怪物の後ろから、さらにもう一体が、爪をかざして迫る。手にある巨大な爪は研ぎ澄まされたナイフの鋭さと、両手剣の破壊力を兼ね備えた殺戮の刃だ。 今の体勢では避けられない。 「くっ……があああ!!」 だが、致命傷を避けようとクレオは体を動かそうとして、その瞬間激痛に体を捻った。 先ほどの針が、なんとクレオの肩を貫き、そのまま地面に突き刺さっていたのである。クレオは体を捻ろうとしたため、傷口を著しく広げてしまったのだ。 その瞬間、爪が眼前に迫る。クレオは思わず目を瞑ったが、直後に聞こえた音は自分の体に爪がめり込む音ではなく、乾いた金属音だ。 「大丈夫か!?」 オルヴァスの槍が爪を弾いてくれたらしい。怪物はオルヴァスに向き直り、その両手にある爪を凄まじい速さで繰り出してくる。その鋭さは、一流の剣士と比べてもまったく遜色ない。 「くっ」 防ぎきれない爪が、オルヴァスの体をかすめる。金属で出来た鎧が、その爪の前では皮革の鎧よりも柔らかいもので出来ているかのように切り裂かれていく。 「オルヴァス殿、後ろへ!!」 オルヴァスはその言葉だけで了解したのか、半ば転がるように後ろに跳んだ。跳びすぎて、逆にバランスを崩す。怪物はそこに襲いかかろうとして――自らの真横から紫電の一撃が襲い掛かってくるのに気付くのが遅れた。 刹那、凄まじい轟音と共に、怪物の体を雷撃が貫く。 その衝撃で、一瞬怪物の動きが止まるのを、オルヴァスは見逃さなかった。 「くたばれ!!」 雷光さながらの鋭さで突き込まれた槍が、怪物の喉笛を貫通する。そのまま、横薙ぎに槍が抜かれ、怪物の首は半ば以上切断された。ややあって、怪物は力を失って倒れる。もう、動かなかった。 「……無茶をするな。そのままトローンを放つとは」 クレオは、地面に縫い付けられたまま、トローンを放ったのである。その衝撃のせいだろう。肩口の傷はさらに酷くなっているが、クレオはすでに痛みを痛みと認識できないほどになっていた。 「いえ……必死、で、した、から……」 それで、クレオの意識は闇に落ちた。 |
どのような獣とも異なる嘶きが、その小さな集落に響き渡った。 その集落を守るアグストリアの騎士は、臆病な集団では、断じてない。騎士としての勇気も武力も十分に兼ね備えた集団であり、さらに、それを率いるノディオン公女セフィアへの、崇拝じみた尊敬が、彼らを集団としてさらに強くしていた。 戦いが始まってからこれまで、彼らは一千近い怪物を屠り、人々を守り続けていた。いつ終わるとも知れない戦い。物資も余裕があるわけではなく、未来永劫戦い続けるのか、という不安がないわけではなかったが、それでも彼らは、いつかこの状況が変わることを信じて、戦い続けていたのだ。 だが今、その不屈の心を全て砕くかのように、その嘶きは彼らの心を絶望に包もうとしていた。 「暗黒竜……」 数回、戦ったことのある相手ではある。メルゲンで、そしてコノートで。そのあまりに強大な力には、普通の兵はまず対抗できない。奴らを屠ってきたのは、強大な神器を操る継承者達だ。 「……こりゃ、ちょっとどうしようもない……かな?」 その、巨大な黒い姿は、しかもこれまで見たどの暗黒竜よりも巨大で、そして禍々しさを感じさせる。 これは帰れそうにないな、とカールは思っていた。 死にたいなどと思ったことはない。だが、それが叶えられるとは、思えない。 「あら、カールは死にたいの?」 その声は、絶望などまるでしていない声だ。誰の声であるか、考えるまでもない。 「……いえ。死にたくはないですけど、でも、どうやって?」 「簡単よ」 そういって、セフィアは剣を抜く。 「諦めないの。なんだって。諦めたら終わり」 それじゃあほとんど宗教ですよ、と言いたかったが、考えてみたらこのアグストリアの騎士たちは、ある意味宗教団体かもしれない。 セフィア公女という、戦いの女神に付き従う、戦士の集団。 「じゃ、僕も精一杯努力しますか」 カールも、そして同僚たちも剣を抜く。 竜が、もう一度嘶いた。 |
「リーリア……なぜ、ここに……?」 あのバーハラでの争乱の折、アルフィリアが捕らえた暗黒教団の少女。そしてそのまま、王宮に引き渡したはずの彼女が、なぜここにいるのか。 あの戦いの後、捕らえられたリーリアは、自分の状況が分かっていないのか、彼女からはかなりいろいろな情報が引き出せたと聞いている。 また逃げ出すような素振りもなく、年齢が年齢だけにセリオも扱いには慎重だったらしい。 それで油断して逃がしてしまったのか、と思ったが、あのセリオがそんな迂闊なことをするはずはない。 実際、バーハラを発つ前に一度だけリーリアを見たときは、内部の者の魔力を封じる牢獄――暗黒神の信者は転移魔法が使える可能性があったからだ――におり、逃げ出せるとは思えなかった。 しかし、今目の前にいる少女は、間違いなくリーリアだった。マズルに目配せするが――彼は一度彼女に殺されかけている――彼もやはり、少女がリーリアであると認識している。他人の空似というわけではなさそうだ。 ただ、それ以外の兵は――ウルクも含めて――こんな場所にいきなり現れた少女の姿に、戸惑っている。 「あのねぇ、りぃ、もっとたくさんおしごとしなさいって、いわれたの。だから、きたの」 リーリアの腕がかざされる。アルフィリアとマズルは、その動きに危険を感じて、弾かれるように横に飛んだ。 「避けなさい!!」 跳ぶと同時に叫んだが、果たしてその意味を何人が理解できたか。 直後、リーリアの掌から闇が躍り出た。闇というより、闇を巨大な蛇のように象ったものにも見えた。 それが、傭兵の何人かを、その顎で呑み込むように通過した。 「ぎゃああああああああ!!!!」 呑まれた兵士は文字通り断末魔の絶叫を上げる。だがそれもすぐに途切れ――後には、全身から血を噴出した死体が転がっていた。 「ほら、すごいでしょう? へーかがちからをくれたの。だからりぃ、まえよりもっとおしごとできるの」 前にリーリアと戦った時は、非常に弱い――あくまで成人の魔道士と比して――闇魔法しか放てなかったはずだ。だが今放たれた一撃は、少なくともかつての比ではない。鍛えられた傭兵を一撃で絶命させるなど、少なくともあの年齢の少女の力ではない。 「こういうこともできるんだよ」 リーリアの、今度は両腕がかざされる。そこから、なんと数十の闇の蛇が生じた。 「なっ!!」 放たれた蛇は、まるでそれ自体が意思があるかのように空中を泳ぎ、傭兵達に襲い掛かる。 「わああああ!!」 傭兵たちは必死に避けるが、一度かわしてもまだ襲い掛かってくる。ただ幸い、蛇の動きは緩慢だった。それだけであれば、避けるのは難しくない。 「うーん、やっぱたくさんのがたのしぃよねぇ」 その言葉で、それまで動かなかった怪物たちが動き出した。怪物だけでも苦戦していたところに、闇の蛇である。しかも、蛇は怪物を避け、人間だけを狙う。 「いい加減に!!」 アルフィリアは、自分に迫った蛇をライトニングで相殺、怪物の目を剣で貫いてその動きを止めると、一気にリーリアの方へと駆けた。出来れば殺したくはない、とは思っていた。だが、この状況でそういう甘いことを言っていられない、というのは分かっている。 「隊長!!」 ウルクがそのアルフィリアの意図を察したのだろう。彼女の後ろから迫ろうとしていた怪物に斬りかかり、動きを止める。 あと数歩で、というところで、リーリアの腕が突き出される。また蛇か、と思ったが、あの速度なら避けるのは難しくない。 だが、そこから放たれたのは、蛇ではなかった。 強いて言うならば、闇の球体だ。大きさは人の拳ほど。アルフィリアの知る、いかなる魔法とも異なる。しかも、速い。 「くっ!!」 勢いのついていたアルフィリアは、地面を思い切り蹴って横に転がった。すぐ目の前を、その闇が通り抜ける。 その時、アルフィリアは奇妙な違和感を覚えた。普通魔法というのは、それに触れたものにダメージを与えるため、すぐ間近である場合、チリチリした感触が肌に伝わってくるものだ。だが、この闇の球体には、それがまったくない。眼で見えているのに、そこにあるのかがまるで感じられない。 瞬間、幻覚か、と判断する。だが、そうだと言い切れない不吉さが、背筋を駆け抜ける。 その闇の球体は、そのまままっすぐ進む。その先に、怪物と切り結ぶウルクが背中を向けていた。 「ウルク、避けて!!」 ウルクはその言葉に、反射的に体を翻した。 アルフィリアの指示を信頼しているのか、無理矢理横っ飛びに跳ぶ。だが、その時に怪物の爪が、ウルクの左腕を引っ掛けた。 「くあっ」 鮮血が飛び散る。ウルクはバランスを崩して倒れこむ。そこに怪物が迫ろうと、一歩踏み出したところに、闇の球体が直撃した。 そして、直後。 一瞬、闇の球体が大きくなった。怪物をも包み込むほどに。そして――即座に消えた。そこには、何もなかった。闇の球体に包まれたはずの、怪物すら。 「なっ……」 ウルクは呆然とし、マズルとアルフィリアは目を見開いた。 「あれぇ? よけられちゃった。りぃ、へただねぇ」 そう言って、笑う。その笑顔は、本当に無邪気だった。自分の行動がどういうことなのか、分かっていない。無邪気さゆえの残虐性。 「やっぱヘビさんじゃ、みんなたいくつみたいだから、こんどはこっちでいくねぇ」 リーリアがそう言うと、いきなり蛇が消えた。 そして――。 「じゃあいっくよ〜、えいっ」 リーリアの周囲に、先ほどの闇の球体が、ゆうに数十個出現する。 「全員、避けて!!」 アルフィリアの言葉の直後、闇の球体が加速した。 「うおおお!!!」 リーリアに一番近かったのはマズルである。だが、そのマズルは驚異的な動きでその闇球を回避した。一瞬、目の前の視界が開ける。マズルとリーリアの間を遮るものは、何もなかった。 その瞬間、マズルはリーリアに向かって踏み込んだ。彼我の距離は、五歩程度。瞬きする間に詰められる距離である。 マズルの剣が、リーリアを捉えようとする。だがその瞬間ですら、リーリアは自分に何が起きようとしているのかが分かっていないかのように、不思議そうな、そして愛らしいと表現できるその顔を、マズルに向けている。 「くそお!!」 ほんの一瞬、マズルの手が止まる。だがそれは、致命的な隙だった。 気付いた時、マズルの目の前に闇球があった。まるで時間の流れ方が遅くなったかのように、それがゆっくりと迫ってくる。これだけ遅ければかわせるはずなのだが、なぜか体は動かない。 「バカ!!」 このアルフィリアの声は、あとで思い返したらそう言われていたのだ、と思い出したものだ。その時は、まるでその声を認識できていなかった。 視界がぶれた。 それが突き飛ばされたと認識できたのはずっと後で、その時は、目の前に見えた光景が、ただそのまま目に入ってきていただけだ。 目の前を闇球が通過するのが、まず見えた。 続いて見えたのは、アルフィリアの左腕――こちらでマズルを突き飛ばしたのだろう――と、彼女の結い上げられた銀髪が解け、編みこまれた髪が宙に舞う様、そして、リーリアの喉に突き刺さる彼女の剣だった。 その瞬間、マズルは自分が何を考えていたのかを、後になっても思い出せなかった。ただ、ほとんど反射的に、マズルは空いた左腕で、アルフィリアの左腕を掴んでいた。 危険だという感覚。それだけが頭を支配していた気がする。 だが、マズルがアルフィリアの手を掴んだ瞬間、彼の視界は闇色に染まった。 離れて見ていた者には、マズルの目の前に闇の球体が展開されたと分かったが、その時マズルの視界に見えたのは、文字通り闇と、そしてその闇から少しだけ飛び出している、アルフィリアの編みこまれた銀髪――先端は意外に可愛らしい青いリボンで結ばれていた――だった。 音はなかった。 半瞬後に、視界が開ける。 そこには、何もなかった。 ややあって、アルフィリアの髪が――闇の外側にあった部分だけが――ぱさり、と地面に落ちる。 マズルの左腕もまた、二の腕から先が消えていたが、その時マズルは何も感じていなかった。 |
「このやろお!!」 聖斧スワンチカが炸裂し、暗黒竜の首が落ちる。その、渾身の一撃で無防備になったヨハンに、別の暗黒竜の爪が迫ったが、それにアーウィルが剣を叩き付けた。幸いにも、暗黒竜にも痛みはあるらしく、爪を強打された暗黒竜は、痛みにわずかに身を振るわせる。 「すまん、ウィル」 「いや、まあ俺はヨハンの護衛だしな」 そう言いつつ、アーウィルは剣を握りなおそうとして、握力がほとんどなくなっていることに気がついた。どうやら、先ほどの衝撃で手が完全に痺れてしまっている。 「……ただ、もう一度はしばらくは無理っぽい……」 「いや、俺も実は限界近くてな」 ヨハンはすでに肩で息をしていた。普段は肩に乗せているスワンチカを、今は地面につきたててそれで体を支えている。 「どうするんだよ。まだ半分はおろか、十分の一も終わってないぞ」 「……どうするんだろうな、これ」 「やるしかないだろ?」 「……だ、な!!」 ヨハンは突然スワンチカを横に薙いだ。暴風のような衝撃と共に、二人に迫ろうとしていた暗黒竜が砕ける。 「もう完全に乱戦になっちまってるからなぁ。はっきり言って、敵が分かりやすい相手でよかったぜ」 すでに連合軍の陣は崩壊していた。暗黒竜は、まさにその圧力に任せて、かつ犠牲も気にせずに突撃してきて、それを数回繰り返すことで連合軍の陣を崩壊させてしまったのだ。 不幸中の幸いは、戦場がコノートの街からやや西にずれたことで、コノートにこれ以上の被害が出ないですむこと、敵の識別が非常に簡単なことだ。そして負傷者はコノートに送ればいいはずなのだが――負傷者を後方に送る余裕など、すぐになくなってしまっていた。 ヨハンも、最初は防衛線を維持していたのだが、あっという間に崩壊させられ、すでに各個撃破をするしかなくなっている。 今日一日で一体何体の暗黒竜を砕いたかは、すでに分からない。だが、いずれにしても体力がすでに限界であった。 周りには、砕かれた暗黒竜――ほとんどは石に宿っているらしい――と、多くの人間の死体が転がっている。 「これで生き残ったら、俺達とんでもなく運がいいだろうな」 「……俺は無理かな、ヨハンはともかく」 背中合わせに語る。それぞれの正面には、暗黒竜が立ちはだかっていた。 「いや、まだそう諦めたものじゃないらしいぞ?」 突如、ごがん、という猛烈な破砕音が、アーウィルの背後から響いた。ヨハンが暗黒竜を破壊したのかと思ったが、ヨハンの気配はまだアーウィルのすぐ後ろにある。 一体何が、と思った瞬間、アーウィルの真横を凄まじい勢いで巨大な金属の塊――スワンチカ――が回転しながら跳んでいた。 「なっ……」 あろうことか、あの巨斧をヨハンは投げたのである。斧は唸りを上げて暗黒竜の頭部に命中し、暗黒竜の頭が一部砕ける。そして、その斧はまるでヨハンに導かれるかのように、すーっとヨハンの手に戻った。 そして、さらに飛来したのは――。 「竜騎士――」 その竜騎士は、飛竜からの上にあっても分かるほどに巨大な槍を持っていた。その一撃が、竜の頭を捉える。直後、竜の頭は粉々に砕け散った。 「あれは……ディオン王子!?」 「すまねえ!!」 ヨハンの言葉に、ディオンは一度空を旋回して応えた。 そしてまた、別の戦場へと赴く。 「さて、と。とりあえず死ぬまでは生きてるんだから、やるだけやろうぜ」 なんともヨハンらしい言い草だが、ある意味真理だ。 「ああ、そうだな」 アーウィルはもう一度剣を構えなおした。握力は戻ってる。まだやれる。 この時、アーウィルは先がまるで見えない状況であるにも関わらず、なぜか楽しいと感じている自分に、気付いていなかった。 |
「光(ナーガ)よ!!」 「風(フォルセティ)よ!!」 二人の継承者の声に応えて、魔道書から力が解放される。輝きすら纏ったその風は、巨大な暗黒竜を容赦なく切り裂き、巨大な光の竜はその口から放つ光の濁流で、暗黒竜を打ち砕く。 だが。 「キリが……ない」 眼前には、今打ち砕いた暗黒竜と同じものが、少なくとも数百体いる。もしかしたら、一千を超えているかもしれない。 「これほどとは……」 セティやユリアにとって、魔法を使うことは歩くことに等しい。力を込めて放つとしても、それはせいぜい平坦な道を歩くのと急坂を上る程度の違いもありはしない。だが、急坂を登り続けていれば当然疲労する。全力で魔法を放ち続ければ、セティやユリアでも消耗してくる。 すでに二人で百以上の暗黒竜を撃破したが、その数が減ったようには到底見えない。 「このままでは、私達がもちませんね……」 ユリアもまた、呼吸が荒い。 「だが、我らが破れれば、今度こそ終わりだ」 突然敵が強力になった理由は、分からない。だが、あの莫大な数の暗黒竜を確実に屠れるのは、神器の攻撃しかない。 これまでの十倍の敵がまだいる、思うと、目の前が真っ暗になる気すらする。だが、泣き言を言う余裕もない。 だが、これだけ疲労すると、必然的に集中力が落ちる。 そのためセティは、すぐ横に迫っていた暗黒竜に気付くのが、完全に遅れていた。 「しまっ……!!」 セティの周囲の風が弾ける。セティはその風に吹き飛ばされるように、その攻撃を回避したが、その回避した先にも暗黒竜が待っていた。 「セティ、伏せろ!!」 セティは反射的にその言葉に従った。 同時に、セティのすぐ上を光の濁流が通過する。それは、ナーガの持つ金色ではなく、むしろフォルセティにも似た、翡翠色の輝きを伴っていた。 「すみません、シャナン王」 振り返ったセティに見えたのは、粉々になった暗黒竜と、淡い光に包まれたシャナンだった。 その凄まじい力に、セティはシャナンの力が健在であることに改めて感嘆する。 「お見事です。そういえば、フィオ王子は?」 「ああ、やつは北側の守りを任せた。いかにフィオでも、この相手は神剣なしでは対抗しきれないからな」 そういってシャナンは、暗黒竜の群れに向き直る。 「奴らも分かっているんだろう。ここにいる戦力が、コノートで最強であることがな」 「……なるほど」 確かに、この戦域にだけ、暗黒竜が集中し過ぎている。それは、彼らもまた理性によってか本能によってか、ここにいる三人を倒せれば勝てる、と判断しているのだろう。 「だが、我らもそうやすやすとは……なんだ?」 シャナンらの力に恐れをなした――彼らに恐怖というものがあればだが――ように遠巻きにいた暗黒竜が、じわじわと形を失いつつあった。元々、どこからが実体でどこからが魔力だけの塊であるかすら分からなかったが、その輪郭が曖昧になっていく。 そして、それが溶け込むように一つに重なっていこうとしていた。 「まさか……」 セティの言葉は、そこで途切れる。 予測できた結果が、そこにあった。 彼らの目の前には、それまでそこに数百体以上いた暗黒竜はなく。 ただ一体、それら全てが融合した、巨大な暗黒竜がいたのである。 |
「な……なんだあれは……」 ジーンは、呆然と『それ』を見た。 まさに『見上げた』という表現が正しいだろう。 それとジーンの距離は、トラキア大河の河口の幅よりもなお遠い。にもかかわらず、ジーンはそれを見るのに、目を凝らす必要がなかった。 この距離でもあれだけの大きさに見えるということは、その大きさは、コノートの大聖堂に匹敵する。 「……ちょっとシャレになってないな」 すぐ横で剣を振るっていたフィオの表情は、ジーンのそれを鏡映しにしたように同じだった。 呆然と、そして何が起きているのかすら理解できない、という表情だ。 「どうにかなると思いますか、あれ」 継承者達が絶大な力を持っているのは知っている。だが、彼らでもどうにかなる相手なのだろうか、と思えるほど、その黒竜は巨大だった。 「さあな。少なくとも、神器なしでどうにかなるようには、思えないな」 それはジーンもまったくの同感だった。だが、継承者が神器を使ってもどうにかなるのか、という恐怖がある。そしてそれは、フィオも同じなのだろう。 しかも、その結果はすぐに出る状態だった。 その巨竜が出現したのは、連合軍最強の継承者である、シャナン、ユリア、セティがいるすぐ近くだったのである。 |
おぉぉぉぉぉぉ。 大気が、その様な音を立てて震えた。少なくともセティにはそう感じられた。 それが、目の前の巨大な黒き竜から放たれた嘶きである、と分かったのはすぐ。 これまでの暗黒竜も咆哮を上げることはあった。それが、人の精神に重大な影響を与えることも知っている。だが、今放たれたそれは、これまでとはまるで違っていたのである。 「ぐっ……!!」 その巨竜の咆哮は、すぐ近くにいたセティらにとっては、魂すら砕くほどの『力』に、満ちていたのだ。 「うおっ」 「きゃあっ」 シャナンやユリア、セティも、その威力にたじろぎ、倒れそうになるのをかろうじて堪えた。 だが、並外れた精神力を持つ彼らでこの威力である、ということは――。 「ぎゃあああ!!」 「うあああああ!!」 並の兵士はもちろん、騎士たちでも耐えられるものではない。 「く……このままでは……!!」 文字通り魂を砕かれたのだろう。目の焦点が合わず、まるで人形のように次々と倒れていく。しかもそれが、今この場にいるシャナン、セティ、ユリア以外の全員だった。共にいたスカサハやクローディアですら、例外ではない。 数千の兵が、文字通りなす術なく倒れ伏していく。かなり離れていた兵は、さすがに一撃で精神を破壊しつくされたわけではないようだが、それでも重大なダメージを受けているのは容易に分かる。 「ユリア、セティ!!」 シャナンの呼びかけの意図を、二人は即座に察した。 この敵は、あまりに強大だ。だが、逆に奴らは力を一つ処に集めた。これを砕けば、敵軍は壊滅的な打撃を受けることになる。そうすれば、この戦いの勝ちも見えてくる。 「光(ナーガ)よ――その大いなる御力、根源の地より導き給え。天と地を分かつ始原の光明、今、この場にてその偉大なる王威を示し――」 「風(フォルセティ)よ――原初に意味を示せし、確かなる息吹を届けしものよ。今、再び彼方より此方へ、此方より彼方へ、あらゆる意を導き、その全てを包む存在(もの)を以って――」 「「我が敵を、撃ち払え!!」」 二人の魔術師の声が唱和した。 セティとユリアは、二人とも略式の詠唱で、それぞれの最大の力を発揮することが出来る。それをあえて、省略しないで唱えたのは、自分への精神集中のためだ。詠唱による魔術的効果はほとんどないが、詠唱による精神集中によって威力を上げることは出来る――通常は絶対に必要ないからやらないが。 そしてさらにそこに、シャナンの三星剣が重なった。あらゆるものを破壊し、あらゆる守りを貫き、その生命力を奪いつくす剣。そして、このユグドラルにおける最強の魔力。個々ですら、かつてのユリウスを屠りうるほどの威力だ。その三つが同時に、巨竜に炸裂したのである。 その凄まじい衝撃と爆音、そして光は、遥か遠くにいたフィオや、空を飛んでいたディオンすら揺さぶった。 「これで……」 衝撃で生じた爆煙が濛々と上がり、シャナンらの視界は一瞬閉ざされた状態にある。シャナンらにとっては、今自分達が叩きつけられる最大の威力を叩き付けた。少なくともこれで、わずかなりとも効いていなければ、勝ち目はない。 もっとも、一撃で終わるとも、シャナンは思ってはいない。同じ攻撃を幾度も叩きつける必要があるに違いない。だがそれでも、勝ち目が全くないわけではないはずだ。 ただ、シャナンほどの心構えが、ユリア、セティにはなかった。これで終わったのではないか、そういう思いが二人にはあったのだ。そしてそれは、心の油断に繋がった。 おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ……!!! そして、再び響き渡った咆哮は、先ほどの比ではなかったのである。 「……がっ!!」 「あぐっ……!!」 「なっ……っ!!」 その音だけで、ほとんど物理的な衝撃を伴っており、シャナンらは暴風に飛ばされるかのように吹き飛ばされた。 それでも、シャナンはかろうじて受身を取り、すぐ立ち上がる。だが、セティとユリアはそうはいかなかった。 崩れかけた瓦礫に、二人ともほとんど無防備で突っ込んでしまったのである。 「ユリア!! セティ!!」 「ユリアは……なんとか」 「スカサハ!?」 先ほど、竜の咆哮を受けて倒れていたスカサハが、なんとユリアが瓦礫に叩きつけられるのを防いだらしい。といっても、すでに立ち上がる気力もないようだ。さすがに、聖戦を生き延びただけのことはある。だが。 「正直、もう剣を握るだけの力すら……」 一方のセティは、かろうじて風で衝撃を和らげたようではあるが、大きなダメージを負っているのは明らかだった。 「これは……まずいな……」 シャナンとて、かろうじて耐えたとはいえ、剣を握る手がおぼつかない。握力がなくなっているのではないか、とすら感じるが、まだ剣を取り落とさないということは、握力が消えたりはしていないのだろう。 だが、もう一度流星剣を放つことは、到底できそうにない。 そして、ようやく煙が晴れたところにいたのは、わずかに腹部に傷のついた、巨竜だった。その重圧感は、先ほどと全く変わっていない。 ごあああああああ……!!! 再び響き渡る咆哮は、先ほどの威力こそないが、彼らの希望を失わせるには十分だった。 聖戦を生き残り、あらゆる敵を倒してきたシャナンだが、今回は勝てる気がしない。あるいは、十二神器全てが揃えばどうにかなるのかもしれないが――。 巨竜は、まだ動く気配を見せたシャナンに気付いたらしい。その巨大な爪を備えた腕を、ゆっくりと振り上げる。 ごっ、という風を殴るような音と共に、その爪が振り下ろされる。離れて見ていたユリアもセティも、シャナンが死んだ、と思った。だが、次の瞬間。 がああああああ!!! 巨竜がわずかにたじろぎ、うめき声を上げた。見ると、巨竜の右目が、完全に切り裂かれている。 「ふ……そう易々と殺られると思うな……」 シャナンは、その爪の一撃をかろうじてかわすと、その腕を駆け上がって一気に巨竜の目を切り裂いたのである。だが、そこでバランスを崩し、地上に落下したのだが、それでも何とか着地したらしい。まだ彼は立っていた。 「とはいえ……これが限界かな……」 握力はすでになく、剣を持っているのがやっとである。足は今の着地の衝撃で完全に使い物にならない。一歩踏み出すことすら辛い。視界も、わずかに霞がかったようになっていた。 「シャナン様……!!」 ユリアが何とか立ち上がろうとするが、彼女にももう立ち上がる力すら残っていなかった。無論、セティも同じだ。 「これまで、か……」 今度は、ブレスを吐こうというのだろうか。巨竜の巨大な顎が開かれ、そこからわずかに黒い炎が見え隠れする。それを防ぐ術は、もう全くない。 巨竜の口から、黒い炎が噴出す。その瞬間、全員が死を覚悟した。 だが。 「間に合って、良かった。でも本当に、ぎりぎりだったたね」 突然聞こえた声は、シャナンとユリアには馴染みのある、そしてセティは初めて聞く声だった。 死を目前にして、思わず閉じてしまった目を再び開いた彼らの前にあった光景は、幻想的、と言う表現以外彼らでも思いつかないものだった。 光の薄い膜が巨竜の前に張られ、それが、巨竜の黒い炎をことごとく空に逸らしているのである。そして、その彼らの前に立っているのは、青い髪の若者。 「お話か何かみたいなタイミングだけど、一応弁解しておくけど、狙ったわけじゃないよ?」 「セリオ!!」 「セリオ王子!?」 シャナンとユリアの声が唱和する。 グランベル王子セリオ。セリスとラナの第一子であり、聖剣ティルフィングと光のナーガを継承する存在。そして、幼少の頃、己では制御不可能な、そしてセティらを超える力を示した存在。 「……お久しぶりです、セティ陛下」 セリオはそういうと、この場所がどこであるか忘れたように、優雅にセティに会釈して見せた。 セティとセリオは、会うのは実に十二年ぶりである。セティの記憶のセリオは、六歳の子供でしかない。だが、今目の前にいるセリオは、立派な十八歳の若者だった。 だが。 「セリオ……王子、か……」 その身から感じられる力は、確かにあの時感じた力と、同質だった。だが、かつてセリオが発揮した力が暴風であるとするならば、今セリオから感じられる力は、涼風のようである。力が、格段に安定しているのだ。 「ティルフィングを継承したか」 シャナンの言葉に、セティはセリオの右手に握られている聖剣に気がついた。 確かに、その手にあるのは聖剣ティルフィングだったのだ。そして今、聖剣の宝玉はまぶしいほどの光を放っている。 「聖剣の防御なら、あの巨竜の攻撃を逸らすことも可能みたいだね」 その場にいた全員が、ほとんど唖然としてしまうことを、セリオはさらりと言った。 確かに、聖剣は強力な魔法防御を展開できる。また、聖剣は無尽蔵に魔力を吸収し、その力を解放して威力を高めることも出来る。その威力を、防御に回せば確かに通常より強い防御を展開することも出来るだろう。だが――。 「以前とも比較にならない、というわけか……」 「……正直、振るいたくはなかったのだけど」 その言葉に、セティははっとなった。 かつて、母から(母は姉から聞いたそうだが)聞いたことがある。父レヴィンは、絶対的な自分の力そのものを恐怖した、と。おそらくセリオも、同じ恐怖を持っていたのだろう。いや、それはセティも分かっていた。だからセリオが、あれほどの魔術の力を持ちながら、剣を学んだのだということは、人伝に聞いていたのだ。 だが――。 「セティ陛下。私がナーガを継承することを、許してもらえませんか?」 この期に及んで――と、後にセティは呆れつつ語っている。 セティに、セリオの継承権に口出しする権利はない。セリオは、いつでもナーガを継承できたはずなのだ。だが、彼はそれをしなかった。それは無論、セティが警戒していたというのはある。だが――。 セティはふとあることを思いついて、ユリアの方へ視線をずらした。そのユリアは、セティの視線に気付くと、にっこりと微笑んで頷いた。 (そういう、ことか) おそらくセリオは、あの事件に関わった全ての人間に対して、強い罪の意識があったのだろう。だから、その全員が許してくれるまで、継承するつもりはなかったに違いない。そして、自分がその最後の一人と言うわけだ。 「この状況をどうにかできる可能性があるなら、もはや選択肢はありませんよ、王子。それに――貴方には十分、その力を受け入れる覚悟がある。私などが口出しすることではありません」 その言葉を聞くと、セリオは「ありがとうございます」と頭を下げ、そしてかろうじて上体だけを起こしている叔母の元へ向かった。 その叔母――ユリアは、何も言わずに光り輝く宝玉がはめられた、魔道書をセリオに差し出す。 「お借りします、叔母上」 「いいのですよ。それはもう、貴方のものです。セリオ王太子殿下」 セリオはそれに軽く笑って応えると、巨竜に向き直った。 巨竜は、なおも炎を吐き続けていたが、セリオが向き直ったとたん、それを止める。そして、その傷ついていない左目が、ただ一点、セリオのみを凝視していた。 「分かるようだな、お前の敵の姿が。その向こう側で見ているのだろう? ガレ」 その瞬間、全員が驚いてセリオに振り返った。 今彼は、なんと言った? 「末端の竜に用はない。近いうちに赴く。今度こそ、『全て』を滅させてもらう」 ごあああああああ!! 再び咆哮が響き渡った。その、精神的重圧に耐えようと身構えたシャナンらだったが、なぜか衝撃は全くない。それどころか、最初の咆哮で倒れ伏していた兵士らが、次々に目を覚まし始めている。 「これもセリオの――力か」 彼がなぜこれほどの力を持つのか。それはシャナンにも分からない。ただ、今言えることが一つある。少なくとも、セリオの力は、この時のために、いや、この時のために『も』存在するのだろう。 「光(ナーガ)よ――」 光が、あふれ始めた。 |
「……何、あれ……?」 コノート城にいたザヴィヤヴァが、ふと外を見たとき、『それ』は見えた。 はるか東に、地上から天空まで屹立する、巨大な光の柱が。 ただ、不思議なことにそれは恐怖を感じさせるものではなく、むしろ暖かさすら感じさせた。 「不思議……」 この時、ザヴィヤヴァは戦いが終わることを、確かに予感していた。 |
その日、光の雨が降った。 それは、闇の者全てを容赦なく貫き、滅し、浄化していったのである。 そして、巨竜の前にいた者達と、その近くにいた者達は、さらに衝撃的な光景を見ることになる。 巨大な光の柱が、巨竜を包むように地上から天空へと屹立し、そして光が消えた時、巨竜もまた消滅していたのである。 その場にいた兵士達の、興奮した一人が、セリオのことをさして『光の皇だ!!』と叫んだと言う。 その話は、瞬く間に兵士達の間に広まっていった。 光皇セリオ。 以後セリオは、そう呼ばれることになる。 |
< 絶望の帳 |
傷ついた者達 > |
目次へ戻る |