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季節は巡り、ようやく暖かくなってきた。暦の上では、さらに二月が過ぎている。沙耶にとっては、沙羅と出会ってからちょうど一年が過ぎた計算になる。 沙耶の力の覚醒は、あの後は驚くほど順調だった。思ったとおり沙耶には、念動、透視、若干の精神感応が備わっていた。さすがに瞬間移動などは出来ないが、あるいはESP――超感覚もあるかもしれない。ただこれは、一概に「ある」と判断する基準が曖昧なので、なんともいえない。 ただ、その力は、陣をして驚愕させるほどだった。 最初の発現からして、陣では出来ない対人誘導弾頭(マンブラスト)を防御し、挙句にその威力を押し込めるほどである。その時点では、完全に陣の力をも凌駕していた。 ただし、その時点では、である。 沙耶の能力の覚醒の影響を受けたのか、陣の念動力もまた、飛躍的に向上した。その力は、もはやかつての彼とは比較にならない。現在では、対人誘導弾頭どころか、戦車砲、あるいは艦砲すら防御できるレベルに達している。 生活の方も慣れてきた。沙耶は早く沙羅に再会して、格段に上達した料理の腕を見てもらいたいな、などとも考えている。実際、沙耶の料理の腕はかなり上達していて、今では壊の店の料理担当にもなっているのだ。 周囲には二人は完全に兄妹だと思われていて、壊のほか、ごく数名だけがその正体を知っていた。ただ、最近その人達はその人達で、沙耶と陣を恋人同士だと見ているらしい。もっとも、これは沙耶も陣もまだ全然気付いていない。 ただそれを別にしても、実は沙耶は陣が自分をどう思っているのか、ということは気にはなっていた。 とても親しい間柄であるとは思うし、いつも心配してくれているのは分かる。ただ、それがどういう理由に拠っているのかが、沙耶には理解しきれていなかった。 もっとも、分からないといえば自分自身も、陣をどう思っているのかはよく分かっていない。優しいし、一緒にいて気安く話せる相手だとは思う。けど、この先どうなるのか、沙羅を助けることが出来、彼の復讐が終わったらその先はどうなるのか。考えたことがないわけではないのだが、予想できなくていつも諦めていた。もっとも、そんな先のことを考えるより、今どうすべきかの方が重要なのは確かだ。 能力だけ考えるなら、今ならあの時以上にクロリアと戦えると思う。ただし、今度こそ失敗は許されない。その為にも、万全の準備が必要となるのだが、今はまだ、それは完璧とはいえない。第一、沙羅がどこに囚われているか、というのもまったく分かっていないのである。 そんなわけで、二人は結局、ある種無為な――といっても能力は少しずつ向上していたのだが――日々を送っていた。結局、この数ヶ月で変わったことといえば、沙耶が陣と話すときの口調が少し変わったくらいである。 しかし、彼らが動かなくても、彼らの外側が動かないわけではなかった。 いつものように、沙耶が朝食の後片付けをして、陣は仕事――今日はある要人の護衛を一日だけ代理で引き受けるらしい――に行く前に、ニュースをチェックしていた時、大きな声で彼は沙耶を呼んだ。 最初沙耶は片づけが終わるまで、と思ったのだが、その陣の声が常ならぬ緊張を孕んでいたので、水を止めてすぐリビングに向かう。 リビングには、一面に極薄型映像表示装置(パネルディスプレイ)がかけられていて、陣は新着ニュースをダウンロードして見ているところだった。そして、その画面には彼らが見たことがある顔が映っていたのだ。 「……この男……」 忘れもしない。四ヶ月前、あのランドマークタワーであった白衣の男。沙羅と再会できたその場に現れ、クロリアの特殊能力者を手足のように使っていた男だ。 「名前は月宮一樹。今日、今日クロリアの日本支社副長に就任したらしい。……だが、異様に若いな……」 ニュースは若い新たな副長の出現を、新たなカリスマの出現、と報じている。 陣はしばらく考えるようにしていたが、やがて端末を操作すると過去のニュースをダウンロードしてきた。中には映像すらない、文字だけの情報もある。そして、その検索のキーワードは『月宮一樹』だ。 ざっと並んだ情報は十件ほど。内容は、固有名詞が異なるだけであとはことごとく同じだった。情報分類はいずれも『企業人事』。その全てが、彼が昇進したことを表すものだった。 「……私、会社組織とか全然詳しくないけど、これはいくらなんでも……」 早すぎる、と沙耶は続けた。それに陣も頷く。彼も会社組織についての知識など、沙耶より少しマシな程度、というものだが、それでもこれが異常である事は考えるまでもない。 第一、昇進するには普通は……。 そこまで考えて、陣は別のキーワードを次々に入力して再び検索を開始した。それに対応して次々と新しい結果がディスプレイに表示される。それは、月宮が就任した役職の、前任者の者達の――事故・死亡記事リストだった。 「これって……」 いくら沙耶でも、これならもう意味は分かる。 月宮がその役職に就く前に、前任者はことごとく事故にあったりあるいは自分の過失によって、死亡、あるいは長期入院を余儀なくされるほどの怪我をしている。後半のほうになると、その事故自体が恣意的――月宮の名前までは出ていないが――ではないか、という記事もあったが、それについては証拠が一切ない、ということで検挙することは出来ないようだ。だがそれを見て、二人は月宮が何をしているかの見当がついた。 「特殊能力者……」 どちらとなく、呟く。 間違いない。 月宮は特殊能力者を使って事故を起こさせているのだ。 一般的には特殊能力者の力というのはたかが知れている。だが、あのランドマークタワーにいた者達は別だ。それと気付かせず、事故を起こさせたりするなど、造作もないことに違いない。 「だが……ヤツの狙いはなんだ?」 「クロリアを……乗っ取ること?」 沙耶の言葉に、陣は顎に手を当てて考え込む。 確かにありえる話だ。クロリアはアジアを中心に、世界中に多数の傘下を持つメガコーポレーションだ。その全てを乗っ取ろうというのなら、それはもう立派に野望、と言っていいだろう。だが、陣は、それに強い違和感を覚えた。 まず一に、いくらなんでもクロリアの上層部は、月宮の研究内容を知らないはずはないだろう。その彼ら相手に、月宮が叛乱をおこすというのだろうか。 さらにもっと決定的な違和感。いや、違和感というよりは直感といった方がいいかもしれないものだが。 あの時会った月宮は、クロリアを乗っ取るくらいで止まるような者には見えなかったのだ。 まるで、世界全てを見下ろしているかのように超然とした笑みを浮かべていたあの男。会った時はよく見る機会がなかったが、今思い出すと正視するのが気持ち悪いほどの闇をその身体に内包していた気がする。 「……どちらにせよ、こちらからは何も出来ないな……。ただ、この男は間違いなく沙羅さんの居場所を知ってるはずだ」 陣の言葉に沙耶も頷く。 この男が沙羅とどういう関係なのかはわからない。ただ、あの場に現れ、そしてあの時の沙羅の言葉。あれは、明らかに沙羅はこの男――月宮一樹を知っていた。だとすれば、極めて高い確率で、月宮と沙羅は一緒にいる。 まだランドマークタワーにいる、という可能性もあるが、沙羅と月宮が何か関係があるとするならば、もう移動してしまっている可能性も高い。沙耶の透視能力が上昇していれば、あるいは沙羅の居場所を探すこともできたかも知れないが、現在では百メートル先を見通すのがやっとで、到底そんなことは出来はしない。 「スパイラルタワーのメインコンピュータにアクセス出来ればな」 クロリアの本社ビルであるスパイラルタワー。そこの内部ネットワークなら情報があるだろう。だが、あそこに攻撃をかけるくらいなら、まだランドマークタワーの方がマシだ。ランドマークタワーにだって、情報がある可能性は十分にある。 だが、どちらに攻撃をかけるとしても、今の陣や沙耶ではまだ力不足だ。 能力が発現して、使いこなせるようになってきたとはいえ、まだまだ戦闘時に有効に使うには、まだ練習不足だ。こればっかりは、慣れの問題なので、一朝一夕でどうにかなるものでもない。 焦る気持ちはあるが、同時に焦ったところでどうにかなるものでもないことは、分かっていた。 すでに四ヶ月が経過している。いまさら、一日二日でどうにかしようとは、さすがに考えてもいない。 「今焦っても……でしょう?」 「ああ」 以前はそれで失敗した。そういう気がする。 確かに、二十年以上にわたって準備をしてきていたが、あれは明らかに罠だった。にも関わらず、あの時その罠に、誰も気付かなかった、あるいは気付いても気にも留めなかったのは、彼ら全体に焦りがあったのだと思う。 「ま、今更焦っても……ん?」 陣はそこで耳をそばだてた。沙耶は一瞬、何かあったのかと身構え、そして視線を陣に戻す。その先には、陣の複雑そうな表情があった。 「なんか……水の音がするんだが……」 「水……?」 今時水攻めもないだろう、などと考えた直後。 「あっ!!」 沙耶は慌てて駆け出し、キッチンに戻る。遅れて陣がキッチンを覗いてみると、そこには半ば飛び込むような格好で水道の蛇口を押さえている沙耶がいた。 「水、止めたか?」 「……うん」 陣が笑いを噛み殺しているのを、沙耶は頬を膨らませて睨んでいた。 |
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だだっ広い空間は、一面がすべてガラス張りで、そこからは新東京市が、海岸まで一望できた。部屋の床は、踏むと沈み込むほどに毛の長い、柔らかい絨毯。人によっては、踏みしめること自体に抵抗を感じてしまうかもしれない。 広さはバスケットボールくらいならできるのではないか、というほど広い。ただ、天井はせいぜい三メートルくらいしかないので、スポーツをやるには不向きだろう。しかし、スペースだけなら十分にある。その部屋には、窓から少し手前に重厚そうな机と椅子、あとは壁際にいくつか観葉植物が置いてあるだけなのだ。 これが、アジアを中心に主に医療関連において絶大な勢力をもつメガコーポレーション、クロリアの中心、スパイラルタワーの地上五十階にある社長室だった。 いわば、世界の何パーセントかの富を操作する、その頂点の地位にある者がこの部屋の主となる。 そして、今この部屋の主となっているのは、髪にやや白いものが混じり始めた、少し小太りした男だった。顔つきなどもぱっとしたところはなく、あまりメガコーポレーションの頂点に立つ人物には、見えない。しかし、この部屋に唯一ある椅子に座しているのは、間違いなくこの男だった。その机の正面にある大きな両開きの樫の扉の両脇に二人、これは明らかに平和な人生とは縁のない――むしろ暴力的な――男が立っている。そして、机のすぐ前にも、一人。 「どうですか。その椅子の座り心地は」 その机の前に立っていた、まだ三十歳になったばかりという感じの男は、目の前の重厚な椅子に座った初老の男に訊ねた。 「大変快適だよ。これも君のおかげだ」 喋るたびに、突き出た腹が揺れる。メガコーポレーションの社長といえば、一国の国王も同然だ。それにしては、少なくともこの男は容姿の点では間違いなく落第であった。 「いえ。これも副社長……いえ、黒崎新社長の人徳でありましょう。私はそのお手伝いをしたに過ぎませんゆえ」 黒崎はそうかね、と尊大に笑った。自分が世界の頂点に立ったかのような笑いである。いや、確かにその認識はそれほど間違ってはいない。だが、立っている男は表情には欠片も出さず、自分が今敬語を使って会話している相手を見下していた。そして、慇懃な口調で言葉を続ける。 「つきましては、約束のことに関してですが」 約束、という言葉を聞いて、黒崎は初めて不快感を少し含んだ表情になった。やや面倒くさそうな、そして疎ましそうな目で男を見る。 「それなのだがね。やはり君の出世の速さには内外からちょっとおかしくないか、という声が少なくない。君の父、月宮俊三殿の業績でここまではなんとか納得させたが、これ以上の出世はいらぬ噂を呼びかねない。ここは周囲の納得するような時期を待つべきだと思うのだが」 そう言って彼は男――月宮一樹を見やった。 黒崎としてはあまり事を荒立てたくはない、という思惑があった。 彼が社長に就任できた裏には、月宮の裏工作があったのである。正しくは彼の部下達の。そう。特殊能力者たちの力だ。 一般には特殊能力者の力、というものはたいしたことがないと思われている。だから、彼らの力を使って事故を起こしたとしても、それが露見することはまずない。そもそも、月宮親子の研究に早い段階で目をつけた黒崎は、極秘にこのプロジェクトを後押ししたのである。無論、他にも出資者はいたのだが、彼らはことごとく、四ヶ月前のランドマークタワー襲撃事件で死亡しているか、二度と寝台から起きられなくなっている。黒崎が無事だったのは、彼一人だけが襲撃の可能性を月宮から教えられていたからだ。そしてこれにより、月宮の研究成果を知る者が、黒崎以外にいなくなってしまったのである。 そして月宮は、黒崎のライバルを次々に『事故死』させて彼が社長の座におさまるのを後押しした。その報酬として、彼自身も黒崎の言うような不自然なほどのペースで出世したのだ。 だがさすがに、まだ三十一歳の研究者にしてはあまりにもその出世ペースが速すぎるのではないか、という意見が目立つようになってきたのである。当然、それは裏工作やあまりにも多い『事故死』への不審を呼ぶ。こうなると、自分の方にまで飛び火することを恐れる黒崎としては、しばらく月宮に自重してもらいたくなる。 「それでは約束が違いますぞ、社長」 月宮は机の上に身を乗り出して詰め寄った。 「あなたの社長就任と共に、私に極東地域におけるクロリアの全権限を委譲する。そういう約束だったはずです」 クロリアの極東地域の全権限をもつ存在――すなわち、クロリア極東総支配人(マネージャー)。勢力の中心をアジア、特に極東に集中してるクロリアにとって、この役職は事実上、実務レベルでの最高の地位に等しい。それに若干三十一歳の研究所出身の者がなろうというのだから、これは異例いうより異様とも言うべき大抜擢だ。事故のことがなかったとしても、不審に思わぬ輩はいないだろう。 そもそも、黒崎自身、これほど早く社長に就任できるのも予想外だったのだ。 黒崎は経営手腕は優れていたが、どちらかというと凡庸な人物で、野心的な、あるいは革新的な展望がない。人を上手く使うことはできるが、自身はさして能吏というわけではないのだ。極東地域の営業部長から、僅か一年でここまで登りつめたのは、偏に月宮の助力あってのことだ。実際、彼の躍進に対してもその速さを疑問視する声は少なくない。あまりにも都合よくライバルが事故死しているのだから。 それもあって、月宮には自重してもらいたい。いや、できることならば。 黒崎はさも面白くなさそうな表情になり、月宮を邪魔者を見るような眼で見た。もう、社長の座に就いた以上、月宮は不要と言ってもいいのだ。無論、放逐など出来るものではない。だが、閑職に回ってもらい、一生食うに困らぬようにして表舞台には出てきてもらいたくないのが本音である。 「少しは立場をわきまえたらどうだね?君は私の部下だぞ。もういい。出て行かせろ」 黒崎のその言葉に反応して扉の近くに立っていたガードマンの二人が月宮に近付いてきた。 それに対して、月宮はなんら動じた様子を見せない。体格から考えても技術から考えても、月宮が二人の男に太刀打ちできるとは到底思えないのだが、月宮は近付いてくる二人の男などまるで眼中にないかのように、黒崎を睨む。 「あなたこそ自分の器というものをちっともお分かりになっていないようですね……」 その時の月宮の目は、危険、と表現するだけでは到底足りないほどの鋭さを秘めていた。 直後、ガードマン二人が突然お互いに向かって吹き飛び、気味の悪い音と望まざる抱擁を交わした。 「な、なんだ!?」 そのままくず折れたガードマン二人は、血の池を高級な絨毯の上に作って、そのまま動かなくなる。生きているかどうかは、考えるまでもない。 「い、一体何が……」 うろたえる黒崎を見下すような目で見ている月宮の横に新たに二人の人影が現れた。 見た目はともに少年。年齢はせいぜい十五、六歳で、細身。ぱっと見て彼らが危険だと思う者はいないだろうが、黒崎は彼らがどれほど危険かはよく知っている。 「私の周囲にはいつも最低二人は待機しているのです。そして私に危害が及ぶと判断した場合は……」 月宮は動かなくなった二人のガードマンを見下ろした。その目に宿る光は、狂気を通り越した危険なものが宿っている。 「このようになる」 「き、きさま、何を考えている。おい、おまえ達。この男をつまみ出せ!」 黒崎は二人の少年に命じた。だが二人とも動こうとすらしない。黒崎の顔に焦りが見える。 「なぜ実行しない。私は、おまえ達の社長だぞ。社長命令が聞けないというのか」 「無駄ですよ。黒崎社長」 月宮は蔑むように黒崎を見る。 「彼らは私の命令以外は聞かないように教育されています。例え社長命令であってもね」 「なんだと。そんな馬鹿なことがあるか。直ちに教育をやり直……」 黒崎はそこで口をつぐんだ。月宮の、真の狙いに気付いたのだ。さすがにその程度の推測は、彼でも働く。 「物分りがいいようですね、社長。しかし、私はそれほどは甘くない」 月宮が目で合図をすると、少年の一人が黒崎に近付いてきた。 その、全く表情を浮かべていない少年は、逆にその無表情が恐ろしい。 「よ、よせ。分かった。要求をのもう。だから、やめてくれ。たの……」 黒崎の言葉はそこで途切れた。まるで人形のような生気のない表情になって、椅子の上にだらしなく倒れている。思わず月宮は顔をしかめた。どうやら黒崎は失禁してしまったようだ。 「小心者が。殺すことまではせんよ。そうだな……B03、やつに暗示をかけておけ。このブタの言うことも一理ある。数ヶ月は様子をみてやっても良かろう」 確かに、ちょっと性急に事を進めすぎたか、という気はしなくもない。さしあたって、この男を意のままに操れるようにしておけば、問題はないだろう。 そう思って振り返ったところで、動かなくなった二人の男が目に入った。 「それから、この二人は処分しておけ。消えることはよくあることだ」 控えていた少年が、やはり無表情のまま男を手も使わず持ち上げる。 それらの結果を見ることなく、月宮は悠然と社長室を後にした。 |