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沙耶は、一度沙羅の家に戻った。さすがに、ハイキングに行ったときの着のみ着のままでは、この先の着替えもないからだ。 横浜へは、こっそりと入った。既に手配されていると思ったからである。ところが意外なことに、沙羅も沙耶も全く手配されていなかった。外出許可証の期限一週間はもう過ぎている。本来、外出期限を過ぎてなおスラム居住者が戻らない場合、即座に手配されるものなのなのだ。だが、それがない。それが何者の手配によるものかは、考える必要はないだろう。 少し妙だと思ったのは、攫われた(と思われる)沙羅はともかく、沙耶の手配までされていなかったことだ。確か彼らは、最初に沙耶を狙っていたはずだ。だとすれば沙耶の手配はそのまましてしまった方が、都合はいいはずだ。 もっとも、考えても答えなど分かるはずもない。現状では手配されていない方が都合がいいのだから、とりあえず気にしないことにした。 沙羅の家は、特に荒らされた様子はなかった。さすがに、一週間そこらでは空き巣も入らなかったようだ。もっとも、スラムの半壊した家に入る空き巣などあまりいるものではない。沙耶はとりあえず、当面の着替えと、あと必要最低限の日用品だけ持っていった。ほかは全部そのままである。 帰ってこないつもりはない。必ず、沙羅と帰ってくる。それまで、ちょっと長く留守にするだけだ。 沙耶は家の鍵を誰に預けるか迷って、沙羅が働いていたという酒場の主人に預けた。それと、学校に――この時期はもうほとんど閉鎖されている――しばらく出かけてしまうことを伝えて欲しい、と頼んだ。主人は何も言わずに、快くそれを引き受けてくれた。あるいは、なんとなく分かっていたのだろうか。 クロリアに対抗する彼らの組織は、総勢で三百人ほど。他に支援者や支援組織などが多数いて、実際には相当な規模になるという。クロリア内部にもいるというから驚きだ。 組織自体に名前はない。リーダーは石田成明という人物で、かつてはクロリアを構成するメインカンパニーの一つの重役であった。ところが四十年前、彼の息子が特殊能力者であることが判明し、彼が存在すら知らなかった特殊能力者の研究グループが、その子を研究対象として攫ったのである。当然、その子は発見されなかった。 彼は独自で調査をし、やがて自分の属するグループの暗部に触れたのである。 そして彼はクロリアを脱走し、今の組織を作り始めた。三十五年も前のことである。 石田氏は現在七十歳。老化抑止の医療技術はかなり発達している――そのほとんどが皮肉にもクロリアによって開発されたものだが――が、それでも衰えは否めない。だが、彼をはじめとして組織の人達の想いは、非常に強かった。 クロリアを倒す、と言っても、別にクロリアの社員を皆殺しにする、ということではもちろんない。 いつかクロリアのその非人道的な研究の証拠を握り、公開する。それによって、クロリアが崩壊するということはないだろう。だが、研究は確実に中断されるし、クロリア自身にも相当の大打撃となる。彼らを突き動かしているのはクロリアに対する恨みや憎しみなどでであるが、それで失った子供や兄弟、恋人達が帰ってくるわけではないことも、分かっている。何より、これ以上の犠牲者が出て欲しくない、という思いが強い。 ただ、それには絶対的な証拠が必要だった。口頭での証言は力が弱い。物的証拠がいる。クロリアのライバル企業やFBNへ持っていけば、いかにクロリアとて隠し切れはしないだろう。 FBNというのは、大天災の少し前に発足した国連情報管理局がその原型となっている。 大天災以後、相次ぐ巨大企業同士の争い、暴力団、ギャング抗争等で世界が混乱し、それまで整備されていた情報網が寸断された。結果として、世界中のネットワークが崩壊したのだが、これによって情報というものも企業が自由に扱うようになったのだ。それはつまり、一方の利益を反映させるための情報――すなわち情報操作が非常に容易になったことを表す。 そしてそれを懸念した人々が作ったのが、FBN――Free Broadcast Networkであった。 彼らは小規模な活動から始め、また企業が握っていた通信衛星のチャンネルを、なんとかして使わせてもらえるように地道に活動をつ続けた。最初こそ疎まれたが、やがて少しずつその動きが広がり、現在では全世界的なネットワークを持つ、一大情報機関となったのである。このFBNは、必ずどこかの企業が独占している通信衛星を、特定のチャンネルに限ってとはいえ使うことができる。これによって、世界中を余すところなくカバーする情報ネットワークを作り上げることが出来たのだ。 あらゆる企業に属さない、かつ公平な報道を行う情報発信機関。企業側からすると、疎ましくも思える組織なのだが、かといって自分達に不利な報道がされた時に、自分達だけ彼らに衛星を託さないとなると、その時の報道が自分にとってマイナスであることを認めることになる。 このFBNか、あるいは世界を牛耳るメガコーポレーションにクロリアの情報を渡せば、クロリアの研究が明るみに出て、彼らは追い詰められる。 だがこの三十年あまり、組織の活動は実を結べていない。もっとも、まともに活動できるようになったのはほんの数年前だ。そう焦るべきでもないのだが、彼らは一日も早くクロリアの研究と止めたい、という想いが強いのだ。そのことが、最近焦慮を導いている気がする、とは陣の言葉だ。 また、発表することによって特殊能力者の力が、一般認識より遥かに大きいこともまた、知られることになるだろう。仮に、研究データを全て破棄したとしても、研究に携わった人間全てを殺すことは不可能だ。特殊能力者と一般の人々との間に軋轢が生じるのは避けられないのではないか、と懸念する者もいる。これに対しては未だに組織内でも結論は出ていないらしい。ただ、共通する思いは一つ。クロリアという企業に対して復讐すること。 沙耶はふと、自分にそれだけの想いがあるか疑問にならなくもない。そもそも沙羅を助けたいから協力することにしたのだ。別にクロリア相手に戦争しよう、というつもりなどない。ただ。 自分は、多分クロリアと関係がある。良く見る記憶の場所ははどこだかは分からないが、良く思い出してみればどこかの研究所だと思える。 それに、夢の――記憶の――中で自分が使って見せた特殊能力。強力な障壁で対人誘導弾頭(マンブラスト)のベアリングを完全に遮断した力。あれは、クロリアで育成された強化特殊能力者だからこそできることではないのだろうか。だとすれば、自分は蓮条陣と同じ立場の人間なのかも知れない。 作られた能力者。そして、何かのきっかけで研究所を脱走してしまったのか。その時に記憶を失ったのかもしれない。それならば、自分がクロリアに狙われたのも分かる。彼らは、自分を連れ戻しにきたのだろう。 とすると、沙羅は巻き添えを食ったということになる。そう考えると、自分のあの時の無力さがあまりにも悔しかった。あの時、自分が力を使えれば、あるいは沙羅が連れて行かれるようなことにはならなかったのかもしれない。実際には沙耶に力があっても連れて行かれたかもしれない。しかし、沙羅が捕まるような事態は回避できたかもしれないのだ。 必ず助け出そう。沙羅は、まだ生きている。沙耶には、根拠はないがなぜかそういう確信があった。 それが自分の能力による予感なのか、それとも単に願望を勘違いしているのかは沙耶にもわからない。 『特殊能力』と一言に言っても、実は色々な種類があって、大別すると次の四つが存在するらしい。 まずサイコキネシス――念動力。これは手を触れずに物を動かす力である。そしてドロービジョン――透視能力。物体を透過して見えるはずのない向こう側を視る能力だが、望遠視覚能力や、拡大視覚能力などもあるという。中には相当離れた、しかも行ったことのない場所を見通すことが出来る者もいるという。ここまで行くと、視覚を『飛ばして』いる、と言っても良い。あとはテレパシー――精神感応能力。人の心に直接語りかけ、そして人の心を操ることすらできる、と言われている。しかし、それほどの使い手は、いまだに確認されていない。せいぜいが、離れた人と言葉なく会話する程度の力しかない。最後がESP――超感覚。予知、予感といった能力で、不確定ではあるが、使い方によってはもっとも強力なものでもある。 他にも、伝説とされている能力がいくつかある。これは、存在自体がまったく未確認で、ただ昔の史書などにある不可思議な記述が、実は超能力だったのではないか、という推測から存在するのではないか、といわれている能力で、テレポーテーション――瞬間移動や時間干渉能力がそれである。中には時間跳躍(タイムポーテーション)もあるのでは、といわれているが、これはさすがに御伽噺だろう。 おそらく、沙耶がマンブラスト対人誘導弾頭(マンブラスト)をはじいて見せたのは、サイコキネシスの一種である。サイコキネシスで力場を形成して、銃弾をはじく。ただ、その力は組織の人間が知る誰よりも強力なものだ。サイコキネシスによる力場で銃弾を弾くのは、組織内でも蓮条が得意とする能力である。ただそれでも、拳銃弾や電磁誘導銃(レールガン)を弾くのが精一杯だという。沙耶のようにマンブラストのような多数の弾を一度に弾き返す力など、とても考えられるものではない、というのだ。 そういわれても沙耶自身も夢の記憶の中で見たものであって、本当にあれが自分の記憶であるかどうかはわからない。ただ、多分そうなのだろう、とは分かっている。 特殊能力は、個人によって色々向き不向きがある。たとえば蓮条は念動力を得意とするが、その他の能力はほとんど使えない。 ほかにも数人、クロリア出身の特殊能力者がいて、限定的な念動力と分類されているパイロキネシス――念発火能力しか使えない者もいる。これは発火能力とも呼ばれているが、実際には対象の温度を自在に操る力である。これはこれでかなり強力で、組織内にいる念発火能力の使い手の内の一人は、一瞬で鉄骨を融解させてしまったり、逆に一瞬で大気を凍らせてマイナス100度くらいにすることができるらしい。 このあたりの研究は、笠原医師がかつて関わっていただけあって、詳しい。 彼によると、特殊能力というのは精神の力だけあって、その本人の意識の持ちようが大きく影響するらしい。 「たとえば、怒り。これは非常に大きな力を人に与えることがある。怒り狂った人は、時として信じられないようなことをして見せることもあるからね。あとは憎悪。こういった、負の感情、というのは持つこと自体はあまり誉められたものではないけれど、時として人に大きな力を与える。あと、追い詰められたときもそうだ。昔から『火事場の馬鹿力』というだろう。あれは、極限状態において、人間の潜在能力が一時的に開放されるものじゃないか、と今では考えられている。ただ、いずれの場合もそうそう限界は超えるものじゃないんだ。もし、君の見たというその夢が本当ならば、君は現時点で考えられないほど強力な力を、あっさりと行使したことになる。もしかしたら、君はかつてないほど強力な潜在能力を持っているのかもしれない」 普通の特訓などであれば、体を鍛えればいいのだが、特殊能力の訓練、となるとやはり沙耶が考えていたものとはまったく違っていた。いわゆる、イメージトレーニングに近い。 目の前のコップが浮くのをイメージする。ここで大事なのは、絶対に「浮くはずだ」と思うことだという。普通の人間は、頭のどこかでそんなことがあるはずがない、という考えにとらわれるものだが、まずそれをなくさなければならないらしい。常識で考えるな、ということだ。 簡単なようでいて、意外に難しい。 何しろモノが勝手に浮き上がるなど、生まれてからずっと馴染んでいた感覚としては――といっても沙耶の場合は記憶があるのは沙羅に出会ってからなのだが――コップが浮き上がることが当たり前など、そうそう思えるはずはないのだ。 ただそれでも、沙耶は根気良くその訓練を続けていた。 そうして数ヶ月。 いつまで経っても沙耶の特殊能力は覚醒しなかった。だが、その他については驚くべき成長を見せていた。 特殊能力だけでは、当然戦えるものではない。どれほど強力とはいっても――沙耶が夢で見たほどのものはともかく――大抵は銃器を持った人間を複数同時に相手にできるほどではない。したがって、特殊能力者といえども普通の兵士と同様の訓練も、当然ある。通常の格闘や銃器の扱いなどだ。 そしてその能力が、沙耶はずば抜けていた。 もともと、沙羅と暮らしていたときですら、自分の感覚の鋭さ、体に染み付いた条件反射は普通の人のものではない、とは思っていた。どうやらそれは、兵士としての能力であり、しかもきわめて高水準のものであったのだ。 わずか半月で、沙耶の兵士としての能力は組織内でもトップクラスになっていた。自分自身でもこれは不気味だった。何しろ自分は、せいぜい十五、六歳の少女だ。確かに、力などでは及びもつかないが、それでも同世代の女性の平均筋力の、なんと倍以上の筋力があった。瞬発力や反射神経などは、二十歳の男性の平均はおろか、最高水準をも遥かに上回っていた。射撃においても、異常なほどの早撃ちで、しかも狙いがまるで機械のように正確だったのだ。 自分でも不気味なほど、沙耶の戦闘能力は秀でていた。沙耶自身、かつて自分が兵士として育成されていたことは、もはや疑い様はない。そして、感情をも抹消されていたことや、あの数々の記憶が事実であったことも。 機械のような自分。考えてみれば、それは兵士としては理想的な形だろう。ただ、機械的に言われたことをこなす、人形のような、しかし最高水準の戦闘能力を持った兵士。しかも特殊能力まで使うとなれば、下手をすると一人で最新の装備をした一個中隊に匹敵する戦闘能力を秘めているだろう。小隊規模で拠点破壊が可能だ。 クロリアは、化学・医学関係には非常に強いが、それ以外の分野では他の企業体に劣る。沙耶のような存在は、クロリアが軍需産業としてさらに勢力を拡大しようという意思があることを示している。 ただこうなると、組織内ではなぜそんな存在――無論全て推測の域を出ていないのだが――である沙耶が、外に出てこれたのか、そして今なお放置されているか、ということが疑問になってきた。 沙耶の、少なくとも特殊能力以外の力はもはや誰もが認めるところである。 戦闘教官は、自分の経験上、これほどの能力をこの年齢で身に付けるには、もはや物心つくころから訓練を受けてないと不可能である、といっている。 だとすれば、沙耶は、幼い子供のころから、兵士として教育されて来ていたはずで、まともな人間的感情など育成されるはずもない。少なくともクロリアはそんなことはしない。だが、現在の沙耶の情緒反応は、幾分ずれたところはあるが、普通の十五、六歳の娘とほとんど変わるところはない。 いくら沙羅と一緒に過ごした半年間があるとはいえ、そう簡単に人間らしい感情が身につくとは思えない、というのだ。 しかし、沙耶はそういわれても、今の自分の状態は確かに以前の記憶を辿ると不思議だなとは思うのだが、別に今の自分に不自然さを感じることはない。しかしこの傍から見ると不自然に思われる沙耶の存在が、あらぬ誤解を生むことにもなるのだった。 |
その日、訓練の終わった沙耶は――相変わらず特殊能力に関してはさっぱりだったが――自分の部屋に戻る途中だった。 沙耶が今生活しているのは、横浜スラムの南のほうで再開発はそれほど進んでいない。 だが、一応かつての幹線道路があって、中心街まではそう時間はかからない。中心街まで二〇分程度だ。 それに、普通の食料品などは、周辺でも販売しているので生活に不自由はない。それらを購入するお金は組織から支給されている。 沙耶の部屋は、集合住宅の一室である。比較的最近に建造されたもので、強いて不満をあげるなら、浴室にシャワーしかなくてお風呂がなかったくらいだろう。だが、さすがにそんな贅沢は言えるものではない。 部屋は、三階である。全五層の集合住宅は、その全てが実は組織のメンバーの家であった。無論、表向きは雑多な職業の人間が住んでいることになっている。ちなみに沙耶は学生という肩書きだ。 いつものように沙耶は、メインゲートをくぐって階段で三階まで上っていく。無論、エレベーターもあるのだが、三階くらいなら別にエレベーターを使うほどのことでもない。 階段から通路に出ようとしたところで、沙耶にその通路で話している声が聞こえてきた。別にそれならば気にするほどのことではないのだが、その会話の中に『さや』という単語が聞こえたので階段から通路に出るのを躊躇してしまった。話しているのは、時々沙耶と一緒に訓練を受けている女性達だ。 「だって、まだ十五、六歳でしょう?それであの能力。しかも特殊能力まであるって話でしょう?元クロリアの人工能力者だったらしいし。だったら、いまだに放置しているのって妙じゃないかって。しかも一度は連れ戻しに来たって話じゃない」 「まあね……あれだけの能力だと確かにそう思いたくなるわね。だとすると可能性は一つしかないんじゃないの?クロリアなら精神に関する研究もかなり進んでいるって聞いてるし」 そこまでいわれれば沙耶にも分かる。つまり、スパイではないかというのだ。あるいは、記憶封鎖という可能性。彼らの会話からもそういう単語が、聞こえてきている。 考えたくはない。けれど、自分では否定できなかった。催眠暗示というのは本人でも気付かないものだという。特に、精神感応力能力者による暗示は、本人が自分の意志で動いているつもりでも、それ自体が暗示によって動かされているものだという。そして、あるきっかけや命令で、暗示によって与えられた命令を本人の意思とは無関係に実行してしまうらしい。そこまで強力な精神感応能力者は、一般には確認されていないが、だがクロリアなら、あるいはいてもおかしくはないように思う。 それに、記憶の中の自分を振り返ってみると、命令されたことは躊躇なく実行していた。そして、その頃の記憶はひどく曖昧だ。 もしかしたら、自分はすでにその影響下にあるのだろうか。そして何かのきっかけで、ここにいる人達を皆殺しにするのだろうか。あのダムの人達のように。 なにか、いてもたってもいられなくなって、沙耶は階下へ走り出していた。沙耶は、建物の外に出ると、ただ走り続けた。怖かった。彼らの言うことが真実としか思えなくて。まるで、自分が化け物のように思えてしまって。いや、実際普通でないのはもう分かっていたことなのに。 心が、ギシギシと痛む。信頼されていないということが、疑われているということがこれほど辛いとは思わなかった。 涙が込み上げてくる。何が悲しいのか、それとも悔しいのかすら分からない。ただ、涙が溢れて止まらない。 「おい。どうした、こんなところで」 どれほど時が経っていたのだろうか。いきなり声をかけられて、沙耶はびっくりして顔を上げた。 いつ来たのか、近くの川縁で突っ伏していたようだ。顔を上げると蓮条の顔がある。 「え、いえ、なんでもないです」 思いっきり泣きはらした顔を見せてなんでもない、もないだろうとは思ったが、沙耶としてはそれ以外に言い様もなかった。なのに、また涙が溢れそうになる。 「おいおい……まあ何があったかは想像はつくけどな。あんたは随分噂話とか疎かったし。俺もそんなの自分から聞いたりはしないが、それでも耳には入ってきていたからな」 蓮条はそういうと、沙耶の横に腰掛けた。 「気持ちはわかる……。俺にもあったんだ。そういうこと。いや、今も少しは疑われているかな。特殊能力者は、クロリアの最高機密だからな。あと、笠原医師とか。けど気にしていたらきりがない。あんたは、少なくとも今、自分の意志でここにいるんだろう?」 それはもちろんそうだ。けれど、本当にそれが自分の意思なのか、となると自信がない。 「でも、それだってもし催眠暗示とかだったら、それだったら私は自分の意志で行動しているつもりでも……」 「それはそうかもしれないけどな。催眠暗示だって、完璧なものはない。自分の意志で、どうにだってなるもんだ。実際俺は、連中の言うことに従うように暗示をかけられたけど、逆らった。だからここにいる」 そう言い切る蓮条は、沙耶にはとても頼もしく見えた。けれど。 いつも無力だった自分。沙羅がいなければ、とっくに野垂れ死にしていたに違いない。今だって、過去の記憶に怯えている。そんな自分が、蓮条の言うように強くなれるとは思えない。 「俺だって初めから強かったわけじゃあない。いや、今だって強いかどうかは分からない。ただ俺は、俺が生きたいと思って生きている。クロリアやつらに枷をはめられたくはない。無論、今の仲間にも。俺は俺の望みと合致したから、ここにいるんだ。俺の意志でな」 「自分の、意志……」 まるで今の自分の心を読み取ったかのような蓮条の言葉に、沙耶ははっとなって顔を上げた。それから、その言葉をかみ締めるようにもう一度呟く。 自分で何かを決める。簡単なようでいて、実は意外に出来ていないことが多い。 沙耶には、少なくとも以前は自分の意志などなかった。けれど、沙羅と出会って、自分で働くことを望み、自分で食事を作った。そして、ここに今いるのは自分の意志のはずだ。 確かに、もしかしたら催眠暗示で、深層意識の底でクロリアの尖兵となっている自分がいるのかもしれない。けれど、それならばあの芦ノ湖で戻って来るように命じればいいはずだ。大体、半年も放置しておくのもおかしな話である。 それに、今沙耶がこの組織の中にいるのは偶然だ。そこまで予測できるような相手なら、もう勝ち目などないだろう。 「自分の意志で決めたことなら、自分が正しい、と思っていることなら、きっとやり通せる。良く分からない暗示なんぞに、負けるわけはない」 蓮条が、まるで自分に言い聞かせるように言う。もしかしたら彼も、同じように苦しんだのかもしれない。彼が勝てたのなら、自分でも勝てるはずだ。同じ境遇を持つ者なのだから。そして、心を強く持つことが、意志の力の体現である『力』の発言にも繋がるはずだ。 それに、彼と違って、沙耶にはまだ、沙羅という存在がある。沙羅は生きていると、沙耶は信じている。ならば、そんなことは悩む必要などない。沙羅を助けて、前のように暮らすのだ。そのために、今は力を蓄える必要がある。 「少しは楽になったか?」 彼は少し照れたようにそっぽを向いている。元気付けてくれたんだ、ということはすぐ分かった。普段無愛想だけどちゃんと優しいところもあるんだな、とちょっと発見した気分にもなる。 「うん。ありがとう。蓮条さん」 その言葉に、蓮条が少し顔を顰めた。 「え、あの、私なにか……?」 その顔を見ていた蓮条は、しばらくそのしかめっ面をしていたあと、ぷっと吹き出すように笑った。 「そんなに深刻そうな顔をするなよ。まあ覚えてなくても無理ないけどさ。陣と呼んでくれればいい、って言ったの最初だったしな」 言われて沙耶は記憶を辿った。確かに、初めて彼らに会った時、蓮条もいたはずである。そういえば、そう言われたような気もする。けれど、すっかり忘れてしまっていた。 「あ、ごめんなさい。でも、その……それじゃあ、陣さん?」 そう呼ばれることは予測していなかったのか、蓮条は見て分かるほどに脱力していた。その様がおかしくて、今度は沙耶が笑う。それを見て、蓮条もややくだけた様に笑った。 「どっちにしても、気にするなよ。あんたは俺達の仲間だ。それは間違いない」 気負うことはない。自分にやれることをやり、自分の目的を見失わなければいいのだ。 「ねえ。陣さんもこういう風に悩んだこと、あったんですか?」 なんとなく出た質問だが、この辺は組織に加わった経緯が似ている気がするので、ぜひ聞いてみたかった。さしずめ、今の沙耶にとって彼は『先生』である。 「ああ。俺はあんたほど能力が秀でていたわけじゃなかったけどな。ただ特殊能力が使えたし、それで色々言われたことはある。だからちょっとお節介を……って何言わせるんだ」 彼は、また照れたようにあさっての方向を見ていた。沙耶は、なんとなくその仕種が可愛く見えたので、思わずクスクスと笑い出してしまう。 「もう大丈夫です。ありがとう、陣さん」 「なんかその呼ばれ方もなあ……」 蓮条が苦笑する。 「だって呼び捨てってなんかまだ抵抗が。嫌ですか?」 立ち上がった沙耶は、ちょっと首を傾げて蓮条を少しだけ上目遣いに訊ねた。 沙耶は気付いていないのだが、こういうときの沙耶は、断ることが出来なくなるような魅力を持っている。 「まあいいよ。とにかく、元気出せよな」 「はい」 蓮条は、それを聞くとさっさと歩き出していってしまった。 どうせ戻るのは同じ場所なんだから一緒に行けばいいのに、と思って慌てて追いかけるが、結局半ば駆け足になっている蓮条に追いついたときには建物に着いていた。 沙耶は気付かなかったのだが、蓮条の顔はやや上気したように赤くなっていたのである。 |
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「クロリアの研究所にクロリアのトップが揃うらしい」 この情報は、いくつかの地下ネットワークから流れてきたものだった。ニュースソースはいずれもかなり信憑性が高い。 クロリアの本社は、新東京市にあり、そのセキュリティレベルの高さはまさに要塞並である。 だがクロリアを叩くには、ここを攻撃しなければならなかった。なぜなら、特殊能力者の研究所は、当然その本社ビルである地上五十五層、地下二十層の高層ビル――通称スパイラルタワー――の中にあるのだ。外部と内部でネットワークが物理的に分離されているため、ネットワークによるハッキングも不可能であり、物理的にタワーに侵入するしかないのだ。そして、クロリアの重要人物は、このタワーから出ることすらほとんどない。 「だが、なぜ奴等が」 その疑問は当然だった。どうやら、彼らは何かしらの研究成果を直接見るのだという。しかも、場所は、企業用地として立ち入り禁止区域に指定されている旧横浜港の港湾地区。そこにあるツインタワーの一つ、ランドマークタワーである。 確かに、あそこにはクロリアの研究所があるのは以前から分かっていた。だが、表向きは医療関係の機械開発の研究所とされていて、彼らも、ある程度の調査をしたのだが、その時には分からなかった。 だが今回、クロリアのトップが集まるというならば、その研究内容は考えるまでもない。 ランドマークタワーのセキュリティのレベルは決して低くない。無論、クロリアのトップが来るのだから、さぞかし厳重な警備が敷かれるだろう。だが、それでもスパイラルタワーよりはセキュリティレベルは低いはずだ。 できればクロリアの重要人物を攫う。だがそれはついででいい。最大の目的は、そのランドマークタワーにあるであろう、特殊能力の研究データを奪うことだ。これは、クロリアにとってはアキレス腱になるはずなのだ。このときだけは、クロリアの特殊能力者の研究データのほとんどが、ランドマークタワーに集まるはずだ。ただ、ランドマークタワーも内部と外部のネットワークは接続されていない。物理的に潜入するしかないのである。 かくして、ランドマークタワーの襲撃が決定した。日時は二ヶ月後の三月二十四日。組織にとって、初めての武力蜂起である。だが、不安より期待が大きい。 「どう思う?」 いつものように訓練が終わった沙耶は、かつて陣に励まされた川縁にいた。最近は、そこに陣も来るのが日課になっている。 「罠……という気がしないでもないです。けど、分からないの」 「それは、沙耶の勘か?」 沙耶は首を振る。実際、分からない。本当にそんな気がするだけなのだ。 「沙耶の予測は、あるいは潜在意識の警告――つまり超感覚(ESP)である可能性があるからな。軽視は出来ない。沙耶にどれだけの力があるかなんて、全然分かっていないからな」 「ごめんなさい……」 沙耶はうな垂れるように下を向いた。 結局、沙耶の能力は全く覚醒していなかったのだ。笠原医師に言わせると、潜在能力はかなり高いという話だ。だが、潜在したままで終わっては意味がない。 ただ、焦る気持ちは結局能力の覚醒を遅くするだけだといわれ、今はあまり特殊能力の訓練はしていない。気負ってばかりの沙耶を気遣って、マリアがそう頼んでくれたのだ。 「いずれにしても、クロリアのトップが来るのは事実らしい。ならば、動かないわけにはいかないだろうな。大丈夫か?」 沙耶には一瞬、陣の質問の意味が分からなかった。 「つまり、戦うことがさ。人を殺す、ということを覚悟しないといけない。そして、敵と差し向かいになったとき、迷わずにトリガーを引く。それが出来なければ、死ぬのはこっちになるんだ。だけど、沙耶にその覚悟があるのか、ちょっと心配でな」 「心配、してくれるんですね」 陣は「当たり前だろ。仲間なんだから」というと、やっぱりそっぽを向く。沙耶はそれを見て、クスクスと笑った。 「大丈夫です。沙羅を助けるまで、私は立ち止まったりしません。もちろん、一人じゃ戦えないですが。だからよろしくお願いしますね、陣さん」 もう迷いはない。戦わなければ未来が拓けない、というのであれば、戦い続けよう。その先に、たとえ何があったとしても、後悔はしない。 沙羅と再び出会うために。 なぜか沙耶は、もう一度沙羅に会わなければならない、と強く感じていた。それは、確信に近い。 沙耶にとって、そしてクロリアコーポレーションにとっても大きな分岐点が近付きつつあった。 |
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「彼らはどうやら、餌に食いついてくれるらしいよ。もちろん、君の愛しいあの娘も一緒だ」 暗い室内で、男は影に愉快そうに話し掛ける。だが、影は身じろぎ一つしない。 「つれないな。嫌われてしまったものだ。まあ仕方ない。だけど、君の望む望まないに関わらず、事態は私の思惑通りに進んでいる」 そこではじめて、影が口を開いた。女の、かすれそうな、だが強い怒りと、そして哀しみの感情のこめられた声だ。 「あなたはそうやって、常に人を見下し続けるのね。それであなたは、最後に何を望むの?」 反応を期待していなかった男は、初めて驚いたようにその影――女性を見る。 「君が私を心配してくれるとはね。だが、私は舞台の最後に登場するだけだ。よければ君には、その姿を一番近くで見て欲しかったが……」 男はそこで黙って、彼女の返答を待った。だが、彼女はもう何も答えない。 「ふむ。まあよかろう。まだ考える時間はたっぷりある。私は、君を待っているよ」 数瞬の後、男は部屋を後にした。 「来てはダメ。お願い。来ないで……」 その独語を聞く者は、誰もいなかった。 |