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「行ったか」 「はい」 声は、片方が肉声。もう一方は通信機から繋がっているワイアレスイヤホンから聞こえる声だ。イヤホンをはめた男は、大きなリュックサックを背負い、子供二人を従えた中年の父親のように見える。しかし、その眼光は普通の父親のものとはあまりにも違いすぎる。 「準備は完了しております。ですが……」 「なんだ?何か言いたいことがあるのか?」 責めるような口調ではない。だがそれでも、質問された方は、自分の心が寒くなるのを自覚した。 「は。何も今回のごとく慎重にならずとも、あのような未完成品、この二人がいれば、容易に回収できるかと思うのですが」 しばらくの沈黙。それが、男には怖かった。それから聞こえてきたその声は、一度電気信号に変換されたにも関わらず、それとはっきりと分かるほど愉快な調子で笑っていた。 「くっくっく。余計なことを考えるな。お前が考える必要などない」 改めて寒気がする。それは、冬の寒さではない。 「し、失礼しました。では、必ず回収して参ります」 男は、極力動揺を悟られぬように通信を切った。そして、無表情な自分の『子供』達を振り返る。 「行くぞ」 二人の子供は、無表情のまま頷いた。 |
薄暗い室内で、男は雑音だけになった通信機のスイッチを、無造作に切った。 「そう気負っても仕方なかろうに。使えん男だ。まあ捨て駒としてはちょうどいいがな。さて……SR01よ。お前の性能を見せてみろ。かつて、私の父が手塩にかけたお前の力をな……」 男は一人、愉悦に浸っていた。今ではもう、彼以外の誰も分かり得ぬ理由によって。そして彼は今、自身の前に広がる無限の可能性と野望を見つめていた。 |
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冬になりつつあるとはいえ、やはり歩くと汗が出るし、息も上がる。 ほぼ十歳違いの二人の女性のうち、先に疲れが見え始めたのは年上の方だった。 「ごめーん、沙耶。ちょっと休みー」 その言葉に、沙耶は呆れたような表情を見せながら立ち止まる。 「沙羅、またですか?まあいいですけど」 沙耶の言葉に、沙羅は頬を膨らませる。 「そりゃあ、私はもう若くないですよ」 「そういうことを言ったつもりじゃないですけど……」 沙耶が返答に窮しているのを見て、沙羅がくすくすと笑った。結局、からかわれているだけだ、と気付いた沙耶が、今度は頬を膨らませる。 「それに、せっかくこんなにいい景色なんだもの。時々休みながら、あちこち見ていかないと」 それは確かにその通りだ、と思うのだがこれでは行くだけで一日かかってしまう。まだ道程の半分ほどのはずだ。 「いいの。外出許可は一応一週間とってあるから、いざとなったら、泊めてくれる宿探すわよ。ホラ。空気だって美味しいんだから」 そう言いながら大きく深呼吸している。沙耶も深呼吸をした。確かに、普段と違う気はする。気のせいかもしれないけど、でもこういうのは気持ちがいい、と思う。 「さて。それじゃ、行きましょうか」 ほんの数分座っていただけなのだが、どうやらそれでいいらしい。いきなりすたすたと歩き始めた沙羅を、沙耶は慌てて追いかけた。 「実はね、私もここは初めてなの」 沙羅が突然話し始めた。 「というか私もまともに横浜出た事はなかったのよ。特に昔は管理厳しかったしね。まあその代わり、外から横浜の事を見る事もあまり出来なかったみたいだけど」 沙耶は黙って、沙羅の言葉を聞いていた。 「私は当時……ちょうどあなたと同じくらいの年齢だったわ。やっぱり同じように、ぼろぼろでたどり着いて。あなたを助けた理由の一つはそれ。自分にダブったの」 でも多分、もっと大変だったのだろう。当時は、今よりもずっとスラムの生活は大変だったと言うから。 「当時は、私みたいな女の子が―当時はまだ女の子だったのよ―生きていくのは大変だったわ。色々とね。そんな中で、私を助けてくれたのが、今お世話になっているバーの前のご主人。スラム狩りで亡くなられたけど」 沙羅が本当に悲しみの表情を浮かべているのを、沙耶は初めて見た。 「その後も、その家の方にはお世話になったわ。あのバーは、あの人達の夢だって言っていたわ。嫌な事があっても、酒は全てを洗い流してくれるって。こんな時代だから、自分はこの店をやっていくって。まあ私は当時、まだ飲ませてもらえなかったけど。子供だっていって」 そういえば、今でも沙羅がお酒を飲むところは、あまり見た事がない。あるいは、酒場では飲んでいるのかな、と思ったが、なんとなく飲んでいないような気がする。 「沙羅はあまりお酒飲まないですよね?」 「うん。その人が言っていた。本当の味が分かるようになったら飲んでみろって。で、私はまだ分かる自信がないから、飲まないの。でも、沙耶がもう少ししたら、飲んでもいいかな、とか思っているけど」 「私、もう飲んでもいい年齢かも知れませんよ」 漠然と覚えている年齢は、確か十五、六歳だが、当てになるものではない。もしかしたら、もう二十歳以上かもしれないのだ。 ちなみになぜか、いまだに社会通念でお酒は二十歳になってから、といわれている。 「それはないわね。あなたは、まだ子供よ」 いつも認識しているとは言え、こうはっきり言われるとそれはそれで悔しい。沙耶はまた、頬を膨らませるが、結局それも、沙羅に笑われるだけであった。 「ほらほら。そんな膨れていないで。せっかく可愛いんだから……ってあなたに言うとなんか妙よね。自分の顔見て可愛い、っていってるみたいで」 沙耶も思わず吹き出してしまった。確かに、妙な感覚だろう。 そんなことを話している間に、稜線の間から、青い輝きが見え始めた。位置的には、間違いなく芦ノ湖だろう。 「沙耶、その上にほら」 沙羅の言葉に芦ノ湖が見えたその上を見ると、ちょうど雲がどいて空の青より蒼い、なだらかな稜線が見え始めた。その頂は、どんな白さよりも美しい白の冠がある。 「あれが……」 沙耶は言葉を失った。これほど雄大で、そして美しいとは思っていなかったのである。 「あれが富士山。かつて、この国の象徴とまでいわれていたそうよ。でも、あれ見ると納得できるわね。本当に綺麗」 沙羅も、落ち着いて言葉を紡いでいるが、かなり興奮しているようだ。言葉尻が少し上ずっている。 「さて。その美しい富士を拝んだところで、我々に従ってはもらえないかな?」 突然聞こえた声に、二人は驚いて振り返った。 「誰……ですか」 沙耶は、自分の声がかすれそうなのを自覚した。見えているのは一人。中年の、大きなリュックサックを背負ったごく普通のハイキングをしにきた観光客に見える。だが、とてもそうは思えない。それに沙耶は、何か言い知れぬ恐怖を感じていた。 「ふむ。記憶を無くしている、というのは事実のようだ。ならば、楽なものだな。B04、F01、SC01を連れ戻せ」 直後。男の両側に、二つの影が現れる。見た目には、沙耶と同年代の男女のようだ。だが、その表情が、ない。まるで、人形のよう。 覚えていないはずの事。なのに、その言葉は、その「SC01」という単語が自分の中の、触れたくない記憶に触れようとしている。その現れた二人の、表情のない顔。それは、かつての自分の表情だ。 「あ……あ……」 沙耶は頭を抑えて数歩後ずさった。 いやだ。ここにいたくない。ここにいたら連れていかれる。どこへ?そうだ。前いた場所だ。あの色のない、辛い世界へ。 「いや……いや……」 足が震えている。まともに歩けない。ただじわじわと後ずさるだけ。 「私を無視して話を進めないで欲しいわ」 沙羅のその声で、男はもちろん、沙耶ももう一人の存在を思い出した。男の両脇にいる二人は気にした様子もない。 「ふん。事態の分かっていない愚か者が。どちらにせよ目撃者は消せと命じられているからな。先に殺しても一緒か。死ね」 男は無造作に懐から拳銃を取り出した。 拳銃は、発明されたのは遥か昔だが、いまだに人が持つ携帯用武器の中ではもっとも一般的なものである。無論、改良は施されていて、今では掌サイズの拳銃でも、厚さ五ミリの鉄板を撃ちぬくほどの威力があり、それでありながらほとんど反動がない。しかも、音もほとんどない。 パスッという音と共に、弾丸が発射された。沙羅は、すばやく体を動かして弾を避ける。その動きは、とても普通の女性のものではない。 男はその沙羅の動きに一瞬驚愕し、次弾を発射するタイミングを逸してしまった。 「沙耶、逃げなさい!」 沙羅の声で、沙耶は恐怖による呪縛が解けた。そこにもう一度、「逃げなさい!」という沙羅の声が重なる。沙耶は、反射的に体を翻していた。 「逃がすな、追え!」 男が横の二人に命じる。二人はその声に即座に反応し、沙羅を飛び越えて沙耶を追いかけようとした。その時。 「行かせない!」 男は一瞬目を疑った。二人を、一瞬で沙羅が叩き落としたのだ。とはいえ、大したダメージにもなっていないため、二人は受け身を取って着地する。そして、そのまま沙羅相手に、慎重に間合いを取った。敵と認識したのである。 「ば、馬鹿な。貴様はいったい……」 男は狼狽しきっていた。こんな力の持ち主がSC01に付いているなど、聞いていない。このままでは、SC01は逃げ切ってしまう。すでに、視界にはいない。 「は、早くこいつを倒して、SC01を捕らえろ!」 男は、半ばやけくそになって命じていた。 その声に応えるように、二人が連携を取った動きを見せる。沙羅はその場から動かずに、二人の動きを冷静に見ていた。そして、二人のうち、少年の方の腕が突然突き出される。 ピシリ、という何かがひび割れる音がした。地面にひびが入る。 次の瞬間、沙羅の周囲の地面がえぐれて、大きなクレーターが出来た。まるで不可視の大きな手が、地面を抉り取ったようだ。物理法則を無視して抉られた土が、宙に浮かんでいる。だが、沙羅の足元だけはそのままだ。沙羅は、土が目に入らないように顔を腕で被っている。 「大した……ものね……」 沙羅のその言葉と共に、沙羅の腕が踊った。二人のうち、少年の方が吹き飛んだ。道の脇にあった木に、体が叩きつけられる。彼の体がずり落ちるのと同時に、浮き上がっていた土砂が、支えていた糸が切れたように、地面に落ちた。 その直後、少女の方の掌中に光が生じた。光は強くなり、槍状になる。それを、沙羅に向けて投げつけた。槍は、まるで意志あるもののように正確に沙羅に飛来する。 「まだまだ!」 沙羅に直撃するかに見えたその槍は、沙羅に当たる直前で四散した。そして沙羅は、その光が消えた中から同じものを返す。 少女はそれを避けきれずに直撃した。そのまま、吹き飛ばされる。激しく打ち付けられた少女は、やはり同様に崩れ落ちた。 「ば、馬鹿な。貴様はいったい……」 先ほどと全く同じセリフを男は吐いていた。だが、動揺は先ほどの比ではない。 「さあね。けど、こうなった以上、悪いけどあなた達を生かして返すわけには……」 沙羅の言葉はそこで止った。視線は、男の後ろを見ている。その目には、憎悪が渦巻いていた。 「はっはっは。さすが、と言うところか。相変わらずの能力だよ。SR01」 「その呼び方はやめて」 男の後ろに、いつのまにかもう一人現れていた。白衣を纏ってはいるが、とても医者や研究者には見えない。まだ三十歳にもなっていないであろうその端整な顔立ちは、街を歩けば十人中七、八人の女性を振り向かせるだろう。だが、同時にその瞳に宿る光には、優男と言う表現はあまりにも似つかわしくないものがある。 「つ、月宮様。も、申し訳ありません。まさか、この女が能力者だとは……」 月宮、と呼ばれた男は優しそうな表情で、だが決して目だけは笑っていないままに男の方に向き直った。 「ああ。無理もない。この作戦は失敗だな。さて、失敗と言うからには責任を取る者が必要だ。分かるな?」 男は「ひっ」と息を呑んだ。言外に何を言っているかは、分かりきっている。 「ど、どうかお助けを。いえ、挽回のチャンスを。もう一度……」 男の言葉はそこまでだった。後には、焦げ臭い、嫌な匂いが広がっている。そこにあった人の形をした燃焼物は、あっという間に灰になっていた。 「さてと。来てもらおうか。SR01。それとも、今呼ばれている『沙羅』という呼び方の方がいいか?」 月宮の態度はあくまで余裕がある。逆に沙羅は、確実に追いつめられているという焦燥を感じていた。 「断る、と言ったら……?」 沙羅はそう言いながら、掌中に光を生じさせる。その強さは、先ほどの比ではない。 「ふむ。あまり困らせないでほしいな。といっても無駄か……」 月宮の言葉と同時に、別の方角から、光の槍が飛来した。不意を付かれた沙羅は、かろうじてそれを自分のもので相殺し、その衝撃で後ろに飛ぼうとする。そこで、突然自分の体が動かなくなった事に気が付いた。 「え?これは?」 「精神封縛網(サイコネット)。君がいなくなってから十年。こちらとて何もしていなかったわけじゃないよ。もう動けまい?」 意識が遠のく。視界が暗転していった。 「沙耶には……あの子には……」 沙羅の意識は、そこで落ちた。 「ふふふ。そうもいかないよ。あの子は、我らが、いや、私がさらに高みに登るために、絶対に必要なのだから。無論、それに君が協力してくれれば、越したことはないけどね。まあ後で、ゆっくり話し合おうじゃないか」 月宮は、気を失った沙羅の顔を持ち上げると、残忍な笑みを浮かべた。 「ご苦労。一度撤収。作戦は、SC01の突然の能力暴走により失敗。以後、直接私が指揮を執る」 いつのまにか月宮のそばに現れていた人物は、それを聞いた後、影のように消えていた。 |
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息苦しかった。何が苦しいのか、分からない。けれど、胸のどこかに、ぽっかり何か穴が空いたような、そんな感じだった。 気が付いたとき、沙耶は湖畔にいた。海の波のように岸に向かってくる水は、あるいは別のときであれば感動したのかもしれないが、今はそんな気にはなれない。 しばらくして落ち着いてくると、何が起きたのかを整理する余裕が出てきた。 誰だかは分からないけど、とにかく怖い人が来た。そして、沙羅が逃げろ、と言ったとき、自分は迷う事なく逃げていた。今考えてみれば、踏みとどまるべきだったのかもしれない。けれど、なぜかその時は逃げなければならない、と思っていた。 そうだ。前にもあった。曖昧な記憶の、その最後。あの時も、確か逃げていた。そう。あの時も確か声に従ったのだ。でも、あの声が沙羅のはずはない。 改めて周囲を見ると、静かな湖の、水の音と木々のざわめき。風の音。沙羅の声は、全く聞こえない。 急に、寒くなってきた。冬の寒さでないのは、明らかだ。孤独。不安。そういったものが、一気に押し寄せてくる。無意識のうちに、自分の肩を抱いていた。 「さ……ら……?」 返事がある訳がないのに、沙羅の名を呼んで見た。だが、聞こえる音はあっても、声はない。 「沙羅、ねえどこ。ねえ」 落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。まず今何が出来るか。人を呼ぶ事か。そうだ。誰か、人がいるはずだ。 沙耶は、人を求めて歩き始めた。程なく、お土産店の人に事情を話して――果たして伝わったかどうかは疑わしかったが――とりあえず一緒に現場に行こう、と言う事になった。 しかし。 そこには、何も残っていなかった。地面がやや黒くなっている場所こそあったが、あとは何もない。 「なんだよ、人騒がせな。これだからスラムの人間はよ!」 店の人は腹を立てて、さっさと戻ってしまった。 確かに、もう何も残されていない。けれど、確かにここに沙羅はいたはずだ。あの、とても怖い、と思った男も。まさか、連れ去られたのだろうか。 だが、一体何のために? 自分なら分かる。分かる気がする。失われた記憶の中にその答えがある気がする。けれど、なぜ沙羅を。 自分に対する人質? いや、そんな必要はない。自分は、あの時抵抗など出来なかった。 その時、足元に鈍く光る何かを見つけた。 ほとんど地面に埋まっているそれを拾い上げてみると、何かのバッチのようだ。ちょっと焦げ目が付いているが、十分判別は付く。赤地に黒い鷲のシルエットの中央に、地球が描かれている。 どこかで見た事がある。一瞬、考えて、確かクロリアという企業のシンボルマークであると思い出した。東アジアを中心に、化学・医学工業の分野で世界に圧倒的なシェアを誇る企業体だ。無論、化学・医学工業以外の分野でも相当手を広げている。 なぜそんなところが自分などに。 だが、考えても答えなどでなかった。 一体自分の過去と、クロリアにどういう関係があるのか。そもそも、一体何が起きているのか。 何も見えず、分からないまま、箱根の黄昏は暮れ、夜を迎えようとしていた。 |