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傷ついた者達




 先日までの戦いが、まるで夢であったかのような静けさだった。
 光の雨は、『敵』を容赦なく全て破壊し、そして味方の傷を癒した。だがさすがに死者が蘇るようなことはなく、また、四肢を失ったりした者の四肢が再生するようなことはなかったが、それでも人々は口々に『奇跡が起きた』といって、神に感謝した。
 そしてそれが、グランベル王子セリオの力によるものだ、という噂は、最激戦地間近で、巨大な光の柱を見た兵士らによって広まり、わずか数日で、セリオは『光皇』と呼ばれるようになっていたのである。
「……あまりいいものでもないけどね」
 そのセリオは、コノート城の上層、円月の間にいた。
 ここは、コノート城で各国の王やグランベル六公国の公爵が集った場合に使われる会議室であるが、これまではそのほとんどが軍議であったため、使われてこなかったのだ。
 しかし今、この部屋にいるのはトラキア王リーフ、イザーク王シャナン、シレジア王セティ、ソファラ公妃ユリアだけだ。この中では、セリオだけが一人若い。
「仕方あるまい。あれだけのことをして見せればな」
 剣の師の言葉に、セリオは複雑そうな顔になる。
「しかし……事後にこういうものをいただいてもな……」
 セティは、苦笑しつつ自分の前にある書状をもてあそぶ。
 そこには、セリスの名でセリオのナーガの継承を認めて欲しい、ということが記されていた。
 元々、セティにセリオの継承について口出す権限などない。にもかかわらず、あえてこのような書状をしたためたのは、セリスの性格を考えれば納得は出来る。
「申し訳ありません。あの時は、ゆっくり書状をお渡ししてる余裕もなかったですから」
「違いない」
 そういって、セティは書状を再び封書にしまいこんだ。
「どちらにせよ、貴方はもうナーガの継承者だ。そして、十二年前の惨劇を繰り返すことなく、貴方はその力を制御した。もう私に言うことはないよ」
「十二年前の惨劇、か」
 この中で、シャナンとリーフはそれを口伝でしか知らない。というより、リーフはこの席上で初めて知った。
 十二年前、ナーガを手にしたセリオがその力を暴走させたこと。ティルフィング、ナーガ、フォルセティ、ファラフレイムの力を以って、かろうじてそれを止めたこと。そして、その時の傷が元で、サイアス司祭は魔法が使えなくなったこと。
 十二年前といえば、セリオはまだ六歳だ。その時で、それほどの力があったというのは、にわかに信じがたいが、それでも、先の戦いの力を見れば、納得せざるを得ない。リーフもまた、あの天空へと屹立する光の柱を見ているのだ。
「それにしても、ずいぶんあっさりと克服されたものだ。正直、冷や冷やしていたのだが」
 セティのそれは、ややもすると少しからかうような口調だったが、セリオはそれに対して神妙に首を振った。
「いえ。正直、あの時と同じことになる可能性は……ありましたよ」
 その言葉に、セティはぎょっとした顔になり、ユリアは目を見張った。
「この戦いが始まる時に、継承しようとしていたら――また暴走していたかもしれない。それは、否定できません。あの時、私自身の力を制御するのは――私一人の力では無理でした」
 この戦いに参加した多くの将兵の意思、そして散っていった者達の遺した想い。そして、何よりも――。
「明後日、ロプトウスの元に行きます。それで、全ては終わる」
 セリオの言葉に、シャナンらはぎょっとなって椅子から腰を浮かせた。
「ま、まて。いくらなんでも兵の回復が追いつかない」
「……シャナン王。私は、軍勢を引き連れていくつもりは、ありません。行くのは――」
 セリオはそこで、南側の窓から見える、夜の闇を見据える。その先に、ロプトウスがいる。
「私一人です」
 唖然とするシャナンらを尻目に、セリオは「さすがに強行軍で疲れてますので、今日は失礼します」というと、あてがわれた寝室に下がっていった。
「……恐ろしい王子が誕生したものだ」
「セティ?」
「シャナン王。貴方は魔術を使われないから、さほど感じないのかもしれないが、セリオ王子は、ナーガを継承する前と後では、その魔力に関しては、まるで別人といっていい。かつてですら、私と同等以上の力であったが……」
 セティはそこで言葉を切り、もう一人の光の継承者へ視線を転じる。その女性もまた、セティの言葉を肯定するように頷いた。
「正直今の王子相手では、仮に私が十人いて、全員がフォルセティを持っていたとしても……全く敵わない。今の彼にとっては、私のフォルセティなどそよ風程度のものでしかない」
「……それほど、なのか」
 シャナンの言葉に、ユリアが頷く。
「私とも比較になりません。向かい合っているだけで、その力は恐ろしいほどに分かりました。ただ彼の力は、晴れ渡り、波一つなく凪いだ大海ように穏やかなのです。だから私達は、恐怖を感じない。あまりにも大きく、そしてとても穏やかで。だから逆に、並の術者では彼の力の大きさを、全く理解できないでしょう」
「多分、一人で行く、というのも考えあってのことでしょう。あの闇の力も強大ですが――おそらく今のセリオ王子なら、十分に対抗できると思います」
「セティにしては曖昧な言い回しだな」
 勝てる、と断言は出来ないのか、とリーフは続けたが、それに対するセティの表情は、なんとも複雑なものだった。
「リーフ王。貴方は、地上から雲を見上げた時、その雲のいずれがより高い場所にあるか、分かりますか?」
 思わぬ問いかけをされ、リーフは目を白黒させる。
「……そういうレベルです。地を這う私達の力では、もはや到底計れないのですよ」

 マズル・コーリアスが目を覚ましたのは、あまり寝心地の良くないベッドの上だった。天井は暗く、石であるか木であるか分からない。その暗さが夜であるからだと気付くのに、数瞬を必要とした。
 体の痛みは、あまりない。一体自分はどうなったのだろう、と思い返して、上体を起こそうとして、マズルは異常に気がついた。
 左腕が、ない。
「なっ……」
 その途端、気を失う前の記憶が蘇ってきた。
 青い髪の少女につきたてられた剣。直後に溢れ出す闇。必死になって銀色の髪の女性の手を掴んだが、闇はその少女と女性と、自分の左腕を巻き込み、そして消滅した。
 その後のことは、よく覚えていない。ただ、自分が死んでいない、ということは分かった。恐る恐る腕を見てみたが、肘より少し上から先が、きれいになくなっていた。包帯で包まれてはいるが、痛みはない。包帯も、血で汚れているようには見えない。ということは、血が止まっているということだろうか。だが、気を失う寸前、膨大な血が流れ出した記憶はあるし、大体腕がなくなって、血がそんな簡単に止まるとは思えない。
「一体……」
「お、気付いたか」
 突然の声に、マズルは驚いて顔を上げたが、現れたのはもちろん見知った顔だった。
「ウルク……」
「丸一日眠りっぱなしだったからな。腹減ってるか?」
 問われてから、体が食事を欲しているのに気付いて、マズルは小さく頷こうとして、慌てて頭を振った。
「って、ちょっと待ってくれ。一体、何がどうなっている? ここはどこだ?」
「……驚くポイントが微妙だが……まあそれはいいか。ここはコノート城の負傷兵の寝室だ。あの戦いから、一日半が経っている。お前は重傷だったのでな。正直、アレがなければ血を流しすぎて死んでいただろうが……」
「アレ?」
 マズルは血が溢れ出した直後に気を失ったので、その後のことを知らない。だが、あの傷では到底助からないと思ったのだが。
「俺もよく分からない。ただ、お前が倒れてすぐくらいに、突然光の雨が降ってきて、敵はそれで消滅。お前の傷も塞がっていったんだ」
「……なんだそりゃ……」
「俺に聞くな。ただ、それで戦いは終わった。まあ俺達の部隊の生き残りは、俺とお前と、あと十数人だったがな。ほとんどが、あの女の子にやられた」
「そうだ、隊長は!?」
 いきなり目の前から消えた。文字通り、掻き消えたのであれば、あるいはどこかに移動したのではないか。そんなことがないと分かっていたのに、この時マズルはその可能性を信じたかった。だが――。
「隊長は消えた。あの黒い球体に『喰われ』てな。もう、どこにもいない」
「そん、な……」
 マズルはがっくりと肩を落とした。
 分かってはいた。目の前で何人もがあの『闇』に『喰われた』のだ。彼女が例外であるはずはない。
 だがそれでも、マズルは自分が思っている以上に、アルフィリアが死んだという事実に、ショックを受けていることに気がついた。
「戦いはすでに終わりつつあるらしい。これは部隊長連中から聞いた話だが、もう出陣はないそうだ。数日で、終結宣言が出されるんじゃないかって話もある」
「……あまりにも唐突過ぎないか?」
 マズルは他の部隊よりも先にコノートに入っていた。だから、知っている。コノートの南に、竜騎士団をも一撃で殲滅するほどの存在がいることを。直接見た事は、一度もない。だが、常に南から感じられる不気味な重圧感は、その強大な存在があることを感じさせていた。
 確かに、敵の猛攻は防いだのかもしれない――実感はない――が、その存在を何とかしない限り、戦いが終わるはずはない。
 それを指摘すると、ウルクも頷いた。ウルクも同じだったらしい。
「ただ、な。セリオ王子が一人で何とかする、という話がある」
「セリオ……王子?」
 その名をもちろん知らないわけではなかったが、それでもマズルはそれが誰であるのかを、しばらく考えなければ思い出せなかった。
 光と聖剣の継承者。大陸最強の存在とまで謳われる、グランベルの王子。
 だが彼は、何の理由からか王都バーハラから動いていなかったのではないか。自分達も、何かの理由で動けない彼の代わりに、この地に来たのだ。
 あの、バーハラから出発する時、セリオ王子は派遣する一人一人に声をかけてくれた。戦いに赴くことが出来ない自分に代わって、トラキアを守って欲しい、と言われた時、マズルは心が震える想いがしたものだ。
 その彼が、突然コノートに来ている、というのは、マズルにとってはすぐに認識できることではなかったのである。
「《光皇セリオ》と。そんな風に呼ぶ兵士達がいる。これは確認したわけじゃないんだが……お前の傷口を塞ぎ、敵をことごとく打ち滅ぼした『光の雨』はセリオ王子の力だという話すらある。正直、信じられないけどな」
 改めて、マズルはその失った左腕を見た。意を決して、包帯を解く。無論そこに腕はなかったが、切断面もなかった。肉で、傷がすっかり塞がっている。生まれながらに腕がなかったら、こういう風になるのではないか、と思うほどだ。
「確かめて……来る」
「え? お、おいっ」
 マズルは、よろよろと立ち上がった。体が空腹を訴えたが、それも無視して、マズルは壁に手をつきながら歩き出した。

 ぱたぱたぱた、と誰かが走り回る音で、クレオは目覚めた。記憶の最後に、全身を襲う痛みがあったので、起きた時に、生きていることを感謝すると共に、強烈な痛みに襲われると覚悟していたが――痛みは、ない。
「もしかして、もう死んでいるのかな……」
「じゃあ俺も死んだことになっちまうな」
 突然横から聞こえた声にぎょっとして、クレオは声の主を確認した。
「オルヴァス殿……」
「あいにくと、ここは天国じゃねぇ。ついでにお前さんもとりあえず無事だ。五体満足にな。ま、正直助かんねえと思ったんだが……」
 そこでオルヴァスは、『光の雨』のことを説明した。
「奇跡……ですね」
 最初に出たクレオの感想はそれだった。敵だけを滅ぼし、味方だけを癒す。そんな都合のいい力があるかどうかは分からないが、あらゆる戦場にそれが降り注いだ、となれば、それはもはや『奇跡』と呼ぶに相応しいだろう。
「奇跡か……同感だが……」
 問題は、その『奇跡』を行ったのが『人間』である、ということだ。オルヴァスも直にみたわけではない。だが、多くの話が、その噂がそれが事実であることを示している。大いなる光の奇跡を起こせし者――光皇セリオ。グランベル王子にして、事実上立太子の儀を済ませ、いずれは大国グランベルの至尊の冠を戴く者。聖王と謳われるセリスの後を継ぐ王子。
 悪いことなど何もない。大陸で最も強大な国の、頂点に立つ者なのだ。まして、自分達の上に立つ存在は、神々の血を継ぐ存在でなければならない。その力が、色濃く出て、悪いはずがない。
 だが。
(あまりにも、強大すぎる)
 それがオルヴァスの、偽らざる感想だった。
 あの戦いには、多くの継承者が参加していた。その中には、かつての解放軍最強とされたシレジアのセティ王やイザーク、ソファラのユリア公妃もいたのである。にもかかわらず、戦況は劣勢だった。それを。
(一瞬で覆したというわけか……)
「オルヴァス殿?」
 考えに耽っていたらしい。目の前に、不思議そうに首を傾げるクレオがいた。
「……いや、なんでもない。ああ、そうそう。お前が目を覚ましたら呼……」
「クレオ、起きた〜?!」
 オルヴァスの言葉をバタン、という扉の音とその声とで遮ったのは、茶色の髪の少女だった。
「殿下」
「あ、目が覚めたんだ。元気そうで良かった」
 うんうん、と何かに頷いている少女――シャリンは、確かに年相応に見える。クレオが気を失う寸前は、まるで雷光を纏った戦女神にも見えたが、今はその威厳は微塵もない。
「殿下もご無事で、何よりでした」
「うん、まあ、私も危なかったけど……セリオ様が来て下さったわけだし」
 その声は、わずかな嬉しさを感じさせる。
 軍の下士官の間で広まっていた噂――シャリン公女はセリオ王子に憧れているらしい――というのはあたっていたのかもしれない。
「今後はどうなるのでしょうか?」
 いいながら、クレオは上体を起こした。痛みはない。体の芯にまで浸み込んでいるような疲労はさすがに強いが、丸一日も休めば回復するだろう。
 あの大攻勢を退けたといっても、戦いはまだ終わったわけではない。最大の敵手は、今なお健在のはずだ。
「戦いはもう終わり、だそうだ」
 オルヴァスの言葉に、クレオは目を丸くした。シャリンを見ると、こちらはもうそれを聞いていたのか、小さく頷いてみせる。
「少なくとも、軍としての行動はもうないらしい。すでに、各国とも軍の再編成を開始してるが、それは撤退のための再編成であって、出撃のためのものではない」
「しかし、まだ……」
 クレオ自身見たことはないが、トラキアの誇る竜騎士団を壊滅させたほどの『力』がまだ存在するのではないか。そしてそれは、今も大陸のどこにでも、破壊の鎚をもたらす存在ではないか。
「セリオ様のお達しよ。私も詳しくはわからない。ただ、あの方は無駄なことをされる方ではないし、理由もなくこんな命令はしない」
 シャリンはセリオを信じているようだが、それは好意からではない。一人の指揮官として、セリオを信じている。
「まあ、すぐどうこうなるってわけじゃないと思うから、クレオは休んでて」
「いえ、それは……」
 まだ十四歳でしかない公女ががんばってて、近衛の自分が寝てるわけには、といいかけたが、クレオは立ち上がろうとして、その力すら満足にない自分に気が付いた。
「ね?」
「……はい」
「寝てろ。フリージの将軍閣下も何人かいるわけだし、近衛の俺たちが出張る理由はない」
「……何言ってるの? オルヴァス。あなたは働くのよ」
「いや、しかし彼らの職権を侵すわけには……」
「あなたの職権を果たしなさい、オルヴァス・フレジア」
 凛とした、少女の声が響く。同時にオルヴァスに押し付けられたものは、将軍位を示す徽章だった。
「なっ……」
「現在コノートにいる将軍は全員フル稼働中。猫の手も借りたいほどなのよ。よかったわ、体力ある人がいて」
「…………」
 その、年相応の笑みが、一瞬とてつもなく不吉なものに映ったのは、きっと気のせいだ。オルヴァスは、必死にそう思い込むことにした。

「ね? 終わったでしょう?」
「はあ……」
 月光に照らされた夜の砂漠が、心の平穏を与えてくれるものであることを、ルーイは久しぶりに思い出していた。
 ここ数ヶ月、イードの城砦から見えた砂漠は、地平を黒い影に埋め尽くされた、まさに魔の領域だった。それが、文字通り突然終わった。
 天から降りそそいだ光の雨は、あらゆる敵を消し、あらゆる味方を癒した。そして光の雨がやんだ時、人々は戦いが終わったことを知ったのである。
「一体あの光は何だったのでしょうか……まさに『奇跡』としか言いようがないのですが」
「そうね……でも多分」
「セリオ王子、ですか?」
「うん。きっとそう」
 だとしたらあの王子は神々にも匹敵する力の持ち主ということに――と思いかけて、ルーイはその考え自体が間違ってることを思い出した。神々の力を受ける人物ならば、目の前にもいるではないか。
 並の炎の魔法などまるで効かない相手を、容赦なく焼き尽くす紅蓮の担い手。『炎帝の愛し子』と呼ばれる、この少女の力とて、理解をはるかに超えている。いまさら、規格外の力が一つや二つあったところで、『神々の力』という範疇では同じなのではないか。
「貴女にもずいぶん世話になったわね。正直、城壁がもったのは貴女の功績だと思うわ」
 いかにエティスの力が優れていようが、一人で大軍を防ぐことは出来ない。その、城壁に達した敵が破壊した城壁を、最小限の補強で最大限に補修し続けたのがルーイだった。彼女の的確な指示がなければ、イードの城砦は陥落していた可能性すらある。
「なにか褒美がいるわね……なにがいい?」
「い、いえ、公女から手ずからなどと……」
 言いかけて、ルーイは一つ、あることを思いついた。
「いいわよ。私に出来ることですむなら。あー、でも、復興でお金かかるから、大金とか言われると困るけど」
「……いえ。ただ、公女にしか出来ない、あるお願いをしたいのです」
「私に?」
「はい、それは――」

「終わる時は唐突ね。始まったのも唐突だった気がするけど」
 ここは、アグストリアから来た騎士団に割り当てられた一角。声の主は、無論セフィア公女である。
 セフィアは、ふぅ、と嘆息してから、窓から見える月を見た。
 昨日までは、月を見上げる余裕すらなかったということを、改めて思い知る。
 あの絶望的な状況の中、良くがんばった、と思う。実際、生き延びたのは奇跡だ。
 いや、本来助かるはずのない者達も、あの『光の雨』によって奇跡的に治癒され、一命を取り留めた。助からなかったのは、すでに死んでいた者だけだ。
 ただ、それでもこの一角にいるアグストリアの騎士は五十人だけ。残り半数は、トラキアの大地にその屍をさらした。
 その生き延びたうちの一人に、カールがいた。
 彼もまた、瀕死の重傷を負い、後は死を待つだけという状態だった。いや、おそらく片足くらいは死の国に足を突っ込んでいたと思う。
 焼けるような腹部の痛みと、その痛みが急激に鈍くなっていくあの感覚は、ある種の誘惑すらあった。
 死の誘惑などというものにはまるで興味はないし、これからも味わいたいとは思わないが、死に掛けた人間が『神に邂逅した』と思う心境は理解できてしまった気がする。
「これで……終わりなのか?」
「そう聞いてるけど?」
 別に誰に言うでもない独り言のつもりだったので、返事があってカールはぎょっとして振り返った。答えたのはセフィア公女だ。
「これ以後は軍を動かしての戦闘はもうないって。連合軍のシャナン陛下からの通達。こちらとしてはわけ分からないから、説明の一つも欲しいところなんだけど……」
 セフィアは、文字通り死屍累々、という様で眠りこける自分の配下を見回した。
「今説明されても、誰も聞ける状態じゃないから、後でいいけどね」
「確かに……」
 自分としては今意識はあるつもりだが、果たして今ここで会話した内容を後で覚えている自信はない。思い切り深酒した時と同じかそれ以上に、今の自分は記憶に自信がない。
「まあ、終わりというのならばありがたいわ。私も早くノディオンに帰りたいし」
 そういって、くるりと踵を返す。その一つ一つの所作が、どれも神秘的な美を感じさせた。
 この数ヶ月、ともに戦い続けてきたわけだが、あるいは倒れずに戦えたのは勝利の女神にも思えるこの公女が共にあったからではないか、とも思える。
「公女は戻られたらどうされるので?」
「私? そうねぇ。とりあえず……何かしら?」
 カールは思わずがくり、と崩れ落ちそうになった。
「仕方ないでしょう。私は騎士ではないし、今回臨時でこの部隊を統括したけど、実際指示を出してたのは兄様だし、国に戻ったら一公女でしかないもの。結婚とかそういう話はさすがにまだ先だし」
 忘れがちだが、この公女はこれでまだ十五歳である。
 だが、今回見せた実力は、十分に評価に値するものではないだろうか。少なくとも、軍を率いるカリスマ性という点においては、彼女の祖母で、あのエルトシャン王亡き後のノディオンをまとめたというラケシス王女にも引けを取らないのでは、と思える。
「そういうカールはどうなの? 貴方はそろそろいい年齢じゃない?」
 ぐ、とカールは言葉に詰まった。
「確かに私の実家は爵位を持つ貴族ですが、僕は三男ですからね。まともに継承される家督もないので、嫁の来手なんてそうそうないんですよ」
 言っててややひがんだような口調になってしまうが、事実だ。
「あら、そうなの? でも、ここで生き残って帰るんだから、それなりに英雄扱いされるんじゃない? ほら、慕ってくれてた幼馴染とかいないの?」
「殿下……どこの小話を読んだのですか」
「えっと、これ」
 セフィアは手に持っていた本を示してみせる。それは、主に庶民が好む小説などを編纂した本で、普通彼女のような身分のものが読むことはないのだが、どうやらここは城内の娯楽施設に近い場所だったらしい。
 半ば冗談で返した言葉を、まともに返されると思っていなかったカールは、今度こそ脱力して突っ伏した。

 体の節々の痛みが、自分の生存を教えてくれた。傷による痛みは、ない。今ある痛みは、ことごとく肉体がその酷使に抗議している痛みだ。
 アーウィル・クロフォードが城内の一室で目覚めた時、彼は大体の事情は分かっていた。
 あの、光の雨とその後に起きたことは、理性ではなく感覚で、この戦いが終わるということを漠然と察することが出来た。
 後で考えてみれば、あれは『奇跡』と呼ばれる代物だったのだろう、と思う。数刻前に目が覚めたときに聞いた話では、あの光はセリオ王子が降らせたものだと聞いたが、ならば彼の存在が奇跡なのだろう。
 ただ、戦いが終わったという感慨も、彼にはあまり浮かばなかった。
 どちらかというと、感じているのは空虚感だ。
 そしてその原因を、彼はわかっていた。
「よぅ。目、覚めたか」
「まだちょっと体が堅いけど、問題はあまり」
「あの姉ちゃん、戦死だって?」
 誰のことかはわかっている。だからアーウィルは、小さく頷いただけだった。
 数刻前、一度目を覚ました時に、彼は知人であったアルフィリアの無事を確かめようとして、その逆の事実を知ることになった。
 彼女の部隊は最激戦の一つに巻き込まれたらしく、数百人いた部隊で、生き残ったのはほんの十数人だという。しかも何人か、四肢が失われるといった怪我を――傷はふさがっているらしいが――負ったものもいるほどだ。五体満足となると、ごく数人らしい。
 そしてその戦死者の列に、彼女もいたという。しかも彼女は、その肉体が消滅したらしい。詳しい経緯は知らない。ただ、わずかに遺髪だけが残ったという話だ。
「俺より、剣も魔法も達者だったんですけどね」
 軽く臍を噛む。それが悔しいからなのか、それとも別の感情からなのか、アーウィルには分からなかった。
「惚れてたのか? ウィル」
 その言葉に、アーウィルは一瞬目を見開いてから、どうでしょう、と首を傾げた。
「あれだけいい女でしたから、惹かれなかったといったらウソになると思うんですが。ただ、どっちかって言うと……」
 アーウィルは、月の銀色に照らされた外を見やる。
「旧友、というのが一番しっくり来たかもしれません」
 その言葉を、ヨハンがどう感じたのかは分からない。ただ、彼はアーウィルの頭を軽く小突くと「もう寝てろ」とだけ言うと、部屋を辞した。
 ここは士官用の部屋であるため、アーウィルの他に人はいない。
 窓から見える光景は、ちょうど銀月に照らされたトラキア大河の雄大な流れが見える。
「……じゃあな、アルフィリア」
 言葉にすると、ただそれだけ。
 そしてアーウィルは、疲労からくる睡魔に、再びその身を委ねていた。

 安らかな寝息を立て始めたリーフを見て、ナンナは胸をなで下ろした。
 戦いが、実質終了してからこっち、リーフは負傷者や各部隊の収容と休息場所の手配などを指示し続け、また、シャナンらとの会議もこなし、ようやく先ほど一段落し、眠りについたのである。
「まだ怪我が治りきってないのに……」
 開戦直後に重傷を負ったリーフは、まともに歩けるようになったのすらごく最近のことだ。しかしそれからこっち、激戦に次ぐ激戦、その上先の希望すら見出せない状況で、それでもリーフは兵士を鼓舞し続けた。たとえ神器を扱うことが出来なかろうと、リーフは間違いなくこのトラキアの指導者だということを、誰もが再確認した。
「陛下、お休みになられました?」
 控えの間に戻ったナンナは、予期した人物と予期した言葉に、小さく微笑みながら頷いた。
「ありがとう、ヴィア。貴女も疲れているでしょうに」
「いえ。私など、陛下や妃殿下に比べたら、どうということはございません」
 その女性――コノートの侍女であるサヴィヤヴァは、にっこりと笑むとティーカップの持ち手の位置を変え、すばやく椅子を引いてナンナが座るのを促す。
 サヴィヤヴァは平然としているが、実際には彼女も相当に疲労しているはずである。
 数ヶ月にわたる篭城戦で、コノートに住まう者は著しく消耗しており、中には立つことが出来ないものもいるほどだ。サヴィヤヴァに至っては、一度弟や自分が殺されかける、という経験すらしている。
 にもかかわらず、彼女は普段と――平和な時と――変わらぬ笑顔で仕えてくれている。それがどれだけ凄いことか、ナンナでも漠然と分かる。その心の強さと、人柄を信頼しているからこそ、彼女をセネル付きの侍女にしているのだが――。
「あら? セネルは?」
 確か先ほどまでこの部屋にいたはずだが。
「それが……」
 サヴィヤヴァはややばつが悪そうに、ソファを示した。ソファは、こちらに背を向けているため、こちら側からは誰もいないように見える。
「……寝てるの?」
「はい」
 サヴィヤヴァは少し困ったように頷いた。
「まあ、仕方ないわね。ディオンは?」
「ディオン殿下は、セリオ王子にお会いになられてから、お休みになられると」
「そうですか。ヴィア、セネルはいいわ。多分朝まで起きないでしょうし、貴女も休みなさい」
「はい、分かりました」
 サヴィヤヴァはそういいながら、お茶の道具をてきぱきとトレイに乗せる。
「ヴィア?」
「いつもの日課ですから。戦時中はともかく、平和になったのならやっておきたいんです」
 サヴィヤヴァはいつも、自分が仕事を上がる前に一通り客間を見て回る習慣がある。その時に、お茶を求められることが多いので、お茶をすぐ淹れられるように準備して回るのだ。
「ほどほどにね。もっとも、客間にいる人もほとんど寝ていると思うけど」
「はい。おやすみなさいませ、妃殿下」
「おやすみなさい、ヴィア」
 ナンナは扉の向こうに消えるサヴィヤヴァを見送った後、ゆっくり立ち上がってソファを見やった。そこにはセネルが、すやすやと眠り続けている。
 この戦いは確かに不幸ではあったが、少なくともセネルはこの戦いで大きく成長した、と思う。
 セネルの持つ可能性が開花した、と思うのは親ばかだろうか、と、ふとナンナは自問し、小さく笑った。
 外は静かで、迫り来る敵意を壁越しに感じることもない。こんな夜は数ヶ月ぶりだった。
「お休みなさい、セネル。よくがんばったわね」
 無論彼の資質が問われるのは、むしろこれからではあるのだが、きっとこの子なら乗り越えてくれる。この戦乱で大きく傷ついたトラキアを立て直すには、セネルの力も不可欠なのだ。
 すべてが終わったわけでは、もちろんない。
 だがそれでも、事態は終息する。そういう実感が、ナンナには――そして多くの将兵には――あった。

「眠れませんか?」
 こんこん、という音に続いての声に、ジーンは驚いて振り返った。開けっ放しだった扉の前に立っていたのは、コノートの侍女だろう。見た目、ちょっと年齢の分かりにくい――部屋が暗いせいもあるが――女性が立っている。
「まだ明かりがありましたので。よろしければお茶をお注ぎいたしましょうか?」
「あ、ああ……そうだな、頼む。ええと……」
「サヴィヤヴァです。でも、発音しづらいと思いますので、ヴィアとお呼び下さい」
 サヴィヤヴァと名乗った侍女はそういうと、手際よくティーカップを用意し、お茶を注ぐ。おそらく、夜起きてる人がお茶を飲みたくなった時のために、いつも見回っているのだろう。
「どうぞ。冷めないうちに」
「ありがとう、ヴィアさん」
 近くで見ると、意外に若い女性であることが分かる。あるいは自分の、半分くらいではないか。
 手際のよさはお茶の味にも反映されるのか、そのお茶は驚くほど美味しく感じられた。
「と、こちらが名乗っていなかったな。失礼。私はイザークのジーン・フェナーという。よろしく」
 後で考えてみれば、別に侍女に名乗る必要などなかったのだが、あるいはこの数ヶ月ぶりの静寂が、彼の感覚を狂わせていたのかもしれない。
「戦い、終わったんでしょうか」
 そのサヴィヤヴァの声には、わずかばかりの恐れがある。無理もないだろう。
 コノートの侍女ということは、この戦い――後に『黒の処断』と呼ばれる――の最初から激戦地にい続けたということになる。戦いに慣れた者ですら、辛い状況を、戦いに向いてるようにも思えないこの女性が、よく正気を保っていられたと思う。
 実際、コノート城に立てこもった者達の中には、精神を失調したままの者も少なくないという。
「終わった、とそう聞いているし……私もそう思う。無論まだ最大の敵が残っているはずなのだが……」
 それが一番奇妙だと、おそらく誰もが考えつつ、感じれない点だった。
 コノートの南には、巨大な暗黒竜がいる。ただ一撃で竜騎士団を壊滅させ、大陸各地に黒い魔力を降らせた暗黒竜がいる限り、戦いが終わることはない。あの絶大な力を持つ化物を倒さない限り、大陸に未来はない。そのはずなのだが。
 だが誰もが、戦いの終わりを感じている。それはあるいは、あの奇跡を目の当たりにしたからかもしれない。
 先ほど別れたシャナン王もまた、同様に感じていたという。
「終わってくれると、本当に嬉しいです。もうこんな戦いは……」
「どなたか、お身内が?」
 すると慌ててサヴィヤヴァは首を振った。
「いえ、そういう……わけではありませんが、ただ、一度コノート城内に敵が侵入したことがあって、その時に弟が殺されかけました。それに、その時助けてくださった傭兵の方は、この戦いで……」
 サヴィヤヴァは戦いが終わってすぐ、アルフィリアの無事を――あの後同じ女性であったこともあって仲良くなったのだ――確かめたのだ。だが、結果は。
「そうか」
 仲間や友が死ぬことを悲しいと思わないわけではないが、かつて聖戦にも参加していたジーンには慣れた感覚でもあった。
 人は簡単に死ぬ。そして、生き返ることはない。
 噂によれば、十二神器の一つ、聖杖バルキリーは死者の蘇生が出来るという話だが、一度シャナン王に聞いたところ、あれは死すべき運命でなかった者の道を正すための神器であり、また、本人に強い意志がなければ蘇ることもない、という。
 実際、かつての聖戦は分からないが、前継承者であるクロード神父は復活の奇跡を行ったことはないらしく、現継承者コープルは、ただ一度だけ、レンスターのフィンを蘇らせるために使ったという。それ以外に、成功の例はない。
「ただ、もう安心していいんだ、と思うと……あら?」
 サヴィヤヴァの声に、ジーンが顔を上げると、廊下を歩く足音が聞こえた。もっとも、よほど注意してなければ、毛足の長い絨毯の上を歩く足音が、聞こえるはずはない。さすがはこの城の侍女というところだろうが。
 もうすでに夜は暮れていて、平時であっても、あまり人が出歩く時間ではない。
 ましてここは、上級仕官や、奥に至っては他国の王族が寝泊りしているエリアである。
 奇妙さを感じて、ジーンは音を立てないように扉に近寄ると、ゆっくりと開けた。
 同時に。
「セリオ王子、いるんだろう!!」
 突然の怒鳴り声が、廊下に響き渡った。

「誰だ?」
 その怒鳴り声の主の前の扉が開いたとき、現れたのは彼の求める人物ではなかった。
「あんたは?」
「……私は見逃すが、相手によってはこの場で切り伏せられても仕方ないほどだな……トラキア王子、ディオンだ」
 その瞬間、その怒鳴り声の主――マズルは体が硬直した。
 ディオン王子といえば、この国の第一王子にして、王位継承権者の一人だ。
 そして今の言い回しは、どう説明しても礼儀を欠くこと甚だしい。
「誰かと思ったらマズル……だったかな。いいよ、入って」
「しかし……」
「いいって。それより、明日は頼むよ、ディオン」
「それは……承知してますが」
 一方、一度萎縮しかけたマズルは、室内の人物の声を聞いて、再び気を取り直し、ディオンが横にどいたその場に踏み出した。
 部屋の中にいたのは、セリオ一人。彼はソファに腰掛けていたが、マズルを見ると立ち上がった。
「久し振り……という言葉を交わしにきたというわけではなさそうだね」
「なんで……なんでアルフィリアを助けなかった!!」
 その言葉に、セリオは少しだけ驚いたように目を丸くし、ディオンもまた、その名前がここで出るとは思わなかったので、目を丸くする。
「お、おいマズルっ。落ち着けっ」
 マズルを追いかけてきたウルクが、ディオンに軽く会釈して、今にも殴りかかりそうな勢いのマズルの肩を掴んだ。そうしなければ、殴りかかるのではないかと思ったからだ。
「……そうか。最後まで君は……君らは同じ部隊だったわけか」
「何で助けないんだ。あんたなら、あれだけの力があるなら、人を生き返らせることだって出来るんじゃないのか!?」
 後で思い返してみれば、実はマズルは、それは出来ない、という答えを期待していたのだろうと思う。そうすることで、いかな奇跡の使い手であろうが、人の生き死にだけはどうしようもないものなのだ、と納得させたかっただけなのかもしれない。
 だが、その後のセリオの言葉は、マズルには――そしてディオンや気になって近くに来ていたジーンやサヴィヤヴァにも――予想していなかったものだった。
「確かに……出来ないとは言わない。だが、それはあってはならないことなんだ」
 マズルは文字通り頭が真っ白になった。
 今彼はなんと言った?
 出来ないとは言わない――つまり可能だ、と言ってのけたのか?
「なっ……じゃあっ」
「それはこのユグドラルにあるべき力ではない」
「ふざけるな!! だったら、俺たちが助かったのも、あの、光の雨もありえるわけが」
「ありえるよ。叔母上の使うナーガなら、大抵の相手は造作なく撃ち滅ぼす。そして、きわめて優秀な癒し手なら、死んでさえいなければたいていの傷は治癒させられる。君のように、腕を再生させることは出来ないとしても、だ」
 そういって、セリオはマズルの失われた腕を示す。
「……?」
「君の場合、その場に高レベルの癒し手がいれば助かる傷だった。だが、アルフィリアはもう死んでいた。死を覆すことは、あってはならない」
「あんたはアルフィリアの友人じゃなかったのか!?」
 その時、セリオの顔が翳ったのに、ディオンやウルク、ジーンらは気付いた。だがそれは一瞬のことで、すぐセリオは元の表情に戻っていた。
「ああ。だが、それとこれは別だ」
 感情を感じさせない、冷酷な声。
 かつて、バーハラで送り出してくれた時のセリオ王子の声とはまるで違う、感情をまるで感じさせない声。
「一人くらい助けてくれたって……」
「君は一人くらい、といった。では、そういいだす人間が百人現れたらどうする。千人現れたらどうする。この戦いの犠牲者は、彼女一人ではない。彼らの死を、すべて覆すことなど、あってはならないことだ」
 それが、最後の言葉だった。マズルの肩に、ディオンの手がかかる。
「下がるといい。それにこれ以上は、見過ごすのは難しい」
 ディオンの言葉を受けて、ウルクが肩を落としたマズルの手を引いて、退出する。後には、セリオとディオンだけが残された。
「セリオ王子……」
 ディオンは沈痛な面持ちのセリオを見やった。
 セリオとアルフィリアが友人であったのは、他ならぬアルフィリアから聞いている。セリオにとっても、死んで欲しくなかった友人の一人に違いないだろう。それは、彼女から聞いていたセリオとのやり取りからも分かる。
「ディオン……私を酷薄な人間だと、思うか?」
 セリオは振り返らず、窓の外の闇をただ見つめていた。
「私には……分かりません。私を含めて、人は、自分の持てる力の全てを費やしたところで、出来ることに限りがありますから。ただ……いえ。では私も失礼します」
 その先をディオンは続けなかった。それは、敬愛するグランベルの王子が、『人ではなくなった』ということを確認してしまうことになる気がしたからだ、というのは後で会話を切った理由を探して思い至った理由だった。
「やはり……私は冷酷なのかもしれないね……」
 ディオンが退室した後の、セリオの独り言は、夜の闇に吸い込まれるようにかき消えていた。




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