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萌芽3




 翌朝。といってもまだ薄暗くしかも寒い。気温は多分氷点下だろう。
「寒いっ……」
 沙耶は思わず、身体を震わせた。ただ、この震えは寒さだけが原因ではない。
 先の見えない恐怖、未来への不安が、寒さ以上に少女を震えさせていた。
「いくぞ」
 陣に促されて、沙耶は歩き出す。家は、もう一度鍵をかけて、鍵はまた同じ場所に鍵を隠した。家に置手紙も置いてある。もしいつか、沙羅が帰ってこれた時に困らないように。
 少し離れたところで、沙耶は家の方をもう一度振り返った。
「必ず、沙羅と帰ってくるからね」
 それは沙耶の決意だ。
 道は見えなくても、目的地は見えている。だから、迷うことはない。道を作るのは、自分自身なのだから。
 それから二人は、再び藤沢の壊の店に戻った。陣が何事か壊と話していて、終わってから沙耶のほうに戻ってきた。
「話がついた。行くぞ」
「え?」
「とりあえず、当面の生活場所と、あと仕事だな」
 陣はそれだけ言うと、さっさと歩き出して店の外に出て行ってしまった。
「え、えっと……」
 何がなんだかわからず呆然と立ち尽くしてしまっている沙耶に、後ろから壊が声をかけた。
「沙耶ちゃん、だったかな。まああの通り無愛想だが、悪いやつじゃない。よろしく頼むわ」
「あ、はい……」
 振り返ったときに見えた壊の表情は、まるで自分の子を心配する父親のようにも見えた。一瞬、本当に親子なのかな、と思ったがそれは違うはずだ。
「沙耶、何をしている。行くぞ」
「ごめんなさい。今行きます」
 沙耶は慌てて駆け出し、ふと扉の前で立ち止まる。そして一度振り返って壊にぺこりと挨拶をして、陣の後を追いかけた。

「ここが、とりあえず俺たちの家になる」
 そう言って陣が案内した場所は、壊の店から歩いて十数分ほどのところにある、やや寂れた住宅地の一角にある家だった。
 建てられたのはそう昔ではない。かといって最近というわけでもなさそうだ。
 少しだけ、沙羅と住んでいた家に似てると感じたのは、一戸建てだからだろうか。
 元は整備された住宅地だったのだろう。きちんと区画整備され、家の土台は築かれている。だが、家はまばらにしか建てられていない。中には、すでに木が生い茂っている場所すらある。よく見ると、土台を構成するブロックはいずれもかなり古かった。家はそれほど古くないところを見ると、家が建てられたのと区画整備された時期には、かなりのずれがあるようだ
「今はともかく、昔はこのあたりはかなり交通の便が悪くて、それでも売れる時代があったのでそのときに作られたらしいが、その後廃棄された土地らしい」
 陣が簡単に説明する。沙耶は、なるほど、と納得した。
 土地の値段がもてはやされたのは、大天災よりも以前だ。
 大天災以前、地球の人口は飽和状態にあり、土地というのは驚くほど高価なものであったらしい。
 元々、人は土地を最大の報酬として遥か昔から位置付けてきていた。ただそれは、土地が収穫を――つまり富を生み出す源泉であったからに他ならない。だが、大天災より以前、特に地域によっては自分の家を所有するための土地すら、非常に高価になっていたという。
 だがそれも、大天災によって大きく変わった。
 少なくとも、企業管理都市(キャピタル)では、家は企業から支給される。そして、企業に属さないスラムの住人は、自分達で家を確保するのだが、スラムというのは実はかなり広い。横浜を例に取れば、かつて横浜市と呼ばれていた約四百平方キロメートルの地域に、実はたったの十万人しか住んでいない。かつては五百万以上の人口がいたというが、今では到底信じられない。
 この藤沢にしたところで、大天災の前では百万近い人口があったというが、現在では僅かに十万人程度、しかもその半数以上が企業管理都市にすんでいて、旧地区はせいぜい四万人ちょっとだ。そういうわけで、土地は中心地――旧地区と新地区の境目付近――以外では、かなりあまっている状態なのだ。
「本当はもっと中心地に近い方がいいんだろうが、とりあえず家のない土地ばっかでな。ま、それほど距離もないしな」
 確かに、家を建てるとなるとそれは大仕事だ。というよりは、専門家ではない陣や沙耶では、業者――大工と呼ばれる――に依頼するしかなく、当然それほど安価ではない。だが二人とも、そんなお金の余裕などないから、贅沢はいえない。多少距離があると言っても、さしあたっては問題はないし、なにより壊の好意で無料で借りられるのだから、文句があるはずはない。
「陣さんはこの先どうするのです?」
 家が決まったと言っても、それ以外何も決まっていない。というよりは、まだ五里霧中の状態のままなのだ。
「とりあえず……しばらくはここで建て直しだ。クロリアがどう動くかも分からないし、沙羅さんの居場所も不明。仮に見つけたとしても、今の俺達にはクロリアに対抗するだけの力はない……。それに、なにより」
 陣はそこで一度言葉を切った。
「沙羅さんの家から持ち出した分があるとはいえ、そんなに余裕があるわけじゃなし。当面、生活していく、ということも念頭におかないとな」
「あ……」
 沙耶はすっかりそれを失念していた。
 考えてみれば、これまでは沙羅なり組織なりの保護や援助があったので、沙耶はあまり日々の生活について細かく頓着する必要がなかったのだ。
 だが、もう組織はない。全戦力を投入したあの作戦が失敗した以上、逃げた者がいたとしても再起をかけるのは難しいだろう。
 だが、沙耶たちはこのまま引き下がるわけにはいかないのだ。
「まあ、生活費くらいは俺がどうにかするさ。あとは、沙耶は自分の力を取り戻さないとな」
「あ、はい」
 沙耶は強く頷いた。
 クロリアに対抗するための、沙羅を助けるための最低条件。
 それは、沙耶自身が自分の能力を取り戻すことだ。
 夢――記憶の中にある自分の能力は、少なく見積もっても現在知られる――クロリアの特殊能力者を見た限りだが――どの特殊能力者よりも強力な部類に入る。無論、自分と同格の者もいたに違いない。だが、少なくともそのレベルまでは戻さない限り、クロリアと戦うことなど、不可能に等しいのだ。
「まあ、そう気負うな。さしあたっては……」
 陣は壊から預かった鍵で家の扉を開け、ちょっとだけため息をついた。
「家の掃除から、だな」
 陣の背中越しに見えた家の中は、見事なくらいに散らかり、埃が舞っていた。

******


 暗い路地は、上り坂であるにも関わらず、まるでそれが奈落へと通じる道であるかのような錯覚すら覚えさせた。
 頭の芯がかすかにぼやけている。アルコールを摂取した結果であるのは間違いないが、いつもならこれほどは酔わないのに、と男はぼやけた頭で考えていた。
 第一、企業管理都市にあって、街灯がことごとく消えてしまっている道、というのもおかしな話だ。平時であれば、男はもっと注意したかもしれない。だがこの時は、そんなことを考えるのも億劫になるほどに酔っ払っていた。
 だから、見えなかった――いや、見えていても認識しなかったのか。
 黄色に黒字で「工事中」と書かれた看板。男はそれを、横目に捉えていた。驚いて振り返ると、自分が歩いてきたルートに黄色と黒の縞模様で、立ち入れないように仕切るためのバーが、同じく黄色と黒の縞模様のポストによって今自分がいるエリアを囲んでいる。
 ああ、と男は思った。
 どうやったか分からないけど、自分は工事中で立ち入り禁止とされていた場所に踏み込んだんだ、と気付く。そういえば今朝、ガードレールの一部が壊れていて危険だから気を付けて、と妻が言っていたのが思い出される。けどとりあえず、金網か何かが張ってあって、安全にはなってるはずだ――。
 千鳥足で振り返った先は、闇だった。
 いつの間にか、自分が道路の端っこにまで歩いてきていたことに気付く。
 ガードレールの向こう側は、闇の底。高さ六メートル程の落差のある崖だ。もっとも、万に一つ落ちても、ネットが張られていて死ぬような事故が起きる事はない――漠然とそんなことを考えていた時、男は突然自分の身体が浮いたことに気が付いた。ただでさえ怪しくなっていた平衡感覚が悲鳴をあげ、現状の認識を放棄する。
 刹那にも満たない時間。
 男は間違って足を踏み外したのだと思った。だが、大丈夫だ。ここにはネットがあるから――
 そして男の意識は永遠に閉ざされた。そこにあるはずのネットは、昨日壊されたというガードレールに切り裂かれて、人を支える役目を果たしていなかったのである。
 そしてその男が転落した――ネットの下は別の舗装された道路だったのだ――場所に一人の人影が現れた。何の表情も浮かべていないその顔が、既に焦点の合わなくなっている落下した男を見つめている。
『……死んだか?』
 その声は、その人影――十代半ば過ぎくらいの少年の頭に直接響いた。ワイアレスイヤホン等でもない。だが、そのことを少年が疑問に思うことはないようだ。
「はい。任務は完了しました」
『ご苦労。そこはそのままでいい。戻れ』
「はい」
 少年は短く返答すると、ふわりと浮き上がると、さらに山を下りていき、途中で待っていたワゴン車に迷うことなく乗る。
『ご苦労だった』
 しかしその言葉で、少年の表情に変化が現れることはなかった。
 翌日。
 クロリアの重役の一人が、酒に酔ったあまり崖から転落して死亡した、という記事が電子新聞の片隅に小さく掲載されていることを気に留める者は、その遺族や関係者以外、この時はまだほとんどいなかった。

******


 陣と沙耶の共同生活が始まって二ヶ月が過ぎていた。
 まだ肌寒さは感じるが、概ね過ごしやすい季節になってきている。朝夜はかなり冷えるが、昼間は十五度くらいまで気温が上がる。逆にいえば、寒暖差が激しい季節でもあるのだが。
 この二ヶ月。最初の一月は、生活に慣れるので精一杯だった。また、この一月で沙羅の家から持ち出した金も、なくなってしまったのだ。何のかんの言って、生活する、となると必要なものが増えてくるものなのだ。可能な限り最小限にしたつもりなのだが、それでも所持金はほとんどなくなってしまった。これは、藤沢地区の物価がやや高いことも原因ではある。かといって、迂闊に横浜に戻ると捕まる可能性があることを考えると、そうそう買いに行くことも出来なかったのだ。一度、壊に頼んで買ってきてもらおうとしたら、あっさりと断られてしまった。
 ただどうにか生活にも慣れてきて、陣は仕事をするようになった。といっても、あまり真っ当な仕事には就ける筈もない。結局、壊の伝手を頼っての傭兵仕事が多くなった。また、沙耶は普段は壊の店で働くことになった。これは、沙耶の希望である。
 本当は、沙耶は陣と同様の仕事をやりたかった――その方が稼ぎもいいし何より一人だけ安全な場所にいるのは気が引ける――が、これは壊が頑として許さなかった。そうするなら家を出て行け、といわれては、さすがに逆らえない。そこまで拒否する理由を聞きたかったが、一度訊いてみたらあっさりとかわされて、以後聞きそびれている。
 傭兵の仕事、というのはそんなにあるのか、と沙耶は思っていたのだが、これは予想以上に多かった。
 実は、横浜スラムはかなり平和な地域であったのだ。
 なまじ企業管理都市と連結しているため、旧地区には新地区の情報がかなり流れてくる。それらの中には、当然企業の機密情報などもあり、あるいは逆に、他の企業の機密情報などのやり取りも、旧地区で行われることが多いのだ。他にも、旧地区内でもチームや暴力団の抗争など、なまじ地域が広いだけに驚くほどたくさんの厄介事がこの地域には濃縮されていた。
 街の大通りは華やかだが、一歩裏路地に入ると、そこはもう暗黒の街。藤沢とはそういう場所だった。
 聞くところによると、横浜以外のスラムは大抵はこのようなものらしい。横浜はスラムの自治政府と呼べるものがしっかりしているため、かなり稀有な存在だったのだ。もっともこれも、十年前のスラム狩りによって急速に形成されたものだというから、皮肉な話ではある。話によると、横浜はスラム狩りの最大の標的だったらしい。それだけ、企業は横浜を欲していたのだが、これが見事に逆効果となったわけである。
 ただそれ以外の街は、それまでと変わらず――つまり、危険が日常に隣合わせで存在する街のままであったようだ。
 そんな街なので、やや裏通りにある壊の店に来る客も、実に多彩だった。
 明らかに傭兵、という雰囲気の者から、場違いに思えるほど紳士的な者や、明らかに企業に属すると思われる者まで、まるで雑多な階級の人間が次々にやってくる。
「まあここは、傭兵どもの溜まり場だからな」
 壊はそう言って笑った。
「傭兵……あの人たち皆ですか?」
 たまに、本当に場違いじゃないか、と思えるような企業関係者(と思われる)人物も、傭兵なのだろうか。
「ああ、ああいった連中は仕事をもってきた企業のエージェントだ。ま、企業側にも色々あるってことだな」
「そうなんですか」
 沙耶はそこで相槌を打ったが、実は同時にかなり不遜なことも考えていた。
 いつか、再びクロリアと戦う時、彼らの力を借りることは出来ないだろうか、と。
 もっとも。
 クロリアという巨大企業相手に戦争をしようという依頼を受けてくれるかどうかはまったく分からない――というよりは普通なら断るだろうけど。
「……まあ、まだ、ね……」
 その為には、沙耶自身が自分の能力を取り戻さないと話にならない。だが、この二月、どんなに忙しくても力の覚醒のために時間を割いてはいたのだが、まったく発現する様子はない。あるいは、やり方が悪いのだろうか、と本気で悩み始めていた。
「ほらほら、考え事してるんじゃない。仕事中だろうが。……と、そうだ。悪いがここいって荷物もらってきてくれ。代金は払っている」
 壊はそういうと一枚の紙片――地図のようだ――を沙耶に渡した。
「荷物……ですか?」
「仕入れだ。普段なら配達待つんだが……」
 壊はそういうと、棚の空いたスペースを指差す。そこは普段、この店自慢のオリジナルカクテルを作るためのベースとなる酒が置いてあるはずの場所だ。
「ちょっと見込み間違えて切らしちまったんだ。今日はもう配達終わってるから、次の配達は明日の夕方になっちまう、頼む」
「はい、分かりました」
 沙耶はそういうと仕事用のエプロンを置いて出て行こうとする。その後ろから、壊が慌てて追いつき、商品の受け取り票を渡してきた。
 壊の店の周囲は、お世辞にも安全な地帯とはいえない場所である。道端にたむろす路上生活者、物乞いの子供、時には大人。沙耶は最初知らなかったのだが、こういう人々が生きていけるのはこの藤沢だからだという。自給自足を余儀なくされている横浜などと違い、藤沢はたとえ旧地区といえど、名目上は企業管理都市である。そして企業管理都市というのは、名目上はその住人がことごとく快適な生活を営んでいることになっているのだ。だから、彼らのような無収入不就労者でも、日々の最低限の生活は出来る程度の金が支給される。もっとも、多くの者はその金を賭博等に使ってしまうため、この様に物乞いをしていたりするわけだが、さすがにそこまでは企業も面倒見切れないらしい。要は「これだけの援助は出している」という実績があればいいのだ。ただし、これらを支給されるのも登録票を持つ人間だけである。登録票がない人間は、そもそもこの街には存在していない、ということになるらしい。だから死亡しても記録には残らない。そしてここにいるような者達は、大半が登録票すらない――あるいは売ってしまった――者達なのだ。殺されても文句が言えない代わりに、殺しても街を逃げ出して行方を晦ませば追跡が極めて困難な者達。
 そんなわけで、この地域はどことなく雰囲気が暗い。加えて路上生活者が多いということは、スリ等も多いということだが、警備組織――企業によって異なるため、一括でこの様に呼ばれる――はこのような地域の巡回には、滅多に来ない。そのため自然、治安が悪くなり、一度悪くなり始めるとそういう区域を好む人間が集まるため、さらに悪くなる。そういう悪循環が積み重なって出来た街なのだ。
 もっともここはまだマシなほうで、場所によっては銃を手放すことすら出来ない場所もある。それに比べたら、いくらもう陽が落ちているとはいえ、ここは格段に安全だ。それに、目的の店までは歩いて片道せいぜい二十分程度の距離しかない。
 だから、沙耶は特に武器を持っていくようなこともせず――普段は護身用の拳銃を持っている――でかけた。

「壊!!」
 騒音にも等しい音を立てて『夢幻華』に入ってきたのは陣だった。確か彼は、夜くらいまで護衛の仕事で、今日はこちらには来ないと思っていたので、壊は少なからず驚いて陣を見やる。他の客は特にいない。
「どうした、仕事は終わったのか?」
「あ、ああ。そっちは終わった。いや、それはいいんだが、沙耶はどこだ!?」
「あの子ならさっき買い物に行ってもらった。ちょっと一部の酒切らしちまったからな」
 言って壊は戸棚の空いたスペースを目で示した。
「くっ、じゃあ一人か!!」
「一体何があった?」
「キラーだ!」
 陣はそれだけ言うと外に飛び出していた。
「キラー……だと?」
 壊の声は、かすかに震えていた。
 キラーとは近年出回り始めた麻薬の一種の名前で、今ではその麻薬中毒の末期症状者も示す。厳密には麻「薬」ではない。言うなれば麻「音」だ。
 それ自体は音声プログラムで、いわゆるセラピー系のソフトとして販売された。だが、これを常に聴いていると、そのうち聴いてないと麻薬中毒者が麻薬を断ったような状態になるのである。慌てて分析してみたところ、人間の脳にある種の影響を――詳細はまったく分からない――与える音波が放射されていたらしい。しかもこれは、そのうちその脳をボロボロにしてしまうものだった。直ちに全都市で販売・所有が禁止され、製造元に調査が及んだが、製造元はダミー会社で、実態はまったく調査不能だった。さらに元がプログラムだけあって、どこにでも残っていて、今も猛威を振るっているのである。そしていつの間にかついた名前が「キラー」だった。
 そしてこの中毒者の末期症状は、もうこの「音」を必要としない。自我が完全に破壊され、殺人狂となってしまうのだ。さすがに禁止されてから四年、最近は減ってきたとはいっても、まだいなくなったわけではない。それに、どこが作っているのかなどまったく分からないが、新作というのも出回っているらしい。
 陣があのように焦って飛び出していった、ということはプログラムのキラーが見つかった、というわけではないだろう。末期症状者だ。だとしたら、確かに危険だ。
 キラーの末期症状者は、単なる殺人狂というだけではない。もはや自我が破壊されているため、恐怖もなければ痛みもない。恐ろしいことに、頭を撃ち抜いても動くことがあるらしい。一番確実なのは、運動を司る延髄を破壊することなのである。あるいは、動けなくなるまで肉体を破壊するか。いずれにせよ、並の方法では止められない。
 その意味では、強力な念動力(サイコキネシス)の使い手である陣ならば、ある程度安心できるというものだ。
 壊はしばらく追おうかどうするか迷っていたが、やがて意を決するとゆっくりと陣と沙耶が好きな飲み物――アイスティーと搾りたてオレンジジュース――の準備を始めた。

 街区は表ならともかく、裏は陽が落ちると急速に影が増える。人によっては、その影を恐れるものもいたが、沙耶は意外にそれらが好きだった。
 影はどこまでも続くわけではない。影があるなら、光がある場所もある。今の自分に、それが当てはまるような気がしていたからかもしれない。
 道は見知ったもので、迷うようなことはない。この時間に一人で外をあるいたのは初めてだが――普段は危険だから、と陣が一緒に歩いている――別に不安に思うこともなかった。実際、万に一つ銃を向けられたとしても、沙耶はほとんど避ける自信がある。
 人間の限界を超えた反射神経と運動能力。しかしこれをもってしても、クロリアの特殊能力者たちには対抗できない。対抗するには、同じ力がいる。自分にも眠っているはずの力が。焦る気持ちはあるが、焦ってはダメだと分かっている。でも焦慮にかられてしまうのは、人間の心理としては仕方のないことなのだろう。
「やり方……悪いのかなあ」
 このところ繰り返している言葉を、ぽつり、と呟いた時だった。
 か細い、火薬が炸裂する音と、悲鳴。何があったのかを、沙耶は一瞬で察した。同時に、駆け出している。
 音がさらに、もう一度。続くのは、やはり悲鳴。
 道が開けた。影から、光の下に出る。
 見えた人影は、五人。うち二人は倒れて動かない。直感的に、もう生きてない、と察した。
 少し開けた場所だな、と思ったら十字路のようだ。そのためか、明りが多く見通しも良い。
 立っている男が一人。その男の少し手前に座り込んで震えている少女が二人見えた。自分より、一人は十歳くらい、もう一人は四、五歳くらいというところか。なんとなく似ているところを見ると姉妹かもしれない。あるいはどこかで見たことがある気がしたが、ここは何度も歩いているのでその中で見たことがあるのだろう。
 だが、男のほうは確実に初めて見る顔だった。そして、その手に持っているものに気付く。黒い、鉛色の塊。火薬式の拳銃だ。一瞬、沙羅が攫われた時の記憶が蘇りかけたが、それは一瞬で振り払う。
「何をしているの!!」
 この状況で何をしている、という質問もないとは思うが、ほかに言うべき台詞が思いつかなかったのだ。
 だが男は、その声に興味すら覚える様子もなく、少女達に向けて銃爪を引こうとした。
 その瞬間、沙耶は反射的に動いていた。手近にあった石を手に取り、驚くべき速度と正確さで、男が銃爪を引ききるより先に男の側頭部――こめかみ――に直撃させたのだ。衝撃で弾が暴発したが、それは乾いたコンクリートを叩き、悲鳴のような火花を散らしただけに終わった。男はそのまま、くず折れる。
 殺してしまった、と思った。
 もっとも、今更人を殺すことに押し潰されるようなことはない。ほんの二月前に、電磁誘導銃(レールガン)でもって何人もの命を絶ってきたのだ。ただ、今回の相手は戦うことが専門の人間では……多分、ない。並の人間に対する、自分の戦闘能力のアドバンテージは十分良く知っている。これは、もはや一方的な殺戮に等しい。
 ただ、仕方なかっただろう。
 心痛まないわけではないが、ここであの少女達を見捨てるよりはずっといい。
 そう思って少女たちの無事と、倒れた人の息を確認しようとした時、信じられないことが起きた。
「お……れの……邪魔を……するな……」
 握り拳ほどの大きさはある石を、こめかみに、それも時速百五十キロ以上で叩き付けたはずだ。まともに考えれば、頭蓋骨が陥没し、脳にも深刻なダメージが出ているはずである。少なくとも、起き上がることはおろか、話すことすら不可能なはずだ。
 だが、その凍りついた沙耶の目の前で、男はゆっくりと立ち上がったのだ。
「う……そ……」
 その起き上がった男は、明らかに死んでいるとしか思えなかった。
 沙耶が石を叩き付けた場所は明らかに陥没し、石がまだ頭にめり込んだままだったのである。
 それが、男が立ち上がったことにより、重力に引かれて頭から外れ、コンクリートの上で乾いた音をたてる。それに、血が流れ落ちる音が続いた。
「おまえ……から……ころす……」
 男は足元に転がっていたもの――どうやら男の荷物のようだ――から長さ五十センチほどの筒を取り出した。そして沙耶は、それに見覚えがある。
 対人誘導弾頭(マンブラスト)。ロックオンした対象に亜音速で迫り、命中直前に三十度の円錐状にベアリングの弾を無数にはじき出す、対人最強最悪の兵器である。フルアーマーでも着込んでいない限り、確実に対象ダメージを与える武器で、しかも射程が長く若干の誘導性すらあるのだ。
「沙耶ーーっ!!」
 一瞬、陣の声が聞こえた気がして、振り返ろうとした時、対人誘導弾頭の発射音が聞こえた。
 あ、死んだかな。
 妙に悟った気分だった。悔いがないわけじゃない。いや、むしろ悔いはありすぎる。
 だが、こんなところで、沙羅を助けることも出来ずに倒れる、というお粗末な結果も、あるいはこの不条理に満ちた世界ならありなのかもしれない、と思った。
(あ……れ?)
 奇妙な感じがして、沙耶は意識を現実の感覚へと投じた。
 発射された亜音速で迫るはずの弾頭が、まるでスローモーションのように迫ってきた。世界の時間が、ゆっくりに感じる。弾頭が自分に到達するまで、というよりはベアリングを弾き出すまで、まだかなり時間がありそうだ。これなら、避けられるかな、と思ったが、やっぱり自分もゆっくりになっているのか、身体が動かなかった。
 それにしてもずいぶんとゆっくりだ。手は動くかな、と思ったらこちらは動いた。いや、違う。手が動いた感覚がしたのだ。自分の手は、まだ動いてない。なのに、手が動いている、と分かる。
(見えないだけで、手が動いてるのかな……)
 手が動くなら、あれをどうにかできるかもしれない。
 そう考えた沙耶は、『手』で弾頭を止めようと考えた。だが、すぐ思いとどまる。あの弾は、何かの衝撃があった場合にも即座にベアリングをはじき出す仕組みのはずだ。ならば、『手』で包み込んでしまえばいい。
 この時、沙耶は自分の『手』が対人誘導弾頭の衝撃に耐えられることを、欠片も疑っていなかった。
 ゆっくりと迫る弾頭に対して『手』でそれを包みこむ。合わせた手に、弾頭の先端があたったのが分かった。そして直後、弾頭が弾ける。
 そして、世界が動き始めた。
 ドン、という音と共に沙耶の前三メートルくらいのところで、球形の光の塊――対人誘導弾頭の弾頭が爆発したもの――がわだかまっていた。それは完全に、直径三十センチほどの球体の中に封じ込められ、爆発した衝撃を音と光に変換して少しでもエネルギーを消耗させようとしている。
「え?え?一体、なに?」
「沙耶……まさか……。っと、エネルギーのはけ口を作れ!向こう側に開くイメージを!」
「え?」
 陣の声がして、沙耶は振り返り、それからまた半ばエネルギーの塊と化した球体を見る。
 ――エネルギーのはけ口――
 そう考えた瞬間、球体に変化が生じた。突然、向こう側――弾頭を発射した人間の方――の形が歪み、そしてそこからそれまで封じ込められていたエネルギーが噴出したのだ。そしてそれは狙い過たず男に襲い掛かり、そのまま廃ビルの壁を貫いた。男は、一瞬で絶命していた。
「私……」
 自分のイメージ通りに、球体が動いた。いや、球体ではない。『手』だ。いや、『手』だと思った、何か。そしてその正体を、沙耶も陣も知っていた。
「これで一歩前進、だな。沙耶」
「私の……力……?」
「そうだ。俺は今、何もやってない」
 陣が沙耶の頭を撫でる。沙耶の体は、少し震えている。
 色々な感情が一度に去来した。ほんの少し前の恐怖、力が目覚めたことの嬉しさ、同時に、やはり自分が力を所有していた、ということに対して、わだかまらずにいられない何か。期待。そして、なんともいえない言い知れない恐怖が、最後に来た。その正体は、沙耶にも分からない。ただそれが怖くて、でも同時に嬉しくて、気付いた時、沙耶は涙を流していた。




萌芽2  決戦1

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