前へ


それぞれの明日




 乾いた風が、少年の頬をなでた。
 懐かしい、と感慨に耽るほど離れていたわけではない。せいぜい、一年かそのくらいだ。
 大体、グランベル北辺のこの漁村に、懐かしさを覚えさせるものなどないはずだが、それでもやはり懐かしい、と感じた。それは、この村を出てからの経験が、それまで生きてきた全てを上塗りするほどのものだったからかもしれない。
 海からの風は、かつて毎日感じていたにも関わらず、少年に清涼な気持ちを吹き込むかのようだった。その風にたなびいて、服の左の袖が風に遊ばれる。その感覚に、失ったものの存在を、少年は感じずにはいられなかった。

 グランベル王セリス、イザーク王シャナン、トラキア王リーフ、アグストリア王アレス、シレジア王セティ、ヴェルダン王ファバルそれぞれの名で、この一連の、暗黒教団の乱――この時を以って正式に『黒の処断』と名付けられた――の鎮圧が宣言されたのは、グラン暦八〇〇年まで一月あまりとなった、もう冬の気配が色濃く大地を染め始めた季節だった。
 そしてこの戦いにおいて、黒の聖書――ロプトウスの魔道書が、かつて砕くことが出来ずにバーハラ家で厳重に封印されていたこと、その魔道書そのものが今回の一連の首謀者であること、そしてそれがグランベル王子セリオの手によって砕かれたことが発表された。
 また、この一連の争乱において、現存するロプト教団は無関係であることも明言され、彼らに対して不当な扱いをすることのないように、とも併せて発表されている。
 これにより、『黒の処断』は完全に終了し、人々は新年を迎えるための準備に勤しむことになった。
 とはいえ、半年以上にわたって続いた争乱の傷跡は決して浅いものではなく、地域によっては――主にトラキア地方中部と王都コノート――は果たして新年を迎えられるのか、という不安が多かった。
 これに対して力を発揮したのは、国王や大臣たちではなく、その子らであった。
 トラキア王子ディオン、セネルは言うに及ばず、国土自体の被害は比較的少なかった、あるいは皆無であったシレジアやイザークの王子王女、あるいは大臣の子らは、積極的に自国の余剰物資を被害の大きかった地域に送ることを提案し、また併せて効率の良い復興計画を非公式ながら提出した者もいるという。
 また、この争乱に参加し、生き残った傭兵には十分な報酬が支払われ、希望した場合に軍への編入も認められるケースもあった。
 最も被害の深刻だったトラキアで、ようやく新年祭の目処がたったのは、新年まで十日もない、すでに冬至節に入った季節。
 そしてその日、トラキアは今年最後の雪が、空から舞い降りていた。

「長く職を空けたこと、まことに申し訳ありません。本来であれば職を辞し、自らの……」
「あー、いいからいいから。私はクレオを信頼してる。残って欲しかったから、休職扱いにしたの。じゃ、親衛隊長の職よろしくね」
「は、はあ……」
 これでも親衛隊長の任命式である。  この上なく適当だが、場所はフリージ城の公女執務室だ。
 公式には、シャリン公女は『黒の処断』前までは公職が存在しなかった。そのため、彼女自身は軍籍もなく親衛隊がその職分として、彼女の護衛として存在するのみだった。
 しかし『黒の処断』以後、甚大な被害を受けたゲルプリッターの再建を手始めに彼女は養父を手伝うようになり、また、フリージの将兵も、彼女を自らの主として認めるようになっていた。そのため、シャリンはフリージ公の後継者としてだけでなく、フリージ公国軍の元帥に就任したのである。
 通常、フリージ公国軍の場合は四人いる将軍が最高職だ。その上にフリージ公がいるのだが、実際にフリージ公が自ら指揮を執ることは稀であり、通常は四将軍の筆頭である大将軍が軍を統括する。四将軍とは、全軍を統括する大将軍、近衛軍を統括する近衛将軍、魔道士部隊を統括する魔道将軍、ゲルプリッターを統括する騎士将軍だ。騎士以外の将兵は全て大将軍が統括する。基本的にこの四将軍の地位が空くことはない。
 対して元帥は、通常は存在しない特別職である。
 その権限は、公爵の名代としてフリージ全軍の指揮・統括すること。基本的に公家の中で、フリージ公以外に武に優れた者がいる場合にのみ置かれる役職である。シャリンはそれに就任したのだ。ちなみに先代のフリージ公国軍元帥は、あの『雷神』イシュタルである。
 その彼女の管轄として、公家の身辺警護を行う親衛隊の人事も、彼女の手に委ねられた。そしてシャリンは『黒の処断』で功績のあったクレオ・ウィエを復職後に親衛隊の隊長に任じたのである。
 親衛隊は百人程度の騎士で構成されるフリージ公家を守護する近衛軍の一部隊であり、また騎士の花形でもある。クレオは元々ここに属していたが、今回その隊長へと抜擢されたのだ。しかし、二ヶ月以上に渡って怪我のため療養していたあとの抜擢であり、事前に何も聞いていなかったため、クレオはあっけに取られていた。
「貴方の直接の上司は近衛将軍になるから、あとで挨拶しといて。そっちも一ヶ月前に着任したばかりだから、新人同士頑張ってね」
 近衛将軍は、元帥がいる場合はその補佐も行う。元帥自身が処理する事態は極めて稀であり、実務レベルは近衛将軍でほとんど処理される。言い方を変えるなら、雑務を押し付けられる役、とも言う。
 それにしても、とクレオは少し違和感を覚えた。微妙に、シャリンの口調が踊っているように聞こえたのは気のせいだろうか?
 しかしその違和感が形をとる前に、執務室の扉がノックされた。
「いいタイミングね、どうぞ」
 相手が名乗る前のシャリンはさっさと入るように促す。
「シャリン公女。親衛隊の入隊候補者のリストアップですが……おお、クレオ。ようやく復職したか」
「オルヴァス殿」
 確か一ヶ月くらい前に一度だけ見舞いに来てくれたっきりだから、実に一ヶ月ぶりになる。かつての同僚ではあるが、自分が新鋭隊長なんてものになった以上、自分以上の戦功があったはずの彼が親衛隊に留まっているとは思えない……と考えてから、クレオはオルヴァスの服にある徽章に気が付いた。
「近衛将軍……閣下?」
「そ。ああオルヴァ。後の親衛隊関連は……」
「そりゃあもちろん。復職した以上、ちゃっちゃっと片付けてもらおうか」
 オルヴァスは言うなりいきなり、手にあった書類の束をクレオに押し付けた。
「こ、これは……」
「親衛隊の入隊候補者リスト。ただし全くの未整理」
「え?」
「ほら、親衛隊、『黒の処断』でかなりの人が戦死または除隊したからね。補充しないとならないのよ。で、ゲルプリッターや魔道兵団から候補者を提出するように、ってね」
 親衛隊は軍内部では人気のある部隊だが、実は近衛将軍以外の将軍職からは敬遠されている部隊でもある。というのも、親衛隊はいざという時は軍全体よりフリージ公家の守護を優先する部隊であり、指揮権もフリージ公家が優先される。その上、一定以上の実力の者でない限りは所属できない規定があるので、各軍とも、自分の部隊の優秀な騎士を親衛隊に出すのは抵抗することが多い。
 かくいうクレオにしたところで、元はゲルプリッターの小隊長だったのを抜擢されたのだが、実際には厄介払いという面もある。女子でも戦うことが珍しくないとはいえ、反発を覚える者は少なくはなかったのだ。
 ゆえに、親衛隊は定数百人とあるが、実際にこの数が揃うことは稀である。欠員が出ても補充されないことが珍しくないのだ。
 ところが、今渡された入隊候補者リストは、優に二百人分以上ある。
「こ、この数は一体……」
「さあ? なんだかどこも熱心に親衛隊に人を送りたいみたいよ?」
 クレオもこの時は知らなかったが、これが元帥効果というものだったらしい。
 元帥という制度はグランベル六公国いずれにも存在するのだが、元帥に就任するのはいずれも公家直系か、または本家に近い者だ。それは当然親衛隊の護るべき対象でもあるのだが、同時に元帥は全軍の総指揮権を持つ。当然、人事権もだ。元帥より上位の権限を持つのは、公爵ただ一人でなのであるが、その公爵とて、通常は軍部への人事権に直接干渉はできない。その例外が元帥なのである。
 そして、その元帥に一番近い位置にいるのは四将軍だが、次いで近いのが親衛隊なのだ。
 ゆえに親衛隊で元帥自身によって認められれば、それはそれに連なる元の部隊への評価にも繋がる、ということだ。
 この事実にクレオは半ば呆れ、そして同時にこの後に起きるであろう事に頭を痛めたが、それは後のことである。
「ま、なんにせよお前さんの初仕事だ。頑張れや」
「ちょ、ちょっと待ってください。親衛隊は近衛将軍の管轄。最終的な決定権は貴方にあるはずです」
「あ〜、そか。じゃ、近衛将軍として命じる。親衛隊の新隊士の選抜に関して、全権限をクレオ親衛隊長に委ねる。よって、俺のとこには証印を捺した任命書を持ってくるように」
「なっ……!!」
「以上だ。では元帥閣下。自分はこれで」
 言うが早いか、オルヴァスは身を翻して部屋を出た。止める間は、なかった。
「あの……閣下、いいんですか、あれで……」
「戦功考えたら、凄く妥当な人事よ、貴女も、彼も。それに私は、あのくらいのがちょうどいいもの」
 クレオは頭を抱えた。考えてみたら、シャリン公女の性格だと、オルヴァスはさぞ『馬が合う』だろう。とすれば、むしろオルヴァスに関する限り、この人事は確信犯だ。
「んじゃ、お仕事頑張ってね。オルヴァスの性格はいまさらでしょうし。それこそ、四六時中張り付いて矯正しないと、あれは治らないわよ?」
「しろくじ……って、なぜ私が!!」
 シャリンはただくすくすと笑っていた。
 クレオが、その意味を改めて吟味し、顔を(怒りかあるいは別の感情かで)真っ赤にしたのは、部屋を辞してすぐのことであった。

 草原独特の、乾いた風が頬を撫でた。
 この風を感じるたびに、ジーンは生きていることを実感する。
 あの『黒の処断』と名付けられた戦乱。それは、期間こそ短かったものの、その熾烈さはかつての聖戦にも劣らないのでは、とも思えた。
 特に最後の戦いは、もはや想像を超えていた。
 かつて戦った帝国は、それでもまだ相手が人間であったが、今回は異形の怪物としか表現できない存在が相手だったのだ。
 よく生き残れた、と思う。剣を取って以来、幾度となく死線を踏み越えずにこらえてきたが、今回は正直踏み越えきったという気がしてならない。『死線を越える』というのはこういうことなのだろうか。
 戦いに勝ったという自覚はない。もはや死以外の結末はない、と覚悟した瞬間、唐突に戦いが終わった。
 それが正直な感想だった。
 だからかもしれない。『生』の実感がなかったのは。
 だがそれも、イザークに入るまでだった。慣れ親しんだ、イザークの風。それを感じると、今自分が確かにイザークにいると実感できる。生きて、風を感じていると分かる。
 見慣れたイザークの平原と、簡素で素朴な家々の並ぶイザークの街並が、この上なく愛しく思えた。
「死に損なった、か?」
 突然声をかけられて、帰郷に心満たしていたジーンは、やや驚いたように顔を巡らせた。そこにいるのは、剣聖王シャナンと、そしてこの戦いにおいて、父と同じく『剣聖』と呼ばれるに至ったフィオ王子だ。
「いや……生き延びました、というところですね。私もどうやら、悪運が強いようです」
 その言葉に、シャナンは満足したのか、再び前を向いた。
 その先にあるのは、イザークの街。イザーク王国の街としては珍しく、城壁を持つ都市だが、今その城門の前には、多くの兵が整列し、王の帰りを待っていた。
 兵列の後ろにいるのは、遠征に赴いていた兵たちの、家族たちだ。
 そして、その列の最奥にいるのは、金色の髪の女性と、黒髪の少女。イザーク王妃パティと、王女フェイアである。
「どうにか終わったよ、パティ」
 シャナンのその言葉に、パティとフェイアが破顔する。
「お疲れ様でした、シャナン様、フィオ」
 その言葉を合図にしたように、兵たちの歓声が上がる。そして、兵列が崩れ、家族たちと、無事に帰国できた者たちの再会の喜びが、溢れていた。
 そんな中、ジーンは一人、その光景を見ていた。
 その光景を見ているだけで幸せだと思う反面、このように出迎えてくれる者がいないことに、一抹の寂しさを覚えなくもない。
「ジーン、よく戻ってきましたね」
 なので、突然そう声をかけられた時、一瞬それが自分のことだと分からなかった。
 しかもそこに立っていたのは、フェイア王女だったのだ。
「フェイア様……」
「よくぞ、父や兄を助けてくださいました。礼を言います」
「……いえ、私ごときの力でどうにかなったとは。ですが、お言葉、嬉しく思います」
 ジーンは深々と頭を下げた。
 そうした時、ジーンは唐突に戦いが終わったことを実感した。懐かしい、と表現するに足るイザークの地に帰ってきたのだと、心底思えたのである。
「生きて帰って、きたんだな……」

 全軍、といってもアグストリアの兵のうち、コノートで戦っていたのはわずか百人。そして、生きて帰れたのは、半分の五十人あまり。比率で言えば甚大な被害であるともいえるが、これでも少数であるがゆえに被害は小さかったといえば小さかったし、あの激戦を考えると、被害は小さかったといってよい。そして被害が小さかったのは、指揮をしていたベルディオ公子と、実際に陣頭に立ったセフィア公女の功績によるところが大きい。
 アグストリアは、といえば、倒れたアレス王に代わって、王子であるアルセイドが十分すぎるほどにその代役を務めていたという。異形の怪物はコノート周辺以外にも多く発生しており、アグストリアも例外ではなかったのだが、アグストリアの被害は極小といっていいものだった。
「ただいま戻りました、父上、母上」
 王都アグスティの凱旋を迎えてくれたのは、傷が癒えたアレス王、アルセイド王子、王妃リーン、ノディオン公とその妻である。
「よく戻った。途方もない激戦であったと聞いている。本当に、よく生きて戻ってくれた」
 カールの記憶する限り、出征時のアレス王の容態は、文字通り生死の境を彷徨う状態だったはずだ。だが今、自分たちを迎えてくれる王は威厳に溢れ、不安なものを一切感じさせない。
 ほぼ型どおりの国王の言葉の後、帰還を祝うパーティが催された。主役は無論、ベルディオ公子とセフィア公女だが、生き残った遠征部隊の者たちもまた、多くが話題の中心にある。
 無論カールも、その一人であり、多くの貴族やその子女から少なからぬ賛辞を受けた。
「……ふぅ、疲れる……な」
 どうにか人が途切れたタイミングを見計らって、カールはバルコニーへ出た。
 時刻はもう夜で、わずかに酒に上気した体には、秋が近づきつつある夜気が心地よい。
 さして裕福でもない貴族の三男であるカールは、自力で将来を切り開く必要があった。ある意味では、それは今回の勲功でかなったともいえる。
 苛烈な戦を生き残った勇敢な騎士として、勲章を授与されることも決まっている。おそらくこの先、軍人として、騎士としては比較的明るい未来が約束されているだろう。実際、これまでの自分では見向きもされなかった女性が、今は自分に好意的に話しかけてくれている。
 ただ。
 それは自分が勇敢だったから、というのは無論あるだろう。
 だがそれ以上に、生きて帰れなかった仲間たちの命を盾にしてきた、という認識があるのも、否めない。
 実際、確率半分――ベルディオ公子とセフィア公女がいなければもっと低かっただろう――博打に当たったようなものだ。
 完全に死を覚悟した最後に、突然助かった――無論あの奇跡については説明されていたが納得できるものではなかった――から、達成感が低いからなのか、カールは今の状況を素直に喜ぶことは出来なかった。
「結局僕は――」
「あら。今日の主役の一人が、こんなところで何を黄昏ているの?」
 突然の言葉に、カールは驚いて振り返った。立っていたのは、夜の闇にも鮮やかな、金色の髪を持つ女性。
「で、殿下。いえ、自分は少し酔いを醒ましていただけで……殿下こそ、お一人でどうされたのです」
「みんなのところ回ってるの。いい加減、美辞麗句に飽きたしね」
 要は多くの貴族の子弟から逃げてきた、ということらしい。
 ただでさえセフィア公女はその美貌と、ノディオン公女という立場ゆえに、それこそ十歳ぐらいの頃から婚約者は後を絶たなかったらしい。現在は十五歳。来年には、バーハラの士官学校へ入学が決まっているとのことだが(この事件後にすんなり学校が継続してるかは分からないが)学校でもさぞ騒ぎになることだろう。
「で、カールはこの先どうするの?」
 突然聞かれて、カールは目を白黒させた。
「どう……とは」
「そのままよ。貴方は確か貴族の三男と聞いたけど、今回の功績なら、どっか、後継者に恵まれなかった貴族が婿や養子に、なんて話は結構来るんじゃない?」
 さすがにそんなことはまるで考えていなかったので、カールは驚いて言葉に詰まる。
 ただ、確かにその通りだろう。
 後継者に悩む貴族が、他家の子弟を婿や養子に迎えることは、珍しくない。ましてそれが、勲功を挙げた者となれば、なおさらだ。
「……考えてなかったですけど、そういえばそうなのか。しかし、まだ分かりませんよ」
 そう言ってから、ふとカールはホールの音楽が変わったのに気がついた。
「どうです、殿下。私と一曲」
 その申し出は予想していなかったらしく、セフィアはしばらくきょとんとした後、カールの手を取った。
「いいわ。でも、下手だったら放り出すますよ」
「努力いたします、殿下」

 騒がしい酒場の喧騒が、ひどく懐かしく感じられた。
 かつてはこの喧噪に疎ましさを感じたこともあるが、いざ戻ってくると、やはりここが自分の居場所なのだと実感できる。
 思えば半年前、ほとんど騙されるようにドズル公子ヨハンに雇われ、大陸全土を巻き込んだともされる『黒の処断』の最前線に放り込まれた。戻ってきてから聞いた話では、実際大陸のどこも相当な激戦があったらしく、その意味ではどこにいたって同じだっただろう。
 仲間もかなり稼いだと聞いたが、アーウィルも実際のところ、おそらく彼らの誰よりも報酬はもらっている。正直、向こう三年くらいは仕事をしなくても食べていけるくらいは、ある。
「しばらく休むものいいかもなぁ……」
 仕事は実際のところ、多い。
 この戦乱の影響で治安が悪化している上に、それらを取り締まるための軍や自警団の機能は各地で大幅に低下中だ。どの村も、傭兵を雇いたいと思っている。
 だがその一方で、この戦乱の影響で今年の収穫はかなり深刻な打撃を受けているらしい。つまり村の収入も少なく、あまり大きな報酬は期待できない、ということである。
 この辺りの事情は国も分かっているらしく、正規軍を補助するための傭兵の雇い入れの口も、結構多い。それはこのドズルでも例外ではなかった。
 ただ、アーウィルは今無理して仕事をやらなくていいだけの貯えがあるなら、のんびりしたい、というのが本音だった。それは、戦友を――それももしかしたら特別な感情を抱いていたかもしれない相手を――失ったことにも起因しているのかもしれない。
 だからか、とにかくのんびりしたいと思った。どこに空虚さを感じるこの心を癒せるのなら。
 ゆえに、今いる酒場も、以前と同じドズルの公都にある店には違いないが、別の店である。
 出来るだけ、知り合いに合いたくない、というのもある。ただ実は、ほかにも理由がある。
 仕事の契約が切れてすぐ、アーウィルは半ばヨハンの元を逃げ出すように軍を後にしたのだ。
 それは、明らかにヨハンにこの後も自分を使い倒そう――言葉通りの意味で――という気配を感じることが出来たからだ。
 同じ街とはいえ、以前いた酒場とはまるで逆。知り合いもほとんどいないし、生きて帰ったことを連絡した幾人かの知人らには、しばらく休もうかと考えてるので仕事や紹介は繋がないように頼んでいる。
 ……はずだったのだが。
「あなたが、ウィル様ですね?」
 突然のその声は、およそこの傭兵たちが集う酒場に相応しくない、少女のものだった。
 しかも、自分に呼びかけてきたらしい。
 驚いて振り向くと、ちょうど座っているアーウィルとほぼ同じ高さに、女の子の顔があった。
 この辺りでは珍しい黒髪を、ちょうど肩のあたりで切り揃えている、利発そうな少女だ。年の頃は、十一、二歳くらいか。まだ女性らしさが現れる前だからか、それともゆったりとした白い服――あとで神官服だと気づいた――を着ているからか、どちらかというと幼い印象を感じさせる。
「へ? 君は……?」
「あなたが、ウィル様ですよね?」
「あ、ああ。俺がウィル……アーウィルだけど……」
 詰問されるような口調にアーウィルはややあっけにとられつつ、その髪の色にふと不吉なものを感じ取った。
「君……まさか……」
「はじめまして、私、ヨハンの妹のリーニャと申します。兄が、貴方を探してましたので」
 やはり、という思いと、逃げなければ、という強迫観念めいた思いが、アーウィルを支配しかけた時、その両方が手遅れであることを表す第三の声が響いた。
「よぅ。ウィル。探したぜ。すぐ軍からいなくなっちまったからな」
 その時、アーウィルはある意味ではこれもありか、と半ば諦めつつも悪くないと思っている自分に気付いた。
 彼と一緒にいれば、きっと余計なことを考えている余裕はないに違いない、と――。

 もう日も暮れようとしているのに、まだ街の各所で響く槌の音がこのコノート城まで響いてきていた。
 手元を照らすためだろう。薄暮が覆う街のあちこちにある灯火が、まるで夕暮れの星空を思わせた。
 だが実際には、その薄闇に覆われた街は、今もなお瓦礫の多く転がる、無残な有様をさらしている。
 それでも、街並は少しずつ元の姿を取り戻しつつあるが、城壁の補修の目処は全くと言っていいほど立っていない。リーフ王も、まずは人々の家や商業活動が再開できることを優先する、と宣言し、本来城や城壁の補修を行うべき人員にも、街の補修を行わせているのだ。
 そのため、今も城の部屋のいくつかは放棄されたままである。
 コノート城は直接の攻撃はさほどなかったが、それでもあれだけの攻撃では無傷とはいかず、今も隙間風に体を震わせることは少なくない。今はまだ秋だから良いが、このまま冬になったら、と思うと身震いせずにはいられなかった。
「あれ? 誰かいるのか?」
 突然間近で聞こえた声に、彼女は驚いて振り返った。だがすぐ、その声の主が警戒を抱く必要のない相手だと分かり、安堵する。
「申し訳ありません。外を見ておりましたので」 「あ……いや、別にそれならいいんだ。えと……確か、サヤヴィヤさん、だっけ?」
「いえ。サヴィヤヴァでございます。ウルク様」
「す、すまん。失礼した。サヴィヤヴァさん」  その反応を見て、彼女は小さく笑った。
 実際、自分の名前はひどく呼びづらいらしく、よく間違われる。
「いえ。気になさらず。言いづらければ、ヴィアとお呼びください」
 それに了承したのかどうか、ウルクはサヴィヤヴァが名前を間違えられたことを怒ってないと思ったようで、安堵したような表情を浮かべた。
「ウルク様こそ、このような場所で、どうされましたか?」
「いや、俺は見回りついでなんだけど……」
 ウルクは、戦いが終わった後もそのままトラキア王国との契約を継続し、衛兵としてコノートにとどまっている。
 トラキア軍は『黒の処断』によって甚大な被害を受けており、その立て直しには数年を要する。現在でも、街の復興に城の衛兵を含めた兵の多くを割いており、城の警備すらおぼつかない状態でもあるのだ。
 その代替策として、『黒の処断』で戦った、とくに信頼できると判断された傭兵を、契約をそのまま継続して城の警備任務にあてているのである。
 ウルクも、そういった者の一人だ。
「見回りといっても、楽なものだしな。これで金がもらえるのは、ありがたいよ」
 普通の戦乱では、残党狩りや敗残兵の捕縛などの仕事が発生するものなのだが、今回の場合はそれがないらしい。他の、被害の比較的少ない地域では治安の悪化に伴って傭兵の仕事が増えているらしいが、このコノートはそもそも人から奪うものすらまともにない状態なのだ。
「そういえば、ヴィアさんの弟さん、傷完治したそうだな」
「ええ。春になる頃にはもう問題はなくなるそうです」
 サヴィヤヴァの弟アララフは、コノート城内に侵入した賊によって大怪我を負わされた。彼が助かったのは、セネル王子と一人の女傭兵のおかげだ。
「アルフィリア様には、いくら感謝してもしたりません」
 その名前に、ウルクもまた臍をかんだ。
 わずかな間とはいえ、アルフィリアの部下として共に戦った。死線を共に潜り抜けた仲間の絆は固い、というが、実際自分が生き残れたのは、彼女の指揮下だったというのが大きいとウルクは考えている。
「彼女の力は、この戦いでは小さなものだったのかもしれない。でも、俺たちには、決して小さくなかったんだな」
 その言葉に、サヴィヤヴァも頷く。
 そしてもう一度、外を見た。そこに灯る灯火は人々の暮らしの息吹だ。だが同時に、それがまるで死者を天上へ導く、道標のようにも感じられた。

 その日、ヴェルトマー公女エティスは、イード城の再建記念式典に賓客として招待されていた。
 イード城は黒の処断の初期に大きな被害があった以後は、さほどの戦火にさらされたわけではないのだが、それでも初期に受けた被害が大きく、また、人々の生活基盤の再建が優先されたため、ようやく城壁の補修が終わったのである。
 そのイード城に到着したエティスは、城門を抜けたところにあったものに、唖然とした。
 もともと城砦としてのみ建設された場所であり、市街が存在するわけではない。よって装飾などはなく、ひたすら堅牢さと無骨さを感じさせる造りであり、それは城内も同じだった。
 だが、今その、城門を抜けたところにあったのは、自分をそっくりに模った彫像だったのである。
 台座のところを見ると、『炎帝の愛し子』とある。
 その題の通り、そのエティスの周囲には炎を模ったものが踊り、まるで炎がエティスを守り、そして祝福してるようにすら感じられる。
 そこまで見てから、エティスは思い出した。
 確か、戦いが終わった後に、ルーイという女性に、作品のモデルになってほしい、と頼まれたことを。
 あまり束縛もされないから、ということであまり深く考えずに了承したのだが……。
「お久しぶりです、エティス殿下」
 聞き覚えのある声が、呆然としていたエティスを現実に引き戻した。
「……まあ、確かに了承したけれど」
 そう言って、やや不満そうに振り返る。だが、別に本心から怒っているわけではない。
「確かにこれを作ったのは私ですが……これをここに置き、イードの守り神にしたい、と言い出したのは、ここの兵士全員の意思だそうですよ」
 ルーイがにこりと微笑むと、同時に兵たち――おそらくこのイードに駐留するすべての――の喚声が響き渡った。
「……まあ、いいけれど……でもこれ、ちょっと美人にしすぎてない?」
 その言葉に、ルーイは半ば驚き、それから呆れ返った。
「とんでもない。これでもまだ、殿下の美しさを再現し切れていません。私もまだまだ、修行が足りませんね」

 風に混じって、わずかな湿り気を感じて、少年は村へと歩き始めた。
 空っぽの左腕の袖が、わずかに遅れて続く。
 空に輝く太陽の光を受けて、青い海が銀色に輝く。その輝きは、少年にとって忘れがたい存在を喚起させた。
「隊長……」
 この戦いは自分にとってなんだったのか。
 失ったものは、左腕。だが、それ以上に何かを失っているのではないか、という空虚さが、ずっと少年――マズル・コーリアスを支配していた。
 アルフィリアの墓は、コノートの共同墓地にある。遺体も残らなかったアルフィリアだが、わずかに残った遺髪だけが、棺に納められた。
 だからだろうか。マズルは、いまだにアルフィリアが死んだことを受け入れきれずにいる気がしていた。
 無論、そんなことはありえない。彼女は、リーリアと共に消滅した。
 思えば、あのリーリアという少女もまた、利用されていただけの存在なのだろう。暗黒教団に。
 暗黒教団とロプト教団が違うものであるというのは、頭では分かっている。だが、納得が出来そうにはない。
 この戦いで自分が失ったもの、そして自分が得たものは何であったのか。
 失ったものはともかく、得たものを考えた時、マズルの出した結論は、戦争の、そして世界の現実だった。
 御伽噺のような騎士物語などは、現実にはない。いや、あるのかもしれないが、それはごく一部のことであり、そしてそれはまれであるから物語になるのだ。
 だからマズルは、軍を退き故郷に戻ってきたのである。無論、腕を失っては剣を振るうのもままならない、というのもあるが。
 正直に言えば、まだ自分の力を試したい、という欲求がないとは言わない。
 ただ、いつか再び旅立つにしても、今の自分に休息が必要なことも、よく分かっていた。
 村の人々が見えてきた。誰かが、マズルだと気付いたのだろう。手を上げて呼びかけてきた。
 それにマズルは、荷物を持っていない腕を上げようとしてそれがないことに気付き、荷を置いて右腕を上げた。

 後に、辺境を守る隻腕の戦士が噂で広まったことがある。だが史書には、その名を伝える資料は残されてはいなかった。

 グラン暦八〇〇年。
 年が明け、大陸は平穏を取り戻した。
 後世の史書では、この『黒の処断』を境に、第二次聖戦の聖戦士たちから、その子供たちの世代へ、時代の主役が移り始めたとされている。
 それはまさしく、新たな百年紀の始まりを感じさせるものだった。




< 光皇の裁き

後書き >


目次へ戻る