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どくん、と心臓が脈打つような音が響き渡った。 何者も見通せそうにない、完全な闇。だが、その闇の中にそこでうごめく者に、その闇を苦にしている者はいない。 いや、彼らは正確な意味では、すでに人間とはいえない存在であるかもしれない。 この戦乱が始まってから、すでに半年が経過しているが、彼らはその間、一度もこの闇の外に出てはいない。光もなく、水もなく、無論食事もなく。ただ彼らは、己が仕える『闇』に拝謁し、その力が高まるよう祈りを捧げるだけ。そこに個人の意思など存在しない。 その空間で、自己を保っているのは二人だけだった。 いや、正確には一人と一つの存在、というべきだろう。 一人は、その闇の中で、四肢を闇に絡め取られ、その意識すらすでに曖昧になっている少女。だがそれでも、彼女は他の人間たちに比べれば、まだ人間であるといえよう。 そして、もう一つ。 それこそが、闇そのもの。少女の前に浮く『黒の聖書』に封じられし存在。 いや、封じられている、というのは正しい言い回しではない。『彼』は、聖書に潜み続けていたのだ。己の力を、完全な形で取り戻すために。 そして今、それは果たされようとしている。 いや、かつてを遥かに超える力を、『彼』は得ていた。 己の肉体を失い、さらに解放されかけた直後に『依代』ごと封じられ、それでもなお、『彼』は自分の力を解放しうる存在を待った。『彼』はいつまででも待つつもりだった。人間ごときに『依代』は破壊できない。よって『彼』には無限の時間があったのだ。 だが、その機会は『彼』自身思いもしないほど早く訪れた。 その娘が何者であるかは、『彼』も知らない。ただ、その娘の『力』が、『彼』に絶大な力を与える。それだけは、『彼』に分かった。 そこで『彼』は自分と強い繋がりを求める者の求めに応じ、彼らに命じて娘の力を手に入れたのである。 そうして、『彼』は、幾代を重ねた、出来の悪い子孫たちとは比較にならない、それどころかかつてとも比較にならない力を得た。 そして『彼』は、今、最後の敵手の到来を感じていた。 何者であるかは分からない。だが、それが、この大陸における自分の最後の障害となる。 「来るがいい……汝を屠り、我は大陸全てを永劫に制する。そしてあの、竜たちをも従え、世界全てを制すであろう」 歓喜に身が震える。 もはや『彼』にかつての名前は意味がない。『彼』は、新たな神となる。 すでに、『彼』の、人であった頃の名は、もう『彼』には意味がない。 だが、あえて『彼』を固有名詞で呼ぶためには、やはりその名が適切だろう。 かつて『彼』が人であったころの名。ガレ、というその名を知らぬ者は、この大陸にはいない。 |
「半年振り……か」 ディオンはやや感慨深げに呟いた。 視界に広がるのは、左手を雄大なトラキア山脈、右手をトラキアの深い森に囲まれた、広大な平原である。このまま南に、平原にある街道沿いに行けば、馬ならば数日でマンスターの街に着く。北トラキアと南トラキアをつなぐ重要な街道であり、平時であれば、商品などの輸送のための行商や隊商の列が絶えることのない、賑やかな街道である。 だが、ここ半年、この街道を使う者は皆無だった。 その原因は―― 「この距離でもわずかに見えるとはね」 「ええ……しかし本当に、お一人で?」 ディオンの横にいる青い髪の青年――グランベル王子セリオは、ディオンの質問に無言で頷いた。 ただ一人で、あの闇と対峙する。セリオの決定は、無論ディオンも驚かせた。せめて護衛を連れて行くべきだ、と主張する者は多かったが、セリオはただ一言で、それらを全て断った。 「これ以上死者を増やすつもりはない」 それは言い換えれば、ついていったものは死ぬ、ということを意味している。 実際、あの力に直接晒されたディオンは良く分かる。あの力は、もはや人がどうこうできるものではない。いや、何をどうやっても、抗えるものではないのだ。 それに、セリオ王子はただ一人で立ち向かうという。どう考えても、死にに行くとしか思えない。 まともに考えて、いくら強大な力を誇るセリオでも、あの暗黒竜に立ち向かえるはずはない、と思う。だが一方で、セリオならば何とかなるのではないか、と感じているのだ。 そして、ディオンはまた、セリオがもしかしたらあの闇の正体を知っているのではないか、と感じていた。 それは、ディオンがあの竜に敗れた時に見た――。 「セリオ王子。もしかして貴方は、あの中にいる『少女』のことを、知っているんですか?」 この時ディオンは、滅多に驚くことのないセリオを驚かせる、ということに成功した。 セリオは唖然とし、ディオンに向き直った。 「……なぜ、それを?」 その言葉が、ディオンの推測が正しかったことを証明している。セリオも知っているのだ。あの暗黒の中にいる少女のことを。 「かつてあの竜に敗れた時に、ほんの一瞬だけ。その時の彼女の警告がなければ、多分私はまだ戦場に立ててないか、あるいは二度と立てなくなっていたかもしれません」 「……そうか」 セリオは、なぜか安心したような表情になる。 「ディオン。もしよければ、君にもその少女の味方になって欲しい。多分彼女は、今後多くの困難に立ち向かわなければならなくなる」 「セリオ王子は、あの少女のことを知ってるのですか?」 「知っている。でも、会ったことはない。そして、私が守らなければならない存在なんだ」 「それは一体……?」 グランベル王子である彼にそういわれる少女。一体それは、どういう存在なのか、ディオンにはさっぱり分からなかった。 「さて、と。ここまででいい。さすがに私も、どのくらい周囲に影響が出るかは読めないから。このくらいは離れておいて」 セリオの言葉が伝達され、軍列がとまる。 それを確認すると、セリオは迷わず単騎で馬を進め始めた。 今回、セリオと共に来た兵は、百人程度。軍の大半は、コノートに残っている。本当は、セリオは全軍コノートにいてくれていい、と言ったのだが、さすがにこれは各国の王らも了承しなかった。セリオに頼らざるを得ないからといって、最後の決戦に一兵も出さないというのはありえない、というのだ。 これに対しセリオは、途中までついてくることは認めます、と回答した。その限界が、この場所というわけである。 「セリオ王子」 ディオンの声に、セリオは一度立ち止まり、振り返る。 そこにいるのは、シャナン、セティらをはじめとした、各国の王や公主、将軍たちだ。 「じゃ、行ってくる。危ないと思ったら、逃げてください。コノートまでは被害は及ばないと思うから」 セリオはそういうと、まるで散歩にでも行くかのように歩き始めた。とても、これから戦いに赴くとは思えない。 「ご武運を」 誰となく、呟く。 「セリオ」 聞きなれた声に、セリオは手綱を引いて、馬を止め、振り返った。そこには、剣の師――シャナンと、そして誰よりもお互いを高めあってきた、友――フィオの姿がある。 「無事に戻って来い。お前とは絶対に決着をつけないとならないからな」 その言葉に、セリオははじめて表情を崩し、そして意地の悪そうな笑みを浮かべた。 「そうだなぁ。でも私としても、弟分に負けるわけにはいかないしなぁ」 「なっ……誰が弟分だっ!!」 「あれ? 違った? 私としては、もう何年もしないで、フィオが義弟になると思ってたんだけど」 「セリオっ、お前、何を……」 そういっても、フィオの狼狽振りが、逆にそのセリオの言葉が真実であることを示していた。 一方あたりからはむしろぎょっとしたような雰囲気がわく。 イザーク第一王子フィオと、グランベル第一王女シアの仲は、実はこの時点ではまだあまり知られていなかったのだ。本当はセリオも全く知らなかったのだが、さすがにシアがあれだけフィオのことを気にしているのを見れば、さすがに気付く。 ユグドラル最大の国家であるグランベルと、隆盛著しいイザークの王子と王女の婚姻となれば、その他の国々も無関心ではいられない問題だ。 実際、グランベルとイザークの結びつきは強い。 現グランベル王セリスが育った場所であり、ナーガの継承者であったユリアが嫁いだのもイザークだ。また、セリオ王子が幼少時代を過ごしたのもまた、イザークである。 そのセリオがイザークに滞在したことで、シア王女とフィオ王子も交際があったのは不思議ではないが、他国の人々のほとんどは、それをこの時まで知らなかった。 ただ同時に、これほど釣り合う組み合わせもない。 グランベル王女シアは、国民にも非常に人気が高く、活動的な姫として知られている。また、非常に整った容姿の持ち主でもあり、セリオと兄妹で並ぶと、それだけで絵になる、といわれていた。 そして何よりグランベルの王女、という肩書きは、それだけで十分に魅力的なものだ。 シア王女は今年まもなく十七歳になる。実際そろそろ、彼女と結婚して、将来的にグランベルの重鎮になろうと考える国内貴族、あるいはグランベルとの結びつきを強めようと考える他国の貴族などは少なくなかったが、セリオはある意味、彼らの希望を一瞬で打ち砕いてしまった。 イザーク王子以上に相応しい結婚相手など、そうそう存在しない。 ましてフィオは、この戦いにおいて、戦士として剣聖と謳われる父にも劣らぬほどの実力を示し、また、軍を率いての才も卓越したものがあることを示した。政務については、すでに国内で父を手伝っていることは知られている。後継者としては申し分ない。 仕官学校時代は、さして目立つ力を示さなかったがゆえに、フィオはむしろ文官向きだと思われていたほど――セリオなどから言わせれば、何をどうやったら彼が文官になるんだ、となるが――で、むしろ凡庸な王子だと思われていたのだが、人々はそれが大きな誤りであることをこの戦いで知ったわけである。 しかも、セリオと決着がつかない、というのもまた、彼の実力を現していた。 公には知られていないが、セリオの剣の実力は、父セリスを遥かに凌ぐほどである、とされ、実はフィオではなくセリオが剣聖を継ぐ、とまで云われていたほどなのだ。 「とりあえず、フィオとシアを同時にからかえるチャンスをなくすつもりはないから、ちゃんと帰ってくるさ」 「……分かった、行って来い、セリオ」 セリオは「うん」とだけいうと、馬首を返し、そしてもう振り返ることもなく馬の歩みを速めた。 彼の向かう先。馬で駆けても数刻はかかろうかという距離に、はっきりと見える巨大な闇があった。その大きさは、おそらくコノート城をも凌駕する。竜騎士団を壊滅させ、大陸各地に甚大な被害を出した、暗黒竜――。 |
「本当に一人でいくとはなぁ」 その後姿を見ていたオルヴァスは、半ば以上呆れて呟いた。 この場にいるフリージの将兵は彼と、公女たるシャリンのみ。他は全員、まだ回復していないか、さもなくば激務で倒れた。 本当は彼も休みたいのが本音なのだが、シャリン公女がセリオ王子に同行すると言って聞かず、実際フリージ公女が途中までとはいえ同行しない、というのはありえない。そして、公女がただ一人で赴くのもありえない、ということでオルヴァスが護衛もかねて同行することになったのだ。 「セリオ様なら大丈夫、と思ってるけど……」 オルヴァスの横で、シャリンが不安そうな表情を浮かべていた。 楽観視は出来ない。 いくらナーガとティルフィングの継承者とはいえ、無謀が過ぎる。この距離でなお感じられる暗黒竜の威圧感は、もはや個人でどうにかできるレベルではない。それはオルヴァスにも分かる。 だが、そう思う一方で、あの『光の雨』の奇跡を、本当にあの王子が起こしたのであれば、あるいは、と思う気持ちがある。 「文字通り、人知を超えた領域ですからね。いや、俺からしてみたら、公女たちも十分人外なんですが」 その言葉に、シャリンが怪訝な、そしてどこか呆れたような表情になる。 「オルヴァス……貴方、また言葉遣いがぞんざいになってない? 私は一応、貴方の主君になるわけなんだけど?」 するとオルヴァスは、人の悪そうな笑みを浮かべた。 「いや、申し訳ない。なんせいきなり将軍なんてのにされたもので、どう振舞ったらいいか分からなくて」 狭量な主君ならこれだけで十分降格モノだが、シャリンはそこまで心が狭くはないし、それに、オルヴァスの性格もこの戦いを通して分かっていた。 「ふぅ。じゃあせいぜい、私以外の前では猫かぶりのやり方を思い出すのね」 「公女の前ではよろしいので?」 「私だけならいいわよ。そしたら私も、猫かぶらなくてすむし」 「…………」 信頼の証なのかもしれないが、それだけですまない気がするのはきっと気のせいではない。 ただ。 公女のこの気持ちよさは、これからのフリージにとって、とてもいい影響があるのではないか、という気がする。 これまで、傍系の、それも養女の継承者であったが、この戦いで彼女はフリージ将兵の信頼を掴んでいた。無論自分も、その一人だ。 「あ、そうそう。どうせならクレオをもう少しくだけさせてくれない? 貴方が将軍職に就いちゃう以上、今回の功績や性別まで考えると、彼女が第一席ってことになるんだけど、ほら、彼女固いところあるから」 「……それをなぜ俺に? 俺は親衛隊から外れるから、もう彼女と接点はなくなりますが」 「え? 貴方とクレオ、付き合ってるんじゃないの?」 欠片も予想してなかった言葉に、オルヴァスは思わず咳き込み、馬の鬣に突っ伏した。 「あれ? 違った? じゃ、今から考えたら?」 あっさりとそういう公女の顔は、確かに十四歳――もうすぐ十五歳――の少女のものだった。 そしてどこかで、彼らはこの戦いの終息を予感していたのかもしれない。この時、彼らの感じている雰囲気は、すでに戦いの場にあるものではなくなっていたのだから。 |
「このあたりなら、もういいか」 振り返ると、かろうじてまだ軍勢がいることは見えるが、個人の識別は不可能なほど距離があった。しかしまだ、暗黒竜までの距離の四分の一も来ていない。これでは、たどり着くのに一日かかってしまうが、セリオにそこまで時間をかけるつもりはなかった。 「お前も、どこか安全なところに行きなさい」 そう言って、馬の首を軽くたたく。 その言葉が分かったのか、ここまでセリオを乗せてきた馬は、馬首を翻して、丘の影に消える。 「さて、と」 呪文もなく、さしたる集中すらすることなく、セリオの体はふわり、と宙に浮いた。 風のフォルセティの使い手は、風を纏うことで空を舞うことを可能にするというが、セリオのそれは風の力によるものではない。 「待たせたな、ロプトウス――いや、ガレ」 刹那、セリオの体が霞む。次の瞬間、セリオの姿は、暗黒竜の正面にあった。地上までの距離は、城の尖塔を遥かに凌ぐ。そこに、セリオは浮いていた。 ぐおおおおおおおおおお。 竜が吼える。その嘶きは、それだけで人を萎縮させ、さらには精神を挫く力がある。 「そんなこけ脅しが効くと思ったのか」 なおも竜は嘶き、そしてその巨大な首をもたげた。その顎が開かれる。直後、濁流の様な闇が放たれた。 |
「竜が!!」 暗黒竜の動きは、無論ディオンやフィオら、セリオを見送った者達からも見えていた。 直後、猛烈な不快感を伴った衝撃が、彼らをなめる。 それは、ディオンにとっては忘れようのない衝撃。あの、この戦いの最初に、あの竜に敗れた時に感じた恐怖が、蘇る。 これからさぞすさまじい戦いが――と、誰もが思ったその瞬間。 竜は、突如形を失った。そして次の瞬間、完全な球体となってしまっていた。 しかし、その大きさは先ほどとは比較にならない。球体の直径は、トラキア山脈の険峻な頂の高さをも凌ぐほどだったのである。 |
「これがお前の世界か」 一条の光も射さない、完全な闇。まともな人間ならば、おそらくわずかな時間で方向感覚はもちろん、平衡感覚すら失うであろう。そして、ほとんど時をおかず、発狂する。 それは、暗闇のもたらす恐怖だけではない。この空間には、ありとあらゆる負の感情が渦巻いているのだ。 「悪趣味だな、ガレ」 その瞬間、視界が変わった。といっても、見た目は目の前に闇があるだけだ。 だがセリオは、その闇の向こうにはっきりと、敵と、そしてもう一人の存在を認識していた。 (貴様か。我に逆らう愚か者は) 音ではない声が響く。 それは、それだけで強力な呪詛に等しい魔力を備えていた。 だがセリオは、全く動じる様子も見せない。 「彼女を放せ。彼女は、闇に属する存在ではない」 だが、闇の向こうからは、嘲笑するかのような揺らぎが感じられる。 「愚かな。なるほど、確かに貴様の力は強大だ。だがそれでも、我が力の前では無力だ」 闇はじわじわとその濃度を増す。だがそれでも、一定以上の距離から、セリオに近づくことは出来ない。 「ぬ……そうか。聖剣とナーガの守りか」 聖剣ティルフィングと光のナーガは、共に魔法に対して極限の防御能力を持つとされる。セリオは現在、その二つを持ってきているのだ。 「おのれ……ならば……」 「う……あ……」 ガレは、更なる闇でセリオを包み込もうと、力を高める。その、高められた力を受けて、かすかに苦悶の声が響いた。 「無駄な力を使うな」 セリオはそういうと、なんと聖剣とナーガの魔道書を放り投げた。軽く十数歩の距離を放り出され、剣と魔道書は闇の中に消える。 「なに?」 「私を闇で包みたければ好きにしろ。だが、彼女をこれ以上苦しめるな」 その瞬間、ガレは笑った。 無論彼は、すでに人としての形を失っており、『笑う』という行為は出来ない。だがそれでも、ガレは自分が笑っていると思えた。少なくとも、それほどにおかしいと思ったのである。 「愚かなやつよ。貴様、その身を我に差し出しに来たというのか」 「それが望みなら好きにするがいい。だが、彼女は解放しろ」 ガレがどう応じたのかは分からない。だが、セリオの周囲の闇は、さらに濃くなった。 「よかろう……望みどおり、貴様を闇に染めてやろう。そして、我の傀儡(くぐつ)として、新たな神の尖兵としてくれよう」 「だ……め……」 かすかに、声が聞こえた。その言葉に、セリオはむしろ微笑んだ。 「遅くなったね……もう大丈夫。これで、全てが終わるから」 同時に、闇が歓喜と共にセリオを完全に包み込んだ。瞬く間に、セリオの身体を、闇が侵す。 すでにこの王子の意識は、失われた。闇に同化して意識を保てる存在はいない。いるとしたら……。 「自身が闇である場合のみ、だろう?」 ガレの思惑を読み取ったかのような言葉に、ガレは、人間であった頃のように驚いた。 いや、正確には理解できない、と感じた。 ありえない。 いかに光の王子といえど、ナーガもティルフィングもその手にはなく、しかも闇は完全にその身体を侵食しているはずだ。 「……ようやく、掴んだ」 ざわり、という不快感をガレは感じた。すでに感覚などなくなって久しいにも関わらず、その感覚は確かに感じられた。 直後、闇がまるで何かを畏れるように弾けて、四散する。そこには、変わらぬセリオの姿と―― 「バカな。なぜ、ロプトウスの魔道書が……」 セリオの手には、ロプトウスの魔道書が握られていたのである。 「おかしなことではあるまい? 神器と継承者は引かれあう。かつての聖戦でも、結果的に全ての神器が継承者の手にあったのは、決して偶然ではない」 「な……まさか、貴様は……」 セリオは、服の襟の止め具を外す。なかば引きちぎられるように胸元が露出し、そしてそこにガレにとっては間違えようのない痣があった。 「それは、ロプトウスの聖痕!!」 セリオの胸の中心、心臓よりやや高い位置に、それはあった。普段は隠されているその聖痕は、間違いなくロプトウスの聖痕である。 十二年前、ナーガの継承に失敗したセリオに顕れた、第三の聖痕。この存在を知るのは、両親と、シャナンのみ――シアもこの戦いの前に知ることになったが――だ。 実際、セリスはセリオを殺すべきではないかと考えたこともあったという。 ロプトウスの継承者は、伝承にある限り、ただ一人の例外もなく、残虐な性癖を持っている。どんなに息子を信じたくても、実際にユリウスと戦ったセリスには、セリオが歴代のロプトウスの継承者のように邪悪にならない、という保証はもちろん出来なかった。 加えてセリオは、その時点ですでに継承者数人を圧倒するほどの力の持ち主だったのである。もしこれで、ロプトウスの継承者として覚醒することがあれば、ユグドラル史上最悪の魔王を誕生させてしまうことになる。 だがそれでも、セリスはセリオを殺さなかった。実際、ユリウスの例からも、ロプトウスの魔道書を手に取らない限り、本人の性格が豹変することはないだろう、という希望的観測もあった。 だから今回、ロプトウスの魔道書が奪われた時、セリスは真っ先にセリオを疑ったのである。 そして、セリオが出陣するにあたっても、実はセリスはかなり迷ったのだ。 セリオの出陣を許した理由の一つには、このままでもいずれ大陸は闇に覆われる、ならば対抗しうる可能性を持つセリオに、全てを託そう、というのもあったのだ。 そしてセリオもまた、父の考えは分かっていた。だが同時に、それが杞憂で終わることもまた、分かっていた。 「お前が……歴代の継承者に宿っていたのだろう。この魔道書を介して」 魔道書を握るセリオの手に、力がこもる。 「何を……する気だ!! よせ!! 貴様は継承者ではないのか!!」 ガレは動転していた。 そもそも、ありえるはずがない。光の継承者と闇の継承者が同じ存在であることなど、あろうはずはない。ナーガの光は、ロプトウス(自分)にとって最大の弱みであり、天敵だ。ロプトウスの力は、ナーガには及ばない。それは分かっている。だからこそガレは、ナーガを超える力を発現するための媒介としての少女――ティアを手に入れたのだ。 「そうだ。だからこそ、ここで全てを終わらせる」 ピシ、という音が響いた。ガレの気配が、苦悶に染まる。 「やめ……ろ……」 ピシピシピシ、とさらに亀裂が広がる。決して砕けることのないはずの、ロプトウスの魔道書の、黒き宝珠が。 「なぜ……神の器を……貴様は……」 意識が混濁する。ガレはすでに、その意識が拡散しつつあった。 ロプトウスの魔道書という『核』を失えば、思念体でしかないガレは継承者――自分の血と力をもっとも色濃く受け継ぐ人間――に宿らなければ生きていけない。だが、その継承者は、あろうことかガレが近づくことすら許さない、強大な光の力を放っているのだ。 「これで終わりだ、ガレ」 パキン、と。ガラス細工が硬い床に落ちて砕けたような音が響いた。 断末魔の絶叫も、呪詛もなく。突然、闇が消えた。 まるで最初からそこになかったかのように。 空は青く、太陽が眩しく輝いている。 それは、闇に囚われていたティアにとって、およそ半年振りの光であった。 |
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光皇の裁き > |
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