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いつになったらこの闇を抜けられるのだろう。けれど、闇が終わった先はやはり闇。決して、抜けることなどできはしないのだ。 足が痛い。動かし続けていたから、もう感覚すらない。一体どこに向かうために走っていたのかも、そもそもなぜ走っていたのかすら分からなくなっていた。先が何も見えない恐怖。手探りで行こうにも、手に触れるものとてない。あるのは、闇だけ。 いつのまにか、体も動かなくなっている。心も疲れきった。誰も自分の存在を認めてくれない。結局誰もいない。誰もいてくれない。 意識が、落ちる。闇に、堕ちる。 |
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開かれた目に飛び込んできたのは、淡い光と数人の人間の顔だった。どの顔も、見たことはない。ついで、天井が見える。その天井も、やはり初めて見るものだった。 「やあ、気が付いたかい。あんなところで倒れているから、死んでるのかと思っていたけどね」 そう言ったのは、最初に覗き込んでいたうちの一人だ。金色の髪を短く刈り込んでいて、どこか人懐っこい顔をしている。二十歳半ば、というところか。彫りの深い顔立ちをしていて、目も青い。日本人でないのは確かだ。 横に目をやると、自分の荷物――ハイキングに持っていったリュックサック――と服が置いてある。見てみると、自分の着ている服は清潔なパジャマのような服だった。誰が着替えさせてくれたのだろう、とふと思ってしまう。 その時、ゴン、という音がして、沙耶は思わず顔を上げた。どうやら、先ほどの男の横にいた女性が、かなり強くその男を小突いたようだ。 「目が覚めた直後に、いきなり死んでるのかと思っていた、はないだろう。すまないね。こいつはデリカシーってものがなくてね」 辛辣な言い草でその金髪の男の口を封じたのは、やや茶色がかかった髪の、やはり二十歳半ばの女性だった。髪を結い上げていて、活動的な格好をしている。印象的には、威勢のいいお姉さん、というところだ。なんとなく、頼りがいがある。その印象と、年齢が同じ、というだけで沙羅を思い出した。突然涙が溢れそうになる。 「あんたがそんなことを言うから」 泣きながら首を横に振る。声にしようとしても、なかなか言葉にならなかった。 「いえ、違うんです。そうじゃなくて、その、すみません」 意味をなしていない。分かっていても、しばらく涙が止まらなかった。 ようやく落ち着いたとき、やっと周囲を見渡す余裕ができた。部屋は白い壁をしていて、他にもいくつか、清潔な白いシーツを張ったベッドがある。どこか、病室のような印象を受けた。自分以外に、ベッドを使っている人はいないようだ。 周りにいる人は四人。先ほどの二人と、あと一人は白衣を纏っている。場所を考えると医者だろうか。年は四十歳くらいだろう。もう一人は、二十歳になったくらいの男性だ。背が高く、髪の毛がまるで闇を塗りこんだように黒い。ちょっとかっこいいな、と場違いなことも考えてしまった。 状況を考えるに、彼らが自分を助けてくれたのだろう。確か、自分はあの沙羅と別れた場所で倒れて、その後の記憶がないのだから。 「あの、助けていただいて、ありがとうございます。それで、その、私一体どうしたのでしょう?」 結構間の抜けた質問だが、実際よく覚えていない。あの時、沙羅がいなくなって一体どうしたらいいか分からなくなったあと、沙耶の記憶はないのだ。 「うーん。それはこっちも聞きたいところなんだけどね。なんか戦いがあって、私たちはそこに急行したけど、そこには何もなくて、ただあんたが倒れていた」 『戦い』と言われて、沙耶は少し体を強張らせた。沙耶が逃げた後、何があったかはわからない。だが、相手の態度は、とても友好的とは思えなかった。明らかに、暴力をも辞さない、という雰囲気があった。とすれば、沙羅が戦ったのか。けれど、あの人はそんな力を持っているのか。 「あ、ごめん。自己紹介がまだだったね。私はマリア。マリア=イルパーク。で、こっちの無神経はシン=イルパーク。私の双子の兄よ」 悩む沙耶を見て、マリアと名乗った女性が自己紹介をする。それに続いて、他の二人も自己紹介を始めた。 「私は笠原敬一。医者だ」 「蓮条陣。陣でいい」 連続的に自己紹介されて、沙耶は混乱しつつ、なんとか顔と名前を一致させようと努力した。その後で、まだ自分が名乗っていないことに気が付く。 「あ、私は……沙耶といいます」 そういって、沙耶は宙に指で文字を描く。 「日本人なんだ。なに沙耶さん?」 言われて沙耶は返答に窮した。 確かに、日本人は、というか普通名前というのは、家族の名前と、そして個人の名前とで成立する。だが、沙羅は一度も家族名を名乗らなかった。だから、沙耶も知らない。 沙耶が答えられずにいると、マリアが「まあそれはどうでもいいことだね」と言って、話を変えてくれた。 「とにかく、あそこで何があったのか。正直、私たちもわからない。だからあなたが知っていることだけでいいから、教えてくれない?」 正直、沙耶も知っていることなどそうありはしない。だがそれでも、彼らよりは分かっているし、何より彼らは状況的に自分を助けてくれた人たちだろう。ならば、教えてもいいだろう、と考えて、沙耶はとりあえず覚えている範囲のことを話し始めた。 |
「……すると、あんた達二人が、突然そのよく分からないやつに襲われた、と。そういうわけだね?」 シンが確認するように繰り返す。概ね間違いないので、沙耶はうなずいた。 「あと、そこにこれが落ちていて……」 沙羅はベッドの横の椅子にかけてあった自分のズボンのポケットから、バッジを取り出した。現場で拾ったクロリアのシンボルマークが描かれたバッジだ。 「こいつは……」 バッジを受け取ったシンは、険しい表情に変わった。次にマリアに手渡す。マリアの表情も同様だ。て蓮条、笠原医師と渡されるが、表情の変化は一様だった。 「確か、それはクロリアのシンボルマークだったと思うのですが……」 沙耶には、それ以上の知識はない。 「沙耶さん。あなたを襲い、そして多分その沙羅さんを連れて行った相手は、間違いなくクロリアコーポレーションの人間だ。それもまっとうじゃない方の」 まっとうじゃない方? 確かに、企業体はきれい事だけではやっていけない、というのは沙羅と暮らしていた間に身に付けた知識で、漠然と分かっていた。だけど、それがなぜ自分たちと関わるのか。 そこまで考えて、沙耶ははっとなった。自分のまだ戻っていない記憶。そこにあるいは手がかりがあるのではないか。もしかしたら、沙羅はそれに巻き込まれたのではないのか。 「思い当たることがありそうだね……もしそうならば、私たちはあなたを仲間として迎えることになるかもしれないわ」 いきなりそういわれて、沙耶は面食らった。 「私たちは、あのクロリアに人生を狂わされた人間なの。色々な意味でね」 |
マリアの話を聞き終えた沙耶は、正直混乱していた。これまで――といっても沙羅と過ごしていた半年だけであるが――自分がいた世界とは、まるで次元の違う世界のことを話されてしまった気分だ。 彼らは、クロリアに肉親を殺されたり、あるいは自分自身の人生を狂わされたという。クロリアは特に、かなり強引な方法で市場を獲得していった。その中で、自殺に追い込まれた者も少なくないし、あるいは会社を失って路頭に迷ったものも少なくはない。恨んでいるものは多い。 先ほどの蓮条陣もその一人らしい。 彼は、裕福な家の生まれだったらしい。スラムではなく、普通の企業管理都市(キャピタル)に住み、親はクロリア傘下の比較的大きな企業の重役だった。その、何不自由なく過ごしていた彼の運命が急変したのは、彼が十歳になったときである。 突然、家に強盗が押し入ったのだ。だが、それは明らかに強盗ではなく、訓練された兵士であった。 彼らは蓮条の両親、妹を殺し、そして彼自身を攫っていった。そして、彼は実験動物(モルモット)にされたのである。彼らの目的は、はじめから陣一人だったのだ。 それは、彼が特殊能力者だったからである。 大天災以降、かつて超能力と呼ばれていた能力を身につけた、という人間が現れたという例が、数多く報告された。現在では、それらは、すでに事実として人々の間に受け入れられているが、そのような力は、常に愚かな人間の愚かな欲望に利用されるものである。すなわち、戦争の力として。 蓮条陣も、その犠牲者の一人だったのだ。 現在において、特殊能力者はその数が少ないこと、そして実際に振るえる力が微少であることから、あまり差別などはされず、特別視もされていない。 念動能力者でも、せいぜい雑誌をゆっくりと持ち上げる程度である。精神感応力――テレパシーと一般に呼ばれる力の持ち主は、その存在が確認されていない。 特定の個人間で、意志の疎通を行うことが出来るものはいる、とされているが、それは極めて限定的な精神感応(テレパシー)であり、使い勝手はあまり良くはない。 無論、あらゆるジャミング妨害電波に影響されず、傍受もされることのない通信機能、と考えると使えそうだが、その距離が大変短いのである。せいぜい数メートルだという。 初めて特殊能力者が確認されたのは、大天災から十年後の、二〇五八年。最初に世に登場したのは、ロジャー=フレッドというアメリカ人だった。彼は、微弱な念動力(サイコキネシス)を保有していて、テレビの前などでコップを浮かせてみたりしていた。最初は手品だと思われていたが、やがてそれが、学者達の手によって紛れもない念動力(サイコキネシス)――超能力とかつて呼ばれていたものであると判明する。 その後、世界各地で次々にこのような特殊能力者が見つかった。企業はこぞって能力者の発見に力を注ぎ、またその力の解明に乗り出した。だが、その力はいずれも微弱であり、彼らが期待したほどのものではなかったのだ。せいぜいが、手を触れずにものを動かせる程度で、とても新しい力として――特に彼らが期待したのは、軍事力としての力だった――利用できるようなものではなかったのだ。 無論、企業は能力を強化する方法を考えた。だが、現代の技術では、特殊能力を強化する方法は分からず、また、能力者もその能力が突然現れては、また突然消失したりと非常に不安定であることから、現実的でないと考えられ、ほとんどの企業が撤退したのである。 それが、三十年ほど前の話だ。 ところが、クロリアだけは、なおも研究を続けていたのである。彼らは、他の企業より人体、特に脳に関する研究が進んでいて――現在では医学的発見すら、企業によって独占されるのだ――その莫大な実験データと臨床試験を繰り返し、特殊能力の研究を推進していたのである。 クロリアには特殊能力者を集めて、特殊な薬を投与したり、訓練を施して能力を強化し、やがてはそれ自体を商品として売り出そう、という計画を継続した。 そして、極めて非人道的な計画を実行に移したのである。 それは、人工的に特殊能力者を作り出すこと。受精した直後の胎児から改造を施して、特殊能力者を作り出そうというものである。もちろん、その誕生した特殊能力者には、生まれながらにモルモットとしての生しか与えられない。 この研究は、長くクロリアの研究所で極秘に続けられた。露見すれば、いくら世界有数の企業とはいえ、その非難が集中するのは間違いない。 そしてついに一定の成功を見たという。しかし彼らが作り出した人工能力者は、代償として自我が崩壊していることが多かった。判断力もなく、命令によって一定の反応を返すだけ。これでは、兵士にはならない。それに、その特殊能力も、決して強力とは言い難かった。持ち上げられるものが雑誌から辞書になったくらいである。 だが、その人工能力者による研究の過程で、彼らは普通の特殊能力者の能力を、大幅に強化する方法を確立したのである。 蓮条陣は、生まれながらに特殊能力者であった。無論、両親以外は誰も知らなかったはずである。だが、クロリアはどこで調べたのか、彼が能力者であることを突き止めて、彼の家族を殺し、彼を研究所に連れていった。 そしてそこで、陣の能力を大幅に強化すると同時に『判断力をもつ人形』に仕立てようとしたのだ。だが、彼はその前に強化された特殊能力を使って、脱走したのである。八年前のことだ。それから数年後に、今の仲間達に出会ったという。 マリアとシンは、クロリアに弟を奪われた。彼らと十歳違いの弟クインは、八歳の頃に特殊能力が覚醒し、その直後、行方不明になった。その時、笠原医師に会い、話を聞いて、弟を取り戻そうと誓い合ったという。 笠原医師は、その研究に知らないうちに携わっていて、その事実に気付いたとき、自分の間違いに気付き、記録上自分を殺して脱走したらしい。 「他にも、同士はいっぱいいるよ。まああまり勢力は大きくないけどね。だから、沙耶さんがなぜクロリアに狙われたかは……多分、あんたが気付かないうちに特殊能力に目覚めていた、と言うのが妥当なところだけど。とにかく沙羅さんだっけ?彼女は攫われた。多分そうだろう。連中はあんたを狙ったんだけど、沙羅さんが邪魔をした。そこで、とりあえず彼女を連れていったのだろう。死体がなかったってことは、人質として利用するつもりかもしれない。分からないけどね。でも、それなら生きている可能性も十分にあるさ」 シンの説明に、沙耶は何がなんだか分からなくなった。概要は、なんとなく理解できた。けれど、自分にそんな能力があるとは思えない。自分は記憶のない、無力な人間ではなかったのか。 「どうだろう?といっても、すぐに決断なんてできないね。いずれにしても、回復するまでここにいていいよ、沙耶さん」 シンはそういうと、部屋を後にした。マリア、蓮条、笠原医師もそれに続く。 一人になってから、沙耶はベッドの上にうずくまって考えた。彼らの言っていることは、多分真実だろう。少なくとも、彼らの境遇については。 けれど、なぜ自分が狙われたのか。時々見え隠れする、昔の記憶。やはりそれと関係があるのだろうか。 特殊能力なんて、本では知っていたが、自分にあるなんて考えたことはなかった。しかし、考えてみたら夢の中でもそれらしいものを見たような気がする。 今まで、見ないようにしていた過去の記憶。いつかは、自分の過去と対峙しなければならない、とは分かっていた。そして、それが今なのかもしれない。 もし、自分に彼らの言うような特殊能力があるとしたら、それは自分の記憶の中にそれを目覚めさせる鍵があるかも知れない。 「いつまでも、逃げてはいられない」 沙耶は、目を閉じた。見たくないといって逃げていても仕方がない。それが、沙羅を助け出すことに近付くのだとしたら、今は何でもやってみるしかないのだ。 |
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やはり見える世界に、色はない。 無機質な、灰色とも黒ともつかない壁。そして見えないが自分の顔も生気を感じられるものではないだろう。 「SC01」 自分が呼ばれた。今度は聞こえる。そうだ。これが『私』の呼ばれ方だ。 そして『私』は歩き出す。どこへ行けばいいか、知っているのだ。沙耶には分からない。けれど『私』は知っている。 数人の『仲間』と共に垂直離着陸機に乗った。みな顔立ちは違うのに、区別がつかない。全員同じ――つまり、表情がない。全員が乗ると、鈍いエンジン音とともに、機が離陸する。移動中、全員が身じろぎ一つしなかった。 どれほどの時間が過ぎたのか、目的地が近付いたのだろう。特に声もなく、『私』を含めた全員が動き出した。 それぞれ、パラシュートを装備する。機械音声で、指示が出された。その内容は聞き取れなかった。電磁可動装置(リニアアクチュエーター)独特の可動音と共に、後部デッキの扉が開く。目が眩むような高さだ。何も見えない。闇があるだけだ。だが、『私』を含めた彼らは迷うことなく飛び降りた。 高度がかなり下がってきたところで、小さな電子音が、パラシュートを開くタイミングであることを知らせてきた。紐を引きパラシュートを開く。 落下速度が落ちる。全員、ほぼ同じポイントに着地した。 周囲には黒い木々。隙間から見える空にも月はなく、星の頼りない光だけが見える。だが『私』にはほぼ完璧に全てが見えていた。他の者達も同じようだ。誰が合図するわけでもなく、全員が無言で歩き始めた。 どれほど歩いたのだろうか。一度河に出て――月もない夜の河というのがこれほど暗いとは思わなかった――そこから上流に向かったのは分かった。 やがてダムが見えた。ダムの上はサーチライトで照らされ、電磁誘導銃(レールガン)をもった兵士の姿も見える。対して、『私』達がもっている武器は、ナイフと十数本のニードル。ニードルは、見た目より重くかなり長い。それらの装備を確認すると、やはり合図もなく全員が歩き始める。 そして、『私』達は臆することなく、静かにダムに近付いた。 ダムの上にいる兵士が十分識別できるような距離まできても、ダムの上の兵士が気付いた様子はない。気付かないのは、彼らが無能なためではないだろう。 ヒュッという空気を切る音ともに、見張りの兵士の目に、ニードルが深々と突き刺さった。声を上げる時間もない。 グラリ、と兵士の体が動き、倒れそうになる。その様子に、すぐ近くにいたもう一人が何事かと声をかけようとして、それ以上何もできなくなった。彼の首の後ろには、ニードルが深々と刺さっている。 そして、殺戮が始まった。 それは、沙耶が目を伏せたくなるような、凄惨な光景であった。 目の前の兵士が、恐怖の表情を浮かべながら、レールガンを連射する。だが、その弾道はすべて『私』には見えていた。造作なく避け、その懐に飛び込む。両手に持ったナイフが、喉と心臓の二個所を適確に捉え、兵士は一瞬で絶命した。直後、少し離れた場所から対人誘導弾頭(マンブラスト)が発射された。ロックオンした対象に二メートルまで近付いたところで、無数のベアリングを正面三十度の円錐状にばらまく、という代物である。普通、撃たれたらまず回避は不可能。対人兵器の中でも最悪のものの一つだ。 だが、弾けたベアリングは、すべて『私』に届くことなく終わっていた。『私』のほんの手前で、ベアリングは何かに弾かれていたのである。 そして入れ違いにニードルが投げられる。それは、正確にその兵士の右目を貫き、脳に達していた。そして、振り向き様にまたニードルを投げる。三十メートルほど背後の茂みでレールガンを構えていた兵士は、その照準器に当てていない方の目を、瞼ごと貫かれて絶命した。突き刺さったニードルは、後頭部へと突き抜けている。 わずか二十分。開始時に『私』が確認した時間と、終了時に確認した時間の差である。それだけのわずかな間に、このダムにいた四十人の兵士と、十人の技術者はすべて殺された。たった四人の少年少女の手によって。 血の海となった制御室やダムの各所に『私』達は高性能爆薬――『私』にはそれが分かる―を設置し、そのままダムを後にする。 その数分後。背後の空が赤く染まった。それが何によるもので、何が起きたからなのか、沙耶はもちろん疑わなかった。 |
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今までで最悪の目覚めだった。 寝汗で体に張り付いたシャツが気持ち悪い。 もう一度、今の夢を思い返してみる。いや、夢ではない。あれは確実に、自分の『記憶』だ。手に持ったナイフが人につきたてられる感触。悲鳴を上げる暇すら与えないその殺人技術。それらは、感覚として体が覚えている。 あれは間違いなく、自分の記憶なのだ。 背筋が寒くなる。人を殺す、ということがどれほどの罪悪か。分かっているつもりだが、それを自分がやっていたとは。 血まみれの手で爆薬を仕掛けていた自分。だがそこに、良心の呵責というものは一切なかったように思う。 否定したい。怖い。けれど、あれも紛れもなく自分のはずだ。自分の中に眠っている、もう一人の自分。いや、自分自身か。それがあのような残虐な行為を行ったのだ。それは認めなければならない。もっとも、あれを行っていた『私』は、そんな悩みなどとは無縁だろう。ただひたすらに標的を殺すことだけに特化した戦闘技術。そこには、良心や感情の入る隙間はない。 その時、扉が開いた。入ってきたのは蓮条陣だ。不謹慎ながら、ちょっとカッコイイなと思ってしまう。自分も女の子なんだな、などと妙なところで感心した。 「無事か。凄い悲鳴が聞こえたから。マリアも笠原先生も今はいなくてな」 無愛想な物言いは、もともとの性格なのか、それともクロリアで教育されたことによるものなのかは分からない。なんとなく生来からのもののような気がする。 「あ、すみません。夢、見ていて」 「夢?」 「はい。夢、というか昔の記憶というようなものなのですが……」 沙耶はここで言いよどんだ。 多分、自分は彼らと、もっと正確に言うならば目の前にいる蓮条と同じ運命を辿らされたのだろう。自分に、特殊な力があるとは、正直今でも思えない。だが、あの夢――記憶の中で、無数の鉄球を弾いたのは、間違いなく特殊能力だ。でも、一体どうやったらそんな力を使えるのか分からない。あの時――夢の中だが――はごく自然に力を使っていた気がする。 「どうした?黙りこくって」 蓮条の声で、沙耶は思考を中断した。見上げてみると、彼が自分を見ている。けれど、あまり表情がない。やはり、クロリアでの教育の影響なのだろうか。 でも、彼は戦っている。あるいは、彼は以前の記憶を持ったままなのかもしれない。そして、その罪を償おうとしているのかもしれないのだ。だとしたら、自分だけ逃げることはできないだろう。 「あの、私も協力します。沙羅にもう一回会うためには、それが一番確実な気がします。それに、私も特殊能力者というのであれば、やはりいつかは戦わなければならない気がしますから」 蓮条はちょっと驚いたような顔になっていた。驚いたような顔から、困惑した顔へ、そして最後に、少しだけだけど笑みを浮かべた顔に変わっていった。 「いいのか?誘っておいてなんだが、もうまともに日の元は歩けなくなるかもしれないぞ」 それは脅しではない、というのは分かっていた。けれど、沙耶は迷わなかった。 あの時、自分の以前の名を呼ばれたときに感じた恐怖。あれから逃れることはできない。ならば戦おう。戦って、恐怖の根元を叩けばいいのだ。そしてきっと、そこには沙羅がいるはずだ。なぜか沙耶は、それを確信していた。 「はい。これまでだって、住んでいたのは公には存在しないスラムですから。今更、そんなことは怖くないです」 一瞬、これまでの半年の生活が頭を過ぎった。沙羅の家。それに『学校』の子供達。校長先生。市場のおじさん達、おばさん達。いつも朝、挨拶をしてくれた近所の人達。 ここで、沙耶が戦うことを選ぶと、あるいは彼らとはもう二度と会えなくなるのかもしれない。 けれど。 沙耶がここで逃げて、元の生活に戻ったとしても、いつか同じことが起きないとは限らない。そしてその時は、今度はあの人達が巻き込まれるかもしれないのだ。それは、沙耶には耐えられなかった。そして何より、今この道を選ばなければ、沙羅に再会するチャンスは永久に失われると思えたのだ。 記憶の向こう側との決着を付けなければ、おそらくその危険性は消えない。ならば戦うことでその危険を排除しよう。 そして、再びあの生活に帰るのだ。今の生活を捨てるのではない。帰るために。そのための戦い。 過去は過去でしかない。過去に、何かを残してきていて、それがいま現在や未来に影を落とすというのであれば、それにまず決着を付けなければならない。 「戦います」 沙耶のその言葉には、全く迷いがない。 しばらく沙耶を見ていた蓮条が何かを言いかけたとき、扉の向こう側が騒がしくなってきた。マリア達が戻ったようだ。 「あ、目が覚めたんだ。良かったね。気分は?」 「はい。大丈夫です。これからも、よろしくお願いします」 沙耶はベッドの上で上体を倒して、お辞儀をする。その対応に、マリアがびっくりして蓮条の方に振り返った。蓮条は小さく頷く。 「え。それじゃ、あなたも?」 「そういうことらしい。決意は固いみたいだ。俺は、何も言うことはない」 蓮条はそれだけ言うと部屋を後にした。 マリアが沙耶の両肩を掴んで、正面から見つめる。 「いいんだね、本当に。勧めておいてなんだけど、辛いよ、きっと」 彼女が心配してくれるのは、嬉しい。だが、沙耶はもう全く迷わなかった。 「いえ。大丈夫です。これでも、精一杯考えました。そして出した結論です。これからも、よろしくお願いします、イルパークさん」 その言葉に、マリアはにっこりと笑った。沙羅とは違う意味で、何か安心できる笑顔だ。 「分かったよ。けど、私のことはマリアでいいよ。シンと区別つかないと困るしね。それじゃよろしく、沙耶ちゃん」 「はい」 「あらためて、よろしく」 シンが手を差し伸べてきた。沙耶がその手を取ろうとしたところに、マリアの手がシンの手を払う。 「こら。あんたは沙耶ちゃんに触れちゃだめ。沙耶ちゃん、気を付けてね。この男、可愛い子見るとすぐ手を出すからね」 「ちょっと待ってくれよ。そりゃねえだろ。いくら俺でも、入ったばっかりの子には、手をださねえよ。それに、この子に俺が手を出したら犯罪じゃねえか。蓮条ならともかく」 一瞬、沙耶は意味が分からず頭をひねってしまった。そこへさらに、マリアの手がシンの頭に飛ぶ。 「何いってんの。さっきのあんたは、完全に狙っていたよ、まったく」 一言でマリアに言い切られたシンは、何も言えなくなってしまったように、小さくなってしまう。 その様を見て、マリアが笑い、沙耶もつられて笑う。 戦いそのものがどうなるかは分からない。けれど、彼らとなら戦える。沙耶は根拠もなく、なぜかそう感じていた。 |