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「起きろ、沙耶」 陣の声で、沙耶は跳ね起きた。確か自分は沙羅に会ったはずだ。そして光に包まれた。けれどその後のことを全く覚えていない。 周りを見回してみると、すぐ横には陣がいた。少し心配そうな顔をしている。 「大丈夫か。意識ははっきりしているか?」 陣の言葉に、沙耶は小さく頭を振る。 「大丈夫です。それより一体……」 「気が付いたら、ここにいたんだ。ランドマークタワーじゃないのは確かだ。それ以上は、分からない」 ぼやけた視界がはっきりしてきたにも関わらず、やはり何も見えなかった。いつの間にか夜になっているようだ。見えるのは、見事なまでの、闇。曇っているのか、月明かりも星の光もない。座っている場所が土の上であること、背中に木の幹の感触があることだけが分かる。 どこかの森の中だろう。それも、あまり人の手が入っていない場所のようだ。大天災以後、意図的に人間の手を入れないように『植林』した場所は多々あるから、そのどこかかもしれない。あるいは――。 あの時。 沙羅から溢れ出した光に包まれた後、宙に浮いているような感覚になった。まるで重力を感じなかった。念動力で浮いている感じとは全然違う。 「あれは一体……なんだったんでしょうか……」 「多分転移能力(テレポーテーション)だ。沙羅さんもやっぱり特殊能力者だったんだな」 転移能力(テレポーテーション)。その能力は沙耶も知っている。本人の意思で、どこへでも自在に一瞬で移動する能力。これまでごく僅かな、極めて限定的な能力としてしか確認されていなかった能力である。 だとしたら、ここがどこかなど陣や沙耶には分かるはずもない。 「ただ彼女のは限定的な力だろうな。多分自分を飛ばすことはできないんだろう。でなければ、あの時彼女も脱出したはずだ」 転移能力にはいくつか種類がある。一つが自己転移(セルフテレポート)。名の通り、自分自身のみを転移させる能力だ。もう一つが他者転移(アザーテレポート)。これは自分ではなく他者(普通は一人)を転移させる。最後の一つが物体転移(アポート)で、これは生命体――精神構造が高度であるのが条件と言われているが――を運ぶことは出来ないが、他者転移と違い、離れた場所にある物体を自分のところに引き寄せることもできるのだ。他者転移は基本的に対象に接触しなければならない、とされているのである。 ただ、いずれの能力も極めて限定的であった。 これまでに転移能力者として確認されているのはこの五十年で僅か五人。自己転移能力者が三人、他者転移能力者が一人、物体転移能力者が一人である。 彼らはいずれも転移できる距離がせいぜい数メートル。しかも、自己転移、及び他者転移には致命的欠陥があった。 転移対象以外の何も、例え身に付けている服ですら転移させることができないのである。 陣も沙耶も知らぬことだが、当然クロリアでもこの能力は大いに注目されていた。上手く使えば、敵陣の真ん中に突然爆弾を放り込んだり、全ての防衛線を無視していきなり敵中枢を攻撃することが可能となる。これは、これまでの戦場の様相を一変させてしまう。 だが、まず転移能力を持った者が圧倒的に少なく、クロリアでもサンプルは得られなかった。そこで、強制的に能力を開発しようとしたのだが、全て失敗に終わり、さすがの彼らも転移能力に関する研究は、打ち切ったのだ。 いずれにせよ、沙羅が今回沙耶と陣に使ったのが転移能力だとすると――それしか考えられないのだが――それは、従来知られているどんな転移能力より遥かに強力なものである。少なくとも、陣と沙耶の二人を同時に転移させ、かつ服や装備までそのままだ。 「それに、奴らも沙羅さんが転移能力を持っていたのは知らなかったようだ。だとすれば、もし彼女が自分を転移させることができるのなら、とっくに逃げ出していたはずだしな」 「冷静ですね……」 沙耶には、陣のその冷静さは頼もしく見えると同時に、どこか非情な印象も受ける。 「沙耶が取り乱したとき、一緒に取り乱していたら大変だからな」 陣も強がっていたのだ。ただ、自分がいるから無理してくれている。それは、なんとなく嬉しかった。 「ごめんなさい……。なんか今だと本当に頼ってしまいそうで」 「構わんさ。もっとも俺も、この状況では文字通り五里霧中だ。とにかく夜明けを待とう。全てそれからだ」 「はい」 暦の上では三月だが、森の中、しかもいくらか高地であるためもあろう。気温は氷点下近くまで下がっていた。 当然、二人とも防寒装備などは持っているはずもない。 最初、二人はできるだけ体温を失わないように、木にくっつくようにして体を休めた。だが、どうしても体温は奪われてしまう。 「あの、そっち行っていいですか?」 沙耶は立ち上がって陣に近付くと、そのまま彼の腕の中にもぐりこんだ。 「お、おい」 「こういうときはくっついていた方が体温を失わずにすむって本に書いてあったんです。それにこれなら」 沙耶は自分の着ていたジャケットを脱いで自分の右肩と陣の左肩にかける。陣は意図を察して自分のジャケットを逆の肩にかけた。 「こうすれば暖かいでしょう?」 「なるほど」 お互いの体温を感じられて暖かいし、肩なども冷えない。 多少の気恥ずかしさを覚えなくはないが、そういう感覚も今はかなり磨耗しているらしい。とりあえず、お互いの体温のおかげで寒さに神経を削られなくなった分、他のことへ思考が及び始めた。 しばらくはお互いに無言。夜の闇は奇妙なほど静まり返っていて、たまにフクロウの鳴く声が聞こえる程度で、それすら寒さに震えているのか途絶えがちだ。 完全な闇と静寂。その沈黙を破ったのは沙耶だった。 「結局……作戦失敗でしたね」 「……そうだな」 答える陣の言葉には、口惜しさが混じっている。結局、何も出来なかった。というよりも、完全に待ち伏せされていた、と見るべきだろう。他の仲間がどうなったのか、気になりはしたが確かめる術はない。それに、正直もう確認するまでもないような気がしていた。 二人がここにいるのだって、沙羅のおかげである。沙羅がいなければ、二人とも捕まるか殺されるかしていたに違いない。 沙耶は、沙羅のことを考えていた。 数ヶ月ぶりに見た沙羅は、少しだけ痩せたように見えた。 けれど、無理もないだろう。あんな場所に幽閉されていたのでは。 せっかく逢えたのに、助け出せなかったのが、口惜しかった。だが、あそこで沙羅が自分達を逃がしてくれなければ、全員捕まっていたに違いない。 沙羅があの後どうなったのか。気になって仕方がないが、確認する術は今の沙耶にはなかった。 「沙羅さん、無事だといいな」 「……うん」 陣も沙羅のことを考えていた。視線を下げると沙耶の顔が見える。その顔にそっくりな女性。そして転移能力(テレポーテーション)の持ち主。だが、彼女ほどの力があってもクロリアには捕らえられてしまったということだ。つまり今の陣の力ではどうしようもないとしか思えない。 目の前にいる沙耶と沙羅の関係も気になる。他人の空似というにはあまりにも似すぎている。沙羅は一度否定したというが、姉妹であるという確率が一番高そうだ。 「陣さん、どうしたのですか?」 思索に耽っていた陣は、沙耶の声で現実に立ち戻った。 「たいしたこと考えていたわけじゃない。これからの先行き、とかな」 「……私はもう一度沙羅を助けに行きたい。けど、無理ですよね」 「そんなことはない」 陣は少し震えていた沙耶の肩を抱き寄せた。 「無理だとあきらめていては始まらない。生きている限り可能性はゼロじゃない」 「……そうですね。ありがとう、陣さん」 沙耶はそのまま目を閉じる。しばらくすると小さな寝息を立てて眠っていた。 「無防備に良く寝てくれて。まあいいけどな」 すっかり信頼されているというのは悪い気はしない。そうしている間に、陣にも睡魔が襲ってきた。 「全ては明日から、だな……」 |
二人が目を覚ましたのはまったく同時だった。目を開けるとすぐ目の前にお互いの顔がある。沙耶はほとんど抱き合うように眠っていたことに気が付いて、驚いて跳ね起きた。寒かったからそうしたのだが、改めて考えてみると気恥ずかしい。さすがの陣も、この状況にはさすがに少しうろたえたのか、しばらく無言で視線を泳がせている。 「……おはよう」 「お、おはようございます」 ややぎこちなく挨拶を交わした二人は、とりあえず立ち上がると、ジャケットを着込んだ。陽が昇ってきてもまだ冷える。冬なのだからしかたないだろう。 周囲を見渡すと、どうやら山道のようだった。一応、ある程度は整備されているようだ。二人はその道端の木のそばで寝ていたようだ。 陣は一瞬、力を使って飛び上がり、周囲を確認しようと思ったが――昨夜は消耗しきっていて出来なかったから――思いとどまった。 ここがどこだか分からない以上、迂闊に力を使うのは危険だ。もし近くにクロリアの連中がいたら、力を使うだけで発見される恐れもある。 しかし、とにかくここに留まっていても何も出来ない。そう考えて、陣がさっさと歩き出す後を、沙耶が慌てて続く。 しばらく二人とも無言であった。不安や恐怖といった感覚が波のように押し寄せてくる。ここがどこだか分からないという不安。仲間達がどうなったかという不安。そしていつ追っ手がかかるかという恐怖。 だがいつまでもそれに怯えていても仕方ないということもお互い分かっていた。とにかく今は進むしかない。 天気も良く、冬独特の澄んだ空気があたりを満たしている。あるいは、こんなときでなければ、前に沙羅と一緒に来たハイキングのように楽しめたかもしれない。しかし、今二人はそんな気分ではなかった。 そうして歩くこと数十分。急に陣が立ち止まった。すぐ後ろを歩いていた沙耶は、危うくぶつかりそうになって立ち止まる。 「どうしたのですか?」 「……海?いや、湖か?」 沙耶は、陣が指差す先に視線を動かす。確かにそこには太陽の光を反射して美しく輝く水面が見えた。そしてその光景に、沙耶は見覚えがあった。 「湖……まさか、芦ノ湖?」 言ってから沙耶はそれを確信した。 「やっぱりそうです。ここ、芦ノ湖の近く。沙羅が襲われて、私がみんなに助け出されたところです」 「……なるほど……そうか……」 転移能力というのは、転移先を強くイメージするものだという。だから、基本的に行く先を知らないと転移は出来ない。だとすれば、沙羅がイメージしやすかったからだろうか。 それなら普段住んでいた家の方がイメージしやすかっただろうに、と思うが、あるいはそこだと追手がかかるのを恐れたのかもしれない。 「とりあえず、日本島の外じゃなくて良かったかな」 沙羅の力の程度は分からないが、それもあるいはありえなくはない、と覚悟していた。その場合、戻るだけでも大変な苦労になる。まして二人は企業籍――かつての戸籍にあたる――を持っていないから、身分を保証できるものが何もなく、下手をするとそれだけで捕縛される可能性もあるのだ。 「とはいっても……これからどうしたものか……って……霧まで出てくるか」 箱根山のあたりは、霧が深いことで知られている。しかも、一年を通して、特に午前中は時には二十メートル先も見えなくなることがあるらしい。まるで今の自分達の状況を表しているようだ、と陣は心の中で毒づいた。 「あの……一度、横浜に戻りませんか?私と沙羅の家。多少ならお金とかあったと思います」 陣はしばらく沙耶の意見を吟味しているようだったが、やがて「それしかないかな」と同意した。 実際、これからなにをするにあたっても、先立つものは必要だ。陣にもあてがまったくないわけではなかったが、いずれも連絡をすぐ取れるような相手じゃない。かといって、ここに留まっていてはいつか見つかる。箱根周辺は自然保護区域であり、複数の企業が管理している。そのため、定期的に巡回警備をしているのだ。 「とりあえず立ち止まっていてもな」 「はい」 二人は山道から高速軌道路(ハイウェイ)へと歩き出した。高速軌道路は、基本的に人が歩くための歩道が取り付けられている。 その長い直線路は、霧のため先がまるで見ない。その様は、まるで先の見えない二人のこの先を暗示しているかのようだった。 |
普段の彼らならば、芦ノ湖から横浜なら一日で十分なのだが、現在の彼らにそれはできなかった。 一つには、あまり人目に触れないようにしなければならず、したがって高速軌道路の交通量が増え始める時間になると、歩きやすい歩道ではなく、別の道を通らざるを得ない。加えて、起きたときはあまり意識していなかったが、二人とも相当に疲労していた。昨夜はちゃんと寝たのに、と思うのだが身体が言うことを聞かない。寒い冬の夜にまともな防寒もなく野宿したのだから、ちゃんと疲労が回復するはずもないのだ。 結局日が落ちる頃までに二人が到達できたのは、藤沢地区だった。 無理をすれば今日中に横浜にたどり着くことも不可能ではないが、二人とも既に疲労が限界に近い。それに元々、陣は藤沢に立ち寄るつもりだった。 一言に藤沢、といっても横浜同様に新旧二つの地区がある。ただここは、横浜とは多少事情が異なる。 横浜の場合、新地区は企業管理都市(キャピタル)、旧地区は廃棄都市(スラム)で、距離も離れているが、ここは新地区と旧地区が隣り合っていて、名目上両方とも企業管理都市であった。 ただし、旧地区への出入りは、ほとんど制限されていない。一応市街区全域を壁で囲んではあるが、旧地区の入り口は昼間は常に解放されている。基本的に、午前八時から午後七時までは、自由に出入りできるのだ。ただし、新地区と旧地区の間にも壁がある。そしてこちらの出入りは、厳しく管理されているのだ。 二人が藤沢の旧地区に入った野は、閉門寸前だった。とはいっても、まだ七時。街が眠る時間までは、まだかなりある。 実は街に入るかどうするか、かなり悩んだのである。 下手をすると、クロリアが近隣全てに対して自分達を手配している可能性もあるからだ。ただ、二人とも疲労がかなり激しく、もう一日の野宿は冗談ではなく身体に致命的な負担をかける恐れがあった。それに、陣にはあてもあった。 藤沢の旧地区は、横浜よりさらに雑然としている。 横浜は――一言に横浜と言ってもかなり広いのだが――基本的に閑静な住宅地が多い。無論、沙耶が住んでいた周辺はかなり市場等が栄えていたが、それでもあまり騒がしい印象はない。また、つい近年までスラム狩りが行われていた、というのも要因だろう。 対して藤沢は、一応企業管理の街であるため、整備はある程度行われ、もちろんスラム狩りとも無縁だった。その割に出入りは自由だから、かなりの人が集まってきたのだ。しかし、現在ではさすがに人口が膨張してきたため、企業側が住居の使用許可を、企業籍がある者に限定している。だがそれでも人口は増え続けている。しかし、この街に来る人は大抵は企業籍を持たない。だから、自然非合法の斡旋業が成立する。そしてやがて、それらが暴力組織と結びつき、さらに手を広げていく。一方で企業側も、非合法な手段すら容認しうるこの街ならではの――横浜はスラムとしての自治権が強いため、あまりおおっぴらなことは出来ない――新製品のテストを行ったりもするのだ。この街はそういう街だった。 湘南の魔都――いつしか藤沢は、そう呼ばれるようになっていたのである。 |
「賑やか……ですね」 「まあな」 陣は沙耶の言葉に生返事を返しながら、周囲に気を配っていた。 明滅するネオンと道端に溢れる人々。しかし、華やかな大通りを一本脇に入れば、そこはテントなどが並ぶ、いわゆる『籍なし』の者達が肩を寄せ合って生きているのを見ることができる。表と裏の顔が、これほど明確な街はそう多くはない。 ちなみに藤沢、という地名ではあるが、実際にはかつて存在した藤沢市より、遥かに巨大である。新地区は完全な計画に基づき建設された都市だが、旧地区は必要に応じてその都度、規模が拡大していったのだ。このあたりは、元々広大な区画を持っていた横浜スラムの方が、まだ整然としている。 現在藤沢の旧地区、と呼ばれる場所は、かつての藤沢市から横浜の南ぎりぎり、三浦半島の一部までである。広さだけなら横浜スラムとほぼ同等。もちろんそれだけ広ければ街の顔もいくつもあり、基本的に東に行けば行くほど居住区画となる。西の方は商業、または歓楽街。特に、沙耶と陣は当然西から来たため、真っ直ぐ歓楽街に入る羽目になったのだ。 もっとも、こういう場所の方がかえって発見はされづらい。 「でも……賑やかですけど、なんか、怖い」 沙耶は横を歩く陣の服の袖を強く握った。沙耶の気持ちは、陣にはわかる。 例えずば抜けた戦闘センスを持っているとはいえ、沙耶はまだ十六、七歳の少女だ。その彼女に、こういう雰囲気は馴染むものではないだろう。まして、クロリアによって育成されていたのであれば、常識というものも欠けているはずだ。沙耶が持つ一般常識は、沙羅と過ごした期間に身につけたものがほとんどなのだ。 「あまりきょろきょろしない方がいい。目をつけられる」 そうでなくても、見る人が見れば、二人が身に付けているのがただの服ではなく防弾ジャケットであることは分かる。さすがに電磁誘導銃(レールガン)などはもう処分してきてはいるが、多少目立つ。もっとも、この街ではそういうものを着用する者がいても、さして珍しがったりはしないが、さすがに沙耶のような少女が着けているのは、やや珍しいのだ。 「ある種、犯罪者の街でもあるからな……非合法がまかり通る街だ、ここは」 陣は低い声でそういうと、表通りから一つ裏へと入った。 「どこに……?」 「あまり会いたい種類の人間じゃないんだが、知り合いがいる。俺はクロリアを抜けた後しばらく、この街で育ったから」 何回か角を曲がって、陣が止まった場所は、傍目には場末の酒場、という印象だった。見上げると少し赤茶けた看板に『夢幻華』という文字が見える。周囲が毒々しいネオンの看板ばかりなので、逆にそれに好感を覚える。 もちろん、沙耶は酒場に入ったことはない。沙羅が勤めていた酒場にも、結局行ったことはなかったのだ。 「あの、どういう……」 「……俺がクロリアを抜けた後、二年ほどここで厄介になったんだ。どういう経緯かは知らないが、俺の親父の知り合いらしい。で、どうやったかは知らないが俺がクロリアを抜けたことを知っていて、拾ってくれた。酒癖の悪いオヤジだ」 そういいながらも、陣の言葉の端々に、少しだけ親愛の情が込められているのを、沙耶は聞き逃さなかった。 「私にとっての、沙羅ですね、その人」 「やめてくれ。あんな美人じゃあない」 陣はそういうと、酒場のドアを押し開く。 店内は、総じて薄暗く、狭かった。店はカウンターしかなく、奥への方にが若干広くなっている。人の踏みしめた跡の残った床、古いというよりも既に骨董の部類に入るのではないかというカウンターが、店の歴史を感じさせた。客は今はいないようだ。カウンターの向こう側の壁には、ぎっしりと酒瓶が並んでいる。そしてその前に、五十歳くらいの、髪の半ばが白くなった男が一人、グラスを磨いていた。 店内を照らす灯りは、カウンターの足元にある足下灯、レトロな橙の光を放つスタンドが三つ、あとは酒瓶をかすかに照らす灯りがいくつか。それだけだ。道理で薄暗いはずである。 「……いらっしゃい。久しいな。前のと同じでいいな?」 店の主人と思われるカウンターの人物は、入ってきた二人をしばらく見やった後、視線を戻してグラスを置いてそう言ってきた。 まるでこちらのことを知っているかのようなその言葉に、沙耶は驚いて陣を振り返る。 「……ああ、それでいい。あとこの子にもなにか、適当なものを」 陣はそういうと、カウンターの椅子の一つに腰掛ける。沙耶はどうしていいか分からず、とりあえず陣の横に腰掛けた。こういう場所は初めてなので、思わずきょろきょろと周りを見回してしまう。 「お待たせ」 コト、と目の前に置かれたグラスには、白い液体が入っていた。少し湯気が立っている。お酒かと思ったが、どうやら違うようだ。ふと陣の方を見ると、こちらは酒らしい。そういえば陣は、意外に組織でも酒を嗜む方だった。 恐る恐る飲んでみると、甘く、どこかすっぱい味が口の中に広がり、身体が温まっていく。すぐそれが、蜂蜜とレモン、それにミルクであると分かった。疲労回復には非常に適している。 「さて、大体分かるが……よく無事だったな」 その言葉に、沙耶はぎょっとして陣を見た。陣のほうは別に驚いた風もなく、小さく頷いて応えている。 「相変わらずの地獄耳か……。正直に言うと、俺達ではもうどうしようもない状態だった……助けられたんだ」 「まあ、その話は後で聞こう。今日は休んでいけ。そちらのお嬢さんにもちゃんと部屋は用意してやる。それにお前達、風呂にも入ったほうがいいぞ」 言われて沙耶は、思わず自分の臭いをかいだ。それほどは匂わないと思うのだが、と首を傾げる。 「……なに、こういう商売をやってると、鼻が利くようになるんじゃよ、お嬢さん。色んなことにな」 そう言って笑った店の主人の顔は、なぜか沙耶にとっても、安心できるものであった。 |